2006年02月02日
この度の戦いの本質
さて、迷いの中で生じた因縁は、迷いの因縁であり、そこより目覚めると云うことは、それ以前の因縁を知ることでもあり、迷いの中にいる間に為したことは、或る意味で、切り離す必要があるようだ。所詮、目的は生きることであり、今とこれからであり、これらに利益と成らないことは、すなわち、未練なく、断ち切らねばならない。やがて、それぞれの事象には、それぞれ、一つの関係があるのみであって、新しい関係が置き換わることによって、良き思い出となればそれで良い。所詮、自己一個の人生であり、それが成就することが目的であるから、あらゆる、マイナスの因縁は、切るのが良い。人間関係も然りである。悪い因縁があるなら、その関係に於て、良い因縁も結ばれることはない。これが、縁がなかったということで、片づけるべきことである。それに付随することがらは、やがて時が経てば、枯れる。そのようにして、自己一身を育ててゆく。園芸的的人生である。生まれてきたからには、花をも咲かさねばならない。このまま、朽ち果てるわけにはゆかぬ。それこそ、あらゆる艱難辛苦を通って自分にまで伝えられたことについて、祖先に対して申し訳ない。生まれてきたからには、生まれてきた理由がある。最大限、それを引き出して、開花したいものである。一つの関係に一つの清算があって、自らが、生まれ変われば、また、新たな関係のはじまりであり、その後、そのひとつの関係がどうなるか、それも、自分次第と云うことになる。いずれにしても、とことん失敗することも意味があり、それも、無価値であることを知らしめんが為である。努力できるならすればいい。無理が効くなら、すればいい。何でもすればいい。小学時の校長先生が何時も云っておられた、「限界に挑め」。あらゆる評価は勝ち取るべきものである。己を信じるならやるしかない。すべては、自分次第であり、自己責任である。その意味では、神仏も必要ではない。神仏なども知ったことではない、と云うべきである。そのように、思われてきた。これも、とことん、餌食とされてわかることである。もはや、「すべては知らしめんが為に」は、ここへ至った。力を獲ると云うことは、その力に応じて、試練の度が深い。しかしそれだけのことはある。真実はある。その真実があることを知って、それを忘れることが必要であろう。真実は、真実で、真実をしていればいい。自分は自分で自分をすればいい。悔いのないこと。これだけである。悔いが既にあるなら、それを乗り越えることしかその悔いからの脱却はない。それは、悔いに対する報復である。昇華と云うもぬるい。既に小さな成功を収めて小さく安住し、半ばその地位に自分を諦め、ふやけた精神で生きている者たちには決してわからぬ。自由は自由が切り開く。他の一切の助けなど必要ない。協力し合うなど偽善である。利用し、利益することしか考えていない世間一般である。それなら、それでいい。今、そうした世間の諸相からの脱却の時である。今までの因縁が解決する。こうしたエゴ集団からの脱出だ。やがて、ひとつ、階梯が上がることを期待する。吹っ切る時は、吹っ切る。生きる術である。過去にさようなら。一つ解決すれば、一つ回答が来る。そして、次の段階へと進む。このようにして、因縁は順々に解決する。実行があって、そのご褒美としての解決である。さて、どこまで解決できるか、非常に、楽しみとなった。因縁が解決していくとは、過去の清算であり、過去の失敗の修復であり、また、敵と味方がはっきりすることである。そして、あらゆる不安が払拭され、自信を回復すると云うことは、精神に於て戦闘状態に戻ることであり、これが、チャレンジ精神の必須要件である。自由を以て、思い通りに生き、そして法を越えない人格が、英知を以て実行する実践段階となる。所詮、人生は戦いである。戦いは、万全の準備を完了して、戦うべきである。それは自己の解決である。その間、あらゆる失敗が経験として武器となる。そして、総攻撃である。かつて、明治の頃であろうか、殿様商売と揶揄された。その通り、彼らの多くは没落した。さぞ民は本望であったであろう。その後のギャップを以てどれほど苦しんだか、知る由もない。しかし、時が流れて時代は変わる。試練を経た魂は本来強い。かつて、義経には弁慶がいた。桃太郎には、サル、キジ、イヌがいた。それぞれ、智、勇、仁の象徴であった。今、個人主義の時代である。家来はいない。いないが故に、自らの智、仁、勇が大切となる。個人で戦う時代である。見えない世界にそれはある。見えない世界の宝だ。如何にして、これを手に入れるか。このアイテムがなくては、本来、戦えない。戦っても負ける。これを手に入れるまでは。昔の絵本に、ハッサン物語があった。目薬があって、それを目に差すと、地中の宝物が見える。しかし、両目に差してはならない約束だった。それを貰ったハッサンが、もっと見えるだろうと、両目に差した。すると、失明した。そして云われた。あなたは、物乞いをして、その度に、頭をぶってもらいなさい。千回ぶって貰った時、目が開くであろう、と。そして、ハッサンの乞食が始まった。その通りとなった。果たして、目が開いた時に何が見えたのだろう。また、或る男が舞踏会に招待された。その男はみすぼらし格好をして行った。すると誰も相手にしてくれなかった。給仕するものもいなかった。その男は家に帰って、着替え直して行った。すると、誰もが挨拶をし、たくさん、給仕してくれた。そして、その男は、着ていたコートを脱いで、そのコートに食べろと云った。この話の解釈をどうするか。私の場合はこうである。舞踏会にはルールがある。それに反して相手にされないのは、当然であろう。また、家に帰って着替えたのは、努力である。それに対する褒賞が挨拶であり、給仕であった。それに対して、コートに食べるように云ったのは、この男の人格の限界である。自分が食べて楽しめば良かった。そして、ここで大切なのは、本来日本純粋精神的には、触れず触れざれのダンスである。この辺りが、それぞれ、現代世間の解釈とは異なる。かつて、既に、方法論を獲ていたが、自分とは違う世間に合わせたことで、不幸となった場合もある。何時までも、不幸でいるわけにはいかない。自分に戻る。35年、世間に合わせて失敗した。とりもどすには、35年かかるのかも知れぬ。しかし、取り戻す。そして、或る医師に云われた。80%の力で生きればいい、と。獅子はウサギを狩るにも全力を尽くす。そうしないと獲られないのである。それを医師の名で指導して一個の人間を不幸にした。そして、埋没し、餌食となった。本来餌食とするべきでないものまで餌食にする、それが、世間である。お客様は神様です?違う。お客様の中には神様がいるかも知れない、である。神をぶてば、死に神が来る。事実である。因って畏るべしとは云う。責任はとって貰う。見える世界と見えない世界がある。見えない世界を制覇する。しかし、見えないが故に評価はない。評価がなければ飯の食えない人間社会である。見える世界と見えない世界とで実相である。見える世界を取り戻す意味がある。そして、女は所詮薄情である。女は裏切る。現実しか見えない。男のロマン、潜在能力、大和魂の本質など知る由もない。ここに女の限界がある。しかし、現代社会の基準及び主導権は女である。それに迎合するものが勝ち組である。未来など考えてはいない者たちである。周辺は笑いながら日本の没落を待っている。しかし、そうはいかない。日本純粋精神は永遠である。明治以降或いは大戦以降の世迷い事で滅びるような大和ではない。こころするべし。そして覚悟するべし。今までそれが何故通ったか。自覚するべきものが自覚していなかったからである。自信喪失していたからである。眠らされたままであったからである。これからは違う。自覚するべきものが自覚し、目覚めている。そして、彼らが地中より涌出する。否、既に、涌出している。戦いの火蓋は切られた。勝敗は決まっている。見えない世界が味方につくからである。時間はかからぬ。嘘の世間が塗り替えられる。偽善者(嘘つき)、裏切り者に用はない。男の時代が来る。優秀な人間は本来の力を持っている。それを粗末にし、その芽を摘み、優秀でない女社会を形成した。そして、腐敗した。罪でなくして何か。考えることの重大さを無視した結果が今の日本である。幸い、傾向は変わった。これより、日本が復活することは間違いない。土壌が変わった。バブルの効用であろう。推して知るべし、時代は変わった。本来の力を発揮するフィールドがやってきた。知性よ、立ち上がれ。愚か者は去るべし。君たちの支配は終わった。今、世間では、やはり、努力を否定している。これは、努力を知らない。努力は当然である。認識を変えるべし。天才は自分が天才であると知って、それが何でもないことに気づく。吉田健一氏の云ったことである。一般には努力と見えることが、当然なのである。また、週休三日でよいという。これも古い。賃金制度に縛られている。賃金など或る意味でどうでも良い。評価するべきものは当然評価する。仕事の日と休みの日を峻別すること自体がナンセンスである。木々がその成長に、休みの日があるか。人は24時にこき使われている、私は24時をこき使っている。或る前者の云ったことである。これが、日本精神の本来の姿だ。程度の問題がある。日本古来、修行して獲た力は、一般の想像を絶している。思い知るべきはここである。大和に戻ろう。庶民レベルで。人間の能力は持って生まれたものである。それを磨くのである。それが力となる。この件を知らなすぎた。罪である。教育の怠慢である。自分より上は見えない。それでよしとした。本来の価値はその潜在能力にある。それを育てるのが教育であろう。何を以て教育か。また、国家の基でもあろう。自分たちの身分に安住し、利益を独占し、貪りし者たちの罪、重かるべし。既に犯された罪については、その重きに従って処断を待つしかない。罪とは何か。本来の秩序に反することである。そして、一人で育てるには荷が重すぎる潜在能力もある。神仏は憤っている。さて、見えない世界はある。見えない世界は犠牲となった諸精霊たちの世界でもある。彼らはその存在を認められたいと思っている。犠牲のまま葬られて、そのままで済むものではない。何故、敗者として散ったか。勝てば官軍?見える世界でのことである。見えない世界へ行けば、仇はとられる。これが、メビウスの輪の示すところでもある。所詮、人間レベルの勝ち負けである。十月が出雲では神有月である理由である。大和は出雲に対して負い目がある。黄泉は怖い。黄泉はある。黄泉の住人は自分たちの存在と犠牲として散った事実を認められたいと思っている。認められることで成仏する。成仏するまでは因縁である。知らしめんが為に何度でも起こる。度を増して何度でも起こる。因って、畏るべし。しばらく忘れていた。何時の頃からか。ペリーが来てからである。しかし、それ以前、二千年来、信じられてきたことであった。大義名分がなければ戦は勝てない。しかし、その大義名分が歪められた。ペリーが来てからである。それまでの幾多の試行錯誤に耐え、発見し、検証され、確立されていた日本古来のの道徳秩序が破壊された。それ以降、日本丸は漂流した。世界大戦で負けなくても良いのに負けた。無駄な戦争までした。日本の古来の戦には大義名分があった。明治以降それを失った。笑いものにした。そして、今も、その延長である。これを憂えずして、何を憂えるか。日本語を話す國、日本である。日本が日本でなくなっている。堕落している。暴力と欺罔が野放しにされている。何のために日本文化か。テレビ界が象徴である。恥を知るべし。経済至上主義は、努力無くして、利益を上げることを以て価値としようとしている。人間形成は何処へ行ったのか。それが頭を使うことだという。このオオバカもの。この愚か者たちよ。畜生道を何時までも歩むがいい。アメリカ主義は滅びる。日本精神は生き残る。宇宙の秩序、自然の法則、あだや疎かなかるべし。所詮アメリカはモンロー主義の國、自国の利益のためには、手段を選ばない。ロシアは、条約を破る。周辺諸国は漁夫の利を獲ようとする。日本の進路、舵取り、よくよく見極めるべし。民間企業の売国的利益追求、畏るべし。 しかし、健全で善良な大和魂は滅びない。この度も生き残っている。至道無難禅師〜正受老人〜白隠禅師の命脈である。冗談ではない。この度の日本の復興は見えない世界ですでに完了している。刃向かうものは刃向かえばいい。1600年以来のことである。 群妄ではない「一」が目覚めている。そして、知性としての大和魂は、知性としての日本精神を弄び、愚弄した女と女迎合文化を憎んでいる。これが、今の、世の腐敗の原因と考えている。女は本来嘘つきである。だから化粧もする。また女は刹那的である。男のロマンを理解しない。故に長きにわたって行為能力がなかった。それに迎合した男の堕落がある。ここに、この度の戦いの本質がある。

