店主 福田英男 癌闘病記

〒737-0046 広島県呉市中通4丁目8−13
TEL:  090-8717-8458  

 癌患者は、2人に1人の時代となっている。癌になって、おちこんだ。くやしかった。親より長生きしたいと思った。人のありがたさが改めて身にしみた。お店はお客さんで成り立っていた。友達が言った。「飲め、飲め……。生きてもどってこいよ」。薬は、つらい。

(病院での写真を見せて)毎日、死ぬんかと思った。今日、死ぬんかと思った。自分自身、やばいと思った。白血病はやせる。ステージ3の強である。胃が痛い。検査すると悪性だった。腎臓、膵臓に転移するとアウトである。抗がん剤がよく効いた。10年前だと死んでいた。旅に出ようと思った。500万円を鞄に入れて、東京へ行こうとした。広島駅で倒れた。白血病からくる貧血だった。
 

癌セミナーで話をさせてもらった。みんな話を聞いて泣いていた。「参考になりました」、と握手を求められた。会場に300人の聴衆がいた。さすがに上がった。30人くらいかと思っていた。   
国立呉病院の9階に入院していた。血液内科だった。高級ホテルかと思った。しかし俺は癌だった。消化器をガラスに投げつけたかった。犯罪者の気持ちがよくわかる気がした。心が壊れる段階があるのだった。生まれつきの殺し屋はいない。何かが生い立ちにあるのである。やってはいけないことはわかっている。しかし、人間がめげたらやってしまう。自分が生きるために相手を殺す。どの動物もやっている。しかし人間には情があるのだった。そして一人では生きてゆけない。私の場合は、お客さんと中学時代の友達に助けてもらった。友達は東京、大阪にいる。呉に彼らの親はいない。墓もない。帰ってくる理由はなかった。「顔を見に来た」、と言って帰ってきた。そして「おまえ、いつ死ぬんな」と言った。友達って、いいなと思った。

その後、社会復帰してテレビでも見ようかと思えるようになった。そして飲みに出たいと思った。とにかく人が恋しかった。だれでもよかった。話を聞いてくれるなら。ぬくもりを感じることができるなら。

飲みに行きたいと思った。お客さんのところではないお店へ。ところで、人のことを悪く言う人は、自分の悪口もだれかに言っているものである。そのような人は信じられなくなる。しかし、怒れない。これ以上は言えない。

癌闘病日記をたくさん読んだ。主治医は、読まない方がいいと言った。しかし、心の整理がつくまで読み続けた。治療法のブログなども読んだ。死んだ、助かったは十人十色である。精神状態は最悪だった。どうやって立ち直るのか。みんな、俺は死ぬと思っていた。

店は1年近く閉めたままだった。平成30年10月21日から開店の準備を始めた。店に灯りが点るようになっていた。1時間作業しては休憩した。お客さんは、「とうとう死んだか。店やめるんだ」、と思っていた。11月1日にオープンした。何人かのお客さんに電話で連絡した。そして店に来てくれた。

悪性リンパ腫だった。心臓まで転移するともう駄目である。呉で初めて京都大学の先生が来院して診てくれた。それほど珍しいケースだった。ところで、失敗するのが人間である。だから、どんな名医であっても信用できない、と思った。広島大学の先生が放射線治療をしてくれた。

手に力が入らなくてグラスを持つこともできなくなっていた。そんな自分に対して、なめとんかと思った。ある日、看護師が手を握って言った。「家に帰ったら、絶対救急車で戻って来るようになる。みんな、その日の晩に帰ってくる」。ふと、自営業としての自分の人生を考えた。結局、人に迷惑をかけたままで死んでいく。その頃、本当に死ぬかもしれないという状況だった。病院から「施設を探してください」、と言われた。自分一人では生活ができなくなると思われたからだった。初めに共済病院に入院したときには、できる治療方法がなかった。それですぐに退院するように言われた。親には詳しい話を聞かせたくなかった。

