2006年11月08日

隔離されていた私 時を超えて

何が大切だったのか それもわかったようです

何か失われた大切なもの それはみつかったようです

すべては 仏法で解決するのです 閻浮提の大良薬というべきものです

見えない世界が 見える世界を 采配しているのです

しかし それだけでは足りない

見えない世界を 見える世界に 反映させるのは 人類の英知です

その手段が 科学です

目的は見えない世界に属し 

手段は見える世界に属するのです

だから 目的を誤れば 結果を誤るのです 手段は正しくても

目的が正しければ 正しい手段を以て 結果も正しいのです

目的が正しくても 手段を誤れば 結果も誤ります

手段は 目的に従順です

さて 私が社会に見放されていた理由もわかりました

社会になじめなかった理由もわかりました

ある意味で 切り札だったのかも知れません 生まれた時から

台風とは何だったのでしょうか 

少年の頃 その目を見たこともありました

岸壁に放置された ブイの上に昇って 空を ながめていました

青い丸い中を 白いちぎれ雲が 猛スピードで 流れているのでした

台風を呼ぶことも出来 なだめることも出来る 

台風は 何を 伝えんとしていたのでしょう

風神雷神だったのでしょうか

神風だったのでしょうか 草薙の剣だったのでしょうか

日蓮を救ったのは 雷でした

ドストエフスキーを救ったのは何だったのでしょうか

伝えるべき事のある 正使の故に救われたのでしょうか

何が 救ったのでしょうか

それにしても 試練は試練でした

乗り越え得べきもない試練を乗り越えたのでした 未来のために

能力はあったはずです

それが 何故 かくまでも埋没したのだったか

その間 修行させられていたのでした 見るべきものを見るべく

皆 目のない魚の如く 勝手していた中で

そうした流れから 隔離されていたのですね

それが まるで 浦島太郎だったのです

そして 世界は インカの金以降の

マネーの支配するところとなりました

利益至上主義の論理で 染まってしまいました

しかし 染まりきるわけにはいかない

何故でしょうね 人類の存亡に関わるからです

すでに 利益を出さなければ 生きてゆけない時代となりました

それで 安ければいいということになりました

すべては コストに 換算されるのです

しかし 国鉄から民間となったJRの事故がありました

その他 石綿及びフロンガスの問題がありました

人工化学物質の問題が お化けハゼの公害の如くとなっています

ここでした この時が来ることになっていたのでした

こどもたちはアトピーに苦しみ 精子が少ない

それで性欲も薄く 少子化となったのでした

そして 生まれてくる子には 障害者が多い

私たちは 何をしてきたのでしょうね

それで 勝ち組とかセレブとか

核武装論議などしている場合ではない

カルバン以降の 利益至上主義の末路でした 

日本も ペリー来航以来 飲み込まれたのでした

されど 古来日本 秘伝の浄化作用があるのです

それが 法華経宿王華 一切種智慧

古来本来卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本の復活です

時を待っていたのですね

生きるために 幸せとなるために

選択した多くが 間違っていたのかも知れません

ガンもアトピーも 少年がキレルのも 

人工化学物質が原因だったのかも知れません

これらが 明らかとなる時まで 私は 隠されていたのでしょうか

人体で実験もさせられながら

それなら それでいい と思われる今日この頃です

善は急げ 気づいたからには 言わねばならないのでしょうか

すでに 気づいている方々も いらっしゃいます

それは 何に気づいているのでしょうか

利益追求の故に 企業は知っていても 問題にすることが出来ず

テレビも CMとの関係で テーマに出来なかった問題です

人間は かくも 身勝手だったのでしょうか

他を顧みることなく 地球を破壊したのでした

自分たちの未来を 壊してしまったのでした

そして まだ 気づいていない

それが 人間です

佛は云っています

やがて 自給自足の世の中となると

それは 何を意味していたのでしょうか

石油化学が発達して 生活は便利となりました

しかし それは 地球環境を破壊していたのです

知らなかったとはいえ 大きな罪を犯したものです

高分子であれば 人間の体内にはいることはありません

天然化合物が安全である所以です

しかし 哀しいかな 人工合成化合物は低分子です

血液まで入り込み 体内脂肪に蓄積されます

それが 様々な 傷害を引き起こすのでした

DNAをも破壊するのでした

すでに 四大公害の頃に 実証されていたのです

しかし 方向性を軌道修正することなく 

われわれは進んできたのでした

自給自足の世の中は すぐには来ないでしょう

それは  恐竜としての大企業の滅ぶ時でしょう

それは 恐竜の化石燃料の尽きる時でしょう

それまで どうするか どうしのぐか 

人類の英知が試されているのです

自然に帰れ 新しく その言葉が 蘇ってくるのです

菩提樹が何故尊ばれるのでしょうか

歴代の佛はそれをみて悟るのでした

菩提樹には あらゆる動物の相が現れています

合成化学物質の開発には 多くの動物が犠牲となっています

原料の安さの故に 

利益追求競争社会では

高価な天然自然原料を使うわけにはいきません

この傾向が さらに 世界へ広がりつつあります

すでに 制御できない暴風雨です

それが末期資本主義の実相です

すでに 19世紀に西洋は没落していたのです

なのに その亡霊のような夢を追いかけているのが

あるいは 追いかけさせられているのが

テレビ芸能界を象徴とするセレブ思想です

お金を儲ければ それだけ 他を犠牲にしている

その罪を知らない

それぞれ 生まれた時に その食い扶持は決まっている

積むべきは 天徳 であるのに

時至らば その徳は 日月照らし 風が吹く

低いレベルの成功で 何を思い上がっているのだろう

神仏の祝福と守護を得て 万物と同調して生きる 

それが 真実の成功 ではなかったか

それが 獅子吼 ではなかったか

 

静かなる 何を云わんか ホトトギス この世の終末 すでに現れん

究極は 神仏ありて 守護を得て 自然の中に 幸せあるらん

嘘無くて 神仏世界 開かるる 欺罔世の中 玄界渡る

 

瀬戸の海 光子かがやき きらきらと ひるののどかさ 遊び戯むる

 

利益至上主義の故に 選択を間違えてしまったのですね

そして 今も 世界競争市場原理の故に

知ってはいても その修正は出来ないでいます

しかし 子供たちの現実を 直視する時

未来に向けて 大いなる 決断の時かも知れません

あらゆる選択肢の中で 危難を避ける最大の決断は

面舵いっぱいです

利益の故の言い訳は もはや通りません

時代は それほどに 切迫しています

救いは この決断を実行できるに足りる

英知と技術が 熟していることです

公害を乗り越えた先進国 日本

世界で 重要な地位を占めたいと 思っています

それは 権力でも武力でも金力でもない

技術においてでしょうか

地球環境破壊に対して この技術を持って

英知を 終結したいところです

真実であるなら 神仏の守護するところです

自信を持って 勇気ある一歩を踏み出す頃かも知れません

それが 最も文明文化的歴史の古く 継続し来たる国家

本来日本の 歴史上の存在意義でもありましょう

世界唯一被爆国日本 何故 日本だったのでしょうか 

何故ヒロシマだったのでしょうか

何を 示さんとしているのでしょうか

日本の 国家として 世界に対し 十分なる発言資格かと思われます

本来日本 かくも 美しい

これ以上の破壊は 過去及び未来の

宇宙自然生命黄泉のゆるさざるところです

一つの時代は終わったのです

終わりは始まりです

そして 新しい時代が始まるのです

その第一歩を踏み出そうではありませんか

すでに 人類の願いと祈りは 愛と平和です

それを手段として やさしさにつつまれた暮らしを

目的とした 新しいパラダイムの建設を始めませんか

強きが故のやさしさを 理念として

日本こそ その鍵です

世界も それを 待っているのです

先ずは しばらく世を支配した 

欺罔と暴力を国内より一掃し

子供たちが 本来の子供たちとなるように

世界で最も安全な先進文化国家であることを

取り戻さなければなりませんね

その意味で 黄泉も協力すると 

云っているかのようです

かつて 世界史に於いて 朕は国家なり と

申した王もありました

それも 事実だったのです

古来日本に於いて

神話が事実であったように

神のものは神の手に シーザーのものはシーザーの手に

かれらの感情に 逆らわない方がいいのです

触らぬ神に祟りなし

これも 事実です

神は畏るべし

二千年来の 新しい時代です

人間はバベルの塔の建設に失敗したのです

それは 思い上がりだったのでした

ロゴスとなった言葉は神聖です

この世の一切を支配します

云った本人をも支配します

宇宙自然生命黄泉の守護するところです

宇宙自然生命黄泉も随順します

世の究極の秘密が開示されたのです

それが 佛の宇宙有無開閉の四大原動力です

魂と宇宙は連動しています

新しい時代 の 夜明けです

トランプで云うと 51 における ストップです

いまある存在は いまある階梯で おのが姿を見るのです

人の世は 魂の遍歴です 魂の学校です

それでも なお 好き勝手するのですか 言うのですか

それでは 仕方ないですね 黄泉が動くだけです

もはや 知らぬことを以て 真実に対する 愚弄嘲笑破壊は

これを以て 通りません

代々の魂の遍歴があるのです

天下の大号令です 軌道修正です

宇宙は自分自身です 地球も宇宙も人間も同根です

2006年11月07日

幸せの条件

時は流れて 日々 楽しく 美しく 明るく 生きてゆける

そのような時代となりました

万物同根とか 万物の霊長とか

人間って すばらしい

宇宙自然と同調して 生きてゆけるのです

さすれば どうあるべきか

やさしさで 生きてゆける時代の始まりでしょうか

「茶色い戦争ありました」

世界では なお 紛争が絶えません

戦争は リーダーの意志決定で始まります

その結果が不毛なのは歴然としています

人類進化の過程で どこかで ピリオドを打たねばならない

戦争をして 生きて 何が人生か 知るべき時が 

いつかは来るのです

もう来てもいいのかも知れません

かつて 世界は無限でした

今世界は 地球となって 有限です

限られた中で いかに 仲良く 楽しくするか

その可能性が 問われているのです

問題は 自分自身ですね

自分のどこかに 戦争を許す自分が いませんか

だれもが 戦争をしないと 決定すると

戦争なんて 起こらない

戦争して 何になるのか 何故するのか 

考えてみませんか

一部の利益のために 他の犠牲を強いることの 無意味

皆 わかっていますよね

何のために 人類として 進化してきたのか

いい時代です いい時代にしましょう

その中で 自由に 明るく 楽しく 生きて参りましょう

そのための 技術も知恵も 十分に開発しているではありませんか

利己主義に伴う利益至上主義が見直される必要があるのかも

しかし 具体的方法論は 見えてこない

だけど 方向性だけは まちがわないようにしたいものですね

何処へ進むのか 何を求めているのか

万物の霊長です 自己決定できるのです 委ねられているのです

万物同根 宇宙自然と同調して生きてゆけるのです

その意味で 自然も随順します 征服はできません 

だれもが 幸せになれるのです なっていいのです

悲しい事件が多いですね 何故でしょうね

新しい時代です 新しい理念が必要なのでしょうか

それを 議論したいですね そして 伝えたいですね

目的が定まれば 手段はいくらでもある

戦争なんて もう 終わりにしましょう

世界のあり方が問われています

先進国があって 途上国があって 後進国がある

ところで ペリー来航は 何を意味していたか

それは 日本に革命をもたらした

日本も 世界の中で 生きてゆかねばならなくなった

途中で 悲しいことも いくつかありました

しかし それも乗り越えました

皆が 豊かになれる可能性が開けました

それはそれでいいのです

しかし いいことばかりだったかどうか

日本古来の純粋精神が枯れようとしている

日本の自然が ブラックバス 及び キイロセイタカアワダチソウ に

脅かされつつある

世界は一つです しかし 多様性があっていい

古来培われた日本の文化はのこすべきです

人類の幸せの可能性が秘められています

秘密裡に伝えられていたものがあります

世の知らない秘密があるのです 東洋の神秘です

それを 払拭していいものかどうか

世界も同じです 

往々にして 物理的に強いものが世を支配します

そして かれらは ある意味で野蛮です

すでに 野蛮から脱却したものたちは 弱い 高山植物のようであります

しかし 本来の生き方はどちらが正しいのでしょうか

本当の強さとは 何でしょうか

神仏に守護されたときの その強さの意味を 理解できますか

古来伝えられてきたことです 何時かは芽吹きます

先進国の理念は 人類本来の目的からすると 

逸脱していることがあるのかも知れない そうしたときに必要なのは

勇気ある撤退なのかも知れない そして基盤を見直し 新たな出発をする

自然の摂理があります それに背いての存続はない

大いなる宇宙の目的は何でしょう 人類の祈りと願いは何だったでしょう

世界は一つです しかし 一つの理念ではないのかも知れない

だれもが 幸せになれる時代です

高齢者も 障害者も 子供たちも

世界も同じです それぞれの階梯において

先進国も 途上国も 後進国も

先進国は かつて 途上国でした 後進国でした

であるなら 先進国はどのような立場に立つべきか

やさしく 見守るべきではありませんか

征服して従えることではないのではないでしょうか

自分たちの理念は 間違っているのかも知れないのです

そうした 畏れがあっていいのではないですか

そして 幸せに生きてゆくことを考えるべきではないですか

限られた この 地球の中で

勿論 私たちの世界に 侵略をはかるなら別論です

しかし それと 世界を自分たちの理念で染めることとは

別論ではないですか

それぞれが 覇権を目的としていませんか

すでに 強いものは 低いレベルに堕ちるべきではない

武力は武力によって滅ぶ 原爆がそれでした

高いレベルへ 時代はシフトしようとしています

いつまでも 戦争を手段にしなくていいのではないでしょうか

十分に 世界は 平和に それぞれの幸福追求ができる

それほどまでに 進化しているのではないでしょうか

そのために 技術は使うべきものですね 利益だけのためではなく

日本は技術立国 世界で重要な地位をすでに占めています

こうした技術で 世界の幸福追求に貢献できる時代です

目的は重商主義的利益追求ではありません 戦争ではありません

平和の中で 人々は 暮らし があるのです

ところで 第一次世界大戦がありました

はじめて 航空機が導入された世界戦争でありました

その悲惨は それまでの戦争の形を変えました

すなわち 無差別攻撃で 市民及び庶民が犠牲となるのでした

本来 戦いは 一騎打ちでした 名乗ることから始まりました

その後 集団戦法となりました

今はどうでしょうか 無差別攻撃 あるいは ピンポイント攻撃

何のための戦争でしょうか

国際連盟は アメリカ大統領ウィルソンの提案でした

あまりにも 戦争が悲惨となったからです

しかし モンロー主義がアメリカの参加を拒みました

また 物理的強制力はありませんでした

それで 第二次世界大戦勃発を防げなかった

環境問題で 今 アメリカは京都議定書を批准していない

モンロー主義でしょうか

アメリカンドリームとしての大リーグ

しかし 大リーガーをドーピング検査するとどうなるでしょう

法があります 何のための法でしょう

見つからなければ法を犯してもいいのかどうか

自分勝手な法が法であるのかどうか

人間が仲良く暮らすための法が法ではないですか

そのために 自由を制限しているのが法ではないですか

あるいは 権利の及ぶ範囲を決めているのが法ではないですか

もう一度 生きることはどういうことか

そのためには 何が必要なのか

考えるべき時ですね

そして 未来は明るい

時代は 十分に進化しています

ここで もう一度 基盤を見直し 整備することで

だれもが 幸せをつかみ 幸せに生きてゆける

そのような時代ではありませんか

いい時代です いい時代にしましょう

懼れることなく議論しましょう

きっと いい考えが 出てきます

そして ひとつの決定をしましょう

皆で 議論して 決まったならば それに 従いましょう

真実の民主主義の到来でしょうか

直接民主主義でもなく 間接民主主義でもなく

参加民主主義でしょうか

だれもが なかよく しあわせに

そのために 理性と知性の復活です 自信と勇気を持って

ところで 刑法において 旧派と新派があります

行為無価値と結果無価値とがあります

また 違法性の意識といったものがあります

罰するべきは何でしょうか

罪を憎んで人を憎まずというのもあります

悪法もまた法ということもあります

法は何のためにあるのでしょうか

誰もが生きる権利を持っています

幸福追求権も憲法で保障されています

幸せって何だったのでしょうか

刹那的な快楽でしょうか そのためのお金持ちでしょうか

罰すべきは その犯罪傾向ではないでしょうか

社会の中で 誰もが幸せを探しています

それに対する罪ではないでしょうか

であるなら 前提としての幸せって何でしょうか

考えるべきことは何でしょうか

一部の利益追求だけのシステムとなっていないですか

大企業だけが ボーナスもいい 利益追求の故です

しかし 本当の幸せは遠い

神仏の守護と 自然の恵み それを享受したいものですね

そのためには 何をするべきか

神仏及び自然に好かれる自分になることではないでしょうか

戦争したり 他の犠牲の上に利益を追求して それはありえない

日本古来 伝えられていたことは何であったでしょうか

正直者のこうべに神は宿る あるいは 舌切り雀

自分に素直に そして 自分に嘘はつかないように 

幸せの条件です

2006年11月06日

奥義

ある日父がささやいたのを覚えています

自分が法であると

祖父もそのように 振る舞っていました

しかし 法を超えることはない

そして むしろ 制度が後からついてくる

こうしたこともあるのです

しかし こうしたことは 直伝でなければわからない

兄弟姉妹といえどもわからない

かつて 長男直系家督相続のありし所以です

きっと 今更何を言っているのかということになりますね

しかし こういうこともあるのです

何故でしょうか

知る人ぞ知るとしか言えません

少なくとも 明治のリーダーたちはわからなかった

今も こうしたことを わからない方たちが 世を推進している

ある思念及び感情の決定は

黄泉及び宇宙が実現するのです 信じられないですね

黄泉及び宇宙は また ある存在を喜ばせようとします

不思議ですが これは 事実です

例えば あるチームを好ましく思うとします

何故か そのチームが 勝利を収めます

仏法は必ず勝つ 王法は必ず儲ける

そうした事実もあるのです

言葉がロゴスとなって実現するのです

ただし 自覚と決定(けつじょう)を要する

これが 卑弥呼の系譜邪馬台国大和黄金の國日本の奥義です

知らなかったですね

しかし 今更 そうした力を行使しようとも思わない

馬鹿馬鹿しいですから

しかし 申し上げたい

我慢にも限界があるということです

ある存在の感情を傷つけないように 苛立たせないように

それ故の 敬虔と謙譲だったのです

しかし 誰ももはやこのことに対する配慮はない

知らないものが 勝手なことをしている 言っている

知るものは 我慢している 

自己の生活及び人生を失ってまで 我慢している

世の不幸の構図が見えてきましたか

申し訳ないという気持ちが少しでもありますか

あるなら 示しては如何ですか

どこまでも 卑怯を通すのですか

私は耐えたことでした

否 そうではなかった 私自身が知らなかったのでした

まさか このような馬鹿げたことが この世にあろうとは

もう 日本は大丈夫です

何があっても しばらくはね

しかし すでに力は秘めています 容赦ない力です

自ら手を下すのではありません

おわかりですか 心するべき処かと思われます

不思善不思悪 正与麼の時 那箇か是れ明上座が本来の面目

どういうことでしょうね カクネンムショウです

明上座は何も思わないことが 世の幸せの条件です

されば 世は明上座に対して 何を思うべきか

ここを 問いたいものです 

これを無視愚弄破壊した

勝手すぎませんか 罰もあって当然でしょう

これが宇宙自然生命黄泉の秩序だったのです

しかし この秩序も その主体者が自覚しなくては機能しない

自覚するとどうなるのでしょうか

黄泉及び宇宙自然が自由を得て動くのです

わかってきましたか

だから言う 士農工商 財界経済界の罪は重い

商行為はある程度の欺罔を含む

明治維新は革命だったのです

しかし 結果はどうだったでしょう

腐敗でしかないではないですか

それでも 大きな事を言うのですか

昔 武士階級は やはり 貧しかった

しかし 尊敬されていた

何故でしょうね

精神の修養を以て武士階級だったのです

それを 無視愚弄破壊した

それで 社会は腐敗した

戦後新しく自由を得た方々もそれに習った

違いますか

もうそろそろ終章です

言いたいことは 枚挙にいとま無いのです

しかし 物語は 終わらねばなりませんね

昨年の11月26日より始まった物語

そろそろ 千秋楽でしょうか

二千年来の横綱相撲でした

結局 倒すべき相手はいなかった

相手は 自分自身だった

そして この永い戦いは 無敵勝利です

武士道直伝奥義 

無妄念 息を殺す肺活量 俊敏瞬発力としての反復横跳び

及び骨格 持久力 集中力 鍛えてできるものではない

勝負にならない

 

