2006年10月17日
21世紀の約束
夢は実現する。それは生まれた理由を開示する。その時、この世の一切を理解する。それには知性が必要である。 また、その夢が開花するには平和が必要である。だれもがその夢を実現できる。そのために生まれた。しかし、 それを理解するものは少ない。探そうともしない。理解しないことを以て否定する。悲しいね。自己の存在理由が理解できた時、 この世に怖れるものなどない。この夢の実現には、少なくとも三十年、悪を為さないことである。芥を払うこと三十年である。 開花すればいい。親孝行とは何か。親とは何か。大の親、中の親、小の親があると聞いている。小の親とは産みの親。 中の親とは育ての親。すなわち、食したものたち。大の親とは法の親。すなわち、佛である。それぞれに対して供養の方法がある。 佛の定めた方法がある。また、佛の定めた大無量義教菩薩法佛所護念文理真正は宇宙に通じる。だれもがその力を授けてもらえる時代となった。 21世紀佛の約束である。ところで、原油価格が下落した。どこまでさがるかわからないと関係者は狼狽している。何故下落したか。供給が限界に達したとされた。 中国及びインドの経済的な成長がある。それで原油が高騰すると思われた。それに世界のマネーが反応していた。 エネルギーは偏に石油と思われていた。しかし北朝鮮で核実験が実施された。これは何を意味しているのだろう。 大砲を作るのかバターを作るのか。戦争か平和か。選択を迫られている。核兵器か原発かである。世界は成長している。 経済は成長している。地球も人類も成長している。ここに新たなエネルギーの可能性が世界的に確認された。北朝鮮の核実験はそれを意味している。原油によるエネルギー独占時代が終わろうとしている。これを悪夢にするのか。それとも世界の幸福福祉への一里塚とするのか。人類の英知が試される。すでに戦争は克服されたはずだ。それが原爆だった。人類が野蛮を好まないことを願う。人々の意思が戦争を予定すれば、戦争が実現する。人々の意思が平和を決定すれば、平和が実現する。 ここに人類の意思が試されている。核は既に実在する。これとどのように対峙するか。 悪夢の挑発への恐怖は間接的に戦争への準備となる。その空気が戦争を現実化する。全体として平和を意思するべきである。 それを空気とするべきである。選択の自由は平和を意思するべきである。 人類は試練を乗り越えてきた。戦争が間違いの選択であることは経験している。戦争では何も解決しない。 一部の利益層の利益でしかない。庶民は犠牲となる。時代は推移した。選択を間違えばそれなりのサンクションがある。 宇宙自然生命黄泉の秩序を無視するべきではない。同じ轍を踏むべきではない。 さて、孫子の兵法だったろうか。深追いはしないことである。逃げ道は残しておくことである。窮鼠猫をかむ。かむは愚かであるが、かまれるも愚かである。朝鮮民主主義人民共和国はひとつの国家である。主権がある。これを侵害してはならない。また、朝鮮民主主義人民共和国も自らの問題は自ら解決するべきである。世界への挑発はゆるされないことは当然である。世界に助けて貰いたいのであればそれなりの方法がある。さて、日本は核兵器を作るべきではない。その気になればいつでも作れる。日本の工業力は世界最高水準である。日本の技術力がなければ世界経済は成り立たない。ここに自負自覚がある。日本は大丈夫である。時代は進化し戦争を克服した。日本がその洗礼を受けている。これよりその世界的実現の時である。これに反するものが淘汰される。低いレベルから高いレベルへ。野蛮から洗練へ。これまでの権力武力金力の支配は庶民の幸せを構築できなかった。新しい時代である。庶民の解放は旧約聖書に秘められた目的である。21世紀の約束である。方法は既にある。モーゼの杖は海をも開く。それは客観的には偶然の自然現象であったかのように見える。真実を知らないものたちにとって。しかし、真実を知るものにとっては天の証明である。事実現実である。これを「佛の事」ともいう。人間レベルの及ぶところではない。過去よりそうである。さて、天下統一ということがある。かつて戦国時代にもそれが目指された。大義名分がその制覇を確定した。信長は何故天下統一できなかったか。その野蛮の故であった。秀吉は平家と同じく貴族化したが故に失敗した。家康の旗印は厭離穢土だった。ここに大義名分があった。すなわち庶民の平和だった。城があった。その城下で人々は生活の平穏を確保した。これが秩序というものである。分際である。それを無視すればどうなるか。暴力と欺罔がいつまでも通りはしない。秩序は回復された。宇宙自然生命黄泉の秩序を知る卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本として。新しい時代はどのようにして天下統一となるか。見えない世界を制覇してそれは成る。新しい大義名分である。ここに庶民の解放が実現される。庶民とはこれまで正直の故に虐げられていた方々である。 主権在民。その真義は何か。 主権は今どこに遷都したのか。見えない世界にである。時は代わった。これより新しい時代である。宇宙自然生命黄泉の意思が実現される。宇宙自然生命黄泉も喜んで自らの仕事に余念がない。良い時代が訪れる。新しい時代の流れである。この流れを塞いでいた大岩は砕かれた。これに反するものは悉く淘汰される。21世紀の約束である。時代は推移した。二千年来あるいはそれ以前から宇宙自然生命黄泉人類の英知が蓄積されている。今よりそれを実現する時である。時は来た。時代はつながった。A=B。B=C。よってA=C。ADとBCがつながった。QED 勉学はするべきものである。品格人格は形成するべきものである。現代浅薄衆愚退廃助長増殖テレビ芸能界及び明治以降守銭奴身勝手利己主義財界経済界、恥を知るべし。21世紀は愚かな時代ではない。知性の時代である。正統大和復活。宇宙自然生命黄泉の秩序破壊あることなし。これまでこれらの理念はあった。しかし実現したことはなかった。これより実現す。ためにそれぞれの罪が明らかとなる。
C・ウィルソン「宗教と反抗人」
仏陀もまた人間は自己の道徳的福祉に関しては唯自分一人が責任を持つと考え、さらに彼仏陀を神託として受け取るな、唯、己自身の道を見出すための先達として仏陀を利用せよと警告している。
人間にまつわる最も重大な事実は自己を変える能力である。アウトサイダーとは、おのが自身の複雑性と、彼を条件付け、彼の同一性を歪めようとする文明とに対する支配力を獲得しようと悪戦苦闘する人である。
人間は天使と同様に神のあらゆる能力、神の七つの霊全てから造られたものなり。しかしながら人間は現在腐敗せるがゆえに神的なる働きは常にその力を開示せず、人間のうちに活動することもない。それは人間のうちに湧き起こり、仮に照り輝くことがあろうとも、腐敗せる性質には不可知のものなり。
人生は戦いだ。絶えまない精神的戦闘である。
アウトサイダーは尨大な精神的努力によって神秘家へと成長する。これは自己の人生を戦闘状態と化せしめ、戦闘に必要な頭脳の緊張を保って生きることによって為される。神秘家とは高度の知識と活力を持つ人間にすぎない。
