2007年09月20日

扶桑

父は知っていた。祖父も知っていた。私も知ってしまった。何を知ったのか。古来大和の秘密君が代である。黄泉の計画だったか。扶桑、その意味如何。応神天皇は何故祀られたか。大陸より諸技術を導入した。因って、民は栄えた。古来大和国家復興。一大事顕現。四百年来の西洋重商主義は腐敗として帰結した。未来即ち生命及び環境を破壊した。明治以降、日本もそれに乗じた。面舵一杯である。本来清浄日本に帰る。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本源氏魂復活。戦後或いはペリー来航に乗じ本来日本の諸価値を無視愚弄破壊し、古来大和日本純粋精神を裏切り、西洋かぶれ重商主義衆愚卑怯怯懦無恥蒙昧自分勝手唯自己利益追求下級精神魑魅魍魎にもはや用はない。何を餌食にし、何を裏切ったか。問われる時を迎えた。

 

「『易經講話二』 公田連太郎述 明徳出版社 二三二頁」 と 「道 仏法」
「今日改革刷新した後、世の中の状態は如何に成り行くべきかといふ事を、今後の数年或は十数年の後までも考慮して、然る後に適当なる改革の法を確立して、断行すべきである、といふのは、すべて物が終るときは復た始まるといふことがあるのであり、それが天の運行の状態であるからである。天の運行は、始があれば必ず終があり、終があれば復た始がある。それと同じく、世の中の情態も、治まることがあれば必ず乱れることがあり、乱れることがあれば必ず復た治まるのである。それが世の中の情態であり、天の運行の情態である。それ故に、蠱を治めるにも、前の終、即ち今の蠱を治めるにも、前の終、即ち今の蠱の乱れに至ったところの原因来歴を究め、今の後、即ち此後如何なる情態に成り行くべきかといふ事を考慮し、即ち物事の終と始とを熟慮して、適当なる方針を定めるべきである。」

さて、情態は情態であり、状態ではない。刑法が人間的であることの所以である。そして、この度、天体の運行は、地球誕生以来、或いはそれ以前から、希有な時代である。こうしたときの計は、人類の存亡にかかっているとも言える。これらの事象に世界は気づいている。日本は、その歴史的純粋性のある国として、期待されている。日本が、今、日本であることの使命でもある。と、思われる。為すべき事は何か。何を選択するべきか。すでに、人類は漂流して久しい。制度はだれのためのものか。安全は何故に保障されるのか。人類は人類の秋を迎え、冬をしのごうとしているのかも知れない。それが、この度の冬を越えることで、果たされるのであろうか。正念場である。とか思われる。易に於いて地図は河図であった。来年の春はきっと春ですね。景色も東海道五十三次のような、春の空と雲ですね。呉では小屋浦の辺りでそのような景色でした。天応の山は箱根の山のようであります。坂は大阪かな。大阪、坂なし、山梨、山有り。今日も瀬戸の海は穏やかです。

「香風時に来たってしぼめる華を吹き去ってさらに新しきものをふらす」「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず 我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず 方便力を以ての故に 滅不滅ありと現ず 余国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば 我復彼の中に於て 為に無上の法を説く 汝等此れを聞かずして 但我滅度すと謂えり 我諸の衆生を見れば 苦海に没在せり故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ 其の心恋慕するに因って 乃ち出でて為に法を説く 神通力是の如し 阿僧祇劫に於て 常に霊鷲山 及び余の諸の住処にあり 衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し 宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し 曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず 我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて 憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る 是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て 阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず 諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 則ち皆我が身 此にあって法を説くと見る 或時は此の衆の為に 仏寿無量なりと説く久しくあって乃し仏を見たてまつる者には 為に仏には値い難しと説く我が智力是の如し 慧光照すこと無量に 寿命無数劫 久しく業を修して得る所なり 汝等智あらん者 此に於て疑を生ずることなかれ 当に断じて永く尽きしむべし 仏語は実にして虚しからず 医の善き方便をもって 狂子を治せんが為の故に 実には在れども而も死すというに 能く虚妄を説くものなきが如く 我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり 凡夫の顛倒せるを為て 実には在れども而も滅すと言う常に我を見るを以ての故に 而も恣の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん 我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って 度すべき所に随って 為に種々の法を説く 毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」 (法華経)