国立病院で「オーガナイズ治療というのがあって、今それをしなかったら死ぬ」、と言われた。私の場合、2ヶ月後に効果が現れた。「1年は大丈夫だ」と言われた。しかし、「仕事は諦めなさい」と言われた。それを聞いて、とても不安だった。一生、もう仕事ができないと思った。

開店の5日前に支度を始めた。開店してお客さんが来てくれたとき、涙が止まらなかった。人間の涙腺は制御できない。感動すればコントロールできなくなる。お客が「泣くなや!」と言った。しかし涙が止まらなかった。喜びの涙だった。

若い人は、肉親のお骨を拾う経験をしていないことが多い。大人は何人も大切な人を失っている。セミナーで話をさせてもらったとき、みんな泣いていた。抗癌剤治療がどれくらいしんどいか。医者は自らそれを打ったことがあるんか。血液の癌だった。そして自営業の身だった。不安で不安で仕方なかった。

やがて時が過ぎて、自分が生まれたことは間違いではなかったんだと思えるようになった。お客さんと友達に助けられていたことに改めて気づことができた。そして、こいつに会いたいと思う友達に電話連絡していた。告知を受けたとき、親父に言うかどうか迷った。広島から厚労省の役人もやって来た。年金をかけて、老後のことは考えていた。75歳まで自分の店でやっていこうと思っていた。入院して11ヶ月間、店は閉めたまま家賃を払い続けた。
そして復活することができた。この5月16日に再入院して検査してもらった。そして「夏は越せるよ」と言ってもらった。しかし、「秋と冬はどうなるかわからない」とのことだった。この冬に命の保障はない。8カ所に癌があって、進行の速度をゆるめることはできている。すべてに効くほどの抗癌剤を適用するとショック死する。緊急入院で集中治療室に入ると、8:2で死ぬ。しかし、医者の言うことは確率に過ぎないと思う。決断するのは自分である。「福田さんが決めてください」と言われている。きつくなるばかりの癌治療が今も続いている。癌を殺すために投薬すると、身体は当然つらい。モルヒネの痛み止めを飲んでいる。この11月で2年になる。そして今、社会復帰できている。毎日が全力投球となっている。今日(令和元年6月23日)の昼、久しぶりに店を休んだ。前日午前3時まで仕事をしたからだった。

病院ともめたことがあった。そのとき、主治医が謝った。消化器を投げたろうかと思ったこともあった。もうええか、家に帰るかと思ったとき、看護師が泣きながら止めてくれた。娘のような若い子だった。そして今、癌を受け止めることができる自分となっている。ものに当たって壊して弁償しても人に迷惑となる。ぐずぐず言うならその人を殺して自分も死ねばいい、そういう考えも浮かんだ。しかしすぐに、何人殺さなければならないのだろう、と思った。かつて自分は十分に生きていくことができると思っていた。自分一人で生きていくことができるという自信があった。やりたいようにやって生きていた。助けてくれる人もたくさんいた。なんで儲からんのかと悩んだこともあった。……今ではどうだろう。店はとんとんでやっていければいいと思うようになっている。人生における欲が本質的に変化した。他店に飲みに出かけるようにもなっている。とにかく人恋しいのだった。お客さんはこれを求めていたのだったということに初めて気づかされた。また、おふくろの介護にはお金がかかる。介護費用に毎月25~30万円かかるところもあると言われている。介護難民がたくさん出ている。お金で済むなら稼げば良い。しかし今、俺の面倒を見てくれる家族はいない。

癌患者としてのいくつかの体験を読ませてもらって元気になった。同じ立場でなければわからないことがある。癌になってみないとわからないことがあるのだった。私には骨と骨の間に癌がある。ぎっくり腰の痛みと一緒である。患部を手術して切除しても癌はどこかへ逃げていく。痛みを和らげることしか方法がない。注射でモルヒネを打っている。それは8時間すると効かなくなる。そして、1日に1回しか打てない。6時間は空けなければならない。これを破ると効かなくなる。1~2年は効く。モルヒネはアルコールと同じでショック死することがある。