2005年12月16日
草野心平 カエルの冬眠
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新国家論 神の実体
デカルトは言った。「我思う故に我あり」と。プラトンは哲人政治を説いた。清盛は、「望月の欠けたる事なしと思えば」と歌った。アッシリアは神の名において肥沃な三日月地帯を統治した。その時々において、支配=統治は、権力・武力・金力によって為された。今もそうである。そして、王権神授説にしても、王政復古にしても、そこに大義名分は、神であった。「時が満ちる」という概念がある。また、『法華経』が何故に経典の王と言われているか。旧約聖書と法華経こそ、秘密の蔵である。見えない世界と見える世界がある。見えない世界が、見える世界を支配している。表現は文字である。文字によって見える世界は支配される。契約がそうである。音声は見えない。見えないが、抽象的に存在する。そして、音声は誘導力がある。言ったことは、やがて実現する。これを、閨房においても王を呪ってはならぬ、小鳥がそれを運ぶから、と言われる。さて、この誘導力にも、チカラの大小がある。樹木と雑草に格における差があるのと同じである。チカラのある存在が音声を出すと、それが、誘導力となって、見えない世界が動く。そして、見える世界に現成する。是を以て神力とする。法華経の言う最高の「さとり」が是である。さらにそのチカラが進化すると、思うだけで、黄泉が動く。因って、怖ろしい。そうした秘密は、アッシリアの頃からあった。今もあって不思議はない。因って、神を畏れよとは言う。時が満ちるとは、人間の傲慢が熟するときであり、悪がはびこるときである。その時、神が現れる。それが、旧約聖書の預言である。もはや、時である。2000年来の時である。神は、人間の傲慢を決して許さない。時が満ちるまでは、わからなかっただけだ。如来は法華経で言う、完全な「さとり」を得るまでは、決して法華経を説くことはない、と。2000年来の種が芽生えたと言うべきか。神の実体は、羅刹かも知れぬ。そして、法華経の説くところは、如来の智慧のチカラと自信である。さて、見えない世界こそ自然である。自然が亦如来である。自然=如来=神=宇宙・・・魂である。魂は宇宙とリンクしている。魂を得た人格は、宇宙=自然が祝福し、守護する。これが、最高の「さとり」の結果としての神力を発揮する。発揮して如来である。如来の智慧は、佛の智慧である。そして、この智慧は、ただ、釈迦牟尼佛のみが説く。宇宙の王である。その國は那國常所である。常とは永遠という意味である。宇宙の中心、那國常所において会議があった。腐敗した地球=エンブダイを誰かが救いに行かなければならぬ、誰が行くか。誰も志願しなかった。一人、釈迦牟尼佛が手を挙げた。久遠の昔、地球は、平和だった。宇宙の王の秩序下にあった。佛の住所としての仏所があった。よるべとするべき仏説もあった。しかし、野蛮な人間にとって、この上ない、邪魔だった。自分たちの思うようにならなかったから。そこで、人間の頭たちが、仏所と仏説を破壊した。それから、人間の歴史が始まった。殺戮と破壊の歴史だった。理念、精神も破壊した。しかし、芽が出て葉が出て花が咲き実となり、実となってはじめて種を得る。一巡りである。久遠の種が何であったか。一切種智慧。360度(ミロク)巡って、元に還る。真実の種が分かる。人間の分際もわかる。人間である限り、結果、腐敗と堕落でしかない。今、原点に戻る。ひとつの失敗を反省する。振り出しだ。ここに、地球の限界も露呈している。人間が反省し、もう一度、一からやり直しである。二つの切り株としての種はのこっていた。神と仏である。反省するべきは反省しなくてはならない。反省とは、過ちを認め、同じ轍を踏まないことであり、具体的に、処方して、眞の平和と愛とを手段として、本来の目的である楽園あるいは佛国土を建設し、その果を幸福として享受することである。破壊は悲しい。建設は喜びである。同じ労力するなら、どちらが良いか。明らかである。同じ人間の姿をしていても、初めて人間となった生命体があり、すでに、過去において、人間或いはそれ以上であった生命体がある。これが、真実だ。陰門ばかり追いかけているのは前者である。畜生である。人間界はそういう世界である。己の分際を知るとは是である。因って、過去において佛を見ていた者は、一を聞いて十を知る。つまり、それを思い出す。それに対して、過去において、岩石或いは畜生であった者は、辛い思い出しかない。因って、仏の慈悲を理解しない。現実を厳しいもの、つらいものと思う(現実の厳しさ、つらさは、過去の自分の悪性の懺悔のためである、自分の悪性を認め、これを謝ることで、許して貰えるチャンスである、過去の悪を消して貰える、楽へと行ける、閻魔帳から過去の過ちを消して貰える、人間の特権である)。あえて、真実が説かれる時となったと言うべきか。すでに、法華経には説かれていた。今、現実社会は、本末転倒している。智慧の有るものにとっては、地球は、その可能性において、無限である。但し、既存のパラダイムは、既に、限界である。権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅びる、ただ、法力あるのみ、新しい仏説である。法力とは、例えば、仏説を聞いて、よくわかり、実行して、見えない世界に認められ、祝福され、守護されて、如来の神力とでも言うべきチカラを得て、思いが宇宙に通じ、見える世界に実現することである。これを、佛の事(じ)と言われている。すなわち、現実がたんなる偶然ではなく、目的を持った意思の必然であることに気づくことになる。見えない世界が確かにあってそれが動き、現実に実現する。かつて、このチカラも、時々の王によって、随分と間違った。それが、権力であり、武力であり、金力であった。しかし、権力は市民革命によって反省された。武力は、20世紀に、無差別殺戮(水爆、中性子爆弾)として結果することで、反省された。金力については、現在、反省されつつある。さて、仏説があって、その説と、真実のお経典があって、そのお経典と、現象としての現実とが一致して、それが、真実である。新しい仏説である。このように聞いている。見える世界は、見えない世界の犠牲の上に成立している。あるいは、していた。(2005/12/16 1:51am NHKラジオ深夜便を聞きながら)ところで、佛とは、蓮=連、つなぐ能力を持っている存在である(機関区操車場)。何をつなぐのか。法=現実である。特に、過去と現在と未来をつなぐ。五字とは、妙法蓮華経、七字とは南無妙法蓮華経、それぞれその中心は、蓮・法。つなぐとは、縦と横。縦は歴史、あるいは、過去・現在・未来、そして、祖先・自分・子孫。横は現在の世界、あるいは、現代社会、同世代、家族・親族。つなぐ中心は、現在・自分=人間。その能力は如何。身心、清浄。清浄は修行を通して賦与される。奥義は、魂=自然=宇宙(神仏)。果は祝福、幸福。主体は人間。魂を扱える特権。是、主体性の理論。五欲を断ぜずして、成仏できる。是、人間の尊厳。良い時代です。
 
イザヤ書
8.11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。
9.5-6 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
10.24 やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る。
10.27 その日が来れば、あなたの肩から重荷は取り去られ、首に置かれた軛は砕かれる。
12.2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌。わたしの救いとなってくださった。
14.24 わたしが計ることは必ず成り、わたしが定めることは必ず実現する。
14-30 乏しい者も、糧を得、貧しい者も、安らかに伏す。
(かつてローマ帝国があった。今、その末裔はいない。古代エジプトの末裔はいるのだろうか。何故滅んだのか。)
19.24 どこにいるのか、お前の賢者たちは。彼らに命じて、お前に告げ知らせよ。万軍の主が、エジプトについて定められたことを。
21.1 ネゲブに吹き荒れるつむじ風のように彼は来る。
21.2 欺く者は欺き続け、荒らす者は荒らし続けている。・・・私は呻きをすべて終わらせる(『呻吟語』もあったね、論語より勝れているとも言われている)。
21.5 宴は広げられ、座は整えられ、人々は飲み食いしていた。「立て、武将たちよ。盾に、油を塗れ。」
22.11 しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず、遠い昔に都を形づくられた方を、見ようとしなかった。
22.19 主人の家に恥をもたらす者よ。
22.22 わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう(宇宙の王、佛は、宇宙を有無開閉する四大原動力を持っていると言われている)。
22.25 だが、その日には、と万軍の主は言われる。確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ち、それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれる、と主が語られた(解放、自由)。
(太陽は父、月は母。その子たちは、今、毎夜、遊女となって世界中で姦淫している。)
25.8 (主は)死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。
26.1 我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた。城門を開け。神に従い、信仰を守る民が入れるように。堅固な思いを、あなたは平和に守られる。あなたに信頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩(ロックンロールだね、君が代は、今宵苔むしローリング、さざれ石となって平和)。
26.7 神に従う者の行く道は平らです。
26.10 神に逆らう者は、(神の)憐れみを受けても、正しさを学ぶことがありません。
26.18 主よ、苦難に襲われると、人々はあなたを求めます。
26.19 あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。
27.1 さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで。
27.5 わたしを砦と頼むものは、わたしと和解するがよい(和平)。
28.26 神はふさわしい仕方で彼に示し、教えられる(法華経の如来と同じことを言っている、智慧、知性を嘲っていたことが罪か、名宛人、主体は人間、愚かさの支配に対する警鐘、この真実を知り得、密かに自分だけの砦を築いていた知識人たちも、その傍観の故に、結果、社会腐敗の責任ついて、同罪か)。
28.29 主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる(佛も然り)。
29.4-5 亡霊のようなお前の声は地の下から聞こえ、お前の言葉は塵の下からかすかに響く。・・・そのことは突然、瞬く間に起こる。
32.4 軽率な心も知ることを学び、・・・
32.8 高貴な人は高貴なことをはかり、高貴なことを擁護する。
33.1 お前は略奪し尽くしたときに、略奪され、欺き終えたときに、欺かれる(時が満ちるということ)。
33.6 知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。
33.10 今や、わたしは身を起こすと、主は言われる。今や、わたしは立ち上がり、今や、自らを高くする(佛はすでに立ち上がっておられる)。
33.13 遠くにいる者よ、わたしの成し遂げたことを聞け。近くにいる者よ、わたしの力強い業を知れ。
33.15 正義に歩み、正しいことを語り、虐げによる利益を退け、手を振って、賄賂を拒み、耳をふさいで、流血の謀を聞かず、目を閉じて、悪を見ようとしない者、このような人は、高いところに住む。その高い塔は堅固な岩。彼の糧は備えられ、水は絶えることがない(これはそのまま、歴史であり、内面の戦いであり、国家である。是を自覚することが、如来の知恵であり、ここに至れば、宇宙が祝福する。それが、神力である。禅においては、自己一身の問題であるという。その意味での行であり、人生であり、生まれてきた意味があり、使命である。そして、ここを知って、知性とは言うのであり、智慧の泉があふれる。愚かな世間、これ以上、知性を嘲ることなかれ。少なくとも、公の電波で、愚かさを正当化することなかれ。あなた方の、姦淫の罪は重い)。
33.18 あのとき、数を調べた者はどこにいるのか。量った者はどこにいるのか。やぐらを数えた者はどこにいるのか、と。
33.24 都に住む民は罪を赦される。
35.2 花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。
36.3 今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。
37.20 私たちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上すべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください。
37.23 お前は誰をののしり、侮ったのか。誰に向かって大声をあげ、高慢な目つきをしたのか。(神とは知性である。知性を笑いものにしたバラエティ=お笑いの罪がある。大和民族の精神の繊細さがある。明治以降、愚弄された。神を侮る者がいれば、その者に対しては、死に神が来る。)
37.26 お前は聞いたことがないのか。はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを。わたしは今実現させた。
37.28 お前が座っているのも、出て行くのも、入って来るのも、わたしは知っている。(これが如来の証明である。気づくまでは、検閲かと思った。全ては神の計画の中にある。孫悟空が佛の掌の中にあるに等しい。そして、神は忍耐強く待っていた。秘密の種が花咲く時をである。この時、時が満ちる。全ての悪が裁かれる。如来の智慧の力と自信が証明される時でもある。不可思議、全ては、この時のために、準備されていた。知っても知らなくても。しかし、知るべき方々は、この時が満ちるのを、待っていた。この時を待って、自然=神々も動く。万軍の主の喇叭が鳴り響く。総攻撃となる。)
37.32 エルサレムから、残った者が、シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就させる。(世間の欲情に染まらなかった方々である。あるいは、空閑=荒野にて、地に埋もれし知性ある、地より涌出せし方々である。地蔵菩薩。)
37.36 わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために。(今、この城塞は、魂=精神の格調のみである。守るべき砦は、ここのみとなってしまった。しかし、この砦は譲れない。大和魂=純粋精神の砦である。もはや、背水の陣とはこれを言う。Z旗は揚げられた。)
38.5-6 わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。
38.8 太陽は陰の落ちた日時計の中で十度戻った。(清盛の日招き岩か。)
(背水の陣での試金石、神佛を認め、信じることができるかどうか、世間の知識人、そして、マスコミ関係者に、問う。無神論はもはや克服される。無神論者こそ、明治の残党、近代知識人、亡国の民。故は如何。神仏の前に正直を得る。神仏を否定する者は嘘をつく。妄念=嘘こそ地獄の門。世のリーダーたちの試金石である。)
40.21 お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか。初めから告げられてはいなかったのか。理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。
 
