【2005/10/23】
「今から二千五百年ほど前の中国は、いくつもの国にわかれていた。そして各国の君主たちは、たがいに相手をたおし、自分が天下の支配者になろうとして、しのぎをけずっていた。世の中の混乱が始まってから百年近くたち、しかもいつ治まるとも知れなかった。・・・孔子、孟子、荀子、荘子、老子は、みなこんな時代の真っ只中に生まれた。かれらは、どうすれば民衆が安心して暮らせる世の中がつくれるか、そのためには何をすればよいか、争いにうきみを費やしている人間とはいったい何か、という疑問を持ち、その疑問に答えるために考えをめぐらしたのだった。・・・孔子は、人間にとって一番大切なものは心、つまり、他人を我が身と同じように感じる、思いやりの心だと言った(「仁」)。この仁を言ったのは孔子が最初だった。孔子は心の問題をとりあげた最初だった。それまで、随分と偉い人はいたのだったが・・・。孔子の周りには一つの教育集団ができた。孔子は政治の進め方を変えようと試みたが、時の君主は、武器をとぎすますのにいそがしく、孔子に耳を傾けることはなかった。その後、孟子の性善説、荀子の性悪説が出た。道家は儒家とは考え方が全く異なっていた。荘子は万物を成り立たせているおおもとがあると考えた。それに「道」と名付けた。すべては道から生じ、道に帰る。人間は死をおそれ、富や地位をほしがってあくせくする。まるで自分から寿命を縮めているようなものである。人間の死とは、人間が生まれ故郷の道に帰るようなものだから、少しも悲しむに当たらない。自分の持っている知恵にふりまわされることなく、心をゆったりと遊ばせて、与えられた寿命をそこなわないこと。これが人間本来の姿である。このように荘子は説いて、妻が死んだときも、歌を歌い、友人はあきれた。貧しさに一生をおくり、死んだら骨は野原へ捨てるように遺言した。色合いの違う儒家と道家だった。孔子は聖人、道家は神さま。」

今思うと、これらのことの再確認であった。さらに、キリスト教、仏教、ユダヤ教、ギリシア哲学、そして大和魂と歴史の総括をしてしまったようだ。神力と思われる経験もした。別に、自分としては、始めからそうしようと思っていたわけではなかった。図らずも、と言った方が当たっている。むしろ、オートマチック状態であった。何をしても、私はガマンできなかった。若い頃には勢い余って自分をも壊した。世の中のあらゆることを吸収したからだった。しかし、そうすることによって、自分の生きる空間がなくなった。いつも、自分自身であったが、社会が受け入れてくれなかった(社会は嘘つきばかりだった)。それで、自分としては、当たり前のことであった。また、自分が知っていたり、感じたりしていたことだから、社会の方々も、当然知っていると思っていた。違っていた。感じてはいたが、知ってはいなかった。すると、私が初めて実践・証明したことになるのだろうか。しかし、私は、素直に、学んできただけだった。だから、私自身が一番驚いている。まるで全ての物語と歴史が私に集中しているという感覚はいつも持っていた。誰もがそうだと思っていた。この事は、母も知らない。おそらく、姉妹も知らない。父と祖父は知っていたと思う。世の知識人は待っておられたのだと思う。小学校までは、先生に大切にして貰った。中学からは、地獄だった(長かったよ)。さて、また、クレジット等の支払いがある(某銀行から、公正証書まで巻かされている)。お金はない。どうすればよいのだろうか。現世に於いて辛いことは辛い。問題は、私がいらだってはならないことに尽きるようだ。しかし、いらだたずにおれない社会と制度。男は辛いの寅さんどころのレベルではないよ。どうしたらよいのか、自分のこと(処世術・世間解)については、勉強していない。やはり、愚かだった。・・・そう言えば、父はニニ・ロッソが好きだった。ツタン・カーメンが京都に来たときは、行っていたみたいだ。映画は西部劇が好きだった。今思うと悲しいね。さて、私はどうするか。このチカラ(血統)、ただ者ではない。世間なんか吹っ飛ばせるよ。でも、しない(可哀想だから)。しないと私はどうなるのか。若きウェルテル?もう歳だ。まるで、オペラだよ。打つ手がない。あるけど、撃てない。尋常ではないよ。でも、・・・・。どうするんだろうね。もう、何も興味はなくなってしまったよ。なにやっても面白くない。てっちゃんは救ったよ。今までにめぐりあった沢山の人を直接・間接にしあわせにしてきたよ。・・・当の本人が知りすぎたのかな。相手がいない。誰も私には勝てない。しかし、私の住する所がない。