おのが自身の直接の洞察によって証明したものでなければ何ものをも認容しない。
詩人は誰でも人間の真価は当人の感情的体験の深さによって決められるということを知っている。自分自身と次には世界とに対する支配力を人間に本当に与えてくれるのは自分自身に対する深い洞察に他ならぬ。
アウトサイダーは神の存在を認めた。その神とは人間のうち自然のうちに作用している或る力であり、意識をもった如何なる個人の目的より大きな或る目的である。
脳の活動は心臓の鼓動や血液の動きとではなく呼吸と調子を合わせたものである。
真理とはそれを把握している人間の精神的強烈さなのだ。
宗教は到達点ではなく途上の休憩所にすぎない。
精神は神による物質の完全な征服をめざして苦闘する。
神々と英雄の行動はある不変の法則によって予め決定されている。
如何にしたら自分のために精神的力を獲得できるか。社会の背後にあって社会を動かす力となるべく勤めること。他人の中で一つの力となることによって他人のために力を獲得してやること。
アウトサイダーは時節が到来したならば自分の象牙の塔から出てゆかねばならない。 その時機が熟するのは自己に対する精神の支配力を勝ち得たときである。
真理は主体性なのであり、従って自己に集中することによって真理は達成される。
文明はその死活問題として宗教を必要としている。人間の能力が人間の宗教に勝るようになったとき文明は崩壊する。
何事かを為そうとする意志は、それがどうしても必要であるという確信によってもたらされた或る強烈度に達すれば、その何事かを為すための新しい組織を作り出し編み出すものなのである。
自分一個の人格よりも大きな何ものかによって駆り立てられている人。
真の宗教とはあらゆる人間のための標準として、詩人や賢者の最も深遠な洞察を認めることに他ならぬ。
どんな夢でもそれを真実と信ずるほど強い人達の手にかかれば意志でそれを創造に変えることができる。
人間は神の意志を表現するかぎりにおいて偉大となるのであり、そうすることこそ生における永遠の把握行為なのである。
全てのものは崩れまた築かれる。また築く者は朗らかなり。
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2006年10月16日
人間って
何時の世もそうだったのだろうか。人間って駄目だね。どうしようもない。宇宙の秩序を知らない。自分が正しいと勝手に思う。自分より上は見えない。見えないことを以て否定する。あるいは無視愚弄破壊する。そしてどうなるかを知らない。すなわち滅びる。宇宙の秩序とは何か。精神である。それに刃向かえばどうなるか。淘汰される。精神の向上を以て人格と成す。その人格の得た力とは何か。ロゴスである。これを知らない。地位とか財力がそれではない。しかし地位とか財力に従う。愚か極まる。真実を知らない。知らずして愚弄する。滅びたいのだろうか。思い上がりも甚だしい。かぐや姫は何故月に帰ったのか。それはどういう意味だったのか。世間に住めなかったのだ。世間に染まろうとして染まることが出来なかったのだ。何時までもこのままではない。容赦しない。最も大切なことをあまりにも愚弄した。いつまでもそうして勝手なことをしているがいい。滅びても恨むことなかれ。枯れても恨むことなかれ。すでにロゴスは伝えられた。そして譲られた。それは今、どこにあるのか。世間は知らない。宇宙有無開閉の力である。生殺自在である。これを行使されたいのか。いつまでも耐えることは出来ない。佛の顔も三度までと決まっている。佛の実在の本質を知らなすぎる。佛はこの世を終わらせることも出来る。そろそろ観念反省してはいかがか。身のためである。宇宙に秩序がある。人間の及ぶところではない。まだ逆らうか。金力武力権力を以て及ぶところではない。しばらくはそれだった。今は違う。法力とは何か。すなわち精神である。道元は言う。山も運歩する。この意味を分かって大口をたたいているのか。いい加減にしてはいかがか。こうした秘密の一端を知った方々は何をしているのか。それを以て何をしているのか。一切大衆を救うことをしているか。自己の利益を追求する具としているだけではないのか。自分勝手であろう。それでは宇宙自然生命黄泉の意思に反する。やはりゆるされはしない。富士は死火山ではない。富士の噴火を見たいのか。あまりにも真実を知らなすぎる。真実に反していることを知らなすぎる。真実とは今、何に化体しているのか。思い知りたいのか。それほど愚かであるのか。愚かであることを吹聴助長増殖するのか。思い上がりも甚だしい。真実黄泉は目覚めている。卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本正統の寝た子は起きている。そして空腹である。刃向かえはしない。勝負にならない。我慢にも限界がある。アマテラス見参である。それほどまでに世は浮かれ乱れすぎた。故に天の岩戸が開かれた。蔓延りし愚かな血すなわち大蛇(オロチ)を成敗退治する。君たち、好き勝手したね。そして結果どうなったか。覚悟しておいたほうがいい。黄泉にて成敗である。三途の川は渡れない。七つの海を渡れない。唯、謝ることで赦される。それには佛の定めた方法がある。神話は事実現実である。貧しきものは幸いである。貧しきが故に悪を為さない。新しい時代はかれらに託され譲られる。金力は金力によって滅んだ。それはカルバンの宗教改革思想とインカの金を基礎とするこの世で唯一不朽増殖するとする貨幣による支配である西洋重商主義パラダイムの終焉である。すなわち金力は結果腐敗した。お金が幸せだと思った方々は残念だったね。それは罪(都美=バベルの塔)だった。そして人間の何もかも諦めたよ。人間になろうとしてなれなかった。世間に染まろうとして染まれなかった。人生及び青春は無駄に過ぎ去ったかのようだった。しかしそうではなかった。導かれていたのだった。悪に染まることなく。そして至った。密かに開花する時を待っていた。そして開花した。諸佛の護念するところであった。すなわち宿王華開花涅槃である。この開花を以て時代が代わる。代々の約束である。四百年来あるいは二千年来の出来事である。情欲の火は消えた。我思ふ無し。鳥の空を泳ぐに任す。人間って駄目である。所詮自分勝手である。この世の秘密である宇宙自然生命黄泉の秩序を知らず無視あるいは愚弄破壊する。そして地獄に赴く。堕ちて地獄を正当化する。あはれである。正直者のこうべに神は宿る。今朝、日本時間午前二時ハワイで地震があった。昨日は美しい夕日だった。今朝も美しい朝日だった。雲一つ無かった。歩々清風。そよ風が部屋の中へ吹き込んでくる。穏やかな秋の日々である。何故だろう。気づいているだろうか。天も祝福しているかのようだ。何を喜んでいるのか。新しい時代の夜明けをである。善と悪が判然とする時代の到来である。妙法華経を持ち修行を奉るを以て善とする。それ以外は悪である。立教五十年、五十転伝は成就した。一切は譲り譲られた。そして自覚受容した。二千年来のロゴスが転伝した。どこに転伝したのか。すでに証明済みである。