一般に、西洋絵画におけるキリストの肖像は優しい美男であるが、真実はどうであったか。聖徳太子の肖像は羅刹のようである。チカラを得た者の顔である。彼も少年の頃は美男であったであろう。チカラを得るまでは。ハリウッドにおいて、スターの肖像が何を意味しているか。ジョン・ウェインが懐かしくはないか。唾棄すべき腐敗社会をどうするのか。男は男、女は女であって、自然。人間の傲慢が極まっている。何故か。本来、人格者であった市民社会の制度である民主主義が、衆愚化しているからではないか。それを黙認した、現代知識人たちの責任ではないか。
 
主とはまたチカラを得た人間であり、無限の智慧を獲得した存在であり、その手段は、法華経に在る通り、手段である、とも言える。21世紀、時は満ちた。目的、手段。目的が定まれば、手段はやってくる。万物の霊長である人間に、自然が期待している。人間もここまで進化した。ニュー・フロンティア、心の地平。新しいパイオニアたちの時代である。新ゴールド・ラッシュ成るか。黄金の國、ジパング。東方見聞録。常に日本は黄金の國である。今、黄金は、大和魂=純粋精神である。日本に秘められて伝えられし宝である。ある時は武士道、いつも、日本を救うチカラである。このチカラが世界を救う時を迎えたと言って良い。Dig it ! 掘るべき鉱脈は是である。日本の財産である。それがクラシック。精神のクラシックは、世界において、日本である。是がオリエント=東方の秘宝である。目覚めるべし。何時までも腐敗・愚かではいられない。神・佛の住所は、日本である。これまでのあらゆる謎は解かれた。やがて、新たな封印となる。21世紀の目撃者が記録する。時代はこうして変遷する。人類の新しいはるかな旅の始まりである。久遠の昔もそうであったように。原点に戻った。今は、そういう時である。
 
40.28-31 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
41.1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て悟れ。互いに近づいて裁きを行おう。・・・・・・・(11:36am 2005/12/16 NHK-AMラジオを聞きながら)
 
禅宗『無門関』に「倩女離魂」の話がある。月の王である人間と女との分裂、あるいは、人間において魂との分裂。人間に生まれて果たすべきは魂との合体であり、これを得て、自由無限軌道に乗る。仏陀が明星を見て輝き始めたように、その人に火が点る。+と−で火か点る。マイナスとしての試練=悲しみ・逆境はその為にある。悲しみが大きければ大きいほど、点った灯は明るい。点って灯である。一隅を照らす。
【QED「我証明せり」】
 
2005年12月15日
イザヤ書
1.7 お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で、異国の民が食い尽くし、異国の民に覆されて、荒廃している。
1.18 論じ合おうではないか、と主は言われる。
1.20 お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。
1.21 どうして、遊女になってしまったのか。忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに。今では人殺しばかりだ。
1.27-28 シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。背く者と罪人は共に打ち砕かれ、主を捨てる者は断たれる。
 
(唯、愛せよとか言っても愛せるものではない。愛は、地獄を通って初めて知ることができる。因って、愛だけを説いても、世間は、むしろ迷う。羊ではない狼の群れを制御しようとしてもできるものではない。また、羊として遇することは、人間の尊厳に反する。愛を説くだけでは世界は救えない。因って、例えば、佛の智慧、如来の手段がある。万物の霊長たる人間を導くには、旧来の手段では不能である。在来の説法は噴飯ものである。真実を知らない方々の言葉であるからである。言葉が概念として上滑りしている。だから、庶民は信じない。説法者の思い上がりがある。心に於いて。音声にそれが露呈している。神でもないのに、神を語っても、庶民は聞きはしない。先ず、説法者が神となっては如何か。はじめより諦めてはいないか。誰もついて来ない。ついて行かない。現実を見よ。この現実からの脱出のためにどうするのか。具体的処方が必要である。チカラある言葉がロゴスとして出てこなければならない。説法者は無責任に説法している。本気で掬う気があるのだろうか。それで、庶民は疑う。この意味、わかるだろうか。庶民は、その魂において、真実の言葉を待っている。過去からの模倣の言葉では誰も信じない。「本を読んだり人から聞いたり、そのように他所からはいってきたものは大したものではないという。”自己の胸襟より流出して蓋転蓋地なるべし”」[大蔵出版刊、苧坂光龍著述、『提唱無門関』p5]説法者の説法より、ミュージックの方が、より真実を語っている。)
 
2.18 偶像はことごとく滅びる。主が立って地を揺り動かされるとき、岩の洞穴、地の中に入るがよい。主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。
 
 
授記品
「完全な学識と勝れた所行を具え、この上ない幸いに到達して、最もよく世間を知り、人間を訓練する調教師であり、神々および人間の師であり、仏であり、世尊となるであろう。」(岩波文庫『法華経(上)』p301)「また、そこには、悪意をもつ悪魔が姿を現すことなく、悪魔の眷属どもも見出されないであろう。しかし、後になって、悪魔とその眷属どもがいるようになるであろうが、たとえそのようになっても、かれらは、その世界でかの尊き・・・の教えを受けて、正しい教えを受け入れようと努力するようになるであろう。・・・かれらの許で彼は仏の智慧をもとめて、純潔を守って修行するであろう。仏たちに供養し、この最高の智慧を得て、最後の化身において世間の拠りどころとなり、比類のない偉大な聖仙となるであろう。」(岩波文庫『法華経(上)』p303)「かれらは心をよく克服し、偉大な神通力を具え、広大な教えを説いた経典を信奉する聖者であろう。教えの王者である仏の汚れない弟子たちが、最後の肉身をあらわして、そこにいるであろう。」(岩波文庫『法華経(上)』p305)「われらの貧しい心を終わらせたまえ」(岩波文庫『法華経(上)』p307)「かれらは六種の神通力と三種の学識をもつ偉大な神通力の持主で、八種の解脱に通暁している。彼が最勝の「さとり」を説き明かすときに現す神通力は、考えられないほどである。」(岩波文庫『法華経(上)』p313)「彼は最後の化身を清浄な国土に現すことができて、仏となるであろう。この智慧を充満させたのち、幾千万億という人間に示すであろう。彼は神もともに住むこの世において崇められ、この世を照らし見張るかす仏となるであろう。・・・幾千万の神と人間の救済者となるであろう。」「人間としての自己の存在を捨てて、二万と八千の汚れなき聖者である仏たちを見るであろう。彼は仏の智慧を求めて、純潔を守って修行をし、そのとき世の指導者である仏たちを種々に崇め尊ぶであろう。・・・彼はそのあいだ常に人間および神々の間に仏の指導を説き明かすであろう。」(岩波文庫『法華経(上)』p321)「『未来において、ひとりでに仏となるであろう』」(岩波文庫『法華経(上)』p323)
 
一切種智・・・諸法の総相を知る声聞・縁覚の一切智と諸法の差別を知る菩薩の智とに対して、平等と差別とを合せ知る仏の智慧をいう。(平等とは人間であり、差別とは垂直の秩序(スートラ)としての神=自然(魂・宇宙=仏・如来)である。)
 
春秋社刊、公田連太郎編著、『至道無難禅師集』p145
「あしくきたなき物と生をかへゝゝゝゝしてきたなき故、ちくしやうなとになれは、うかふ事なし。故にたまゝゝ人の形をえまゐらせ候時佛になれと云事也。
一.わか身ノ佛出候て萬事をいたす時、何事もおもふやうになる事、うたかひなし。
一.わか身の佛を、身のねんさいゝゝけがせは、必はちうくる事、うたかひなし。身の佛は神と云、てんたうと云也。せかいの有かたき添事、わか心ひとつにとゝまる也。
わか心はてんよりあたへて、佛なり、神なり。必うたかふ事なかれ。
その佛をあらはさんため身のあくをさるを修行と云也。
一.させんして如来にちからをつくし、たらにをくりて、身のあくをさるへし。身のとかなき時、心あらはるゝ也。うたかふ事なかれ。
一.身のねんにひかれては、ちくしやうになる也。
一.身の佛を見つけ、うやまひたうとみしてゐる時、身のとかすきとなし。外よりありかたくおもひかけぬよき事ある也。
(前世より、常々魂は、現実の醜さに辟易して、理想を求めて、代々、その身を変えてきた。畜生に堕ちれば、もはや浮かぶ瀬はない。人間であって、その間、佛となれる。佛を得れば、何事も、思うようになる。自分の中にあった佛となりたい願いを汚せば、必ず、天罰が下る。この過去からの願いであった魂が、佛であり、神であり、天道である。宇宙が人間に賦与していた秘密であり、心がここに至れば、この一つの真実によって、幸福の中に安住する。この佛を自分の中に見つけて、これを大切にすることで、過去からの因縁も解け、宇宙から守護され、自然から祝福される。そして、良いことばかりが起こり、幸福を実感して、生きてゆける。疑いがそれを拒んでいる。)[2005/12/15 4:41am 「走れ歌謡曲」を聴きながら]
 
無限なる地平の出現 薬草喩品
地球は有限であると思われた。そこで、あらゆる活力が減退した。世の終わりであるが故に、夢をなくした。これから、どのような夢が描けるだろう、と。しかし、それは、大航海時代以降の概念による限界であった。たしかに、今までの方法論において、地球は有限化した。しかし、それ故に、新しい地平が開かれる。それが、こころの地平であった。そこでは、これまでの既成概念がない。物としての価値が低下する。そして、無形の精神的な価値が、あたかも、昇る朝日の如く、見えてくる。新しい時代の始まりである。無限の世界が待っていた。お金がなくても良い。家がなくても良い。鳥のように生きてゆける世界が開けていた。新しい世代はそれを感じている。あらゆる縛りのない自由。社会は社会で在る。その中での自由。社会は社会で市民革命以降の理想を実現する。その中で、軽くなった鳥としての自由がある。こころが解き放たれる。あらゆる苦悩が払拭される。それは、現実において、今まで知られることのなかった心の自由が具体化するという意味である。既存の社会のパラダイムと対立する自由ではない。既存の中にあって、今まで具体化していなかった部分が開発されたのである。今までの中に、仏の智慧といったものが、やっと、芽生えたのである。心の地平は、知性の華の咲きあふるる無限の地平である。
 
