●21世紀は魂の時代である。代々魂は進化して、ここまで辿り着いた。魂は生まれたときから、その浄化を目指す。そして、鮭のごとく、生まれた清流を目指して遡上する。人生とは、DNAとしての魂の浄化の過程である。清浄でなければ救われない。
【平成16年11月7日(日)】
禅語に、「私は24時を使いこなす、あなたは24時に使われている」と。昔は、「12時」であったのだろうか。初めに主体性理論を説かれた刑法の先生は団藤先生だった。死刑廃止論のカブラヤとなって論じられたのもそうだった。私の母は言っている。「死刑は非人間的ではないか」と。だが、当該被害者としては、その気持ちの清算として、それでも足りない。難しい問題である。ヨーロッパをはじめとして、先進国では、すでに死刑はない。あるのは、日本とアメリカだけである。
昨日、呉の町は「えびす講」だった。近年になく、テキヤのお店がたくさんきていて、本当にたくさんの人々が、まるで祭りの縁日でもあるかのように、うれしそうで、楽しそうな、顔が、泣き出したいくらいに、喜びに満ちていて、いい時代の予兆のようだった。今日は、「食の祭典」で、おいしいものがたくさんストリートにあふれている。喜びと悲しみとそれぞれの顔ではあるが、たくさん出てこられている。のどやかな日となっている。近くには、中央公園があり、立派な樹木が植えられていて、整備もしっかりとなされている。噴水があって、時々勢いよく、水が噴き出す。鳥たちが舞い降りてきて、挨拶をしてくれる。陽光も明るく、その明るいカラーは、まるで、いつか見たデズニーのようである。不思議な国の予感がするひと時がある。
水があれば木々があふれ光を浴びる。そして森となり、そこに、亦、水が流れる。自然の流れが連鎖する。そして宇宙がそこに反射する。言わば、宇宙とは、世間であり、自分の内面である。自分が自然と一致すると、そこに、最高の幸せがある。夢に説かれたことが現実化する瞬間がある。
【平成16年11月8日(月)】
今朝、川原石港に、底引き網が入った。レーダーのある先導船がリードし、見事な二隻の作業船がまるで夫婦のようにぴったりと寄り添い呼吸を合わせる。最後に、また、リーダー船が最後のブイをとりあげた。私が子供のころ、赤さびたブイが岸壁の上に放置されていた。台風が来て、頭上にまるい青空があり、白いちぎれた雲が猛スピードで飛んでいたのを覚えている。その台風の目を見たのは、そのブイに上ってのことであった。私の少年時代のことであった。
振り返ると、魚見山が朝日に光る。<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/20041108_0717_0001.jpg" target="_blank">今日の朝日は、休み山の頂上から登った</A>。絶景というには云い得て妙である。毎日、起こるべくして起こることがある。呉の港から大きな黒い影のように、護衛艦が一隻、静かに出航した。漁師さんはプロの技を見せてくれた。家に帰るころ、今日の一日が始まるかのように、出勤する人、通学する人の流れがあった。港には、漁船のエンジンの音、遠くで汽笛の声、空には、ペリカン(?)もいただろうか。カモメが水平線をゆっくりと泳ぐように飛んでいった。カラスもトビもいた。鳩が一羽いた。私は雀かもしれない、と思った。父はツバメだったのかも知れない。祖父は何だったのだろうか。千畝さんは何だったのだろうか。覚兵衛さんは?嘉兵衛さんは?妄想に過ぎないのだろう。
そして、昨夜、探していて、とうとう見つからなかった手帳が、朝、気づいてみると、机の上にある。母に聞いても知らないという。不思議であるが、現実である。今までは、これらのことが信じられなかった。今は、これでいい、と思っている。日々、生きていくことが、私の仕事である、と思われてきた。風の音に周波数を合わせて、日々を、安全に生きていこう、と。今までもそうであったし、これからもそうであって、それで良い、と。ふと、プロメテウスは何の神であっただろうか、と思う。
【平成16年11月9日(火)】
『港町ブルース』にしても、港はなつかしさに浸れる場所である。呉市立港町小学校は私の母校であるが、その校歌を調べてみると、大切なことがわかるような気がする。亦、運動会のときに歌っていた歌のほうが私は好きであった。「歴史に輝く校庭に・・・・」と。私の小学校のときの先生は、すべて広島高等師範学校卒だった。・・・・感謝している。
かつて、ブラジルから、祖父の姉であろうか、私の家へ訪ねて来た方がいた。その方は店先で少し話した後、座敷に上げてもらうこともなく、すぐに立ち去られた。応対は、背中を向けたままの祖父であった。涙のひとつもあったかも知れなかった。
白市に母方の祖父の家(山持家或いは山道家)の墓がある。しかし、除籍謄本を管理しているのは、河内町である。かの地震で呉と河内町が震度6であった。その頃、私は河内町に除籍謄本の調査依頼をしていた。
国家公務員法にも地方公務員法にも、「使用者たる国民の」とある。どういうことか、と思ってみる。
この度、パーキンソン病の方、何人かとお話しする機会があった。以前、ボランティアをしていたころを思い出す。進行性の病気で、その時は、延髄中脳の病気と聞いた。とても善良な方で、その方を、西保険所へ毎週金曜日、リハビリにお連れすること、半年だった。そして、その方が、ある意味で、必死でリハビリされる姿を見ていた。そして、その原因のひとつに気づいている。おそらく、専門の研究機関では、いくつもの理由と原因を見出していることだろう。つまり、海彦と山彦の物語かもしれない。接木もほどほどにしないといけないように思われる。桜もソメイヨシノではなく、私は、やはり、山桜が好きである。それも、遠くから眺めた景色が、申し訳なくも悲しくもある。しかし、事実、現実、真実は、そうである。そろそろ時代の潮時と、世間も観念したがいいのかも知れない。神戸の地震で地獄の釜が開いた、と聞いている。閻魔大王が実はお地蔵様とも聞いている。正直に自分の罪を謝れば赦していただけると聞いている。それだけのことである、と。勝手な小細工で言い逃れはもうできない、と。今はそういう時である、と。新しい時代の始まりをきれいな状態で始めたいだけなのであろう。今から新しいスタートラインが引かれただけのことなのであろう。何千年ぶりのこと、あるいは、何万年ぶりのことであるのかも知れない。恐竜の時代が終わったとき、哺乳類の時代が始まっていた。そろそろ哺乳類の時代も終わりかけていたのかもしれない。しかし、万物の霊長である人類の意志が、もう少し、人間でありたい、と選択したのであろう。だから、本当の人間の社会を作らないといけないのであろう。それだけのことであろう。原爆の本当の意味、明治維新の本当の意味も知っている人が伝えておかなければならないであろう。忠臣蔵の真実も正しく秘伝しておかねばならない。飛鳥から平安へと遷都した意味、鎌倉から江戸への幕府の変遷の意味(人類が生き延びるための条件である)。革命も天の意志が働くとき、ピューリタン革命から始まり、そして、名誉革命からロシア革命へ、と至った。何事も始まりが肝心である。また、終わりは始まりでもある。始終、そうだったのである。おそらく、それだけのことである。アンテナはどこに向いているか、が大切で、特に心のアンテナ、は。薬も冠を取れば楽だし、それだけのことである。「楽は苦の種、苦は楽の種」はうそである、と聞いている。楽は楽の種からしか生まれない、と。よって、何事も「縁」が大切である、と。それで、どこに「縁」を持っているか、で決まることがある。佛縁もひとつの正しい「縁」である。
高校のころ、要領のいい人が出世する、といわれていた。そして、彼らは、加藤諦三を読んでいた。いかにも、したり顔をしていたのを覚えている。私は一冊も読んでいないし、むしろ、その生き方が大嫌いであった。今も嫌いである。私はむしろ要領は悪いが「努力」が一番だと思う。結果主義でなく、そこに、日本的な経営(年功序列制等)があったが、今はどうか(実力主義とか言っているらしいが、本当の実力者は、ばかばかしい、所詮相手にならぬ、と言っているのかもしれない)。現体制が亡国の商業主義でないことを祈る。
私の一番好きなジャズアルバムは、今は、ウォルター・ビショップ・Jrのspeak
lowかも知れない。好きなtuneはいくらでもある。ケニー・ドーハムはとうとう好きになれなかった。ピアノはデューク・ジョーダン、曲はシグナル・セッションズの中のサマータイム!