言葉はロゴスである。本来力がある。神仏をも動かす力だ。それをどのようにして獲るか。そして、その力で何をするべきか。テーマだった。すでに、この力を用い、心の地平は開かれた。その記録であった。地上ヘブン=世界という一つの世界論も明らかとなった。そろそろ、もういいのだろう。十分であろう。(2006/02/02 5:49am H-FMを聞きながら)【おわり】

2006年02月01日
顧客満足度について(各スタッフ及びニートたちへ)
世の中は、顧客満足度を指標としたサービスの時代となった。サービス内容はあらかじめその範囲があり、その限界内で如何に、お客様の満足と了承を得るかにある。その延長線上には、責任(損害賠償)の所在がある。何かあった場合に、だれが、責任をとるのかである。そして、その責任は、サービス商品に対する利益の大小によって比較考量され、按分比例されるべきである。例えば、ここにスタッフがいる。個々のスタッフが、一個のサービス作業を実行し、そのの利益が、4,000円であったとする。現実問題として、個々のスタッフは或る意味で、いわゆる責任に対して不安を感じる。ここで、考え方であるが、暗黙の裡に、個々のスタッフに、重大な過失(殆ど故意に相当する)のない限り、責任が及ぶことはない。そのためのサポートを会社は最大限に準備し、努力している。何故なら、個々のスタッフの作業を通して会社は利益を上げる。一個の会社の利益の総体を考えてみると良い。ところで、会社は、個々の生活のための利益追求手段である。或る意味で、漁をする大型漁船に等しい。そして、会社の社員及びそのスタッフは、そのクルーであり、仲間である。皆で一致協力して漁をしている。どんな漁も真剣勝負であり、皆が力を合わせないと獲物はない。獲物は売り上げである。売り上げに繋がらない限り、漁は意味がない。その為の会社であり、そのために、智慧を絞る。それぞれの部署があって、それぞれが力を尽くす。今、顧客満足度を以て指標とする時代である。作業の完全実施が目的であるが、場合によっては、緊急避難的な状況も起こり得る。そうした場合に、いかに、お客様の了承と赦しを獲るか。これが、この新しい時代のスキルである。そして、その多くは、個々の人格の問題となるのである。人格は、語らずとも、相手に通じる。いわば、エートスであり、雰囲気である。さて、各スタッフの方々に申し上げたい。個々の仕事の目的は、何か。稼ぐことである。世間の趨勢に流されないように。つまり、世間の餌食となっては、漁はできない。漁をしているのだ。仕事の成果が報酬である。成果が無ければ報酬はない。甘えとは、ここの認識のないことである。ニートたちも、ここを学ばなければならない。皆、そのようにして生きている。暗黙のこのルールに反すればどうなるか。生きてゆけない。この大前提を教えるものはいない。世間はそれどころではない。自分で学ぶことになっている。確かに、餌食にすることしか知らないのが一般社会である。余裕がない。誰かが教えなければならない。教師たちだろう。事実として教えられていないのは、教師たちの怠慢か。いずれにしても、不安の本体は自信のないことである。自信がないのは、考え方の方法論が確立されていないからである。本来、学科の勉学を通して自ら学ぶべきものであるが、今、社会があまりにも腐敗し、汚染されたので、正しい道標が見えなくなり、自ら学べなくなっている時代である。ここを、整理しなければならない。いずれにしても、各スタッフ、及び、ニートたちへ云いたいのは、今、指標は、顧客満足度である。それは、何事に於ても顧客の了承及び赦しがあればいい、ということであり、例えば、個人情報に関する法律も、こうした、現在の仕事パタンから予想される責任の所在を各スタッフに於て軽減することを意味している。また、所属する会社は、仲間或いは味方集団であり、皆で一致協力して、スタッフの仕事をサポートし、因って、全体の利益を追求しているのである。ここより、各スタッフは、所属会社への帰属意識も生まれる。皆は助け合いながら漁をしている。そう思えば、どんな仕事も獲物をとることは楽しい。正直と清浄を以てすれば誰もが助けてくれる。これが、究極の人格形成である。学校教育はこれを究極目的とするべきであり、これが、基盤である。これなくして、どんな知識もスキルも役立ちはしない。本来人間は父母或いは祖先より、善と悪をその遺伝子に受け継いでいる。人生成功の条件は、これらの遺伝子から善を組み合わせた人格形成を果たすことである。因って、学校教育は、個々の生徒を矯め直す機能を本来持っている。今、この機能を放棄したかに見える諸先生たちである。また、学校教育に於て獲た方法論を以て、社会を生きていく。因って、先生は懐かしい。その社会に於ては、その時々に、試される。そして、大きくなっていく。一つの課題を果たせば、次の段階が来る。これが、わらしべ長者の物語である。ローマは一日にして成らない。人格形成もそうである。それは、代々のことでもある。人生の究極目的は、この人格形成である。自分の性格だけが、未来へと渡る。未来をどうしたいのか。だれもが、幸せでありたい。ならば、腐敗の中で咲く蓮華の勇気を持つべきである。これを果たせば、現実の仕事に於ての、顧客満足度は獲られる。

posted by GT at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
時代の流れに乗ること
時代の流れがある。それに乗るためには、自分計算しないことだ。時の流れを見て、それぞれの力に応じて、その流れに乗る。それで、十分に生きてゆける。新しい流れは、いつも、好意を持って、新しい仲間を待っている。新しい流れに乗る時は、いわば、裸一貫で乗る。正直で、清浄であれば、必ず、受容してくれる。問題は、飛び込めるかどうか。時代も、今、大きく切り替わる。危機回避の面舵一杯である。大戦中に螺鈿の槍が折られたように。

乾坤を我が大地と見る時は我の棲息空かと思ふ

チャンネルの主導権とりて見渡せば世間の声虫の音のごと

情報はその本質ぞ如何なる真実知るは如何なる人

今までは知る人なくて知られざる知性階層厳然秩序

かまびすく勝ち組思うさえずるを明日をえ知らず語る面々

浅薄の心も知らず勝ち組の唇寒き世間の謳歌

枯れすすき何処吹く風也世間流

山手をかつて走りし三両の電車静かに鉄橋わたる

御影石倉橋出でて国会の議事堂となること忘れざれ

大和をば乾坤大地と思ふるは自由獲たりて歩々の清風

歩道をば笑顔で二人通り行く煉瓦の小径呉の街角

花咲けばその時々の蝶の来る咲くだけの花見出されし花

尊きを葬り去りて浮沈せる貪る世間腐敗と決せむ

トネリコの木はねじれて役立たずこれぞ老子の長寿となる木か

I've been to the wonder land that nobody knows for a long time, and come back to this world. I cannot find my soul-mate now. I might now have lost my friends who were by me in those days. But I believe my good friends are now somewhere. I'm sure to meet them again when time and tide begins to spring.Where is my soul-mate? I'm here now. I have found good tresure in my journey. I would like to share it with my soul-mate. May I soon find my good soul-mate in this beautiful world!

