2005年12月27日

苧坂光龍著『提唱無門関』より

「人さんをこっちの岸あっちの岸と望む方に渡してあげるのが宗教家、菩薩の任務である。とにかく、人のためにプラスになろうということ。たいていの人は自分の仕事を浮かび上がらせて高く評価されることを希望する。自分のすることが問題ではなくなって、余人のしてくれることが非常に有難くなり出したならば、その人は本当に偉くなってきている。
  
  人をのみ渡し渡して己が身は岸に上がらぬ渡し守かな

それが本物であれば、いつか大人物に会えば、肚の底まで見抜かれる。

人格の力。風格。そこから出る波長。根こそぎ人を一大転換さしてしまう力。何も言わないが、単なる無言ではない。

光とは、本来備わっておるコが、言語動作に依らずに、無限に出てくること。

人間にも敏感の度合いがある。

人間に本質的な区別はない。男性も女性も老人も青年も、みな仏性があり、素晴らしい能力を持っている。すでに成った者と、将来成る者とがある。その間に相違はない。成るのはみんな成る。仏にも成るが、餓鬼・畜生にも成る。上に進むか、下に進むか、宙ぶらりんのままか、それはその人の、その時の精進次第。菩提心によって上がったり、下がったりする。十界互住。無常である。決まっていない。こちらのやり方で、なんにでも成れる。努力次第で、仏にも成れる。

捨て身の覚悟。全身全霊を打ち込んで、捨て身になって、おまかせしていく。なんか手懸かりを求めがちになるが、どれも役に立たない。いよいよ行き詰まって、全面的な捨て身になるより仕方なくなり、死も覚悟して、いわゆる空の状態、自己もなく、雑念妄想もなく、しかも、精神統一したという、その正念もなく、天地も無く、無い無い尽しの無いということもない。本当に打ち払い果てたるうわの空。全てが清算されて、その空の世界から、自己・宇宙が再活現成してくる。これを妙有とも中道ともいう。仏となっての再活現成である。

諸法実相とは、有無を超越した妙有の世界であり、靈性の自覚であり、禅経験である。

仏教は、己事の究明である。

本当の自己を確立し、宇宙を確立する。

全ての言葉や態度は心から出てくる。

素晴らしい珠をお互いが持っておりながら、それがなかなかわからずに、みな困っている。

能力、力を惜しみなく発揮する。そこに喜びを持ち、生き甲斐を感じてする。自己の力を自覚し、100パーセント活動させる。個人も活きるし、社会も活きる。お互い、それだけの自覚を持って、精進していく。他の人はともかくとして、まず自分が本当の線に沿って、努力し、精進していく。ここを自覚して、自分が主役となる。責任のある仕事をしてゆける。頭が動かぬと、しっぽはついてこない(牛過窓櫺)。

チャンスは積極的に求めていく。

全ては自覚するための手段、方便である。何を自覚するか。

本当にやる気のある人であるなら、どういうマイナスの条件があっても、いよいよ、この道で精進しようと決めたからには、すべての時、すべての処、すべての立場を生かして、やってゆけばよい。燃えるような菩提心を持ってくると、非常にやりにくいところでも、そこが道場となる。直心即ち是れ道場。本当に素直な気持ちとなる。天真爛漫。ひね曲がっていない。純粋・素直な境地を持てば、是れ道場。非常に危ういところであれば、それだけ、真剣になれる。亦、人間ができる。本当の菩提心を持って、どんな危ういところでも、「単刀直入」。千万人と雖も我れ行かん。この熱意、気力。”火裏蓮”。火の中で、色も香りもますます冴える。そういう決意・捨身となれば、およしなさいとどんなに言われても、出来るか出来ないかわからないが、とにかくやってみようという、向上心、力がついてくる。

こちらが威風堂々としていれば、お歴々の方も、命乞いをしてくるようになる。

人生の本当の味、どこに本当の生き甲斐があり、喜びがあり、感謝があり、感激があるか。人生の真相。本当の生き甲斐。死して悔いのない人生。よく見届けないといけないものがある。

全身全霊を打ち込む。あらゆる煩悩を焼き尽くし、血や肉までが大肯定するところまでいく。時節因縁到来して、最後の一点が空じられる。すると、遊戯三昧、自由自在の境地がくる。

今日はこれをしようと決めたならば、とにかく、それに向かって邁進する。そこに自己の生命を建立する。使命を達成するために働く中に、自分の命を打ち立てる。その信念に生きるとき、人間の生命を、働く中に見出す。すると、毎日の生活が有難くなり、喜びに満ちたものとなる。

悟りは一種の絶対の境地。真剣になると、子供でも悟れる。龍女も。よほどの勉強があっても、悟れるわけではない。

自分の一生、自分がこれまで何十年かけて生きてきた歴史はあるが、その歴史的塊が本当の自分ではない。お互いの人生を通じて、天に通じ、地に通じ、古に通じ、未来に通じるという、時間・空間の制約を受けないで、永遠の生命、不滅の光明に直参する。触れる。One is total!