【平成16年11月11日】
昨日の朝、川原石港にはいろいろなクレーンが来ていた。関門海峡大橋を架けたであろう巨大なクレーンの台船もいる。ところで、かのナホトカ号の船首のテトラが最期に曳航されたのもここである。さて、IHIのクレーンが台船に乗っていた。中国へ行くのかな、と思った。そして、一隻の護衛艦が出航していった。真上を、ジェット機が飛んでいった。また、グラマンの大きなラジコンを飛ばしている者がいた。不思議な光景であった。岸壁では、クレーン車が一台、同時に、二つの荷を操作していた。プロの技であった。
最近、パーキンソンの方とよく話した。そして、ひとつの予感がしている。なぜこの病気になるのか、ひとつの仮説のようなものに気づいた。夫婦生活で、性格の不一致ということがよく言われる。さて、話がわからない相手と一緒にいると、自己を制限して生きていかざるを得ない。それを原因として、晩年に、一部的心の退行現象となる。これがパーキンソンの原因のひとつでるように思われた。なぜかというと、その方々は、たとえば言語に障害が出ていても、思考は正常である。その事実をはっきりと見た。要は相性の問題だったのではないか、と。そういう夫婦があまりにも多いように思われる。
自分が生まれてきた意味は、自分にしかできないことを、その目的を遂行するためであると言える。
【平成16年11月13日】
川尻も「筆の町」である、ということを、ドライブしていて発見した。
昨日買った本は、継体天皇の本であった。
あかねさす カモメ飛び交う 堺川 教育隊のかけ声 響く朝もや (私の作った歌)
私の各修学旅行の行程を調べると、何もかもが秘められていた、といえる。訪れるべきはすべて訪れ見ていた、と。
私の学生番号は5261066だった。学生バッジは「J」であった。さて、その頃、キャンパスが日本一であったのは北海道大学であった。今は、広島大学であろうか。広島大学も何故か計画より縮小された。また、広島大学は幻の第八帝大である。第八帝大化は戦時中のことであったので実現しなかった。あの頃、もっと勉学をして居ればよかっただけのことだったのかも知れぬ。それができなかったその頃の自分が、悲しくもあるし、寂しくもある。しかし、今は、むしろ、後悔はない。自分の歩んだ行程はこれで正しかったと自負している。自分にとって、この道しかなかった、と。思うに、人類の意思を自ら確認するには、この道しかなかった、と。生まれたときからそうであっただけのことであった、と。しかし、私の身と心はボロボロである(よくぞここまで耐えることができたものである)。私が就職したころ、スペースシャトルが帰還・着陸し、世間が湧いていたのを思い出す。小学5年生の時(11歳)には、アポロ11号が月面着陸に成功し、アームストロング船長だったか、「この一歩は小さな一歩であるが、人類にとって大きな一歩である」と言った。その頃、そのテレビはすべて見た。新聞のスクラップも完璧に作ったように覚えている。イーグルだったろうか、母船との交信の場面も覚えている。
錦鯉の斑点は何か。日の丸であり、原爆のショウコンであるのかもしれない。かつての広島大手町の桑原は私である。桑原の遺品の一部を、今、私が預からせて貰っている。ところで、もはや、一切の勝手はゆるされぬ、という時が来たのだろうか、と思われる。地球の存続のために。定めは悲しく、これが、宇宙の「掟」である、とも思われる。
本末転倒。
私の刑法のお師匠は、筑間正泰教授である。そのお兄様は、野茂選手が大リーグへ旅立ったとき、近鉄の総務部長であった、と聞いている。筑間先生はお元気にしておられるだろうか。
人間はそんなものと思うところが人間でしかない。この論理は魂としての人間の向上心を放棄している。
恋人は恋人だけでなく、鯉人でもある。(これも妄想である。)
【平成16年11月16日】
今朝、川原石港から、「おんど2000」が出航した。きれいな白と赤の船体が、スクリュー全快である。すると、頭上をヘリコプターが一騎飛んでいった。いい知らせを届けたことであろう。
これからは、若者たちの時代であると思われる。社会的に、無垢だから。若者たちがそれぞれの色に染めるといい時代が来たように思われる。時代を作ることに、命をかける価値はある。
私の好きな曲: エルビス・プレスリー「My Boy」 デイビー・ブーン「カリフォルニア」
【平成16年11月20日(土)】
ところで、郷原に、陶芸をしておられる方がいる。江戸時代の着物からパッチワークのようなこともされている。目的は、江戸時代の文化を遺すためである。その先生は、朝起きると、薪で火をおこし、クドでご飯を炊くことを日課とされている。その後、田の世話をされる。古風な方である。ご主人は小学校の校長先生であったと聞いている。その方の家の裏に古墳がある。呉市で唯一の古墳である。<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/041217_114408_M.jpg" target="_blank">郷原</A>には「山田」の里がある。そして、郷原には、伊邪那岐命・伊邪那美命と共に維新後國事に殉じた英霊が祀られている神社がある。最近、見つけて、驚いたことであった。
ところで、高校生物で、遺伝を習うと、伴性遺伝というのがある。これはとても重要な内容を含んでいるし、また、これがあるが故に、生命の維持・持続がなされてきた、とも思われる。宇宙の神秘であり、大自然の秘密のひとつである。ここに、思いが至れば、親あるいは伴侶、その他のすべての自分と関係する人を理解し、赦せる。そこのところを言うべきかどうか。___やはり、謎は自分で求め、解くべきものである。人から教えられたのでは、自分のものとはならない、人のもののままであるというのが、自然の法則のひとつであるから。
【平成16年11月24日】
常々、政治は、時々のそのリーダーの意思決定である。戦争の開始もその例外ではない。ところで、日本の近代において、すなわち、明治維新以降、戦争責任はどこにあったか。判断を誤ったのは誰であったか。時々の政府といえる。戦争にも戦争法があり、法である以上、責任は問われる。戦犯は戦犯である。申し訳ないが、見える世界ではそうである。見えない世界は、見える世界しか知らない方々に知らしめることは難しい。本来、常々、日本の歴史はそうであった。それでいいように思われる。
私がテニスをしていた頃、私のファーストサービスは定評があった。ところで、サービスにおいて、ラインのコントロールは、フットの角度でしていた。つまり、上半身はいつも同じ動作であった。フットの角度で、センターラインを狙っていたのである。
ところで、滅多にはなかったが、祖父は祖母のことをウシババとののしっていた。父は家族の中では、ヤブとあだ名されていた。私も理性がなければ、単なる番長だったかもしれなかった。しかし、番町にはなれなかった。中学のとき、毎日、担任によって職員室に呼ばれてはいた(お前のようなのが悪されては困る、とよく言われた)。小学校4年の時には、担任の先生から、金庫の番号を教えてもらい、もしものときの管理を任されていた。小5になると、授業中に、会計のお金と帳簿を預かって、学校中の係りの先生を訪ね、印鑑をもらう役をしていた。思えば、その他、その頃、すべて特別であった。小6の時には、新聞部と放送部の部長であった。毎日、給食の時間には、職員室の奥の部屋にある放送室から校内生放送をしていた。機器の操作も、プログラムの計画と実行も、すべて、していた。新聞も取材からガリ版まで、すべてしていた。また、毎週金曜日の朝、朝礼の時間は「お誕生日会」として、その週の誕生日の子供たちが晴れのステージで紹介された。その司会も務めた。子供の頃、私は何を委ねられていたのか(私は自覚するべきときを迎えている)。
「戦争と平和」はトルストイの作であるが、ナポレオンが何故敗れたかが描かれている。当時、クトゾフ将軍は、戦わずして、ナポレオン軍と平行して軍を進めた。ナポレオン軍は奥へ奥へと誘われた。やがて、冬将軍が到来したのであった。孫子の兵法は「あざむくこと」であるが、クトゾフはそうではない。知っていたかどうかは定かでないが、自然の力を味方にしたのであった。天命を味方にしたのであった。
地の塩ということがある。歴代、大地を自覚するものは多かった。アマテラスと自覚するものもいただろう。地の塩と自覚するものがいただろうか。ロトは振り返ると塩の柱になったとか。
呉市郷原に古墳がある。本町下条地区の長谷川支流山王川上流の一の松光山中腹の字火神嶽(ひじんだけ)に。ここは昔から「火の山」といわれ、この石室は「火の穴」と呼ばれ、「火の神」とされていたという(明治時代に、字火神嶽と名づけられた)。長谷川流域は本町で最も古くから人が住み農耕が行われたという。[参照:『郷原町郷土史』]
「あるべきようは」と説いた禅者がいた。かつて、友人(今、某電力会社で部長さんである)に、「君らしくない」と言ったら、「らしさ」なんて意味がない、と言っていた。今も昔も「らしさ」こそ大切と、私は思っている。「らしさ」を履き違えると、人生は狂う。カエルの子はカエルでしかなかろう、と。
「よらば大樹の陰」という。確かにそうである。しかし、大樹とは何か。まさか、日立製作所ごときが自らを大樹だなどと思っていないことを祈る。一般に、会社が合理化するとき、どういう論理が働いているのであろうか。艦長は船とともに沈めとまでは言わぬが、各経営者はその時々にそれなりの進退は決するべきであろう。そのままそれなりの地位と生活が保障されているのは、庶民感情としては納得がいかない。庶民は生活できなくなり、自殺している者もいるとき、責任をとるとするなら、その時々の経営者もアパート住まいをするべきである、とまで思ってしまう。飽くまでも庶民感情として。(しかし、私は、それなりの生活をすでに壊されていて、もう取り返しはつかない。(その頃の者たちはさぞ本望であろう。))
辞書を読んだくらいで(三島由紀夫)、一世代で、時を操ることなど、できるわけがない。
「働かざるもの食うべからず」は、毛沢東の言葉ではない。ある禅者(百丈禅師)の言葉である。さて、今は、「食う以上に働くことなかれ、地球を犠牲にして生きているのが、生きているということだから」と言ってみたくもある。
呉市中央公園には、北の端にあたるところに、「<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/041214_130619_M.jpg" target="_blank">しんじゅ</A>」という木が植えられている。体育館のすぐそばである。しかし、その木は、黒こげで、枯れている。とげもあるのだが、樹皮はむかれ肌がさらされている。私は何度かその木を訪れてはそっと手で触れるのであった。初めてその木を見たのはいつのことであったかは忘れてしまったが、私自身であるかのように思ったものだった。そのコーナーには<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/041214_130649_M.jpg" target="_blank">華魂碑</A>も立てられている。
国家を論ずると、あるいは、国という言葉を口にするだけで、国粋主義者とかと短絡するお気楽な階層がある。国を語るのに、暴力的な国粋主義者と同じにされるのであれば、議論にならない。サラリーマンがお気楽でいられるのも会社があるが故であるのに、そのことを忘れているサラリーマンが多すぎるのではないだろうか。国がなくても自由があると思う者が、テレビなどで大きな顔をしているのがむしろ異常であろう、と思われる。もう、あまりばかげたことを吹聴しないでいてほしい。たとえば、TBSのニュース・キャスターがTBSを批判したことがあった。なぜ、まだTBSにいるのか、素朴な疑問である。よほど待遇がいいのであろう、と思ってしまう。
ヒロシマは、日本の心臓に当たる、地球の心臓に当たる、銀河系の心臓に当たる、そして、宇宙の心臓でもある、とどこかに書いてあればいいのだが、まだ、見たことがない。
さて、「ひとつ」ということについて、「日本・唐(中国)・月(インド)」という。これがひとつになることで、わかることがある、と。「神道・儒教・仏教」であろうか。(あるいは、禅であろうか。私の仏法はその本質はやはり禅である。禅を最も研究した、といえるから。)私論としては、日本、トウ・藤原氏(貴族)、月[林羅山の座右の銘「月はいたる梧桐の上、風は来る楊柳の辺」]としたいところである(つまり日本の中にすべてがあり、それが一つと成ることが大切であり、すでに、アイデンティティ的に、世界がひとつになることはありえない(十分に分裂化している)、そのことを前提として、協調としての世界平和はある)が、このようなことを発表できるわけがない。4杯の蒸気船が「洋流の変」であるなど、口が裂けても言えぬことである。しかし、今の私のこの境遇は何なのか、問うことは赦していただきたい。仕事をください、ベッグ・ユーです、本末転倒などとは言いませんから、と。 ???? グ(呉)やグ(呉)や 我 汝を 如何せん!??? あまり、なめたことをしていると、天が起こるし動くから、と。姉が言っていた。「風が一番怖い」って。「地・水・火・風」そして「空」。青い空と白い雲。マスコミもいい加減にしておくほうが好いのかも知れない。ジャーナリストと名乗る方々も。あなたたちが思っているほど自然は甘くない。普賢岳が噴火したとき、非常識に山に入ったのはあなた方だったのだから。