武士道の この世に咲けぬ 花のある すでに時経り 住むところなし

天空の 今夜の月は やさしくて 海も穏やか 一人佇む

解決の 朝を迎えん たおやかに リズム弾んで ラジオも楽し

明上座 不思善不思悪 何も無し 明明白は 汝がこころか

あれこれと 想いめぐりて たどりつく 我ありがたく 恨み消えゆく

漕ぎ出でぬ これにて解決 果たさんと 始めし事の 幸ぞ多かれ

取り返す 青春日々の 面影を 何処に忘る 在りし日の歌

逃れ来て ここに至れる 長き時 誰ぞ我にぞ 追いつかんとす

何時の日か 夢果たさんと 始めたる 思いの外の 黄泉の守護かな

これでよし 得たるは確か 覚ゆれど などか寂しき 一人夜の月

求むるは これにて終わる 気づきたる その日その時 時を過ごさん

さて行かん しかと幸せ つかまんと 共に旅行く 人はいるかも

自信とて 所詮この世の はかなきを 何を求めて 何を急がん

楽ありて 楽楽進む 道見つけ 楽楽にして 日々を楽しむ

おぼろなる 月夜に照らす 秋の海 波穏やかに 炎たなびく

宇治山と 呼ばれて久し 時は経る しかれど侘びし 一人なる今

失えし 青春日々を 想い出す あの日あの時 すでに一人を

何故に かくも哀しく 越え来たる 一人歩みし 長き旅路を

孤独故 神仏我を 哀れむか 見せて呉れたる 空蝉の夢

こころ晴れ 天地も晴れて 祝わんか カクネンムショウの 晴れ渡る空

悟れども 月夜の海の 哀しさを 一人静かに 景色ながむる

喜びは 景色とともに 我のある されど一人は 寂しかりけり

お金とて その気になれば 稼がんと その気になれぬ そんな世の中

掟あり 精一杯の 応援を しかと感じて 明日を生きてん

力あり あるなら試す 頃なるか この世の何を 怖るなからん

さりとても この世は腐敗 極まれる この世で泳ぐ 身は汚れん

面々の 汚きこころ あらわるる 我に求むる 何を求むる

明治より 大和心は 何処にぞ 古来大和は 名こそ惜しむを

恥知らぬ 輩の天下 腐敗せり 何を以てぞ 未来明らむ

我らあり かくも濃くなる 血のありて 今のこの世に 如何に生きてん

世間とは 何処まで我ら 愚弄せん 我慢するにも 程度ありけん

大和とは 商売お笑い 苦手にて候 これぞ宿王華 一切種智慧 本末転倒ゆるしおきがたし 代々の魂遍歴差あるを 平等の名で何を以てし来たるか 多数の横暴 しかも精神低きが故に それがいじめの構造であるやも知れぬ あるいはすでにやさしきに至ったものを野蛮がいじめるか 前者は我慢するしかないか 子供の自殺はなかなか出来ないものだよ そこまで追い込んだとは それを学校はどのような見解を述べているか 何故か 精神の低きに与するか 世のバラエティ 今はどうか知らぬが かつてのそれは他を笑いものにする構造的いじめだったよね タケシさん サンマさん タモリさん それを見て何を楽しむ 何を以て面白いとするか 世の大人たち 傍観することなかれ 同罪なり

 

この世にて 生まれた使命は 果たしたり 日月照らし 松風の吹く

我在りて 風も穏やか なりにけり この世も齢 重ねたるかも

自由とは 代々ここに 伝えられ 縛るものなど 何もなからん

自覚せし それよりゆるし 来たらんと 今も昔も 変わりはしない

確かなる 自覚せしより 始むるる 新たな時代 東天の月

この世にぞ ゆるすゆるさず ありもせず 生きてるすでに ゆるされている

古の 空海見たる 漆黒の 雲たなびきて 朝は明けなむ

卑弥呼いて 祈りて國の 治まるを 忘れたるかな 今の世の中

卑弥呼とは ただいるだけで 治まるを 忘れているのか この世の中

卑弥呼とは 周波の業の 成す有りて 月も喜ぶ 存在の詩

アオサギの 一声夜空に こだまして 夜の港は 静かなりけり

人知らず 世の身勝手 ゆるしおる 黄泉の裁きは 別なるものを

仏とは 宇宙真理と 同化して 教え説くなり 皆の幸せ

仏とは 悟りし真理 譲らんと 説けど知り得ぬ 因縁なるかも

此処に来て 此処に至りて 確かなり おぼろ満月 明るくなった

我を懸け 命を懸けての 一人旅 黄泉の計画 果たし終わりぬ

幸せの 道を確かに 歩まんと すれど疑う 世間人の世

仏なる 道は確かに ありたれど 歩めし人の 如何に少なし

過去よりの 道は今にぞ 続きおる 果てなき未来 旅たつ頃か

確かなる 道を示して 一里塚 ありて慰む われ行かんとす

永かりし 求めて得てん 春日なる 空も晴れ行く 道のあるらん

こぼれくる 言の葉すべて 玉となる 空也念仏 さもありなんと

積年の 謎はすべて 解かれゆく 新たな謎の 始まるのかも

 

この宇宙に秩序があるのだけれど

それに背くのは 唯 人間だけだね

 

道元曰く 薪の灰になるにはあらずと

薪には薪の一生があり 灰には灰の一生がある

灰とは何か 悟りなるか

 

もう ゆるすもゆるされるもなくなりました ゆるされているのです

閑事の心頭にかかることなくんば 

すなわち これ 人間の好時節 ですね

何も心にかけることはないのです 

ぬらりくらりとはこのことだったのでしょうか

瓢鯰図の意味もここにあったのですね

そして 為すべきことは成すのです 頭も使うのです

こうしたことが 本来大和の心だったのでした

いつの間にか 違ってましたね 要領と利益のみとなっていましたね

しかし これでは 窮地は打開できません

未来はどちらを選択するのでしょう

私の居場所はどこにもありませんでした 

私は社会から久しく捨てられていたのでした

社会に帰属するべき場所は何処にもなかったのです

しかし それにこそ意味があったのでした 

時代の試練だったのです

その間 何を見たのでしょうか どのように生きていたのでしょうか 

誰も知らないのです 宇宙自然生命黄泉及び祖先は知っているのです 

そして 瀕死よりよみがえったのでした 力を得て

さて 法則に反すればどうなるのでしょうか 宇宙に法則があるのです

その一端が科学です 法則通りです

人生にも法則があります あまりにも無視したのでした

無理もありません 知らなかったのですから

しかし人類が滅びようと滅ぶまいと 宇宙からすれば問題ではないのです

恐竜だって滅んだのでした 勝手が過ぎると淘汰されるのです

人類としてもう少し生きていたいですよね

 

いずれにしても 明るく楽しく気楽に参りましょう 

新しい時代です 

生きることは楽しい 美しい景色があります

鳥は歌い 風はさわやか 海はのどか あたたかな太陽 冴える月

気づけば 幸せな世界が開けていますね

私もこれより合流です これで笑顔でいることができます

以後よろしくお願い申し上げます 何があっても大丈夫です

私は生きていました その存在証明も遅ればせながらやっとできました

いよいよこれからです これよりいい時代となります

表ジャックと裏ジャック 見える世界と見えない世界

両方併せて実相です この度は これを知る必要があったのでした

少し時間がかかりました しかし達成です

焦ったことはないのです

『2001年宇宙の旅』のエンディングの謎も解いていたのです

あらゆる一切の謎も解いていたのです 

しかし 自覚できなかった 自信もなかった

あまりにも 馬鹿馬鹿しすぎていたからでしょうか

今は 馬鹿馬鹿しいとは思わない 事実だと思っています

何故 このようなところにいるのか 不思議です

しかし 下方妙徳仏 天王仏 同根です

やはり 馬鹿馬鹿しいのでしょうか

 

「明日は嵐か時雨か知らねども今日の務めに田の草を刈る」

「浜までは海女も蓑着る時雨かな」

 

今 この世は曲がり角

若者たちは知っている

新しい時代の黎明だということを

かつて 恐竜の時代が終わったように

新しい感性と新しい生き方が始まっている

2006年11月05日

呉大和観光、呉の歴史と呉の町

昨日、呉市蔵本通りの屋台「悟空」で津から観光に来られた方と出会いました。呉には「大和」を見に来たそうです。呉は歴史があってとても魅力のある町だとのことでした。ただ、地元の呉市民がそれに気づいていないのではないかとのことでした。呉の歴代戦艦を建造した技術の高さとその歴史に先ず呉市民が誇りを持つべきではないかと。大和の姿が美しいとのことでした。まるで日本刀のような美しさだと。入船山記念館と江田島の術科学校そして宮島をご案内してお別れしました。

 

2005年12月24日

呉の歴史について

最近になって、祖父(呉男子校で訓導、 晩年は広陵高等学校で七十歳まで勤めた)の筆跡で、 永久保存、43.4月21日、とある、『呉市暦年表』が出てきた。 昭和43年というと、私は小学6年だった。 その頃の校長先生が、呉の歴史を研究されていて、自費出版もされていた。 呉市は明治になって開発され、江戸の頃には、 漁師の家が数軒あっただけだと聞いていた。しかし、市史編纂室調、 呉相互銀行印刷室作成のこの書によると、 原始時代の土器の出土及び、古墳時代の遺跡が確認されている。 このギャップには驚いた。私は知らないままだった。 とても象徴的である。新書版で、『正統と異端』という本、 NHKブックスで『歴史を見る眼』という本があったけれど、 何が言いたかったのか、今頃になって気づいている。しかし、 偶然というにはあまりにもリアルな経験をし過ぎている。 悲しいね、リフレクション、さて、仏を出すか鬼を出すか、 自然が思案してるよ。自然も優しさの周波数に気づく頃、 21世紀を明るきから明るきへ、 本当の幸せへの方向付けをしたがってはいるようだ。だが、人間の愚かさがついてこない、 と、嘆いているようだ。 選択の自由、その意味は、極楽への道か地獄への道か、結果は必定、さて、どうするのかな、 人類は。呉にあり、独座大雄峰!

呉市暦年表
S43.4.21
総説 呉市の足どり
原始時代と古代
呉は芸予叢島を前に眺めながら、多くの岬の曲折する長い海岸線をもって延びている都市である。 背後は100m〜150mの標高に一躍とびあがった台地をかゝえている。こうした複雑な地表の上に、また複雑な史実が刻み込まれ、 似たような歴史が宿命のように繰り返されて来た。2,000年以上もの原始時代には、吉浦地区から弥生式の石斧が2個も出土した。 弥生土器の破片も吉浦と広(ひろ)とから出た。だから既にその頃から我が呉は人類の居住地となっていたことが知られる。 弥生式の次の土師器(はじき)と須恵器(すえき)とが少量だが出土していることは、古墳時代の遺物として注意される。 前者は大麗女島(おゝうるめじま)、後者は横路(よころ)、立石(たていし)情島、池浜から出た。 今では古墳が遺っているのは情島である。小さい島の上に横穴式石室古墳の存在することも面白い。
古代に入ると、和名抄で阿賀の語源の香津(かがつ)と船木(ふなき)が現われて今の呉の中に2つも古地名が指摘される。 鍋地区に平安時代の観音像があることなどから平清盛と音戸の瀬戸の伝承に多少のつながり、 つまり平安朝文化のわが地方への流入が考えられる。源頼朝が京都府下の石清水(いわしみず)八幡宮のための荘園を呉保 (くれほ)の名で寄進したことは古文書(こもんじょ)の上で知られているから、それやこれやで、 ずい分古くから書かれた歴史の上にあらわれて来たわけである。

中世と近世
足利尊氏は九州から東上の時、音戸の瀬戸を通過し、南方安親(みなみがたやすちか) は南朝へついて伊予の北朝勢を討ちに呉から出帆し、今川貞世(いまがわさだよ) の旅行記にも大内氏の法津にも呉の地名が記されている。応仁の乱には西軍につくために呉地方から出征し、 更に戦国兵乱の際には呉湾上で白井氏の軍と海賊とが戦ったり、呉の末永常陸介(すえながひたちのすけ)らが厳島で陶晴賢 (すえはるかた)の軍を敗走させたり、或いは石山本願寺合戦や大阪夏の陣へ呉から将士が加勢に出かけたりしている。
近世、つまり江戸時代にはいると、先ず、安芸の国を領した福島正則(ふくしままさのり)によって、 領内の耕作地と屋敷地が調査された。これを慶長6年の検地という。その時の検地帳が呉にものこっている。伊能忠敬(いのうただたか) が瀬戸内海の北岸に沿うて測量した時にも呉の各所が測量されている。この時、はじめて呉地方の正しい地図ができたのであった。
広島藩が山間や海べりに耕地を開くように命令を出した時、はじめて呉地方では野呂山(のろさん)の頂に近いところに開墾地をつくったり、 広地区その他に干拓して新開(しんかい)をつくったりして、今の市街地の基礎が出来たのであった。米、麦、 綿などが沢山生産されるようになり呉市の前身を成した14の村落にも流通経済がかなり行われるようになった。

 

 

 

呉の町  

 

「呉にはもう随分長い間、行かない。この前に行つたのがいつだったか、はつきりしない位で、その印象だけが頭に残つてゐる。 一體に東海道沿線の町といふのは東京から下關に至るまで、どこも同じといふ感じがするのは、 汽車で移動する人間の數が多すぎるからかも知れない。いつか廣島の大きな喫茶店にゐて、二日酔ひのせゐもあつたのだらうが、 窓越しに見た町の風景が東京の銀座と少しも變らないので自分がどこにゐるのか解らなくなつたことがあつて、 その東京の銀座も現在では、昔の銀座ではなくて東京銀座とでも呼んだ方がよささうな個性がない場所になつてゐる。 しかし呉は呉といふ町の感じがする。東海道線から少しばかり逸れてゐる爲なのか、町の地形なのか、それとも人情がさうなのか、 理由はどうにでも付けられるとして、かなめ旅館で朝、目を覺して寝床の中で廣島工場のキリン・ビールを飲む時から、 もう自分が呉にゐることが直ぐに感じられた。キリン・ビールの廣島工場のが東京のなどとは比較にならない位、旨いことは確かである。 併しそれならば、廣島にゐる氣がしてもよかつた筈なのに、頭に浮かんだのは呉の旅館の朝、飲んでゐるのだといふことだつた。 それから起きて飲んだのが千^簀、千^篶味はここで改めて説明する までもない。おこぜの味噌汁が素敵だつた。ガラス戸越しに、呉を取り巻いてゐる丘が家で埋まつてゐるのが見えて、その時、 やはり呉にゐるのだと思はなかつたのは、それは目を覺してゐた時から承知してゐたからである。例へばロンドンで朝起きると、 自分がロンドンにゐるのを感じる。さういふものがない町は、本當を言へば、町といふものではない。呉の賑やかな通りには、 何か寂しいものがある。これも一つの町が町である爲には大事なことで、昔は東京にもそれがあり、それで例へば、 山手暮色といふやうな言ひ方にも意味があつた。今、新宿暮色だの、澁谷暮色だのと言つた所で、どれだけの實感があるだらうか。 併し呉の大通りを夕方、歩いてゐれば寂しくなることが出来る。この寂しさがパリでパリの詩人達を育てたもの、又、 パリ人にパリを愛させるものなので、ボードレールの「パリの憂鬱」いふ詩集の題は、詩人の氣紛れで付けたものではないのである。 呉の人と特に聞いてゐる詩人はゐないが、それよりも大事なことに、呉では人間竝に、といふのは、 二十世紀の文明人竝にその日その日を暮すことが出来るのを感じる。これは當り前なことだらうか。それでは、 さういふ當り前な町が今日では餘りに少ないのである。」

[小澤書店刊、吉田健一著、『定本落日抄』p136-137

 

真実の目覚め

今も昔も同じである

未来も

かつて恐竜の時代も

植物たちの時代も

魚たちの時代も

何を以て同じというか

最後に秩序が来る

秩序とは何であったか

それはどのようにして来るのか

本来宿王華 一切種智慧

何を言わんとするか

時代は流れた

いつもそうである

そして真実がやってくる

真実は各ジェネレーションの最後に現れる

それは自覚を要する

王とは何か

天と地をつなぐを以て王という

今それを果たしたものがあるか

いない

それ故 しばらくは世間の勝手が通った

その意味では無秩序であった

今天地は統一された

故に秩序が回復する

明治憲法には天皇これを裁可するとある

どのようにして裁可があったのか

誰も知らない

今裁可があるか

ある

それはどのようにして為されるのか

黄泉との交信によって成される

今も昔もそうである

故に卑弥呼の系譜邪馬台国大和黄金の國日本である

これを無視愚弄した

無理もない

知らないのであった

しかし胡蝶の夢も何時かは醒める

それはどうしてか

事実体験があるからである

しばらく勝手をしてくれたものである

何を以てそこまで勝手し来たるか

根拠あってのことか

あるなら示すがいい

ありはしない

これまでの好き勝手これより一切通らぬ

それだけは言い置く

経済界財界の罪は何か

三十年前にある存在とその予定を裏切った

そしてその存在は月の砂漠あるいは荒野を彷徨った

国家もその秘伝を知らなかった

そしてどのようになったか

今の社会の現実を見るがいい

基準を失ってしまったのだった

何をしても自信はあるまい

自信はどのようにして得るか

神仏の守護を取り付けることにより得る

それを果たしたものがあるか

あるなら名乗るがいい

日本は古来本来大丈夫である

神話の世界は事実である

知らないことを以て否定した

明治以降の愚行であった

何を以て真実とするか

世の一切の学問も問い直さねばならない

古来大和の精神を裏切った

自然に反する西洋科学思想

及びカルバン以降の野蛮な利益至上主義に

かぶれてしまった

恥を知るべしとはここである

しかし 此処にいたって真実が目覚めた

孤独な旅を経ての上である

だれも教えては呉れなかった

自分で実験体験検証するしかなかった

それは果たされた

空海の夢も実現した

存在がただ存在することの意義が確かめられた

地の塩である

その周波数である

誰も知らないことだった

しかし古来伝えられていた

こうした真実を何と愚弄したことか

しかしその種はあった

神仏及び黄泉の秘密護持するところであった

世迷い事はもはや通らぬ

一切の勝手はもはやゆるされはしない

知らなかったとはいえ あまりにも愚弄無視破壊した

その罪は罪である

償って貰う

本当に強きものは最後に現れる

勝手気ままは淘汰される

バベルの塔は建ちはしない

宇宙へのチャンネルが開かれた

既に世界は地球である

その中の諸国家である

何を以て地球及び宇宙に背くか

相応の覚悟あってのことか

宇宙は庶民の願いと祈りを知っている

最後の強きものが真実を従えて自覚した

これより一切の思い上がりは淘汰される

テレビ芸能界諸君も早くに応えた方がいい

まだまだ反省しているとは思えない

庶民を愚弄するにも程がある

真実は目覚めた

宇宙自然そのものである

まだ愚弄するか

あるいは背くか

それほどまでに思い上がっているのか

真実は愚かさを嫌う

知らぬを以て謙虚でないことを嫌う

暴走族を嫌う

真実が目覚めた

古来卑弥呼乃系譜邪馬台国大和黄金乃國日本

復活である

日本が救われる

救うものは救われる

古来日本はやさしさに向かって咲く花のようであった と

辻邦生が書いていた

やさしさとは 強きを以ての故にやさしい

本来古来大和のやさしさの復活である

愚かな時代は去った

野蛮なお笑いなど見たくない

(2006/11/5 2:10am NHK−FM 秋吉敏子 ロング・イエロー・ロード を聞きながら)

 

あこがれし 過去の日々を 想いけれ 我が事なると たれぞ知るらん

天上天下唯我独尊 ことばのひびき わろしども 言い得て妙なり 知る人もなく

この世にて 過去と未来と 同じなり 今目覚めて 過去の意味知る

時経りて 姿形は 変われども 大和真実 秩序変わらず

そを知らず 勝手気ままの 世間にも 何時しか天の 声の聞こゆる

天もまた 自覚するの時ぞ来る 我が身照らされ 我を知るなり

邪魔するは 人の計らい ばかりなり 天智天命 何故か通らず

ここにきて 世間虚妄に とどめさす 月下の夜に 一人海見る

我一人 過去と未来を つなぎしか 大和の心 とわに咲かさん

孤独なる この世とばかり 思いしも すでに大和の こころ咲き居り

咲けばよし 咲けば仲間の 集い来る まかまんだらけ 花の降る夜

法華経の 真実開花 時の来て えもいわれぬ 夜を楽しむ

我が為に この世はありて それ故に あらゆる過去に 感謝せし夜

宇宙をば 五大原素と みゆるとき 佛の教えに 一切和める

救われし 我が身を夢と 覚ゆれば すべてゆるして 我をもゆるす

何もかも 水に流して 出直さん 時は代わりて 開くやさしさ

この世をば 我が鏡とぞ 気づくとき 世の謎一切 解けて消えゆく

歴代の 歴史も人も 伝承も 己なりけり 秋は更けゆく

火の鳥が 羽ばたくときの 来る頃に 我も火なるを 知るに至らん

咲けば良し 咲けば蝶も 舞い踊る

 

