2005年12月26日

卑弥呼の系譜

邪馬台国がどこだったのか、謎である。永遠に謎である。卑弥呼の系譜があるやも知れぬ。しかし、その系譜といえども、代々、間違いもあった。それで、しばらく、世に現れなかったか。卑弥呼が、どこにいるか、わからない。アマテラスよろしく、活動を始めたか。自然は神々の感情で動く、という事實があるかも知れない。卑弥呼も卑弥呼を自覚するまでは卑弥呼ではなかったであろう。如来というものがある。如来も如来を自覚して如来となる。如来の意思は実現する。如来の意思が明らかとなったとき、自然=神々も手伝うからである(この度は、万軍の主も味方についている:和平)。敗戦の頃、枕崎台風があった。その後で、進駐軍が入った。仏はやさしいだけではない。仏を喜ばすものを救う。背くものは他土におく、救いはない。仏の顔も三度までである。刃向かうものには容赦ない。その制裁は自然=神がする。それは、法則である。過去に蒔いた種が因となって、何らかの条件が縁となって、事が起こると果である(ところで、刑法理論に於て、学説通説は相当因果関係論であるが、日本で唯一、はだかの因果関係論を唱えるのは、筑間正泰教授であり、検察はむしろこれで動いている)。結果、果実、事実である。その源は心である。思ったことは実現する。ご用心。地蔵尊は、閻魔大王でもある。謝ることで消してもらえる。謝るとは、二度と同じ間違いをしないこと、そして、反省して、良いことをすること。因縁は、悟らしめんがために、改めるまで、何度でも、程度を増しながら、繰り返し、起きる。謝ることは、しかるべき行を伴う。今、妙法華経を持っているかどうか、さらに、妙法華経の行をしているかどうか、が唯一の試金石となっている。人間としての原罪は、嘘をつくこと=妄念することである。人間が考えるとき、必ず、自分計算している。結果、嘘となる。唯佛是眞。眞實は、仏さんのところにしかない。助かる方法はある。佛さんのところにある。佛所とは、佛さんの住所のこと。佛所護念。護とは、身を以て護ること、すなわち、佛所へ身を運ぶこと、念とは、心で守ること、どこでもできる、常に仏さんのことを思うこと。知っても知らなくても、自然=法則。取引行為の概念には、現代資本主義下では、解釈上、多少の嘘が赦されているという。しかし、「多少」がふくらんでいるね、つまり、程度が増している、限度を超えたか。白隠禅師の隻手の音。聞かぬ間は、何をやっても嘘だ、聞いたら何をやっても真実だ、と言われている。仏法が真実であるとして、何故、世に現れなかったか、日蓮いわく、時を待つべきものかは。時とは、天(神)である。いずれにしても、時は満ちたか、善悪がはっきりする。人間とは、身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。すべて、畏敬の念のないところ=人間解釈している妄念からくる。見える世界、見えない世界、表ジャック、裏ジャック。本来大和民族は嘘を嫌う、清廉潔白、正々堂々。正義とするところには命をも惜しまない、来世と神仏の加護を知っているからである。今、本来の大和民族が犠牲になっている。純粋精神が笑いものとなっている。本末転倒。腐敗、退廃が世を席巻している。英知を笑いものにした、愚者の天下となっている。グロテスク、エロ、牛頭馬頭は表舞台から去る頃である。東洋は西洋ではない。自信を以て言い切れる。