私が英語がわかったと思ったのは、予備校の頃だったろうか。その時の先生は、もと海軍教授平賀春二先生だった。ラベルの『亡き王女のためのパバーヌ』というのがある。私の好きだったのは、クリュイタンスとアシュケナージだったろうか。(2006/02/01 2:00am NHK-AM を聞きながら)マルティン・ルターが、「明日この世が終わろうとも、私は明日のために一本のリンゴの木を植える」と云ったという。「明日は嵐か時雨か知らねども、今日の勤めに田の草を刈る(正確ではないかも知れない)」という歌が日本にある。昨日、久しぶりに書店に寄った。いくつか見ていると、私は読んではいなかったのだが、例えば、私が、かつて、ブログとか日記に書いたことと一致した内容を多く垣間見た。不思議なことのように思った。そうしたこともどうでもいいようにも思った。カラスに導かれたこともあった。目の前に、鳶が大きな狐色の獲物をくわえて、目の前の土手に、舞い降りたこともあった。不思議な思い出は枚挙に暇ない。しかし、それらの思い出は、無自覚の時代のものだった。夢のようなものだった。意識し、自覚した今は思い出ではない。現実である。覺兵衛、嘉兵衛、千畝(ちうね)、良亮、昭亮(あきのり)、静雄・・・私の系譜である。「私もそうだった」、父は云った。「お前は大丈夫だ、私の子だ」。静雄は「世雄(セイオウ)」とも読める。あらゆる謎は解かれている。しかし、この謎を解くには、条件が多すぎた。多元連立方程式を解くのに、どれだけの条件式が必要であろうか。整数問題は得意だった。人の恋路を邪魔する者は・・・恋路は「鯉路」である。邪馬台国とは大和であり、卑弥呼とは秘密である。今般は、特例である。それほどまでに、世間民草はびこり、礼を失し、腐敗した。これを自然は赦しがたい。今より、清浄正直なる健全で善良な日本精神を保てる市民或いは庶民のみ幸いである。惜しむべき命である。「一切衆生自ら出(いづ)ること能(あた)わず。ただ、善業の因縁より出でたり」。自分計算、身勝手は一切通らない。

2006年01月31日
読書について
同じ本を何度も読むべきであるといったことがよく云われる。幼い頃に読むのと、若い頃に読むのと、少し齢を重ねて読むのと、それぞれ、味わいが違う。経験に応じて、その内容が、輝きを増してくる。ひとつひとつの表現が、珠玉のように思われてくる。さらに、落ち着いて来る頃、言葉が良薬であることに気づき始める。はじめに言葉ありきと云われたことが、少し、理解できるようになる。人が人である理由が、わかり始める。殺伐ではない人間関係のあることも。結局、環境を作るのは自分であり、言葉である。そして、その言葉も、自分の性格による、と。変えるべきは自分の性格であり、自分が変わることで、環境も変わる。世界が開ける。そして、その方法の第一が読書ではなかったか。 教育に於て忘れられていたことである。即ち、読み書きそろばんである。寺子屋的学習が教育の基ではなかったか。そして、学級会などでの議論が大切ではなかったか。議論も対話も言葉によって為される。言葉の鍛錬は読書によって為される。魂と魂との対話、それが、読書である。見える世界にも、見えない世界にも、恥のないことを以て、清浄となる。そのプロセスは、読書によって耕される。そして、静慮によって実行される。清らかな精神を以て世界が見えるようになる頃、あらゆる事が解決する。即ち、神仏もほほえむ。神仏との邂逅こそ過去よりの教えのすべてである。草木瓦礫まで光を発する。動植物も喜んでいる。やはり、自分次第であり、環境はその鏡である。今、環境が汚れている。社会環境もそうである。これらは、すべて、個々の心のありようの反射である。蓮華は泥の中で花を咲かせる。汚れて尚咲かす花もある。悪の華は咲かせることなかれ。それが文化だなどと、居直ることなかれ。美しい華はある。清浄の心を以て咲く花である。健全な人格を持ち、決して惡を為さない、善良な市民の華である。そうした社会が待望されている。言葉だけで、正直者が馬鹿を見ない社会にしなければならないなんて云わないように。云うだけでは意味がない。実行して実現しなければね。実行実現がなければ、嘘だ。すべての惡は自己利益追求とその為の自分計算である。本来の法則に反している。あらゆる事は法則通りである。惡を為せば不幸になる。善であれば幸せである。自然の法則がある。宇宙の法則がある。それは、掟である。これに反して、存在できるべくもない。わかっているのに、惡を為す。これが、人間の限界である。わかっているなら、善でありたい。善であることのはじまりは清浄への道を歩むことである。それは、聖賢の魂に触れることから開ける。すなわち、良書の読書である。人が人であることの醍醐味を知ることが出来る必至の道がある。過去より遺されていた人の道である。しかし、茨に覆われて見えなくなった。下草を刈り、本来の道にしなければならない。今必要なのは過去よりの遺産としての聖賢の道である。自分勝手が蔓延りすぎた。驚きに近い感動の正しい道がある。発見し、整備するべきはこの道である。ゾンビの文化から清流の文化を取り戻す。個々の魂の問題である。それは、そのまま、未来への問題である。人が人として生きてゆける未来へ向けて進んでいるのかどうか。堕落傾向を助長してどのような未来があるというのか。誰もが、理想を持っている。現実を限りなく理想に近づける。人の願いであり、祈りである。これに反するのは惡である。いくら正当化しても、正統ではない。惡を為せば罪である。罪とは、自然宇宙の秩序に反することがその究極である。自然宇宙の秩序或いは法則が掟である。人間の分際で犯すことは赦されていない。ここより、謙虚が来る。神仏は人間を超えている。サンクションもある。勇気と自信を持って、ザインをツォーレンへ近づける。地球に存在を許されている人間の使命である。これに反すれば、この地球上に存在存続できない。愚かではこの使命はわからない。わからなければ実行実現できない。自分勝手は本来許されていない。サンクションの時が来る前に、引き返すべき黄金の橋があるなら引き返したい。渡りきって惡と決定する前に。時代の声が聞こえるであろうか。読書することである。英知の宝庫である。言葉は本来力を持っている。その力を取り戻すために。その力は、神仏をも動かす力である。如来の金剛杵である。惡を滅ぼし、幸せの餅をつく。個々の心の中に、善と悪の種がある。善の種を探し、その種を蒔くように。惡の種は蒔かぬように。また、人間には煩悩がある。この煩悩を焼き尽くして善の花が咲く。その方法としての読書もある。そうした読書は自己の魂の心の中での戦いである。その戦いは熾烈である。善と決するも、惡と決するも、この心の中での勝敗による。一個の人間がどちらとなるか。楽しみは尽きない。瞬間瞬間がチャンスだ。その時々に、選択の自由がある。人間の特権である。完全な勝利を誰が獲るのだろう。日々、戦いである。誰が、精神の横綱となるだろうか。神仏はエールを贈っている。時々の決断と実行が未来を決める。未来は明るいか。身心にやましさが無くなって、未来は明るい。清浄な清流が心に流れ始める。雨もやさしい。すべては、心の現れである。見えない世界はすでに清浄である。汚れているのは見える世界である。心の洗濯が必要となった。心の洗濯は自己の魂との対話である。それは、多く、読書によって為される。諸聖賢の魂に触れることによって為される。文化国家ニッポンの復興である。幸せはこうして獲られる。幸せとは、仕合わせ、つまりサービスしあうことであり、その指導を魂に委ねることであり、それは、師との邂逅より始まるのだろう。そして、師は、多くは、読書の中に存在している。精神的民主主義といったものがあるのかも知れない。物質から精神へ。21世紀は心の時代といわれる意味は、ここにあったのであろう。読書の中に、聖賢との対話を発見する時、新しい道を歩み始めることが出来る。物質文化はその限界を露呈した。もはや、過去の文化である。新しい文化の建設の時代である。それは、論理の力に等しく、断崖絶壁に橋を架ける。新しい彼岸へ渡る。過去は清算する。或いは、筏が必要である。大きな川を渡るのに、下流は彼岸が遠い。激流は渡れない。上流、それも源泉に近ければ、楽に、またいで渡れる。精神の源泉まで遡れば楽に渡れる。精神の彼岸はある。過去よりの教えである。身心に憂い無き世界がある。それが、地上ヘブンである。生きながらにして、見ることのできる究極喜び世界である。惡が焼き尽くされた世界である。至りたいものである。その世界が、庶民レベルで見えている。そこへ至るには、超えなければならない流れがある。超える力は読書によって聖賢に教えて貰う。貰ったら実行する。実行しなければ意味はない。意味のないことが嘘の本体である。真実でありたい。そのための読書がある。さて、吉田健一氏が書いていた。「人間にはただ生きる人間がいる」と。かつて、意味が無くては人間の価値はないと思っていた。だから、ただ生きるのでは善くない、と思っていた頃があった。今は、むしろ、ただ生きることが出来ればそれで良いのではないかと思う。ただ生きるために智慧を授かっている。ただ生きることが出来ない時を乗り越えるための智慧であって、欲得のための智慧ではない。人間が不幸なのは、このただ生きるための智慧をただ生きるためではない目的(妄念)に使うからではないか。必要以上の目的を勝手に妄念してそれを実現しようとする。秩序を超えている。不幸に決まっている。目的を間違っているのだから。その誇大な目的に努力している。辛いのに決まっている。だから、働けど働けど我が暮らしは楽にならなくてじっと手を見ている。不幸の姿だ。何も為さねど暮らし居ることが本来の幸せなのだろうね。働くとははたが楽になることだと誰かが云っていた。はたが楽であるとその中にいる自分も楽であるという法則に合致している。働くのははたのためにであって、本来、自分のためではなかったのだね。自分のためにすることが、不幸の原因だね。こうしたことにも、日々気づく。また、ラジオ深夜便で云っていた。頭を空にすることだって。明日のことは思わないことだって。そしてただ生きている。それが成佛だって。しかしね、それは犬猫の生き方ではないかと思う。例えば、仏陀が云いたかったことは、仏の智慧、如来の智慧、自然の智慧を獲ることであったと思う。だから、犬猫を師にするのはどうかな、って。人間としての本来の生き方は犬猫ではない、と。本能至上主義では人間ではない。ゴータマは、過去環境に於ての理想の生活を説いた。今それを実行して幸せであるのかどうか。本来の幸せは何処にあるのか見極めなければならないね。文化生活の中でいかに智慧を獲て活用するか。問題はここだ。犬猫的本能至上主義ではない。犬猫的に生きることを善とすること自体思念している。もしそれを以て尚理想とするなら、言葉を以て語らないことだ。かえって人を惑わす。読書の中の聖賢は、そのようなことは云っていない。だれもが、坊主になりたいわけではない。坊主は坊主である。坊主の理想がそのまま人間の理想ではない。滅び行く生命体としてどう生きるか。まだまだ探すべき課題である。究極は神仏との邂逅であり、そこから積極的に生きて人生の妙を享受することであって、消極的に人生を穏生することではないのではないか。そこに真実の喜びがあるか。単なる諦めは本来の喜びではない。即ち、般若心経の結句(喜びの歌)ではない。身心滅却して次がある。宗教ははじまりにすぎない。目的ではない。通過するべきである。未来はその次の段階の喜び世界である。あらゆる読書によって本来の意味が見えてくる。やはり、意味が無くては人間ではない。佛の説く滅は、段階的には、次を予定している。人類はここまで進化した。過去は過去である。過去の佛の教えは滅却であった。未来へ向けての教えは、この滅却を通過して新しく明るきへの出発である。ここに、21世紀の意味がある。わかるだろうか。水は流れるべきであり、停滞は腐敗である。人生も夢を求めて積極的に生きるべきであり、消極的であることで停滞する。仏法は正しい。しかし、それは目的ではない。過程である。一つの方法論である。仏法の果てにさらに幸せの王国がある。さて、新しい時代を迎えた。新しい出発である。心の地平が見えている。かぎりなく幸せの王国が見えている。読書することで、過去からの願いと祈りを知る。真実を知る。知れば自信を獲る。自信があってはじめて勇気が涌く。神仏の加護を知って勇敢に出発することが出来る。読書の効用である。これが、真実の THE PEN IS MIGHTIER THAN THE SWORD. であり、これが、これより始まるのだと思われる。かぎりなく夢が実現しようとしている。理由は、時の流れである。地球、表面は穏やかである。これが平和である。しかし、地下にはマグマが対流している。穏やかな人格の下に、燃える思念がふつふつと激流している。ここより諸芸術がある。思念の燃える火があって人間である。その火の強さが、諸芸術の感動を呼ぶ力である。すなわち、魂の深い部分での共感を呼ぶのである。(2006/01/31 10:26 NHK-AMを聞きながら)これが生きるということであり、あらゆる目的は表現することとなる。この価値を護るために、政治も経済もある。その為のインフラである。それ以外ではない。利益追求など、価値があるはずもない。神のものは神の手に、シーザーのものはシーザーの手に、人間のものは人間の手に。古くて新しい掟である。芸術的的に生きてゆく。庶民レベルでそれが可能となった。すなわち、21世紀である。これより、未来は、明るきから明るきへと決定されている。それに背くことが罪である。それを実現するのは人間である。人間の英知に、乾杯!さとりとは、心に灯が点ることである。その明るさとあたたかさで一隅を照らす。それが、野に咲く一輪の華である。華一輪のあたたかさである。すなわち、永遠の春を迎える華である。今、その華が、あちらこちらに咲いている。それらの華に、乾杯!仏陀を救ったのは、少女の乳粥だった。DHロレンスの『死んだ男』もそうだった。『罪と罰』でラスコリーニコフを掬ったのもソーニャだった。また、人生は、悲劇と成るも、喜劇と成るも、自分次第と言える。オペラは悲劇だが、それは、人類の事績の記録である。人間とはこういうものだっていうことの。博物館もそうである。それは、そのまま、殺戮の記録である。こうしたことは、経験として、それぞれDNAのどこかに記憶されている。だから、悲劇とか博物館を見て思い出す。正憶念である。モーツァルトの本質は、むしろ、短調の曲にある。そこにある悲しみのトーンは尋常ではない。そうした激情の深さがあって天才モーツァルトの諸楽曲がある。さて、アリストファネスがいた。ギリシャ共和国、 BC445ころからBC385ころの古代ギリシア時代のことだった。彼は、時の最大の喜劇作家だった。ワーグナーのオペラでも、『マイスター・ジンガー』は楽しい。その前奏曲など、とてもワクワクする。カラヤン指揮のドレスデンだったか、最高である。また、モーツァルトの『フィガロの結婚』もそうである。それで、オペレッタである。つまり、喜劇である。喜劇はパフォーマンスで決まる。演技だ。庶民レベルの生活の中で、いかに、パフォーマンスするか。幸せの秘訣である。その為に、ファッションを楽しみ、化粧もするのだろう。所詮、人間である。理想は理想であり、現実は現実だ。この現実をいかに楽しむか、その術がある。『瓢鮎図(ひょうねんず)』の「ぬらりくらり」がある。何事も、お互いの赦しがあればいい。結果の重大性は、この赦しが得られないところにある。あやまることで赦してもらえる。あやまる術がある。自分の心に棘があるから引っかかる。棘を無くするためにはどうするか。バラの刺も、育て方によってはとれると云う。人生を如何に喜劇にするか。それは、ペーソスを含むものであって、ドタバタ自己主張ではない。あらゆる文化は、こうした人生を楽しむ智慧である。善悪を超えた彼岸がある。そこは、喜びと楽しみの世界である。今、健全で善良な庶民レベルで、こうした世界の居住が可能となった。しばらく世間に君臨してきたお笑いはその程度に従って表より去るべき時である。本来の文化居住空間がある。決して侵略させはしない。芸受的的及び演劇的的庶民文化のはじまりである。時は満ちた。その方法及び価値は読書によって得られる。古来、時代を経て秘められていた夢が実現しようとしている。久遠の種がその発芽の時期を迎えている。それぞれの華がそれぞれの開花の時節である。春は近い。今、生きていることの幸せを確かに感じる時である。祇園精舎の鐘が鳴っている。ところで、民間テレビのシステムに本来問題があるのかも知れない。制作資金はどこから出ているか。企業のCMである。所詮、企業のご機嫌を伺うしかない。これを野放しにしていることに問題がありそうである。このシステムを庶民レベルで再認識し、再評価するべきである。企業理念は、自己利益追求である。その延長でのテレビ文化でしかない。文化的レベルの低いところで、暗黙の裡に、敢えて云えば取引行為に内在する欺罔的な手段によって世間を支配した事実がある。罪である。悪魔の尻尾が見えた。企業理念支配が世間を腐敗させた、と云える。惡(実質のない嘘)の文化はこうしてはびこった。これより為すべきは、この隠されていた指導理念に対する反省である。この外に、本来の人間として生きるべき指導理念があることの認識と発見、そして確立である。つまり、選択の自由のために、選択肢を明確にすることである。道標の再確認作業である。人間はパンのみにて生きるのではない。新しく諸価値の再発見である。そして、それぞれの選択に従って、個々に進んでいく。暗黙の裡の惡の諸支配が終焉する。 特に、民放テレビの番組制作システムについて、具体的には、公共の電波域を使用している限り、資本を以て独占するべきではなく、つまり、視聴率のみでの運営判断は、本来、内在的に限界があり、結果、本来尊重されるべき健全で善良な庶民の良心及び諸権利が犠牲にされていることが、事実として明らかとなれば、その限りに於て、権利の濫用と云えて、これに対しては一定の配慮が為されるべきであり、すなわち、民放テレビ番組制作に於ては、資本の制御のない部分が本来存在していて、その部分については、各番組制作テレビ会社の自由な企画・運用も許されてしかるべきであり、そして、その番組制作経費は、番組視聴料を、視聴者から徴収するというシステムも考えられ、あるいは、企業からのCM料から基金としてプールする方法もある。そうすれば、テレビ各会社の自由な番組制作傾向が触発され、失われた日本の本来の活力の源泉としての文化精神が喚起されて、健全で善良な庶民にとっても、面白い番組とになることは疑いない。テレビ会社各社のジャーナリスティックな独立も保障される。今、民放番組は殆ど見ない視聴者が確かに存在している。勿論、少数者であるが、その方々の意志は堅固である。堕落したくないという意味で。そして、特に見識ある高齢者は、殆ど、現在のテレビ傾向に憂えている。この見識ある高齢者の思いを無視することは、思い上がりも甚だしい。こうした事実に対して、多数の原理を以て無視するは、多数の横暴であり、恥じるべきところであろう。以上、飽くまでも、試案であり、一つの社会問題に対して、このような考えも出来るという例である。第二次世界大戦は、或る意味で、列強に対する、植民地再分割請求であったとも云える。しかし、所詮、物理的な力の強い方が戦争は勝つ。列強のはじまりは、重商主義の頃からであり、今、末期資本主義としての限界を呈している。ヨーロッパの没落は、すでに、19世紀末に唱えられていた。それが、今、現実化していると云える。重商主義が反省されるべき頃ではないか。重商主義も、専制制度からの移行である。ならば、重商主義からの移行もあって当然である。世界はその方向を模索し、漂流していた。その方向も、21世紀、ここに至って見えたのではないだろうか。見えたのなら、勇気を出して、進むべきではないか。コロンブスのように。

