一年あまり、この一連のブログで何をしてきたか。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本の秘密開示となった。そして、図らずも汝自身を知ることとなった。また、ロゴスを自覚することになった。そして、ロゴスはどのようにして得られるのか、その証明ともなった。例えば、精子と卵子である。一億あまりの中で受精に至は一個の精子である。これが禅の目的である一箇半箇である。そしてゴールした魂がそれである。この魂に前世がある。その意味では導かれているし、予定されていた。されど、その試練は尋常ではない。まさに千尋の谷に突き落とされる。絶望の淵の底にである。そこより這い上がらねばならない。テキストなど無い。どんな数学の問題も及ばない。前人未踏である。そうして何が開けるのか。すなわち、カクネンムショウである。それは何であったか。天晴れ、日月照らし、風が吹く。そうした境界が開ける。それが風景が待っているということであり、風景が開けるということだった。ソクラテス、釈迦、キリスト、孔子の言いたかったことは何であったか。それを探していた。失われた何か大切なものが高校の頃よりのテーマだった。探すべきである。シュリーマンのトロイの木馬である。真実は求めて得られる。鶴の一声、或いは鶴の恩返し。私の羽はもう無くなった。すべてこのブログに織り込まれた。身も心も命までも奉った。その覚悟で書き始めた。およそ不遜と知りつつも書き続けた。それ故に真実に辿り着いた。すでに大きな仕事をしたと自負している。世間は知らない。しかし、知る人は知っている。夜の街を歩いていると、ラジオで『月の砂漠』が流れてきた。どれだけ涙したことか。また、ラジオで『ウィンザーの陽気な女房達』が特集された。慰めるかのように。或るクラシックの原盤がまさに編集されたかのようなこともあった。世間にとってはどうでもよいことである。何故このようなことになったのか。思えば不思議である。まるでプログラムされていたかのようである。日本を救ったのかも知れない。世界が救われたのかも知れない。山田無文老師に感謝である。山本玄峰老師に感謝である。苧坂光龍老師に感謝である。芥を払うこと三十年。法華経の真実を知るに至る。一切種智慧を知るに至る。持って生まれた種である。道元及び一休の禅は良寛の禅とは違う。何処が違うのか。その言葉はロゴスとなる。滅多なことは云えない。実現する。不合理であっても、不条理であってもである。仏を悲しませないように。仏が悲しむとどうなるか。仏が号泣すればどうなるか。嵐が来る。よって、仏はほめ奉るべし。さて、この度の戦いは何であったか。三十年戦争だった。或る存在の内面での戦いだった。それに勝利した。おだやかである。昨日の夕日は常寂光のようであった。我思う故に我在りもわかった。人間は考える葦である。しかしその葦を通して宇宙を見る。これもわかった。宝島は発見された。物語が成就した。宝物は独り占めである。しかしこれらの宝はこのまま置いていく。後世のために。ここに一里塚とする。あらゆる物語が完結した。そしてまた始まる。唯、風景は貰っていく。