昨日、王舎城レストランで、ある商品の説明を見た。「ムーに起源をもつ人類文明は、地球上を西へ東へと進展して行った。その接点において、争いは滅亡をもたらし、和解は繁栄につながった」と。
【平成16年11月27日】
古い友達から手紙が来た。とても苦労している。体調不全でもある。返事を書いた。現在の結論として、人は愛する伴侶と子供たちに囲まれて日々の暮らしを営むことが幸せであり、その他の一切はその手段に過ぎない、と伝えた。
【平成16年11月29日】
<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/tennis.html" target="_blank">テニス</A>をどう楽しむかということについて、ある本で読んだことを思い出すと、要はボールが神であり、それを追いかけ打ち合い、どちらが得点をゲットするか、そのために、どれだけ鍛えているか、素質はそして環境は、さらに、時々の女神はどうささやくか。
【大蔵出版刊 苧坂光龍著『十牛図提唱』 〜はじめに〜 より】
「禅は、私たちの生活のあらゆる瞬間を、もっともエンジョイするものです。特別なことをするのでなく、本当に生きる喜びというか、坐っておれば坐っておる喜び、仕事をしておる時もしておる中から、にじみ出、溢れ出、こぼれ出る喜び。おのずから出てくる喜び。しかもそれが自分一人だけで味わっているのでなく、おのずと周囲の人にも無限の作用を及ぼす自利利他になってくる。こういう素晴らしい境地が人間として究極のところであります。(中略)それはすべての人が得うる境界であり、釈尊一人が尊いのでなく、あらゆる人類が、人種如何、時の如何にかかわらず、みな同様にお互いに尊いのであり、すべてが同じ仏性を具有しているのです。お互いを宇宙的人格者として南無し合い、和合し、協調して行く所に本当の大乗仏教の挙揚があります。しかし、千変万化する人生に処して、その時その時のもっとも適切な行動が自由にとれるようになるには、容易ならぬ努力がいるのであり、この『十牛の図』でも、長年にわたっての訓練というか修行を、牛を使って十の段階で分かり易く説明してあるわけです。四国で生まれたり、九州で生まれたり、東京のド真中で生まれた方もありましょうが、それはお互いの肉体が生まれた所であります。本分の家郷というのは、人間としてあるべき所、ゆくべき所にいくというわけです。牛をだんだんと捜して、結局は、諸物の本源、宇宙の第一原理というか、みなさんご自身の本当のところに帰ってきた。しかし牛が目にかかり、人間が目にかかっている間は、主観があり客観があり相対の世界におるわけですが、ついには、天には双日なく乾坤只一人、宇宙の生命が自己の生命と溶け合ってしまったのです。提唱とは、単なる講義でなく、一言一句の中にも祖師の霊が宿り、一挙一動にも仏祖の命脈がにじみ出る全体作用を申します。この『十牛の図』でも、ただ分り易いというだけでなく、その時間にも空間にも制約されない絶対の大生命の端的・禅味を、味わっていただきたい。一九八四年七月七日」
かつて、鈴木健二氏の講演を聴いたことがある。鈴木氏は言った。このまま環境破壊が進んでも地球は痛くも痒くもない。地球にとって人間はどうでもいいことである。人間がいなくても地球は存続する。困るのは人間だけである、と。
【平成16年12月6日】
昨日買った本は、徳間書店刊、中丸薫著『古代天皇家と日本正史』。とても面白い。また、この度、携帯電話を調達。ドコモ。SH901iC。二階の部屋に一枚の絵がある。山道を一人の農夫がおおきな籠を背負って歩いている。私の背負ったもの、もはや、重荷は下ろした。道元は、空手にて帰国した。キリストは、明日のことは思い煩うな、と。ソロモンの栄華も野に咲く一厘の花の装いに及ばない。鳥は日々食事を得ている。人間も衣食住は保障されている。それでいい。何よりも、宇宙の真実に身を委ねる自由があることを楽しむことができる時、日々は光の芸術の中にあり、自然の営みの祝福の中にある。昨夕も、呉港にかかる暗雲の中には隙間のような穴があり、その際は、太陽の光の反射で輝き、夕日の朱の輝きがあって、はるかかなたへは、放射する光がいく筋ものびてある、美しいパノラマがあった。こうした日常とそれと邂逅する瞬間があれば、生きていることの喜びを知ることができる。人は、大きな力に祝福されるために、生まれてきた、と。もはや、ここがひとつのゴールであった、と。
【平成16年12月8日】
今、自分がどこにいるのか。座標軸はどこにあるのか。原点はどこか。これが大切である。見える世界と見えない世界があって、知っていても知らなくても、基準は厳然としてある。あらためて、そのようなことを思っている。われ思う故にわれあり、とは何か。御名御璽とは何か。存在の秘密とは何か。知る人ぞ知る、と言うべきのみ、と。現段階における、人の終着駅はどこか。見えない世界では定まった事が、これから現れてくるのだ、と思われる。それまで、私の生活がもてば幸いというのみ、か。さて、泥棒も悪党もいて社会は面白いと言っていたのは鈴木大拙であった。イギリスだっただろうか、悪の花が咲いて摘み取るのだ、と。悪も芽のうちに摘み取ることができるなら、なお良いとも言えるが、見極めることは難しい。だから、医学と法学では、脳死の概念が違う。しかし、医者も人間でしかない。映画は何故感動するか、その理由も、かつて感じていたことが、確信へと変わる頃と思うのは、十分に時を経たからであろう。 ところで、第二次世界大戦がひとつの植民地再分割要求であったとも言える。 理由はどうあれ、事実として、多くの悲しみでしかなかった。負けるが勝ちと言うこともあるが、これは霊魂の世界でのことである。しかし、やがてメビウスの輪のごとく、現実に還ってくる。だから、魂のレベル・アップを生きている間にしておくのである。ここを自覚できるかどうか。ただ、官能的に楽しいだけでは地獄行きである。そして、国連憲章に日本とドイツは敵国扱いされているが、いつまで、第二次世界大戦の責任をとらせるつもりなのであろうか。歴史を知らないにもほどがある、と言ってみても、これも草葉の陰の負け犬のたわごとに過ぎない。さてラジオを聴いていると、どこから見ても美しいという姫路城のことを言っていた。姫路城は戦火に見舞われなかった(日本に12ある1つ)が、姫路の町はナパーム弾で焼き尽くされた。江戸城と姫路城のみがラセン構造で敵の侵入に備えていたという。築城技術の最も熟した頃に建設された(1608)。安土桃山からの絢爛豪華もある、と。しかし、明治の頃には広島に大本営があったのだった。また、呉の二河球場ではオープン戦がよく行われていた。阪急とカープ戦だっただろうか、その時、山本浩二がデッドボールを受けた。タンカはどこから持ってきたか古い戸板だった。しばらくして救急車がきた。向洋の東洋工業病院へ運ばれたと聞いた。その後、またオープン戦を見に行った。その時、試合が終わってトイレに入った。何と、隣には上田監督がいた。母と妹が大阪で井上陽水のコンサートを見に行った。コンサートが済んで泊まったホテルの廊下で、陽水と出会った。母はツーショットの写真をさりげなく見せてくれた。また、京都へ母と姉と妹とで紅葉狩りへ行ったときのことである。不図、高台寺に寄ってみた。なんと、皇太子様が来られていた。境内には、菊の御紋の入った車があった。
【平成16年12月12日】
大宇宙の法則にしたがって生きることで、地球上で正しく生きてゆける。あるべき姿として生きる。そして、正しく祖先供養すると、確かに守護があって、思い通りの人生を歩むことができる。不思議である。
【平成16年12月13日】
世の事が、その秘密のベールをおろし、探していた真実を知る時が来たのかも知れぬ。至道無難禅師、正受老人、そして白隠へと至る、首の皮一枚の一筋の真実の道が、現在において、どこにあるのか。雑華経の中に、すなわち、代々空中に留めおかれていた一粒の種がある。諸仏に護念されていた約束が、この度、その芽を出した。ハードの進化が限界にいたり、ソフトの時代に入ろうとしている。人の心の事、すなわち、魂の事が、正しく理解され、開発される時を迎えたのである。それが21世紀である。素直な心になると、この世の一切が喜びであり、心が感動してくる。さて、青春出版社刊、原田真裕美著『自分のまわりにいいことがいっぱい起こる本ー「幸運」は偶然ではありませんー』は、良い本!
【平成16年12月16日】
天知る、地知る、人知る、我知る、諸精霊知る。時代は変わった。何をもって新しい時代というか。今までになかった何が新しいのか。悪のしたたりがバケツにたまる。気づかないままに。バケツがいっぱいになる。ここで、ゲーム終了となる。善と悪の結果の花が咲く。今まで誰も知らないことだった。昔より物語として語り継がれていただけだった。だから、たとえば、取引の名で弱者をだましてきた方々はご用心、と。すべてのビジネスが反省を余儀なくされる。そして大切なのは客観主義である。さて、土地を媒体とした農民支配は封建制の定義であるが、バブルの頃、土地を媒体とした架空の取引の実体を見抜いていたのは、司馬遼太郎一人であった。
【平成16年12月18日】
パスカルのパンセは彼のメモである。いかにして人々を信仰へ導くか、天才数学者から神秘家へと変化したメモリアルの後の彼の草稿であった。そして、パスカルの結論は、「神が存在する方に賭けては如何か」であった。さて、地・水・火・風・空の意味を知っていてもいなくても、雷神も風神もいる、と思った方が、世の中は平和であり、秩序も保たれると思われる(実は、風神も雷神も存在する)。何故か。そうした自然の摂理を無視した階層が社会のリーダーを名乗り、自分たちだけの利益を優先させることで、ここまで社会を腐敗させてきたと思われるのだから。同じく、見えなくても、諸精霊はいて、彼らも自由を得て子孫のために活躍したいと願っている。しかし、所詮、何事も自分の気持ちの問題である。魂に関することも。まだ、その段階に至っていない方々にこの種の話をしても、かえって仇となる。すべて思いから起こり現象となる。そして癖が因縁となり、悟らしめんがために、何度でも現れてくる。因縁。これは事実であり真実である。昔より伝えられたこと(魂のレベルのこと)が、庶民のものとなる、それが21世紀である、と思われる。いよいよ、人類もここまで進化してきたのだ、と。我々のDNAには、宇宙の始まりからの情報が秘められている。その中から、何をどのように組み合わせ、幸せを形としていくか。ある意味でゲームであり、すごろくである。ゴールあるいはあがりが、仏であり、諸天善神と言える。そこへ至るまでに、いろいろな姿形がある。その素材はすべて平等に持っている。どう組み合わせるかは、運命だったりもする。しかし、選択の自由は常に自分にある。自分はどういう人間でありたいのか。理想が現実化する時代に入った。そうした一切の尊さを粗末にしないこと、ここから、個々の愛も始まる。ところで、「ハートに灯をつけて」という曲があった。ドアーズであった。ドラッグで酔っぱらったようなグループであった。地獄の黙示録ではハートに灯はつかない。さて、新しい時代の掘るべき鉱脈はどこにあるのだろうか。ゴールド・ラッシュはどこに始まるのであろうか。思うに、鉱脈は魂としてのDNAの中にある。祖先伝来の情報にある。そこから何を汲み出し、どのように形としていくか。基準はすべての人の幸福である。犠牲の無いことである。手段は自己を掘る。条件は自分が自分あるいは諸精霊に対して純粋・正直であることである。そうしないとその鉱脈のあることすら気づけない。また、DNAの螺旋構造はヒントにあふれている。時の流れも螺旋と思えば、一瞬で過去に飛び渡ることもできる。過去は隣にある。未来も同じかも知れぬ。また、二本の螺旋の線は夫婦としての巡り会いのラインかも知れない。どこで、結ばれるかである。情報の工場であるなら、そこで、どう情報を発見し、組み合わせ、形にするか。しかし、基準は、すべての幸せである。権力は権力によって滅ぼされ、金力は金力によって滅ぼされ、武力は武力によって滅ぼされる、ただ法力あるのみ、と仏は言っておられる。ここで法力とは、願いが大宇宙に認められ、霊界の守護を得て、実現化される力を言う。また、経済理論も失われた。近代経済学はもはやバブルしか生まないことが証明された。新しいパラダイムが待たれている。開発するべきは真の個人レベルでの開発である。