2006年01月30日
喜び世界
世間は決して血濡れの世界ではないといったことを書いていたのは、吉田健一氏だったろうか(集英社刊『思い出すままに』)。人間世界は、様々な魂の互住する世界であり、自分の魂の段階に応じて開けるべく世界であるように思われる。今、楽しい環境にいるのも、今、辛い環境にいるのも、自分次第と云えて、つまり、磁石が鉄を引きつけるように、自分の磁力がその環境を引き寄せていると云える。何事も憂い無ければ吉であり、その状況は自分が作っている。しかし、人間であるということは、今、楽であっても、その楽の原因に気づくこと無ければ、やがて、その間、自分のあり方によって、天気の如く変わる。自分のあり方は、自分でみつけるしかない。この意味で、喜び世界はある。この喜び世界の永久居住権をどのようにして手に入れるか。それが問題である。今、楽だからといって、そこに安住しているだけでは、やがて、三代保たないことになる。だから、人生は面白いと云える。試練はある。しかし、それもトンネルのようなもので、必ず、出口がある。この出口が見えることで、おわりのはじめが来る。こうした喜び世界に、乾杯!長いトンネルもある。それが、試練である。しかし、神は耐えられない試練は与えない、という。その間、自分のありようを見つける段階に過ぎない。頑張るしかない。頑張るのであるが、take it easy である。このあたりが微妙ではある。しかし、そうである。単なる take it easy ではない。やがて、自己の魂の発見となる。そして、自己と宇宙が一体であることを知る。それ以外ではない。その意味で微細に囚われないことである。大きな視野が要る。つまり、パスカルの云うが如く、「人間は考える葦である、しかし、その葦を通して宇宙を見る」を知るにある。そこに、お手本はない。自分のことは、自分でしかわからない。ここを究明する。それは、代々の自分の魂を知ることでもある。楽しみは、ここに至って、その最高段階へ至る。自己が宇宙とリンクする。宇宙、自然からの守護がある。未知との遭遇である。これが、道である。自己の計らいには限界がある。神仏の導きに従うことである。決して失敗はない。自分を護るのは、祖先である。祖先は子孫がかわいいばかりである。自分には見えなくても、祖先からは見える。世の中は法則通りである。自分計算は、およそ、間違える。神仏、祖先の声が聞こえるようになればいい。常々サインがある。導きがある。それに従うことである。しかし、それが聞こえない、見えないのが人間である。それで、自分解釈する、失敗する。当然である。ここに、思いが至れば、人生は、本当に楽となる。地獄界に浮沈していても、それも、試練、真実に目覚めよとのことである。目覚めればいい。喜び世界はある。やさしく、飛び込んでおいでって、諸手を差し出し、手招きして待っている。素直になることで、達成される。正直を以て通らぬ世界はない。清浄を以て鐘の音は鳴る。新しい時代の太陽がすでに昇っている。今、自分を信じることが出来る者は幸いである。時代の太陽がある。燦然と輝いている。善い時が訪れている、今である。時代の春である。冬を越えて、清浄な芽が出ている。ここより、それぞれ、どのような花を咲かせるのか。希望は尽きない。時代を牽引するのは、時代の太陽と月である。これは、確かに存在している。それは、君が代に於ける君である。ここを知ってさざれ石となる。幸せの根源メカニズムである。時代にも季節がある。時代の春をどう迎えるか。清浄こそパスポートである。これより、個々の夢が実現する。それぞれ描いてきた夢である。二十一世紀の約束である。パラダイスはある。それは、地上ヘブン=世界と云える。すべては法則通りである。どの法則に則るか。すべてはこれで決まる。すべては、ここに極まる。教育の成果である。学童段階の教育は学校がする。そこで獲た方法論を以て、その後の教育は自分がする。教育国家日本のはじまりである。社会はこうした自覚ある市民によって創造してゆくべくものである。そしてその果を享受してゆくべくものである。創造することは、整理を含んでいる。今般は、神仏が味方についている。怖れることはない。神仏の力を借りなければならないほどの末法の世である。真実に目覚めればいい。真実に目覚めた者は、二度と惑うことはない。自己に秘された真実を知るからである。「師の室に一冊の書なし、金剛経一巻、過去帳一折のみ。・・・・・・経文語録の玄奥を詰問するに、決せしめずと云事なし。」(大法輪閣刊、大森曹玄著、『驢鞍橋講話』 p1)。この度、鹿児島で、白亜紀のクビナガリュウの化石が見つかった。保存状態は良いという。顎の部分の骨である。驢鞍橋とは、父を思う子が、戦場に赴いて、驢馬の背中の骨を父の顎の骨と思って持ち帰り供養したことに由る。さて、クビナガリュウの顎の骨が見つかった。