「このように一切のものの本質がないことをさとり、形状のないことを会得し、作為なく存在していることを知ることが、この世の苦悩から解放される端緒(いとぐち)であり、これが「さとり」の境地への入口であると考えて、人間は無知を克服するのである。そして、無知を克服することによって業の原因となる所行も克服される。こうして、遂には、その人だけの大きな苦悩の集積が克服されるようになるのである。」(岩波文庫『法華経(上)』p293)[2005/12/15 0:44am NHK-FM ジョン・ウェインの映画音楽を聴きながら]かぎりなく、自由であること。それが、解脱涅槃。自分を自分で縛っていないか。あらゆる価値で。また、思い違いして、刹那的快楽を自由と思っていないか。
 
「そのように、この世の人間には差別はないのであるが、如来たちはかれらの意欲によって人間を区別されるのだ。」(岩波文庫『法華経(上)』p295)「内部にいる者は、外にいる者が何をしたか、何もしなかったかを、今も知らない。」(岩波文庫『法華経(上)』p297)「汝が全知を望み、神通力を体得しようと志し、また神通力の体得を人里離れたところに住んで念じ、清浄な教えを求めるとき、それによって汝は神通力を得るであろう。・・・一切を知ることがなければ、「さとり」の境地はない。その達成を試みよ。」(岩波文庫『法華経(上)』p298)「一切のものは同じで、本体がなく、本質的に相違ないことを知り、またこれらのものを望まず、また、そのいずれをも決して区別して見ない者は、偉大な理智の持ち主であって、教えの本体を残らず見て、三種の乗物は決してなく、この世には唯ひとつの乗物のみがあると知る。一切のものは同じで、すべては等しく、常に平等にひとしい。」(岩波文庫『法華経(上)』p299)
 
2005年12月14日
平等について 『薬草喩品』
平等とは機会の平等であって、結果の平等ではないと言われている。また、平等と自由は対立概念であって、両立しないと言われている。自由と平等は調和ある配分が必要であるとされている。それは、指導的立場がするとされているようである。しかし、この指導的立場は今どこなのか。経済界、あるいは、庶民レベルが指導的立場にあるかのようである。官民あるとすれば、官が本来役人であり、指導的立場の筈である。主権在民とする理論が自己矛盾する。官も民も平等である。しかし、システムは、官を指導的立場として組み立てられている。およそ、機能すべくはない。民は官を信用していないし、聞く耳はない。ならば、民が勝れているかというと、そうでもない。本来、人間はその意味で平等である。多少、勝れていたり劣っていたりしても。人間の上に神がいる。神は明らかに一般世間よりも勝れている。しかし、神も失敗することがある。サルも木から落ちる。しかし、人間を超えた神々は実在している。往々にして、自らの能力に気づかないままに。それは、あたかも、眠れる森の美女の如く、世間一般により、眠らされている。さて、本来の平等の意味は何か。それは、如来から見た人間の姿である。如来は仏の智慧を達成し、人々に、同じような智慧を得させたいと思う。そして、説く教えは常にひとつであり、それは、さとりへ至る道である。この一つの教えであるが、受ける人間の能力と環境によって、種々に、理解される。所詮、人間は持って生まれたようにしか成長しない。そこへ向けての教えである。同じ雨を受けて、大樹もあれば、雑草もある。さらに、自由は仏の領分である。因って、人間の自由は、本来の自由ではない。自由と平等の両立し得ない理由である。で、どうあるべきか。それぞれの理解である。如来は、仏の智慧を得て、本来自由となって、この上ない安らぎのあることを知って貰いたいと思っている。人間の価値としている全てが、堕落とその助長であると思っている。だからと言って、無理難題を言っているわけではない。難行苦行しろと言っているわけではない。それぞれの能力に応じて、ほんの少し、努力して、真実を真実と知ることで、来世への夢もあると、勝れた者にも、そうではない者にも、平等に、真実を伝えようとしている。これが、平等の意味である。さて、清浄となって神通力を知る。知って初めて神通力と分かる。清浄となるには、行しかない。観普賢菩薩行法経。如来は、苦悩からの脱出こそ幸福論であると説く。そして、その方法=手段は仏の智慧であるとする。しかるを、人間の行為は、悉く、苦悩を集積している。権力、武力、そして、金力を手段として。ところで、親鸞聖人の悪人正機説、悪人であればこそ憐れみをかけるというのではなく、仏から見れば、悪人も善人もない、平等である、どちらも人間である、悪と善は人間界での基準による、仏から見れば、善人も掬われるべき人間である。(また、本来の主権在民の意味は別にある。これについては、永遠に秘密であろうか。)
 
信解品
「こうして、わたくしどもは世尊が教えを説いていられます間に、すべてのものは本体がなく(空)、形状もなく(無相)、また作為がなく存在するということ(無願)を明らかに知りましたけれども、わたくしどもは仏の教えを聴きたいとか仏国土の素晴らしい光景を見たいとか、「さとり」を達成された如来が遊技として奇跡を示されることとかを熱望しませんでした。・・・わたくしどもは求めることもなく、望みもせず、考えてもみず、懇願することもしないで、このように偉大な宝玉を得たのであります。」(岩波文庫『法華経(上)p223-225)「ところが、かの富豪は自宅の玄関前で豪奢な椅子に腰をかけていましたが、貧乏な男をひと目見るなり自分の息子である事に気づきました。・・・わたしはあの子のことを幾たびとなく思い出していたのだ。あの子は自分からここへやって来た。」(岩波文庫『法華経(上)p229)「かの長者はこの貧乏な男が高望みをせず卑賤な境遇に甘んじていることを知り、また自身の栄輝栄華を息子が疎んじていることを知っていましたし、まして、この男が自分の息子でることを知っていたからであります。・・・さて、世尊よ、かの長者はこの場合の適切な処置として、彼が自分の子であることを誰にも明かさないでしょう。」(岩波文庫『法華経(上)p231)「すると、この貧乏な男は・・・衣食を求めて貧民窟に行くでしょう。」(岩波文庫『法華経(上)p233)「『おい、下男、おまえはここで働け。二度と他処へ行くでない。わたしはおまえに特別の給金をやろう。おまえの欲しいものがあるなら、何でも遠慮なく「呉れ」と言うがよい。・・・心配するな。わたしをおまえの父親と思うがよい。・・・それに、おまえは汲み取りをして、わたしにいろいろと尽くしてくれた。その上おまえはここで仕事をしていて、悪いことも、不正なことも、不誠実なことも、何ひとつしなかったし、傲慢なところもないし、猫被りも一度もしたことがない。今後も決してしないだろう。・・・おまえは今日からは、わたしの実の子と同じだ。』」(岩波文庫『法華経(上)p235)「某という都城があり、そこから五十年前にこの子は姿を消したのです。」(岩波文庫『法華経(上)p237)「父は自分の息子が家出したことを知り、・・・父は五十年ものあいだ四方八方を遍歴しよう。そして、このように、父は息子を探して他の大都市に赴き、そこに邸宅を造って住み、五種の欲情の対象に恵まれるとしよう。・・・またいつも王の寵臣であった。」(岩波文庫『法華経(上)p245)「『わが息子は本当に馬鹿だ。既に五十年ものあいだ失踪している。』・・・彼の愚かな息子は貧乏で、いつも困窮し、衣食を求めて村から村へ放浪しつづけていた。」(岩波文庫『法華経(上)p249)「『この愚か者は愚かにも欲がない。あの男はこのわたしの栄華が自分のものであると信ぜす、このわたしが自身の父親であることも信じない』」(岩波文庫『法華経(上)p249)「そして満二十年のあいだに、この男を次第に安心させた。・・・彼は自分の息子がこのように高潔な考えをもつようになったことを知って、・・・」(岩波文庫『法華経(上)p251)「父の財産によって仕事をせよ。」「また無欲であったことを思いめぐらし、そして父の善徳を肝に銘じ、家内中のものを得て、『いま、わたしは幸せだ』と、不思議な気がしよう。」(岩波文庫『法華経(上)p253)「仏のこの上ない智慧を、われわれは長いあいだ求めなかった。われわれはそれを熱望したこともなかった。」(岩波文庫『法華経(上)p257)「この世の師である仏は、われわれの意向を探り知り、われわれを放置して時を待ち、そのあいだ言葉の真実を語られなかった。・・・仏は巧妙な手段を示して、無欲で勝れた「さとり」を求めようとしない息子たちを馴らし、馴らしたのちに、この智慧を与えるという誠に困難な仕事をされた。」(岩波文庫『法華経(上)p259)「仏の教誡に従って、身体の純潔を守って、清浄な最高の修行をつづけてきたが、その勝れた果報を、平静で高貴で、しかも汚れのない果報を、今日われわれは得た。・・・幾千万劫のあいだ、専一に努めても、あなたの真似を誰がよくなしえようか。このように困難なことを、この人間世界において実に困難なことを、あなたはなされたのだ。」(岩波文庫『法華経(上)p261)「仏は洪大なる教えの持主であり、並ぶ者もない威厳を有し、偉大な神通力を具え、いかなる迫害を受けても堅く心を動かさず、大王で汚れのない勝利者である。・・・仏は教えの王者、一切の世間における自在者であり、大自在者であって、世間の指導者の王である。・・・如来はこの世に存在するすべての者や人間たちの行為を知り、この最高の「さとり」を示しつつ、種々さまざまに教えを語りたまう。」(岩波文庫『法華経(上)p263)
 
[法華経は難しい。是を理解するには、たとえば、ジグソーパズルが完成するように、すべての条件が、属性としてそろわなければならない。そうした人格は、前世からの積み重ね(宿王華)で為される。およそ、人間の失敗してきた所以も理解できる。如来とは宇宙より来たる。どうしようもない秩序がある。是に反しては、・・・。是からはみだしては、・・・。垂直の秩序(スートラ)がある。法である。]
 
ヨブ記の約束
ヨブはうめいた。津波のように不幸がおしよせた。それでもヨブは神に祈った。この祈りは何故できたか。これが、前世からの因縁であった。ヨブは考えた。そして実行もした。しかしすべて奪われた。何故か。過去の清算であったのだ。それは、ヨブに与えられた試練。ヨブは堪えた。堪えるチカラはどこにあったろうか。これも、前世で培っていたものだった。やがて罪が消えるときが来る。その約束があるからこその試練であった。そして、一切の妄念が焼き尽くされる時を迎えた。ヨブは祈った。我のチカラではなかった。ヨブは自然から祝福された。至り点いたのだった。この世の使命を果たしたのであった。これが、ヨブ記の約束である。
 
至道無難禅師集(公田連太郎編著)より
「しれは迷ひ しらねは迷ふ 法の道 なにかほとけの實なるらん
此歌の心明ならは、大道あらはるへし。
一.佛眼ひらき見るに、日本の衆生は佛にちかし。惡氣少き故なり。惡氣といふは、身を思ふなり。迷ひの根本なり。しかも我身にあらず。それをわがものと思ふは、至りてあさましくかなしき事なり。誰も知る事なれとも、死するなり、病むなり、貧苦をうくるなり、これ我物にあらさるしるしなり。かゝるうき世に生をうけて、苦みおほきをわきまへず、命なかゝらん事を願ふ。大方人を見るに、齢七十に及ぶは稀なり。」
 