マクロ経済学は真の個人レベルでの開発を阻害していた。個人レベルでの開発とは、いわば、魂レベルでの開発に等しい。すでにファンタジーの世界がそうであり、ミュージックの世界がそうである、と思われる。いよいよ形のないものが真に価値を認知されてくる。これが一つのパラダイムである。その時、基準は、20世紀の数々の理想であると言える。それらが現実化してくるように思われるのである。ところで、現代の日本語は森鴎外と夏目漱石がその基礎を作ったと言われている。イロハニホヘトは弘法大師の作と言われる。それでは、五十音は誰が作ったのだろうか。さらに、カ行変格活用とか、サ行変格活用とか、ナ行変格活用とかは何を意味しているのか。「火」「水」「那」とか洒落てみたくなるが、まだ、これらについての説明を聞いたことはない。また、ところで、もっとも大きな勘違いと思われるのは、公務員は自らどう思っているのか定かではないが、公務員が国家ではないということである。国家とはクニのことであるはずであるが、三権分立の意味を持ち出すまでもなく、身分が保障され、生活が保障されて、それに伴い思考が腐敗すると、思い違いも恐ろしいことではある。しかし、獅子吼ということもあるが、本気でそういったところの寝た子が目を覚ますと、山月記どころではないのであろう。しかし、これも弱者の戯言に過ぎない。しからば、このヘドロの中で泳がねばならない、ということか。現実は既に枯渇している。しかし、生ある限り、勤めなければならないことがある。鈴木大拙が言うところの自覚あるならば。さて、タケシの映画が世にもてはやされている。何故か。良識人の表現できない野蛮を平然と表現するからである。しかし、日本の恥であることに変わりない。軽薄を助長して多くの人を食わすことができれば、それでいいのだろうか。タレント制度とそれに群がるマスコミにはどうしても納得がいかない。さて、思い出すのは、祖父の晩年である。どこから手に入れたのか銀杏の種を植えて苗にし、知人に配っていた(横綱のオオイチョウでも思っていたのであろうか)。鉢に10センチメートルのかわいい苗が乱立していた。ところで、東京・大阪・神奈川の木はイチョウだっただろうか。呉の木はカシである。私の小学校のときの卒業記念樹はメタセコイヤであった。今、呉の公園には<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/041214_131112_M1.jpg" target="_blank">メタセコイヤ</A>の美しい姿がたくさんある。そこに裸子植物のよさがある。夜の公園を歩いていて感動するのはイチョウの木々を見上げたときの葉の輝きである。まるで、ライトアップされた五重塔のようである。また思うのは、運命は変えることができるということ、自分次第で。
【平成16年12月19日】
敢えて言えば、日本はやはり神国、神々のクニである。神とは、解き放たれて力を得た魂たちのことである、と思われる。よって、諸精霊もそうした進化した魂と言える(耳澄みて聞こえて冬の松の音)。そして救いなのは、ラジオをいいと思っていたのだが、やがて時代の喧噪に倦み果てた頃、NHKFMがバイオリンの演奏を放送してくれていたことである。またドレスデンの音はとても好きな音である。ふと、いくつか集めていたジークフリートの葬送の場面の始まるところの静寂を思い出す(そうしたCDたちも今はもう手元にない)。ところで、<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/椰子の実.html" target="_blank">椰子の実</A>という歌があった。
【平成16年12月20日】
今読んでいるのは『勝つ力』という本である。非常におもしろい。いよいよ時が来た観がする。「仏法は勝ち、王法は儲ける」と仏は言う。大宇宙が教えてくれることがある。大自然の法則を知った方が勝ちである。ところで、金銭至上主義者たちのことを、本屋でその著作の帯を見て、巷の女の子たちがどう言っているか、「お金さえあれば、って言ってるこの人、女癖悪そうね」。また、努力しなくていい、智慧を使え、といっている方々も、もはや過去の理論である、と知るべきである。夜空の星は、太陽の光が出ると、あっても見えない。努力せずには、何をしても、無駄である。魂は腐敗するばかりであるから、光ることはない。さらに、現実・事実だけで論じるのは、哀れと思われる。見えない世界をどう考えているのか、と。何れにしても、時代が大きく変わろうとしている。明治維新は日本だけのことであった。今回は、地球レベルの問題である。そして、ロダンの考える人を見て、山田無文老師は言う、背筋が曲がった姿勢では考えてもろくなことは考えんだろう、と。さらに、正義の使者がピーターパンだった頃は良かった。それがスパイダーマンとなると疑ってしまう。いよいよ末法である。世間虚仮唯仏是真。天上天下唯我独尊。親鸞の仏は親鸞一人のために法をとく。さて、また、日本も<SPAN style='font-family:"MS 明朝";mso-ascii-font-family:Century;
mso-hansi-font-family:Century'>ローマ法を継受した。その法律概念において、不法行為は、故意と過失は、別に論じるべきであるとしたのは、私の卒論であった(10年後に同じテーマで民法学会で議論があったと聞いている)。今、思うのは、過失において相手方の責任を追及するのは、日本人としての感性にあわない、と。業務上過失においても基礎はしかり。本来、日本人として、過失には責任は問えない気がする。損害の復旧は別論でするべきであろう、と。しかし、故意は、軽微でも赦せないのが、日本人の感性ではないだろうか。</SPAN>ラジオで、ある女性は言った。「それであなたは私のために何を用意してくれるの?」。しかしながら、すべての時代は既にそれぞれの経験をしており、めまぐるしく回転している。だから、常にあらゆる時代性がチャンスを内包している。問題は、それぞれの個人がどの個性の花を咲かせるか。自分の花として、それぞれすべての因子を持っている。今がその時であり、今が、時間よとまれ!である。今の自分が自分であり、それぞれ、今ある自分で花を咲かせるのである。まさに、それぞれがそれぞれの一つの花を咲かせる時を迎えている。得天に帆を揚げる、とは得意な自分で生きていくことである。</P>
<P align="left">【平成16年12月28日】
さて、呉市中央公園は市役所と体育館の間にあって、昔は空き地で、子供たちはよくソフトボールなどしていた。桜がたくさんあって、花見の頃にはよく訪れたものだった。今は、きれいに整備されている。写真に円い建物が二つ見える。左の小さいものが呉市議会で、右の大きい方が呉市民ホールである。誰かに聞いたことがあるのだが、この二つの形が大和の煙突を連想させる、と。さて、ステージが変わろうとしている。21世紀が始まり、<SPAN style='font-family:"MS 明朝";mso-ascii-font-family:Century;
mso-hansi-font-family:Century'>今までのやり方は一切通らなくなるように思われる。</SPAN><SPAN style='font-family:"MS 明朝";mso-ascii-font-family:Century;mso-hansi-font-family:
Century'>法華経によると地より湧出する、とある。いよいよ、諸精霊が働く時代を迎えたのであろうか。かつての古き時代の悲しみを乗り越えて、真の人類生存と平和のために、ここを自覚し、時代の声に素直になることが、新しい時代を安全に渡る術であると思われる。自覚が大切である。</SPAN>
【平成16年12月30日】
モナリザの微笑みだけれど、背景が不自然であるとか、モデルが謎であるとか言われている。当時の最先端の技術が総動員されているのであろうから、それらはそれでいいように思われる。 問題は、微笑みの本質である。おそらく、微笑まずにおれない心境を後世に伝えたかったのであろうか。それは、「喜びの歌」でもあるし、般若心経の呪でもある。しかし、ダビンチのデッサンは素晴らしい。ピカソもそうである。ところで、ピカソの芸術性は、魚の食べ方にも表れている。芸術とは、最高度の人間性の表れであるように思われる。
【平成16年12月31日】
この夏7月6日に両足踵骨を骨折して入院生活を強いられた。手術は7月12日であった。この日の朝、阿賀南で水道管が破裂した。辺りは断水になった。入院中に、私は三七の行をした。毎日の節制と毎朝の妙法華経の読誦を励行した。そして、さらに七日の行をした。すると、私と世界或いは宇宙とがあらためてリンクしたように思われたのだった。それは以前とは違っていた。どこまでも現実的あり、持続的である。妙法華経と法華経の世界が真実である、との確信を得るに至ったのであった。
【平成17年1月1日】
ラジオが言っていた。男は女のほめることと赦すことしかできない、と。ボブ・ディランの詩にあるそうだ。
【平成17年1月3日】
仏は夢にも法を説くと言われる。今日見た夢は、まさに、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教!だった。つまり、思うだけでなく、悪いことはしないで、善いことをして(善は仏のところにしかない。人間は善悪併せ持っているから、いくら善かれと思ってしても、必ず悪がくっついている。よって、十全の善は仏の縁から頂くしかない。)、自ずから心が清浄となれば、そこが仏教である。ダルマが理入と行入を言っている。仏は、護念を言われる。つまり、身と心で仏所(仏の住所)護念する者は諸仏に護念される、と。心が清浄となれば、そこを無とも空とも言う。そうすれば、見えない世界と自分がリンクする。そうすれば、すべてが整い、守護され、有り難いばかりである。そして、そこより得る見えない力は、一切大衆を救うこともできる、と。また、人間でなければ、できないことがある。つまり、現実にこの身がなければ、できないことがある。それが、この手で諸仏・諸精霊(食べたもの)・ご祖先を供養することである。供養とは相手の喜ぶことをすることである。昔は字が読めないから、お坊さんにしてもらっていた。今、字が読めるのだから、自分で供養できる。また、天災も地災も人災から起こる。つまり、今、地球上のバランスを崩しているのは人間である。だから、地球を救うことができるのも、人間である。そして、あらゆる現象は思うことより起こる。不思議であるが、これが真実である。だから、地球を救うには人間の心を救うことからする。しかし、人間は素直でなく、自分勝手であるから、この真実を認めることができないし、感じることができない。素直な心になるには、むしろ、行として行いから入る。日本におけるあらゆる「道」はこれを意味する。日本は二千年以上の文明文化のクニである。西洋はせいぜいゲルマン民族の大移動以降である。五千年の中国も、何度も王朝が入れ替わっている。ローマ帝国の末裔はいない。古代エジプトの末裔もいない。アラブの野蛮は見ての通りである。アメリカは文明文化の歴史が無いに等しい。民主主義にしてもフランス革命以降のことである。唯一絶対の体制ではない。民主主義の下にヒトラーも出た。プラトンの国家論によると哲人政治がもっともよいが哲人はなかなか現れない。西洋には戦う民主主義という考えもある。戦って得た制度である。そもそも血を流している。肉食恐竜のごとく力で得たものである。民主主義は一つ間違えると衆愚制となる。市民コントロールが前提であるが、市民はその責任を果たそうとしない。よって、為政者の思う壺である。また、法華経を持ったものが政治をしないと幸せはないと法華経の最後に書いてある。で、どうするか。世には、運勢とか成功する法則とか流行っている。これらを言っている方々も、責任は重い。その心に於いて庶民を食い物にしていないことだけは祈る。運命も成功も自分次第である。つまり、心次第である。運勢に従う間はだめである。運勢を従わせるところまで、自分の心を鍛えることである。トレーニング無くして、結果が出るはずはない。しかし、世の勝ち組という方々は、何故かこの努力とか訓練の無用を説いている。そして結果だけを言う。こうした方法を聞いて、グッズをそろえているだけでは願いが実現することはない。そこには本人の主体的な実行はないのであるから、どこまでもお客でしかない。世の勝ち組の方々が、庶民を食い物にしているだけの詐欺ではないことを願う。大切なのは、本を書くにしても、マスコミでお話をするにしても、それが結果としてその人の現実を変えない限り、嘘である。真実は、現実化するが故に真実である。結果が現実するから真実である。その人にとって結果の出ないことをいくら説いてもそれは嘘である。失われた何か大切なものがある。それはエートスとなって、目に見えない。そもそも神力も光であり見えないから鏡でとらえる。そうした歴史の培った日本の良さはまだ表現され得ていない。しかし品格として或いは精神性として確かに存在する。感性のことになるからその感性のない人にはわからない(道元ははじめより縁なきを恨みよという)。本来の日本人の感性とは、清浄な心である。そしてそのイメージが花として「さくら」となる。で、「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」となる。