「本を読んだり人から聞いたり、そのように他所からはいってきたものは大したものではないという。「自己の胸襟より流出して蓋天蓋地なるべし」・・・はたからはいってきたのでなしに自分の五臓六腑、いわゆる丹田・気海でこれが爆発し、宇宙的に拡大していったものでないと、無限のいわゆる摩尼珠にはならないという。「縁によりて得る者は始終成壊す」・・・暑さもいつまでも暑いわけではなく、過ぎればやがて涼しくなり、寒さも次第に暖かくなる。縁というものはしょっちゅう変わってくるものでありますからあてにならない。しかし、お互いこちらがだんだんと暖めていって態勢を整えてゆくと、一触即発、ツイッと触れただけで爆発するようになる。それが整っていないと、いくらスイッチを入れても映ってこない。」(提唱『無門関』 苧坂光龍(述) 大蔵出版)http://www.pc-kure.net/GSWL/doc/ekikyo_dou_buppou.html

何を迷っていたのだろうね。これほどの旅をしたものがあっただろうか。私は何を背負っていたのだろう。しかし未来は明るい。私は21世紀の約束心の大地を切り開いた。前人未踏である。経験が違う。何もかも失ってしまった。その間、悉く騙された。搾取された。餌食にされた。それ故気づいた。何に気づいたのか。持って生まれた己自身である。それは何であったか。凡そ自信がなかった。無理もない。戦後の故だった。しかし、何時か時は来る。時は来たのである。この世は何であったか。大鏡である。どういう意味か。知ったことではない。いずれにしても自覚した。得た力は何か。容赦しない。外道商人衆愚裏切り者に用はない。主権在民、国民主権。日本国憲法プログラム規定は成就した。全速力前進である。この苦難を乗り越える。時は今である。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経の呪である。至り着いている。どのような艱難辛苦も乗り越えることが出来る。自分を裏切らないことだ。或いは苦悩の英雄ベートーベンの喜びの歌である。私のブログをベートーベンのピアノソナタになぞらえたことがあった。即ち人生そのものである。すでにハンマークラービアは過ぎた。どんな夢も実現できる。ダビンチの夢はすべて成就した。それは彼一人の夢ではなかったことは杉浦民平氏の指摘するところである。即ち爾の時代の夢だった。今何を夢に描くのか。あまりにも寂しくないか。未来は明るい。明るい未来を描こうではないか。人生はその為にある。生まれた意味もそれである。皆、何処に知恵を使ってきたか。何もかも欺罔的となった。責任は巧妙に回避する。利益はピンハネする。それが卑怯怯懦姑息重商主義商人根性である。明治以降日本もそれに染まってしまった。政治も医者もその例外ではない。それで宇宙自然生命黄泉が何時までも黙っていると思ったか。時を待っていたのである。最後の切り札が目覚める時をね。それはジャパンアズナンバーワンの頃に目覚めるはずだった。しかし眠らされていた。なかなか自覚は来なかった。それも黄泉の悪戯であったか。私のブログを精査するが良い。ロゴスとは何かわかるだろう。いずれにしても時は来たのである。すでに犯した罪がある。その重きに従って処断である。処断は黄泉自然生命がする。言い逃れはない。天網恢々疎にして漏らさず。記録はすべて天にある。即ち、天知る地知る人知る我知る。各々首を洗って待つが良い。生きるとはどういう事であったか。この世に生まれた意味は何であったか。もはや容赦ない。新しい時代を切り開く。切り開かねばならない。