知ったというと嘘になり、知らないと言っても嘘だけど、本来のさとりはどこにあるのだろうか。知って行をして、やがて至るところであって、観念ではない。だれがなんと言っても、どうにもならない体験を通して、自信を得る。それが、ほとけの實とも言うべきもので、それは、前世からの約束であり、それに応えた結果と言える。日本人は唯一純粋民族と言えて、大和魂という、清浄な心を持っている。また、自然に恵まれている。この身は、いわば、魂の仮の宿であり、自分のものではない。魂の思いに合致すれば、それは、そのまま、自然に受容され、祝福される。魂=自然(神)
が宇宙とリンクしている。宇宙が守護する。その反射がさとりと言える。それなのに、この世に生まれた意味を思い出すことなく、自分勝手して、そして苦しんでいるというのが、人間である。命のある間に、自分自身を見つけて、いわば、魂と合体して、この上ない幸せを味わうべきものを。そして、日本人が自然環境に恵まれ、単一民族国家であることから、このさとりへ至るのに、近い。また、日本人に与えられていた使命であるとも言える。それを、明治以降、世界と合流して試されたのだが、その使命も忘れかけている。要は、前世からの事があり、神も存在している。この事を日本に託されていたのに、世に汚れることで、日本も腐敗しつつある。しかし、是も亦約束であった。こうして、如来が示される時を迎えた。それは、旧約聖書の予言内容とも一致した時であった。ここに、人類、あるいは、生命体としての不思議がある。目覚めたものが勝ちである。そして、この道は至れば無難である。難行苦行は要らない。こころの清浄と正直が有れば足りる。そして、かぎりなくやさしくなれる。いつもほほえんでいることができる。そうした境地へ至ることができる。(2005/12/14 2:18am NHK深夜便 サラ・ボーンなど聞かせて頂きながら)
 
2005年12月13日
法華転と転法華
例えば、法華経は経典の王と言われている。また、最も難解な経典と言われている。さて、そこに書いてあることは何であったか。三乗の教えも方便であるという。ただ、最高の乗物である、一乗を説くことが目的ではあるが、段階に至っていない者のために、三乗を説く、と。結局、最高の「さとり」とそこへ至る方法論が説かれている。また、至ってみないと分からないとする。そして、至るためには、前世からの修行があってのことだという。人間は同じ姿をしているが、前世が違うという。それで、是が真実であるが、是を説くことはなかったという。すなわち、「さとり」へ至るまでは、法華転である。「さとり」へ至れば、転法華である。ここを、白隠禅師は「隻手の音」を聞かない間は何をやってもダメだ、聞けば何をやっても真だ、という。道元は、「現成公案」という。「さとり」は自得あるのみで、他の評価を待つものではない。その結果は、神力を得るかどうかである。自然に祝福されて、自然が自分のために動いてくれるかどうかである。因って、最高の「さとり」は、一般には神秘である。そして、大切なことは、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」。誰もが仏の種を持っている。そして、人間として生まれてきたのは、過去において、何らかの仏縁有ってのこと。かつて、必ず、自分も人間に生まれて、仏へ至る修行をしたいと憧れていたからこそ、今生に生まれてきている、と。しかし、人間である以上、本能がある。是に負ける。生まれてきた意味が思い出せない。また、仏になるには、荒行が必要であるかのように思う。それで、その気になっても、気持ちが挫ける。難行苦行が要らないことは、仏陀自身が証明済みである。五欲を断ぜずして、悟りへ至る道が開かれている。その道を探すことだね。それが菩薩業。教菩薩法も開かれている。ところで、政治と宗教がタブー視されている。一般人の一般人たる所以である。単なる卑怯な逃げである。経済は下部構造である。上部構造を考えようとしていない。それで、むしろ問いたい。政治と宗教を無視して、どんな未来と人格を描いているのか。唯、結果、腐敗と堕落への転落とその助長ではないのか。あまりにも身勝手、無責任ではないのか。どのような人間社会にしようとしているのか。動物以下の無秩序か。あなた方の表現の結果としての現実腐敗社会である。この腐敗の責任は社会全体にある。自分だけは加担者でないと思っていないか。この傾向がこのまま続けばどうなるのか。大人の責任である。次世代に、客観的判断基準を整理し、用意しておくべきである。あまりにも安易で愚かな方向へ進みすぎている。答えを待つ。
 
高齢化社会と障害者にやさしいインターネット(引用)
●高齢化社会の中で、インターネットを楽しみ、パソコン・ライフを実践することは、たとえば、かつて、新幹線ができたとき、新幹線に乗りたい、といった気持ちを大切にして、つまり、自分の気持ちに素直になることではないでしょうか。東京オリンピックがあったとき、カラーテレビで見たい、と思った頃の気持ちを。今、68歳の方も、まだ、あと10年は働ける社会が、始まっています。だから、パソコンとインターネットを精一杯楽しむことをしてみましょう。しかし、何事も、案内人がいると、楽で安全です。そこで、そのためのお手伝いができるなら、無上の喜びとするところです。また、図らずも、障害を持ってしまった方も、パソコンをして、インターネットをして、それぞれが、楽しく、やさしく、生きていける時代が始まりました。だから、みんなが、ほんとうの幸せを、もっと、楽しんでいい、と思われます。つまり、「周りが幸せになれば、その中にいる、自分も、必ず、幸せである」という法則が実践されると、これが、「わかちあうこと」であり、つまり、全体のレベルが上がることで、自分たちも、自然と楽な環境の中で生活してゆけるのです。一部の方だけが、利益を得る時代は、もう昨日までのことです。だから、呉市だったら呉市中央公園へ出かけると、樹木がたくさんあって、美しく、整備されていて、お散歩するには最高です。そこへ、パソコンを小脇に抱えて、あるいは、車椅子のひざの上において、出かけることも、きっと楽しいことです。木漏れ日浴びて、そよ風吹いて。そして、小鳥たちが舞い降りてきます。もう、高齢者の方も、障害をもっておられる方も、自分ごととして、インターネット社会へ、入っていける時です。その環境は整いました。しかし、情報は自分で管理する、と言っても、それは難しいことです。それは専門家に任せて、自分たちは、この安全で楽しい、そして最先端の技術であるインターネット空間を、思う存分享受し、豊かな、新しい暮らしを作り出していきましょう!インターネットは、私たち、庶民あるいは市民のものとなりました。【2004/11/20 Sat.】
http://www.pc-kure.net/より
 
ITライフの始まり (引用)
●ITライフの始まり
【2005/10/16】 友情は出会いから生まれることが多いです。しかし、幾多の戦いの中から生まれることもあるようです。今、日本とアメリカは同盟ですね。それぞれの国にはそれぞれの歴史があって、事情もある。時によっては相互理解ができなくて、戦いともなった。しかし、その後で、お互い反省するところがあって、そして固い友情が生まれることもある。戦いは人間の哀しい性でもありますね。人間も進化しています。幸せへと向けて。幸福論はいくつもありました。その理念が実現されようとしています。人類の夢であったやさしさを理念とした世界がすぐそこにあるのですね。常に手を差し伸べてくれていたのですね。21世紀って、とても素晴らしく、美しく、ありますように。すでにある宝石の発掘。先哲へのアップリシーエイトをすることで、その道は既に開かれているのでした。その地図も見つかったように思われます。宝は取り放題ですね。インターネットに於いてその情報は共有で良いのではないでしょうか。但し、生活の手段としての諸権利は厳しく保護されるべきと思われます。何故かというと、以前にも増して、簡単に犯されるのですから。その意味では、インターネット内での監視も肝要かと思われます。そして、市民が、安全に、自由に、この新しい文化空間で往来できるといいなって思われます。インターネットは完成しています。今までの試験段階は既に終わっています。だから、新しい秩序を必要としています。この完成されたインターネット空間は、一般の想像を絶しています。およそ、一般の方の手の出せる世界ではありません。また、絶対の信頼を寄せて良い世界です。21世紀の新しい世界が形成されているのです。故に、システム管理は専門家にお願いして、安心して楽しむことができる、と思われます。これで良いと思われます。これから、いよいよ、夢に見た、ITライフの始まりです。この新しい文化に参加して、人生を謳歌したいものですね。
http://www.pc-kure.net/より
 