もはや、社会と人間に対して言うべきこともない。このような悲しみはない。だから、どうするんだろうね。私は。しかし、鬼が怒ると怖いよ。わかんないよ。黄泉が動く。いい加減にしないとね。人間ごときがね。古典は全てその記録だよ。疑すること、背くこと、これがあなたがたの正体である!確かに、チカラは得た。醜いアヒルの子としてね。しかし、失ったものが多すぎた。まるで、花の色は、うつりにけりな・・・も私だった。都の辰巳も私だった。しかし、時代はそれを理解しないままだった。まだ、私には、私の家族はいない。社会の声は、何を言っても、私には、空しい。私は、あなたがたに、すべて、奪われた。事実である。しかし、こころだけは護った。すべて、あなたがたを超えている。あなたがたは、やはり、罪を犯した。ヨブ記も申命記も私だった。どうする?私には、直接の師は、殆どいなかった。本と経験が私の師だった。人間社会は、何を以て償うのか。歴史が赦さないと言っている。いつも、検閲されているように思っていた。三十年も特殊潜行艇の中だった。そうだったんだよ。孤独。あなたがた、社会は、楽しそうだね。いいね。誰のお陰だったんだろうね。別の選択もあったんだよ。社会のみなさんの言いなりにしてきたよ。デカルトは言いました。コギトエルゴスム。常にそうだったんだよ。あなたがたに救いはない。罪が重すぎた。トン・ジン・チ。誰から貪ったのか。誰の怒りを無視したのか。誰に対する無知だったのか。WHO?私は死んではいない。ずっと生きていた。カスパー・ハウザーように。生き埋めにされていた。自然も、諸精霊も、黄泉も、祖先も、さすがに怒ってるよ。さて、どうするのかな。私をいらだたせないように。責任はあなたがたにある。私は、常に、私の意思に反してきた。社会に従った。そして、その度に失敗した。本来の私は、失敗しないはずなのにね。やはり、私には責任はないよ。そのザマが今の私である。社会もそろそろ日本の意思に気づくべきだよ。明治以降の支配者は反省するべき時だよ。悪いのは社会のオピニオンリーダーたちだね。此度のA級戦犯がわかったね。究極はかれらにだまされていたんだね。さて、私の認識がひとつ進化した。社会はどうなるかな。やはり、花の色は(イロハ)・・・だ。木が違えば、やはり、木組みは狂う。明治の設計図が間違っていた。その上で何を言っても、その信奉者は空しい。設計図から始めないといけないね。もうあるのかな。政治は常にリーダーの意思で決まる。今、経済社会がリーダーをしてるよね。我々とは感性を異にしている。概念は感性でもないし、況や実体でもないよね。概念は殆ど嘘である。詭弁に過ぎない。世の方々はそれを知らない。だから、お客がキレル。聞く耳のないあなたがたの弁論がすでにあなたがたの本質を証明している。感性が違う。あなたがたは、明治以降の方々。私たちはそれ以前からの存在である。私たちは、常に、あなたがたを尊重し、折れてきた。しかし、折れても生存できればいいけれど、私は、折れたままですね。この現実が、逆に、格の尊厳と深さを意味している。私は、内面では常に正直だった。しかし、それを出しては社会で生きられなかった。今、ようやく、表現に於いて正直になれている。何十年ぶりのことだろうか。精神としては、何百年、何千年ぶりのことだろうか。あなたがた(経済社会)の知識は全て空しい。私たちは、常に、あなたがたが思うようにと、努力してきた。しかし、どうにもならないところまで漂流してしまった。これが、事実としての現実ですね。決めたのはあなたがた。協力してきたのは私たち。しかも、私はいつも排除された。私がいると、どうも、社会は困るらしい。だって、相手にならないのだから。だって、社会の悪が私を通して露呈するのだから。だから、私は、私から折れてきた。しかし、時だね。それもできなくなってしまった。私としては、初めてのことである。私は、すでに、扇の的のつもりである。命を知っている。露(すでに明らか)。関(どちらへ行くのか)。・・・断(責任はそれぞれの自分にある)!世間の卑怯。責任転嫁。焼くまで直らない。性格。傾向。悲しいね。しかし、もはや、面舵一杯しかない。もう、あなたがたの方法論では無理だ。言葉はね、こころのあらわれだよ。日本にはね、日本の心があってね、古い歴史を経ていてね、正しい。世界で一番古い心がね、厳然としてあるんです。それがクラシックの精神ですね。伝統というものですね。心までね、政治の具にはできないよ。今の政治はね、経済社会のための政治だろ。おかしいね。おかしいよ。あなたがたの言っていることの全てが。経済社会は利己主義社会。