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2007年09月19日

時は代わった

生きるとはどういう事だったのだろう。生まれた意味は何だったのか。代々の永き魂の遍歴である。この世にこの身を持って生まれてきた。そして何をするべきだったか。皆、忘れている。それが世間虚仮。何をしても善い結果とならない。所詮腐敗する。それが人間だった。そして過去からの徳も尽きたかのようである。時代は恐怖悪世となった。神仏など信じないことが当然であるかのようだ。何時かこういう時代となると仏は知っていた。故に唯一救われる道を残してくださっていた。それは何か。縁が有れば出逢えることだろう。さて、この世に生まれた人間の特権がある。それは何か。文字である。文字を扱えるのは人間だけである。本来生命は宇宙と連動していた。いつの間にか人間は真実真理をも曲げることが出来ると思った。そうした時代が長かった。そして今である。この世は地獄である。あるいは火宅である。それを知らない。自分の力でどうにかなると思っている。どうにもなりはしない。悪くなるばかりである。それに対して救われる道がある。それは何か。やっと気づき始めたのである。そして私の人生があった。私は大きな仕事をしたと思っている。失った人生と青春は帰ってこない。それも運命であったか。しかし試練に耐えた。あなた方の知るところではない。神仏は誰に微笑んだか。持って生まれた種がある。それが法華経一切種智慧だった。この開花は難しい。しかし開花させることも出来る。あまりにもこうした真実を無視したね。愚弄し破壊したね。黄泉は怒っているよ。しかし黄泉も動けなかった。何故だろうね。知る人ぞ知るである。それで善い。しかし時は代わった。事実である。インテリゲンチャは無神論を以てその指標とする。それでどうなったか。人間として生まれて何をするべきだったか。あの世へ逝けばわかる。この世の人生の草鞋銭は請求される。これが、『無門関』第十五則、「洞山三頓」の中にある「飯袋子、江西湖南、便ち恁麼にし去るか」であり、保臣 『何傷録』「人と生まれては高きも賎しきもせねばならぬものは学問なり。学問せねば吾身に生まれつきたる善あることもえ知らず、まして他の人の徳あるも、なきも、弁へず、また昔を盛んなりとも、今を衰えたりとも知らず、いたずらに五穀を食ひて、前むきて歩むばかりのわざにて、犬猫といはんも同じことなり」だね。私は正しい人生だったと自負している。私の見つけた宝は本物だった。その確認作業に入っている。生まれた時からそうであった。この開発は困難であった。しかし無事成就した。この世は何であったか。目覚めたジュピターのさじ加減である。これを以て黄泉が動く。そして現実に実現する。面白いね。そしていつも見られている。導かれている。そのサインが見えるかな。感じる事が出来るかな。この世に生まれて使命がある。無事それを果たせるか。果たすとどうなるか。美しくやさしい風景が待っている。それがカクネンムショウだよ。即ち、日月照らし、風が吹く。歩々清風である。善かったですね。善い時代の到来です。時は代わりました。これまで勝手した方々はその罪の重きに従って処断です。隠せはしません。すべて記録は天にあります。言い逃れもありません。観念するしかないのです。

