八万四千の骨節及び細胞がことごとく目を覚ます状態が悟りでしょうか。禅者が墨で文字を書くと何かが違う。顕微鏡で観察すると墨跡が秩序正しく美しい。これは何故でしょうか。おそらく独特の周波数が発せられているのですね。それでそのような人が存在しているだけで意味がある。すなわち空気がなごむ。地の塩というべきでしょうか。あるいはこれを以て一隅を照らす。そうした境涯が開けるのだと思われます。そこが修行ですね。かつてこうしたことがむしろ常識だった。それが日本だった。いつの間にか忘れたね。忘れたのだったら思い出せばいい。職人及び芸術家もこの周波数を開発した存在といえるのでしょうか。そうしたことをあまりにも無視していたのではないですか。そしてこの件に関しては、生まれながらにということもある。魂の遍歴のなせる業ですね。努力の外です。そうしたこともわからないままの教育あるいは親だった。子供の才能は持って生まれたものだけれどそれを開発するにはこうした理解も必要ではないですか。自分にわからないからとあまりにも粗末にしてきた。そして自分のわかる範囲での文化を推進した。その結果はどうでしょうね。だれも納得のゆく状態ではない。何故でしょうか。昔より物語の形でそれは伝えられていた。どうしてクラシックとして伝わっているのでしょうか。見えない力のなせる業ですね。くだらない作品は淘汰されてきた。しかしわからないものたちはそうした評価もできず自分勝手な解釈で自分勝手な文化を現実だと思っている。それでいいのかどうか。あまりにもその愚が蔓延った。テレビの影響は大きすぎる。衆愚がきわまり真実が見えなくなった。しかし種はある。種であるならいつかは芽吹く。神話の世界も真実だったのです。人生は感性で完成すると云っていい。自分のあるべき姿をイメージすることです。本来の自分に戻ることです。本来何もない。何もない自分はどういう自分であるか。強くなければ生きてゆけない。やさしくなければ生きている意味はない。このやさしさだけで生きてゆけるかどうか。生きてゆけるのです。そこを見つけることができるかどうか。禅者のみつけた悟りもそれだった。ダルマ直伝もそれだった。それを伝えるための西来意だったのです。別に来なくてもよかった。風の吹くままだったろうと思われます。鳥のように生きることができる。日々食は与えられている。もしそれがないのなら生きてはゆけない。しかし人間は蓄える。なんのために蓄えるのか。風も水も光もあって生きてゆける。蓄えるから生きてゆけるわけではない。どうしてこのようなことになったのか。殺戮など何故繰り返しているのか。愚かなリーダーが出るとどういうことになるのか。歴史とは何であったのか。大英博物館の所蔵品も殺戮の歴史を物語っている。それでいいのか。禅は赤子のような心にならなければわからない。生きて何を見つけるべきか。未来へ向けて。生きてゆくとはどういうことか。百代の過客として。本来何もない。何もなくてこの世の主人公である。すなわち日月照らし風の吹く。この事実現実を如何せん。宇宙自然生命黄泉に秩序がある。これに受容祝福されることで生きてゆける。これに背けば枯れる。しかしそれに背く。背くが人間の傾向である。しかしその向こうに真実がある。そこへ至る道が仏道だ。かつて日本にはそれがあった。今それは日本にある。もう一度見直すべき道である。いつ見失ったのか。ペリー来航以降のことである。それまで日本は精神において偉大な進化を果たしていた。それを一夜にして失ってしまった。インカが滅んだに等しい。色々な解釈がある。しかし解釈はおのれのレベルを超えることはない。それより上はわからない。わからないなら謙虚であるべきであろう。いつまでも真実を愚弄破壊できない。胡蝶の夢は夢であるならいつかは醒める。神仏を知らないことを以て神仏を愚弄した。その結果が今である。もう一度取り戻すべきは何か。敬虔である。神は実在する。神を見たいのか。それはヨハネの黙示録である。見たくはあるまい。神とは宇宙自然生命黄泉の化体である。宇宙の四大原動力すなわち有無開閉の力を持っている。神の意志は実現する。黄泉がそれに従うからである。これが神話の世界に伝えられていたことだった。神を見たいのか。見たくはあるまい。しかし仏の顔も三度までと決まっている。あまりにも本来の価値を粗末愚弄破壊しすぎた。