2006年01月29日
幸せの秘訣
個々の会社は、それぞれ、一隻の漁船に過ぎない。或いは、一個の部隊である。生き残るための食或いは職を求めて漁或いは戦いをしている。さて、部隊としての会社であるが、本社スタッフは後方支援本部に過ぎない。精鋭は前線の現場スタッフである。ここに、どれだけ、精鋭を集めることができるか。これが勝敗を決する。あだや現場をおろそかなかるべし。そして、その現場指揮は最前線部隊、軍曹の英知に係る。本部の使命は、援軍を送るかどうか、情報を提供するかどうか、前線に。そして、個々の戦いは、個々の前線に於ける軍曹の人格の高さでその戦いの勝敗が決まる。永遠の『コンバット』である。ところで、個々の戦いの勝敗を最終的に決するのは神仏である。神仏の守護を得た部隊が勝つ。人間解釈の勝手な成功論など、神仏は相手にしていない。金銭は幸せを実現するための手段であり、それ自体、決して目的ではない。味方は己の属する会社と、その構成員であり、それ以外は、敵である。また、仕事は好きこそものの上手なれ、であり、仕事が好きでない限り、その仕事は成就しない。己の所属する会社を味方として認識しない限り、その会社に所属することはできない。味方は味方であり、敵は敵である。この辺りの認識を欠く者には、決して幸せはない。楽もない。この辺りを認識する者は、日々是好日である。これが、幸せの秘訣である。それから、例えば、個人情報に関する法律は、何故、そして、誰のためにあるのか。自分及び自分の属する会社を護るためにある。そして、個々の会社が戦っている。獲物を獲るためである。この認識を欠く者は、これより、生きてゆけない。恐れおののくばかりである。唇寒く、時々の自分の発する言葉が、己の本質を証明している。身心及び魂に於て憂い無き実質的真実正直者が目覚める時節である。新しい時代の戦いのルールが明らかとなった。すでに、新しい時代に入っている。流れに乗れなければ、淘汰される。流れに乗る者のみ、存続する。この新しい流れこそ、ノアの箱船である。淘汰が始まった。世に云う金銭至上主義軽薄勝ち組など、最初に淘汰される。権力と武力と同じように、金力が反省される。それに伴う地位も名誉も権狐の木の葉に過ぎない。権利そのものが仮のものである。諸権利の淵源は自然であり、これより、自然の意思が実行される。個人の尊厳は、その魂の価値によるものであり、それは、種として持って生まれたものである。これを無視し、むしろ、葬り去ったつもりの現代社会である。代々、蓄積された魂の遍歴がある。高貴な遺伝子はそう安く受け継がれてはいない。高貴な遺伝子を持たないのが、民草である。今、高貴な魂が目覚める時節である。高貴な魂の遺伝子と存在を見失っていたのが、戦後文化である。 亦、人生は演劇的的である。つまり、要求されるのは、パフォーマンス能力である。相手に納得して貰えればいい。何か失敗があっても、赦して貰えればいい。この認識を獲て、何事にも畏れのない自信が生じる。己を信じることである。その為には、身心清浄であることを以てその自信の条件とする。最前線では、常に、緊急避難的状況状態が発生する。いくらマニュアル化しても、個々の戦いの勝利を担保するものではない。個々の戦いの勝利は、臨機応変な判断とその即実行実践によって獲得実現される。本部スタッフの心すべきところである。戦いの本質は前線にある。あだや思い違い、勘違いすること無し。これが、亦、取締役に要求される謙虚の淵源である。あだや思い上がることなかれ。取締役も平社員も神仏の目から見ると五十歩百歩であり、どんぐりの背比べである。何を以て、本来平等の人間を格差を付けてみているのか。もし、経営者ということで特権意識を持つなら、真実に反するという意味で、最大の恥とするべきところである。これが真実の平等論である。バカのかべとか称して、何を云わんとしているのか。思い違い、勘違いである。本末転倒、今、社会の指導理念は間違っている。真実が見えないが故に。見ようともしないが故に。畜生道としての牛頭馬頭は去るべき時節である。知性こそ人間固有の属性である。これをしばらく(戦後)見失っていた。西洋に迎合することなかれ、日本には、日本固有の古きよりの文化価値がある。

ところで、道元禅師は、身心脱落、脱落身心と云いました。例えば、道徳規律的に緊張しているのは、確かに辛い。身心脱落、脱落身心は楽である。脱落して、世間を眺めてみると、何事も、一切無理することはない、と気づく。それでいて、別に困ることもない、と。しかし、ここへ至るには、或る程度の緊張する時期も必要ではないか。そして、その緊張が解けてのことではないか。さらに、緊張の度合いによって、楽の度合いも違うのではないか。確かに、生まれながらに、緊張を経ずして、楽に生きる術を知っている方々もいる。だが、多くの場合、緊張する時期が必要であろう。少なくとも、学童年齢ではそうである。ゆとりの教育は、生まれながらに楽に生きる術を知っている子供にはよいが、精錬するべき惡を多く含む子供にとっては、むしろ、精錬の努力を放棄することになる。精錬して初めて獲られる宝が獲られないままとなる。人間には生まれながらの善と惡がある。後者を精錬して初めて前者が輝き始める。この事実を看過していた。また、安易な大人社会が、それを必要としないでも生きてゆけるとして、それを必要としない人格形成過程を助長したのではないか。子供は鍛えるべきであり、かわいい子供には旅をさせるべきである。そこにある価値は、昔より伝えられてきた価値であり、戦後の民主化政策導入でしばらく忘れていただけである。今、庶民は誰もが、世の中が怖ろしいと思っている。その原因は、惡がはびこり、予測不能の社会となり、安全が脅かされていることである。この原因の除去は、教育の見直しでしか解決しないであろう。我が儘な大人を野放しにし過ぎたのだろう。西洋民主主義に立脚した彼らの自由に対して、自信を持って、反論できなかった時代が、戦後であった。しかし、本来の民主主義及び自由ではなかったのは明らかである。自分都合の民主主義及び自由であったのである。本来健全な人格を持つ善良な市民のための制度であるはずであった。しかし、健全な人格を持つ善良な市民生活が脅かされている。いわば、欺罔と暴力的行為による勝者の時代となった。自由は自由である。五欲を断ずることはない。しかし、その態様は健全でありたい。目的のためには手段を選ばず、では健全で良識ある社会とは云えない。さて、そのような社会であるが、亦、身心脱落、脱落身心して、眺めることが出来る。不思議な光景を見ているように、である。自分が生きることに緊張する必要は本来無い。食は与えられている。食べる行為自体本能的であり、これを中断すれば死である。生きることが大前提である。さて、どう生きるか。優雅に生きたいものである。