安らけく この道確か 見つけ居り 誰か何時しか 共に歩まむ

先仁の お陰の故か 安らかな 道の確かさ 宝なりけり

神仏は この世にいます しかれども それを得知らず 不幸積みゆく

真実の 富は何処に あらせしか お金に非ず 権力でもなし

幸せは 確かなくらし ここにあり 神仏受容 祝福となる

永遠の 愛を知る頃 時の来て やさしき大和 国家復活

それぞれの 試練のありて 乗り越える 生まれながらの 徳もありなむ

戦後には パンドラの箱 開けたるを 何の花咲く 成敗の頃

大和路は 餓鬼踏みつぶし 道となる 天燈鬼とは 何の生まれぞ

これまで我慢していた。皆、わかっていると思っていた。誰もわかっていなかった。表現の自由である。言わねばならぬ。言わねばわからぬ。そうした時代だったのか。私たちが何者だったのか。そして何を求めるべきだったのか。知るべき時である。今となっては、知らずに苦しんでいる方々が可愛そうとも思える。そうした境界が開ける。求めよ。さらば開かれん。真実とは何だったか。知る人は少ない。人間としての身を持って生まれた時でなければ出来ないことがある。それは過去の清算である。それをせずしてさらに悪を重ねる。どういうことになるか。法則通りである。その法則とは何か。六道輪廻。人間自ら出づること能わず。唯、善業の因縁より出でたり。善は仏さんのところにしかない。何をしているのだ。何をしてきたのか。人生の目的はお金ではない。これは今、言っておかねばならない。何もかも欺罔の世の中である。巧妙に責任を転嫁することにより回避し、あらゆる危険及び負担は現場スタッフに負わせ、自らの利得を図る姑息卑怯怯懦商人根性の天下である。政治も宗教も医者も行政も皆それに染まってしまった。それが知恵と思ったか。これが敗戦ということだったのか。敗戦に乗じて何が蔓延ったか。アメリカの占領政策は成功したようだ。欲得成金畜生道に堕ちた大馬鹿者達の世である。衆愚の世である。昔は公地公民もあった。あなた方はすべて奪った。本望であろう。戦後には何処から鉄くずを引っ張ってきたのか。どれだけの所有者のいない焼け跡に線を引いて土地を奪ったか。その後の支配である。銀行の仮登記担保及び譲渡担保は何だったのか。その因縁を担いで行くがいい。バブルも銀行による土地を媒体とする無目的な重複貸し付けではなかったか。その責任は何処に負わせたか。そして自分たちは立ち直り空前の利益を上げたにも拘わらず、過去の債務者に対しては容赦なく従来のレートで取り立てる。悪魔か。因縁が悪すぎる。そしてあなた方の歴史解釈はあまりにもさもしい。無理もない。あなた方はその種を持ち合わせてはいなかった。大和魂を知らない方々の解釈である。凡そ知れている。テレビ衆愚を見ればわかる。それを喜ぶのを見ればわかる。このままで済むとは思わぬが良い。あの世ではその方の勝手は通らない。本来大和の心は身心清浄正直を以て旨とする。さぞ騙しやすかったことであろう。餌食としたね。本来大和の精神を裏切った者達の世である。あの世及び未来にたっぷりと仇をとられる。真実真理をあまりに愚弄した。知らなかったでは済まされはしない。400年来の貨幣及び重商主義が何ほどのものか。知るべき時が来た。貨幣で天候が左右できるか。思い上がりも此処までである。古来大和秘密顕現、容赦しない。田んぼには稲刈りを待った稲穂がある。その水田には今おたまじゃくしがいる。どういうことだ。誰がしたのだ。ラジオもテレビも人ごとのように報道する。象牙の塔の中にいて身分に安住し、何がわかるというのだ。同罪である。かつて山田無文老師の著作に涙した。今、法華経を読んで涙する。何故涙するかわかるか。あなた方は真実を知らず、知らないことを以て勝手が過ぎた。真実とは何であったか。神仏は実在する。人間が歴代の修行を通って神仏となる。それは下生でもある。見えない世界はある。来世はある。前世はある。持って生まれたものがある。それを認めない方々の世である。あらゆる本来の価値を愚弄無視破壊した。天罰覿面、当然であろう。佛語がわかるか。それを求めたことがあるか。黄泉との通信がある。どのようにしてその力を得るか。今、世界及び地球はどうなっているのか。凡そこの世に生まれた因縁がある。それは何か。救われる道はないのか。有る。それは何か。縁が有れば出逢える。あなた方の支配は失敗したのである。認めるべきである。誰かが言わねばならなかった。古来大和の秘密種である。その為に生まれ温存されていた。黄泉の秘蔵申し子である。黄泉の守護し給うところである。頼朝は伊豆に流されていた。ヒロシマは根絶やしにされていなかった。そしてこの時を待っていたのである。時は満ちた。代々の約束は果たされた。聖徳太子もキリストも馬宿の王子であった。しかし種は種であった。即ち、法華経宿王華一切種智慧の謎である。既に人生と青春は失われていた。それも無駄ではなかった。試練だったのだ。そして生まれた時から力が賦与されていた。信じられない力だった。しかし自覚を要した。故に時を要した。大いなる目的或いは黄泉の計画だったか。或いは賭であったか。その賭に勝利したようである。因って未来は明るい。ところで、女帝天皇とか議論してたけど、どうなったのかな。古来大和は秘密だね。謎だね。誰も解けなかったね。世間一般、まだわかっていないのだろうね。どうでもいいけど。まさかだよね。何を粗末にしたのだろうね。何を思い上がっているのだろうね。本気にさせるのかな。怖いよ。どうでもいいか。しかし時は代わった。