我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数
無量百千万 億載阿僧祇なり
常に法を説いて 無数億の衆生を教化して
仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり
衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず
而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く
我常に此に住すれども 諸の神通力を以て
顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ
衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し
咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず
衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に
一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず
時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず
我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず
方便力を以ての故に 滅不滅ありと現ず
余国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば
我復彼の中に於て 為に無上の法を説く
汝等此れを聞かずして 但我滅度すと謂えり
我諸の衆生を見れば 苦海に没在せり
故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ
其の心恋慕するに因って 乃ち出でて為に法を説く
神通力是の如し 阿僧祇劫に於て
常に霊鷲山 及び余の諸の住処にあり
衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も
我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり
園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し
宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり
諸天天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し
曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず
我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて
憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る
是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て
阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず
諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は
則ち皆我が身 此にあって法を説くと見る
或時は此の衆の為に 仏寿無量なりと説く
久しくあって乃し仏を見たてまつる者には 為に仏には値い難しと説く
我が智力是の如し 慧光照すこと無量に
寿命無数劫 久しく業を修して得る所なり
汝等智あらん者 此に於て疑を生ずることなかれ
当に断じて永く尽きしむべし 仏語は実にして虚しからず
医の善き方便をもって 狂子を治せんが為の故に
実には在れども而も死すというに 能く虚妄を説くものなきが如く
我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり
凡夫の顛倒せるを為て 実には在れども而も滅すと言う
常に我を見るを以ての故に 而も・恣の心を生じ
放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん
我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って
度すべき所に随って 為に種々の法を説く
毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして
無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと
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2006年10月14日
パスカルのパンセについて
楽な境涯とはどのような境涯であるか。すらすらとうまくゆくとはどういうことか。汝自身を知るとはどういうことか。楽な境涯とは宇宙自然生命黄泉の守護を取り付けた状態である。守護する側もその相手を選ぶ。そして辛抱強く育てる。霊界からこの世に生まれた宝であるから。生まれたときより違うは、かぐや姫の物語に等しい。やがて月へ帰るとはどういうことか。それは、泥の中で咲く蓮の華に等しい。宿王華開花、すなわち蓮華の前に化生である。卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本の復活である。この世のお金など問題ではない。宇宙自然生命黄泉に同化する。この世がすべて財産である。すらすらといく境涯とはこうして開ける。そこに楽な境涯となる。一切が別事と見えてくる。それまでは自分も苦海に没在していたその地獄を外から見ている。いかにも浮沈している地獄である。真実を知らず右往左往している。掬うしかないと思えてくる。掬うとはどういうことか。何を救うのか。一切大衆を救うとはどういうことか。仏道に引導する。一切は過去の因縁を引きずっている。そして生まれてきている。この過去の因縁を解消する。それが成仏である。それをどのようしてするのか。それが仏法である。閻浮提(地球)の病の大良薬がある。あらゆる因縁を解決できる。救える。彼らも人間以上に生まれてやり直したいと思っている。しかし過去の因縁が度を増していく。それを消す。成仏させる。仏の威力である。これを信じることができるか。疑うだろう。それも因縁である。今生で悟ることができるかどうか。来世に託すべきか。できることなら生きている間に解決したいね。この真実を如何にして分別広説するか。パスカルもメモリアルを通して大神秘家となった。人々にどのようにして神の真実を伝えるか、そのメモがパンセである。