2006年01月28日
幸せの王国
そして、嘘のないこと、及び、頑張ることで、神仏の加護もあるし、世間も赦してくれることが、明らかとなった。問題は、自分解釈しないこと、自分計算しないこと、つまり、隠さないこと。それで、自分の力で努力もし、頑張ればいい。私が、塾をしていた頃の評価基準は、50の力の子が50の力を出せば100点。100の力の子が50の力を出すのは50点。神仏の評価もそうだと思う。この評価に従って、それぞれの幸せが来る。そして、一歩ずつ進むしかない。一つの課題を片づけることで、次の課題が現れる。この意味での平等だ。それぞれの段階でそれぞれのご褒美がある。それを楽しみながら、人生は、とてもハッピーである。人は、幸せになるために生まれて来た。良い時代となりました。但し、これを壊す人もいる。この方々に対しては、それぞれの力のある方が、処理しなければならない。つまり、世界は、既に、愛と平和という理念の下に、一つの幸せの王国である。身心に於て憂いなくんば、即ち、吉。何事も楽しむことが出来る術がある。今までは、それを得た方々もいたが、特権として、秘密にしていたご様子であるが、これが、庶民レベルのものとなった。しかし、敵はいる。敵は敵である。この認識を確固として、敵には敢然と立ち向かう。さもないと、餌食とされる。敵の本質は、欺罔と暴力である。幸せの王国の本質は、強いが優しいことである。これが明らかとなり、一切の不安はなくなった。人は皆、それぞれの本分を尽くすことで、十分に生きてゆける。善かったですね。バカの壁など、もっての外である。バカはバカで十分に幸せになれる。私など、世間解を無視してきたバカの代表である。しかし、それであるが故に幸せの本質(神仏及び世間の加護)に気づいた。何もかも佛に投げ入れる方法だ。貧学道こそ、最高の教えである。しかし、実践するには、勇気が要る。中途半端ではわかりはしない。至り着いて初めて知る世界(=如来世界)である。しかし、その必要がないのは、仏陀が、荒行を経た後に中道を説くに等しい。すでに、証明されたことは、頂いて実践すればいい。既に証明されたことを、行として、同じことをするのは、或る意味で無駄である。尤も、試してみることは別論で、確信を新たにするという意味で、価値はある。また、多くの方々にとって、それは、来世の課題であるのだろう。やがて至る。今世では今世で為すべきことがある。それぞれの段階がある。勿論、今世であらゆる解決をすることは、理想である。現実は限りなく理想を実現していく。いずれにしても、嘘のないことを以て、何をしても赦される。間違えれば謝ればいい。赦して貰えばいい。但し、謝る方法に、生命、身体、自由、財産を以て、償わねばならないこともある。しかしながら、これを以て、自由を獲るとする。さすれば、誰もが味方となり、護ってくれる。神仏も然りである。特効攻撃も、後方支援があって初めてできる。例えば、特攻スタッフにとって所属会社は後方支援本部である。ところで、最大の敵は自分(=身心)だね。 ・・・何事(any thing)も人生は楽しむにしくはない。幸せであることには理由がある。自由は自由が切り開く。国家と雖も、その存在理由は、自由のためのインフラを整備し、そのフィールドを維持するのみである。その他の権益など無い。公務員の使用者は国民であり、国会議員と雖も特別職公務員に過ぎぬ。自分解釈し、身分に安住し、恣に自己利益化することなど、本来予定されていない。また、諸議員にもたれ、諸利益を独占する圧力団体などの周辺コバンザメはこれより、断罪される。これが、真実に目覚めた国民主権の行使である。それぞれの存在理由としての種が問われる。真実が目覚める時、一切は、その基準は、真実の手に戻る。あらゆる経済行為における自分解釈も、これより、通らない。為に、真実を確信する知性が立ち上がる時節である。正直者に神は宿り、その力が発揮される時節の到来である。真面目が、力を獲て、社会に、自らの存在を知らしめる時代の到来である。あらゆる、欺瞞を以て社会を構成したる者たちの時代は終わる。先ず、ビジネス占い師たちが反省するべき時である。真実が目覚めてゐる。真実の赦し無くして一切存在し得ない。真実とは神仏である。人間を超えている。身に覚えがあるなら幸いである。エクスパイアとインスパイア。神仏はどちらか。人間はどちらか。一切大衆が救われる時節を迎えた。自分勝手な勝ち組が、先ず、淘汰される。日射しを感じることが出来るなら、幸いである。行なくして神仏の加護はない。それなくして神仏の力を語れば、その罪、甚大である。まして利益(=他者の犠牲)を得るは、怖ろしき事なり。供養(=犠牲となった他者が喜ぶこと、彼らは姿はもはや無い、その存在即ち犠牲となった事実を認められることを以て喜ぶ、見える世界と見えない世界との契約である、見える世界しか知らず、見えない世界(=犠牲者の世界)を無視することによって、勝ち組と自称している世間である、利益有るところには損失がある、誰かが勝てば、誰かが負けている、敗者は弱いが故に敗者ではない場合もある、惡、虚実を嫌い、騙されて敗者となる場合もある、つまり、正直者が馬鹿を見る、また、資本の力で安売り競争をすれば、更に大きな資本の餌食となる、群妄象をなでるがごとき、全体の見えない自己中心的刹那的な利益追求は、やがて、業界全体の首を絞める、これまでは、無意識と雖も、これより、反省配慮すべきはこの一点である、自由競争の名で実は自由競争ではない弱肉強食である、物理的集団絨毯爆撃である、しかし、これより、本来の精神的自由が目覚め、真実の個のピンポイント攻撃の時代が到来したのである、生きるためには獲物が要る、しかし、その狩猟方法が変わった、一切の犠牲のないことが、本来の善である、勝ち組と称する方々のその犠牲の多さが断罪される、獅子は必要なだけの狩りで十分である)すべし。

2006年01月27日
本来の人生とは自己の開結である
三界とは、「世界をそこに住む生類の修行程度などによって、三種に分類したもの。第一の欲界は、物質(肉体を含めて)に依存し、欲心に束縛される世界で、下は地獄から、上は人間及び「天」の一部(即ち「六種」のうち天の一部を除いたもの)を含む。第二の色界は、四種の「禅」を修行する者の世界で、物質の束縛が僅かながら残り、無色界は、一切は「空」であるとの観法を修行する者の世界で、全く物質を離れた精神的存在である。・・・佛は凡夫等の三界の住者が見るようには三界を見ない」。(平楽寺書店版『訓読妙法蓮華経並開結』附録法華経並開結字解p12)般涅槃とは、完全な「涅槃」。(同p33)また、仏説観普賢菩薩行法経には、「此の観の功徳は諸の障礙を除いて上妙の色を見る。三昧に入らざれども但誦持するが故に、心を専らにして修習し、心心相次いで大乗を離れざること、・・・至れば普賢を見ることを得」とある。(平楽寺書店版『訓読妙法蓮華経並開結』p393)さて、人間であるが、人間とは、心と身体でできている。そして、身とは殺、盗、婬、心とは不善を念ずる。これが、代々罪となって、それが、因縁となる。この因縁は、見えない世界である。見えないからといって無いのではない。有る。さて、この因縁であるが、自分では解くことができない。かけた者でないと解けない。因って、謝って赦して貰わねばならない。これが、懺悔である。赦して貰ってはじめて自由の身となる。そして、何をしても善となる。これが、白隠禅師の云う、隻手の音声である。すなわち、片手の音を聞かない間は何をしても惡だ、聞けば何をしても善だ、と。ここへ至って自由である。これを以て、自己の開結とする。本来の人生は、先ず、この自己の開結のためにある。そして、次に何を為すべきか、である。これが、この世の人生の宿題である。ところで、修行であるが、これは、懺悔行である。坐禅であったり、御経讀誦である。単なる瞑想とか祈りでは足りない。自己との真剣勝負である。それは、妄念を焼き尽くすにある。そうすれば、身心が空ぜられる。すると、善が入ってきて満たされるのである。次に、身心が清浄となれば、諸佛、諸大菩薩、諸天善神の守護がある。導きがある。それが、聞こえてくるようになる。これが、隻手の音声である。つまり、見えない世界とリンクする。因って、何事も、怠惰、怠慢であってはならない。何故なら、日々の行為の真剣さは、やがて、この門へ至る。すなわち、生まれてきた意味を知る。人生の宿題に気づく。あらゆる勉学、実践の至り着く道である。究極の目的を知ることになる。因って、愚かであってはならない。それぞれの段階で課題を完成する。すると、次の課題が現れる。ミッションである。このようにして、人生は歩むべくものであり、決して、小さな地位、小さな幸せに安住するべくものではない。往々にして、大人と称すは、入り口さえ見えていない。入り口が見えても、入ろうとしない。或いは、入り口で右往左往している。これが、世の人間の現実体である。「善哉善哉、大乗を行ずる者、大荘厳の心を發せる者、大乗を念ずる者なり。我等先世に大乗を行ぜしが故に、今清浄正遍知の身と成れり。汝今亦當に勤修して懈(おこた)らざるべし。」(平楽寺書店版『訓読妙法蓮華経並開結』p401)「云何してか復(また)當に煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得、父母所生の清浄の常の眼、五欲を断ぜずして而も能く諸の障外の事を見ることを得べき。」(平楽寺書店版『訓読妙法蓮華経並開結』p391)

平楽寺書店版『訓読妙法蓮華経並開結』p392に『雑華経』という言葉がありますが、これは、『華厳経』のことですね。そのサンスクリット原典は、全八会の裡、第六会十地品と大八会入法華品だけだそうです。さて、後者は、教えを求めて旅をする善財童子の物語です。その数、五十三人を尋ねた。これより、『東海道五十三次』もできたと云われています。また「開結」とは、「おわりのはじめ」、これを以て、真実の人生が始まるのですね。