譬喩品
「疑惑はまったくなくなり、わたくしは、ここに最も勝れた乗物に乗ることができるようになりました。仏たちの声は驚嘆するほどに美しく、人々の疑念と憂いとを払い去ります。その声を聴いて、わたくしの罪障は消え失せ、憂いもすべて無くなりました。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p137]「『仏となり、最高の人間となり、人間や神や・・・から尊敬されて、三十二の吉相を具えた身体をもつ者となったとき、完全に「さとり」の境地に達する』と、仏の声を聴いて、わたくしの誤った考えはすべて除かれました。神々と世間の人々の面前で、最も勝れた「さとり」に到達すると予言されて、わたくしは今日「さとり」に到達しました。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p141]「多くの求法者たちを励まして、この仏の「さとり」を深く微妙な言葉で説くでありましょう。」「汝は長いあいだ余の弟子であった。汝は前世における求法者としての計画により、また求法者の神秘により、この世において余の説法に近づいた。ところが、汝は仏の不可思議な威力により前世における修行と誓願とを忘れ、前世における求法者としての計画も、また求法者の神秘も思い出すことなく『わたしは「さとり」の境地に達した』と思ったのである。そこで、・・・余は汝に前世における修行と誓願を思い出させて智慧を目覚めさせようと欲して、・・・すなわち求法者をいましめ、一切の仏の財産であり、大乗仏教の教えを詳しく説いた最高の経典を、・・・説き明かしたのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p145]「そのときこの仏国土にいる求法者たちの大部分の者は、宝玉の蓮華の上を歩きまわる者となるであろう。しかも、かれらは初心の未経験者ではなく、長いあいだにわたって善根を培い、幾十万という多くの仏のもとで・・・如来から賞讃され、仏の智慧を得ようと専念し、仏の偉大な神通力の遂行によって生まれ、あらゆる教えの方法に通暁し、温和で、前世の記憶をもっているのだ。・・・かの仏国土には、このような求法者たちが満ちあふれるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p149]「汝は幾千万の仏を崇め尊び、それによって修行の力を得て、また十種の力を生じて、この上なく勝れた「さとり」に到達するであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p151]「そこには、前世の思い出をもち、種々の修行の完成に長じた多くの求法者がいた。かれらは幾百の仏のもとにて修行を教えられ、その国土に生まれるであろう。そして、かの仏は最後の化身のとき王子の境遇を過ごし、愛欲を捨てて出家し、この上なく勝れた「さとり」に達するであろう。」「汝こそこのような仏となり、他に匹敵する者のない者となるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p153]「この世においても、またあの世においても、われらが聴き、行ったことが、また仏を満足させたことが、われらの「さとり」の誓願に役立たんことを。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p157]「理解すぐれた人は唯ひとつの喩え話をしても、直ちにその意義をさとる。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p159]「完全に「さとり」をひらいた如来は、すべての恐怖をまぬかれ、人間世界を覆いつつむすべての苦痛や混乱や害悪や苦悩や不快や無知などから、完全に、しかも如何なる場合にも、解放されているのだ。如来は智慧と威力と自信と勝れた特質と仏の教えを賦与されており、神通力によって非常に威力のある世間の父であり、素晴らしく智慧を働かせて巧妙な手段を用いることでは奥義を極めており、非常に憐れみ深く、世間の幸福を念じて倦むことのない心の持主であり、世間に憐れみを垂れる者である。彼は、生・老・病・死の苦しみと悲しみのために起こる苦悩とか不安とか混乱とか無知とかの真黒な覆いにつつまれた人間たちを、貪欲とか憎悪とか愚痴蒙昧から解放するために、そしてこの上ない「さとり」の境地に達するように励ますために、苦悩とか不安の火焔のために燃えさかり、屋根や覆いの朽ちはてた家さながらの三界に姿を現わすのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p171]「ところが、人間たちはまこと快楽のために、また愛欲の因縁のために、種々の苦悩に遭遇しているのである。かれらは、現世においては切望しているもののために、また来世おいては獲得しようとしているもののために、地獄や畜生の胎内やヤマの世界に生まれかわって、種々の苦悩に遭うであろう。・・・そして、かの大きな苦悩の集積に圧倒されながらも、苦悩に対して心を集中するべきであるという考えを起こすことはないのである。」「『余は実にこれら人間たちの父である。余はこれら人間たちを、このように大きな苦悩の集積から救出しなければならない。そして、これらの人間たちが遊び戯れ娯しめるように、かれらに測ることも考えることもできないほどの仏の智慧という幸いを与えなければならぬ。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p173]「『もし余が、智慧の力を有すると考えたり、また神通力を有すると考えたりして、手段を用いないで、これらの人間たちに如来の智慧の力と自信とを教えたとしても、これらの人間たちはこれらの教えによって苦悩から脱出することはないであろう。・・・屋根や覆いの朽ちはてた家さながらの三界から逃れ出さないままで、かれらは、どうして仏の智慧をさとることがありえよう。』」「完全に「さとり」に到達した如来は如来の智慧の力と自信とを具えていながらも、如来の智慧の力と自信を用いることなく、巧妙な手段を用いて、屋根や覆いの朽ちはてた燃えさかる家さながらの三界から人間たちを逃れさせるために、・・・」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p175]「三界から逃れ出るために、おまえたちは精を出して努めよ。」「『五種の力を発揮し、七種の修行をし、瞑想して解脱のために心の統一を達成することにより、偉大なる快楽をそれぞれに娯しめ。そして、おまえたちは偉大な幸福の楽しみを賦与された者となるであろう。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p177]「一切を知り、みずから存在する仏の智慧を欲して、多くの人々の幸福と安楽を願い、また世間に対する憐れみから、大衆の利益のために、また神々および人間の幸福と安楽のために、すべての人間を完全な「さとり」に導き、如来の智慧の力と自信を理解させようとして、如来の教誡に傾倒するのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p179]「そして、三界から離脱した人間たちに、如来は瞑想と苦悩よりの解放と心の統一の完成という、尊くて非常に楽しい、かれらが悦ぶ玩具を与えるのだ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p181]「彼は、自分の子どもたちが・・・何も知らない愚か者のように、遊びに夢中になって戯れていることを聴く。彼は子どもらに・・・告げる、『おい坊やたち、物凄い災難だよ。ここには、いろいろなものが棲み、またこの火だ。災難が続いて起こるし、激しいよ。毒蛇や、残酷な心の・・・どもが数多く棲息し、猛獣どもも、犬や狼の群れも、また鷲などが食物を探し求めている。・・・このような輩が棲んでいて、火事が起こらなくても、最高の怖ろしさなんだ。このように、どれもこれも災難であるのに、火がまた四方に燃え上がったのだ。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p191]「このように諭されたのにかかわらず、子どもらは、遊びに夢中になり、父の言葉を考えず、また気にもとめない。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p193]「そして、余は三界を解脱して、平静な心を得て、森林にただ独り住む。しかも、この三界は余の財産であり、そこで焼かれる者たちはわが息子である。余こそかれらの保護者であることを知り、余はそこにある禍惡を示した。しかし、かれらはすべて愚かにも愛欲に耽溺していて、余の言葉に耳を傾けなかった。余は巧妙な手段を用いて、かれらに三種の乗物を語る。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p199]「余のみを頼りとする息子(声聞)たちも、また独覚たちも、六種の神通力と三種の学識と偉大な威力をえて、後戻りすることなく、かれらはここに求法者となる。・・・学識ある人よ、唯ひとつの仏の乗物を説く。それを大切に護持して、すべての者は仏となれ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p201]「この宝玉づくりの最も勝れた車は、多くの求法者たちや仏の言葉に耳を傾ける声聞たちが、乗って遊びながら、この世において「さとり」の壇に赴く乗物である。」「幾千万劫にわたって焼き苦しめられている汝らを、余は危険と恐怖の満ち溢れた三界から救ったのだ。そして、その場合に余は「さとり」の境地を語る。・・・この世の人間たちが卑しく唾棄すべき愛欲に耽溺しているとき、またその場所で、常に真実を語る世の指導者は、この世における神聖な真理として、そのとき苦悩を説く。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p203]「愚かな理性の輩が無知で、この世における苦悩の根本を視ないとき、『激しい欲望の生ずることが苦悩の起源である』と、余はかれらに進むべき道を示す。激しい欲望を滅するために、汝らは常に執着してはならぬ。これこそ、余の説く第三の真理「滅諦」である。それによって、人は間違いなく解放されるのだ。この道を実行してこそ、解放があるからである。・・・迷妄から解放されるのだ。しかし、いずれにせよ、かれらは完全に解放されたのではない。『かれらは「さとり」の境地に達していない』と、この指導者はいう。余は何故にその人の解放を語らないのか。彼が、この上なく勝れた「さとり」に到達していないからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p205]「教えの王者として、人を安楽ならしめるために、この世に生まれるのが、余の望みなのだ。・・・神々と世間の人々の幸福のために、その教えを四方八方に説き示せ。・・・この経典を信奉する人は、かつて前世において如来たちを見、かれらに恭しく仕え、またこのような教えを聴いた人々である。余の語った勝れた言葉を信じる者たちは、余と汝とを見た人であり、また余の教えに従う、すべての僧の群れと、これらすべての求法者たちを見た人である。この経典は愚かな人を迷わすと、神通力によって知り、余はこの経典を説かなかった。ここには実に声聞たちの力は及ばず、また独覚たちも到達しえないからだ。・・・かれら(声聞たち)は余のみを信じて歩み、各自の勝手気儘な智慧は見られない。高慢な輩や自惚れた輩や、また修行しない連中に、汝はそれを語ってはならぬ。愚かな輩は常に愛欲に狂奔し、何も知らず、教えを語られても、それを捨てるであろう。余の巧妙な手段は常にこの世に確立されている仏の指導方法である。それを捨てて、渋面をして乗物を捨て去った人の、この世における悲惨な報いを汝は聴け。余の在世中であれ、あるいは入滅した後であれ、このような経典を捨て去って、あるいは僧たちに苛酷な態度をした人々の受ける報いを汝は聴け。愚かな輩は人間界で死んだのち墜ちて、幾劫かを満了するあいだ、阿鼻地獄に住む者となり、その後さらに幾小劫のあいだ、かれらはそこで堕落を続けるのだ。・・・彼は地上に教えを垂れる王者の仏を決して見ることはなく、仏としての余の指導を捨てて、教えを聴きえないところに住む。・・・このような「さとり」を捨てて、彼は決して心の平静を得ることはない。・・・また、他人にこき使われて、常に貧乏である。・・・個我に関して異端の見解を堅持し、また、彼の憤怒の力は増大する。・・・しかし、この世に賢明で博識があり、記憶力すぐれ、学殖があり、智慧ゆたかで最高の勝れた「さとり」に進む者があれば、汝はかれらにこの最高の真実を説け。幾千万の仏に見え、また数えきれないほどの美点を培い、そして信心の堅い人々がいるならば、汝はかれらにこの最高の真実を説け。勇気があり、常に慈悲の心をもち、この世において長いあいだ慈悲を行ない、そのために生命を捨てる者があれば、かれらのために、その面前でこの経典を説け。お互いの目的を尊重し、愚かな輩と親しまず、また山林などに満足する人々に、汝はこの素晴らしい経典を説け。・・・この大乗の経典を信奉し、しかも他の経典を好むことなく、他経から一詩頌さえも信奉しようとしない人に、汝はこの勝れた経典を説け。・・・最高の勝れた「さとり」に進む人々のために、その面前で、汝はこの経典を語れ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p207-221]凡そ法華経は分かった。しかし、・・・。羅刹は云った。やはり、勘弁ならぬ、と。仏もぬるい、仏如きの勝手も許さぬ、と。奴は何者か。仏をも超えたか。十?士!この度は、AnyThing is new! 既存の概念は一切通らない。人類初めての”法力”の支配の始まりである。自然が動いている。旗頭は「直心」!すべては、大いなる自然に導かれていたと言って良い。撰ばれし者の特権と云うべきか。知らしめんが為の戒めはある。しかし、いつも、その傷は軽微であった。治癒すべきものであったのである。何事も経験を通して、自分のチカラとなる。目に見える名誉だけではない。見えないところにおける試練を如何に克服したか、是が人格形成上の大きな要因となる。しかし、やはり、導かれていた。神=自然の摂理がある。法華経は、一般世間を愚かと規定する。さとりは、前世の結果であるとする。信じるべきは一般大衆である。仏の属性を持つものは、醜いアヒルの子(白鳥)である。世間は、やはり、罪を犯している。何時までも、これまでの愚かさの増殖は許されていない。知性を愚弄した罪は裁かれる。馬鹿騒ぎは終わりである。品格の否定はここまでである。自然の選択が為された。時が満ちた。世界の進路が示された。神=自然の自己証明が示されたのである。それでも、人間が思い上がるのであれば、凡そ、人類も地球にとって、通過点に過ぎない。己の分際を知るとは、小林秀雄も晩年に至って初めて気づいたことだった。やがて、わかる。今生ではないかも知れないとしても。もはや、法華経も古い。乃ち、現在、チカラのある唯一の御経典は『妙法華経』である。そして、世間一般は神を信じていない。これが、明治以降の重罪である。法華経は、世間一般から超越した神の実在を前提にしている。あらゆる愚かさの原因がここにある。世間一般にとって神は迷惑であろう。しかし、真実は真実である。同じ人間でありながら、生まれながらにして、人格の差がある。世間一般はむしろ、人格の向上を目指すべきである。しかるを、自分たちのコピーを増殖することしかしていない。文化が腐るのは当然である。クラシックを粗末にして、自らの存在がある筈もない。その意味では、アメリカもその非難を免れない。共和制の限界が露呈しているのである。しかし、世間一般の理解は得られないであろう。貧しさの真の意味は、無欲である。因って、貧しきものは幸いである。貧しさは人格の否定ではない。むしろ、高潔の故である。現在資本主義がどのようにして始まったか。日本においても、その資本はどこから始まったか。戦後、焼け跡の空き地を奪った者がいる。焼け跡の瓦礫を奪って始めた者もいる。現代腐敗は、その結果である。現体制は今のままで良い。ここから始めるしかない。問題は、根本精神の洗い直しである。利益追求の精神基準の転換である。利己主義である限り、けがれた人間の精神である。結果、不幸となる。さて、何を議論するべきか。これより、愚かでは生存できない。諸結果は出ている。反省の時である。一切、弁解の余地はない。人間レベルの勝手が過ぎた。基準の見直しである。努力することを忘れすぎていた。社会の辺境=荒野から敢えて呈する苦言である。ところで、女は畑、男が種である。日本も進路を誤るか、そこまで、見えなくなっているのか、女系天皇。世も末か。もはや民主主義ではない。衆愚主義のアンケート。終わりが近いか。民=人間はここまでつけあがったか。自然=神の鉄槌があるかも知れないね。自然=神の生存のために。自然摂理=神(命)を冒涜して、その罪を認めず、尚、自らの利益のみ考えている。虫がよすぎはしないか。自然が意思決定すれば、人間など・・・。敗戦の時の枕崎台風の意味を知らぬらしい。人間が掬われる為には条件がある。よく考えるべき時である。地球は愚かな人間のためにあるのではない。さて、社会の腐敗と秩序の悪化、行政各論の職務怠慢の結果だね。分を過ぎた身分に安住していたね。もともと行政能力とその資質はなかったと言うべきか。責任感もね。一度の試験に合格しただけで、権力を付与されていたとでも思っていたのかな。所詮、民主主義→衆愚制化の当然の結果かな。
 
