【2005/11/23】[やさしさで全ては解決することについて]
ある男のコートを脱がせるのに、北風ではダメだった。あたたかい太陽がやさしく降り注ぐことで、その男はコートを脱いだ。というお話がある。母がよく言っていた。さて、見える世界と見えない世界がある。見えない世界は、魂の世界であり、諸精霊の世界と言える。祖先でもある。子孫を護るのは祖先である。地球を護るのは、神仏と言える。この神仏の加護がある。その加護を得るためには要件がある。それは、護るものは護られる。つまり、神仏を護ることで、神仏から護られる。その具体的表現がやさしさである。やさしさを自分の属性として、神仏から護られる。神仏は亦自然である。自然に優しくすることだ。この関係はそのまま人間関係に及ぶ。愛と平和のメタ概念としてやさしさを捉えることができる。ベタベタとしたやさしさではない。純粋無垢といった、さっぱりとしたやさしさである。精神或いは心に於いてやましさがない。そのとき、独特の周波数を発している。この周波数を意識する。そして、やがて、意識しなくても、常に、この周波数を発している自分となる。そのために、例えば、御經讀誦する。御經讀誦には、宇宙の周波数が宿っている。意味も大切だが、もっと大切なのが、この周波数を身につけることである。こうして、やさしさが自分の属性となる。これを身につけたとき、動植物も微笑む。鳩ともカモメともお話できる。アオサギだって鳴いてくれる。花はやさしくおしゃべりしてくれる。蝶も飛んでくる。遠くの煙突を含む風景も、なぐさめてくれる。あらゆる自然現象が、自分の心の状態に応えてくれる。その周波数は、たとえば、話す声のトーンに現れる。いらだつ声を発しているか、心温まる声を発しているか。ここに、人格の差がある。好かれる好かれないの分水嶺となる。もてるもてないが決定される。女性が男性の顔をそれほど重要視しない所以である。今までは、男性の属性で重要なことは経済力であった。しかし、今、女性も社会的に働く存在である。男性にとって経済力が主たる要件ではなくなった。日々の生活の快適さが主たる要件となってきた。男性の存在(雰囲気)が問題となってくる。自然においては、人間の存在が自然にとって心地よいかどうかが問題となってくる。ここに、物質文明からの離脱の必要性が証明される。精神文明の特質を見直す。これから獲得あるいは学習するべきは、ここである。 ところで、私は知らないことを知っている、とソクラテスは言った。この知らないこととは何か。たとえば、神は、個々の人生を知らない。法則は知っている。個々の人生は個々の生命体の選択の結果であり、法則通りの結果である。自ら助くるものを助くとはこれを意味する。結果、思いの外となるなら、始めよりしないに限る。だから、神は、個々の人生については知らない。仏もそうである。方法は教えてくれる。それは、自然の摂理であり、法則である。個々の人生については、普賢菩薩に委任しているという。よって、観普賢菩薩行法を学んで行をすればいい。ここが、ダルマの理入と行入である。理は仏によって説かれている。行法は普賢菩薩をお手本にする。こうして、自然法則に則った人格を得る。神仏に守護される所以である。人間レベルでいくら科学的に実践してもそれだけでは幸せになれない。所詮、人間レベルの限界がある。ここに、謙虚さと敬虔が要件となる。21世紀はこころの時代である。そこに、日々の暮らしが、日々是好日として現前する。愛も平和も、この日常のためである。政治も経済も、個々の日常のためである。目的があって手段がある。手段を以て実行する。実行すれば結果が出る。正しい方法に則れば、正しい結果が出る。至極当然簡単明瞭。しかし、人間は自分解釈して、往々にして間違う。これを以て哀れである。知らないからと言って、有ることも無いと思う。自分勝手である。だから、パスカルは言った。神がいる方に賭けるといいって。懸けて実行する。そして、自分が経験して解ることである。山も頂上から見る景色と、中途から見る景色とでは違う。頂上から見える景色は、頂上へ到らねばわからない。詩は詩人を以て呈すべし。

やさしさは、人格=魂としての表現形式である。それは、自信を得て明晰な頭脳を開発した結果でもある。そこには、一切の曖昧さはない。人間存在も社会も、自然に受容されて存続できる。自然界の秩序を乱しては、未来はない。未来は、現在の思いと行為の結果である。世界は、人間の幸せのためにある。