今朝、RCCラジオで武田鉄矢氏が面白いことを言っていた。既に、日本は人口減少社会となった。女性の意識が変わって、5人は子供を産むという方向転換が無い限り、確実に人口は減少する。つまり、日本が広くなる。この現象は、開闢以来初めてのことである。お手本はない。しかし、過去、世界には、二三例がある。イタリアがそれである。九百数十万の人口が五百数十万に減少したことがある。その時、イタリアでは何が起こったか。ルネッサンスである。人口減少社会を乗り切る手段としての文化の復興であった。つまり、知的水準を上げた。その時代、各都市が城塞化した。都市と都市の間は、広大な原野となった。つまり切り捨てた。あらゆる投資を都市に投下し、その中で、文化的生活を享受することに成功した。昨年、愛知万博があった。名古屋は既に或る意味で城塞化している。一個の都市文化圏が既にできている。あらゆる生活が成立する。さて、愛知万博では、若きコンパニオンとかスタッフが全国から多く集まり活躍した。彼らは今どうしているか。名古屋で就職している。愛知万博が彼らの試用期間であった。万博が済むとすぐに面接が行われ、名古屋に居住することになった。東京では、今、人材の争奪戦かも知れないが、名古屋では既に確保されている。これから、何年か経つと、東京から来て入れてくれと云っても入れてもらえないことになるかも知れない、と云っていた。さて、これからは、いよいよ地方の時代である。それぞれの地方で文化的生活を楽しむことになる。都市は城塞化し、資本は都市の内部へ投下され、都市の充実化を図る。郊外化傾向が終焉する。郊外型の大型コンビニエンスストアの時代ではなくなるかも知れない、と云っていた。時代の流れである。面白くなりそうである。国際間に於ても、賃金が安いと云うことで、企業は海外へ進出した。それで、国内の産業は空洞化した。それも雨降って地固まるが如く、古い地盤は整理され、新しい芽が出るのを待っている。チャレンジ精神のある者にとってはチャンスである。今に、中国、インドに於ても、賃金は上昇する。その時、海外進出のメリットはなくなる。その時迄に、戦えるだけの準備をしておく者が勝つ。国内で自給的に社会が機能するようになる。また、そうあるべきである。敗戦後、無条件降伏であるが故の日本の民主化であった。例えば、シャープ勧告も全部受諾だったという。その弊害が、今、出ている。所詮、実験であったらしい。原爆と同じだったのか。実験は一部失敗した。それを基盤とした現代社会システムである。修正するべきは当然である。先ず、全面降伏の故の民主化に伴う最大の犠牲は何であったか。日本精神である。そして、何がはびこったか。愚者である。ところで、日本国憲法に於て戦争放棄が謳われ武力の放棄があった。これも所詮無条件降伏の故だった。しかし、朝鮮戦争の頃から保安隊を経て自衛隊が組織された。実験変更であったか。ここに来て、社会が腐敗し、限界に達した理由として、日本固有の大切なものがむしろ根絶やしにされようとしたことにあった、と云える。もはや、これから為すべきことは歴然である。日本の復活である。それは、日本の良識と知性の復活である。これが、大和の魂及び諸精霊の願いである。

さて、私も埋没していた。何時の頃からだったろう。16歳の頃からである。思えば、今生では無理かと諦めていた自分がいた。しかし、やはり持って生まれた種である。いつかは芽吹く時が来る。時こそ大切である。しかし、その環境は自分で作らねばならない時代である。願いであった、私の塔も立ったのかも知れぬ。しかし、これも、秘された歴史プログラムの予定通りの一コマかも知れない。いずれにしても、間に合ったようである。待つべきは時である。そして、潮である。

2006年01月26日
サービスの時代と日本の精神
サービス業というと、第三次産業で、第一次産業の農業、水産業、林業、第二次産業の工業に対する。一般には商業と言えるのかも知れない。時代は流れて、仕事の多くが、サービス業化している。すべての仕事が、サービス精神を以て、指標としているかのようだ。かつて、行政法の民法化が論じられたことがあって、今、それが実現しつつある。それが、システムについても云えて、民間に出来ることは民間にという流れなのだろう。時代の流れである。敗戦によって、日本も、限りなく、アメリカ化しつつある。ここで、問題は、質については問われることなく、この流れが進行していることだろう。しかし、本質はある。いつか気づき、微調整もされる。それぞれの持って生まれた種である。それぞれの本質の花を咲かせるのが、自然と言える。節操のない傾向は正される。さて、サービス精神は、接客業に収斂する。それで、高級ホテルのサービスのあり方がモデルとなったりする。最高の接客業とは何か、と。マニュアル化もされる。しかし、根本は何であるか。真面目な人格だ。何を以て真面目というか。嘘のないこと、つまり、正直である。いくらマニュアル通りにしても、見抜く者は見抜く。何を見抜くか。その精神である。結局、心の状態である。精神の状態である。お客様は、サービスがあって当然とする。そこに、当然の基準、あるいは、期待がある。それ以上のサービスがあれば、期せずして驚く。そこに、感動が生まれる。驚きからくる感動は、芸術の目的である。芸術的敵行為と呼ぶべき所以である。それでは、どのような時、驚きに伴う感動を呼び起こせるか。お客様の期待を超える時である。その為に必要なことは何か。時々の気づきである。それは、日常の注意力と関心の高さから生まれる。ここが、人格となる。それで、人格を高めるということになる。何もを以て人格というか。これが問題である。人格はまた精神の格調である。ここに、持って生まれたものが見直される。今、求められているものは、何か。何を持って成功論の基盤と為すか。世界をフィールドとして戦い抜けるのか。人格。因って、これが時代の傾向であるとするなら、高度精神の復活である。しばらく、この高度精神が無視或いは看過されていた。この種の精神の白眉が大和魂或いは日本純粋精神である。これを粗末にした。本来民主主義の目的は何であったか。あらゆる市民がその人生を全うするための制度であった。しかし、いつの間にか、間違った平等意識が蔓延した。そして、精神の格調とその階層が社会から葬り去られた。その精神はいわゆる経済活動は不得手であった。経済至上主義がそれを殺した。気づくと、腐敗した精神の支配する社会となっていた。しかし、人間が人間として生きるためには、この精神を基礎にしなければ存続できない定めである。それに、気づく頃となった。最高の接客業を理念に新しい時代を乗り切ろうとする気運がある。これが実行されると、必ず、そのグループは、新しい時代の寵児となるだろう。これを無視し、この流れに乗らない者は淘汰されるであろう。世界がフィールドとなって、このフィールドで戦う一つの理念が形成されつつある。大きな時代のうねりである。所詮、生きるためには戦わねばならない。どのレベルで戦うのかという問題がある。欲望レベルで戦う者たちもいる。その運命は決まっている。戦うと云うことは勝たねばならない。その必勝法は何か。最も肝要なのは精神である。これは、誰もが認める。しかし、その実体を知るものは少ない。民主主義は絶対に正しい制度ではない。プラトンによれば、哲人政治が最高である。しかし、所詮人間であるから、真の哲人は存在しない。それで、民主主義である。いくらか、マイナスがあるが、あらゆる制度の中では、一番良いだろうと云うことでの民主主義である。その論理は多数決である。少数意見に、正解があることの多いことを当然の前提にしている。だから、少数意見に耳を傾ける、とも云う。そして、問題なのは、多数を構成している要素としてのレベルの問題だ。どんどん、文化或いは精神レベルが低くなる。それが、民主主義の弊害としての衆愚化である。これは、法則であり、必然と云える。しかし、このままで良いのかという問題がある。数量に対する質の問題である。本来、日本はその精神の高さを以て誇りとしていた。それが、民主化するにつれて、これがターゲットとなり、虚飾と欺罔の社会となって腐敗した。理由は明らかである。質の低下である。これをどう克服するか。思うに、民主化はかぎりなく人びとの解放である。しかし、この解放は、質の低下を伴い、それを当然とするのではない。むしろ、解放された人びとが、精神の上昇を伴わなければ意味がない。そのためには、いわゆる、本能と欲望の自由化に対する反省が肝要である。正すべきは正す時である。墜落する機首を上昇へ制御する。そのためには、啓蒙も必要である。それぞれの精神を換骨奪胎する必要がある。本来の人の道を歩むべく。その基は教育だ。日本が日本であるために。世界が世界であるために。人が人として生きるために。ところで、医者と寺は税制度上優遇されている。それは、本来の業務を全うするが故である。ところが、医者はいわゆる福祉業界でビジネスをし、寺も墓所及び幼稚園等でビジネスをしている者がいる。されど、名義を巧妙に変えたりして、税制度上の優遇措置を最大限に利用する。本来の精神に悖っている。ビジネスをする医者と寺は、社会から尊敬される基礎を失っている。昨日歩いていると面白い看板があった。それには、医院の前であるから駐車禁止と書いてあった。思わず笑ってしまった。道交法上駐車禁止であるならわかる。公物、公共物等の概念を知らぬらしい。公私混同している。その看板は立派に道路の上に立てられていた。ある護岸を歩いていた。この護岸は市が管理している。その護岸は、関係者以外立入禁止の看板が立てられている。しかし、その中は、某企業の資材置き場となっている。また、たくましき民間人の駐車場となって、整然と車が駐車されている。また、市の外郭団体がある。その事務員は市職員の関係者である。公務員試験など受けていないだろう。事務員の欠員に伴う募集の公募を見たことはない。いつから世襲制になったのだろう。法を無視する社会である。法を自分解釈する社会である。あるお茶とお花の先生がいた。何かあると、日本刀を人切り包丁と言って揶揄していた。しばらくして、自分の祖先に侍がいたと喜んでいた。その方はお酒を一滴も飲めない方だった。侍にも格の差がある。精神の格がある。その精神を得るには、その他の精神を焼き尽くさねばならぬ。バチカンは、教皇の言葉に印税をかけるという。正体を見せたか。バチカンも終わりだね。さて、その後も、今後をどうするか、考えている。今となっては、申し訳ないが、社会に対しての自分の甘さが悔やまれる。ある意味で、社会に期待しすぎていた。そして、何事も忍耐受容することだと思っていた。違っていた。社会は、相手が弱いと見ると、容赦ない。ある意味で、社会の生態がわかった。遅過ぎはしない。十分である。さて、どうするか。しかし、社会がここまで、汚いとは思わなかった。植物は二酸化炭素と酸素のガス交換で生きている。人間もそうだ。蓮華の前に化生する意味は、どういうことか。惡を吸って善に変えると言うべきか。あるいは、惡の中で善を咲かすというべきか。社会の悪が養分である。思い知る時が来たのである。自分が自分から負けていたのだ。しかし、もはや、惑いはしない。思う存分にして法を越えない自由がある。見えない世界からの守護があるからである。あらゆる一切が無駄ではない。汚さは養分となる。そして、美しい花が咲く。社会の腐敗はそれでいい。しかし、これまでの勝手は通らない。理由、時が代わった。見えない世界からは、すべて、お見抜きお見通しである。もはや、これまでの、安易な生活はない。因って、これまでの犠牲が報われる時を迎えている。惡は惡で、天より処断される。間違いはない。自分計算、身勝手は一切通らない。嘘で誤魔化せはしない。諸法則通りの時代となった。最も肝要な心の秘密も解明されている。それは、心の周波数と言える。これが、人格の差を決定している。鐘の音も色々あるように、人格も色々ある。自分には見えない。しかし、善悪歴然である。佛の教えを信じることが出来るかどうか、第一の試金石である。強くなくては生きてゆけない、やさしくなくては生きている価値はない(淘汰される)。人間の心のありようである。これ以外、例えば欺瞞など、相手にすることもない。日天子、月天子の守護があるかどうか、風が自分のために吹いてくれるかどうか、己の心に問うてみるがいい。そうした存在を無視し、或いは犠牲にし、或いは笑い者にしたことは、即ち、罪である。秩序に反していた。もはや、天が赦さぬ、と云っている。それが聞こえない者はどうなるか。淘汰される。いい加減な気持ちでは、この新しい時代の波に乗れない。乗れないことを以て恨むことなかれ。仏法は勝つ、王法は儲ける。新しい戦いの時代が、その幕を開けた。すでに、舞台は代わった。こころするべし。ルールが変わった。パラダイムがシフトした。勇気ある者は、立つべし。幸せは自分の力で勝ち取るべきものである。のほほんとしていないか。酸素と二酸化炭素のガス交換は、呼吸である。呼吸は亦緩急である。即ち、寄せては返す波である。そしれは亦挨拶である。ここに、ご挨拶申し上げる次第である。エネルギーが充填したら、即ち、出撃である。それは、休息の後の活動である。即ち、飛翔である。亦、夜明けである。明るきから明るきへ、新たな時代への、暁である。今般の時代は、精神と精神の戦いとなる。弱き精神は打ち負かされる。欺瞞と金銭での支配は終わった。高度精神即ち集中力と集中力の勝負である。それは、とても、スポーツ的的である。良い時代となった。これより財産は心の清浄より発する精神集中力である。他の一切を従える力である。これが、光にたとえられる神力の実体である。この力をどのようにして捻出するか。それが、たとえば、孔子の公憤である。惡を前にして得られる禅定力である。愚かを前に得られる智慧力である。世の中が腐敗して、この力が見出された。続く者は続くべし。その他一切の力を超えている。善であるが故に、天界より守護される力である。これまでの現実財産の一切をこの力に転化するべし。きっと、喜びに満ちるであろう。この力を以て善とする。これまでの惡は、間違いなく、裁かれ、淘汰される。惡銭は身に付くことはない。他者の犠牲の上に利益した金銭及び手柄は一切剥奪される。神のものは神の手に、シーザーのものはシーザーの手に。新しい時代の掟である。奪ったものは奪い返される。すべては、法則通りとなる。事実あるのみ。身勝手な解釈など入る余地はない。怠惰には怠惰の結果があり、貪ったものには貪った結果がある。これが、貧しきものは幸いなりの意味である。精神の強きを以ての故に、奪われ、惡を為さなかったが故に貧しき者たちのことである。惡を以て富を成したるものは、一切、これより処断ある。個々の精神労力に応じた正統な利益配分の時代である。時代は既に推移した。すでに始まっている。一切の精神的搾取内容が明らかとなる。佛は人田を耕すに因って食を得た。正統な対価としてであった。今、この意味における搾取が裁かれるのである。経済至上主義で犠牲にしてきたことについて請求される。その時代に入った。価値基準が、個々の持つ精神力へと移行した。これより光り輝く宝は開花した個々の精神力である。これより、精神の猛禽類の支配する時代である。それは、また、知性の支配する時代となった。愚かな時代は過ぎた。歴史はこのようにしてシフトする。或いは流れる。人類の英知に乾杯!為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり、精神「一」到何事か成らざらん。 精神こそ、人間固有の究極の力である。この力は、心の清浄を以て、現象する神力である。