2005年12月12日
方便品
「余こそ如来の智慧の発揮を鼓舞した者であり、如来の智慧を人々に示した者であり、また、それを理解させ分からせるとともに、それを発揮するに至るまでの道程を人々に理解させた者であるからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p91]「現在、十方にある、測ることも数えることもできないほどに多くの世界に、完全に「さとり」に到達した如来たちがおり、そこに逗留して居住しているが、かれらは世間を憐れんで、多くの人々の幸福と安楽のために教えを説く。」「さらに基本的な考え方を説明するという巧妙な手段によって、信心について、それぞれに異なった意向を持ち、さまざまな感覚をもつ人々の心の動きを知って、教えを説くのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p95]「如来は時代の堕落の際に出現するのである。」「この教えを仏たちが悟った次第を、・・・余から聴け。・・・汝の志願するところと修行を知り、またこの世における幾千万の人間の種々さまざまな意向を知り、かれらがかつて積んだ福徳と現在の数々の行為を知って、種々の説明をし根拠を示して、余はこれらの人間をこの教えに到達させよう。」「幾千万の多くの仏のもとにて修行せず、いやしいことを楽しむ無知の輩に、生死の回転(輪廻)に巻き込まれて苦悩にさいなまれる輩に、余は「さとり」の境地を約束しよう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p103]「賢聖は時機を待ち、好機を見て、しかる後に語る。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p105]「仏がどのようにして、どのようなことをさとったにせよ、仏がみずから安住するところに瞑想して解脱を願い、体力と感覚の機能をもつ人々を仏は安住させるのだ。」「余には、吝嗇の心は全くなく、嫉妬もなければ、また欲望も情熱もない。余は一切の惡を剪除している。余は世間をあまねく知るがゆえに仏なのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p107]「仏として余は「さとり」を世に弘めよう。」「すべての無知な輩は混乱し、必ずや余の勝れた言葉を理解しえないだろう。かれらは前世において修行をせず、愛欲の対象に夢中になって、それに心がとらわれ、渇望のために愚かとなり心が乱れていた。余はかれらがこのようであることを知っている。かれらは愛欲のために悪い運命に陥り、六種の運命にさいなまれながら、福徳の少ないかれらは苦悩にさいなまれて、かれらは死をくり返した。常に「有る」とか「ない」とか、「そのようだ」「そのようでない」とか、種々の邪悪な思想の密林の中にさまよい、六十二種の邪悪な思想を頼りとして、虚偽を堅く守ったままでいる。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p109]「かれらは心がねじれ、高慢で、不実であり、頑固で無知で愚かである。幾千万億の生涯を重ねても、かれらは決して仏の好い声を聴くことはない。」「かれらに手段を語る。人々が苦悩にさいなまれているのを見て、その場合でも平安な境地を約束するのだ。」「そして仏の教えもまたひとつである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p111]「如来は神々もいるこの世間において、人々の意向と心の動きを知り、仏たちの他の種々の手段を用いて、余の勝れた教えを弘めるのだ。かれらから親しく教えを聴き、あるいは教えを聴いた人々は、贈物を贈り、戒行を実践し、忍耐によって、すべての修行を成就した。精進し瞑想に専念して仏に仕え、あるいは理智でもって、この世に存在するものを考える。種々の福徳ある所行をして、その功徳によって、かれらはすべて「さとり」に到達するであろう。」「一本の華を供えても、取り乱した心で供養しても、かれらは順次に幾千万の仏を見るであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p117]「過去に入滅した仏であれ、あるいは現にこの世にいる仏であれ、これらの仏から、そのとき、教えの一部分でも聴く人があれば、それらの人々は「さとり」に到達するであろう。未来にも、考えられぬほどに数多くの、幾千万という仏が出て、その数は測り知られないが、これらの仏たちも世間の最高の庇護者として、この巧妙な手段を世に弘めよう。世間の指導者である仏たちには、巧妙な手段が無限にあるであろう。それを用いて、この世において、かれらは幾千万の人間を汚れのない仏の智慧に導くであろう。かれらの教えを聴いて仏とならない者は、一人としてない。「さとり」を求めて修行して、人々にも修行させたい、これこそ実に如来たちの誓願なのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p119]「この世において、すべての人間を安楽ならしめるために、かれらはこの最勝の「さとり」を説く。」「余もこの怖ろしい揺れる世界に、人々の堕落の真中に出現した。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p127]「現象で判断して偏見を抱き、うぬぼれている無知な愚か者たちには、いま、信じがたいであろう。しかし、これらの求法者たちは耳を傾けて聴くであろう。」「いつか、どこかに、なんらかの方法で、人間の雄牛(仏)たちのだれかが現れる。無限の眼を持つかれらは、この世に出現して、いつか、このような教えを教示するだろう。このような最勝の教えは、幾千万億劫を経ても、得がたいであろう。最勝の教えを聴いて信ずる者たちも、同様に得がたいであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p129]「それは、人を魅了する姿であり、神もともに住む世界の驚異であろう。余は、それよりも一層驚異すべき教えを語ろう。余の語った教えを聴いて、悦んで一言でも教えの言葉を語るならば、それはすべての仏たちに供養したことになろう。」「かれらはすべて求法者となり、余の弟子である声聞は一人もいない。」「これは汝にとって秘密であれ。そして、余のすべての弟子、これらの傑出した求法者たちも、余のこの秘密を信奉せよ。なぜだか分からないが、五種のけがれの時代には、悪意のある輩や凶悪な輩がいるものだ。愛欲のために盲目となった愚か者たちは、決して「さとり」を心がけることはない。余のこの唯ひとつの乗物が仏によって世に弘められたと聴いても、それを信ぜず、未来において、かれらは経典を捨てて、常軌を逸し、地獄に堕ちてゆくであろう。最上で最も勝れた「さとり」を得ようとする柔和で清浄な人々もいるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p131]「疑念を捨て、疑惑を去って、仏となれ。そして、それを悦べ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p133]
 
心の地平〜如来がこの世に出現する唯一の動機〜
「彼の仏国土は平坦で心地よく、瑠璃づくりで宝玉の樹木で飾られ、陥し穴も断崖もなければ溝や汚水溜りもなく、素晴らしく美しく、花が撒かれているであろう。そこでは、人々はあらゆる楽しみが設けられた宮殿楼閣の中に住居を構えるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p309]これが、21世紀の約束であり、乃ち、新たに開かれていた心の地平であった。これより居住するべきは、宇宙=心の地平であった。二十一世紀の新大陸であり、新世界である。
 
「このように、わたしは聴いた。あるとき、世尊はラージャ=グリハ(王舎城)のグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に滞在して、千二百人の僧と一緒にいた。これらの僧はすべて阿羅漢で、汚れもなければ、欲望のわずらいもなく、自己に克ち、心も理智も巧みに迷いを離れており、高貴の家の生まれで、偉大な象であった。かれらは為すべき義務をすべて為し遂げて、重荷を棄てて自己の目的を達成し、この世のきずなを断ち切っていて、完全な自制によって心に迷うことなく、あらゆる心の動きを制御して、六波羅蜜を完成しているばかりでなく、神通の智慧の傑出した偉大な・・・。」。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p9](今、広島大野に王舎城がある。霊鷲山とは世界一の墓場であり、それは、今、原爆を投下された広島だと云われている。)
 
「また、八万の求法者たちも、その座につらなっていた。かれらはすべて、「さとり」を達成しようと修行して後戻りすることなく、この一生だけをこの世で送って二度と再び生死の回転(輪廻)に陥ることなく、またこの上なく完全な「さとり」を達成するための確固たる地盤を獲得しており、四種の自由自在な理解と表現の偉大な能力を賦与されていて、教えの車輪を挫けることなく回しつづけ、幾十万という多くの仏に仕え、これらの仏のもとで善根をつちかい、これらの仏から讃歎された。かれらの肉体と心とは悲しみに包まれており、かれらは如来の智慧にはいることが巧みで、偉大な理智をもち、理智の最高の完成状態(般若波羅蜜)に到達する道を歩んで、幾十万という多くの世界に名声が高く、幾千万億という多くの生命ある者たちの救済者であった。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p13](輪廻とは、地獄(岩石)、餓鬼(植物)、畜生(動物)、阿修羅(戦争状態)、人間、天=神の六道を巡る。天=神と雖も、地獄に堕ちる約束である。これに対して、人間、天=神、声聞(教えを聞いて真実を求めようとしている)、縁学(独学で真実を学ぼうとしている)、菩薩(教えを聞いて、周りが幸せであることで自分も幸せであることを認識し、人と共に修行している)、仏(悟りを得ている)の新六道輪廻がある。此処に於て、人間以上に生まれる約束となる。ところで、人間界は、地獄から仏に至る十の階層からそれぞれ集まっている世界である。つまり、同じ人間でもその人格が異なる所以である。さて、この人間界に於て、行をすることで、旧六道輪廻から新六道輪廻に渡ることができる。彼岸へ至れるのである。人間とはそういう階梯である。ところで、仏とは、五大元素のことであり、それを仏語で、地水火風空と呼ぶ。このそれぞれには、プラスとマイナスがある。例えば、水も、ご飯が炊ける水はプラスであり、洪水はマイナスである。それぞれのマイナスが全てプラスとなり、プラスが十の状態が仏である。それで、仏の守護とは、自然から祝福されている状態である。)
 
「・・・これらの仏国土には、尊き仏たちが住んでいたが、かれらの姿もすべて見えた。これらの尊き仏たちが説く教えも、すべて、余すところなく聞こえた。また、これらの仏国土にいる僧・尼僧・在俗の男女の信者・苦行僧たちで、目的を達成した者も達成しない者も、すべて、その姿が見えた。また、これらの仏国土には、偉大な志をもつ求法者たちが、仏の教えを度々にわたって色々と聴聞したことから熱烈な意向を持つようになった種々の因縁をたよりに、また仏のさまざまな巧妙な手段に導かれて、求法者としての修行(菩薩行)をしていたが、かれらの姿もすべて見えた。また、これらの仏国土には、完全に平安の境地にはいった尊き仏たちの宝玉づくりの遺骨塔があったが、それらもすべて見られた。(以上のことは、すべて、広島大野王舎城で見た。)」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p21]
 
「如来は偉大な教えを聴聞させる会合を開きたいと思い、偉大な教えを人々に聴かせようと願われて、・・・すべての世間の人々が聴きたがらない教法を聞かせようとして、・・・驚嘆すべき奇跡を現し、・・・」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p39](昨年の台風を覚えているだろうか。広島では風速60mを記録した。また、今年の台風14号を覚えているだろうか。少なくとも気象観測者は気づいているはずである。また、広島在住の方々は、奇跡としての穏やかさを経験した方々もいたはずである。もう忘れてしまっているのであろうか。)
 