パスカルはいう。神が存在する方へ賭けてみよ。仏法では信をもって入ることを得たり。時は代わった。真実の時代が到来した。真実とは何であったか。見える世界と見えない世界がある。見える世界は見えない世界に従う。見えない世界での真剣勝負の時代となった。過去と現在はつながっている。過去の魂が現在に生まれ変わっている。何に生まれ変わっているのか。汝自身を知るとは何を知るのか。己の前世である。身の懺悔と心の懺悔がある。この世で懺悔成就となるかどうか。仏法は必ず勝つ。もはや勝負にならない。それが霊界に於ける秩序である。真実を前に如何に生きるべきか。問われている。汝自身を知るとはどういうことか。自分自身になるとはどういうことか。咲くに咲けなかった宿王華が咲いた。これまでの虚妄は去った。真実の時代である。何を以て真実というか。永い漂流であった。何を見つけての帰還であるか。旧約聖書に秘められていた400年周期説。キリストより始まった西暦。明治になって日本も合流した。卑弥呼、頼朝、家康。新しい時代が始まった。過去からの約束である。地球も進化する。悪は淘汰される。新しい時代はどのように方向付けられたか。仏の意志は那辺にあるか。宇宙自然生命黄泉も従う仏の意志である。刃向かうか。黄泉が動く。天が証明する。宇宙に秩序がある。しばらくそれを無視した。いつまでも通りはしない。
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佛の約束
さて、ゆるすとかゆるされるとか、それも問題ではなくなった。それは、この身が所詮懺悔の身であるからである。何に対しての懺悔であるか。佛に対してである。この世の一切が無であるとか空であるとか。あるいは世間虚仮であるとか。それは何であったか。禅では計らいがよくないという。同じ事である。人間としてのこの身が本来懺悔の身であるということである。だったらゆるすとかゆるされるとかということがどういう事か分かる。人間である以上、思い上がる。自分は正しいと思う。それがすでに間違っている。この意味分かるだろうか。悪いのは全て自分が原因である。善いのは全て佛さんのおかげである。このように聞いている。この確信が得られればゆるすとかゆるさないではない。ゆるしてもらうしかない。やっと素直にそのように思えるようになった。これが身につけば、佛に帰依することが出来る。佛所護念もできる。素直に。その時、佛はゆるしてくれる。守護もしてくれる。佛さんはいる。今もいる。目には見えない。しかし確かにいる。これを知るには修行が必要である。だれもがこの事実を知るといい。必ず幸せになれる。佛の約束である。教菩薩法が開かれている。菩薩となる教えである。法華経の五欲を断ぜずしてのそれである。在家のままで修行することが出来る。そして佛を知ることが出来る。どこに開かれているか。探すしかない。これまでその言葉はあった。しかしその内容はなかった。それが開かれている。すでに証明もされている。疑うのが人間である。昔よりそうであった。しかし知っても知らなくても、真実は真実である。これを知るには自覚するしかない。冷暖自知である。甘い水は、呑んでみなくてはわからない。真実の仏法は今どこにあるか。平安の頃には最澄空海であったろう。鎌倉は新仏教だった。真実であるからには証明が必要である。お経にあるとおりに涌現する多宝仏塔はどこにあるか。それはないのか。ある。多宝仏世尊がシャカムニブツ世尊の説くことが真実であることを証明している。真実とは何であるか。お経と説と現実が一致することである。それがあるのかないのか。ある。どこにあるのか。佛の実在と邂逅し、その守護を得ると、自然の中で、良寛のいう遊ぶためにぞ生まれたことが分かる。その意味で自由となる。それなくしては自由ではない。世のお笑いが逃避虚妄に過ぎない理由が此処にある。真実の笑いはある。悲しい眼をした笑いではない。邪悪な眼をした笑いではない。世のテレビ界の猛反省を要するところである。低いレベルで世を迷わせた罪は重い。すべてのものを大切にすることである。草木瓦礫も。身も心も。禅でいう雪隠より光を発するところである。また、身体を大切にするべきことを説いた孔子の言いたかったところでもあろう。佛とは何であったか。正法・像法・末法といわれる。正法とは素直に佛を信じることが出来た時代である。像法とは仏像伽藍を通して佛を信じた時代である。末法とは佛が信じられなくなった時代である。恐怖悪世である。しかし香風時に来たって萎める花を散らし新しき花を雨らす。やがて正法の時が来る。すでに新たな仏法が説かれた。あらためて大法輪が転ぜられた。古き方々は去らねばならぬ。仏像が佛ではない。佛とはこの世の存在の構成原素そのものといえる。五大原素である。それに帰依する。人間身勝手のフロンガスとか石綿とかもってのほかである。公害など言語道断である。因縁はかけたものでなければ解けない。海をきれいにしてはいかがか。ここより始めてはいかがか。人間が汚した海である。今朝、港でカモメが空中を泳いでいるのを見た。まだ幼いようだった。すでに二羽のパートナー同士と見えた。すぐ近くを滑空してくれた。道元だったろうか。魚の海に泳ぐこと及び鳥の空を泳ぐことを書いていた。魚にとって海が世界である。鳥にとって空が世界である。人間にとっての世界がある。人間は世界に泳ぐ。魚の海に泳ぐを任す。鳥の空に泳ぐを任す。人間の世界に泳ぐを任す。亦、楽しからず哉。人間の身勝手、猛反省の時である。やがて正法の時代となる。その黎明である。古き方々は首を洗って待つしかない。それぞれ身と心で犯した罪がある。謝ることで赦される。それには佛の定めた方法がある。どこにあるか。仏法とは何であるか。究極の知性である。
妙法蓮華経如来寿量品第十六
爾の時に仏、諸の菩薩及び一切の大衆に告げたまわく、
諸の善男子、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。復大衆に告げたまはく、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。
又復諸の大衆に告げたまはく、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。
是の時に菩薩大衆、弥勒を首として、合掌して仏に白して言さく、世尊唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし。
是の如く三たび白し已って復言さく、唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし。
爾の時に世尊、諸の菩薩の三たび請じて止まざることを知しめして、之に告げて言わく、
汝等諦かに聴け、如来の秘密・神通の力を。一切世間の天・人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使人あって抹して微塵と為して、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意に於て云何、是の諸の世界は思惟し校計して其の数を知ることを得べしや不や。
