2005/12/28

真実の仏法

さて、如来とは、見える世界と見えない世界とあって、見えない世界から来るものと言える。見える世界のことを、仏法では、法と言う。実相とは、見える世界と見えない世界の両方を言う。諸法実相とは、見える世界は、見える世界と見えない世界の両方から成り立っていることを言う。ここを、鈴木大拙氏は、即非の論理と言ったのであろう。アウフヘーベンというのは、ヘーゲルの論理である。正・反→合。止揚である。善・悪の世界(此岸)→彼岸と言えるのかも知れない。論理とは、A=B、B=C→A=Cであり、A=Cを直接言えないときに、それを言うための、證明という手段で用いる。此岸と彼岸という、断絶があり、それは、超えることのできない、断崖絶壁であるが、それを渡るための、懸崖から懸崖にかかる、丸木の一本橋である。しかし、是を以て、渡ることができる。渡るには、勇気が必要である。だれも、怖じけて渡れない。また、仏法は、彼岸へ渡る筏であるとも言われる。筏であれば、渡り終えるとその目的は達する。後に続くもののために、遺しておくべきものである。仏とは、これを渡り終えた存在である。そして、彼岸に至り、確かに、そこに如来があり、いわば、桃源郷、或いは、究極の幸せを知り、それが、宇宙の意思であり、また、自然には、意思があるかのごとく、それは、ある時は、嵐ともなるが、天災・地災・人災は、災害として同列であり、また、連動していることを知り、人災の故に、やがて、サンクションとしての諸災もあることを知り、さらに、人間とは、心と身体と有るが、本体は魂であり、魂は、如来の住人であり、化体としての人間でしかなく、個々の人間の幸不幸は、偏に、個々の魂を抱いた個々の人間の、その時々の、思いと行為の結果でしかなく、これを種としての因と、条件としての縁として捉え、人間は、みな、幸せに成りたいと思いながらも、困るのは、目的に対する手段・方法を間違えているからであり、自分は、その正しい方法を、あたかも、如来に導かれての故であるが、実行し、至ったので、これが、前世からの因縁であることの確信も得て、如来=神仏(宇宙)のメカニズムを伝えたいと思い、だれもが、この方法で、彼岸へ渡れることを言う。しかし、人間である以上、自分解釈するので、自分より上の論理はわからず、仏の言葉さえ、信じようとしない。これが、哀れで、悲しく思われた。それでも、時が至れば、わかる面々もいるだろうと、教えは、代々、伝えられてきた。そして、その教えは、様々にあるが、一切大衆が、五欲を断ぜずして救われるという教えは、時を待って、昭和の世になって、『妙法華経』として、顕現した。たとえば、鎌倉仏教が、新仏教と言われるが、この度の仏法は、真仏法とも言うことができる。すでに、顕説されて五十年となるが、その間、一度も醜聞が無いことを以て、その証明と言える。知る人ぞ知る仏法である。

「夫れ釈尊初成道より四味、三教、乃至、法華経の広開三顕一の席を立ち、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさ給ひし所の実成の当初(そのかみ)證得し給ひし壽量品の本尊と、戒壇と、題目の、五字七字を教主釈尊(此)の秘法をば三世に隠れ無く、普賢、文殊等にも譲り給はず、況や其の以下をや。弘安四年卯月八日高祖日蓮大聖人(此)の事を二千余年の当初教主大覚世尊より口決相承され、本尊と。題目とは。弘通されたり。戒壇とは。王法佛法に冥し佛法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を保ちて、有コ王覚コ比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣竝びに御教書を申し下して靈山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可きものか。時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり。三国竝びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり。秘すべし秘すべし等々と申され、事の戒法は時を待つ可きのみと(此)の事明されず。仏法を学する者亦大衆も昔も今も唯(此)の秘法を知らんとし(此)の経の秘法が解き明されゝば、いかに衆生が喜び豊かに又平和になる事と、多くの佛法を学する人、平和を愛する人々に依って、学び苦しみ研究されて居り、文明の世、化学の世となった現今も亦其の通りであります。昭和の今日過去の佛、菩薩神、祖先、大師、智者、学者の御苦労を感謝し、此に(此)の経の秘法を明さん。(此)の経と申すとは無上菩提即ち阿耨多羅三藐三菩提を成就する事の出来る。平等大慧教菩薩法佛所護念眞實證明の妙法華経の事なり今大衆の爲に斯の事を説き明さん。」(一説妙法 南無平等大慧一乗妙法蓮華経(1) より)



