この三昧に遊化するに、端座参禅を正門とせり。

三昧とはそれに成り切ることですね。寝ても覚めてもということがあります。寝ても覚めてもそれに成り切る。法華経では夢にも普賢菩薩さんが出て来て法を説くとあります。業をしている方の中には見る夢がすべて正夢という方もいます。行住坐臥に禅を忘れないことが説かれます。日々の生活がそのまま禅となる。それは窮屈ではない。むしろ、快楽安穏の極地です。真言宗の方には理趣経というのがあります。読み方によっては傾向犯好みです。しかし、宇宙とセックスすると表現している方もいる。どういうことでしょうね。したければすればいい。すればしたで当然の帰結がある。それで悔いることがなければすればいいというのが禅の立場です。唯、生きるということに対する意識が違う。少なくとも自己利益的ではない。畜生的でもない。そこに何か理念がある。譲れないものがある。それに目覚めることが禅の目的です。そこに絶対の自信がある。絶対の自由が開ける。そこへ至る正しい方法があるというのです。それが道元の立場からすると、端座参禅である。或いは只管打坐。唯、坐ればいい。公案があるわけではない。唯、坐る。するとどうなるのでしょうね。恐らく、自分と向き合うことになる。色々と反省もある。気づきもある。恨んでいる自分が出てくる。悔やんでいる自分が出てくる。そして、自分がどういう生き物であるか知る。自分というものがどれほど無価値であるかも知る。そして、それらが消えていく。何時か必ず消えていく。すると、本来の生命としての自分が見えてくる。その時の自分はどのようであるか。本来の自分である。美しい魂としての自分である。それまでは、幼虫或いはサナギとしての自分だった。やがて蝶となって自由を得る。見える世界はパラダイスとしてのお花畑である。蝶となるとき花は咲いている。花が咲く頃に蝶となる。そうした自然の祝福を知る。黄泉の守護もあり、それに気づく。それが禅の目的でしょうね。それが、生かされているということです。本来幸せになるために生まれてきたことを知るのです。だから、自殺なんかしては駄目です。自分を自分で傷つけても仕方ない。必ず至れる幸せ世界が待っている。その為に投資としての試練もある。その試練が深ければ深いほど得る幸せも大きい。耐えられない試練はないといわれている。その間、耐えるしかない。それが青春であり、勉学の頃です。今世で至れるなら幸せです。今世で出来るだけしておく。それだけ、来世が楽になる。終わりは始まりである。易経の説くところである。今世の終わりが来世の始まりとなる。世の大人はこれを知らない。真実真理であるのにね。この世は永い魂の遍歴の一こまだよ。この世で罪を犯すとどうなるか。来世はその懺悔となる。だから、この世のことはこの世で解決しておく。いつか誰もが至り着く。今世で至りつけるといいね。だからといって、無理をすることはない。所詮、持って生まれた魂の段階がある。往々にして野蛮が蔓延る。それに負けて諦める。諦めないことだよ。先人の一里塚を見つけることだよ。道元もその一人だ。中途半端な大人が、堕落腐敗して、それを正当化する。テレビお笑い芸能界がそれだ。彼らの人生は悲しい。彼らに聞いてみるが良い。テレビ局ですれ違ったらトイレで何をしているか。大竹まことが路上で女性に抱きついていたね。何処かの県知事との番組だった。タレントならゆるされるのかね。さて、三昧とは行住坐臥つまり日常生活がそのまま禅に叶ったものとなる。それを遊化している。それは或る意味でみゆきだ。遊んでいるようである。それは世のいう遊びではない。そのまま生命の理想である。蝶となって大自然に守護されてパラダイスとしてのお花畑を遊ぶ。世界はそのように見えてくる。それが理想郷だ。桃源郷である。彼岸である。そこへ道元も至った。そして得た力は何だったか。法華経に如来の神力というのがある。神力である。草参議の剣も手に入る。間違って使ったらとても悲しい結果だ。原爆となる。誰もが手に出来るわけではない。だけど、手に出来る。そのための方法がある。道元は只管打坐だった。

この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。

この法というのが、真実真理の見える状態になったこと。見える世界が法と呼ばれ、見えない世界は妙と呼ばれる。生かされているということは、黄泉自然の祝福の中で本当の自由と幸せを得ることだけれど、それを得ることは、人間として生まれた以上、誰もがその可能性を持っている。それが、一切衆生悉有仏性である。しかし、そのためには条件がある。持って生まれたものには善も悪もある。悪を払拭する必要がある。それが修行である。禅では坐禅、法華経では菩薩業がその方法となる。悪を払拭できれば、持って生まれた善が光り始める。それが、山本玄峰老師のいう性根珠を磨くということだ。証明するのは黄泉自然である。黄泉自然の受容祝福守護するところとなる。それは自覚を要する。そこまで行って初めて知るところである。必ずその世界が現れる。道元自ら体験実証するところである。禅の目的は一箇半箇を打ち出すことにある。しかし、その為には土壌としての教育環境が必要である。一人が成仏すれば、その縁あるところ一切が成仏する。そこに、教育の目的がある。全体のボトムアップが教育の目的である。その為には、何が必要であるか。考える必要がある。一箇半箇は能力を要する。その能力を引き出す必要がある。彼はそれに応える必要がある。必ず、応えてくれる。時間を要することもある。諦めないことである。さらに、必要な条件がある。それは、時代が、平和であることである。平和でなければ、この花は咲かない。しかし、平和であるとき、腐敗も蔓延る。それが土壌となる。蓮華の前に化生である。蓮華は泥より咲く。そして、泥に染まることはない。花は咲いてはじめてその種を知る。咲くまではわからない。その為に平等な教育が必要である。それぞれの花が十全に咲くために。その花が咲けば良い。皆が救われる。そうした約束である。しかし、その過程に於いて腐敗が蔓延る。腐敗は腐敗である。これを明確に認識しなければならない。時が来るまでは腐敗が蔓延る。時が来れば或る花が咲く。その時が、裁きの時でもある。歴代の約束である。古来物語の伝えてきたことである。

はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。諸仏のつねにこのなかに住持たる、各々の方面に知覚をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。

方法として仏の方に投げ入れる。仏を信じて我が身を委ねる。生命身体財産を仏に捧げる。仏は一切大衆を救うと決めている。必ず救ってくださる。それを邪魔しているのは、自分の計らいである。これを捨てる。はなてばてにみてり。これを捨てたとき、真実が自分の魂に入り込む。本来自分が何者であったか知る。世間虚仮であった自分を知る。唯仏是真であることを知る。世間虚仮の自分が唯仏是真の自分となる。これが成仏である。だれもが成れる。しかし、条件がある。それが何か。己の悪を払拭する。方法がある。それは何か。すべて仏の方に投げ入れる。はなてばてにみてる。何が手に満てるのか。黄泉自然の受容祝福守護である。その時、世界はどのようであるか。パラダイスである。幸せである。一は一箇半箇である。多は衆生である。一が成仏するとき、多も成仏する。一多のきはならむやである。かたれば口に満つ。言葉はロゴスである。制度も後からついてくる。隻手の音を聞いている。黄泉が動き実現する。その時、カラスも白くなる。これが語れば口に満つである。一に多が染まる。皆が幸せを知る。縦横きわまりなし。縦は祖先と子孫。横は現在縁のある世界の仲間。これに極まりがない。皆、幸せとなる。これが一切大衆が救われるということである。諸仏のつねにこのなかに住持たる。仏は人間が修行して仏となる。何時の世もそうである。何時の世も仏は存在する。世間一般は知らないだけである。知らなくてもそうである。知らないことを以て否定している。それで、不幸である。神仏は生命の最終形態である。誰もが何時かは至る。今世で至ることも出来る。今世で至れなくても良い。来世はその為にある。仏は仏となって仏の世界に住んでいる。それを維持している。横綱である。堕ちることはない。火が点いたのである。消えることのない火である。あらゆるとらわれがない。善も悪も超えている。世の解釈云々ではない。それが各々の方面に知覚をのこさずである。常に知恵の泉が湧いてくる。生命そのものとなっている。自然そのものとなっている。一如である。黄泉自然も従う。知覚ではない。知覚を超えている。知覚そのものになっている。人間レベルの知覚ではない。生命としての知覚である。黄泉自然としての知覚である。だから知覚をのこさない。こうした知覚を一切大衆は使っている。利用している。しかし、群生としての世間一般大衆はそれを気づかない。善いことはすべて仏さんのお陰であることを知らない。自分のお陰だと思っている。それが群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。知恵は仏になってエクスパイアとなる。それまでは、インスピレーションでしかない。しかし、それに気づけない。 それが、各々の知覚に方面あらはれず。「使用」ということですが、何を使用するのか。一多の一です。即ち、一仏成仏、草木悉皆成仏の一仏です。一人悟りを開けば、六親眷属が救われるとする一人です。どういうことでrしょうね。言葉がロゴスであるとき、黄泉もそれを聞く。そして、現実に実現する。見える世界は見えない世界に従う。雲は龍に従うとするところです。或いは、この世はジュピターの匙加減といっても良い。この世は仏を使用しているのです。大雨注意報或いは警報もはずれる理由です。宇宙と魂は連動している。一個の魂の為に宇宙が動く。黄泉自然が受容祝福守護する時、それが起こる。その時、条件がある。その魂は宇宙自然生命黄泉と一致していなければならない。その為には、その魂は黄泉自然から好かれている。黄泉自然の可愛い秘蔵っ子である。さらに、その子に試練がある。生まれたときからそれは決まっている。黄泉は大切に育む。それに応える。そして自覚が来る。何を自覚するのだろう。何れにしても、自覚が来たとき、黄泉自然も従う。それが使用するである。