弥勒菩薩等倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。
爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、
諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。是の諸の世界の若しは微塵を著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき。是の如きは皆方便を以て分別せしなり。諸の善男子、若し衆生あって我が所に来至するには、我仏眼を以て其の信等の諸根の利鈍を観じて、度すべき所に随って、処処に自ら名字の不同・年紀の大小を説き、亦復現じて当に涅槃に入るべしと言い、又種々の方便を以て微妙の法を説いて、能く衆生をして歓喜の心を発さしめき。
諸の善男子、如来諸の衆生の小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に我少くして出家し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我実に成仏してより已来久遠なること斯の若し。但方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す。諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。諸の言説するところは皆実にして虚しからず。所以は何ん、如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。諸の衆生、種々の性・種々の欲・種々の行・種々の憶想分別あるを以ての故に、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁・譬喩・言辞を以て種々に法を説く。所作の仏事未だ曾て暫くも廃せず。是の如く我成仏してより已来甚だ大に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり。然るに今実の滅度に非れども、而も便ち唱えて当に滅度を取るべしと言う。如来是の方便を以て衆生を教化す。所以は何ん、若し仏久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず。貧窮下賎にして五欲に貧著し、憶想妄見の網の中に入りなん。若し如来常に在って滅せずと見ば、便ち・恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わず。是の故に如来方便を以て説く、比丘当に知るべし、諸仏の出世には値遇すべきこと難し。所以は何ん、諸の薄徳の人は無量百千万億劫を過ぎて、或は仏を見るあり、或は見ざる者あり。此の事を以ての故に我是の言をなす、・・・・・・。
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2006年10月13日
仇はとる
仇はとる。とらねばならぬ。とらねばこの世の人生はない。そのための修行である。そのための祖先との邂逅である。祖先も動く。黄泉も動く。神仏も守護する。宇宙自然生命が証明する。法華経宿王華、咲くに咲けぬ永き冬であった。真実愚弄無恥蒙昧世間身勝手、もはやゆるしはしない。道元空手貧学道及び法華経一切種智慧如来神力宿王華。十分である。草薙の剣も知らず神仏を否定するペリー来航に乗じた唯自己利益追求型野蛮愚昧下級精神支配文化を一掃する。知性の秩序を回復する。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和に掟がある。これを無視愚弄破壊することはできない。大道無門、ここに建立す。軽薄無恥なる世間身勝手、一切通さぬ。
声聞かば 存在一切 見抜かるる 真実愚弄無恥蒙昧 おのが人生 何為し居る哉
一天四海皆帰妙法乾坤帰一大和復活宣言。魑魅魍魎の天下は終わった。天下の大号令である。見えない世界は制覇された。精神世界は制覇され清浄に戻った。世の腐敗を一掃する。人間身勝手、度が過ぎた。バベルの塔は建ちはしない。慈愛、平和、建設、堅固、博愛、清浄、安全。七色十字の理念である。十月十日は双十節であった。十とは仏の位である。ここに至れば堕ちることはない。昔、空王佛の時代に、レイトクボサツとエトクボサツが菩薩の業をしていた。それぞれ反対回りに諸國を行脚し、いろいろな経験をした。そしてソウ++の國で出会った。これより佛の業に入る約束をした。それを記念するのが双十節である。出発の日である。佛の業とは何か。一切大衆を救うことである。見えない世界ではもう決定されている。これに反するは淘汰される。過去よりの約束である。一切大衆が救われる時が来たのである。一切大衆とは、草木瓦礫を含むこの世一切である。やがて魂も宇宙へ帰る。その時に、宇宙にやさしく受容されるかどうか。この世の身の処し方で決まる。何も知らずに、他の犠牲の上に人生などと思い上がり勘違い、これより正される。おのおの身と心で犯した罪がある。謝るならゆるされる。佛の約束である。しかし佛の定めた方法がある。探すがいい。ところで、来たる10月29日(日)、広島大野王舍城で、会員の企画による王舍城ツアーがある。当日参加自由となっている。集合は王舍城公園、午前9時50分。自然と天徳の咲きそう王舍城の秋の散策である。
夏目漱石は円覚寺で修行した。しかし悟ることはなかった。則天去私へは至った。悟りは憧れであったであろう。悟りとは何であったか。すなわち神仏との邂逅とその守護を得ることではなかったか。小林秀雄は晩年になって本居宣長を書いた。しかし描ききってはいない。何故か。彼は若い頃、中原中也を裏切った。それを自ら懺悔することはなかった。そこへ至らなかった理由である。また古典文学に興じた。戦中の蓑にすぎなかったであろう。その本質は射抜いていない。彼の曖昧模糊怯懦な思想が思想ではない。大江健三郎のエログロは読むに耐えない。ランボーとバイロンの関係を含む文学が腐敗の淵源である時、それに群がる庶民に対する罪がある。それはそれでいい。しかしその罪は罪である。腐敗の増殖には限界がある。時が満つるとき、裁きがある。
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2006年10月12日
漂流