それぞれおのおのその犯した罪は償わなければならない。勝手が過ぎた。神の力を持ってすれば地球を蹴飛ばすこともできる。恐竜を滅ぼすこともできる。思い上がり勘違いしていないか。人間がどれほどのものか。しかし神は愛を選択する。代々常々そうである。だれもがいつか至る道である。400年毎の節目がある。旧約聖書にそれは秘められていた。今、その時である。千年ごとの節目もある。今、その時である。久遠の節目がある。今、その時である。故に人類進化の飛躍するチャンスである。ここに人類として何を発見し確認するべきか。これより千年あるいは二千年の計がある。眼根懺悔の意味、体験的に理解したものがあるか。すべてが整う境涯がある。解くべき謎は自分である。自分を救うのは自分である。祖先を救うことで自分も救われる。人として生まれて何を探し見つけるべきか。代々の約束がある。人間社会など蟻塚に過ぎない。
さて、今広島市牛田東2丁目のある駐車場にいる。ある仏所で宿直をしての帰りである。午前7時35分。ラジオを聞いていると日本のあり方がいい方向へ舵が切られたように思われる。気づくと西の空に一瞬の虹である。 BGMはかつてレコードよりテープにした原始心母が流れている。クライマックスあたりである。
正午である。今、広島市宇品にいる。青い空と白い雲。穏やかな一日となった。救急車が通過した。ラジオではニュースが流れている。さて、地の塩となることはどういうことだろう。一隅を照らすとは何か。宇宙の周波数に同調すると言っていい。誰もがその力を持っている。しかし誰もそれを知らない。知っても開発することはない。その宇宙の周波数を得てそれを発信し続ける。これが御経読誦でもある。この周波数は宇宙とつながっている。インドの釈迦が暁の明星を見て気づいたのもこうしたことではなかったか。宇宙秘密の力である。これを自覚できるかどうか。そのために修行がある。そのための仏道である。修行がありがたいのではない。仏道がありがたいのではない。修行あるいは仏道はこの秘密開示の方法である。だれもが至ることができる。この世を救うのか救わないのか。自分次第だ。仏が救うのではない。仏はその方法を教える。実行するのは自分である。実行すれば結果が出る。それが真実であるかどうか。問題はそれである。自分との熾烈な戦いが待っている。これを制しない限り、神仏との邂逅はない。神仏に受容され祝福されるのかどうか。至れば至福である。この世の一切を知る。自分がなにものかを知る。宇宙に浮かぶ地球である。地球の一部としての我々である。何を思い上がり勘違いしているのだろう。宇宙及び地球の意志がある。あって当然である。それを感じることもできない。生命にとって宇宙及び地球は親である。子を思う親である。親の気持ちを察してはいかがか。下手な成功が人生だろうか。精神の嵐が治まって、台風一過、清浄な視界が開ける。そうした視界をわすれないためには、時には嵐も必要なのだろうか。だれもが幸せになれる。この世に生まれた意味がある。みずから地獄に赴いている。地獄より抜け出せない。あらゆることが意味を持っている。すべてを知るために。樹木が育つには光と水と養分が必要である。光とは何か。神である。水とは何か。法である。養分とは何か。経験であろう。人間も同じだ。これまで何を思念し何を行為してきたか。それが問われている。今の自分は過去の自分の結果である。今の自分は未来の自分の原因である。どのように光を浴びるのか。どのように水を与えられるのか。縁次第といえる。神仏は子としての人間の幸せを祈っている。殺戮などせよとは云っていない。この世は鏡である。その鏡に映った自分の姿は何か。この身がそのまま地球であり宇宙である。未来であり過去である。祖先であり子孫である。種であり実であり花である。今、どのように咲いているのか。申し訳ないと思わないか。何をしているのか。人間の姿をしている。その意味では平等である。しかし、持って生まれた種は千差万別である。恐竜の時代にもチラノザウルスが現れて滅亡の道を進んだ。人類だって同じである。色即是空、空即是色。自分が色であり空である。過去であり未来である。未来を破壊する勝手なことができると思っているのか。それほど愚かであるのか。本来の価値を見失ってしまった。下手な成功に群がっている。さて見つけたこの周波数を開発しなければならないね。新しい時代の武器でもある。地球と人類の未来と平和のために。
