ナポレオンは、ナポレオン・ボナパルトで、その名に、アイウエオの母音が全てあるとかで強運であったとか言われている。しかし、晩年はどうであったか。Able was I ere I saw Elba.も人口に膾炙されている。前から読んでも後ろから読んでも山本山である。さて、成功の法則ということが言われている。ナポレオン・ヒルの本がある。『52STEPSさぁ!今日から成功しよう』だ。その304頁にこうある。「あなたには、自分の人生を思いどおりに生きる資格があります」と。そして、その目的が成功である。「ただ『成功へのノウハウ』に従って、行動し続けただけなのです」。そして、その成功とは何であったか。これに対して、一万年堂出版『なぜ生きる』という本がある。その364頁にはこうある。「なぜ生きる。人生の目的は何か。親鸞聖人の答えは、簡潔で明快だ。『生きる目的は、金でもなければ財でもない。名誉でもなければ地位でもない。人生苦悩の根元を断ち切られ、”よくぞ人間に生まれたものぞ” と生命の歓喜を得て、未来永遠の幸福に生きること』である」。さて、どちらが正しいか。選択の自由。結果は異なる。禅の話に、馬を水辺まで連れて行けるが、水を飲ませることはできないという。また、一般に、行きはよいよい、帰りは怖いとも言う。教えは明らかであるが、これも、経験を要することなのかも知れない。人生は、前世からの続きということもある。旧約聖書『申命記』4.29には、「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くして、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう」。同4.31「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである」と。ところで、一万年堂出版『なぜ生きる』によると、親鸞聖人の、九十年のメッセージは一貫して、人生の目的を明示し、その達成を勧められたことにあるという。さて、人生の目的とは何か。それぞれ、自分の運命として、この世に生まれてきた意味を知るしかない。過去世の同じ失敗をするのか。あるいは、この世の生で、進化を果たし、来世へ向かうのか。常に選択である。時間は十分ある。何時からだって、始めることができる。この人生。そして、『申命記』4.36−37「主はあなたを訓練するために、天から御声を聞かせ、地上に大いなる御自分の火を示された。あなたは火の中からその言葉を聞いた。主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、御自ら大いなる力をもって、あなたを(中略)導き出された」。ここで大切であると思われるのは、できることであるなら、この世での幸せを得たい。それは、形としては成功である。ただ、成功へ至る道が、西洋と東洋では違う。前者に立脚した場合、往々にして、成功は得ても晩年は不幸であることもある。孤独であったりする。来世では、現世で犯した罪で、より苦しい生を運命として生きなければならないこともある。東洋では、過去生の運命を、一度、滅却する。そして、今生での幸せと、来世での幸せを獲る。さて、どちらの道を歩むべきか。そして、約束がある。この道を歩むと、必ず、今生でゴールを獲るという約束である。こっちの水の方が甘い気がする。そして、本当の成功者は、知っても知らなくても、この道を歩んでいる。彼らのメッセージがミュージックだったりする。成功にも色々ある。(0:11am 2005/11/01 NHK−FM アジアの若者たちのミュージックを聞きながら)しかし、こうしたことも、ユーミンの歌でも聴いていると自然とわかってくることなのかも知れない。至り点いて別事ナシってことかな。こうして、迷える子羊たちが救われる。先人たちの愛が愛だよ。そのためにも、豊かでなければならない事情がある。何事も真剣であれば、必ず、掬ってくださる方がいる。これが、有難いってことですね。神仏を求める意義もここにある。神仏を知ったとき、急に、世界が開かれる。そこに、既に至っておられる方々がいて、その方々が、天使だったりする。真剣さ、まじめさ、素直、正直、そうした諸価値を大切にしてきて良かったと、確信する瞬間があるよ。これを知ったとき、生きていて良かったと思う。これが、幸せだったんだと思う。地上ヘブンは実在してるよ。どのような失敗も恐れることはない。どのような失敗も。そして、その時に、初めて、微笑むことが始まるよ。それでもね、時々はね、喜怒哀楽あるね。どうしようもなく、フツフツとくることがある。でもね、制御することを知ってるから、大丈夫となる。そして、このエネルギーこそが、仕事をするエネルギーでもある。これが、公憤ということになってね、そして、昇華もできるようになる。これで、幸福軌道に乗ったと言えるんだね。幸せ世界があるんだね。ここへ至るには時間がかかる。自分の足で歩くしかない。そしてその旅の過程がすべて自分形成の糧となる。かかった時間の重さだけ、自分の質量となる。しかし、やがてその旅もいつか終わる。その時、自分が何処にいるか。大空を飛んでいるか。 大空を飛ぶということは、地上にいて、天界にいることである。その時、あらゆる事象が自分を護ってくれていることに気づく。つまり、自然の中での自由を得る。すべてが、それでも地球は回るという実感となる。親鸞にとってはシャカは唯自分一人のために法を説くという。こうした感性の世界がある。万軍の主とはこれであったのである。ここをシャカは天上天下唯我独尊とした。則天去私などの境涯を遙かに超えた世界が確かにある。乾坤を独歩するとはこれであったのである。しかし、これは、昔よりの縁もある。ここを勘違いするから間違う。それぞれ、順序がある。階梯がある。これを知って謙虚と敬虔を知る。知らずして語っては嘘である。知って語れば全て真実である。これを、隻手の音声を聞くともいう。こうしたことには教科書はない。遙か彼方に浮かぶ月があるだけである。しかし、月はある。この月を自分の手で掴む。教えて貰ってできることではない。自分が工夫していくしかない。畏れを知ることは、対世間に対しては必要である。自分の道を歩むためである。自分の使命を果たすためである。自分を信じることが、この道を歩む勇気となる。飛び込むとは、この真実世界へ向けて、日々、進むことである。それが、人生の目標である。目標は実現するためにある。そして、日々是好日となる。概念ではない。概念は虚である。すべて、思いは現実に実現する。心は表出する。真実の世界は現実に実在する。自分の二足で歩むしかない。ゴールは近い。実体としての魂がある。魂は宇宙とリンクしている。これを知って自由を勝ち取ったとは言える。これを実現するのは超高速回転頭脳である。これが知性であり、瞬間の電光石火となる。自然も認めたちからとなる。思いが宇宙に反射する。現代は誰も知らないことだった。しかし、古人は知っていた。これが、21世紀の約束だった。世間の知っていることは、氷山の一角でしかない。表現されたことしか知らない。魂が宇宙とリンクした精神の絶対的自由がある。世間は決して冒すことはできない。神々が守護している。生命体としての歴代の約束がある。時が満ちた。21世紀である。