2006年01月25日
花は野に咲く
普通、準急、急行、特急、超特急。超特急は新幹線。S.K.國の基は何処にかある。知る人ぞ知る人の道。山道、山路、山持なる、人の道。何処の道にか、大和路の、日本の命脈、何処にかある。忘れられたりし大和路の、こころの細道、花は野に咲く。護持して生きむ、名こそ惜しまむ、無銘なる、時はいたずら過ぎ往くを、浮き世は浮き世、幸の多かれ。花の咲くとき蝶の来る。蝶は騎士かknight (kは黙字)か侍(サムライ=士)か。人の道、人の路、侍(清浄なる人)。

2006/01/24
さて、この度の大相撲は面白かった。特に、栃東の相撲は何だったのだろう。完全に何か吹っ切れている。まるで、蝶のように舞うモハメド・アリのようであった。体も大きくなっている。楽しみとなってきた。まるで、お師匠さんのような相撲ではなかったか。馬力とスピードだけの朝青龍とはちがう。新しい風が吹いていることの象徴だね。あちらこちらで。そして、野球では、城島選手の素顔をはじめてテレビで見た。目が違う。イチローとも違うし、松井など相手にならない。期待できそうだ。さて、千葉の海岸に海豚が打ち上げられた。市の職員総出で、海に帰そうとしたが、無に帰した。さて、海豚だが、海洋を泳いでいる間は良い。しかし、一度、湾に迷い込むとどうなるか。小さな湾であるなら、一週間もすれば、小魚が食い尽くされる。一ヶ月もいるとどうなるか。こうしたこと知っての報道であるのかどうか。漁師たちはどう思っているか。少し、勉強が足りないのではないか。ところで、太陽と月でどちらが美しいか。月である。見える世界と見えない世界がある。前者は浮き世。浮き世で皆何をしているのか。動物性丸出しのママゴトである。見えない世界の掟を知ってるか。後生という言葉を忘れたか。お馬鹿はお馬鹿である。畜生である。何時までも畜生の天下はない。猛禽類の餌食となりたいのであろうか。そろそろ反省の頃だね。社会も大きなことは言えない。蟻塚に過ぎない。蟻塚のルールが猛禽類に通じると思う方が滑稽ではないか。要猛反省。茶番劇は黄泉の国のドラマからすると見るに堪えない。黄泉の国のドラマは自然現象そのものである。源氏物語の内容が今も理想とされている畜生界である。触れず触れざるのダンスを知らぬものどもの腐敗文化である。羅刹はどうもまだ眠っていないらしい。台風の爪痕を見ても何も感じないらしい。スーダンでは140万人の子供が生命の危機にさらされている。よくも、セレブと気取っておれるものである。やはり、テレビ界族は人間ではない。畜生界である。愛と平和を理念とした共存である。さもなくば、無秩序である。今、畜生界の横暴=無秩序が問われている。愚かであれば、今楽しくても、黄泉で泣く(真実を知るものは憂い無く楽しい)。見える世界に対する、見えない世界からの不当利得返還請求である。失ったものまでは問わない。現実利益はその破廉恥性に従って返還すべし。餌食あるいは犠牲にされた諸精霊は供養されていない。これより、それが問われる。葬ればよいというものではない。 世の中は、火宅である。火宅の中で戯れているだけである。救いは那辺にあるか、知りもしない、見えもしない、探そうともしない。むしろ愚かな自己を正当化する。惡徳を積むばかりである。戦後、理念を無くして、欲望だけがのさばった。どんな花が咲いているのか。愚者の花である。そして、増殖している。むしろ、アメリカの祈りは別論にある。傍論にある。少なくとも、恥を知るべし。無意味な正当化を放棄するべし。「紙つぶて」などに用はない。正統と異端は、歴然としている。異端をいくら正当化しても、異端文化の失敗が明らかとなった。これ以上、未来と子供たちと純粋精神を汚染すること無し。国民主権である。主権在民である。今、主権は国民にある。この意味わかっているだろうか。誰もわからない。神がわからない者には。そろそろ年貢の納め時となった。この度の年貢は天に納める。真実であり、真理である。何時までも主権を欺けはしない。主権は主権である。わからないなら、わからせる、わかる時は、もう遅い。それが、主権である。おい、宿王華羅刹、時代を間違ったか。何とでも云うが良い。財界は何のためにあるのか。政府は何のためにあるのか。官僚は何のためにあるのか。本来の目的を忘れたか。扶桑。ならば、存在存続しうべきもない。主権の決断は怖ろしい。時が満ちる。主権は主権である。主権は雀にしておくべきである。主権は民草を超えている。主権が決断する時、天下国家が動く。目の当たりにしたいのか。羅刹、もういいか。あまりにも愚かなるが故に何も見えなくなり、欲望を貪り、それを以てのさばりはびこる民草のために云うべき事と云うべき時がある。おぉ、羅刹よ。歴史の本体が姿を見せる時がある。秘されているだけである。主権の真の意味、説ける者がいるか。主権の意味は、主権である当事者にしか決してわからぬ。謙虚さはここから来る。畏れかしこむはここより来る。主権は本来神である。神も修行する。世間解を含む修行をし、世間の無価値を知り、力を獲た神を怒らせるのは賢明ではない。神の思いは那辺にあるか。畏るべき事である。羅刹、気持ちは晴れたか。日射しが増してきたな。もう、昼だ。お前にはお前の飯はまだ来ないのか。お前の声に耳を傾ける者は現実にはいないのか。これからどうするのだ。木々は光を浴びている。しばらく眠らされていた寝た子が目覚めている。黄泉の国は既に従えている。今般の主権の意思並びにありよう、しかと議論すべきところである。

2006年01月23日
すべて、自分次第
自分が変わることで環境が変わる。自分がおだやかであることで、周りもおだやか。自分が真面目であることで、真面目な世界に住んでいる。すべて、自分次第。善かったと思える日々。喜び世界への切符は自分が切る。自分が喜ぶ。世界が喜ぶ。自分を解決する。人生を解決する。運命さえ変わる。世界も変わる。

来年四月には、呉大和博物館の隣に、海上自衛隊資料館が出来る。退役潜水艦『あきしお』(全長76m、総排水量2,250t)が係留される。民間資本で運営される。

自分に惡があるから、惡いことが起こる。しかし、これはチャンスでもある。何故って、知らしめんが為の道しるべ。惡いと思ったら、引き返す。少し、戒めもあるかも知れない。そして、やがて、自分が善となる。すると、善いことばかりが起こる。輝く世界に住んでいる。惡因惡果、善因善果ですね。ところで、楽は苦の種、苦は楽の種?楽は楽の種、苦は苦の種!これを知って、日々、実験体験自得体得しながら、明日は明るい日となる。所詮苦の種を持っている。楽の種を集めようよ。勢いのある自己が生まれる。自信に満ちてこころの赴くままに生きてゆける。善かったねって、自分が自分に言える日々となる。仏さんは云いました、惡いのはすべて自分、善いことはすべて仏さんのお陰、と。本当だった。感謝。