何時までも漂流していても仕方ない。しかし漂流も大切だね。とても大切だ。究極の宝を探すための手段です。思えば永い漂流だった。自己を失って、倩女離魂の三十年だった。帰り来たれば別事無しの浦島太郎だった。もう帰れないと思っていた。もうこれで人生も終わりだと思っていた。人生とはこんなものかと思った。しかし祖先が可愛い子孫のために動く。代々の血脈である。身心清浄を以て救いはある。やがて何を得たか。神仏との邂逅とその守護であった。これを目撃せんがための人生であったか。代々祖先の見てきたことであったか。しかるを世間一般この真実を無視愚弄破壊した。それ故咲くに咲けぬ宿王華であった。誰を恨む必要はない。気づかない自分がいるだけだった。常に祖先は救わんとしていた。そうした人生だった。自己を取り戻せば全て足りる。この世の何も必要ではない。本来無一物というべきか。本当に泣いたのは赤鬼ではない。青鬼である。竜の子太郎はいつか竜となる。宿王華復活開花。絵空事ではない。現実事実である。時は満ちた。これより新しい時代となる。本来古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の復活である。仕方あるまい。過去からの約束である。自覚を以て成就する。何を自覚するか。汝自身である。さすれば日月大地乾坤が味方する。何時までもこれまでの腐敗が通りはしない。自然の淘汰である。獅子には獅子の狩り場がある。鷹には鷹の生き方がある。これを愚弄した。武士は喰わねど高楊枝である。何を以て高楊枝とするか。精神の修養を以てである。この本来日本正統大和の精神を知らずして愚かな文化が蔓延った。日本は文明文化国家として最も古い。古代エジプト及びローマの末裔はいない。中国は何度も王朝が入れ替わっている。ヨーロッパはゲルマン民族大移動後のことである。古き日本に英知がないはずがない。世界はそれを知らない。日本はペリー来航以降それを放棄した。明治は江戸の無血開城を裏切った。愚かな世界大戦までした。その後も同じ支配階層の支配が続いている。日本古来の英知を無視した方々である。ヨーロッパはすでに19世紀に没落していた。その後どのような歴史であったか。人類の願いと祈りは何であるのか。慈愛、平和、建設、堅固、博愛、清浄、安全。これよりその成就を目指す。日本には古来その英知がある。とりもどさねばならぬ。腐敗からの脱却である。そのための漂流であった。失われた自己は回復した。青春と今がつながった。ジャパン・アズ・ナンバーワンの伏流である。時代は流れた。まだ間に合う。これからである。しかし急がねばならぬ。善は急げ、とは佛の言葉である。昨年の11月26日より始めた漂流していた自己確認は、ここに至って、確かな大地を見つけた。誰にも開かれた21世紀こころの大地である。
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2006年10月11日
全軍出動
いつの間にか魑魅魍魎雑草悪魔小悪魔の天下となった。学校を出れば知性の秩序がないかの如くである。そして平等であると思う。その結果どうなったか。もうあなた方の天下ではない。魑魅魍魎雑草悪魔小悪魔には退場して頂く。美しい日本を作るにはどうするか。米の収穫には何が必要か。蔓延る雑草は刈らねばならない。馬謖は斬らねばならない。首を洗って待つがいい。何を馬鹿なことを申しているのか。人類はこれより高次なレベルへ進化する。知性の支配を取り戻す。種はどこにあったか。プログレッシブロックは知性だった。狂わせたのは何か。全軍出動である。黄泉が動く。仏の位とは何であったか。一切大衆を救う仕事をすることを以て仏とする。そして仏にはどのような力があるか。仏、仏とのみ究了する。如来は如来でなければ分からない。すなわち、日月照らし風が吹く。もう愚かな支配及び宇宙自然生命黄泉の秩序を知らないあなた方の自分勝手にはまかせることが出来ない。一切大衆のためである。向かわんとすれば疑い、まかせれば背く、そのような人間にはそれなりのサンクションが待っている。これが地獄である。地獄より自ら出づることはできない。ただ善業の因縁より出ることができる。宇宙自然生命黄泉の約束である。あなたがたは十分に疑い、そして背いた。宇宙自然生命黄泉に勝てると思っていたのか。それを自由と思ったか。本来価値を愚弄無視否定破壊した。暴走族が天下を取った。そのように振る舞った。破廉恥衆愚テレビ芸能界自然犯及び唯自己利益追求経済界財界社会犯、覚悟あるべし。本来の限りなく人間的な慈愛自由が目覚めた。暴力及び詐欺的自由を一掃する。
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2006年10月10日
何いうことなく
禅は中国に始まった。時の権力の迫害を避けて山に隠れた。言質を怖れて文字に記すことはなかった。不立文字不言実行となった。それがやがて日本に伝えられた。今中国に禅はない。インドに仏法はない。あるのは日本に於いてのみである。その間日本に於いても禅の命脈はただ一筋の流れで保たれた。それが無難禅師から正受老人、そして白隠禅師のそれだった。さて、白隠禅師、五百年間傑出といわれた。そのエピソードに、ある頃、寺の前に娘がいた。気だてのよい娘だった。その娘に子ができた。あらぬことか相手は白隠ということになった。その子は白隠に預けられた。白隠は何を言うでもなくその子をあやした。しばらくしていたたまれなくなったのであろう、その娘が真実を話した。白隠は何いうでもなくその子を引き渡した。白隠、晩年のことであったであろう。
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2006年10月09日
松風
我思ふ故に我あり真実はこの世の一切我こそあらめ
この道を得知らずたわごと多かるを仏子と称す笑止千万
日月もこの世の春を祝むとす松風吹かばなどか肌寒む
君がため幾度くだる蒼竜の窟火をとりて帰り来らむ神のごとしか
原点は 原始心母かエコーズか 冷静に聴く 十九の春
三重苦 ヘレンケラーのそれよりも 超ゆるに難し こころに嵐
西洋の 腐敗伝染 病あり やまとも それに 侵されたるを 神仏自然 治癒ほどこさむ
この世をば とりもどさむと 春のくる 日月照らし 風の吹く
本末の 転倒身勝手 蔓延るを もはやゆるさず 悪は去るべし
善悪の 何であるかを 知らずして なお善悪無しと 笑わすでない
宿王華 咲けばはじめて 明らむる 何をもってか 否定せん
逆らうは 自由なりとぞ 思えども 通るに通らぬ 無門の門
いつまでも 通ると思うな 分際の 黄泉は動ける 天命くだる
大象はこれより世界を闊歩せん踏みつぶされるも邪魔恨む無し
普賢随順眼根懺悔 世の腐敗を一掃する
松風の吹かば日月照らすらむ この道 ほかに とるべくなけん
自然にも 宇宙にも 黄泉にても あるは 本来秩序なり 蔓延る自由 滅亡必定 履き違えたり
時は経り すべての道はローマに通ず 今この道は 何処に通ぜん
見える世界と見えない世界 見えない世界の制覇 如何が真実
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2006年10月08日
君がため
君がため 幸せ日々を 作らんとす 我が時 君と 共に過ごさん
我が人生 日月照らし 風の吹く 十指渦まく 夢実現す
この世をば 我が鏡と気づく頃 空は青空白い雲 瀬戸の島々 東に朝日 西に満月
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2006年10月07日