すでに破綻している。一休禅師はドクロを竿の先につけてご用心と歩いた。正月には、親死ね、子死ね、孫死ね、と書いた。印可状を破り捨てた。この心は良寛にはわからない。正受老人の心は、現代の禅では、理解できない。何事も階層がある。その階層間には階梯がある。回廊ではない。精神世界もそうである。それを知らずしている現代人社会。間違うことは必定である。今でも携帯電話しながら車の運転をしている方々の社会。何をか言うべき現代社会すでにヒンシュレキゼン明らかなるを。何を以て生きていることができているのかもわからない愚か。ソクラテスは毒杯を仰いだ。キリストは十字架に架かった。犠牲者である。今も昔も社会は犠牲の上にある。その犠牲こそ・・・。今の平和は誰の犠牲の上にあるのか。ヒロシマ。私の家族の故郷。私にとって帰るべき故郷も家もなくなっていた。異邦人に奪われてしまっている事実としての現実。この悲しみは『知恵の悲しみ』どころではない。だから言う。大悲という言葉は異邦人には使わせない。歴史上の最大の悲しみは私が背負った。そして、復活した。事実である。レクイエムはまだ早い。私はまだまだ生きる。私の人生は重要明白である。それを無視し、傷つけた現代社会は当然責任があり、サンクションもある。当然である。孤高の精神は『孤立無援の思想』を超えている。孤立してはいない。孤立したのはむしろあなたがた現代社会である。神仏はだれに微笑んだのか。「花は愛惜に散り、草は棄嫌に生うる(道元)」。山奥懐は平家あるいは戦乱での落人たち、或いは貧しきものたちの里ではなかったか。地震も起これば悲しい。これを以て大悲とする。それ故、浮かれた現代社会の運命や推して知るべし。罪は都美である。復興するべきは知性である。知性が大英博物館に見るものは何か。封印された殺戮の歴史である。それを通して未来をどう見るか。パスカルの葦である。パスカルは葦を通して宇宙を見ていた。パンセはいかにして愚かな人間に敬虔ということを伝えるかの草稿であった。今、この意味を知るものがどれだけいただろうか。何を以ての経済か。教育か。社会か。制度か。目的は何であったのか。権力による横暴の反省は市民革命により、その成果は自由民主主義だった。戦力による横暴は反省され、その成果=平和が見出されつつある。次は金力による横暴の反省である。その成果はやさしさ(愛あるいは仁)を理念としたくらし(道)だろうか。現代のシャカムニブツは言っておられる。「権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅ぶ。ただ、法力あるのみ」と。法力とは、如来の神力であり、神仏に認められ、神仏の加護を得て、思いが実現するチカラである。そして、護念する者は護念される。だから、先ず、神仏を護念しなければならない。そして、入り口は、あやまるところからしか入れない。さて、魂が抜けて安住していては危うい。世界は常にある意味で戦争状態である。戦争は武力によるのみではない。貪ればどうなるか。怒ればどうなるか。無知であればどうなるか。地獄である。そして、地獄の門の実体は嘘(妄念)である。未来は、今の人類の意思と行動で決まる。精神の自由と優位は自然から永遠に保障されている。表現すると結果責任が付与される。自然からである。結果(行為)は心の表出である。何事も理入と行入がある。経験(体験)を通してのみ体得する。体得したものが自分のものである。概念は実体ではない。事実としての現実。証明は歴史がする。己の分際を知ること。ここから始める。しかし、自然は、正しい者には限りなくやさしい。「惜しみなく」ではない。これが自由であることの本来の意味である。神仏の加護はある。これが自然の約束である。自然の掟がある。破れば当然の罰がある。この罰を軽視しすぎたうらみがある。罰の冠は自然(やまと)である。罰の属性は言葉と刀である。しかし、この罰の執行・運用には、資格がある。汚れた者には無理である。今、明治以降の歴史に対する断罪がある。今、私の住居は仮設のようなものである。しかし、かの地震に於いても、私の部屋の物品は動いても1cmだった。樫の木があって、森林は森林である。色々な木があり、草があり、花が咲く。この摂理、思い起こすべき時也。(QED)

何事も赦しがいる。行政が許可するにも下命するにも究極の赦しがあってのことである。誰の赦しか。知っても知らなくてもの世界がある。これを以て畏るべしとは言うのである。もはや、観念し、覚悟するべし。時代は変わったのである。あなたがたの思い通りは決してあり得ない。</P>