2005年12月14日
平等について 『薬草喩品』
平等とは機会の平等であって、結果の平等ではないと言われている。また、平等と自由は対立概念であって、両立しないと言われている。自由と平等は調和ある配分が必要であるとされている。それは、指導的立場がするとされているようである。しかし、この指導的立場は今どこなのか。経済界、あるいは、庶民レベルが指導的立場にあるかのようである。官民あるとすれば、官が本来役人であり、指導的立場の筈である。主権在民とする理論が自己矛盾する。官も民も平等である。しかし、システムは、官を指導的立場として組み立てられている。およそ、機能すべくはない。民は官を信用していないし、聞く耳はない。ならば、民が勝れているかというと、そうでもない。本来、人間はその意味で平等である。多少、勝れていたり劣っていたりしても。人間の上に神がいる。神は明らかに一般世間よりも勝れている。しかし、神も失敗することがある。サルも木から落ちる。しかし、人間を超えた神々は実在している。往々にして、自らの能力に気づかないままに。それは、あたかも、眠れる森の美女の如く、世間一般により、眠らされている。さて、本来の平等の意味は何か。それは、如来から見た人間の姿である。如来は仏の智慧を達成し、人々に、同じような智慧を得させたいと思う。そして、説く教えは常にひとつであり、それは、さとりへ至る道である。この一つの教えであるが、受ける人間の能力と環境によって、種々に、理解される。所詮、人間は持って生まれたようにしか成長しない。そこへ向けての教えである。同じ雨を受けて、大樹もあれば、雑草もある。さらに、自由は仏の領分である。因って、人間の自由は、本来の自由ではない。自由と平等の両立し得ない理由である。で、どうあるべきか。それぞれの理解である。如来は、仏の智慧を得て、本来自由となって、この上ない安らぎのあることを知って貰いたいと思っている。人間の価値としている全てが、堕落とその助長であると思っている。だからと言って、無理難題を言っているわけではない。難行苦行しろと言っているわけではない。それぞれの能力に応じて、ほんの少し、努力して、真実を真実と知ることで、来世への夢もあると、勝れた者にも、そうではない者にも、平等に、真実を伝えようとしている。これが、平等の意味である。さて、清浄となって神通力を知る。知って初めて神通力と分かる。清浄となるには、行しかない。観普賢菩薩行法経。如来は、苦悩からの脱出こそ幸福論であると説く。そして、その方法=手段は仏の智慧であるとする。しかるを、人間の行為は、悉く、苦悩を集積している。権力、武力、そして、金力を手段として。ところで、親鸞聖人の悪人正機説、悪人であればこそ憐れみをかけるというのではなく、仏から見れば、悪人も善人もない、平等である、どちらも人間である、悪と善は人間界での基準による、仏から見れば、善人も掬われるべき人間である。(また、本来の主権在民の意味は別にある。これについては、永遠に秘密であろうか。)