午後三時三十分 広島市西区のあるガストにいる。さて、この世に生まれた意味は理解した。これ以上ないことを見聞した。その他のことは過去にすでに経験していたのであろう。この世の宿題は果たしたように思う。因ってこの世に未練はない。自然があって、それに受容祝福されることがどういうことであったか。すなわち日月照らし風が吹く。亦、親鸞の云う仏は自分のために法を説くとする意味は何であったか。本来無一物。何もありはしない。魂のほかには。この魂の遍歴の一こまとしての人生である。自然があってそれに受容祝福されて生きることができるならどんなに幸せであろう。しかし世間の喧噪の渦はどうか。何故か。真実を知らずに右往左往している。何を言っても聞く耳はない。自分は正しいと思っている。大間違いの愚かさに気づくことはない。何故生まれてきたのかその意味を問うこともない。地獄の底で浮沈している。自分で出ることはない。どんなに成功したように見えてもその心は地獄である。さて、この世の宿題を果たすと、この世に未練はない。来世に再びこの世に生まれて同じ苦しみを味わおうとは思わない。魂は最後の試練に打ち勝った。それには時を要した。今世では十九の春より長い旅だった。少なくとも三十年は経過した。前世ではさらに苦しいところを通って来たのだったろう。だれもが通らねばならないのかも知れぬ。いつかは。しかし乗り越えることができた。見えるパノラマが違っている。はるか見渡すばかりである。云ったことは現実化する。私を傷つけるものがあれば黄泉が成敗する。思えば昔よりそうだった。私が悪をなせば、当然私に帰ってくる。自分に帰ることもある。周りに帰ることもある。しかしこれに気づくことはなかった。そのようなことは感じてはいた。しかし自ら認めることはなかった。そのようなばかげたことがあるものかと思っていた。しかしいつかは気づくのだった。自覚するときが来るのであった。歴史も現実もすべては一切を知るためにある。それは何であったか。ソクラテスの汝自身を知れということではなかったか。パスカルは人間は考える葦である、小さな葦であるがその葦を通して宇宙を見ると云ったそれではなかったか。デカルトは我思う故に我ありだった。それぞれの魂に階梯がある。今生でどれだけ歩を進めることができるだろう。時を無駄にしてはいないか。すでに、腹は立たなくなった。公憤もなくなりつつある。ニルバーナであろうか。悲しいと云えばこれほど悲しい人生はなかった。楽しいと云えばこれほど楽しい人生はない。これからの人生である。しかしかの悲しい人生をもう一度繰り返したくはない。あまりにも悲しかったからである。それも試練だったのだと思う。私は乗り越えた。これから多くの方々が克服するべき道は開いた。何の道であるか。知る人は知っていると思う。今更藤村のごとき小説は書けない。この世はあまりにも生きるに価しない。解決なくしては。解決とは何か。過去である。過去は祖先である。祖先は自分である。過去の解決は自分の解決である。そして未来がある。未来の種は今である。今を解決する。自分を解決する。そうすることで過去と未来がつながる。この解決を得たならば、人生は生くるに価する。それなくしては一切無価値である。これを以て、世間虚仮、唯仏是真とは云うべきか。見るべきものは見た。聞くべきことは聞いた。さて、これからどう生きるか。究極の夢とは何であったか。それは神仏と邂逅しその受容祝福を得ることではなかったか。それを得るために魂は遍歴していたのか。今生でそれを得る方法は何か。一切を仏の方に投げ入れることではなかったか。命までも。精神までも。それが飛び込んだ重さで浮かぶ蛙かなではなかったか。あるいは羅刹に身を投げたインドの釈迦の前身ではなかったか。その時どうなったか。羅刹は帝釈天に姿を変えて救ったのではなかったか。真実とはそうしたことである。この世は地獄である。地獄であっていい。地獄に咲け、火裏蓮の花。神仏と我と同根と言えるか。言い切れるか。時代も進化している。いつまで古い夢を追っているのだろう。夢も進化している。すでに時代の鏑矢は放たれた。扇の的は射抜かれている。最終関門は無事通過したようだ。テイク・イット・イージーが開かれた。
午後五時、広島大野にいる。対岸は宮島である。厳島神社の大鳥居が輝いて見える。