「さらに、偉大な志をもつ求法者たちには、六波羅蜜を中心として、完全な「さとり」にはじまり、一切を知る者(仏)の智慧に終わる教えを説いた。」「同じ家柄・氏族の、完全に「さとり」に到達した阿羅漢の如来が、相次いで出て、二万名もいた。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p41]「すなわち、求法者をいましめ、すべての仏が受持すべき、非常に大きな最高の経典を、説こうと欲していられると、わたしは思うのである。」「考えることも測り知ることもできないほどの数の劫を経た、昔を思い出す。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p53]「そして、かれらは、平静にして汚れのない、真実の言葉を知って説き明かし、多くの世界において、教えを説く。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p57]「そして間もなく世間の指導者(仏)は瞑想から立ち上がり、・・・そのとき話しかけた。・・・『余は教えの指導方法を説き、教えの本質がどのようであるかを語った。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p59]「勝利者の王であり、また一切をあまねく見わたし、最高の真実を知るシャーキヤ族の覇王が、そのときわたしが聴いた最高の經説を説こうと欲していることは、確かだ。・・・シャーキヤ族の獅子は、それを正しく用い、教えの本質の特色を語るであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p65]
 
「仏の智慧は深遠で、見きわめがたく、理解しがたい。完全な「さとり」に到達した阿羅漢である如来たちがさとった智慧は、すべての声聞や独覚たちには理解しがたい。それは何故かといえば、かれら如来たちは、幾千万億という多くの仏に親近したからである。かれらは、この上なく完全な「さとり」を達成しようとして、気力を振るい立たせて幾千万億の仏が行った修行にならって修行をし、かれらに遠くまで随行して驚異驚嘆すべき教えを体得し、理解しがたい教えを会得し、理解しがたい教えに通じていたからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p67]「如来たちは偉大な巧妙な手段を用いる智慧を示すことでは、最高に熟達しているのである。かれらは、繋縛もなく障害もなく智慧を発揮する力をもち、自信に満ち、普通の人間とは区別される勝れた特徴があり、また、そのような感覚機能の力をもち、「さとり」を達成する素質を具えているだけでなく、瞑想して心を静め、迷いから脱し、精神を統一して身心を平安させることができるという不思議な特質を賦与されているのであって、こうして種々の教えを宣揚するのである。」(誰もが知り、もっている当然のチカラかと思っていた。)「如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。」「如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p69]「神々と人間とが住む世間において、偉大なる勇士(仏)は無量である。この世のすべての人々が指導者(仏)たちをすべて知ることはできない。かれらの力、迷いからの脱出、そして、かれら自身がどのようなものか、仏のもつその他の特徴がいかなるものか、だれも知ることはできない。」(人間は平等だと教えられて、それで、・・・。平等即差別を早く教えて欲しかったよ。そうすれば、こんなに苦労しなくてよかったのにね。)「かつて幾千万の仏のもとで、意味深遠でかつ微妙で、見きわめがたく理解しがたい数々の修行を、余は修めたのだ。この修行を考えられないほどの幾千万劫のあいだ行って、「さとり」の壇上において、それがなんであるかを見たのは、余の得た果報である。そして、余はそれを知っており、また他の仏たちも知っている。それが、どのようであり、いかなるものであり、また、その特徴がいかなるものかを。それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない。(あるけどない。知る人が知るばかりである。)また、そのようなことができる人は、仏のほかには、この世には誰もいないのだ。かの教えが教え示されるべき人、また教え示された教えを理解しうる人は、信心の意向をもちつづける求法者たちを除いては、他にはない。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p71]「仏の教えは深遠で微妙であり、そのすべては追究しえられす、しかも清浄である。この世の十方において、仏たちが説いたことがいかなるものか、余のみが知る。・・・仏が語ったところを深く信ぜよ。偉大な聖仙である仏は偽りを語ることなく、長いあいだ最高の意義を語る。余が平安の境地に達したことによって鼓舞されて、各自に「さとり」に到達しようと努力しはじめ、連続して起こる苦悩から解放された、これらすべての声聞たちに、余は告げよう。この世においては、余は巧妙な手段を用いて、この勝れた教えを語るのだ。かれこれと心を奪われた者を迷いから解き放つために、余は三種の乗物を示そう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p75]
 
(さて、信を以て入ることを得たりという。是が難しい。何故って、自分が自分を信じるしかない場合があるからである。自分以外はすべて違っていてそれでも自分を信じるには相当の行が要る。また、その質において、相応の行が要る。因って、難しい。しかし、この泥の中にしか、蓮華は咲かない。その苦労を超えたときの喜びを信じるしかない。また、確かに、この喜びは無上である。)
 
「もう、よせ。その訳を説明して、何になろう。それは何故かといえば、神々も世間の人々も恐れおののくであろう。そして、僧たちはうぬぼれの心をおこして、大きな穴に落ち込むであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p83]「・・・その集まりにいた僧や尼僧や男女の信者の中で、うぬぼれの心を起こした五千人の者が座から立ち上がり、・・・これは、うぬぼれのために生じた悪い根性のために、かれらは得ていないものを得たと思い、達成していないものを達成したと思っていたからである。かれらは自尊心を傷つけられたと思って、その集まりから出ていったのであった。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p87]
 
「余は真実を語る者であり、ありのままに語る者であり、確実なことを語る者である。・・・正しい教えは推理することもできず、推理の範囲を超え、如来のみが理解するところである。それは何故かといえば、如来は唯ひとつの目的・唯ひとつの仕事のために、この世に出現するからである。・・・それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞するためであって、そのために如来はこの世に出現するのである。如来の智慧の発揮を人々に示すためであり、またそれを人々に理解させ、分からせるためであり、また如来が智慧を発揮するに至るまでの道程を人々に理解させるために、世尊はこの世に出現するのだ。このことが、・・・如来の唯ひとつの偉大な目的であり、唯ひとつの偉大な仕事であり、如来がこの世に出現する唯一の動機なのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p91]
 
自由の誕生〜宣言として〜   2005/12/02  (引用)
さて、自信は本人が納得して至るものである。一度、この妙を得れば、あらゆる一切の言辞に惑わされることはない。一切は正憶念である。過去の自分が知れれば、一切の他者を排除できる。自得自証、それでいい。意に添わなければ、それは縁なきこと。自分は自分で充足している。ここに至らぬ限り迷う。いくら知ったかぶっても、わかったつもりでも、到らねば意味はない。自分が自分と一体となる。この事がわかれば、この世の一切が、自分の反射であると知る。到らねば、所詮自分ではない。これはまた、客観的チカラを根拠としている。そのチカラとは、神力である。神力によって証明されれば、世界が、自分を祝福していた。虚は一切虚であり、相手にすることはない。相手にしなくとも、地球は自転している。およそ、世界に嘘はない。真実は正直を以てその姿を現す。真実を知るとは知って神を見る。神は現実であり、知らねば秘密である。およそ、知らぬ者にはいくら説明しても到底解らない。知ればこれほど簡単明瞭はない。いつも、神は守護してくれている。いつもそばにいる。これほど信頼に足るナビゲーターはいない。助っ人はいない。命など惜しむこともない。神とはそうしたものである。その他、何も要らない。破れかぶれ、すっちゃかめっちゃか、はっちゃかめっちゃかである。是を以て本来の自由とする。是を以て大和魂とする。因って、大和は美しい。ここへ至れば、人生はジェットコースター。上り詰めた高さが自由の度合いを決める。下りはニュートラル。自由無限軌道に乗れ。下って上って亦下る。これより終わりは命の終わり。人生の醍醐味ここにあり。上るは最高峰、須弥山なれ。風は追い風、空を舞う。金銭レベルでは買えぬ(変えぬ)最高の至福がある。自由。(RCC「走れ歌謡曲」を聞きながら 2005/12/2 04:58am)自由とは、思う通りにして法を超えない。要件はただ一つ、嘘をつかない。力強く生き抜く。人生はフィナーレへ向かうクレッシェンド・フォルテ(チェリビダッケ指揮、ブルックナー4番の如く)。上り詰めろ。本来ある力が制御された緊張感あるピアノッシモ思惟精神構造を以て。制御された高速頭脳回転状態がそれであり、21世紀は良い意味での高度緊張状態人格を知るもの達の時代である。彼らの文化が華咲く時を迎えた。それぞれの文化の質が開花する。時代は満ちた。(2005/12/07 09:18am)これまでの敗戦状態に起因していただけの平和の中で、本来の価値を知り得ず、むしろ笑いものにし、貶め、履き違えていた者たちによる偽善文化(彼らの歩んだ道は、事実として、現実に於て、腐敗として現前している、その責任は取って貰う)、すなわち、甘え(責任転嫁)と他人を利用して利益を独占する手法は反省された。詐欺と脅迫は通らない。自由個人主義の時代である。心ある方々の待ちこがれていた実質文化の到来である。(2005/12/07 20:44)ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた真の理由を知るものはいない。アポロ計画が何故実行され、中断されたか、その理由を知り得ないように。また、宇宙ステーションが何を意味しているかを知らないように(スペース・シャトルが初めて地球に帰還したのは何時であったか、昭和56年春である)。それらは化人としてでしかなかった。すべて、ある人(存在)に真実を知らしめんがための故であった。しかし、その頃に、本来の種が蒔かれていた。今、やっと、その華が咲く。そして、実が成る。知らずともである。これが真実である。(RCC 甲斐バンド「英雄」を聞きながら 2005/12/07 21:26 (フッ、辛いぜ・・・))在法華宿王華としてのしかるべき存在が目覚め、自然=宇宙に受容・祝福された大神通力が世に現れたからである。真実のシャトルの帰還である。2001年宇宙の旅。長い旅であった。機体は少し損傷があるが、まだ飛べる状態である。(2005/12/10 4:45am RCC 「走れ歌謡曲」を聴きながら)
(http://www.pc-kure.net/より)
 