いまをしふる工夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にか々はらむや。

こうして道元は自分の至り着いた境界を伝えようと思った。それは何だったか。インジュニエティということがある。知恵である。工夫である。それは知性を要する。坐禅して自分と向き合う。そして考える。禅は考える。そして、自分の考えが仏の前に無力であることを知る。そして考えなくなる。仏に身を委ねることになる。自力でも他力でもない。一如である。何と一如であるのか。真実真理と一如となる。これが真実としてのアウフヘーベンだった。ヘーゲルの方法論は正しい。しかし、真実真理は見える世界だけではない。見えない世界がある。古来、この両方を究めてきたのが問うよう精神である。西洋精神は19世紀に没落していた。日本も文明開化と称してそれを追いかけた。晴洋も待っていた。何を待っていたか。東洋の目覚めを待っていた。西洋と東洋が本当に出逢うときが来た。証するのは黄泉自然である。そこに見える世界の真実を示す。それがいまおしふる工夫弁道は、証上に万法をあらしめである。そして至る世界がある。それはパラダイスである。それは見える世界と見えない世界の両方が祝福された世界である。それが一如である。これを幸せという。それが出路に一如を行ずるなりである。関は『無門関』。入り口である。大道は長安に通じる。その門である。門ではあるが姿は見えない。何処からでも入れる。入ればいい。入ればわかる。しかし入ろうとしない。入っては如何か。飛び込むのである。飛び込めば、飛び込んだ重さで浮かぶ蛙かな。釈迦は羅刹に身を投げた。真実真理を押して貰うためだった。すると、羅刹は帝釈天だった。帝釈天に掬い取られた。真実真理と思うなら飛び込めば良い。必ず救って貰える。脱落とは、身心脱落脱落身心である。本当に楽な教会が開ける。身も心も安楽となる。経済的成功は身の安楽はあろう。しかし、心の状態は反比例するのではないか。己の成功の過程に対する不安がある。悪を為して得た成功は、心の不安から逃れることは出来ない。世の成功者に聞いてみるが良い。それで、お遍路さんとかしている。或いは、ビルゲイツのように教育産業に投資することになる。人間は懺悔するしかない。そてこうした境界がある。道元は中国でそれを知った。この縁につながってみないか。一緒に考えてみないか。それが、その超関脱落のとき、この節目にか々はらむやであろう。今、NHKラジオ深夜便でソニー・ロリンズの『セント・トーマス』を聴いています。1956年6月の作品だったのですね。次に流れてきたのは、レスター・ヤングの『我が恋はここに』。これは、1956年1月の作品。何故か父のことを思うのです。さて、「この節目にか々はらむや」は、道元のテーマですね。つまり、「証上に万法をあらしめ」と「出路に一如を行ずるなり」との関係に於いて、区別がない。証するのは自然黄泉、万法はこの世の見える世界一切、見える世界と見えない世界との両方で実相とすると諸法実相、至り着いてみればそれが一如である。つまり、我が為に日月照らし風が吹く。メタ概念としての一如がある。それは至り着いて初めてわかる。経験して初めてわかる。言葉では表現しきれない。恐らく、知る者は知る、知らない者は知らない。それが隻手の音を聞いたかどうかである。聞いたならわかる。聞いていないなら、どれだけ言葉を尽くしても伝わらない。しかし、そうした境界がある。本来無一物というべきか。科学は分析からはいるが、分析では及ばない世界がある。それが節目にかかわらぬ世界である。自然一如である。見えない世界も解決している。

予、発心求道よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。

さて、道元、天皇の落胤といわれている。しかし、不遇であったか、発心求道することとなった。日本国内のあらゆる知識者を訪ねて教えを乞うた。そして建仁寺の全公と出逢った。注によると、明全、栄西の高弟とある。道元は或る気づき発見があった。それを知覚の住職に尋ねた。すると、その住職は、自分の境界ではわからないから、最近、禅というものがあるから、それに訪ねると良いとアドバイスされたのだったろうか。この点については、記憶が定かでない。

あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。

全公のところで修行したのだろう。星霜はあっというまに九年となった。達磨面壁九年でもあろうか。寒い冬の修行もあったことだろう。霜をおいた雪景色はいかにも清浄であったろうか。春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えて涼しかりけり。冬の修行の辛い思い出はこの頃であったろうか。冬を通らねば春は来ない。人生として三十年にわたる永き冬もある。学生の頃だったろうか。或いは就職した頃の春だった。ある方と建仁寺の裏山に登った思い出がある。彼女はハイヒールだった。少し辛そうだった。それ以来初めて連絡が取れた。去年の新年のことだった。その頃書き始めた文書と短歌を彼女に送った。その返事に、永い冬でしたねとあった。敬子という名だった。

いさ々か臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり。あへて余輩のならぶべきにあらず。

そして中国の臨済禅師の教えの一端に触れたのであろう。それを伝えたのが栄西禅師であった。その高弟の全公のもとにあった。禅を伝えたのは栄西であった。その上足として全公が教えを説いていた。それはそれで無上の仏法だった。しかし、道元もその時はまだわからなかったというのだろうか。

予、かさねて大宋国におもむき、知識を両浙にとぶらひ、家風を五門にきく。

それで、自分も中国に行くことに決めたのであろう。どうしても、仏法の奥義を知りたかったのであろう。当時、中国に行くことは、死を決してのことであったろう。無事帰って来る保障はない。そこで、天童如浄と出逢う。五門とは、当時の禅門である。