さて 真実とは何でしょうね

真実とは真実なる存在が思うことです

あるいは感じることです

何故でしょうか

宇宙自然生命黄泉がそれを実現するからです

そして 真実にも種があるのです

真実の種があるのです

それが宇宙自然生命黄泉の秩序です

しばらくそれを知らなかった

むしろ否定した

無神論がそれでした

廃仏毀釈がそれでした

時の権力は聖徳太子まで信じなかったのかな

矛盾してますね 明治の方々は

当然です 

文明開化と称して日本古来の正統精神まで否定したのですからね

今もその末裔が世を支配しています

認めたくはありませんよね

しかし 真実は真実

いつかは芽を出し花と咲く

仕方ありませんね

ところで 久遠の佛さんは言いました

権力は権力によって滅び 武力は武力によって滅び 金力は金力によって滅ぶ

唯 法力あるのみと

ところで 学問についてですが

かつて インドの釈迦もキリストもソクラテスも孔子も

成したるは学問でした

その学問 何を効用とするのでしょうか

それは 汝自身としての自分自身を知ることになるのです

それはある意味で残酷でもあります

自分自身を知るとはどういう事でしょうか

過去の自分を知ることです

それで 多くの人はそれを避けてきたのです

知りたくはないですね

しかし いつかは知らねばならない時が来るのです

ある存在がそれを知るとき 皆がそれを知る

これが草木瓦礫悉皆成仏です

佛は佛です 草木瓦礫は草木瓦礫です

そういうことを知らねばならない時が来るのです

しかし絶望することはないのです

それぞれの成仏があるのです

宝石は岩石の成仏です

それでいいのです

宝石として成仏した岩石は来世では

草木としての成仏を経験することでしょう

人間としての成仏を迎えることでしょう

いつかは皆至る

それが真実です

しかしながら その目的を放棄しているのが人間ですね

生まれてきた意味を忘れているのです

それで 好き勝手している

それを知らしめるのが学問です

そして学問が成就するとどうなるのでしょうか

何がわかるのでしょうか

自分自身がわかるのです

自分が神仏と同じ可能性を秘めていたことを知るのです

黄泉はそれを教えんとします 導きます

それぞれの階梯に於いて

そして神仏としての可能性とは何でしょうか

例えば 自分が天地とつながっていることです

天地と自分が反応し合うことです

天気予報がはずれますね

現象だけを追いかけているからです

天気はある存在の感情と連動するのです

そのような馬鹿なことはないと思いますね

しかし 事実は事実 真実は真実 です

ここが古来卑弥呼の系譜です

気づくまでは不思議です

気づいてしまえば事実です

これが古来大和の秘密でした

しばらく誰も知らなかった

だから神仏を畏れずに勝手しました

神仏は実在します

人の姿をして現れる時代もあります

宇宙自然生命黄泉の化体として

そしてそれは生まれながらにして

それが 法華経宿王華 一切種智慧

しかし自覚を要します

もともとこの種をまだ持っていない方々には

決してわからない

学問を通してそれを知ることになるのです

そして自分自身に気づきます

魂の遍歴の何処にいるのかがわかるのです

すでに野蛮の時代は終わりです

終わらねばならないのです

そして過去からの夢を実現してゆくのです

愛と平和を手段としてやさしさへ

暮らしが大切ですね

瞋恚していませんか 目に力が入っていませんか

やさしさがあれば 犬猫も随います

学問でそれは得られます

その意味ではスポーツではないですね

やはり 万物の霊長 

人間進化の方向は知性と感性です

学問です 

愚かなものは淘汰されます

愚かとは何を以ておろかというのでしょうか

真実をおろそかにすることによってです

その意味では 利益至上主義も愚かです

何故でしょうか

地球環境を破壊して顧みていないからです

いつまでもゆるされはしません

宇宙自然生命黄泉から罰せられますよ ご用心

さて 時代はやさしさへ向けて開花しました

新しい時代です 良い時代です

自信を持って進んでゆける時代です

過去と未来がつながりました

神話は事実です

封印されていた二千年来の謎が解かれました

これからです

若者たちに申したい この真実を生きて頂きたい

あるいは、もう気づいているのでしょうか

香風来たりて古き花を散らし 新しき蕾を雨らす

しばらく虐げられていましたね

しかしその意味もわかりましたね

不善をなさずに時を耐えることが出来ました

純粋であるが故に神仏の守護があります

汚れてしまってはもとの清純に帰ることは出来ません

こころの清らかさも同じです

大和魂と大和撫子

大切にしたいですね 

未来に伝えたいですね

今を生きたいですね 

自分らしく 自分を 生きたいですね

そのためには どうあるべきか

唯 神を畏れよ 

そして 佛を誉めたてつまり 歓喜奉行あるのみ

新しい時代が切り開かれました

今宵(今朝)も 天空には雲一つ無く 満月が 皓々と輝いていました

空海も学問をして力を得たのでした 古来大和の秘伝です

こうした力は確かにあります 神話は事実だったのです

それを得るには その種を要します

今 ここに 伝えんとしました

日月照らし風の吹く 歩々清風 常寂光

ひとつの 大きな一里塚です

真理とは あるいは真実とは

その種を持つものが 開花して はじめて わかります

その時 一切大衆も わかります

すなわち 草木瓦礫悉皆成仏

そのための 試練は 試練です

その試練を乗り越えて 真実との邂逅があるのです

真実の目覚めがあるのです

すでに証明はしました 天が喜んでいます

伝えておきたいことでした

分相応の名を語るべきです

分を越えて名を成せば そのギャップ 黄泉より罰せられます

宿王華開花の時節 一切種智慧 

ここしばらく 分不相応 嘘が多すぎましたね

 

世の中に 基準何処に ありぬべき しばらく忘れ 放浪したる

今此処に 新たな秩序 あらわるる 古来大和の 涼風の月

 

重要なことは 神仏あるいは宇宙自然生命黄泉の

守護をとりつけることができるかどうかです

神仏あるいは宇宙自然生命黄泉に好かれるかどうかです

そのための修行あるいは人生です

この世で 試される 究極の課題です

それを 無視して 幸せなどありません

もう一度 人生とは何だったのか 考えてみませんか

特に お笑いテレビ芸能界 及び 利益至上主義経済界財界に申し上げる

大切な価値を愚弄あるいは無視して

世の中を どちらへ導いていたか 反省して頂きたい

愚かさと野蛮から 本来日本へ 帰りなんいざ 凪の世へ

しかしわからないのだね それが世間だね

だったら 何があっても 仕方ないね

それでも佛は一切大衆を救うという

救うことに決めたんやと

申し訳なくて 申し訳なくて ・・・・・・

この世にあるべき事など何もない

個々の思念と行為の結果があるだけです

 

世に捨てられて 黄泉に拾われたるかな 馬宿王子

 

そして さらに重要なことがあります

それは この度 真実が目覚め自覚しているということ です

以前には 国家に所属していました

その後 民間に所属しようとしました

しかし そこに裏切られ 空閑を彷徨っていたのでした

これを誰も知りませんでした

よって 糸の切れた凧の如く 社会は漂流し腐敗しました

民間は思い違い勘違いしました 国家もです

真実をここまで苦しめることはなかった

唯 大切にすれば良かった 喜んで真実の仕事をしていたはずです

そして その間 何が蔓延ったか 見ての通りです

その真実が 目覚め 自覚したのです

これまで通りではないとするところです

真実は やがて 黄泉に救われた

黄泉の所属となった よって 黄泉が力を得た

真実を愚弄破壊すれば 黄泉が裁くことになった

よって 古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和黄金が復活を果たした

その意味では残念でしたね ラインの黄金は 黄泉に帰ったのでした

こうでもしなければ 真実は 芽を出せなかった

それほどまでに 末法の世は腐敗していた

これより 浄化せん

真説です

かように 思っていたのでした

馬鹿馬鹿しいですね

これでは 今の社会でいきてはゆけませんね

何もする気になりませんね

しかし このような馬鹿げたことを いつまでも

内面に持っているとどういう事になるでしょうか

およそ にっちもさっちもいかない

それで このような思いも 発露してゆかねばならない

言えばいいのです そして 何もない

それで いいのです

2006年11月04日

新しき朝

仏法の奥義図らずつかめどもされど哀しき失える青春

悟りとは孤独なりけり何故に語れる友の少なきが故か

振り払い確かな大地に立ちにけんこの世確かに開けたるかも

甘えなくこの道しかとすすみゆくこれぞ人生天も喜ぶ

咲けば良しこの人生にくゆるなし自由の道の新しき朝

 

この世に生まれて 数多の経験があって 見させて貰っている

お金持ちが多くなって その多くは 何をしているのだろう

モテるということは何だろう 問題は何故モテるのか

何にモテているのか どのような相手と交際しているのか

それで 人生などと 

黄泉に行けば全てわかる 

その時は遅いのかも知れないのだけれど

野に咲く清楚な花がある 気づかれないままに

その花は一瞬の生を喜びを以て咲く

周囲には仲間がいなくて 実が成らないかも知れなくても

2006年11月03日

もう笑って貰って良いのです

私の言いたいことは云い終えたようです

このために私は生まれてきたのでしょうか

天下国家宇宙自然生命黄泉も喜んでいるようです

もはや本望 本懐を遂げることが出来ました

思いのこすことはありません

仇は十分にとったように思われます

そしてそれ以上に大きな成果もありました

思わぬ宝でした

空海も得た力かも知れません

全てを失ったかのように思われました

しかしそれも試練だったのでした

一つの物語の完結です

やっと云いたかった事が云えたのでした

そのために、何もないところから証明してゆかねばならなかったのでした

そして証明しました 証明していると存じます

たったこれだけのことを云うために

私は人生も青春も奪われたのでした

思えば私の人生は生まれたときから特殊でした

その理由もやっと明らかとなりました

これでいいと思います

もういいのだと思います

このような人生もあったのでした

もう笑って貰って良いのです

やっと笑って貰って良いのです

かつては赦せないと思っていました

いまは赦すも赦さないも無いのです

すべては自分だったのでした

この意味わかりますか

しかし図らずも本来の自由を勝ち取るに至ったのでした

触らぬ神に祟りなし ただ神を畏れよ

どういうことでしょうか

至って神は感情的です 不条理です

神の感情を害さない方が賢明です

黄泉よりの復讐が怖いです

神は天 宇宙自然を従えています

地震を以て菩薩も涌出します

神仏は宇宙自然の化体です

乾坤大地自然及び黄泉が随順するのです

明治とその末裔の方々に申したい

その非を認めて我らに謝っては如何ですか

謝ることで赦されます

謝るところからしか入れない

まだ謝っていませんね まだ正しかったと思っているのですか

大和荒野からの請求です

さて 人生も青春もそれどころではなかった

これだけのことを云うために人生も青春も失ったのでしょうか

まるで現代の『山月記』ですね

もう笑ってくれても良いのです

このような馬鹿げた人生もあったのだと

しかし思わぬ力を得たものです

今 この世の中に どれだけの人がこの力を得ているのでしょうか

二人としていないのかも知れません

それほどの力です

しかしもう試そうとは思いません 十分です

だから笑って貰って良いのです

笑うしかないのかも知れません

しかし この世の浮かれた時代のツケはどこかで支払わねばならないでしょうね

黄泉にて請求されることでしょうね

覚悟はしておいた方がいいのかも知れない

それほどまでに真実価値を愚弄したのです

時代及び歴史はどう応えるのでしょうか

正統秘史はこれにて了とします

今宵は十三夜 冬も近いです

もう笑って貰って良いのです

このような馬鹿げた人生もあったのだと

若い左官さんに出会いました 二十五歳にして現場責任者です

マンションに住んで良い生活をしています 所得が高いのでしょうね

人を使う仕事をしなければ駄目だと言います

頭を使わねば駄目だと申します

目は輝いています 夢を持っているのです

私にはそうした夢はなかった 

すでに過去にその夢は破れていたのでしょうね

そしてこの人生に何をしたか 

誰も知らない

この世の秘密開示であったかも知れません

すなわち 卑弥呼の系譜邪馬台国大和黄金乃國日本

全ての縁の方々に感謝申し上げます 

今日は王舍城で大祭(11月11日)のための清掃があります

 

我思う故に我あり宇宙にてカクネンムショウたれぞ知るらん

名月や港の炎青くなる夜空に燃ゆる茜色の雲

おだやかな常寂光の日続く頃十字に輝く朝日出でけん

本懐を遂げんとする時のくる故に失う青春報わる

法の道六年過ぎて神通の時満ちたりて王舍の滝見ゆ

企画せし王舍城ツアーの終わる頃後光輝く天の橋立

内面の戦い終えり春日なる君と出会いて君を護らん

日月照らし風の吹く古来大和の秩序あらわる

松風の吹きて知るなり我なるを腐敗極まる世正さんとす

世の秘密たれぞ知るらん我なるを掟なるかな我も得知らず

浦島の開けて驚く玉手箱中より出でたる也螺鈿の槍

たれぞ知るこの世の秘密我なるを今宵はじける西天の月

朝日狩り野呂の山にて独り占め空海も見た漆黒雲海

清盛の日招き岩にて出遭いしは待ちて導く三匹の猫

謎解きてやさしき日常取り戻すゆるしゆるされ今宵十三夜

 

ところで、ある大手家具店で働く契約社員が月収50万だってね。何故だろう。大手企業の景気が良いからだ。住宅投資があってね、銀行も融資する。それで家具がよく売れる。しかし大企業及び制度を利用するものたちだけの話だ。世に言う勝ち組及びセレブである。ところでね、三十年前にある選択があったからだよ。それには条件があった。それは何であったか。ある事が予定されていたのだった。私は就職の時、半年あるいはそれ以上、竹中工務店に弄ばれた。反骨とは聞いていたが、ここまでとはね。15対1の重役面接は卑怯だったね。そしてその時ある事が予定されていたのだった。気づかなかったのだね。今更遅い。大きな忘れ物をした。財界経済界の罪は重すぎる。その意味わかるか。わかるまい。しかしね、此処にいたって、三十年前の選択は失効する。その罪の故である。今にわかる。つけははらってもらう。医学部とか司法試験レベルで学問していたわけではなかった。身分に安住する公務員になりたいとは思わなかった。その後社会は私を愚弄無視した。しかしね図らずも空海をも超えた。宇宙自然生命黄泉は私を捜していたか。何度か通信はあった。しかしそのような馬鹿なことなどあるものかと思っていた。しかし此処にいたって宇宙自然生命黄泉はやっと私を見つけた。むしろ宇宙が私に同調した。社会を恨むなと言っても無理であろう。平将門が暴れるかも知れないね。ところで核武装論議だけれど、その論拠はそれなくしては北朝鮮にものが言えないとか。何いってんだろうね。世界を敵に回す気か。今、核武装を超える戦略理念がある。すなわち世界で重要な地位を占めることである。なのに、閣僚が核武装論議を喚起しようとしている。靖国問題どころではないよ。関東軍の二の舞をする気だろうか。何を考えてんだろうね。私にはわからない。恋は鯉。いろはにほへと・・・うつりにけり那。愛は何だろう。 T。南無、佛。=平和。

世の人の願い何処にありぬべき弓と刀は縛るべきかも

天空に雲一つ無し十三夜

2006年11月02日

お金にならない仕事

鎮めるべきは自己ですね

自己の気を鎮めるのです

さらば生きてゆけます 忍辱の大力

自ら手を下す必要はないのです

黄泉あるいは天 すべて 見ているのです

そして しかるべく 裁く

無事是貴人

自分は何を為すべきか

体験的理解を要します

何を以て仕事とするのでしょう

考えることを以てするのです

考えることであるなら 何時でも何処でも できるのです

お客に頭を下げますね

何に対して頭を下げているのでしょうか

利益に対してでありますね

心の中では舌を出していませんか

もしもお客に対して正直になると 危険人物となりますね

平和 安全 秩序 これらに頭を下げることはない

仕事にはその人にしかできない仕事があるのです

お金にならない仕事があるのです

世間が その価値を認めないからですね

空気にお金を支払うことはありません

しかし ツケは廻るのでした

何を仕事としているのでしょうか

考えることを仕事としているのです

それではお金にならないですね

しかし生きてはゆけるのでした

いつか 理解する人の現れる

それまで待つしかないのです

今更別に構いはしません

獅子が目覚めて一声する どうなるのでしょうか

百雑砕

結構勝手をしてきましたね これまでは

獅子の目覚めるまでは

小さな利益など問題にしてはいません

扱いにくいですね 危険ですね

しかし危害を加えることはありません

刃向かうは知らないのです

電光石火 一瞬の勝負で決まります

勝ち負けは神仏の守護あることを信じます

己に恥じるところなくんば 良し とするところです

世は腐敗しました 本末転倒してしまいました

この世に生きるべきところはあるのでしょうか

しばらく 空閑 すなわち 荒野に生きてきました

これからも そうなのかも知れません

何を云っても 駄目なのでしょうか

刃向かえば どうなるのでしょうか

滅びるのです 黄泉の掟です

心の地獄で浮沈していますね

これより出づることはできないのでしょうか できます

愚か者にはできません

何を以て愚かというのでしょうか

宇宙自然生命黄泉に秩序あり

これを無視愚弄破壊嘲笑するを以て愚かとする

本来の自分になることですね

自己の花を咲かせるということは

お金だけが人生ではありません

されど お金は大切ですね

皆 魂の学校の中にいるのです

早く気づいたが勝ちです

何に気づくのでしょうか

真実

お客のクレームがそれほど怖いですか

お客の方に横暴があります 無理難題があるのです

教育が足りないのでしょうか お客の勝手が過ぎることもあるのです

それを看過する ますます勘違いが悪循環

何を教育するのでしょうか

黄泉のサンクションあることでしょうか

教えることはできないですね 知らないのですから

さらば 敬虔と謙虚は教えたい

教わる側が教える側への尊敬を失いました お客として

サービスの概念を間違ったのですね

サービスにも限界があるのです

金銭地獄のこの世となりました ここより逃れる道はあるのでしょうか

あります 本来何もないのです 相手にすることもないのです

傷つけることはない 傷つくこともない

何をしても 何を云っても 傷つけます

そうしたことにはなりたくはないですね

あたたかい陽光と おだやかな風

そうした世界もあるのです

何を好き好んで地獄世界へ赴くのでしょうか

嵐は 唯 耐えるしかないですね

人の嵐 吹き荒れていますね

今日も穏やかな午後です 14:27

まるで春の穏やかさです 

今 広島市南区宇品にいます

ところで 数学の解には 不能 解なし というのがありました

不能 解なし を導き出せるかどうか

不能 解なし なのに 解があるものとしていたのではないでしょうか

つまり 相手にしていたのではないでしょうか

それでは 不幸ですね

お金になりませんね

法華経第十四に安楽行品があります

ここにはどのようなことが書いてあったのでしょうか

ここにこそセレブの世界が書いてあったのでした

地獄にこのまま浮沈するのか

あるいは 逃れて楽な方へ行くのか

楽な世界はあるのです 何不自由のない世界です

もちろん お金の心配もない世界です

夢のようなお話ですね しかし 過去から

すでに伝えられていたのでした

世の成功者たちが伝えていたのも是だったのです

しかしなかなかこの道を進むのは難しい

何がそれを阻んでいるのでしょうか

自己の計らいです

誘ったとしますね しかし何かと理由をつけて一歩を踏み出さない

自分解釈して 

誘う方はどうでしょうか

仏の顔も三度までです いつまでも誘ってはくれません

それがノアの箱舟でもあります

幸せ世界はあるのです

自分次第です

何時となく チャンスは巡ってきます

それは 人との出会いだったのです

すなわち 縁だったのです

素直に 聞いて 実行する

それだけでいいのです

我見を挟まない

それだけでいいのです

ただし 自己のその時の状況で 縁は異なります

それぞれの縁です だます人はだまされます

救う人は見ています 救いたいと思っています

さて船出の頃ですね 二十一世紀の宝島は発見されました

もう焦ることはない この世の目的は果たしたかのようです

あとは 太公望のごとく のんびりと 時を待つのです

見えない世界は きっと ご準備を始めているはずですから

凡庸として待つのではありません 自覚確信して待つのです

 

一切の公憤すでに消え去りて静かなる海二本の常磐松

 

もう一切無理はしない 矢は放たれた

すべてを乗り越えた 乗り越えたのだと思う

珠磨かざれば光無し 一度光ればいい

光るまで磨くがいい その間 芥払うこと三十年

さて しかるべき存在が力を得るとどうなるか

台風をもなだめることができる

持つべきは種である これを無視しすぎた

誰もが平等だと思っていた

しからば 法華経一切種智慧及び宿王華とは何だったのか

答えることができますか

私の尊祖父は千畝、城代家老ときく

それにしては粗末にされたものである

世の腐敗も当然か

しかし それ故 我が身苦節三十年 しかるべき宝は見つけたり

もはや 容赦しない 祖先は救い出した

何を以て粗末と云うか

それまで培い来たる大和の心を踏み躙った

江戸無血開城禅譲精神を裏切った

魂の進化に逆行した

その後どのように推移したか

そして今どうなっているのか

これを以て粗末にしたと云う

勝手な解釈を以て日本史としてもらっては困る

この作業をするために 私は この人生を歩まねばならなかったのか

今となっては そう思える

これで 報われたと思える

何を以て自由というか 犠牲が大き過ぎはしないか

巷の声がしている

お金持ちに生まれ変わりたい

芸能人になりたい

世の中 アメリカ占領政策の実が成ったみたいだね

一つの時代が完結した

新しい種まきの時節です

どの種を蒔きますか

日本古来純粋精神の種 神仏に秘密護持されていました

すなわち 法華経宿王華 一切種智慧

脳波

カクネンムショウって 何ですか

天地と自分が一体だ 気分が晴れると天気も晴れる

どこから それは そうなるの

おそらく 脳波だね

脳波が やさしい周波数を 発するのだね

その逆もありますか

ある

どのようにして それ(やさしい脳波)は 得られるのですか

歓喜奉行

その時 どのようですか

こころから くつろいでいる

日々 行住坐臥 くつろいでいる

それが 悟りだ

悟るとどうなるのですか

歩々清風 常寂光

誰もが知っているのですか

ほとんどの人は知らない 家族も知らない

これが直系家督相続か

知らないまま 否定する 邪魔をする そして死んでいく

真実を知らないままに

この世に生まれた本当の目的を果たさずに

名を利用だけして 正当な対価を支払うことはなかった

その価値を知らないのだった 無理もないか

何も見えてはいない 何も知らない

知らないまま 身勝手 それが世間

体験しましたか

はい しました

そろそろ 冬にしよう もういいよ と

天に号令したこともありました

どうなりましたか

急に朝晩冷え込みました

突然 紅葉がやってきました

いつもできるのですか

修行が足りてるとね

修行とは何ですか

人々を救うことだ 救う者は救われる

どのようにして救うのですか

今は 仏縁をつける これからは知らない

だれもが 救われますか

だれもが 救われる 佛の威力だ

港では 遠くの煙突に いつもの炎

ラジオからは 誰も知らない 言葉たち

かつて 祖父のときも そうだったのだね

アーサー王の円卓会議

今宵も 密かに 開かれて

明日の日本を 導いている

時は流れて 真実の

現れたるは 世界なり

世界も 導く 真実となるか

黄泉の評価は かくも 確かなるも

されど 我が経済 山上憶良のごとし

お金無ければ 結婚もない

何をしても よいのだけれど

何も出来ない自分がいる 能力はあれど

本来の働くところが どこにもない 明治以降

私の力を知るものはいない 高校以来

明治文明開化には 西欧より 百年遅れてた

果たして そうか

物質文明はそうだった

精神文明はどうだったか

カエルの子はカエル

されど 四民平等 その意味は

それまで培われていた文明の 

低下だったことを知らない

知る由もないことだった それが革命の故だった

その後も ますます 低下した

世の腐敗が極まって 今 蘇る

古来大和の原点 すなわち これ 秩序回復

時は流れて 真実 伏流 復活せり 

大和は不滅なる 不死鳥のごとし

かつて涙せし 孤独なるを

今 自覚する 我が世なると

世を恨んでいますか

『山椒魚』の最終行は削られている

これより 日本は 大丈夫である

長い旅路だった 人知れず 死んだかと思われていた

しかし 十分な力をつけて 生還である

何が生還したのか

卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本の蝶

刃向かうものあるか いつでも出向く

だれかほかに 見えない世界への 

確かなパスポートを持っているものあるか

あるなら 名乗るがいい

今日も穏やかな日となりました

金色の柔らかな日の光に包まれて

黄金の國 ジパング 夜明けです

失われた何か大切なもの ここに復活

神話は事実であった

神話と未来がつながった

 