知は力なり
何の小説だったかは忘れた。女流作家だった。『文学界』か何かだった。女性が理不尽な男性社会で生きていく中で、自立して生きていくことがテーマだった。そして、決意した瞬間、内面でつぶやいた言葉が、「知は力なり」だったように覚えている。さて、人生の醍醐味は勝つことにある。負けるために生まれてきた訳ではない。みな、勝つために生きているといって良い。しかし、何を以てフィールドとするかが問題である。今、負けているように見えても、それは、勝つための準備期間だ。また、この人生は、過去世の裏とも思える。今、負けている相手は、過去に於て、自分が打ち負かした相手であり、ある意味で、その復讐を受けているとも思える。で、それならば、復讐を受ければ良い。いつかは、終わる。それから、反省するべきはして、新しい始まりを迎える。生きるフィールドのアウフヘーベンだ。通らねばならない宿命かも知れぬ。堪えることはできる。方法を間違えなければね。そして、復活。さらに強い自分を見出せる。そうした戦いの人生もある。負けることを通らないとならない人生もあるようだ。重い過去があるようだ。その重さを乗り越える。軽くなれる。そして、そこを通過すると、飛べるね。究極の軽さとは、そうして得られる。心の軽さ。現実はそうして乗り越えていくことができる。人生は戦いである。そして、宿敵が多くいる。往々にして、始まりに於て、敵は多数であり、援軍はいない。しかし、どこかに味方はいる。人生は、その味方への合流の旅である。味方へ自分の存在を知らせる必要がある。所詮多数に対して一人では戦えない。始めは一人である。しかし、いつかは、味方に合流できる。この事実を認識できるとき、はじめて、堪えることができる。勇気を持とう。パラダイスが待っている。そこまで、泳ぎ抜くことだ。あるいは、漂い抜くことだ。必ず、掬ってくれる。必ず。そして、堪えた悲しみの深さに比例した喜びがある。五十年苦しんだとしたら、五十年の喜びが待っている。今生で果たされなかった喜びは、来世への遺産である。天徳は、自分が本来の自分となったときに還ってくる。是を事実として認識することが夢である。夢は実現する。それが、二十一世紀の約束である。良い時代に生まれ合わせた。こうしたことが既に、ある人(存在=being)によって証明された。安心して苦しんで良い。喜びの境地(=真の桃源郷)は必ず待っている。二十一世紀幸福論の始まり。究極の幸福は、思いが宇宙に通じて、実現することであり、因って、自然から祝福されている実感の中で生きていることである。それは、たとえば、権力・武力・金力ではない。法力(=自然の摂理)である。そして、くどいが、身心の清浄を得て、そのチカラを得る。身心の清浄とは、妄念=嘘が焼き尽くされた状態である。その為の試練である。試練は乗り越えるためにある。やがて、本来の幸せを知る。過去からの脱却。今、が未来を作る。今の思いはやがて行為となって染み出す。今の思いと行為が未来を決定する。その繰り返しである。因って、順々に日常が変化する。自然を基準として善悪がある。草は棄嫌に生ふる、花は哀惜に散る(道元)。華と咲くことが人生の目的である。種は種々にある。自分の中にある。どの花を咲かせるか、日々の選択である。常に、二者択一の道がある。間違えても良い。引き返して、亦始めれば良い。人生は歩むに値する。生まれてきた意味を知って歩む。生まれてきて良かったと思える。感謝もできる。挨拶。推して返す。波に等しい。営業トークで、きれい事を云って、心では舌を出している世間の与り知らない世界がある。そうした純粋精神の方々が、たとえば、いじめの対象となっている。かれらは、いわば、高原に咲く花である。世の勝ち組は彼らの犠牲の上にある。高原の花が咲かなくなったとき、人類も終わる。やがて、逆転する。真の喜びは、純粋精神の勝ち取るべきものである。人生、あるいは、命の不思議がある。
 
2005年12月11日
感謝
確かにチカラを得た。それは、如来の神力とも云うべきチカラであった。そして、その過程は、凡そ地獄だった。地獄というのは、自分の思いと客観とのギャップだった。それは、何時の頃からだったろうか。おそらく、生まれたときからだった。そして、今は、感謝である。それは、諸先生、諸先達に対してである。特に、見えないところでの祝福と応援があった。何度も滑り落ちた。しかし、這い上がり、究めた頂上は、須弥山であるかのようであった。ここに、お礼申し上げる次第である。昭和56年就職は大林組だった(しかし、安住させては貰えなかった、あたかも、大海での遍歴が続いた、運命としての行のようだった、「何か失われた大切なもの」を求めて)。就職活動は大阪だった。また、文化放送には、履歴書の書き方(=自由)を教わった。その後も、見えないところの方々の応援の故だった。RCCからは、祖父の亡くなった頃、その旨を添えた応募で、オージェイズのEPレコードを頂いた。常に道標はあった。振り返れば。ありがとうございました。代々の果たさなければならなかったこと、果たせたようです。
 
さて、これは仮説であるが、飛行機は何故墜ちるか。それは、スタッフ、特に整備の問題である。スタッフが邪悪であれば、たとえば、その周波数が飛行機を墜とす。精神の問題である。正直者に神は宿る。正直者が整備すれば、神々が守護する。機体が喜ぶ。墜ちはしない。また、乗客の中に、たとえば、御寳器を所持する者がいれば、墜ちはしない。信じる信じないではない。事実である。
 
ところで、今、社会は明らかに女文化社会である。戦後、女性にも行為能力が与えられ、参政権も与えられた。女性の解放があった。そして、今に至っている。しかし、問題は、やはり、女性は男性に対して相対的に弱い。それ故の嘘をつく(=身勝手)。これから、女性が、社会に於て重要な地位を維持するための要件は、妄念=嘘からの自由である。女々しい男性は、掬われるには時間がかかる。
 
代々、禅僧の悟りとは、現実一切が、たとえば、銀幕のスクリーンであった。
 
仏陀とは、眼(まなこ)ある方である。それぞれ、どのような目をしているか。諸タレント、サングラスで誤魔化したその目は、唯、欲望の目ではないのか。錯覚。否。涙雨。
 
蘇我氏の魂は、あるいは、今、鹿の中か。宮島、あるいは、奈良に於て。
 
孫にも衣装の意味。着るべき者が着れば、どんな装いもファッションとなる。
 
2005年12月10日
馬宿の王子
その運命は誰も知らない。捨て子状態で始まる。しかし、いつかは、自分に気づく。現代社会に於ては、あまりにも時間がかかることであった。発芽するために消費するべき養分は自分の中にあるとしても、自分を理解する者は周りにはいない。芽が出るまでは誰も気づけない。獅子は子を千尋の谷に落とす。しかし、神々は始めより祝福している。じっと待っていた。直接彼に不利益を与えるものに対しては、神々が処分しながら、その子の誕生は、時代の約束として。誰も知らない。因って、神秘である。キリストが処女受胎と言われる所以である。マリアも気づいていなかった。旧約聖書は続行中である。今より、そのいくつかが実現される。庶民はお陰を気づかざるを得ない。すべては心より始まる。その心には、質に於て、上下がある。水は高いところから低いところへ流れる。自然の摂理が復興する。愚か者の支配は終わる。もはやあらゆる人為的勝手は通らない。自然の意思が実現されるだけである。自然に受容されること。唯一の要件である。時が満ちたとは、こういう意味である。「自然に帰れ」の実現。自然を粗末にすることなかれ。しかし、堕落し、それを助長した、汚れた人間には決して理解できない。しかし、自然は意思を実行する時を迎えた。信じるべきは信じるべし。「信を以て入ることを得たり。一切大衆、自ら出ることはできない。唯、善業の因縁より出ることができる。香風来たって、古きものを散らし、新しきものを雨らす。一切衆生、功尽きて、大火に焼かるると見るときも、わが子の土は安穏なり。謝るところからしか入れない。時代は明るきから明るきへ。」時である。日月そろって、明るい。陽極と陰極とで灯りは点く。もはや、始まっている、21世紀。灯が燃えるためには、酸素が要る。酸素を供給する時代である。善人は神々が掬い取る。悪人は淘汰に任す。善人とは正直者である。代々の罪がある。覚悟するべし。
 
何故勉強するか
この生を受けて、自分のやりたいこと或いは為すべきこと(使命=生まれた意味)を発見する為。その為に、色々と、過去の文化を通して学ぶ。それは、内容だけでなく、諸人の方法。さらに価値基準。しかし、人間は往々にして間違う。間違った文化もある。現代は、むしろ、間違えた果実。反省を要する。無意味・無価値・堕落・低俗を自然は好まない。常にフォローを要する。スタッフ一同の怠慢であり、世を汚す罪は重い。時が満ちた今、本来の価値=文化を無視した彼らは淘汰=処断される。彼らの奢りの時代は終わる。得知らずとも。クラシックとはならない。社会腐敗の原因である低俗な刹那的快楽助長は猛反省の時である。何をしても自由であるが、その結果に対する責任があることを忘れないように。その基準は自然の摂理と言って良い。これが、ロゴスである。今、世間はこのロゴスを見失っている時代である。法=自然(神)を超えては生存できない。嵐には堪えることしかできない。命を懸けること(目的)を履き違えないこと。迷惑は迷惑である。悪の花は咲いたときに摘み取られる。根を抜かれる。馬謖は斬られる。時が満ちるまでは斬れなかったとしても。
 
菩薩道
「三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、是れ菩薩にして身命を捨てたもう処に非ることあることなし。衆生の為の故なり。然して後に乃ち菩提の道を成ずることを得たまえり。」「又聞いて菩提を成ずること 唯佛のみ当に證知したもうべし 我大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」(大乗仏道に於て、菩薩としての道を歩むとき、このための故に、衆生は救われ、また、この道を以て、菩薩の道も成就する一乗と言うべきか、そして、この事を知り、証明するのは、唯佛のみ、と。)「無量の衆生法を聞いて解悟し不退転を得、無量の衆生道の記を受くることを得たり。・・・娑婆世界の三千の衆生不退の地に住し、三千の衆生、菩提心を發こして受記を得たり。」(提婆達多品)
 
しかし、気づいてみれば、世の中に於て、自分の必要は足りている。足りないと思うのは、唯、自分の欲と言うべきか。そして、足りないところは、実行努力することで、やがて、その方法に至る。方法に至れば、さらに、実行努力することで、その果実を得ることができる。そうして、順々に満たされる。しかし、果実を得るためには、失うべきものが、自己内に生じる。それは、心の消耗であったりもする。だから、何も求めず、自然の中で充足できるなら、それが無量の幸せということにもなる。要は、バランスであって、心に障りなくんば、吉。至極簡単明瞭。すでに、与えられていることを知ることで、焦ることもない。淡々と生きてゆける。但し、自然から受容されている実感は別論と言うべきか。本来求めるは是であり、知足は、その為の入り口と言うべきか。
 
「深く罪福の相を達して あまねく十方を照したもう」「世尊の納受是の事疾しや不や。答えて言わく、甚だ疾し。」(提婆達多品)「過去に佛いましき、・・・國を現一切世間と名け、劫を喜見と名く(世間現実、自然=宇宙に受容・祝福され、知足を以て喜びと見ることで佛の知見を得)。・・・華徳、汝が意に於て云何、爾(神)の時雲雷音王佛の所に、妙音菩薩として伎楽をもつて供養(相手が喜ぶこと)し寳器(人格)を奉上せし者、豈に異人ならんや、今此の妙音菩薩摩訶薩是なり。・・・神通・変化・智慧に於て損減する所なし。・・・其の三昧を現一切色身と名く。・・・是の妙音菩薩來往品を説きたもう時、四萬二千の天子、無生法忍を得、華徳菩薩、法華三昧を得たり。」(妙音菩薩品)
 
「若し是の城(涅槃城)に入りなば快く安穏なることを得ん。若し能く前んで寳所に至らば亦去ることを得べし(佛所において安穏世界を知り、本来の桃源郷は、神仏=自然より受容祝福され、大神通力・大安心を見得したならば、やがて、現実世界へ帰還すべし)。」(化城諭品)天=神を知る、これ大和民族なり。これを真に畏れることなき方々の時代、終わるべし。神仏知れば、惡は為さぬものなるが故に。他者を粗末にすることは無きが故に。命=宇宙=魂=自然を知るが故に。ここより、衣食足りて、やさしさの理念へと至る。妄念=嘘こそ地獄の門。神は正直者の頭に宿る。神=天に虚実無し。無とはこれである。この無は有る。ここを畏るべし。今、改めて現成公案の果実を得る時代を迎えている。目的はやさしさであり、その手段としての愛と平和。21世紀、人類の階梯。やさしさは、思うことなくして、至福。足りている。四百年来の重商主義・金銭至上主義の終焉。本来の価値の発見。人格=魂の歴史的意義と変遷。過去からの約束。秘められていた種としてのDNA。眠られし神、乃ち、現在前。(2005/12/10 0:32am NHKラジオ深夜便を聞きながら)すでに、我、思うこと無し。我、思わずとも、帝則有り。その法の真実なるを知れば、安穏にして、身を任す。自然は神、容赦なく、淘汰する。(2005/12/10 0:55am RCCラジオを聞きながら)
 
「我等宿福の慶あつて 今世尊(久遠実成釈迦牟尼佛)に値(日給)いたてまつることを得たり」(化城諭品)(2005/12/10 1:04am RCCラジオ オールナイトニッポン を聞きながら)