【平成17年1月5日】
スマトラ島沖地震の犠牲者の数が15万人を超えた。ここで、思い出すべきはヒロシマである。ヒロシマの犠牲者は一発の原子爆弾で20万人を超えた。あの日あの頃、日本および世界に何があったのか。枕崎台風もあった。阿修羅(戦争)という人間のエゴが天災をもたらすことをもう一度反省してはどうだろうか。阿修羅、人間、神は人間の姿をしている。今、時代を担っている方々のしていることは阿修羅でしかない。ビジネスにおいてもそうである。本来の品格と価値を失ってしまった。精神としての魂は進化している。赦しを乞いあやまるということは、二度と過ちは繰り返さない、という決意である。同じ轍を踏まないことである。そして、文明文化的にもっとも古い歴史を事実として歩んでいる日本が、たとえ、明治以降に或る意味で逆行はしたものの、それまでに培っていた精神性をもう一度見直してはどうなのか。私が言いたいことは時代錯誤せよ、というのではない。今、若者たちが宇宙人的と思っているものは、魂の遍歴の結果であり、その源泉は日本なのだ、と。現代のこの低級化した精神性をとりもどしたいだけである。間違った時点まで引き返し、やり直してみたいだけである。漫画家のデッサンがデッサンであるはずはない。出版社も、売れないからと文学者をパーティでは末席にし、漫画家に媚びを売った。その結果がどうなるかおよそ見当はついたはずである。このまま進んでいいのかどうか、市場主義者の方々も得意のマネタリズムで考えてみられたらよかろう、と。そして、人はパンのみにて生くるにあらず、と。何か間違っている、と気づいている方々が力を得て立ち上がるべき時である。このままで、人類がもつのかどうか、議論するべき時である。人類の存続を前提にして現代の政治経済現象は推移しているのかどうか。勝ち組とかいったこと自体、人類を冒涜した刹那的享楽主義にすぎないのではないか。これから誰もが高齢化社会に入る。そして、既に、生まれながらに或いは事故による身体・身心的障害者が増えている。自分さえよければよいとする、地獄も怖れることができなくなった、利己的な人間の思い上がりが、特に、経済現象において、最高潮に達しているのではないか。今、何も起こらないからといって、明日、何もないとは限らない。悪の桶も一杯になればあふれ出す。その時にはもう遅い。
【平成17年1月6日】
さて、鈴木大拙が言っていた。遷化して霊界へ行っても今やり遺している調べものをしていることであろう、と。人は何のために生まれてきたのか、考える必要はある。それぞれに使命がある。するべきことがあるから生まれてきた。宇宙の始まりからの魂の旅の途中である。この身がないとできないことがある。過去において犯した罪をあやまるために生まれてきたとも言える。過去においてやり遺したことを完成させるために生まれてきたとも言える。ここで魂の飛翔をするかあるいは再び埋没するか、選択の自由である。人間などどうでもよいとも言える。人間が精神性を持つと人となる。さらに徳を積めば仁となる。人間である限り動物でしかない。人間性を大事にすると言うが何を大事にしているのだろうか。さて、生まれてきた謎が解ければ目的の成就である。それぞれの謎は段階をなしている。それぞれどのレベルの謎を解くか。五十年来の謎がある。二千年来の謎もある。それぞれの謎であるから、自分で探して解くしかない。今お金が謎だと思う人と、遙か昔にお金の謎を解き、今は魂の謎を問題にしている人がいる。釈迦・孔子・ソクラテス・キリストはすでに解いていた謎を。魂の進化としての謎解きが、やっと、地球規模で、この地上で始まった。時代が追いついた。人類はどこへいこうとするのであろうか。それぞれの問題である。厳しい冬の時代と言える。少々の蓄えでは乗り越えることはできない。やはり、ここを乗り切れるのは、無垢清浄な心だけである。自未得先度他。自分が得る前に人を渡せ、と。その心だけである。そして、真理の一つとして、冬来たりなば春遠からじ、"If
Winter comes, can Spring be far behind?" 。春が来て、夏の盛りがあり、秋の実りの後、冬枯れる。春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪冴えて涼しかりけり。何を意味しているか。善も悪も枯れる、と。人間は自由意思を持って生まれてくることができる唯一の生命体である。つまり、自分の意思で、悪から善に生まれ変わることができる。悪のままは悪のまま来世を迎える。善も悪となりうる。で、自分はどう組み合わせて選択するか、やさしい方程式である。自ら悪をもって自認するのは自分だけのことだったら問題ではない。自分以外をも悪に染めるなら恐ろしいことである。愚かであり、哀れである。これを以てパスカルは、「人間は考える葦である。しかし、その葦を通して宇宙を見る」、と。人間でないと考えることもできないし、理解することもできない。なのに、歴史を知らない(勉強していない)、と居直ること自体がもはや言語道断である。そうした愚かさを敢えて助長しあおった方々のその罪は恐ろしい。知っても知らなくても。で、至道無難禅師は言う。しれはまよひしらねはまよふ法の道、なにかほとけの実なるらん。ところで、世の芸術家たちは9という数字を怖れた。マーラーも第9番をなかなか書けなかった。九番で終わったベートーベンの呪縛もあったという。ビートルズもその例外ではなかった。何故か。次はゼロであるからである。つまり、見えない世界への旅立ちであるからであった。しかし、生まれたら死ぬ。一休は正月に何かめでたいことを言えと言われて、親死ね子死ね孫死ねと言った。何を言うかと言われてこれ以上めでたいことがあるかと相手にしなかった。今生で解決するべきを解決していなければゼロは恐ろしい。解決しておけば何でもないことである。宇宙があって太陽があって地球があり月がある。人間など存在としては岩石と同じである。精神としての魂或いは心がどうあるべきか。この一点である。この一点に灯がつけばいい。輝き始めればいい。一度灯りが点れば消えるものではない。あとは燃え尽きればいい。道元は言う。「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死となるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。」しかし、この度、日蓮の言う「事の戒法」が明かされた。実相戒壇建立である。見える方見えない方両方に通じ、梵天帝釈も現実に踏みたまひ、過去からの戒めを解いて頂くべき戒壇である。道元はすでに「このところをうれば、この行季したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行季したがひて現成公案なり」と言う。山田無文禅師は廓然無聖を言う。廓然無聖は達磨である。達磨は四七すなわち二十八祖である。法華経も二十八品で終わる。十方の仏の御名が明かされた妙法華経は昭和二十九年に顕説された。ここでつながっている。さて、これからどうあるべきか。それで、ゆるしとは笑いとともに帰り来るこの事ばかりは今はじむる、と。何もなくなって、無となって、空となって、守護されて、楽となって、ただ笑いあり、と。
【平成17年1月7日】
トルストイの「戦争と平和」が世界一の文学であると言ったのは高名な批評家であった。第二はプルーストの「失われた時を求めて」である。さて、トルストイであるが、晩年にいたって「戦争と平和」を含んでその芸術性を自ら否定した。そして「イワンのバカ」とかといった原始キリスト教的な童話を書き始める。本来の使命はここにあった、と。そして、「人生論」とか「人生の道」を書いて教祖的になる。しかし、彼の説くところはあまりにも倫理的でありすぎた。最期の彼は人知れず田舎の駅で駅員に看取られた。悪妻からのがれて放浪していた果てのことであった。さて、富士の高さは高さである。低きより高きはわからない。わからないからといって無いのではない。低きより高きを否定できない。これが知っても知らなくても、である。知らなくても見えなくても夜もあれば闇もある。だから、謙虚になれる。無知の知とは知らないことを知っていることである。精神の世界はある。知っても知らなくても。だから、敬虔さに謙虚であることを取り戻して欲しい。それが上を敬い畏れることである。いつの頃からか、日本人もこの種のことを忘れている。これを本末転倒という。天変地異の前に無力であることを見てなお気づくことのできないことをどうするべきか。天災・地災・人災の三災は同根である。そして三災は人災が元である。何故なら宇宙も太陽も地球も月もそして人間もその構成元素は同じである。同じでありながら精神の自由を持つのは人間だけである。これをもって神の似姿、と。次の地球の姿を決定するのは人間の意思である。地球の未来を委ねられているのである。人間が人間或いはそれ以上でありたいのか。それとも元の岩石まで戻るのか。「太古の天地を洪荒といふが、よくそのさまを表している。(中略)その中に在って太古人は常に無限の驚き・恐れ・疑ひ・惑ひを抱いて生きた。然しそれが人間文化の原動力となったのである。」(安岡正篤著『易學入門』より)そうした不安から現実に生きながらにしてのがれうる時代が21世紀である。その方法は明らかになっている。そこまで魂は進化してきている。まさに来たるべきは心の時代である。こうしたことに謙虚であることで、この流れを感じることができる。地獄からの飛翔ができるのである。ところで、私の幼友達の会社が倒産した。某大手企業の手形が某銀行で割り引いてもらえなかった。不思議である。しかし、後から気づいた。デフレが進み各業種のパイが小さくなった。それに対して業者の数が多すぎるようになった。それで弱い業者がターゲットになる。銀行も組んでのことであろうか。もし市場経済のメカニズムではなく、業界での操作によるとするとしたならどういうことか。これが人間レベルでの現実であるのか。自分以外誰も何も信じられなくなる時代を末法という。いくらきれい事を言っていても信仰のない者はとどのつまり信じられない所以となる。すべて顔に書いてある、と言う。相手の話し方、表情より感じるところを大切にするといい。たいていは目でわかる。それ以上に声のトーンと調子でわかる。「古代人はまづ天の無限なる偉大さに感じた。やがて、その測ることもできない創造変化の作用を見た。そしてだんだんその造化の中に複雑微妙な関係(数)があること、それは違ふことのできない厳しいもの(法則・命令)であり、これに率ひ、これに服してゆかねば、生きてゆけないもの(道・理)であることを知った。(中略)天地から離れ、天地に背いて、人間独自の世界を開く、従って人は自然を征服するのだといふやうな矛盾闘争的な考へ方ではなく、どこまでも天地自然を諦観し、これに順応して、その中に厳正な法則を発見し、人間自身を反省して、人間社会の存在・法則を天地自然と一致させて、天人一体になって渾然と生きてゆかうといふのが易の根本精神である。(中略)天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す(酒中十詠序)と。(中略)黄帝・天下を有し、號して自然と曰ふは、獨宏大なる道徳なるなり(白虎通・號)。區々たる人間的・社会的約束・規制を道徳と心得て、どうのかうのと泣言を言つてゐるやうな後世の小人の愧死すべきものである。」(安岡正篤著『易學入門』より)そして、騎牛帰家。仏の教えに帰すれば安楽な家で胡座をかいた心境である。楽である。自由である。天下或いは宇宙から守護もされる。守護する者は守護される、と。これが、仏法である。
【平成17年1月8日】
「権力は権力によって滅び、金力は金力によって滅び、武力は武力によって滅ぶ。ただ、法力あるのみ。」と仏は言われる。人類は釈迦・孔子・ソクラテス・キリストの時代から、どのようにしたら幸せになれるかを考えてきた。人類も時を経てここまできた。今までのやり方では幸せになれなかったことは明らかである。そして、公害或いはヘドロのような天人五衰・恐怖悪世となってはじめて人類は自分たちの悪に気づく。救いはないかというと有る。例えば、五欲を断ぜずして大衆が大衆のままで救われる方法も明かされている。ここまで、人類はやっとたどりついた。これを素直に受け止め、小の親としての祖先・中の親としての食べたもの・大の親としての仏さまを御供養することができるかどうか。人間は人間である限り自我があり、それが邪魔をして、結局、自分勝手であるから、みんなで一致団結協力できない。例えば仏の心を中心に協力すれば一つになれる。七色十字の理念がそうである。それぞれの色をした人間が仏を通してひとつになる。そのとき、平等であり平和となる。それしかない。そして、仏は宇宙の王であり、仏を護念することで宇宙より護念される。そして、宇宙の流れに合わせることになるから、安全に生きてゆける。自分の願いがかなう。これを法力という。これは、過去からの約束であった。時ここに至り、やっと、現実化してきたのである。或る意味で、最も高度な宇宙の掟である。