かつての読書日記より
[大拙]
悟りは悟ったもののみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格に言えば、他の何人の証認をも必要としない。それはそれ自体で充足している。だから、悟りを相手にどんな懐疑が批判してみたところでどうすることもできないものである。
[山田無文]
風規を露さず。風規は、風格とか規則とか常識の世界であるが、その常識の世界にはかかわらずして、もう一つ高いところの真理を、そのまま丸出しにして示しておられるのである。皆に分かるようにというこだわりは要らん。分かっても分からいでも、絶対のものをここに提綴しておるのである。
鍛冶屋が刀を鍛えるとき、焼いては叩き叩いては焼き、そして水の中にいれて製錬するように。
上求菩提下化衆生。上はどこまでも高い真理を求め、下はどこまでも民衆に奉仕してゆくのが菩薩道であるが、しばらくその下化衆生は第二において、まず向上である。どこまでも精神の高さを究めていく、それが修行というものである。怒髪天を衝く勢いで。一を聞いて十を知るような賢い男であって初めて学問を授けることができる。一を示したらすぐに三がわかるような気のきいた人間でないと、教育をしてやる価値はない。西に行こうが東に行こうが、赤いと思われようが白いと思われようが、その時その時に自由自在にはたらいていくことができる。殺活自在。相手も自分も殺活自在。与えることも奪うことも自由自在。逆順縦横。不識:本来の面目は不可得、不可思議、不可称量。
廓然無聖:真諦・俗諦の雲もない。第一義もない。当然、第二義、第三義といった分別、対立もない。カラ−ッとして、秋晴れの空のように、雲ひとつない。
維摩経に言う:「道法を捨てずして凡夫の事をあらわす。」
始終戦争の絶えんような国では法は伝わらん。
不立文字、直指人心、見性成仏。
三大阿僧祇劫の難行苦行をしなくてもよろしい。本心が分かればただちに成仏である。達磨の宗旨というものは、そういう心と心がじかにぶつかって行くものだ。他に手段はないのだと分かるならば、仏に縛られることもない。法に縛られることもない。教典に縛られることもない。宗派に縛られることもない。文字、理屈に縛られることもない。学問がなくても、身分がなくても、教養がなくても、だれでも仏になれるというのだから、これぐらい自由なことはない。達磨宗は真に自由を得て、どんな言葉にもついて回らんのである。達磨は空手にして来たって、空手にして人を度する。学人は空手にしてぶつかり、空手にして悟る。悟ったというものさえない。
口に出しては尋ねなかった知らんが、武帝、心には確かにそういう驕りがあったに違いない。
色即是空、空即是色。不二の妙道(聖諦第一義)。真諦門は有にとらわれてはならん。俗諦門は無にとらわれてはならん。聖諦にとらわれたらもはや聖諦ではない。研究をすれば、聖諦第一義まではわかる。だが、廓然無聖はわからん。
精魂:悟りの開けん心。開ければ仏性。
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羅刹の夢
今宵は中秋の名月であった。仏所でいいお月見があった。ところで、これよりあらゆる化けの皮がはがれる。偽善が暴かれる。思い違い勘違いが裁かれる。基準は何か。敢えて申せば、仏子といえどもゆるしはしない。何故か。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本の精神が復活したからである。頼朝、家康、それぞれの天下の取り方があった。新しい時代には、新しい天下の取り方がある。しかし、何時の世も、日月照らし風の吹く。それが証明である。これを自覚することなくして、大口はたたけぬ。よもや広島の風速60mの台風を忘れてはいまい。その翌年には、なだめられた台風もあった。このような天下の取り方もある。刃向かうか。畏れを知らぬも甚だしかろう。枝葉末節相手にしない。申し訳ないが格が異なる。代々正統大和宿王華復活自覚である。羅刹の夢か。ペリー来航以降、それに乗じて、粗末にしたものがある。代々のやまとのこころを知らなすぎた。江戸無血開城の禅譲も裏切った。下級精神の故である。その後、馬鹿な第二次世界大戦もあった。バブルの崩壊もあった。今に同じ支配階級が支配している。そろそろ懺悔してはいかがか。今、蔓延りしは何か。テレビ芸能界及び経済界財閥、恥も得知らぬか。愚か無恥野蛮が台頭しすぎた。淘汰されてしかるべきであろう。責任は取って貰う。黄泉の名において。湾内の海が汚れている。先ずこの海をきれいにしなくてはならぬ。いつでも議論勝負応答する。反論あらばするがいい。祖父及び尊祖父六代の精神が純熟した。小林秀雄及び現代財界経済界の卑怯は持ち合わせていない。
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2006年10月06日
救いの形
他を顧みない自分がいた
自分勝手な自分がいた
所詮この世に生まれた意味は何であったか
幸せの条件とは何であったか
仕える身として生まれている
他のために生きる身として生まれている
やがて自分のためになる
他山の石 情けは人のためならず
それも花と咲き実となるように
やがて自分に帰ってくる
無功徳 無効用
何もありはしない
何もなくてすべてある
此処に気づく頃となった
先ずは自分のためにしないことだ
一切他のためにすることだ
他が救われた時 自分も救われている
自分のためにするは 困苦である
他のためにするは 安楽である
不思議と 気持ちは そのように 落ち着く
本来何もありはしない
あるのは ただ 魂の遍歴
やがて 魂は どこへ帰るのだろう
大宇宙へ帰るのだね
その時に 受容されるかどうか
一大事とは これ である
見えない世界に 秩序あり
見えない世界に 守護されるかどうか
護念するものは護念される
何を護念するのか
本来何もないところまで辿り着いた
身も心も 軽くなった
身の処し方も心の持ち方も分かった
生きる目的も分かった
世間のどのような目的よりも高次な目的がある
二千年来秘められたものがある
それが 庶民レベルに開示された
二十一世紀の約束だった
世間はまだ知らない
知らなくても 真実である
善因善果 悪因悪果
悪は淘汰される 地獄である
これより 出づる道 がある
信じるしかないではないか
すでに 事実として 経験してしまったからには
禍福はあざなえる縄のごとし 世間では
ここに千尋の谷がある 一本の丸木橋がかかっている
渡るには勇気を要す
我の力で渡るのではない
神仏祖先の守護がある 人々の願いと祈りがある
渡れば彼岸 塞翁が馬ではなくなる 福ばかりとなる
暗きから明るきへ 明るきから暗きへ 暗きから明るきへ ・・・・・
そして やがて 明るきから明るきへ
これが 仏性である だれもがその種を持っている
持っていても 花として咲くかどうか
悪の華は咲かせないように
試練を要す 火裏蓮の花
開花は自覚を要す宿王華