微笑。喜び三昧。真如の法が自然に微動してくる。我々もだんだんと境涯ができてくると、常に微笑の境涯となる。布袋の境涯。いかにも肚の底から喜んでいる。体全体の細胞が法喜禅悦に満ち満ちている。法というものはそういうものである。全宇宙がそういうものである。すべて、真の世界であり、善の世界であり、聖の世界である。ここまでくると、「人天措くこと罔し」。人間も天上界もこれに対してチャチャを入れることはできない。あれこれ批評もできない。本当に法そのものの顕現の世界である。」[2:32 2005/12/27 NHK-AM While My Guitar Gently Weeps を聞きながら]

「世界というものは非常に広いが、その中でお互いがどうしてこんなことをしているのか。広い世界で、自分が選んだ世界は実に微々たるものであるが、法如ゝに、自分のやりたいこと、自己の使命を遂行していくこと、そこに実に広大な宇宙的生命が出てくる。広いところ、その広い中に差別があり、差別の中に、生きながら同じく世界的な生命を顕現させることができる。この差別と平等、広い狭いを、どう自分の裡に調和し、活かすか。この問題が解決できれば、物理学をやっておろうが、芸術をやろうが、傍らが騒いだからといって、自分も血眼になって騒がなくちゃおれんよいうふうな考えにわざわいされるようなことはなくなる。

放てば手に満つ。常に空。虚心坦懐。常に放っておれば、必要に応じて掴める。こちらが空であれば、宇宙の真理や、その人の最も必要としておるものが、ピューッとはいってくる。お互いの頭の中には、有象無象がいっぱい詰まっておって、これが邪魔になって、必要なものが入ってこない。また、せっかくもっておるものが出てゆかない。だから、頭の中のクシャクシャを清算して、常にスーッとしておると、素晴らしいアイデアが出てきて、素晴らしいものがキャッチできる。

趙州の無字にしても、禅の公案にしても、禅のいろいろな問題が、その人の身についてしまったならば、これはもう一生涯その人のプラスになってくる。心の糧にするというが、単なる糧ぐらいではない。

とにかく、苦労するということじゃ。

自分のこの小さな体で、五十年、七十年の人生だけでなしに、小さな己を離れていわゆる大我、宇宙的人格、宇宙と自己がぴったりとひとつになった。主観と客観とが一体となったところを自覚した。」(世の識者及びリーダー達並びに芸能人及びマスコミ関係者に言いたいのは、ここである、つまり、ここを知らずに、大きなことを言って貰っては困る、日本古来の純粋精神即大和魂、而して、当事者は己の無知を恥じ、日本本来の価値に目覚め、責任を自覚し、是を復興する方向へ意識して、仕事するべきではないか、安住しているアナウンサー及びスタッフ達が、日本本来の空気を淀ませてはいないか、on Airを司っている方々の認識を換骨奪胎し、新たむる、日本復興の近道であると思われる。活、大元気!トロトロしていないか。真剣・真面目の価値を、自分たちの低いレベルで自分解釈し、愚弄していないか。真理(=神仏)に対して敬虔&謙虚(尊敬)!マッタリなど、今、必要ない。これ以上、日本の土壌、空気を腐らせるわけにはいかない。今咲いている花は、それぞれ、腐った土壌の花と知るべきではないか。心身清浄の花は咲けないのではないのか。仏でなければ、蓮華として咲くことはできない。)

いろんなことを言い出したら、もうおさまりはつかん。百鬼夜行。

すべてのものが、瓦礫に至るまで光っている。華厳の世界。それぞれの処を得て。

まず、全体を把握し、しかもその中で、自分が何をやるか決め、世界的基盤に立って、時々刻々、上層建築を築いてゆけば、人生というものはシッカリしたものになる。

人間というものは、お互いに常識を持ち、どうしたら素晴らしい生活ができるか。きわめて簡単な中に全てが調和して、喜々として生活できるようになれば、どんなに素晴らしいことか。単に、無目的にするのではなく、天地(あめつち)の生命というか、顕れるべきものが、自然にスーッと出てきて、各人がおのおの処を得ている。」
(H16.7.6〜 中国労災病院入院中のメモより)

ところで、般若心経は喜びの歌ですね。最後の、呪と呼ばれる、ギャーティ、ギャーティ・・・は、行けり、行けり、我は行けり、彼岸へ行けり、ここだ、ここだ、ここだったんだ、たどりつけたんだ、これでよかったんだ、・・・といった意味ですね。(ャーィ?GT!)[2005/12/27 14:56 RCCラジオを聞きながら]