【平成17年1月11日】
徳間書店刊、後藤隆著『謎の根元聖典先代旧事本紀大成経』は面白い。かつて、就職した頃、寮のリーダーに「精神的向上心のないやつはバカだ、というのがある。夏目漱石の「こころ」に二度出てくる。」と言うと評価してくれた。しかし、「人間関係は同レベルで触発する」「誰が言ったのか」「私が言った」と言うと、評価しなかった。その彼に≪この同じ気の流れを持った魂同士は、同じ周波数を持つことになるので共鳴するのだ≫とこの本に書いてあるというと、どう言うだろうか。さて、かつて、深層心理学の本を読んでいたときのことであった。フロイトとかユングとかもてはやされていた頃である。その中で、結局、解決は倫理であり、宗教であると書かれていた。また、学生の頃、刑事政策を学んだ。その頃、被害者学が言われていた。当時の先生は森下教授。刑事政策の第一人者であった。その先生も、やはり、倫理と宗教の力を言っておられたように覚えている。さて、現在において、宗教と政治を語ると、例えば、夜の屋台からつまみ出される。これが、日本の現代文化である。これでいいのかどうか。間違った下克上もはなはだしい。本来の文化人が沈黙を強いられ、ばかげた者たちが、マスコミにおいて跋扈としているのだから。アメリカの占領政策の結実と知るべきである、と思っている。本来の文明文化人よ、目覚めよ!と叫ぶ。就職活動を私は大阪でした。広島ですれば楽勝であったはずであった。大阪には私の席はないはずであった。しかし、何とかできた。その時もかなりボロボロとなったように思う。しかし、いい経験であった。また、学生の頃には、ゼミナール連絡会議を作った。今となって思うと、国立大学によくできたものだと思う。就職はしたものの、事情で、すぐに帰郷した。そして、ずっと学習塾をしていた。その頃、先輩で司法試験の勉強をしておられた木本氏の縁で、筑間教授の指導を受けることができた。当時、広島高等裁判所長官の講義とか広島高検の検事長の講演とかゼミ連主催の大塚仁教授の講演テープとかの拝聴ができた。その頃、私にとって、基本的なパラダイムができたのであろう。例えば、裁判所といえども、社会の縮図と言うべきで、いろいろな考えの裁判官がおられていい。その後、やがて、バブルがはじけ、少子化となり、学習塾自営が成り立たなくなり、その後、パソコンを教えたりしていた。その間、ハローワークを訪ねたりもしたが、屈辱的であり、その応対の失礼な態度に、窓口の方と口喧嘩となったりであった。だから、今に苦労している。ビジネスの世界も垣間見たが、彼らのしていることのデタラメは枚挙にいとまがない。ビジネスという名を借りて何をしているのか。勝ち組がいて、負け組がいて、弱肉強食で、勝つためには手段を選ばないといった低級な戦いである。これでは地獄も当然である。救いはないのか。ある。やはり、倫理と宗教の復活である。本来の人間性の復活である。あえて、復活である。そして、団藤教授も主体性理論を説かれたが、「惺惺著!」、「主人公、目を醒まして居るか」と、禅も絶対の自由と主体性を説く。『種の起源』がガラパゴス島と言われるが、文明文化のガラパゴスはここ日本である。もっと、謙虚にこのことを認め、誇りにも思い、地球の平和の本が日本であると知って、その方へ、英知を集めることをしてはどうか。しかし、いわゆるアカデミズムでは無理である。学会的集団研究ではレベルが届かない。個人の力でして行かなくてはならないだろう。個々人のDNAに隠された情報の鉱脈を探索するのは当事者でしかわからないことがあまりにも多すぎるから。ところで、1956年生まれの世代は、或意味で、日本海溝のような世代だと思われる。かつて、三津田高校は受験校で、学校が一丸となって受験指導もしていた。しかし、私の世代はむしろ全共闘の後で、同和教育関係の全体集会があったりして、勉強する方がむしろエゴの固まりに見えていた。ミュージックシーンはフォーク全盛時代だった。ロックはハードからプログレッシブへと移行していた。だから、ビートルズがよいと思えなかった。私は、よくロックを聴いた。しかし、ムーディブルースが好きだった。クラシックもよく聴いた。モンテベルディなど好きだった。さて、伝家の宝刀?王舎城のご宝塔は大良薬と聞いている。私の伝家の宝刀は、槍であり長刀であるかも知れぬ。あるいは、無名の扁額である。すでに歴史的事象である。今、こうした事実が無視されている。自分たちに親がないとは言えない。歴史的事実はある意味で親である。供養するべきは供養したらいい。供養とは相手の一番望むことをすることである、と聞いている。そして、明るい未来を迎えるがいい。そして、言論の自由の名において、個人的に思うことであるが、日本の戦争責任云々と言うが、果たしてそうだろうか。先ず、傍論として、中国も朝鮮も過去において戦乱をしてきている。さて、戦争は国家間の喧嘩である。喧嘩は両成敗というのが世間の良識ではないか。犯罪となれば別論である。果たして、日本の戦争行為は犯罪行為であったか。一部には非人間的戦闘員がいたとは聞いている。しかし、殆どの兵士は良識人であった。さらに、戦争に追い込んだのは列強であったとも言える。世界のパイが小さくなった頃ターゲットにされた、とも言える。また、違う見方をすれば、第二次世界大戦が明治維新の一つの帰結として、当時、維新軍のした事が原因となって実を結んだ、つまり、メビウスの輪のごとく同じ目にあったとも言える。これが原因結果の関係、つまり、因果である。苦は楽の種、楽は苦の種と世間ではいうが、苦は苦の種、楽は楽の種、と仏さまは言う。さて、負けるが勝ちと言うことがある。これは、見える世界でのことではない。見えない世界でのことである。だから、出雲大社の方が大きく祭られている。怖いのである。日本には、人類が本当に幸せになるための画餅ではない方法がある。時・場所・方法・人は整っている、後は実行有るのみ、と仏さまも言っておられる。真の平和を知っているのは日本である。原爆の地獄を体験しているのも日本である。本気で考えるべき時である。ところで、既に私は亡霊であるのかも知れぬ。一つは明治維新、ひとつはヒロシマの亡霊かも知れぬ。それでいいと思うときがある。そう思わないと割り切れぬものがある。諸精霊或いは魂にも段階がある。進化した魂に対しては仇やおろそかにはできぬ。そうしたことを粗末にしすぎた現代文明の惨状としての現実、ここで何を切り替えるべきか明らかである。つまり、心の在りようとそれに伴う種としての日常である。未来の種は今の我々の意識であり、日々のあたりまえの在りようである。自由で明るく在ればそれでいい。その他の必要は整う。整うことがないなら、必要ではない。無理するから辛い。無理は無理。気楽に漂うことができればいい。安楽はある。それが仏法であり、21世紀である。もはや失敗した過去の方法など要らない。幸せは自分たちの力で作ればいい。ところで、アランの幸福論、ヒルティの幸福論、いろいろと読んだ。そして、それなりにいいことが書いてあった。しかし、いくら読んでも、実践がないのだから現実の幸福はこなかった。その後、妙法華経と縁を頂いた。そして、「一には諸仏に護念され、二には諸々の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発せるなり。」が、本当の幸福論であることを知るに至った。世に様々なことが言われているが、自分の願いがかなえられる事が最高の幸福であろう。それが、実際にかなう方法が妙法華経である。そのためにどうするかは、冷暖自知、自分で実行してその味を知るしかない。「ここに願います」、と宇宙に思いが通り、つまり、宇宙とリンクする。万物同根の理が実感される。宇宙が自分だとわかると、自分をおろそかにできなくなる。孔子もここを自分を大切にするように、と言っている。それは、また、社会を、未来を大切にすることである。これが、自分のアイデンティティとなれば、自分を信じることもできるようになる。そして、一切衆生悉有仏性だから、誰もがこの自覚を持てば、誰もがこの力を得る。しかし、自分勝手にしても間違うばかりだから、その方法を教えてくれるところ、すなわち、仏所へ身を運んで教えてもらう。あとは、切り換わって、身と心で実行する。人類も、ここまできて、やっと、誰もが手にすることができるようになったことである。「2001年宇宙の旅」が言いたかったことでもある。思うに、それぞれ自分が宇宙である。それぞれの自分のあり方で未来が決まる。
【平成17年1月12日】
さて、自由と平等であるが、これは本来矛盾する。その中でのバランスが大切である。主観主義と客観主義、古典主義と近代主義、自由意思論と決定論、すべて両極端に偏することなく、折衷論がある。知行合一といった陽明学もある意味で中道と言える。さて、正・反・合のアウフヘーベンもそうである。ところで、論理の力というものがある。本来AとCの関係は明らかでないが、A=BとB=Cはわかっている。ならば、A=Cと言える、とする。つまり、AとCの断崖を飛び越える。千尋の谷を渡すぬるぬるっとすべる一本の丸木橋。これが論理の力である。何が言いたいか。わからなくても、見えなくても、真実はある、と。雲はかかれどもはるかかなたに有明の月、と。この真実に対して謙虚であるべきである、と。今、このことをあまりにも無視してはいないか。だから、例えば、犯罪現象が凶悪化し、少年犯罪が増えているのではないか。その原因は大人たちの神仏に対する無責任な文化現象にある。特に、マスコミの方々の殆どが自分に理解できないことを理由に真実であるのに無視していることに問題がある。むしろ、神仏を語るとマスコミ者として存在できないであろう、無知蒙昧で野蛮な文化現象にある。人間として最も大切な基準を認め得ない自分であることに気づけないことにある。理由は何か。無神論者的文化人が現代日本文化の閥を成していることにある。これがどのような結果をもたらすのか、彼らは誰も知らない。知らないからといって真実は真実である。世の文化人たちの反省するべきはここである。こうした迷信ではない或いは霊媒的ではない真実としての神仏を文化として前提として認める。少なくとも否定しない。その上で、何をしても自由、とパラダイムを変えてはどうだろうか。実はこのことは人類にとって死活問題である。今まではそれほど問題にすることもなかった。しかし、今、地球全土で起こっている天変地異をどう捉えているのだろうか。天災と人災と地災は同根である。宇宙と地球と人間は同根である。腐れば人間も淘汰される。現代社会現象の主動因はマスコミである。マスコミの色に庶民は染められる。何時までも、まじめを笑いものにしてきたことに無反省ではいられない。世のバランス配分を少しシフトする時が来たのである。少しまじめな方へ。あくまでも両極端に陥ることなく。面舵一杯の時である。面舵は難を避けるための最高手段である。ところで、中学生の頃のことであるが、初めての試験での成績は学級で3番、学年で5番であった。少し悔しかった。その頃、席次もわかるのであった。次の期末試験では学年で1番をとった。これで、何時でもとれると思った。その頃の勉強方法は、1週間で勝負だった。試験発表があると、生活はすべてが試験勉強体制となった。たとえば、学校から帰るとすぐに寝た。8時頃に起きて朝5時頃までする。そして仮眠して学校へ行く。そうした生活がしばらく続く。勉強方法は試験の時間割から逆算して、一日に2教科あるいは3教科で組む。そして、試験までに3回は各教科をこなす。社会であれば、先ず教科書を三度通読する。初めは青のボールペンで線を引く。次に赤のボールペンで線を引く。重なってもいい。次に黒の万年筆で線を引いた。そして、それらをレポート用紙にまとめる。左に項目、右に要点説明。そうしている間に、殆ど頭にはいる。そして、チェックしてどうしても覚えられないところをまとめる。およそ1枚に納まる。試験当時学校で見るのはその一枚である。ここまでするとおよそヤマも当たっている。そして何よりも大切なのは、学校の授業中に先生の話の9割は理解しておくことである。試験勉強はあとの一割である。最後に覚えるのはさらにその一割である。しかし、作業としては、おそらく人の3倍の量を3倍のスピードでしている。これが私の試験勉強であった。この方法で音楽も美術も技術も保健体育も10をとった。数学は単元主義でする。一単元4時間するとたいていはわかる。文化系も理科系も技術系も得意であった。ところで、一番好きだったのは理科だった。理科の場合、どうしても通常の方法では解けない種類の問題があるものである。そのような時には、その種類の問題を解くための特有の方法を編み出していたものである。それを見つけるまで寝られなかった。それで朝までしていた。その頃は寒かった。毛布を体と足に巻き付けてしていたものである。しかし、今に思い出して残念なのは、同級生はその母親に言われていたらしい。あの子と一緒に遊ぶな、と。あの子は何もしなくてもできるのだから。あなたは遊ばずに勉強しなさい、と。しかし、その後、高校に入ってからはいわゆる勉強をしなくなる。手紙ばかり書いていた。本ばかり読んでいた。ある意味で勉強することが馬鹿馬鹿しい時代であった。三無主義とか言われた時代であった。