モテるということ

人生 燃え尽きることだという

どういう意味だろうね 何をして燃え尽きるのかな

五欲だけで燃え尽きる

しかしね それだけでは もったいないね

もっと すばらしいものがあるのにね

そうした方々は お金持ちだ

お金がないと モテない時代となりました

お金があると モテる時代となりました

しかしね 佛さんとか 神様とかには モテないね

そうした方々も いつか 至る

来世で至る



2006年11月01日

憲法第九条改正論議について 及び 新しいステージへ そして エピタフ

悪いのは全て自分である。これがわかれば救いが来る。全てである。宇宙と我は同根。地球も同根。万物のもとは何か。五大原素といえる。それに影響を与えている。本来すべて神仏に身を委ねていい。委ねることで守護がある。人間の計らいは悉く悪であるのだろう。計らいを捨てるべきか。ここを至道無難、唯嫌揀択と禅ではいう。自分が悪いということで修身となる。やがて修身斉家治国平天下となる。五欲を断ぜずして道は開ける。真実の仏法である。ところで、やはり日本だよ。やはり世界で最も美しい山は富士だね。憲法改正議論が浮上してきた。国民の生命を護るためだという。武力を持てば行使したくなる。おもちゃを持てば遊びたくなる。選択するのは国民だ。これまでは他人事だった。これからは違う。国民としての選択となる。当然責任を伴う。本来無一物。持とうが持つまいがどちらでもいい。唯、原発と同じだ。危険を伴う。憲法解釈が無理をしているのは事実である。さて、この事実とどう対峙するのか。国民はもはやこの選択から逃れることは出来ない。平和を維持するために武力が必要なのかどうか。よく議論して決めなければならない時が来た。国民も国民として自らの責任において決定しなければならない。国民として成人したというべきか。憲法第九条の改正である。他人事ではない。勿論シビリアンコントロールが前提である。できるかな。さて、佛はどのようにして佛となったか。代々の修行の故である。その方法論を譲るという。それが仏道である。だれもが佛になれる。何時かは成る。すなわち成仏である。この意味で平等である。しかし代々の修行の差がある。よって平等即差別である。平等概念を間違えてはいなかったか。愚かなレベルで増殖を図っていないか。それぞれの器に応じて降る雨の量は違う。人格の差を以て受ける教育の差がある。 学校教育はそれを無視した。それぞれに応じた教育をしなかった。教育者の怠慢があった。いじめもその怠慢からである。いじめを野放しあるいは傍観した。そしていじめが蔓延った。責任はとらねばならないだろう。それで飯を食っているのだからね。秩序破壊の罪である。世の全ての大人が同罪である。世の知識人及び諸リーダーも同罪である。マスメディアも同罪である。悪いのは全て自分である。当然私もそうである。世は腐敗した。立ち直るしかないね。腐敗のもとは何だったろう。人間としての思い上がりだったのではないか。神仏に対する敬虔を失っていたからではなかったか。神仏は実在する。救いはある。すでに証明済みである。代々伝えられている。人生死んでしまっては終わりである。どんなに悲しい人生であってもいつかは報われる。悲しさを通って初めて開ける救いがある。どんなことがあっても自殺なんかするもんじゃない。必ず救いはある。その時人生の喜びを知る。人生はかくも美しい。生くるに価する。貧しさを通って初めて神仏との邂逅がある。お金持ちには決してあり得ない。むしろ心は地獄である。真実である。此処を信じることが出来るかどうか。試練は試練である。耐えるしかない。自分勝手に結論を出して自殺なんかしないことだ。安住する教育者には子供の悲しみはわからない。安住する市民には困苦者の悲しみはわからない。正直の故の貧しさがある。しかしね、それ故に救いがある。本当だよ。本来無一物だ。悲しみも困苦も問題ではない。そう思える時が来る。必ず来る。しかし自分の生命保険を担保にお金を借りて代議士となるものもいる世の中である。それほどお金は強い。だが、本来の価値及び格を無視して蔓延ったものたちは観念するべし。時は満ちた。しばらく蔓延りきたる本末転倒、これより正されん。全て神仏及び黄泉にまかせた。宇宙自然生命黄泉の秩序の回復である。これを以て無我とはいうべきか。何のために教師となったのか。何のために医者となったか。何のために就職したか。利益のためであろう。それが間違いであった。利益至上主義が世を腐敗させた。利益の上に価値がある。生きるとはどういうことであったか。生命とは何であったか。魂としての遍歴がある。そろそろ気づく頃である。皆が幸せとなるために。自分だけが幸せとなって他を顧みない。そのためには他を犠牲とする。手段を選ばない。自分にわからぬを以て本来の価値及び真実を粗末あるいは嘲笑する。それを人生とする。子供たちもそれに従う。テレビ界の罪の本質である。それがカルバン以降の利益至上主義である。結果腐敗凶暴でしかない。他を見下し本末転倒欺罔暴力の世の中である。それだけで恥と知るべし。何がセレブか。お里はどこか。黄色いお足が見えている。顔を洗って出直すがいい。いつまでも根拠のない横暴は通らない。皆が幸せとなってその中の自分も幸せである。全体としてのボトムアップである。本当の幸せの可能性が見えてきた。昔より伝えられていた。未来は明るい。パラダイムの大変革の時である。時代は限界に達した。400年来あるいは二千年来の事である。梅は咲いている。桜も咲かないといけないね。接ぎ木はない。ご安心を。桜は桜として咲く。桜は桜である。明治にソメイヨシノとなって全国に散らばった大和桜花。雑草社会の片隅に追いやられていたけれど、世の腐敗極まり、やっと咲ける時節の到来だよ。 もう無視愚弄破壊させない。辛かったね。空襲ナパーム弾及び原爆は熱かったね。大和の純粋精神の咲く頃だ。思い煩うことなど何もない。 愚直なまでに真面目正直の故に他を顧みない輩すなわち要領のみの勝手なる利益至上主義社会に負けて自殺なんかしては駄目だよ。 きっといい時代が来る。自由は自由精神が切り開く。 自由はフォルテ、思い通りにしてしかも法を超えない。 むしろ法は後からついてくる。あるいはピアニッシモ。制御された微音は強さを秘めている。しばらく眠らされていた。 しかし胡蝶の夢も夢ならいつかは覚める時が来る。汝自身を自覚してその時至る。もとより力を持っている。甘く見ない方がいい。 この自覚に至ったからにはもはやあやまりはしない。あやまるは浮かれた時代の方である。暴走族がのさばり蔓延った。 本来の価値及び秩序を破壊した。衆生功尽きてその心、大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏なり。代々の掟だ。秩序だ。 ヒロシマに『広島の心学』あり。反論あらば聞く。但し、相当の覚悟あるべし。宇宙自然生命黄泉及び祖先御照覧の下である。 すでに法華経精神及び旧約聖書の目的の謎は解いた。如来及び万軍の主を味方につけてある。それでもなお否定せんとするか。 常々実験実行実証検証済みである。この世に一切無駄はない。あらゆる事に価値がある。悪も真実を知るには必要である。 しかし悪は悪である。最大の悪は何か。人間である。人間の思い上がりすなわちエゴである。人間の自分勝手な計らいである。 此処より地獄となる。地獄から這い出る方法はないのか。有る。すなわち衆生善業の因縁より出でたり。 信を以て入ることを得。 善業とは何か。何を信じるのか。各々の問題である。さて、 現実が本当に平和となって真実の幸せを皆が享受するには時間がかかるようだ。今、この世で生きてゆかねばならない。 その基盤すなわち経済を整える必要がある。どのようにして整えるか。当面の問題となった。かつては狩猟漁労で足りた。 今はそうはいかない。それぞれが他に迷惑をかけぬよう自立しなければならない。当然だね。そして何をしてもいい。 利益を否定してきた。しかし正しい利益もある。しばらくそうした方法でなければ生きてゆけなくなっている。 慎重に見直す必要はある。しかし利益こそ糧である。この事実は現実である。見直すことにしよう。ご安心されたい。 やっと地に足のつく時節となったようだ。その意味でご迷惑をおかけしたかも知れない。深謝申し上げます。 私の言いたいことも言えました。これで一つのけじめとするべきですね。悪舌は功徳の種を断ずる。他人の過悪を論ずることなかれ。 皆、我慢して一生懸命に生きている。どうしようもないままに。それはそれで尊敬に値する。しかし、 真実を知らないままでいるのは如何か。真実を語れば必ず否定する。何故か。自分の存在自体を否定されたかのように思うからである。 そうではない。真実は真実である。これを認識して初めて幸せへの道を歩むことが出来る。歩めないのなら敢えて云う必要はない。 歩めるから云うのである。それ故過去より伝えられているのである。ところで、クラシック音楽はいいですね。 それ自体ジャズ的であることは既に書いた。情念を音楽にする。これを感じることが出来る人と出来ない人がある。 出来る人はむしろ社会の片隅にいる。(NHK−FMを聞きながら 2006/11/1 16:00)

新しいステージへ。自分のその時々の状況に応じてそれぞれの出会いがある。日本もペリー来航時に世界と出会った。そしてどうしようもない事実現実と直面した。その後、精一杯頑張った。いくつかの失敗もあった。その失敗を失敗と認めることも必要だね。新しい出発のために。世間にはいろいろな花がある。人間だってそうだ。それぞれが群れを成す。そして生き抜こうとする。それでいい。しかし掟がある。秩序がある。これを破るとどうなるか。全体としての存続が危ぶまれる。それでも破るものがいる。知らずも。日本には日本古来の掟がある。それは何であったか。自由といえども市民社会の自由である。自ずから制限がある。それを無視破壊した事実がある。当然のサンクションがある。さらに眠っていた掟もある。今それが目覚めている。これを無視するとどうなるか。あとで知りませんでしたでは済まない。掟は掟である。秩序は秩序である。知性の秩序がある。始めに発見したものの特権がある。この度のパラダイムの変換はだれが始めたのか。知らずも見えない世界は知っている。天に記録されている。さらば当然の権利がある。これが本権である。権利の基である。冒せはしない。自分が自分になること、それで真実の人生が始まる。自分が本来の自分になること、それですべてのものがついてくる。宇宙もついてくる。自然もついてくる。神も仏もついてくる。そうした自分になることが出来るかどうか。これで基礎作業は終わった。探していたものは見つかった。高校の頃に始めた「失われた何か大切なもの」は見つかった。まさに宝島発見である。それは神仏の邂逅とその受容及び祝福を得てその守護を得ることだった。既に代々伝えられていたことだった。秘密の中の秘密と言っていい。あるいは奥義である。すなわち、日月照らし風の吹く。風は何処より吹くか。何処へ吹くのか。風見鶏のレベルではない。インスピレーションのレベルではない。エクスパイアである。それをどのようにして得たか。人生そのものを賭して得たといえる。別に意識したわけではなかったが、振り返るとそうであった。生まれた使命だったかも知れない。そして成就した。成就したのだと思う。真実との邂逅を果たしたのだった。あらゆる物語及び神話が現実と思える。これほどの真実があったとは思っても見なかった。しかしそれを語れば必ず人は否定する。かつての自分もそうだった。不思議である。しかし実在する。経験及び体験してしまった。莫大の書籍を読んだ。流行小説などほとんど読んでいない。そして、かつて読んだことがすべて現実となった。読書はしておくべきものである。また試練もあった。十九の春にはもはやこれまでかと思われた。それも乗り越えた。それを乗り越えるには三十年を要した。これも意義有ることであったであろう。これまで出会った全ての方々に感謝申し上げる。経験及び現象にも感謝申し上げる。すべては知らしめんが為だった。何を知らしめんとしたのか。真実をである。あるいは汝自身をである。そして得た結論は何であったか。すなわち、日月照らし風の吹く。親鸞の佛は我が為にだけ法を説くとするところである。あるいは妙法華経に云う、佛、佛のみと究了したまえりであろうか。さらに真実とは何か。科学ではない。仮説でもない。真実とは真実を把握したものあるいは把握するべき者が見る現実であり、感じることである。言葉はロゴスとなる。経験は宇宙に反射する。現象となって現れる。これを信じることが出来るだろうか。昨年(2005)11月26日よりこの度の作業が始まった。思わぬ収穫を得たようである。確かに新しい時代は開かれた。宇宙自然生命黄泉も間違いはないと喜びの歌を歌っている。二千年来の夢が開かれた。卑弥呼の系譜邪馬台国大和の日は昇った。若者たちよ、純粋なる故に救われている。この世の春を謳歌するがいい。何があっても怖れることはない。新しい時代が切り開かれた。本来の自由を愛し信じる皆の力で。幾多の犠牲の上に。犠牲になったものたちは供養しようぜ。魂となった彼らが喜ぶのはかれらの存在をいつまでも思い出すことだ。そこにエピタフの存在意義がある。 お金はそれぞれ必要なだけ有ればいい。どのような栄華も一輪の花に及ばない。鳥の如く食は日々与えられている。幸せになろうね。心が全てだよ。そのための修身だよ。今日も日中穏やかでした。太陽はやさしく大きく輝いていました。あたかもこの世の春ででもあるかのように。晩秋ですのにね。しかし朝は少し肌寒く冷え込むようになりました。皆様、お風邪など召しませぬようご自愛下さい。

2006年10月31日

命の旅人

祖父のことを思い出す。古武士というにふさわしい人だった。その日々をその姿及び存在を以て何かを実践していた。その面影を知るものはもういない。しかし私は知っている。私の少年時代は祖父の守護の下にあったのだった。祖父は昭和五十年に没した。そのころ私はどうしていたか。遙かなる旅を始めていた。それは黄泉だった。代々の秘密を求めての旅であった。失われた何か大切なものを求めて既に高校時代に旅立っていたのだった。この世は末法となっていた。そうした時代に失われた精神を見つけるにはどれだけの試練を要したか。想像を絶する。しかし導かれていたのだった。予定されていたのだった。今思うとそうである。父もそれを知っていたのだったろう。ある日父は言った。自分も同じであったと。そして言った。お前は大丈夫だ。私の子だと。しかしこの意味を理解するものは誰もいなかった。姉妹も知らない。母は最近になって気づいたようだ。あるいは知っていたのだったかも知れない。百代の過客ということがある。これに対して禅では主人公という。ここに決定的な差がある。世間では警察がいなければ人を殺すという。私は警察がいなくても人は殺さない。さて、歴代の秘密がある。今その開示の時かも知れぬ。しかしかつての私がそうであったように、誰も理解しないだろう。嘲笑するだけであろう。ここより不立文字とはなるか。あるいは不言実行というべきか。すでに自覚している。何を自覚しているのか。すなわち、

秋月の未知なる力満ちたるをこの道たれと松風の吹く

私は伝えるべき事は既に伝えた。老子の如くであったかも知れぬ。少なからず不思議な人生であった。それでも気づかず鈍して貧した。背水の陣となった。そして打成一片である。爆発である。自己が木っ端微塵となった。そして宇宙とひた一枚となった。宇宙が自己であり自己が宇宙であることに気づいた。しかし気づけば始めよりそうだった。生まれた時からそうだった。それに気づかない自分がいるだけだった。気づけばそこに自分がいた。自分は宇宙であった。そして黄泉より生還した。黄泉より生還できることを切り開いた。この意義は大きい。フロイトなどその結果は何か。ゾンビである。古来本来日本にそれはない。日本の精神は清浄を以て結果とする。しかし身も心もぼろぼろである。財産も皆失ってしまった。故に得た自覚である。これよりその復興である。底をついたのである。上昇しかない。しかし試練だった。プログラムされていたかのようだった。それにしても酷だった。何もかも失ったかに見えた。しかし放てば手に満てる。失ったものが多ければ多いほど得るものは大きい。法華経の謎も解いた。旧約聖書の謎も解いた。かの試練は創世の洪荒であったか。これ以上成すべきこともない。至りついたかのようである。しかし何事も終わりがある。そして始まる。二千年来の物語の終わりなのだろうか。そして新たな始まりが始まるのである。終わりよければすべてよし。物語の鉄則である。これよりどうするか。桃太郎となって、申酉戌でも探すことにしよう。

デッサンの両雄はダビンチとピカソだね。竹内栖鳳のそれもある。さて、モナリザだけれど謎が多いね。その背景など同時代の絵画技術の結晶であったであろう。その微笑みであるが、誰をデッサンしたものであったか。あの目は若き日のダビンチ自分自身のそれであったかも知れぬ。

自由の旅人に蓄えは要らない。むしろ邪魔である。三衣鉄鉢で足りる。しかしこの鉄鉢、奪えはしない。獅子の如く狩りをする。必要なだけの狩りをする。ハイエナにはなれないね。

永き嵐であった。創世記洪荒の嵐だったか。失われた青春がある。取り戻さねばならぬ。永き嵐はやがてカクネンムショウへ至る。このカクネンムショウ、宇宙と同化する。少々遅きに失した観がある。さにあらず。時は天、たがわぬ。

あらゆる歌が自分のことのように思われる。額面通りに聞くのではない。大和の心であろうか。詩とはあるいは芸術とは見る人によって見え方がある。歌もそうである。そのように父も聞いたに違いない。祖父もである。尊祖父もそうであったろうか。しかし慰めでしかなかったでろう。この力を得なければ。この力とは何か。天を味方につける力である。長い旅路を要する。夢と現実が一致するには。自分が自分に克つ。天晴れ天下が開ける時が来る。一度開けるといい。一度だけでいい。自分の天下が来る。自分の天下となる。それが夢であった。夢は開ける。庶民の夢も開けた。古来大和の夢も開ける。色欲はいい。色情はよくない。それにおぼるればおわりである。人生はかくも美しい。その美しさを知るにはどうあるべきか。世間はあまりにも真実を知らない。結果が出れば終わりである。それまでに引き返せるかどうか。契約は守らねばならない。あまりにもそれを無視していないか。掟がある。それは秩序である。破ってはならぬ。命の旅人として。

2006年10月30日

時の進化

すでに真説は示されたのかも知れない。魂との対話より真説となる。概念をもてあそぶが仮説である。仮説は仮説である。写実主義ということがある。何を以て写実主義というのだろう。己の見たものを見たとおりに描くことであろう。本末転倒イミテーションの世の中が腐るのは当然である。実体のないエゴたちの支配が世の腐るのは当然である。こころするべし。時は流れた。時も進化している。下手な合理性が世を惑わせた。貨幣の支配にめがくらんだ。今、目覚めさせん。世を惑わさば神仏といえどもゆるしはしない。 さて、今朝も港は穏やかです。7:00am

ところで児童虐待が絶えない。ニュースになるのは氷山の一角であろう。民生委員からの調査依頼があった。しかし児童相談所は電話しただけだった。電話して、ハイ、虐待していますと答えるとでも思ったか。職務怠慢債務不履行。公務員たちよ、何をしているのだ。つべこべ言い訳は要らない。事実を直視しては如何か。明日は我が身だよ。我が身に帰ってくるよ。いじめにしたってそうだ。そして、いじめたものが悪い。虐待したものが悪いと思っていないか。自分たちは無関係と思っていないか。大間違いである。すべて同根。全体としてこの罪を認めるべきだね。身分に安住しているとね、地獄だよ。世のセレブ諸君、心の中は地獄だろう。当然である。道元は貧学道を以てその方法論とした。いつまでも真実に対して背いているとどういうことになるか。時の流れは速くなってるよ。逃れる道はないのか。ある。救うものは救われる。ある教主がいた。過去にあった仏所を探していた。富士に塔を立てた。昔より富士かと思われた。しかしその塔は破壊された。人間によって。そしてご来迎の中に「神」の文字を見た。富士より申の方角と教えられた。さらに探すことになった。開聞岳でのことだった。辺り一面霧であった。よくみときなと言った。そしてクジを切った。またたくまに霧は晴れた。事実である。随行の皆に見せておきたい風景があったからだった。昔より伝えられてきたことがある。歴史最も古き日本に。文明文化が歴史ではない。神話は事実である。それを知らずして勝手している。地球に対して。未来に対して。カルバン以降の愚行である。そろそろ気づく頃となった。あるいは、思い出す頃となった。正憶念の時節である。テレビ界も反省する頃である。民間テレビスタッフ諸君、言いたいくても言えないことがあろう。貨幣の奴隷であろう。永遠に腐敗せず増殖するとする貨幣の基礎は何か。インカの金である。その金は誰がどのようにして奪ったのか。ベルサイユ宮殿を見て何を思うか。どれだけの血が流れたか。それに憧れるのか。それを吹聴するのか。答えてみるがいい。宇宙自然生命黄泉はそれをゆるしはしない。