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2007年09月14日

幸せとは

安楽の道は開かれている。救いの道が開かれている。或る先生の下生のお陰である。それまでは暗瞑の世だった。永い魂の遍歴の中で今この時に生まれ合わせている。救われる時である。過去から待っていたその時である。その為にはここまで時代は腐敗しなければならなかった。人間である限り悪の結果となる。善いものも持っている。しかし悪の結果となる。それが人間である。何が善で何が悪かわからなかったからである。それをあわれに思われて、過去からの罪に対してあやまることを残してくださっていた。それが仏だったのだ。それが真実の仏法だった。これまでの教えは、やがて真実の教えが出ることを伝えていた。方便だったのである。方便とは嘘である。嘘というのは結果がない。真実は結果がある。教えに従って実行すればその証明がある。そういう時に入った。過去からの約束だった。魂もここまで進化した。何事も縁次第である。縁がなければ伝わらない。それも言ってみなければわからない。縁とは何だろう。何との縁だろう。過去の眷属との縁である。過去を未来に移す。何を移すのか。過去の眷属との幸せな日々である。何時しか離れ離れとなった。それぞれの縁がある。仇の縁もある。孤独だった。何故だろう。三方原である。何もかも失っていた。ヒロシマは灰燼と化していた。それ故の事だったか。それ以前からの事だった。ペリー来航の故か。それ以前からであろう。幸せとは何だったか。過去の眷属を帰し集めることだった。さて、私たちは生かされている。すべては知らしめんが為である。何を知らしめんとするか。仏の真実である。魂は不滅である。不老不死である。不生である。知らないことを以て否定する。自分にとって都合が悪いからである。知っても知らなくても真実は真実である。畏れを知らない。知らしめられたいのだろうか。仏さんのことをさせて貰えば善い。守護がある。見えない世界はある。見えない世界のお手配はある。ところで、私のブログの重要な部分が削られた。何故か。或る現場スタッフの仕事をしていて現代経済社会システムに失望したからである。 さて、禅者の一挙手一投足行住坐臥が禅である。禅の目的は何か。一箇半箇を打ち出すことである。禅は日本にしかない。半箇でよかった。しかし、時代は一箇を必要としたらしい。相応の試練がある。無事禅譲自覚成就。家伝直伝秘伝螺鈿の槍は折られたが錆びてはいない。君が代の世はその色が代わった。一休髑髏の世となった。王の眼、王の耳は何処にあるか。閨房でも王を呪ってはならない。小鳥がそれを運ぶから。どういう意味か。知られた時が年貢の納め時である。新しい時代である。黄泉の大戦争は終結した。権力ではない。武力でもない。金力でもなかった。法力である。新しい時代が切り開かれた。21世紀の約束心の大地である。これを切り開くために生まれた魂もある。その試練もあった。それに打ち勝っている。この度の関ヶ原は何処であったか。黄泉であった。厭離穢土。身心清浄、大和の心を取り戻す。これが大義名分である。経済至上主義衆愚イエロー・モンキーの時代は終わった。覚悟有るべし。

喧噪の世に密かに咲いている名もなく花に静かなる雨

さて、平和な世の中である。第二次世界大戦の犠牲の結果である。日本のために純粋に戦った精神の徳も尽きようとしているのか。その後、占領政策に乗じて何が蔓延ったか。それを繁栄と錯誤している。ある芸能歌手が中国に招かれて、歌に国境はないとか言った。阿部首相もそれを評価した。そうだろうか。国家なくして自由はない。現在国際秩序の中で日本はどういう立場か。国連憲章の敵国規定は削られているか。どこまでも敗戦国である。沖縄の米軍基地の問題もそうである。世界の中の日本が重要な地位を占めるとはどういう事か。アメリカに対して国家レベルで民間と同様の議論が出来る立場であるか。法学部プロパーからすれば学校教育学部の憲法論は憲法論ではない。憲法は法律というより歴史である。アメリカを敵国にすればアメリカはどうするか。何時でもミサイルを撃ってくる。そういう国である。もう一度戦争して勝たねば、大きな事は言えない。そのつもりなのか。戦争は放棄している。何を幼稚な議論を野放しにしているのだろう。テレビ衆愚の故か。亡国論も甚だしい。社会的アウトサイダーの独り言である。