佛が宇宙を支配し、神が地球を支配しているとして、佛はかぎりなくやさしい。しかし、神はそうはいかない。怒らせると何をするかわからない。その怒りは、正義に基づく。その理由は、今、人間の横暴に対するものであるが、その理由を、人間は知り得ない。本来神の世界は清浄である。現在、世の中は腐敗、退廃である。佛は、神の怒りを知っている。故に、救いに至る道を説く。高橋和己『悲の器』では、裁くのは国家のみとした。しかし、神は国家をも裁く。神を制御できるのは、神仏のみである。そうして、こうした真理をも食い物にしているのが、現代知識人である。奢りを奢っている。恐ろしいことである。人間の思い上がりが裁かれる時が来ているのか。本当に時が満ちるとき、人間はどうなることか。時が満ちるとは、旧約聖書にあるように、人間の惡(人間勝手、人間計算)が満ちるときであるが、それまでに、眞實の反省(真理に対する畏敬、人間関係における謙虚:純粋精神、やまとごごろ[動物性からの自由:格調、理念はやさしさ、やさしさとは、他のあらゆる存在に対するおもいやり、嘘がないこと、脅迫・詐欺のないこと、自らの心に忠実であること、しかるを現代成功者の心は如何、部下をボロ雑巾と思っていないか、責任転嫁していないか、自分のことしか考えていないのではないか])が出来るだろうか。どこまで無知であり、愚かであるのか。愚か者ほど、真理(神仏:神=自然、佛=宇宙)を冒涜している。神は正直者に宿り、正直者には、自然が恵む。本来の秩序であるが、それが、破壊されている。たとえば、人間の現代お笑いであるが、現実逃避にすぎない、根本解決はない。「甚深(父母の愛より深い)微妙の法を我今すでに具え得たり。十方の佛も亦然(しか)なり。當に大信力を生ずべし。」「是(かく)の如き妙法は諸佛・如来・時に乃(いま)し之を説きたまふ。諸佛・世尊は衆生をして佛知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。今正しく是れ其の時なり。」(9:09am 2005/12/28 NHK-AM「フィガロの結婚序曲」を聞きながら)「汝今應當(まさ)に身心に懺悔すべし。身とは殺・盗・婬、心とは諸の不善を念ずる。」市民革命で市民が解放された。その市民は、かつての貴族と同じ間違いを犯した。平家が武士でありながら貴族化したのと同じ轍と言える。今、これら退廃市民から解放されるべき存在がある。時が満ちる。そして、本来の価値を本当に実現できる時かも知れない。清浄。佛知見。これを求めての魂の遍歴であった筈である。いよいよ、その方法も解き明かされている。勇気ある魂は、ロトの如く、振り返りはしない。自らの罪によって滅び行く魂は、自らの責任に於て泣く。あの世へ逝って初めて気づく罪である。それを生きながらに知ること、これが、禅経験である。そして、これを知ったとき、宇宙は守護し、自然は祝福する。唯、それだけのことである。これを以て寂滅の意味とする。[ベルディ「椿姫」、『乾杯の歌』を聞きながら 9:38 NHK-AM(呉市の花は椿):高級娼婦、退廃社会、メロドラマ、本来ベルディは愛国主義者であったが、人生の悲哀、そして、庶民生活の中に幸せの形を見たか、この頃のテーマとして、真の愛とは。身分と現実。人間は過去の罪を謝るための人生を歩まさせられている、因って、真実の愛は現実化しない、反省してはじめて、実現する、本来の幸せ、神仏との邂逅、宿命、試練、至福。されど、甘い蜜。人間の動物性。悲劇。救いへ至る道、心の真実。現実は、諸々の惡因縁(条件)の綾なす世界。解脱、涅槃。寂滅。常寂光。己事の究明、汝自身を知れ。懺悔の日々、神仏に赦されて、ここより、真実の人生が開ける。]さて、旧約聖書に400年周期説が秘められている。そして、その中にある、切り倒された二つの切り株とは、神仏と思われる真理である。今、西暦で世界は動いている。西暦元年は、キリストの誕生と言われている。次の400年後に何があったか。日本に於ては、古墳時代である。この頃、春秋戦国、およそ、歴史的文書はない。おそらく、各地に豪族が群雄割拠した。やがて、大和王朝が天下を統一した。その頃の双璧は大和と出雲であったであろう。大和は出雲を根絶やしにしたつもりであろうが、それは、見えない世界の真実を知らなかった愚かである。その後も、権力のための戦乱の世が続く。そして、次の400年後は794平安時代のはじまりである。ここで、王権支配から、貴族支配に入る。次の400年はどうか。その頃、平家は武家でありながら、貴族化した。それで、本来の武家精神を以て、源氏が台頭する。1192武士政権の始まりである。次の400年、1600関ヶ原である。その頃、1588秀吉の太閤検地、イギリス海賊キャプテンドレイクによる、スペイン無敵艦隊に対する勝利。世界に於て、イギリスの時代の始まりである。王家の支配に対する、議会の支配への移行であった。市民革命の始まりであった。次の400年、現代である。市民の時代であるが、この市民が、今、特権階級として貴族化した。推して知るべし、次なる時代の始まりである。庶民の解放である。ここで、重要なことは、神仏がどちらに就くかである。歴史の大河がある。人間の我の力ではない。如来の出現の時であり、時が満ちる時である。時が満ちる時、神が動く。見えない世界が動いて、見える世界は大義名分を得る。畏るべし。神は淘汰する。佛は救う。今、一切大衆を救うと言い切っておられる。唯、「信を以て入ることを得たり」。両者そろった稀有なる時である。ELP「庶民のファンファーレ」が鳴っていたのはいつの頃だったか。時代は悲鳴をあげながら、何を待望していたのか。その後、時が満ちるのが待たれた。腐敗が進んだ。腐敗の限界、今、時が満ちた。