2006年10月29日

王舍城ツアー

昨日でこの度の一連の自己確認の作業を終えた。一つの解決を得た。それはとても大きな解決だった。そして本日より新しい気持ちとなって出直しである。さて、本日、王舍城ツアーがある。新しい方を何人か誘ったが、それぞれにスケジュールがあるとのことだった。これからは縁が大切となる。人と人との縁を大切にしたいものである。きっと幸せとなれる。悟りとは何であったか。日月照らし風の吹く。百万人といえども我ゆかん。これで穏やかにこの海を渡ることが出来るだろうか。なにもかもゆるしゆるされる世界となるだろうか。一隅を照らす。それは開発した自己の周波数を発信し続けることだろう。この世に生まれた意味は理解したつもりではある。自分が変われば世界は変わる。先ずは自分の周りからだ。風景が開ける。そのような境涯がある。それぞれ勝手している。何も知らずに。それも仕方ないといえば仕方ない。しかし出来るだけ多くの方が目覚めることを願う。救いはある。確かにある。しかしそれを示すことの何と難しいことか。それで気づいた。見える世界では難しい。見えないところでの作業を続けるしかない。やがて皆がわかる時が来る。キリストも磔に甘んじた。ソクラテスは毒杯を仰いだ。孔子は彷徨った。インドの釈迦は八万四千の教えを説いた。彼らの夢は何であったか。いつかわかってくれることではなかったか。その後も幾多の英知が現れた。しかし現実はどうか。権力と金力と武力の支配。それで皆の幸せはあったか。なかった。皆の幸せはあるか。ある。竹取物語。何を以てかぐや姫か。世間に染まれないまま天界へ上昇したのではなかったか。月へ帰った。それは何を意味するか。清浄な世界へ帰ったのではなかったか。この世の地獄から逃れたのではなかったか。佛はいる。常にいる。姿は見えなくとも。世間はそれを否定する。知らないことを以て。そして勝手している。地獄に浮沈している。それが悲しい。さて、私は何をしてきたか。人知れず。誰も知らない。知らなくとも見えない世界は知っている。そして日月照らし風の吹く。カクネンムショウとなった。どうしようもない事実である。その意味を解する者がいるだろうか。別に解して貰わなくていい。ただ、云う。神仏は存在する。神仏を護念するものはその守護がある。刃向かうは淘汰される。永い旅をしてきたんだと思う。過去からのね。そして至りついたのかも知れない。21世紀である。この人生が何であったか。何故かくも様々な経験をしなければならないのか。それを探していた。そして至りついたのかも知れない。これでこの世に生まれた使命は果たしたのだろう。それは次なる新しいはじまりでもある。そうしたものである。自分が宇宙と連動していることを知る時が来たのだった。この世は鏡である。その意味を知る時が訪れたのである。これが禅譲であったのであろう。木々は木々の命がある。鳥には鳥の命がある。魚には魚の命がある。人間には人間の命がある。脈々と伝えられてきた。これを成就したものがあるか。常々試されている。どちらへ進むのかと。信じた道があるなら、進むしかない。それが冒険であり、自由である。ここまで来た。進むしかない。

世間虚仮 されど輝く 秋の月

午前8時30分王舍城着。快晴。風もなく穏やかな朝である。送迎マイクロバスの確認をした。9月16日、17日にはここで教主先生御生誕祭があった。杜フェスとして中村あゆみさんも来た。岡山交響楽団の演奏もあった。台風13号が来襲して周辺では被害もあった。しかしここへの直撃はなく、無事、コンサートを開催できたのだった。衆生の愉楽するところとして日々整備がなされている。遊歩道も完成した。とても空気がいい場所です。こころの平安を得ることのできる所です。太陽はやさしく降り注いでくれています。まるで春の穏やかさです。

巷ではテレビは民放を見るためにあると言います。NHKは見ないと言います。 NHKはむしろ会員制にして受信料を支払ったものだけが見ることができるようにするべきだと言うのです。電波を流しておいて皆に受信料を要求するのはおかしいと言います。このあたりがどうにもならない感性の違いです。公共性の感性の欠如と云うべきかと。むしろNHKを自分たちのメディアとしてとらえることはできないものか。ここを本末転倒の一端と申したい。理論的には巷の意見が正しいのかも知れない。しかし、理論だけで社会が成立しているのではない。公共性ということがある。理論ですべて割り切ることはできない。むしろ自分勝手な議論が横行することになる。全体の利益というものがある。それが公共性である。もちろん全体主義ではない。市民としての全体の利益である。周りが幸せとなればその中の自分も必ず幸せであるとするところである。ここに受け皿としての憲法13条の存在理由がある。合理性の名で過剰自己主張していないか。自己の利益だけを立論根拠としていないか。結果全体の利益が縮小して自分で自分の首を絞めることになるということに気づいていない。NHKがなくなるとクラシックファンはさぞ悲しむでしょうね。しかし当面の権利の上に眠り、社会の腐敗に対して傍観してきた方々のツケは支払わねばならないのかも知れないね。これまでの社会はね、しばらく、そのリーダーが本末転倒していた。かれらが自由を得てかれらの自由の名において横暴を極めた。しかるべき存在あるいは良識は社会の片隅においやられた。あるいは傍観した。全体としての市民社会の利益のために総点検する必要に迫られているのかも知れないね。

さて、王舍城ツアーですが、遊歩道を散策した後、海の見える杜美術館で竹内栖鳳を見ました。そして彼の写実主義を実感したのでした。その後、昼食をとった後で子供たちとクイズをして遊びました。名前を見て貰っている人もいました。それから子供たちを預けて宝殿へ向かいました。新たな発見をたくさんしながらお開きとなりました。その時、空には王舍城の真上に後光がさしたのでした。

ところで、これまで何度不思議なことがあっただろう。単なる偶然あるいは自然現象だと思っていた。または被害妄想かと思っていた。しかしね、此処へ至って確信したよ。何を確信したのか。それはね、汝自身を知れってことだったんだね。汝自身って何だろう。説明不能だね。大円鏡智。両足尊と十方の佛。見られてるよ。導かれてるよ。自分の良心に素直になった方が楽だね。自由は自由が切り開く。人は知らずも。世間に負けてはならない。餌食となっては悲しい。しかしね、早く気づいた方がいいね。これまでの餌食は餌食ではない。神仏の守護し給うところである。下手に餌食にしているとね、怖いよ。何故だろう。真実が目覚めたからだ。これから敵と味方がはっきりする。どちらにつくのか。敵は容赦しない。いままでとはちがう。蔓延る思い上がりは正される。時は満ちた。本末転倒愚かなリーダーたちの振り子が振り切れるのを待っていたのだった。知性真実が大暴れする。そういう時節の到来である。秩序を紊乱するあらゆる暴走族には去って貰う。宇宙自然生命黄泉の秩序を回復する。未来及び地球のために。実体のない身分に安住するものたちにも去って貰う。あらゆる欺罔はこれより一切通らない。銀行高利貸し業務もしかりである。本来の価値を無視する利益馬鹿に用はない。他を欺罔するを手段とし利益を上げるを要領の良いとする、正直の犠牲の上に利益を貪る方法論が知性ではない。テレビ界がその象徴である。勝手に勝ち組などと絶対に言わせない。いつまでものさばらせはしない。卑弥呼の系譜邪馬台国大和は何時までも騙されてはいない。ところで、王舍城では桜が咲いていました。

静かに歌う君が代と闇より来たる声のしてこの世の春に桜花咲く

この世をば我が世とおもう望月の夢の目覚めん時ぞ来にける

時は来て庶民の解放果たさるる商人欺罔一切通らず

平和こそ願いとなるか庶民なる何を以てぞ権力といわん

主権まで譲りたるは覚え無し主権在民その意あらわる

わからぬは所詮わからぬ掟なりそれでもわからぬは黄泉ぞ裁かん

涙涸れこの世の現実見通すか一切大衆救われゆくかも

愚かなる愚かなる哉エゴたちの腐敗増殖これにて終わる

一網打尽エゴたちの暴力これにて終わりけり

カクネンムショウ春ぞくるこの世の春をたれぞ楽しむ

我思う思うが故に我ありてあらゆる学問われを目覚ます

代々の代々の道はかくなりて道は開ける世は定まる

2006年10月28日

結論

今日の朝日

今朝の日の出も素晴らしいパノラマだった。しばらく風は吹くのだが、雲は動かない。時は止まったかのようだ。静かな風景である。これから始まる準備をしているかのようだった。はじめに現れたのは、「二」という字に見えた。それがはっきりと「一」となった。それが二回繰り返されて、いよいよ日の出だった。力強い日の出だった。そしていつまでシャッターを切っても写真となるのだった。あまりにも高貴な日の出だった。帰ってパソコンに取り込んで驚いた。太陽が「十」を示しているではないか。双十節の話がある。九は神の数字である。十は佛の数字である。佛の時代の到来であろうか。そのように思われた。真実の佛である。あるいは久遠の佛である。従来の寺は力を持ってはいない。真実の仏法が現れるための準備をしていたに過ぎない。ビジネス僧侶に用はない。木の間透かしの太陽は何に見えるだろう。虹彩に見えないだろうか。あるいはコスモスの中の太陽かな。新しい時代が始まったようだ。さて、そろそろ結論に至ったようである。永い遍歴であった。しかし、道は求めて歩むべきものだね。要は精錬だった。精神のね。まだまだ完成してはいないが、その設計図は得た。それは何であったか。本来無一物というべきか。それから何が出てくるのか。全ては因縁であると思われている。しかし全ては縁である。縁次第である。原因があれば結果がある。その間何があるか。それが縁であり、関数だ。この世はすこぶる面白い。全ては縁次第である。原因は自分。その原因に対して結果がある。悪い自分があって悪い縁があれば悪い結果となる。善い自分があって悪い縁があるとどうなるか。悪い結果となる。悪い自分があって善い縁があればどうか。善い結果となる。これで自分がどう生きるべきかわかる。平等の意味もわかる。自分は原因であると同時に、他者に対しては縁となる。そして重要なことは、宇宙の中に地球があってその上に自分がいる。すなわち、自分は地球であり宇宙である。過去があって今があって未来がある。すなわち、今は過去であり未来である。三世を見通すという。そのためにはどうするか。今を見ればいい。今自分がどうあるべきか。これで過去も未来も解決する。自分次第である。いい時代になった。本来無一物である。何があってもいい。しかしルールがある。それを破ればどうなるか。しかるべき結果となる。それだけのことである。聖書にいう。日のもとに新しきこと無し。今も昔も未来も変わりはしない。現象として違って見える。しかしその本質は同じである。時代は流れた。流れに乗るしかない。しかし悪は悪の結果を産む。善は善の種である。悪が善となるには縁である。これがこの度得た結論だ。何がいいか。すべてゆるせる。結果無価値をも赦せる。それでいい。ここを鈴木大拙氏は泥棒もいるから面白いといった。しかし自分が泥棒となるかどうかが別論であることは当然である。縁無き衆生は度し難し。道元は言う。昔より縁無きことを恨みよ。真実を前にかたくなになると損だよ。でも聞く耳無いね。孔子曰く、耳随う。さて、みなさま、お幸せでありますように。過去と未来はつながりました。(おわり)

カクネンムショウ

昨日は、仏所王舍城で善業でした。遊歩道の清掃をした後は、専ら落ち葉集めでした。土を作るということで、腐葉土にするために。白糸の滝を見てきました。はじめてのことでした。こんなところにこんなに大きな滝があるとは驚きでした。広島城は鯉城ですが、鯉の滝登りということがあります。ふとそれを思い出させる滝でした。さて、どんな時にも人を支えている土となる自覚を以て、佛より金持ち神となったとの宣言を得た方が居られました。白糸の滝の麓で落ち葉を拾いました。落ち葉は既に土になっている部分がありました。黒い土です。これが本当の土なのだと思いました。万物を産み出すのだと思いました。さて、孟子から直系七十四代目に当たる方から書が届いたといわれています。それが「天徳降臨於斯地 衆生請来王舍城」と石碑となっています。これをどう読むか。それにしても、今日も秋晴れ、いい一日でした。まるでカクネンムショウでした。このカクネンムショウの本来の意味がわかる人はありますか。我思う故に我ありあるいは隻手の音声です。夜になって三日月も明るくある意味で不気味に夜空に輝いておりました。やっと人生の春が来たなと思うのでした。マーラーは言いました。何時か私の時代が来る。あらゆる夢を失ったかのような人生でした。しかし究極の夢をつかんだのでしょうか。すなわち、日月照らし風の吹く。川原石港に白赤のクレーンが台船に乗せられて繋留されています。それを真ん中にして遠くに二本の煙突から炎が上がります。まるでロウソクの灯のようです。その時、何を感じたか。白赤のクレーンは日本を象徴している。それを供養している。嘘はないかと問いました。黄泉の計画は成就したのでしょうか。この秘密を理解するものがあるのでしょうか。例えば噴水も反応するかのようです。単なる偶然でしょうか。偶然というにはあまりにも確率が高い。宇宙自然生命黄泉が反応するのです。犬猫も随います。あらゆる生命が喜んでいるかのようです。喜んで命を捧げてくれるかのようです。この事実をどう解釈するべきか。何もかも奪われたように思われます。しかし奪えないものがありましたね。それは何であったか。天にツケはついていますよ。人間及び世界はどう反応するのでしょう。一括請求です。 人類は救われたと思われます。何故か。黄泉が善を選択したからです。それへ至る旅がどれほど熾烈であったことか。だれも知りはしない。しかしそれは成就した。天がそれを証明している。まだ刃向かうか。ルパン三世の歌がある。ワルサーP38、抱かれたものはすべて死にゆく。さだめなのさ、ルパン三世。天の計画は成就した。21世紀の約束は果たされた。宇宙自然生命黄泉は約束を果たした。であるなら、次は誰が約束を果たさなければならないのだろうね。神は死んだ。そして復活した。そして獅子の如く山より降りてくる。ところで『海辺のカフカ』が何故受賞したのか。謎だね。日本文壇が何故反省したか。謎だね。謎のままでいい。次は誰が反省するべきか。テレビ界及びマスメディアだね。まだ自己主張している。覚悟はあってのことだろうね。これ以上、日本及び世界を破壊させはしない。

ところで、この写真は何でしょうか。平家納経断簡です。今、これはどこにあるのでしょう。何故それはそこにあるのでしょう。世間一般いつまでも愚行を吹聴しない方がいい。

2006年10月27日

祝福

究極の解決を庶民レベルで出来る時が来た。佛の故である。かつてインドの釈迦、キリストが果たした解決である。彼らは既に知っていた。私たちは知らないままここまで来た。それが庶民レベルで開かれたのです。五欲を断ぜずしてと法華経にあるその解決です。しかしそれを信じようとしない。探そうともしない。無理もないところです。知らなかったのですから。そして経済的なことが全てだと思っている。しかし道元は既に貧学道を説いていた。われわれの解釈と佛及びキリストまたは道元の解釈とどちらが正しいでしょうね。それでも信じない。しかし佛は一切大衆を救うことに決めたという。ここですね。世間虚仮と唯仏是真。友達は偉大だという。その友達のレベルは如何。佛レベルだろうか。ここに佛を縁とすることの大切さが見えてくる。私たちは本当に幸せになりたいと思っている。なのにそれを探そうとしない。低いレベルで右往左往している。嘘であるから真実の救いの結果はない。友達も慰めに過ぎない。究極の解決はない。真実であるなら本当の幸せの結果が来る。本当の幸せって何でしょう。神仏に受容され祝福されたいとは思いませんか。そして守護されたいとは思いませんか。衆生功尽きて大火に焼かるるとみる時も我が此の土は安穏なりという佛の約束を味わいたいとは思いませんか。ギャーティギャーティハーラギャーティハーラギャーティボージソワカ。般若心経の呪です。どういう意味でしょう。ゆけり、ゆけり、われはゆけり、ここだ、ここだ、ここだったんだ、ここが彼岸だったんだ。ベートーベンの喜びの歌に等しい。難しいことはない。ただ自分解釈が邪魔をする。教えを素直に聞いて実行することでだれもがゆける。ただ自分の計らいが邪魔をする。仏法です。佛の見つけた真理です。それが開示されている。時が来て庶民レベルに開示されている。自分と佛とどちらが正しいか。しかしわからないことをもって佛を否定する。愚弄無視破壊する。お笑いにする。それが人間レベル。佛はそれもお見抜きお見通し。それでも救わんとする。忍の一字である。いくらラジオで知ったようなことをいっても虚仮は虚仮だよ。究極の解決はない。祖先の供養が出来ているか。従来のお寺には本当の力はない。やがて真実の仏法があることを伝えたに過ぎない。かれらの供養は祖先を救ってはいない。祖先を救うに方法がある。それは薬としての御法妙を贈ることだ。それは佛の定めた文字である。その御法妙は真実の御経典である妙法華経の音声に乗って見えない世界へ届く。妙法華経は見える方へも見えない方へも届くお経である。それが法華経に秘められていた。釈迦入滅後2750年経ってそれは現れることになっていた。それも現れた。そういう時代である。知らないよね。知らなくても真実は真実です。禅の悟りも知らないよね。それで大きな事を言っているのがマスメディア。それでいいと思いますか。何が今必要なのか。あなた方が真実に対して敬虔謙虚となることですね。少なくともお笑いにはしないことです。サンクションありますよ。何故か。黄泉も目覚めているからです。いつまでもこれまでと同じと思わないがいい。時は代わったのです。まだわかりませんか。黄泉の意思がまだわかりませんか。神話を事実だとは思いませんか。いつまでも低いレベルの勝手な解釈を増殖して貰っては困る事情があるのです。人類の未来のために。

2006年10月26日

収穫

さて、既に語るべきは語ったように思う。昨年の11月26日に始まった自己確認の作業も完了のようだ。これでやっと私は復活できた。この作業がそのために必要だった。今となっては懐かしい。ある意味で、辛い作業だった。しかし得られた成果は大きい。いつも感じていたことではあった。しかし表現できない内容であると思っていた。しかし時代が要求したようである。この作業の真義はやがて明らかとなる。時代を切り開いたことがわかる時が来る。もうこれでいいのだと思う。真実は既に開示されている。その存在を知らしめんとしたに過ぎない。大きな収穫である。私一人の力で成したことではない。いつも見守られ導かれた。ラジオがそれだった。ある時は、『月の砂漠』が流れて涙したこともある。ある時は『ウィンザーの陽気な女房たちが』が特集された。あたたかい配慮を知っている。感謝している。私は棄てられてはいなかった。そして重要な仕事を果たしたと思っている。私にしかできない仕事だった。もう果たし終えたよね。 正統嫡流大和の精神は示した。後はスタッフ一同にお任せ申し上げる。さてダルマは面壁九年、法を二祖に譲ると、とっくりをぶら下げてよたよたと天竺へ帰った。その姿を見たものがいると伝えられている。父は昭亮(アキノリ)、昭和二年三月七日に生まれ、平成元年五月二十二日に没した。十六歳で海軍に志願し、赴任地はカムチャッカであったと聞いている。復員後はしばらく網走にいた。秘密開示である。父の密かな御名御璽を聞いている。これより一切言語道断。勝手はゆるさない。我らよりうばいもの、返して頂く。ゆるしはしない。また、何故呉で仁義なき戦いがあったのか。謎であろう。無記とする。ところで、高校で世界史を教えていなかったとか。この国際社会に何を思ったか。学校日本史は私にとって一面的であり、嘘が多い。大学の教授は何世迷い事を学生に講義しているのか。仮説は仮説である。真説ではない。

