文章も体を表す。あるいは文章に体が現れる。表現とはそうしたものである。自己を純粋にして自己を奏でる。私の場合心を澄ませると自分で感じるトーンは中原中也とかシャガールとかである。孤独と言ったらこれ以上ない。しかし、最近になってそれが醒めてきた。醒めてくると自分でも清祥なトーンを感じる。これでいいんだと思う。喧騒はやはり良くない。国にも体があって良い。その体はやはり美しくあって良い。日本は古来自然に恵まれた美しい国である。これ以上汚(ケガ)しては申し訳ない。いつもそう感じていた。これからはそう思う。思い続けたいものである。心を開けば、或いは自由を得れば、堰を切ったように言葉が流れ始めると言った人がいた。J.J.ルソーだった。その告白に於いて。さて、言葉はひねり出すものではない。力を入れて考えるものでもない。スピークするものである。塞がれていた心を解き放つ。そうすれ清水のような言葉が流れ始める。言葉もその人の属性である。奏でればよい。作るものではない。それが日本語というのもであろう。概念とか意味とかが日本語ではない。内容など或る意味でどうでもよいのかも知れない。現実は全て未開拓である。自分がそこに種を蒔いて育てて刈り取るべきものである。現代経済界のパラダイムなどの知らないところである。その意味で努力すればそれだけの成果が上がる。今の世の中は違ってる。利益の捉え方が違ってる。一切のやましさがなく、健全世界。それが自然だ。その中で植物は生きている。鳥たちは飛び、餌をとり、子を育てている。あるべき姿。未来の姿。目が輝く。これをビートルズはルーシー・・・・・と表現した。目が輝いていればよい。目が動かなければなお良い。目は心の表現だから。目を見ればわかる。話をすればわかる。わかるということの大切さがある。賓主歴然を本末転倒していないか。わかるということで自己の鐘が鳴り始める。自己の鐘の音はどのような音をしているか。鐘の音にもいろいろある。自分の鳴らしている音が聞こえるか。新しい文学空間。今まではそれは詩だった。これからは・・・・・。明晰。透明。清祥。空気のように。感じることからわかるということへ。知性の時代。日本は本来知性の国だった。軽薄さは芸ではない。面白くない。能は努力の果である。果は自己の属性の開花である。花は秘すべし。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず。」開花するまでは。誰も皆自分の花を咲かせるべきなるのみ也。咲いてわかる。わかれば秘ではない。これが花の秘伝である。さてどのような花を咲かせるか。あるいは咲くか。自己のDNAにどのような種を持っているのか。本来大切なものを粗末にすれば当然その度合いによって罪である。これが一切種智慧であり、歴代の秘密であった。花伝の秘密であった。それだけのことだった。