【平成17年1月13日】
さて、学生の頃は麻雀ばかりしていた。みんなでトロフィーを用意して雀鬼戦とかやっていた。その頃、私はそんなに強くはなかった。勝つことにそれほど執着はなかった。ただ、麻雀ばかりしていた。その後だっただろうか、パソコンのソフトで麻雀の免許状を得た。今となってはうれしくなる<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/麻雀免許状.jpg" target="_blank">免許状</A>である。ところで、夏目漱石の「こころ」であるが、漱石としては、後半の手紙の部分はもともと構想になかった。新聞小説として、次がないので、そのまま引っ張った。また、ドストエフスキーの文筆力は半端ではなかった。彼は出版社から借金してそれに追われるようにして書いていた。彼は食事よりもギャンブルが好きだった。漱石は円覚寺で禅の修行をしている。しかし、いわゆる悟りに至ることはなかった。そして、彼の到達し得たのは「則天去私」であった。しかし、これで十分であったと思われる。そろばんに暗算がある。この暗算は頭にそろばんを思い浮かべてする。しかし、ほんとに頭がいいものはこれができない。つい筆算でするのである。さて、人は何故ギャンブルをするのであろうか。負けても負けてもしている。これが悪癖である。悪癖は人間にとって甘美なものである。一度味わうと抜け出せない種類のものである。いわゆる依存症となる。ある経営者が言っていた。雨になると百円玉が降ってくるような気がする時があった、と。それほどの商売となる。一斗缶に一万円札を足で詰め込んでいた時代もあったという。弱肉強食が経済の現実である。日々の労働力を売って生活するもののあずかり知らぬ世界である。道元は貧學道を言っている。さて、これからどうなるのか、お楽しみはこれからである。真実は真実であるから結実する。結果が出る。どういう結果が出るのか。念じる力はある。誰にでもある。宇宙を決定する力である。しかしそれほど簡単に手に入らない。宇宙と地球と人間が同根である。念じる力のあるものが、例えば、怒りを以てすれば、現実に雷が落ちる。信じられないであろうが、信じられないことが精神の低級を証明する。ここを今後どう考えるのか。世の知識人たちの試金石である、と思われる。かつてモームの「人間の絆」を読んでいくにつれて驚いたことがあった。例えば「燃える秋」のモチーフ・テーマが一ページで語られているのであった。さて、地獄も救われなければならない。二十一世紀の課題である。救われるためには、先ず、自然現象も含めて、或いは社会犯罪現象も含めて、現実が自分たちの犯した行為の結果であることを認めなければならない。そうであるのに(自分のしてきたこと自体がその責任の一端であるのに)、社会転嫁するな(大人社会の側の都合のよい論理でしかなく、責任転嫁しているのは言っている自分たちである)、と言っているようでは、所詮、若者のニート現象も救えない。自分を先とし、自分の利益のためには手段を選ばず、それが社会であるとする社会ではニートは救えない。ニートはむしろ新しい時代に適応するべきやさしい精神の持ち主と認めることができず(勿論、中には濁悪なニートもいることは社会の当然である)、一切病的現象と短絡分析する大人たちには、決して解決できない問題である。ニートの存在は若者を社会に適応させるのではなく、若者が生きていける方へ社会が変わらないといけない時代性の警鐘であるとは言えないだろうか。社会が進むべき道を間違っているので、少し引き返し、そこから再出発するべきであると告げているのではないか。視点の変換がいるのではないか。ニートである彼らの方が新しい。ニートはニートたち自ら解決するしかないであろう。どれだけ時間がかかっても。問題は自分の力で生きている人はいい。しかし、世の中にはコバンザメのような人間が多すぎる。詐欺的な人間が多すぎる。たとえ、本人はそのコバンザメ性と詐欺であることの自覚がないとしても。彼らの自覚がないところがトラジックである。そろそろ、この辺りを社会的に認識してはどうであろうか、と思われる。無意識に感じている方々が意識することで社会認識も変わってくる。時代は進化している。心も進化している。それを認めるべきであろう、と。今まで経験したことのない天変地異現象と凶悪犯罪社会性は時代の悲鳴である。時代が助けを求めている。人間に対してであるのに、聞こえないのであろうか。それも地球規模で。いつまでも無視はしていられない、SOSの声。そして、時代の漂流記の始まりとするなら、時代の流れに乗るしかない。また、何時の世もこのようなものだったのかも知れない。良寛は庵に住んでいた。米がなくなると、親戚に手紙を書いて所望した。そして、それで特に礼を言うこともなかった。ある時、親戚の子を諫めてくれるように言われてでかけた。しばらく滞在している間何も言わなかった。帰る時になって草鞋を履こうとした時、その子が世話をしてくれた。その時、良寛は一粒の涙を落とした。その子はそれを見逃さなかった。そしてその子はそれ以来立派に立ち直った。ところで、一休はお師匠から印可状を貰った。何時か役に立つから、と。しかし一休はそれを破り捨てた。当時の寺は腐敗していた。彼にとって印可状など必要としなかった。
【平成17年1月14日】
「悪舌は功徳の種を断ずる」は、仏説観普賢菩薩行法経にある。さて、あらゆることにはプラス面とマイナス面がある。今、地上のことが様々な局面でマイナスに傾きつつある。人間の行為はその最たるものである。そこで、批判をすれば枚挙に暇ない。壊す人と作る人は大江健三郎のテーマであった。今まで壊すことが批評の主体であった。ますますマイナスにエネルギーを注いでしまった。ここで、マイナス部分は自然淘汰に任す。そして、建設的批評をしていくのがいいと思われる。もうマイナスは言わないに限る。すべて美しく物事を語るべし、と。バラエティとかタレントとかもその方がいいように思われる。あまりにもテレビとマスコミは毒されてしまった。ここに毒矢に倒れた人がいる。この矢がどこから飛んできたのか、あるいは矢の毒の成分は何か。そのようなことを言う前にその矢を抜くことが大切である。これも仏教の話にある。さて、暮らしに毒が回ってきている。解毒するしかない。かつて高橋和巳の「孤立無援の思想」という本もあった。この種の世界は今どこにあるのであろうか。まさか無価値とは思えない。しかし現代大人社会はその価値を貶めた。しかし高原の植物のごとくひっそりとその命脈を保つ。下界の濁悪の与り知らぬままに。いつかその世界も息を吹き返すことがあればいいと思う。ところでモーゼが祈ると海が割れてそこを通って逃れたという話であるが、その地は「葦の海」と言われ、その現象は津波ではないかと言われている。モーゼの預言が現実成就するのが今かも知れない。また、詩の本質について吉田健一も言っていることであるが、本来言葉は詩である。日々使用している言葉であるが、この言葉が意味を持つ時、つまりはじめに言葉ありきというところまで力を持つ時、それぞれの言葉は、使う人の意思とは別の宇宙の意思といったものと一体となった言葉がある。それを敢えて詩と呼んでいるのではないだろうか。つまり、これがロゴスであり預言であるのではないか。よって、これに謙虚にならざるを得ない。詩としての言葉は、それ自体音声であり、ミュージックである。言葉を超えた言葉である。だから、言葉をもてあそぶものたちは、神に反すると言える。嘘の言えない、欺くことのできない所以である。この真実が現実化するのが21世紀である。生命現象としての旅がここまできた。人類文明文化のはじめにおいて約束されていた古くて新しい事、それが大衆レベルで結実する、これが過去において未来であり、現在において今である、と。かつて持っていたが失っていた力、それが心の力であり、願う力であった。この力は清浄な心に宿るという過去からの約束が果たされる時が来たのである。若者たちと共にいい時代が来る、と思われる所以である。私は既にこれを確信している。それを信じるに足りるに十分な自然現象としてのある意味での明るい奇跡を数多この目にしている。
【平成17年1月17日】
今日も本屋さんに寄ってみた。毎日どこかの書店に立ち寄っている。学生の頃からそうだった。呉の場合、寄ってみる本屋さんは限られる。決して多くはない。以前は、九嶺書房があって、ずいぶんとお世話になったものだったが、中通に今はない。本屋さんは大きいのがやはりいい。広島まで行けばそれなりの書店がある。さて、呉の書店にも面白い本が並ぶようになった。いいことだと思われる。
The pen is mightier than the sword. 言論の自由、表現の自由。精神的自由の絶対性。これらの諸価値がただ経済の具にされていては申し訳ない、と思いながら。人類の英知を本当の意味で大切にした文化が花咲き始めるといいナ、と思う。その為には先ず平和でないとこの種の花は咲かない。お粗末な文化に咲くことはない。ところで、日本も今デフレに苦しんでいる。いくら技術が進んでもそれを商品化できない。商品が売れない。リサイクルがそれを助長する。モノがあふれている。生産しなければ成長しないシステムが限界に来ている。母が面白いことを言った。生産しなくても利益が出ればいい、と。モノを動かすだけでそのエネルギーがお金になればいい、と。今、すべての価値基準がお金である。裁判所もお金に換算して処理すればいいと考えているように思われる。まさに地獄の沙汰も金次第、と。果たしてそれが佛の思いだっただろうか。社会の諸現象はマルクス以上にマルクス的である。おそらく、思想的にはカルバンから始まった西洋商業主義の帰結であろうか。反省するべき時だと思う。人間として生まれた楽しみがお金至上主義でいいのかどうか。今、勉強だけが人生ではない、と思っておられる方が多い。それ以上に、経済だけが人生ではない。しかし、現実は経済至上主義過ぎる。文化的には奴隷的な日常である。人間が人間らしく在るためのことを考える必要がある。あまりにも低級な文化現象に席巻されすぎている。あらためて文芸復興しては如何か。メジチ家のようなお金持ちのなぐさめではなく、庶民或いは市民レベルの本来のルネサンスを試みては如何か。それを認識し自負する方々が消極的に諦観或いは達観するのでなく、現実化へ向けて具体的行動されては如何か。あまりにも暴走している毒にもはや耐えられないのなら。自然財としての空気と水を自然財として享受し続けるために。良識人たちの空間を守るために。時代が変わった。今までの方法は通用しなくなる。今まで内部告発があっただろうか。在る意味でインターネット社会では国境がない。水面下で何が起きているか。正直者が馬鹿を見る、これが今まであった。これからは正直でないと生き残れない。時代は変わった。問題はこの正直さにある。正直であれという人が正直で生きられない社会が今までの社会であった。これからは、正直であれと言って正直に生きられる社会となる、と思われる。それが時代も魂も進化している所以である。矛盾を矛盾とあきらめざるを得なかった大人が矛盾を矛盾と認めて時の解決を正直なままに待っていていい新しい時代であると言える。人間が人間であることを信じられない時代であったこともここまで腐敗しないとわからなかった。まだまだこれからである。これからが人間としての本当の時代が始まる、と思っている。人間だから、と無理なあきらめをする必要のない、人間としての心を確認できる時代、21世紀は心の時代と信じている。魂として、清浄な魂たちはここまで来たのだから、このまま進めばいいと思う。魂としての尊厳を疑うことなく、また、あらゆる邪魔を乗り越えて、このまま進むのが生まれてきた使命あるいはミッションである、と。ばかばかしさの中で犬死にしないために、と逃げを打つことなく。道元の貧学道はすべての財を失ってみないとわかるものではない。あらゆる生活現象を金銭的に見積もっていてはわからない。わからない方々が多数を占めている。わからない方々が民主主義のリーダーでありすぎた。
【平成17年1月21日】