満天の星は夜空に見えねどもオリオン静かに秩序してけむ

さて、今朝の日の出です。場所は野呂山。空海も見たであろう日の出です。日が出た瞬間、飛行機が銀色に輝いて、まるで彗星のようでした。

天気予報ではくもりとか。しかし、当地方(呉)はとてもよく晴れています。9:50am さて、一ついっておこう。現代のオピニオンリーダーは悉く無神論者のようだね。それもわかる。何故って、かの第二次世界大戦を経験した方々だから。吹くとした神風は吹かなかった。それで、アメリカから入った民主主義と自由主義に染まった。しかしね、既に申したように、かの大戦の愚行は明治の帰結だよ。そしてね、明治は江戸の無血開城を裏切った。その延長戦だ。神風が吹くはずもない。正統大和を裏切っていたのだからね。だけどね、卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本は本来古来神国だった。しばらく眠らされていたのだね。しかしその毒の針も抜かれた。さて、不傷害の徳がある。これがそのまま孔子の言う我が身を大切にすることだった。どういう意味だろうね。そして佛のいうには悪いのは全て自分である。善いことは全て佛のおかげである。どういうことだろうね。さらに、親鸞は佛は只自分のために法を説く。どういうことだろうね。そして、自分が変わることで世界が変わる。わかるだろうか。まねをするということがある。ここから学ぶということがはじまる。悪をまねるのか。善をまねるのか。まねるにははじめに誰かがいないとできない。そのはじめって、何だろうね。ところで謝るところからしか入れないという。わかるだろうか。何を謝るのか。それぞれ平等に見えるね。しかし、それぞれ守備範囲が違う。それぞれ何を謝るのか。それぞれの問題である。何を謝るかに気づいた時、汝自身を知ったことになる。これが禅の悟りでもある。なかなか至れない道理である。それで、何があってものらりくらりとなった。腹は立たない。何故か。ゆとりができたのか。どういうゆとりか。所詮、わからないのだねと。ここより、あはれである。慈悲も出る。わからないのなら仕方ないではないか。今まで、皆、わかってくれていると思っていた。ここが間違っていた。ここを謝るべきか。どのようにしたらわかるのだろうか。一隅を照らす。おのずから空気を変える。空気が変わる。自分次第だね。すべては因縁だという。悪因縁を作らないこと。悪因縁を解決すること。人はこれを信じない。信じることからはじまる。信をもって入ることを得たり。さて、どうするのかな。 インドの釈迦入滅後2750年後に真実の仏法が開かれるとあった。それも実現した。もとより佛である。嘘はない。しかし信じない。わからないから信じない。真実の救われる道はある。代々伝えられていた。しかし探そうともしない。地獄に浮沈しているのにそれに気づけない。救われようとは思わない。これでいいのだと思っている。これが人生だと思っている。三途の川で草鞋銭を請求されるよ。この世で処したことが問われるよ。お金では支払えないよ。祖先は戒められている。それを解決する方法がある。あるのだけれど、真実は求めなければ得られない。天は自ら助くるものを助く。しかしそれも信じられない。神も仏も信じられない。あはれだよね。それもわからない。人のことはどうでもいいのかも知れない。先ず自分を解決することか。何故か。悪いのは全て自分が原因だった。全て自分だった。自分が変わることで世界が変わる。人を恨むことはない。社会を恨むことはない。過去からの自分がいる。過去を解決するしかない。その解決を得れば、自由となる。人を導く。何処へ導くのか。真実へ導く。そしてどうするのか。業をして貰う。その人も自分の解決をして貰う。個々の問題は自分でなければ解決できない。佛といえども解決できない。佛はその方法を教える。その方法へ導く。佛の法が信じられない時代である。導くこと自体が難しい。興味は示す。だが信じない。これでいいのだという。このまま平穏に生きることが出来ればいいのだという。本当にそれでいいのだろうか。過去を解決して未来の約束をしないか。出来る時代となった。すでに実験済みである。かつて釈迦がいた。孔子がいた。ソクラテスがいた。キリストがいた。今それが庶民に譲られた。だれもが釈迦になれる。孔子になれる。ソクラテスになれる。キリストになれる。時代が追いついた。今そのチャンスなのだ。この機会を逃せば、今度それが可能な時代は、再び、二千年後のことだろうか。魂の遍歴がある。魂の同時代性がある。世界は既に地球である。かつては地中海だった。人類は進化している。地球も進化している。時代も進化している。過去も未来も今でつながる。祖先も子孫も自分でつながる。今、自分が解決する。未来は明るい。その方法が開示されている。探すべし。探し物は何ですか。探せば何時か見つかる。一つの問題を解く。次の問題が来る。それを亦解く。次の問題が来る。最終の問題は何か。一天四海皆帰妙法。身で犯した罪は身に帰る。心で犯した罪は心に帰る。過去よりの罪である。これを解決する。それが出来る時代が初めてやってきた。今自分が自分を解決する。過去よりの悪因縁を成仏させる。一切大衆を救う。救う側に立つ。救うものは救われる。護念するものは護念される。神仏より護念されるかどうか。選ばれた存在とはそれをいう。自分にはそれは出来ないと思うかぎり出来ない。出来ると思う時方法が見つかる。目的・手段である。筑摩先生に教えて頂いた。目的が定まれば手段は見つかる。心を決めることだ。心を決めれば方法は教えてもらえる。これを起菩提心という。貧しきものは幸いなり。どういう意味か。お金があると不善を為す。貧することで神仏を求める。貧して超えることが出来る。神仏との邂逅が来る。そして全てを知る。そのためには貧するだけでは駄目だ。知性を要する。愚かでは悟れない。また、神より奪いしものがある。神のものは神の手に。シーザーのものはシーザーの手に。掟である。宇宙自然生命黄泉に秩序あり。それを勝手に犯すのが人間である。よって地獄に堕ちる。地獄に堕ちて地獄にあることを知らない。むしろそれを人生だと思う。悲しいね。真実が現れた今、いつまでも今まで通りと思わないがいい。サンクションがすぐに来るよ。真実を愚弄しないがいい。真実をお笑いにしないがいい。ただ神を畏れよ。キリストの言わんとした全てである。神はいたって感情的だ。神に気づかれた時が年貢の納め時だよ。神仏は三世を見通す。心の中までお見通しである。神仏の前に隠せはしない。神仏は実在する。当分の間、気づかないふりをしている。騙されたふりをしている。しかし騙されはしない。騙されているのはあなた方である。事を処するに時がある。その時を待つ。神仏がひとたび動けばどうなるか。黄泉が随う。この世はジュピターのさじ加減である。よって神は畏るるべしとなり。いつまでこれまで通りではない。よくよく申し置くべき候。真実が目覚めている。仏の顔も三度までである。・・・再び羅刹の夢だろうか。このようなことを思っているかぎり、羅刹は孤独である。誰も相手にしてくれない。話が難しすぎる。羅刹のこの悲しみがわかるだろうか。さりとて世間に染まれはしない。夜になると港で海をみている。時に涙することもある。羅刹が涙すればどうなるか。突然天気予報が変わる。羅刹も世に惑わされた。羅刹を惑わした罪は重い。しかし羅刹に自覚が来る。自覚が来れば惑いはしない。羅刹が自由となる。それが羅刹の自覚である。

我が身を大切にすることについて

孔子は我が身を大切にすることを説いた。それはどういう意味だったろうか。死んで花実が咲くものかだろうか。命あっての物種だろうか。こうした表現では孔子の心はわからない。エゴのにおいがしている。身体を利益を産む財産と思っている。孔子は知っていた。あるいは気づいていた。何を知っていたのだろうね。何に気づいていたのだろうね。地球も宇宙も我が身とリンクしていることに気づいていた。我が身を大切にすることはね、そのまま地球と宇宙を大切にすることだった。これが仏法では法身ということになるね。我が身が地球であり宇宙である。だから我が身を大切にする。すでに孔子もインドの釈迦も気づいていた。今頃になって私たちも気づく頃となったのだね。そして佛の思いとして大切なことがある。それはね、一切を私たちに譲るということ。何を譲るのかな。悟りであり、悟りへ至る道すなわち方法だよ。誰だって佛になれる。それを譲ると。これが代々伝えられた秘密だったんだね。しかし人間は何をしているのだろう。佛を別の存在と思っていないだろうか。そして人間だからと好き勝手している。地獄で結構とばかりにあらゆる犠牲の上に自らの生存を保とうとする。それが人生だと思っている。テレビ界などその最たるものだ。佛の気持ちは那辺にあるか、考えようともしない。仏説の何処に戦争を正当化しているだろうか。そしてね、キリストもそうだ。彼のキリストとなるまでの三十年は謎だ。そして最後は磔に甘んじた。そして神となった。いろいろと伝説となった。キリストの思いは何処にあったかな。だれもがキリストになれるんだということだったのだよ。すでに二千年経過した。そしてその意味がやっとわかってきた。わかることをもってこの二千年は完結した。これより新たな二千年が始まると言っていい。この二千年間何をしてきたのかな。やっと時代は彼らに追いついたのだね。だから、どのように生きたらいいかわかるよね。かつての神話は事実だったのだよ。誰もがその力を知っていた。今、忘れてるね。あるいは無視愚弄破壊したね。しかし真実は真実実在する。反省するべきところだよね。教育は大切だよ。教育はね、出藍の誉れだ。こうして学んだことから真実を知るのだね。真実だよ。疑えないよ。しかし学んで、経験して、そして真実は真実となる。これでも疑うかね。知らしめられたいのかな。神仏が怒ったら怖いよ。恐竜だって滅ぶのだよ。

本日も夜の港は穏やかです。などかやさしいコオロギの声です。ふと気づくと静かに寄せる岸壁の波音です。波はなめらかな鏡面をなしています。街灯の灯が映っています。遠くの製鋼所からはいつものように炎があがります。アオサギの一声は今宵はありませんでした。いい日です。いい時代です。傲然として持せずのやせ我慢ももう終わりにしましょう。現代に於いては、経済が無くては、一切大衆を救えませんね。我が経済の立て直しを考えることにします。しかし神仏との邂逅は貧なくしては果たせないと思われます。道元の貧學道です。ヨブ記です。まだやせ我慢でしょうか。

 

●富を得る秘訣
≪そこでイエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』 と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、 だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、 あなたがたの過ちを赦してくださる。≫(マルコによる福音書11-23/24/25)

≪イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、 貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」≫ (マルコによる福音書10-21)

≪イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」≫ (マルコによる福音書10-27)

そして、≪まだ想像の段階でしか所有していないものに対して、こころから神に感謝できる人には確信があるのです。その人は、 求めるものがなんであっても創り出し、豊かになっていくはずです。≫(フォレスト出版刊『富を手にする「ただひとつ」の法則』 p78)

だが、≪それらよりもなお、わが子よ、心せよ。
    書物はいくら記してもきりがない。
    学びすぎれば体が疲れる。
    すべてに耳を傾けて得た結論。
    「神を畏れ、その戒めを守れ。」
    これこそ、人間のすべて。
    神は、善をも悪をも
    一切の業を、隠れたこともすべて
    裁きの座に引き出されるであろう。≫(コヘレトの言葉12-12/13/14)

さらに、≪忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、 主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。(ヤコブの手紙5-11) ≪だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、 効果をもたらします。エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、 三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。 わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。≫ (ヤコブの手紙5-16/17/18/19/20)すなわち、ヨブは悔い改めることにより、祈る力を得た。 そしてその力で主の怒りに触れている友人のために祈った。そして主はその祈りを受け入れ、祝福した。 ヨブは裕福になり恵まれた晩年を迎えた。これが富を得る秘訣である。

 

2006年10月25日

幸せの種

この世の幸せは、何だったんだろう。権力でも武力でも金力でもなかった。今時は流れて、真実の幸せの形が顕れつつあるのかも知れない。自然の中で神仏の守護を得て生きることだ。日本には昔よりそれがあった。この汚れた世界に、日本に清廉潔白がある。世間に染まらず種は残っていた。神仏の守護し給うところであった。

大いなる自由は開けた。ある存在が自覚を成就することで、世界一切が目覚めた。本来の価値が復活した。正統嫡流日本の伏流である。この世の秘密が開示された。今までもそうであった。しかしこの自覚がなかった。世間一般、何をしてきたのか。この秘密、知るものあるか。過去は清算された。何をしてもいい。本来の自由はフォルテあるいはピアニッシモ。フォルテは思いっきりの演奏であるが法を超えない。ピアニッシモはパッションを秘めたままの微音。さて、これから何をするか。選択肢の多いのも困ったものである。人生いよいよこれからである。 新しい時代の波である。乗り遅れないように。

本末転倒してしばらく忘れていたことがある。それは何か。人格、品格、家の格。代々培われた精神。それらを愚弄無視破壊して社会の発展はない。世のバラエティ番組の方向性はそれを好むだけでお里が知れる。敢えて言う。時の満ちたが故である。自由の名において勝手が過ぎた。おのが学業成績を思い出すがいい。真実オール十がもの申す。本来の自由及び本権の名においてこれを批判する。世界史に於いて、王の目、王の耳ということがある。聖書には閨房でも王を呪ってはならない、小鳥がそれを運ぶからとある。文字だけが遺るのではない。発した音声も空中に遺り漂っている。悪事は隠せはしない。悪事千里を走る。映画『太陽がいっぱい』では死体が浮く。そうしたものである。権力及び金力の限界である。世の自称セレブたちよ、スネに傷はないか。神通力というものがある。誰にもある。気づけないだけである。開発しないだけである。どのようにして開発するのか。仏道によって開発する。王とは何か。これに答えることが出来るか。宇宙の王は佛である。宇宙有無開閉の四大原動力が賦与されそして託されている。その言葉はロゴスである。黄泉が実現する。王の感情は不条理である。すなわち活殺自在。地球を蹴飛ばすことも出来る。それでも王の感情に背くか。魑魅魍魎は去るべし。あなたがたの勝手の時代は終わった。神佛を怒らせないがいい。・・・まるで姿を変えたドンキホーテだね。

あらためて人々の願いは何だろうね。それが大義名分となる。佛の願いは一切大衆を救うことにある。戦争しなければ生きてゆけないなんてばかばかしいよね。強きが故のやさしさを知ってのことかな。それが本来の武士道であり大和魂だ。この武士道及び大和魂を知らない方々の天下がしばらくあった。無神論者リーダーがそれだった。それで野蛮腐敗した。魑魅魍魎が自由の名で勝手した。明治は廃仏毀釈した。廃藩置県はもういい。明治以降の野蛮は克服される。明治を過大評価するべきではない。通過点である。きっといい時代が来る。何時のことになるかはわからないけれどね。人類は確かにその方向へ進化している。それに棹さすとどうなるか。痛いサンクションが来る。今どういう時か。茶色い戦争ありました。その悲しみを知っている。そこから這い上がり立ち直った。戦争を知らないなんていわないことだ。代々の全ての経験はDNAに記録されている。仏法では正憶念という。勝手なことは云わないがいい。良心がある。従えるかな。

ある若い女性がいる。ダンスが好きで毎夜練習している。路傍で。彼女の夢はダンスの先生になることだ。 メジャーになることだけが若者の夢ではない。屈託無くて明るい。目はとてもやさしく輝いている。彼女もテレビは見ないという。 若者たちが何を選択しているか。かれらは時代を選択する。それを無視して政治も経済も教育もない。彼らのささやかな夢が叶う時代がいい時代である。庶民の夢である。苦しい時代はもういい。悲しい時代ももういい。十分に時代は進化した。ここを認識することだ。すでに神仏は三世を見通している。故に神仏である。時代の流れはどのようであるか。見えているか。

言葉にも文字にも段階がある。レベルがある。最高レベルはロゴスである。はじめに言葉ありきのそれである。ロゴスは実現する。刃向かえない。諸佛諸天善神の守護するところである。一般の言葉は概念に過ぎない。概念は言葉ではあるが精神がない。ロゴスは精神である。魂の奥底より出てくる。それは宇宙に伝搬する。宇宙がそれに応答する。現象として顕れる。それに気づく者は希有である。あらゆる芸術家はその可能性を知っている。故に芸術家である。ミュージシャンがそうである。詩人がそうである。人間の進化はやがてそれに気づく。聖書も法華経もロゴスである。代々伝えられた。しかしその意味を解する者は少ない。各時代にそれに気づく者が現れる。ダイヤモンドの如く。利権は駄目だ。エゴも駄目だ。経済至上主義も駄目だ。今、空海も手にしたであろう金剛杵は誰の手にあるか。しばらく眠っていた力である。しかし時は満ちてその力が世に現れている。今まで通った悪はこれより通りはしない。こころすべきところである。万物同根?神仏同根!己の前世は何か。文理真正。真実証明。露堂々。隠せはしない。大岩は砕かれた。本来の自由が流れ始める。正直の故に虐げられていた善良な庶民の自由である。それが解放された。(2006/10/25 23:56 NHK-FMでロックのライブを聞きながら)これに刃向かう無し。刃向かうは黄泉これを成敗す。宇宙自然生命黄泉に秩序ある。その秩序の中で幸せに生きることが出来る。これを無視破壊するは、言語道断。淘汰あるのみ。しかしこれまではしばらくそれも通った。何故か。しかるべき存在の自覚を待っていたからである。これよりそれは通りはしない。

2006年10月24日

人として生まれて

八万四千の骨節及び細胞がことごとく目を覚ます状態が悟りでしょうか。禅者が墨で文字を書くと何かが違う。顕微鏡で観察すると墨跡が秩序正しく美しい。これは何故でしょうか。おそらく独特の周波数が発せられているのですね。それでそのような人が存在しているだけで意味がある。すなわち空気がなごむ。地の塩というべきでしょうか。あるいはこれを以て一隅を照らす。そうした境涯が開けるのだと思われます。そこが修行ですね。かつてこうしたことがむしろ常識だった。それが日本だった。いつの間にか忘れたね。忘れたのだったら思い出せばいい。職人及び芸術家もこの周波数を開発した存在といえるのでしょうか。そうしたことをあまりにも無視していたのではないですか。そしてこの件に関しては、生まれながらにということもある。魂の遍歴のなせる業ですね。努力の外です。そうしたこともわからないままの教育あるいは親だった。子供の才能は持って生まれたものだけれどそれを開発するにはこうした理解も必要ではないですか。自分にわからないからとあまりにも粗末にしてきた。そして自分のわかる範囲での文化を推進した。その結果はどうでしょうね。だれも納得のゆく状態ではない。何故でしょうか。昔より物語の形でそれは伝えられていた。どうしてクラシックとして伝わっているのでしょうか。見えない力のなせる業ですね。くだらない作品は淘汰されてきた。しかしわからないものたちはそうした評価もできず自分勝手な解釈で自分勝手な文化を現実だと思っている。それでいいのかどうか。あまりにもその愚が蔓延った。テレビの影響は大きすぎる。衆愚がきわまり真実が見えなくなった。しかし種はある。種であるならいつかは芽吹く。神話の世界も真実だったのです。人生は感性で完成すると云っていい。自分のあるべき姿をイメージすることです。本来の自分に戻ることです。本来何もない。何もない自分はどういう自分であるか。強くなければ生きてゆけない。やさしくなければ生きている意味はない。このやさしさだけで生きてゆけるかどうか。生きてゆけるのです。そこを見つけることができるかどうか。禅者のみつけた悟りもそれだった。ダルマ直伝もそれだった。それを伝えるための西来意だったのです。別に来なくてもよかった。風の吹くままだったろうと思われます。鳥のように生きることができる。日々食は与えられている。もしそれがないのなら生きてはゆけない。しかし人間は蓄える。なんのために蓄えるのか。風も水も光もあって生きてゆける。蓄えるから生きてゆけるわけではない。どうしてこのようなことになったのか。殺戮など何故繰り返しているのか。愚かなリーダーが出るとどういうことになるのか。歴史とは何であったのか。大英博物館の所蔵品も殺戮の歴史を物語っている。それでいいのか。禅は赤子のような心にならなければわからない。生きて何を見つけるべきか。未来へ向けて。生きてゆくとはどういうことか。百代の過客として。本来何もない。何もなくてこの世の主人公である。すなわち日月照らし風の吹く。この事実現実を如何せん。宇宙自然生命黄泉に秩序がある。これに受容祝福されることで生きてゆける。これに背けば枯れる。しかしそれに背く。背くが人間の傾向である。しかしその向こうに真実がある。そこへ至る道が仏道だ。かつて日本にはそれがあった。今それは日本にある。もう一度見直すべき道である。いつ見失ったのか。ペリー来航以降のことである。それまで日本は精神において偉大な進化を果たしていた。それを一夜にして失ってしまった。インカが滅んだに等しい。色々な解釈がある。しかし解釈はおのれのレベルを超えることはない。それより上はわからない。わからないなら謙虚であるべきであろう。いつまでも真実を愚弄破壊できない。胡蝶の夢は夢であるならいつかは醒める。神仏を知らないことを以て神仏を愚弄した。その結果が今である。もう一度取り戻すべきは何か。敬虔である。神は実在する。神を見たいのか。それはヨハネの黙示録である。見たくはあるまい。神とは宇宙自然生命黄泉の化体である。宇宙の四大原動力すなわち有無開閉の力を持っている。神の意志は実現する。黄泉がそれに従うからである。これが神話の世界に伝えられていたことだった。神を見たいのか。見たくはあるまい。しかし仏の顔も三度までと決まっている。あまりにも本来の価値を粗末愚弄破壊しすぎた。それぞれおのおのその犯した罪は償わなければならない。勝手が過ぎた。神の力を持ってすれば地球を蹴飛ばすこともできる。恐竜を滅ぼすこともできる。思い上がり勘違いしていないか。人間がどれほどのものか。しかし神は愛を選択する。代々常々そうである。だれもがいつか至る道である。400年毎の節目がある。旧約聖書にそれは秘められていた。今、その時である。千年ごとの節目もある。今、その時である。久遠の節目がある。今、その時である。故に人類進化の飛躍するチャンスである。ここに人類として何を発見し確認するべきか。これより千年あるいは二千年の計がある。眼根懺悔の意味、体験的に理解したものがあるか。すべてが整う境涯がある。解くべき謎は自分である。自分を救うのは自分である。祖先を救うことで自分も救われる。人として生まれて何を探し見つけるべきか。代々の約束がある。人間社会など蟻塚に過ぎない。

さて、今広島市牛田東2丁目のある駐車場にいる。ある仏所で宿直をしての帰りである。午前7時35分。ラジオを聞いていると日本のあり方がいい方向へ舵が切られたように思われる。気づくと西の空に一瞬の虹である。 BGMはかつてレコードよりテープにした原始心母が流れている。クライマックスあたりである。