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2006年05月16日

新たな出発

気づいてみると苦節芥を払うこと三十年だった。失ったものは大きかった。得たものも大きかった。 失ったものに比例して得たものがあったというべきか。かつての轍は踏まない。犬死にするわけにはいかない。本来の自分に戻るしかない。 自分以外に自分はあり得ない。本来の自分とは何か。所詮自分探しの旅である。思い煩う事なかれ。思い煩いすぎた。 本来思い煩うことなど何もない。本来無一物である。人生は何のためにあるのか。ただ楽しむためにあるのか。楽しみとは何か。 白楽天がいた。太公望がいた。怠惰或いは怠慢だったのだろうか。そうでもない。このようにして探すしかなかった。何を探していたのか。 夢は何であったのか。誰も教えてはくれなかった。自分で見つけるしかなかった。振り返れば地獄だった。地獄は内面であった。 およそ想像を絶する嵐であった。その嵐は長かった。ヨブ記のようであった。今生での救いはないのかと思った。 しかし真実は良くできたものである。耐えられない試練はないという。すべては試練だったのか。それにしては過酷であった。 運命と言うには残酷であった。失われたものが大きすぎた。しかし今思えばこの道を通るしかなかった。やがていつか至る。何処へか。 自分の求めていた世界へである。その究極は何であったか。釈迦、キリスト、ソクラテス、孔子の世界だった。彼ら何するものぞ。 彼らの言いたかったことを知りたかったのだろう。そのような大それたことを思っていたのであろう。その代償は大きかった。 しかし何時かは至る。その導きもある。それが真実だった。経験を通してしか至れない。江戸への道も一歩からである。 現実は黄泉の反射に過ぎない。ある存在の魂と連動している。ある存在とは何か。コギトエルゴスム。思うということはどういうことか。 思いが実現するレベルがある。悟る前からあり、それらは知らしめんがためにである。何を知らしめんとするか。自己である。自分である。 自分とは何か。持って生まれた種がある。教育で教えることができるのは下位の種に対してである。誰も知らない上位の種がある。 この花を咲かせることは難しい。自分で咲くしかない。咲いてみればわかる。自分がわかる。 醜いアヒルの子であったことも富士がどうして高いかもわかる。富士が武士道の象徴である。すなわち大和魂である。 武士でないものに富士はわからない。大和魂はわからない。わからぬものたちが愚弄する。咲いてみなければわからない。 咲くまでは地獄である。コノハナサクヤヒメである。このようなことを言っても無意味かも知れぬ。 しかし誰かの一里塚となるのかも知れない。そう思って書いている。あらゆる解釈が不毛である。あらゆる解釈が気に入らなかった。 世間虚仮。それでも世間は自己主張する。間違っている。なのに正当化する。あはれである。そして傷つくのはいつも自分だった。 それが醜いアヒルの子の実体であった。しかし目覚めると世界が逆転する。その時までの試練である。もはや敵はいない。不思善不思悪。 もはや過去は振り返らぬ。目覚めることで一つの清算である。これより新たな出発である。もはや惑わされはしない。負けることもない。 長い青春であった。最長不倒距離かも知れぬ。刃向かうものには容赦ない。時は流れた。武器も変わった。 見えない世界での大戦争の勝利者は誰か。先駆である。一番槍である。螺鈿の槍である。後に続くものは続くが良い。 無視するものは無視するが良い。それぞれの問題である。呉湾は第二溝渠である。雲は龍に従う。広島城は鯉城である。 広島は安芸の國である。國とは大地と人口を戈で護り囲いをなしたるものである。その中で民は豊穣を楽しむ。衆愚の腐敗ではない。 日は昇った。はじめに言葉ありき。真実の言葉はロゴスである。ロゴスは画餅ではない。ロゴスは黄泉が助力実現する。 学者諸氏の弄ぶ概念ではない。天中天。天王仏。空王仏。威音王仏。腐敗した衆愚は顔を洗って出直すが良い。如是相。お里が知れている。 個人情報保護法を以てしても隠せはしない。すべて顔に書いてある。目の輝きが通行手形である。 目の輝きは過ぎこし日々の思念と行為との結実であり人生の証明である。衆愚の支配勝手は終わらねばならぬ。詐欺脅迫暴力など言語道断。 一切言い逃れはない。言葉の真実は言葉の表層ではない。見抜くべし。声の音色を聞けばわかる。風の音にぞ驚かれぬるである。 磨かれ続ける代々の声がある。
 