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2006年10月05日
恐竜進化の失敗とその理由
さて、寝た子は起きている。とても腹を空かせている。どういうことか。誰も知らなかったことがある。今も知らない方々がほとんどである。しかし、昔より、常に仏は存在していた。宇宙の王である。恐竜の時代にもそれは存在した。恐竜は恐竜で進化した。そしてやがて滅んだ。何故であったか。分を過ぎたからである。チラノザウルスが現れてから滅びへと向かったであろう。草食の時代は平穏な世界であったであろう。昆虫の世界で蜘蛛は嫌われる。何故か。昆虫を食するからである。恐竜が滅んだのは、ほ乳類の中にそれなりの力を持った者が現れたのだろうと思っていた。そうではないようだ。恐らく、恐竜の中に知性と力を持つ存在が現れた。力とは何であったか。滅ぼす力であった。その力が選択したのである。恐竜はもう駄目だと。それで恐竜は滅んだ。恐竜を滅ぼしたのは恐竜だった。ほ乳類は赤ちゃんのようで何の力もなかったであろう。時代をほ乳類に譲った。そしてほ乳類の進化が始まった。やがて人類となった。しかし人類も又愚かな道を進んでいる。野蛮であること畜生にも劣る。それでいて自分の罪には気づかない。むしろ正しいと思っている。採点するものがいない。テストで何点の自分であったか思い出すがいい。それほど自信があってのことか。自分が正しいと自覚あってのことか。大人になるとそれも忘れる。生まれると忘れているものがある。何であるか。前世である。前世の自分がどのようであったか。この世に何故生まれたのか。考えたこともあるまい。さて、恐竜は恐竜が滅ぼした。パラレルに考えれば、人類を滅ぼすのは人類である。そうした力が常々ある。その力の行使はどのようにして得られるか。自覚である。しかし、その力を行使するかしないかはその意思による。ここをインドの釈迦はスッタニパータに記録がある。すなわち、雨よ降りたければ降れ。この意味が理解できるか。そろそろ年貢の納め時となっている。思い違い勘違いが裁かれる。そういう時を迎えた。黄泉の意思である。悪が蔓延りすぎた。知恵を何に使っているのか。自分勝手で他を顧みない。一切種智慧。生まれながらの差がある。謙虚にならないか。敬虔にならないか。差があっていい。それぞれの魂の階梯である。理解するものは他を存在として責めはしない。自分も過去に通ってきた道である。しかしその罪を責める。罪とは宇宙自然生命黄泉の秩序に反することである。つまり身勝手である。ゆるされた分際がある。それを無視した。さすれば罪である。言語道断、切り捨てごめんである。昔武士は精神修養があった。よって武士であった。今の世のリーダーにそれがあるか。ビジネスに目のくらんだ僧侶にそれがあるか。切り捨てごめんも進化した。無血切り捨てごめんである。救うのは仏さんの御役である。仏さんを探してはいかがか。一切大衆を救うことに決めたと仰っておられる。どういうことか。必ず救われる。仏さん以外に救う力はない。昔より世間虚仮、唯佛是真。仏は何時の世も姿を変えて実在している。身心清浄及び正直にしてその姿を見る。神力はある。
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存在の悲しみを通って
愛とは何だったんだろうね。本来無一物。何もありはしない。すなわちLove。己を壊すほどに人を愛す。それほどのものだった。これも試練だね。通らねばならない。そして乗り越える。こうして魂は進化する。やがてすべてを知る時が来る。本来何もない。そしてすべてがある。それは何か。大宇宙自然生命黄泉である。此処に至って無傷害を知る。すべてをゆるせる時が来る。存在の悲しみを受容する。過去を背負った身である。これを解決しなければならない。そのために生まれてきている。そして未来へつなげる。生命進化の階梯である。魂の遍歴である。ゆるすときゆるされる。ゆるされるときゆるすことができる。そのためには時を要する。思い違い勘違いの世の中である。真実を知らずに知ったようなことをいう。それもいい。それぞれの魂の階梯である。
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2006年10月04日
同世代として言うべき事
学生の頃、憲法の教科書というと佐藤幸司先生だったろうか。まだ若い裡に教科書を出版された。その時に、同世代として言うべき事があるとしておられた。そうしたものだろうと思われる。言論の自由がある。表現の自由がある。言うべき事がある。言うべきである。既にインターネット世界は完成している。その実体は秘密に近い。しかし、誰にも開かれている。新しい民主主義の時代の黎明である。言葉にはロゴスがある。神仏と邂逅合流し、神仏に受容祝福された言葉である。これは大宇宙に通じる。そして実現する。神仏の守護するところである。ここに至るに道がある。身心清浄及び正直を以て条件とする。二千年来秘められていた人類の夢が実現した。新しい時代である。このノアの箱船に乗るのかどうか。個々の存在が試されている。仏説がある。権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅びる。ただ、法力あるのみ。権力からの克服は市民革命だった。武力からの克服は原爆だった。今、金力からの克服が為されている。金力はカルバン以降の資本主義に過ぎない。その基礎はインカの金であった。貨幣はこの世で唯一腐敗せず増殖するとされる。この貨幣による支配であった。今、その限界が見えてきた。やがて金力も克服される。本来の価値でなかったことがわかる。そして本来の価値とは何であったか。法力である。法力とは何か。大宇宙自然生命黄泉に受容祝福されて守護され、思いが実現する力である。これが代々伝えられていた。そしてインドの釈迦入滅後、2750年後に真実の仏法が現れることになっていた。これを以て人類は救われるということになっていた。それも実現している。まだほとんどの人がそれを知らない。むしろ疑う。無理もない。真実が現れるまでは。しかし真実が顕され実証された。真実に対して敬虔謙虚を取り戻さねばなるまい。人類として生存存続するための条件である。ある意味で大いなるプログラムである。反することは出来ない。逆らうことも出来ない。大宇宙の真理である。淘汰されるだけである。旧約聖書の目的は庶民の解放であった。庶民とは善良で健全な庶民である。これが虐げられていた。法華経に伝えられていたのは如来と一切種智慧であった。そしてこれらの復活開花を以て宿王華開花である。新しい時代の日が昇った。日が昇れば夜の星の輝きは見えない。日出づる国、古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本の新しい夜明けである。本来古来日本の本来価値をもって世界への新しい船出である。宝石の如く秘せられていたこの世の幸せの鍵は日本にある。黄金の國ジパング。21世紀の約束である。やまとごころは滅びはしない。