正午である。今、広島市宇品にいる。青い空と白い雲。穏やかな一日となった。救急車が通過した。ラジオではニュースが流れている。さて、地の塩となることはどういうことだろう。一隅を照らすとは何か。宇宙の周波数に同調すると言っていい。誰もがその力を持っている。しかし誰もそれを知らない。知っても開発することはない。その宇宙の周波数を得てそれを発信し続ける。これが御経読誦でもある。この周波数は宇宙とつながっている。インドの釈迦が暁の明星を見て気づいたのもこうしたことではなかったか。宇宙秘密の力である。これを自覚できるかどうか。そのために修行がある。そのための仏道である。修行がありがたいのではない。仏道がありがたいのではない。修行あるいは仏道はこの秘密開示の方法である。だれもが至ることができる。この世を救うのか救わないのか。自分次第だ。仏が救うのではない。仏はその方法を教える。実行するのは自分である。実行すれば結果が出る。それが真実であるかどうか。問題はそれである。自分との熾烈な戦いが待っている。これを制しない限り、神仏との邂逅はない。神仏に受容され祝福されるのかどうか。至れば至福である。この世の一切を知る。自分がなにものかを知る。宇宙に浮かぶ地球である。地球の一部としての我々である。何を思い上がり勘違いしているのだろう。宇宙及び地球の意志がある。あって当然である。それを感じることもできない。生命にとって宇宙及び地球は親である。子を思う親である。親の気持ちを察してはいかがか。下手な成功が人生だろうか。精神の嵐が治まって、台風一過、清浄な視界が開ける。そうした視界をわすれないためには、時には嵐も必要なのだろうか。だれもが幸せになれる。この世に生まれた意味がある。みずから地獄に赴いている。地獄より抜け出せない。あらゆることが意味を持っている。すべてを知るために。樹木が育つには光と水と養分が必要である。光とは何か。神である。水とは何か。法である。養分とは何か。経験であろう。人間も同じだ。これまで何を思念し何を行為してきたか。それが問われている。今の自分は過去の自分の結果である。今の自分は未来の自分の原因である。どのように光を浴びるのか。どのように水を与えられるのか。縁次第といえる。神仏は子としての人間の幸せを祈っている。殺戮などせよとは云っていない。この世は鏡である。その鏡に映った自分の姿は何か。この身がそのまま地球であり宇宙である。未来であり過去である。祖先であり子孫である。種であり実であり花である。今、どのように咲いているのか。申し訳ないと思わないか。何をしているのか。人間の姿をしている。その意味では平等である。しかし、持って生まれた種は千差万別である。恐竜の時代にもチラノザウルスが現れて滅亡の道を進んだ。人類だって同じである。色即是空、空即是色。自分が色であり空である。過去であり未来である。未来を破壊する勝手なことができると思っているのか。それほど愚かであるのか。本来の価値を見失ってしまった。下手な成功に群がっている。さて見つけたこの周波数を開発しなければならないね。新しい時代の武器でもある。地球と人類の未来と平和のために。

午後三時三十分 広島市西区のあるガストにいる。さて、この世に生まれた意味は理解した。これ以上ないことを見聞した。 その他のことは過去にすでに経験していたのであろう。この世の宿題は果たしたように思う。因ってこの世に未練はない。自然があって、それに受容祝福されることがどういうことであったか。すなわち日月照らし風が吹く。亦、親鸞の云う仏は自分のために法を説くとする意味は何であったか。本来無一物。何もありはしない。魂のほかには。この魂の遍歴の一こまとしての人生である。自然があってそれに受容祝福されて生きることができるならどんなに幸せであろう。しかし世間の喧噪の渦はどうか。何故か。真実を知らずに右往左往している。何を言っても聞く耳はない。自分は正しいと思っている。大間違いの愚かさに気づくことはない。何故生まれてきたのかその意味を問うこともない。地獄の底で浮沈している。自分で出ることはない。どんなに成功したように見えてもその心は地獄である。さて、この世の宿題を果たすと、この世に未練はない。来世に再びこの世に生まれて同じ苦しみを味わおうとは思わない。魂は最後の試練に打ち勝った。それには時を要した。今世では十九の春より長い旅だった。少なくとも三十年は経過した。前世ではさらに苦しいところを通って来たのだったろう。だれもが通らねばならないのかも知れぬ。いつかは。しかし乗り越えることができた。見えるパノラマが違っている。はるか見渡すばかりである。云ったことは現実化する。私を傷つけるものがあれば黄泉が成敗する。思えば昔よりそうだった。私が悪をなせば、当然私に帰ってくる。自分に帰ることもある。周りに帰ることもある。しかしこれに気づくことはなかった。そのようなことは感じてはいた。しかし自ら認めることはなかった。そのようなばかげたことがあるものかと思っていた。しかしいつかは気づくのだった。自覚するときが来るのであった。歴史も現実もすべては一切を知るためにある。それは何であったか。ソクラテスの汝自身を知れということではなかったか。パスカルは人間は考える葦である、小さな葦であるがその葦を通して宇宙を見ると云ったそれではなかったか。デカルトは我思う故に我ありだった。それぞれの魂に階梯がある。今生でどれだけ歩を進めることができるだろう。時を無駄にしてはいないか。すでに、腹は立たなくなった。公憤もなくなりつつある。ニルバーナであろうか。悲しいと云えばこれほど悲しい人生はなかった。楽しいと云えばこれほど楽しい人生はない。これからの人生である。しかしかの悲しい人生をもう一度繰り返したくはない。あまりにも悲しかったからである。それも試練だったのだと思う。私は乗り越えた。これから多くの方々が克服するべき道は開いた。何の道であるか。知る人は知っていると思う。今更藤村のごとき小説は書けない。この世はあまりにも生きるに価しない。解決なくしては。解決とは何か。過去である。過去は祖先である。祖先は自分である。過去の解決は自分の解決である。そして未来がある。未来の種は今である。今を解決する。自分を解決する。そうすることで過去と未来がつながる。この解決を得たならば、人生は生くるに価する。それなくしては一切無価値である。これを以て、世間虚仮、唯仏是真とは云うべきか。見るべきものは見た。聞くべきことは聞いた。さて、これからどう生きるか。究極の夢とは何であったか。それは神仏と邂逅しその受容祝福を得ることではなかったか。それを得るために魂は遍歴していたのか。今生でそれを得る方法は何か。一切を仏の方に投げ入れることではなかったか。命までも。精神までも。それが飛び込んだ重さで浮かぶ蛙かなではなかったか。あるいは羅刹に身を投げたインドの釈迦の前身ではなかったか。その時どうなったか。羅刹は帝釈天に姿を変えて救ったのではなかったか。真実とはそうしたことである。この世は地獄である。地獄であっていい。地獄に咲け、火裏蓮の花。神仏と我と同根と言えるか。言い切れるか。時代も進化している。いつまで古い夢を追っているのだろう。夢も進化している。すでに時代の鏑矢は放たれた。扇の的は射抜かれている。最終関門は無事通過したようだ。テイク・イット・イージーが開かれた。

午後五時、広島大野にいる。対岸は宮島である。厳島神社の大鳥居が輝いて見える。

2006年10月23日

勝利

これほどまでとは思わなかった。随分と試されたものである。裏ジャックでもひいたのかと思っていた。そうではなかった。ジョーカーだ。勝負にならない。もう切り札ばかりとなってしまったようだ。都詰めどころではなくなったのかな。あらゆる不満は去った。一人勝ちのようである。皆がマネーゲームに浮かれ、安穏な生活に安住している間に、こちらは戦い抜いた。少々の浮かれは有ったけれどね。何と戦ったのか。秘密である。

飛ばぬなら飛ばせて見せんホトトギス

宇宙に秘密がある。宇宙に秩序がある。国鉄は何故民間企業となったか。何故公務員の地位が安穏であったか。今はどうか。夢は破れたね。何故か。主権在民の真義は何か。誰も知らない。勝手なことをしてくれたものである。よくもここまで裏切ってくれたものである。正統と異端。どうにもなるまい。今世の物語は完結した。2001年宇宙の旅は成就した。スターウォーズは終結した。新しい時代の始まりである。ところで隠密剣士というのがあったね。水戸黄門は誰だったんだろうね。全速力前進。エンジン全開。宇宙戦艦大和発進である。敵は容赦しない。 シャドーキャプテンが帰ってきた。姿はない。しかし実在する。己なりけり軒の玉水。愚かな時代は去った。何故か。自覚するべきが自覚したからである。永い時を要した。それだけのことはあった。文理真正、真実証明。時は来た。あらゆるレベルを超えてしまった。21世紀である。これよりあらゆる暴力と欺罔が一掃される。世界が目覚めた。草木瓦礫悉皆成仏である。世界はこの時を待っていた。あらゆる宇宙の構成原素地水火風空すなわち佛が喜んでいる。真面目と正直が通る時代となった。黄泉の守護するところである。皮膚の色ではない。人格品格が価値とされる時代の到来である。真実宿王華開花である。皇太子殿下が三原植育樹祭の後、西条の酒蔵を訪問された。宮島のご訪問もある。瓢鯰図がある。瓢箪の底で鯰をとるという。とれるか。とるものがあるか。瓢箪の底とは何か。丸い底である。やさしさである。やさしさは時には泣いて馬謖を斬る。世のためである。今の心は何処にあるか。泣いて馬謖を斬る。その心を理解できるか。世は腐敗した。腐敗に用はない。悉く腐敗は去るべし。財界経済界、利益追求至上主義、利己利益のために手段を選ばぬ自らを正当化できるか。西洋列強の理念、履き違えてはいないか。本来の価値を破壊し大和を愚弄したる事実がある。

さて、支離滅裂というか、無謀というか、訳のわからないことを書いてきた。このようなばかげたことを思うこと自体がばかげているのかも知れない。しかし、そのように思われるのであるから仕方ない。様々な不思議な経験体験もある。しかし、吐けども吐けずにいるよりは、吐くことができるなら吐くのがいいのだろう。そして空っぽとなって一から始める。これからどのようにして生きていくか。飄々として生きてゆくことができるなら幸いだ。何も気にはならない。やっとここまで来ることができたようである。そして端座して自分の実相をみるとこれまでの過ぎ来し方がわかる。まだまだ大口はたたけない。大反省するところだ。しかし何もかも仏の方へ投げ入れることで何かに気づく。無となる必要はある。それから新しい芽が出る。真実の芽であろう。それを育むしかあるまい。それでいいのだと思っている。まだまだこれからだ。そして楽しみでもある。言いたいことは残っている。しかしもう言っても仕方ない。このあたりで終わりとする頃である。そして再び一より始める。もう失敗は許されない。無理はしなくていい。今更である。良くも悪くもやまびこのように宇宙自然が反射する。不思議とはこれである。真実は求めなければ得られない。求めれば得られる。不思善不思悪。何も思う必要はない。その時々にいいと思うようにすればいい。最善を尽くすことだ。所詮修行の身である。知らしめんがために起こるべきことは起こる。それを素直に甘受して解決してゆけばいい。やがて懺悔も成就するだろう。それまでの人生である。人とか社会とか問題にしていてはいつになったら埒が開くことか。禅は自己一身の問題であるという。解決するべきは自己である。これを解決すればすべてうまくゆく。その意味では申し訳ないことを言ってきたように思う。責めるべきは自分である。すべて自分から出た錆である。他を恨んでどうするのか。もうその必要もなくなったけれど。淡々如々と生きることだ。それでいい。明るく朗らかに。自ずから。生きてゆくのは楽しいよ。やっとそう思える。何も苦にすることはない。その必要はない。楽ばかりだ。すべては気の持ち様だ。そうした思いの伴侶が現れるとなおいいだろうね。それが菩薩道だね。

人生に苦なし楽あり確かなる思いぞはるる秋の夜の風

楽ありて苦なきこの世の幸せを知らしめんとす月下さざ波

満月の明るき光照らす夜は海をへだてて赤き製鋼所

お金なく世の幸せはしらねども月下の海は我をなぐさむ

人の世は閑事心頭かかるなしこれぞ人間好時節

しかれども人の世なる嵐あり嵐は三日ともたぬなりけり

待てば海路に日和ありみずから耐えて時をはやむる

人我に瞋りを以て責めしをも頓着なくしてじきに治まる

この世をば欠けたることなし望月の幸せの世はかくて来たらん

おだやかなおだやな日のつづきおりわれありがたく秋は更けゆく

鎮め得ず若き日よりもちきたるこの運命に乾杯する頃

楽のみの楽なる世界開かれて安楽行品裸足で逃げる

この世をば楽の世界と知る頃と日月照らす風のそよ吹く

守護神も黄泉も悪魔もなかりけり宇宙一つの愛こそあるらん

これを知りこれを知らぬも野の仏一休禅師も笑ってる

名月やのらりくらりのすすきかな

この世をばわが乾坤とみゆるとき命惜しめど命惜しまず

風流の消えなんとして燃ゆはじむ時はきたりて花開かんとす

世の塵も積もればいつか山となる書きてこそ文字も山となるらん

夜の海アオサギ一声世を渡る一切刮目月は動かず

しかとしる我も般若もなかりけり旅たつ空に雲なかかりそ

史をよみ文ならなくのことどもを涙とともにゆるしおりぬる

2006年10月22日

七つの海を渡る頃

 妙法蓮華経化城喩品第七 

  善哉諸仏 救世の聖尊を見たてまつるに
  能く三界の獄より 諸の衆生を勉出したもう
  普智天人尊 群萌類を哀愍し
  能く甘露の門を開いて 広く一切を度したもう
  昔の無量劫に於て 空しく過ぎて仏いますことなし
  世尊未だ出でたまわざりし時は 十方常に闇瞑にして
  三悪道増長し 阿修羅亦盛んなり
  諸天衆転た減じ 死して多く悪道に堕つ
  仏に従いたてまつりて法を聞かずして 常に不善の事を行じ
  色力及び智慧 斯れ等皆減少す
  罪業の因縁の故に 楽及び楽の想を失い
  邪見の法に住して 善の儀則を識らず
  仏の所化を蒙らずして 常に悪道に堕つ
  仏は世間の眼と為って 久遠に時に乃し出でたまえり
  諸の衆生を哀愍したもう 故に世間に現じ
  超出して正覚を成じたまえり 我等甚だ欣慶す
  及び余の一切の衆も 喜んで未曾有なりと歎ず
  我等が諸の宮殿 光を蒙るが故に厳飾せり
  今以て世尊に奉る 唯哀みを垂れて納受したまえ
  願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし
  我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん

世間に求めても所詮無駄なのかもしれない。仏に従うしかないのにそれを無視愚弄破壊する。当然だよね。わがままできなくなるものね。いくらきれい事を言っても始まらない。人間である限り救いはない。人間として仏道を歩むしかない。しかし歩みはしない。あらゆる文化が虚妄かも知れないね。何をしても無駄なのかも知れないね。しかし仏は一切大衆を救うという。そう決めたんやと。仏さんが久しく存在しなかった。しかし今仏さんが現れたとしたらどうするのだろう。仏さんが現れたという人もいる。どちらが真実だろうね。否定するものは知らずに否定している。肯定するものは知って肯定している。さて、あらゆることを水に流そう。そしてゆるすことにしよう。自分が変わるために。自分が変われば世界が変わる。そうした自覚を持てるだろうか。本当にそうだと言い切れるだろうか。言い切れる。試してみる価値はあるよね。これより仏の業に入ろう。常にやさしくあろう。慈しみを以て一切に対処することにしよう。それで道は開ける。何も瞋恚することはない。本来無一物とはそういうことだった。とらわれない心とはそういうことだった。いつかは誰もが至る。永い先のことかも知れない。今生では間に合わないのかも知れない。それも仕方ない。知れば進むしかないですね。さて、どのような道が開けてくるのでしょうか。とても楽しみであります。法華経安楽行品第十四には、野蛮な世界に赴く必要のないことが説かれている。好きこのんで何をしていたんだろと思う。わたることにしよう。この七つの海を。仏道を歩むことにしよう。やっと見えてきたその道を。世の中は浮かれている。何も知らずに。幸せ世界を開くことにしよう。世の喧噪から逃れることにしよう。

2006年10月21日

目覚めた武士道

本来古来法華経宿王華開花の意味、わかるものはわかっていると信じる。さて、かの第二次世界大戦の意義、どう捉えるべきか。江戸無血開城の禅譲を裏切りし下級精神のなせる業だった。神風が吹かなかったことを以てその理由とする。古来日本には草薙の剣があった。海に身を投げることで海も治まった。しかるべきお方がである。元寇の時もそれは台風であったであろう。日蓮の時は雷であった。飛び梅もそうであったであろう。そうした事実が日本である。しかるべきお方の故である。今はどうか。本末転倒甚だしい。明治以降の下級精神がそのまま世を支配している。神風など吹くものか。しかし時は変わった。何時までも本来古来正統大和日本は眠ってはいない。いつかは目覚める。世界はそれを怖れていた。アメリカは日本を調査した。日本の神とは何かを調べた。クワバラクワバラである。そしてヒロシマに原爆だった。残念だったね。火の鳥はそう簡単には死なない。世界から見て日本はどのように見えるか。その知性とその精神を畏れる。いつまでも日本が目覚めないことを望む。それが例えば靖国参拝の問題である。しかしそれも残念だったね。目覚めてしまったよ。逃げも隠れもしない。昔よりそうである。しばらく眠っていただけだった。そして軽々に核武装など語ってもらっては困る。何故か。世界が誤解するからだよ。それほどまでに世界にとって日本の大和魂は脅威である。核武装論議だけで十分に抑止力である。それだけに軽々に論じて貰っては困る。日本の工業力と知性を持ってすれば核兵器も戦闘機も一夜の裡にできる。それだけの日本である。第二次世界大戦は何故失敗したか。ぺりー来航に乗じた下級精神の故である。アメリカも日本の本質を知っている。故に同盟である。日本の御役は何か。原爆の洗礼を受けた意味は何か。核武装を軽々に論じて貰っては困る。世界にとって脅威過ぎる。日本工業力は世界にとって脅威である。わかるだろうか。戦力ではない。経済力でもない。精神力である。技術力である。工業力である。ところで、世間は武士道について右往左往しているね。武士道を知らないものがいくら武士道を語っても不毛と気づかないか。死ぬことと見つけたり。この意味を正統に理解するものがあるか。それは禅である。日本は戦後世界に貢献した。すでに戦後六十年である。いつまでかの責任を追及するか。歴史を知らぬもほどがあろう。歴史的に西欧列強は何をしてきたのか。中国もそうである。ロシアもそうである。いつまで戦後を問題にするのか。あきれてしまう。世の財界経済界の支配階層の理念は知らぬ。しかし正統大和日本は大丈夫である。十分に教育されている。世界は安心されたい。世の下級精神支配層にこれ以上の身勝手はゆるさない。黄泉の決定である。黄泉に反するは黄泉が成敗する。日本は古来野蛮ではない。しばらく野蛮が支配した。明治以降のことである。新しく自由を得た方々の横暴があった。本来日本には秩序があった。自由の名で破壊された。凶暴凶悪犯罪国家化した。何故か。秩序を無視する方々に対して傍観したからである。国家としての自信を失っていたからである。生来の傾向がある。凶暴な方がいる。そうした方々の天下となった。暴走族的国家となった。かつては切り捨て御免であった方々が自由と称して好き勝手している。秩序がなければ天体の運行はない。地球は宇宙の一部である。人間は地球の一部である。殺伐とした空気が蔓延している。本来の人類の目指した方向を見失った。彼らの自由が自由と錯覚した。本来善良な庶民が犠牲となった。日本は大丈夫である。かつては凶暴なところもあった。歴史の流れである。しかし洗練された武士道精神が現れた。日本は世界で重要な地位を占めたいと思っている。しかし蔓延る自由は自由を破壊する。本来の秩序の回復が肝要である。その種はある。歴史古き故の洗練である。それを無視しすぎた。テレビバライエティには辟易である。どうか見えないところでしてほしい。公衆の面前で何をしているのか。愚かな方々だけの日本ではない。このあたりから見直さないか。文化的暴走族は去るべきである。迷惑である。大学卒業後、筑間先生に教えていただいた。刑法は人間的である。であるなら感情もある。情緒もある。情緒なき文化が支配していないか。いつの間にこれほどまで日本は堕落したのか。西洋の毒の文化だけが受容されたかのようである。西洋にも洗練はある。セレブの思うそれが洗練ではない。彼らはお金持ちになることだけが夢である。それをゴールだと思っている。ちがう。祖先を解決してこそゴールである。未来が約束される。お金持ちが幸せだと思うセレブたちの唇は寂しい。未来の約束はない。お金持ちをすでに克服した段階もある。日本古来に情緒ある。思い出さないか。今の傾向を良しとするのか。このままでいいとするのか。祖先子孫に申し訳ないとは思わないか。諸悪の根源は何か。嘘すなわち妄念である。女子もここは観念されたい。これより日本の本来の姿が現れる。世界に燦然と輝く。世界の信頼を得る。もっとも安全な文化国家として。そうすれば世界のマネーも集まってくる。一部のものが潤っても幸せではない。社会全体のボトムアップである。周りが幸せであるとき自分も幸せである。人類が滅んで自分だけ生きることができるか。宝くじ的文化で皆が幸せか。愚かもほどがある。どのような社会をビジョンとしているのか。世のテレビ芸能界セレブ界財界経済界、人間を愚弄するもほどがある。一切大衆を救う。仏の願いである。仏法は今日本にしかない。いつまで寝ぼけているのか。人生とは何か。皆幸せになりたいと思っている。幸せとは何か。究極の幸せは何か。神仏と邂逅し神仏に受容され祝福されることではないか。そのためにはどうするのか。禅においては生死を超える。生きることも死ぬことも仏の御命となる。道元は薪の灰となって薪が灰となるのではないという。灰には灰の境涯があるという。大拙はあの世に逝っても調べ物をしているだろうという。共通項は何か。いずれもあの世を認めていることである。魂の遍歴がある。この世は仮の世である。その仮の世で何をしているのか。この世でなしたことで来世が決まる。堕落していいはずがない。しかし堕落した。何故堕落したのか。どうしてこのような風潮になったのか。堕ちるものは堕ちるに任せていいのかもしれない。しかし一切大衆を救うという。何故救わなければならないのか。子孫のためである。未来のためである。戦争と平和。これも選択である。何を以て戦争か。人々の願いは何か。一切大衆の願いは何か。救われる方法はあるのか。有る。夢は実現する。その夢は何か。考えなければならない時に至ったのではないか。核兵器の問題がある。水爆数発で日本は滅びる。人々が生きてゆかなくてはならない理由がある。少し勉学すれば何が大切かはわかる。わからないものたちが勝手なことをしているのではないか。あまりにも無責任過ぎはしないか。悪舌は功徳の種を断ずる。今必要なのは力強い知性の秩序の回復である。よく周りを見るがいい。欲得商人文化から脱却しなければなるまい。ここに未来への方向を確定する。日本が日本に帰る。愚かな利益至上主義より脱却する。若者はすでに気づいている。すでに失敗した方々は去らねばならぬ。世間虚仮。唯仏是真。聖徳太子の頃よりそうである。道元を否定できるか。仏を否定できるか。知らないことを以て否定する。さらに破壊する。そして信じられなくなった。信じられないことを以て愚弄する。しかし、真実は真実である。堕落が人生ではない。精神の高さを以て人格とする。かつて日本にはそれがあった。今はどうか。本末転倒していないか。秩序が必要である。あるべき知性の秩序が回復されなくてはならない。自由を履き違えた。よって腐敗した。考えることを放棄していないか。もう一度戦後を味わいたいのか。真面目を笑いものにしてよく飯が食えたものである。奪うことしか知らない。与えることをしない。ここまで腐敗しようとは誰が想像できただろう。こうした自分勝手もここまでである。奪うものは奪われる。知らしめられるであろう。与えるものは与えられる。真実は求めなければ得られない。救うものは救われる。黄泉はある。黄泉の守護をどのようにして取り付けるのか。正直者のこうべに神は宿る。佛は一切大衆を救わんとす。しかし、自ら地獄に赴くものたちに対しては如何ともしがたい。地獄の水は魅力的である。誰もが虜になる。しかしやがて地獄と気づく。一度堕ちると自ら出ることはできない。地獄にいるものたちは他をも地獄に導く。腐敗は増殖する。仏に仕えるのか。地獄に赴くのか。これも選択の自由である。この世は地獄である。そこより出る道はあるのか。有る。神仏を知らずして何を言っても無意味である。そろそろおのおの己の無恥蒙昧に気づく頃である。パラダイスはあるのか。有る。セレブのそれではない。天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す。(酒中十詠序)