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ある存在が自覚を果たしたことの意味
さて日本経済が上向いてきたのは何故か。改革の故か。何故改革しなければならなくなったのか。すべては知らしめんがためであった。 ある存在の自覚を促すためであった。歴史の流れである。その意味では予定されていたことだ。 それを自分たちの改革の成果であると思うは何たることか。どれだけの力があって言っているのか。 経済が上向き始めたのはその流れの中である存在が自覚を果たしたからではなかったか。結局そのレベルが知れてるね。日本は大丈夫だよ。 あなた方の故ではない。あなた方は風見鶏に過ぎない。風はどこから吹いてくるか。風はどこへ向けて吹くのか。誰も知らない。 事実としての腐敗がある。問題はこの腐敗をどうするかである。選挙にしても今に金権選挙ではないか。地方に不似合いな道路がある。 確かにおかしな空間に突然立派な道路ができていたりする。できた道路が重要なのではない。 その時その場所に仕事があったということが重要である。 すなわち労働力を売って生きるしかないものにとってその時その場所には生活があったのである。今地方の商店街はシャッター通りとなった。 庶民の生活が消えている。一票の格差を言う。その一票は人間の頭数である。政治は何のためにあるのか。 人々の生活=くらしのためにある。 人間だけで生きていくことができるか。消費地に過ぎない都会だけで生きてゆけるのか。 生産者としての田舎がなければ米もできない。 一票の格差を言うとき人間の頭数しか考えない。田畑にも票を割り振ってはいかがか。 わずかなレートで良い。 田畑に貢献する竹木虫土にも割り振ってみると良い。人間のエゴ。思い違いの故の腐敗であろう。 自分の不利益となればあらゆる他の犠牲及び迷惑を顧みない。その基準は唯一金銭である。悲しいね。金銭地獄の中で蠢いている。 空気がお金で買えるか。風を起こす力があるか。自覚を果たさばささやくだけで歩々清風である。十六の頃より探し求めた道である。 芥払うこと三十年。しかし自覚を果たしたとしても辱悪の世界に棲息している。つらいことはつらいね。まだまだ道は遠いか。 周りが幸せになることでその中にいる自分も幸せとなる。一切大衆が救われなければ自分の救いもない。衆生病む故に我病む所以である。 やはり菩薩道しかないか。大乗菩薩道は日本にしかない。善財童子の帰還は浦島太郎であり、本来の自分即ち心身清浄に還ることである。 これを知っているのは日本だけである。だが、しばらくむしろ愚弄されていた。 そしてそれを流布し庶民を惑わすのがテレビ界バラエティ及びドラマ諸氏である。間違っている。その腐敗の増殖は終わらねばならない。 一切大衆を救うことに決めなければならない。一切大衆とは竹木虫土岩石を含む。祖先諸精霊を含む。仏となって初めて仏がわかる。 仏とは五大元素すべてプラスに転じた状態である。邪悪な人間は何をしても無価値である。動くハウルの城は城のゾンビか。 日本の城はゾンビの城ではない。日本の恥を売るべきではない。恥を売って外貨を稼いでどんな結果が待っているか。 そのお金で何をするというのか。さらなる腐敗を招くのみか。野獣メジャーが日本を狙っている。新日本海防論が必要であるのかも知れない。ある存在があるチームを熱烈に応援していた。 その頃そのチームはとても強かった。その後彼の興味がなくなった。そのチームは弱くなった。ある存在とは何か。宇宙のフォーカスである。

posted by 後藤章夫 at 03:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月13日

絶対の自信

絶対の自信って有るだろうか 有る

それは何か 神仏との邂逅とその祝福守護

それはどのようにして手にするのか

どれだけの試練を要するのか

至って知るしかない

何を知るのか 汝自身を知る

汝自身とは何だったか 法華経宿王華一切種智慧

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アウレリウス

「日々考えていることがあなたの精神を作っていく。何故なら魂は思索の色合いに染め上げられてしまうものだから。自己を掘り下げてみよ。そこには善の泉が流れている。掘り続けたまえ。そうすれば尽きることなく湧いてくるだろう。進むべき道がそこに横たわっているのにいつまでも勘ぐっている必要がどこにあるのか。道がはっきり見えるなら意気高らかに前進し、決して引き返すな。道がはっきりと分からないなら優れた助言を仰ぐまでそこで待っているがいい。 善い人間とはいかにあるべきかなどという時間つぶしの議論はもう止めたほうがいい。それより自分がまず善い人間になることだ。誠実になるのに前口上など必要としない。自ずと明かになるものなのだ。本当に誠実な人ならその事実は額に刻まれ、声の調子にも現れるだろう。さながら愛されている人の一瞬の眼差しの中に愛する人への全てが語り尽くされるように。誠実さも一瞬にして瞳から輝き出るはずだ。誠実さや善良さというものは紛れもなく固有の香りを備えていて、近付いた人は否応なくそれを気付かされてしまう。不幸は自分の心の持ちようによって生まれる。」

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2007年09月10日

それぞれの道

色々なことがあって 人生楽しい

時が流れて 水に流して 幸せが残ればいい

それぞれの道だけれど それぞれ何を見つけるか

話せる時が来ると良いね