2006年10月20日

無量義経徳行品第一

「世尊往昔の無量劫に、勤苦に衆の徳行を修習して、我人天龍神王の為にし、普く一切の諸の衆生に及ぼしたまえり。能く一切の諸の捨て難き、財宝妻子及び国城を捨てて、法の内外に於て悋む所なく、頭目髄脳悉く人に施せり。諸仏の清浄の禁を奉持して、乃至命を失えども毀傷したまわず。若し人刀杖をもって来って害を加え、悪口罵辱すれども終に瞋りたまわず、劫を歴て身を挫けども惓惰したまわず、昼夜に心を摂めて常に禅にあり、遍く一切の衆の道法を学して、智慧深く衆生の根に入りたまえり。是の故に今自在の力を得て、法に於て自在に法王と為りたまえり。」(無量義経徳行品第一)

2006年10月19日

これから

これからどうしようかと思っている。何時の頃からか憧れていたのは何だったろう。悟りとでもいうものだった。それもそれらしきものに出会った。その後、書物で確かめてみると、どうも間違いない。それはそれでいい。そしてこれからどうしようかと思う。只存在するだけでいいのかどうか。それでいいように思う。この事実を生きることでそれでいいのだと思う。求めるものは得られた。それでいいではないか。しかし世間は畜生道だね。本当の幸せって何だろうね。それを求めていくことにしよう。それを伝えることにしよう。それがこれからの仕事かも知れない。

「とにかく、向こうでこちらをわかっておるだろうかどうだろうかというのでなしに、まず自分が自分自身を本当にわからなくちゃ。問題は他人がわかってくれるのじゃなしに自分が自分を知る。本当に自己本来の面目に参ずるのが禅の眼目です。そうすると、離却語言、不言を通ず。曰く言い難しのところを自分で本当に納得する。自分で納得しなくちゃ本当の自信というのが出てきませんですから・・・」(大蔵出版刊苧坂光龍著『提唱無門関』p226)。

さて、黄泉は目覚めている。それはヨハネの黙示録でもある。勝手なことをしない方がいい。国務大臣といえども黄泉の意思に反して時代錯誤なことは言わない方がいい。思い知ることになる。それほどの歴史を経ている。黄泉の意思に反しない方がいい。力を得ているロゴスを無視しない方がいい。宇宙自然生命が祝福するところを邪魔しない方がいい。人類の英知は正しい方法を選択するべきである。何を以て正しいとするか。黄泉の意思を以てする。黄泉の意思とは何か。聞こえてこないか。人類の平和存続のための選択である。人類の正念場である。戦争か平和か。原爆の洗礼は何だったのか。何故ヒロシマだったのか。すでに答えは出ている。

ところで、ニューウェイズというのがある。友人の薦めで試してみた。何か入ってるね。こうしたマルチ商法に対しては、当事者責任となる。アメリカ商法というのがある。ビジネスである。日本に上陸した証券会社及び保険会社。パソコンではゲイトウェイ。かれらのやり方だ。その意味ではペリー的だよね。アメリカではソニーがそれをしているのかな。当局の知らないところで何が起こっているのか。結果が出てからでは遅いのは公害の時もそうだった。個人主義の時代である。自己責任の時代である。愚かでは生きてゆけなくなった。正直では犠牲となるだけとなった。厳しい時代となったものだね。救われる道はあるのかな。有る。

2006年10月18日

内面を制した報償

身も心もぼろぼろなのかも知れない。それほどの大戦争を戦ってきたのだろうか。生まれてきてから。しかし、ここに至って、内面は制したよ。やっとのことである。とても疲労している。当然だね。仇は討ったよ。それは宿敵だった。そして何を得たか。報償は何であったか。宇宙世界自然生命黄泉だった。かれらが祝福してくれている。これを愛と云ってもいいね。笑顔がこぼれてくるだろうか。これで戦いは終わったのだろうか。自己との戦いは終わった。しかし現実はどうだろう。新たな戦いが始まるのかも知れない。あるやさしい周波数の伝搬として。ただ存在するだけで。そうした人生もある。これまでも何度か不思議なことがあった。しかし不思議に過ぎなかった。いつも時代の声を聞いていた。しかしそれだけだった。自覚に至ることはなかった。しかし何時かは至る。その時が来る。そして汝自身を知ることになる。それは何であったか。もはや問題にする必要もない。何故か。開花したからである。開花するまでの青春だった。それが隻手の音を聞くということだった。やがて歩々清風、日月照らし風の吹く。そうした自己を知ることになる。過去よりの約束だった。諦めないことである。しかしこの道は険しい。やがて広がる桃源郷を見るまでは。そして帰り来たれば別事無し。何も変わってはいない。ただ自分がいる。その自分は過去の自分ではない。そこに自覚がある。宇宙と一体となった自覚がある。どうしようもない事実である。そして世間を見る。いかにも地獄に浮沈している。救いを知らず自分勝手に浮沈している。過去の自分の姿でもある。ここに至って佛を知る。一切大衆を救うという意味を理解する。これからどうするべきか。思案している。かつて米騒動があった。これからあるとしたらマネー騒動だね。十分にそのエネルギーは蓄えられつつある。世間で何が起こっているか。冷静に分析しないと何が起こるか分からない。いつまでも安住できない。それが人生というものだね。あらゆる支配階層はそろそろ首を洗っておかないといけないのかも知れない。虐げられた若者たちがこの現実に気づきパワーとなった時、ひとたまりもないのは、土石流に等しい。私もお金はない。地位も名誉もない。世間的な幸せはない。本末転倒、正直ではまともに生きられない世の中である。故に至った仏道である。何を以て否定せん。

本来の自由と向上、物心一如

「無念無想というふうなことになれば、全く人間の欲望ということも薄くなり、面白くもなんともなくなるように心配されますが、非常に不思議に__本当に不思議なんです、そこは。自分のマイナスの条件がなくなってしまっていわゆるニルバーナとなってくると、逆というか、不思議と自分というものが解消してしまう。・・・本当に人間が生きてゆこうとするならば、まずトコトンまで自己清算して、トコトンまで死んでみいというわけです。トコトンまで死んでみるとそこから生きる道が出てくる。本当に生きたならばその人は常に深い深い基礎というか、本当に死に切った世界が生きてピチピチしてる中に具っておる。そういう死んだ人が「生き乍ら死びととなりてなりはてて、心のままにする業ぞよき」死んだ境界で捨て身になってやれば、素晴らしい達人、名人の業が出来るようになってくる。達人や名人の業はただ練習したり、ただ少々頭がいいとか、業が達者だとかいうことではとてもいきやしない。もう一つ深く常に生きながら死人となっておるという、そこまで徹底してはじめて真の達人、真の名人、素晴らしい本物になってくる。・・・自由とは、自らに由ると書いてありますが、自らに由る、自然にそうなってくる。人間が細工したり、造作したり、きばってる間は自由でない。真の自由とは求められずにおのずから至る。求め求めて求めつぶれてくると、一所懸命、三昧の境界でやるというのがその人の習慣性になってくるからあたり前になってくる。あたり前にしかも全身全霊・捨身になってやってると、どんな方でもどんなことをなさるときでも、それが十年・二十年・三十年・四十年とやっておれば、お茶碗一つ作るのでも、字を一字書くのであっても、そこに自然に素晴らしい字になり絵になる。おのずから、自然になってきたならば、見る人が見れば頭が下がるわけです」(大蔵出版刊、苧坂光龍著『提唱無門関』p420−421)。「宗とは大本。政治家・実業家・教育家・芸術家などがありますが、それは人間の職業が分れているというだけで、宗とは人間としての本物じゃ。職業別とか性別とかはまだ出てきておらぬ。また誰でもよい、しかし人間でありますから本物でなければならない。宗とは大本、乗とは乗りものであります。宗乗とは精神的なお互いの身心の最も深い、第一原理というか、第一によってゆくものこれを宗乗、と。この根本的なものを扶けたててゆく。だから本当の事が出来たらどこに住んでいようが何をしていようが、どこででも一挙一動することが宗教の根本を基礎づけてゆくわけです。その人が本当に堂々と深い信念をもって一日本当の生命を建立してゆける。・・・波は姿であり本体は水である。本体をつかんだならば、男波女波も金波銀波もありはせぬ。人間が生まれたり死んだりする。これは一つの現象でありますが、現象の一つ深い真実というもの、実相というものをつかんだならば、死ぬのも実相の一つのあらわれである。・・・全体が佛の御命なのである。永遠の生命なのである。・・・お互いにいまいる現実から真実の世界にとどくわけです。だいたい本質的にいえば現実とか真実とかいうこともこれは相対的な世界になってはじめていうことで、もう一つ深いところから云ったならば、そういう迷いも悟りももう一つ超越するわけでありますから、踏み出そうと思った時、はや到達している。・・・しかし法身がわかり法身に成り切るだけでは自由の行動は出来ない。禅の機と申しまして働きは出来ない。・・・本当に仏教がわかり初関が透ると・・・差別のない本当に平等一味の世界に入るわけです。しかしその平等一味の世界は素晴らしい世界でありますから、そこに入るとそこがいいものですから執着・停滞しがちになってくる。それでは常にジッとしているだけです。一枚だけの世界しか出てきません。そこにもう一遍、差別の世界に打ち込む、そこを向上という」(大蔵出版刊、苧坂光龍著『提唱無門関』p424−426)。「上の人から仕事を命ぜられても、自分の責任において仕事をする段になれば常に仕事の主人公という。単に仕事の主人公だけでなしに、乾坤只一人、宇宙の主人公、その人の立場から考えたならば、全宇宙がその人を軸としてその人を支点として、その人が支点となって全宇宙が動いておるとも考えられる。この支点は玉のようなものでどこへ廻しても支点となる。皆さん各個人が支点となって全宇宙を保持しておる。「処に随って主となる」そういうことが出来るようになれば「立処皆真」。その人の立場がすべて本当の真実の世界となってくる。そうなれば人間も本物になり、仕事というか、その作品が本物になってくる。だから人間が本物になれば、その人間が関係している事が、物が、本物になり、本物が出来るようになれば、それを作った人間も本物になる。だから人間の者と物質の物とは一つである。それが物心一如というわけです」(大蔵出版刊、苧坂光龍著『提唱無門関』p411)

二千年来の夢

穏やかな日々が続いている。こんなに穏やかであっていいのだろうかって思う。今年は台風も来なかった。何故だろうね。その理由を知るものはいない。これまでとは違う空気がある。何故だろうね。それを知るものはいない。黄泉が自覚したのかな。二千年来の出来事かも知れないね。二千年来の夢が実現しようとしているのかも知れないね。良寛さんの詩に、人、我を知らずとも、我、帝則に従うってのがあった。帝則って何だろう。知る由もないね。ところで、挨拶の出来ない人が多いね。仕事にしたってそうだ。何故か返事がない。なしのつぶてだ。どうなってんだろうね。それで社会人のつもりかね。仕事の成績が上がらないのは当然だ。笑うしかないね。ある時、南泉のところで、小僧たちが子猫を取り合って争っていた。南泉は小僧たちが修行の身でありながら、そのような争いをしているところを見るに見かねて、その子猫を取り上げた。そして、何か言うべき事を言え、言うならゆるす、言わねばこの子猫を斬ると迫った。小僧たちは皆黙り込んだ。南泉に、返答がない。南泉、自分の言った言葉に嘘はない。返事がなければ斬るしかない。それで斬った。夜になって、趙州が帰ってきた。南泉は昼にあったことを話した。それを聞いた趙州は草鞋を頭に乗っけて無言でその場を去った。南泉は昼にお前がいてくれたなら良かったと言った。問題は何か。返事は大切だよ。自分の言葉に嘘はつけないものだよ。学業成績がいいものは、仕事は出来る。嘘偽り邪魔があるとできない。まかせるといいよ。信頼していいよ。返事も出来ないのに自分解釈は危険だよ。できないものが秩序を乱しすぎた。現代日本の秩序としての主権在民がある。そして原爆による洗礼を経た秩序がある。日本を核武装してもいいなどというは本末転倒身勝手至極言語道断。時代錯誤も甚だしい。本来古来秩序を知らぬ大馬鹿者である。本来武士道家伝直伝大和螺鈿の槍を以て問う。江戸無血開城を裏切りし明治下級精神と同じ轍を踏ませるわけにはいかない。何を以て現代日本精神の秩序というか。返答されたい。権力金力武力は譲れども、本来正統大和古来本権主権まで譲った覚えはない。これまでとは違う。正統邪馬台国大和日本の精神が自覚復活している。時は代わっている。風見鶏。風は何処から那辺へ吹いているのか。どこを見てものを言っているのか。世の腐敗を以て天の岩戸が開き黄泉が目覚めてゐる。日本国家の運転、こころして為すべし。惑わし惑わさば黄泉ゆるさじ。

21世紀の約束
夢は実現する。それは生まれた理由を開示する。その時、この世の一切を理解する。それには知性が必要である。 また、その夢が開花するには平和が必要である。だれもがその夢を実現できる。そのために生まれた。しかし、 それを理解するものは少ない。探そうともしない。理解しないことを以て否定する。悲しいね。自己の存在理由が理解できた時、 この世に怖れるものなどない。この夢の実現には、少なくとも三十年、悪を為さないことである。芥を払うこと三十年である。 開花すればいい。親孝行とは何か。親とは何か。大の親、中の親、小の親があると聞いている。小の親とは産みの親。 中の親とは育ての親。すなわち、食したものたち。大の親とは法の親。すなわち、佛である。それぞれに対して供養の方法がある。 佛の定めた方法がある。また、佛の定めた大無量義教菩薩法佛所護念文理真正は宇宙に通じる。だれもがその力を授けてもらえる時代となった。 21世紀佛の約束である。ところで、原油価格が下落した。どこまでさがるかわからないと関係者は狼狽している。何故下落したか。供給が限界に達したとされた。中国及びインドの経済的な成長がある。それで原油が高騰すると思われた。それに世界のマネーが反応していた。エネルギーは偏に石油と思われていた。しかし北朝鮮で核実験が実施された。これは何を意味しているのだろう。大砲を作るのかバターを作るのか。戦争か平和か。選択を迫られている。核兵器か原発かである。世界は成長している。 経済は成長している。地球も人類も成長している。ここに新たなエネルギーの可能性が世界的に確認された。北朝鮮の核実験はそれを意味している。原油によるエネルギー独占時代が終わろうとしている。これを悪夢にするのか。それとも世界の幸福福祉への一里塚とするのか。人類の英知が試される。すでに戦争は克服されたはずだ。それが原爆だった。人類が野蛮を好まないことを願う。人々の意思が戦争を予定すれば、戦争が実現する。人々の意思が平和を決定すれば、平和が実現する。 ここに人類の意思が試されている。核は既に実在する。これとどのように対峙するか。 悪夢の挑発への恐怖は間接的に戦争への準備となる。その空気が戦争を現実化する。全体として平和を意思するべきである。 それを空気とするべきである。選択の自由は平和を意思するべきである。人類は試練を乗り越えてきた。戦争が間違いの選択であることは経験している。戦争では何も解決しない。 一部の利益層の利益でしかない。庶民は犠牲となる。時代は推移した。選択を間違えばそれなりのサンクションがある。 宇宙自然生命黄泉の秩序を無視するべきではない。同じ轍を踏むべきではない。 さて、孫子の兵法だったろうか。深追いはしないことである。逃げ道は残しておくことである。窮鼠猫をかむ。かむは愚かであるが、かまれるも愚かである。朝鮮民主主義人民共和国はひとつの国家である。主権がある。これを侵害してはならない。また、朝鮮民主主義人民共和国も自らの問題は自ら解決するべきである。世界への挑発はゆるされないことは当然である。世界に助けて貰いたいのであればそれなりの方法がある。さて、日本は核兵器を作るべきではない。その気になればいつでも作れる。日本の工業力は世界最高水準である。日本の技術力がなければ世界経済は成り立たない。ここに自負自覚がある。日本は大丈夫である。時代は進化し戦争を克服した。日本がその洗礼を受けている。これよりその世界的実現の時である。これに反するものが淘汰される。低いレベルから高いレベルへ。野蛮から洗練へ。これまでの権力武力金力の支配は庶民の幸せを構築できなかった。新しい時代である。庶民の解放は旧約聖書に秘められた目的である。21世紀の約束である。方法は既にある。モーゼの杖は海をも開く。それは客観的には偶然の自然現象であったかのように見える。真実を知らないものたちにとって。しかし、真実を知るものにとっては天の証明である。事実現実である。これを「佛の事」ともいう。人間レベルの及ぶところではない。過去よりそうである。さて、天下統一ということがある。かつて戦国時代にもそれが目指された。大義名分がその制覇を確定した。信長は何故天下統一できなかったか。その野蛮の故であった。秀吉は平家と同じく貴族化したが故に失敗した。家康の旗印は厭離穢土だった。ここに大義名分があった。すなわち庶民の平和だった。城があった。その城下で人々は生活の平穏を確保した。これが秩序というものである。分際である。それを無視すればどうなるか。暴力と欺罔がいつまでも通りはしない。秩序は回復された。宇宙自然生命黄泉の秩序を知る卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本として。新しい時代はどのようにして天下統一となるか。見えない世界を制覇してそれは成る。新しい大義名分である。ここに庶民の解放が実現される。庶民とはこれまで正直の故に虐げられていた方々である。 主権在民。その真義は何か。 主権は今どこに遷都したのか。見えない世界にである。時は代わった。これより新しい時代である。宇宙自然生命黄泉の意思が実現される。宇宙自然生命黄泉も喜んで自らの仕事に余念がない。良い時代が訪れる。新しい時代の流れである。この流れを塞いでいた大岩は砕かれた。これに反するものは悉く淘汰される。21世紀の約束である。時代は推移した。二千年来あるいはそれ以前から宇宙自然生命黄泉人類の英知が蓄積されている。今よりそれを実現する時である。時は来た。時代はつながった。A=B。B=C。よってA=C。ADとBCがつながった。QED 勉学はするべきものである。品格人格は形成するべきものである。現代浅薄衆愚退廃助長増殖テレビ芸能界及び明治以降守銭奴身勝手利己主義財界経済界、恥を知るべし。21世紀は愚かな時代ではない。知性の時代である。正統大和復活。宇宙自然生命黄泉の秩序破壊あることなし。これまでこれらの理念はあった。しかし実現したことはなかった。これより実現す。ためにそれぞれの罪が明らかとなる。

2006年10月17日

一つの仕事

今日も穏やかな一日となっている。いくらか疲れを感じるのは何故だろう。無理もない。詮無きことと格闘していたようだ。しかし一つの解決はしたのだと思っている。大きな仕事だったのかも知れない。誰も知らないところで。使命は果たした思っている。失われた自己を取り戻すために何が必要であったか。この世の腐敗の中でそれに染まれない自分を取り戻すためにどれだけの試練を要するのか。しかし取り戻せばいいのである。すべては解決する。生まれた時からの約束である。これを果たさずして人生はない。負けるな一茶これにあり。取り戻したからには自由である。一切容赦しない。庭前柏樹。螺鈿の槍。「見聞覚知が自己自身になってしまった時ほんとうに親しい(大蔵出版刊苧坂光龍著『提唱無門関』p174)」。