或る本を読んでいた。いかにもそれらしく経営コンサルタントで、それらしく本であるのだが、結局、とどのつまりはわからない、と。そして、それはカリスマ性である、と。ワルハラ城の落城は神々が契約違反したからであった。契約は本来血判であった。しかし、いわゆる諸天善神は常に復活する。さて、今私たちは米を食べる。何時の頃から食べているのだろうか。食べること、これがおろそかになっていないだろうか。食べるために先ず働く。余暇はその後のことである。余暇が当たり前になっていないだろうか。製品と商品の違いがある。製品至上主義ではサービス業が成り立たない。商品でないと食えない。5万円の商品を50万円にして生きる。そこに気づけばいいのだが、5万円のまま生きるべきであると教えられている方々はどう生きていったらいいのだろう。
【平成17年1月26日】
さて、言いたい放題もいいと思われる今日この頃である。ところで、確か民主主義の根本に、人間は本来自由であるが、それぞれが100%自由を主張すると野蛮となるから、その自由の一部を持ち寄って市民社会を作ったという社会契約論がある。ところで、民主主義の根幹を揺るがすような事件を取り扱う地検特捜部というのもある。何が言いたいかというと、本日報道された判決について、警察に身の危険を感じて保護を申し立て、告訴までしたが、殺されたという事件について、警察の初動捜査について不問にしたことにある。私としては、社会契約論は何なのかと思ってしまった。憲法変遷理論もある。悪法も法であるという法諺もある。少なくとも、私は、法律の隙間はあっても抜け穴はないと思っている。それから、身を切らせて骨を切る批評家と呼ばれたのが小林秀雄だった。花田清輝は骨が切れないと。しかし、中原中也の嫁さんをとることもそうだったのだろうか。権力・金力・武力の時代ではない時代が始まればいい。時代は自分たちが作ればいい。『第三の波』がやっとその効果を出し始めた。未来は今と気づいた方たちの手によって、時代が変わる。理由は十分にある。自覚した方々の心の中に。知らない方々が知らないだけである。
【平成17年1月27日】
或る本を読んでいて、初めてわかったことがある。「人の幸せを見て本当に喜べる」ことが、幸せの基準であることは前から知っていた。しかし、それが具体的にどういう事かはわからないままだった。これには要件が二つある。つまり、一つは、自分も幸せ経験があること、二つに、他人の幸せは自分も可能であると思えるからであること。これらをもって、「喜べる」と。ふと思い出すのが、祭りのこと。呉の祭りは大祭りと小祭りとある。そして川原石には神社が二つある。恵比寿神社と照日神社。おそらく海彦と山彦であろうか。一年ごとにトンボと御輿が登る。さて、思い出すのは、「あきのなーぁ ななうらぁ まわればょ ひちり ひちりななうらょ やーれ とんぼ もむのぇー」「うまがょー ものゆたー はこねのよー ……」「わたしゃなー おたふく ……」と皆が唱えて、とんぼをもんだ。昔は店先を壊すことなど当たり前で、むしろ縁起のよいことだった。今はどうか。遠慮してもんでいる。さて、広島大学法学部ゼミナール連絡会議を作ったのは私である。相棒は山口氏。福岡で弁護士をされている。ノンセクトで全ゼミナールの合意を得て出発した。何度か会議を開いて半年かかった。その頃思ったのは、各ゼミナールが孤立し、ゼミ間の交流はなく、それぞれの学生が何をしているのかわからないことに疑問を抱いた。少なくとも、各学生の卒論のテーマはそれぞれ知っていていいと思われた。それで<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/ゼミ連機関誌表紙.JPG" target="_blank">機関誌</A>を作った。メインは各学生の卒論のテーマと<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/ゼミ連学生名簿表紙.JPG" target="_blank">住所録</A>だった。あといくつかのエッセイのようなものもあっただろうか。そして、年に一度、著名な先生を迎えて講義を開くこと。また、各ゼミの交流を図るイベントとして当時広島大学で流行っていたソフトボール大会であった。以上ですべてである。今も殆どその通り機能していると風の噂に聞いている。スタッフの燃えたその頃が懐かしい。また、小学校の時であるが、5年生から6年生の頃コントラバスを弾くことがあった。その頃、カデンツァとかソルフェージュとかで鍛えられた。学芸会ではなく音楽会の頃だった。昼休みには大きな楽器を抱えて一人黙々と練習だった。音楽室の準備室で練習すると、窓ガラスとハウリングする。孤独ながらも、指は水ぶくれながらも、当たり前の日々だった。やがて、弓で弦を響かすことも覚えていた。32連符のピチカートもこなしていた。市民ホールの音楽会で演奏したのは、『ウィンザーの陽気な女房たち』だった。そして、その頃、呉線はまだ蒸気機関車だった。蒸気機関車が走っていたのは日本で三線しかなかった。呉線が電化されたのはこの頃であった。今でも、寝台急行安芸の白い蒸気が目に浮かぶ。カントの散歩のように正確に時を刻む日本国有鉄道そのものであった。その頃、スワローエンゼルのC62ー02とEF58の二重連も見た。C59が最後まで走っていた。そして、呉線電化に伴う記念式で、呉駅でジーゼルカーを迎えたのは呉市立港町小学校鼓笛隊であった。かつて寝た子を起こすな、と言われていた。しかし、いつかは起きる。小学校の屋体で幻灯とかあった。『竜の子太郎』の映画もあった。ところで、世に、太い檜の大黒柱はよく見る。しかし、桜の大黒柱・椰子の床柱はあまり見ない。黒檀もやはり珍しい。黒柿の横木も。松の梁は堅い。ドリルも通らない。床下の栗の木は腐らない。さらにその下にレンガを敷けば堅固である。水戸黄門は全国行脚などしていない。大日本史は編纂した。結局、男は力である。力は火である。火は日であり、陽である。女は陰、月である。日月、陰陽合して、明るく、新しい力となる。今は工業の時代。だから男の功というべきか。要は力である。カ行変格活用。謎の一つである。天を天とも思わず、地を地とも思わず、たかが人間の計らいで事が成ると思う輩が多すぎる。因果応報。結果を見てはもう遅い。ただそれだけのことである。悟るべき或いは気づくべきは、今、地球が大転換期にある事実である。すでに化石時代の遺産の上の繁栄は終焉を迎えようとしている(原子力・メタン等の有効活用は未来の選択肢のためであり、現在の延命のためではない)。それなのに、中国・インドの市場経済化は何を意味しているのか。本当にそれでいいのか。どこまで未来を見据えているのか。すでに、中国の二酸化炭素排出量は日本をはるかに上回る。中国の人件費に関する経済効果のみで日本の技術を流出させたことに関してそのマイナスはもう問えない。企業の盲目はいい。むしろ、それを指導できなかった日本國政府に問題がある。国家運転能力なしと言うべきか。問題はわかっているはずである。ならば解決を図るべきではないか。それとも問題自体が見えていないのであろうか。敢えて言う。生か死か。墓か再生か。ハカが濁点となればバカである。父は戦時中カムチャッカにいた。最北端である。その為か私も少々の寒さは気にならない。DNAのどこかに記録されているのであろう。ところで、閻魔大王はいる。閻魔帳は別名アカシックレコードである。恐るべし。仏さんの所で謝ればその罪を消してもらえる。久遠実成の懺悔解縛解脱誓言である。さて、日本経済は世界経済の奔流に弄ばれている。そして、それしか道がないように思っているように思われる。果たしてそうか。そもそも生きていることの目的は何か。老子は言う。森の奥に曲がりくねった老木がある。何の役にも立たない。それで切り倒されることなく生を全うした。世界経済の奔流か何かは知らぬが、死に急ぐことはない。今生の生は二度とない。死んだらおしまいである。生きてこそのことである。生の目的は別にある。経済行為が目的ではない。その意味で女は男よりしたたかである。せっかく生まれてきたこの生を楽しまない手はない。それが、般若心経の呪であり、ベートーベンの「喜びの歌」であり、禅者の説く悟りの本質である。それを至らぬ人間が自分勝手に解釈して勝手に苦しんでいる。そして苦の種を蒔き苦を殖産している。これを天地が許すことはない。愚かなるかな人間である。で、気づいた方々はどうしているのだろうか。一隅を照らすのみ。暖かな波動をもって静かに根を張る。光を受けて生を繁茂させる。マイナスの気持ちは病を起こす。プラスの気持ちがストレスを解消する。社会はマイナスの嵐が吹き荒れている。嵐は三日続かない。こんな朝は、BGMはユーミンの「やさしさに包まれたなら」か拓郎の「春の風が吹いていたら」だね。
【平成17年2月4日】
立春。春立ちぬ。生命が蠢く。蠢動。すべて始まりがあって終わりがある。開結。結んで開いて。開いて結ぶ。その繰り返しでしかない。生きるとき、その形は無限である。かつて、狩猟漁撈。今、勤労。謙虚にこつこつ。やがて、時が来れば実る。何をしてもいい。他人に迷惑をかけなければ。職業に貴賎はない。他人の成功をとやかく言うことはない。自分も稼げばいい。その時々の仕事を精一杯する。その時々の問題を個々に解く。それが無門関第37則
『庭前柏樹』(この鎌はよう切れるわい!)であり、それだけのことである。あらゆることは無駄ではない。全てが消化され、絶大の自信となればいい。何事があっても自信あるとき、それがこの世で自己が求めた回答である。仏法は自分の求めるものを与えてくれる。相手にするべきは目先の小さな損得ではない。無限の問題処理能力である。解決能力である。開結。開いて結ぶ。さて、小学校のとき、その頃は学芸会ではなく音楽会で、オペレッタだった。私は、醜いアヒルの子だったり、シンデレラの白い鳥(魔法使い)だった。幼稚園のときはお遊戯会で弁慶だった。学生の頃、鎌倉駅前の喫茶店の奥の席には大きなガラス窓があって、そこに木があり、上のほうから光がさして、きらきらと木洩れ日があって、さらさらと葉のそよぎもあった。温かなのどやかな日だった。彼女はかつて同級生であり、その時は三菱商事のOLだった。その後、建長寺だったろうか裏山へ上ったりもした。ハイヒールの彼女が辛そうですぐに降りた。そして、その日のうちに、横浜駅からブルートレインに乗って別れた。彼女はうつむいて手を振ることもなかった。まるでチューリップの「心の旅」だった。何度も出会いがあり、別れがあった。その時々で、答えを出せばよかったものを、私はもっと大きな問題を抱えていた。それを解くまでは、私に選択の自由はなかった。絶対の自由を得ること。それはいわゆる悟りでもあった。絶対の自己実現であった。自由。喜びの生存。うわさに聞いた、喜びの世界。そして、ハッサンの物語の現成だった。正直さだけで全てが解決するシンプルな世界であった。唯自分勝手な思いがあるいは怒りが自分の環境を壊していた。素質と環境は二つの独立した概念ではない。素質と環境は関連変数である。素質も環境も穏やかとなること、これが人生の目的と言える。そうすれば、すべてのことがすらすらと流れ、苦労することもない。言わば神仏の加護の中で幸せに生きて行ける。安穏な日々が訪れる。壊していたのは自分の計らいだった。仏法はこれをいう。これが地球を含む宇宙の法則だったのだ、と。人も輪廻する。地球も輪廻する。苦の輪廻から楽の輪廻へ渡ること。仏法の筏で以って。だね。
【平成17年2月5日】どんなことがあっても、明るく楽しく!。これ以上の諸価値はない。神々も仏もうらやむ。単純明快。鳥が日々餌を得て楽しく囀る。それだけでよい。哲学も目的ではなく、筏にすぎない。そこへ至るための。仕事は餌を得る行為。楽しくできればそれに越したことはない。白楽天。酒を飲むことがそれではない。何事も明るく楽しくできて、別に悩みもなく、しなくてはならないといった強迫観念もなく、さらさらと、日日を過ごすこと。それができることが、この世に生まれた意味でもあった。人は成長する。そこへ向けて。笑顔がこぼれてくるまで。ところで、素直に仏を信じることができる時代が正法、大きな伽藍とか仏像を見て信じることができる時代が像法、どうしても信じることができない時代が末法、と聞いている。いつか時代は濁悪となり、恐怖悪世となる、と言われていた。その時になったら、一切大衆が救われる時代が来る、と言われていた。それが妙法華経である、と。信を持って入ることを得たり。一切大衆は自ら出ること能わず。ただ善業の因縁より出たり、と。今はそういう時代だと確かに思われる。やっと一切大衆がこの川を渡ることができることになったんだ、と。本当の幸せの世界へ。人類の数千年来の夢がかなう時代が来た、と。阿修羅荒れ狂う中、野鼠が恐竜の時代を耐えたように、穏やかで優しい人たちが、新しい時代を待っている。あらゆる災害の原因も人間がその種を蒔いている。ところで、凶悪な事件が多くなった。犯罪者たちをDNAの観点から考えた場合どう扱うべきか難しい問題がある。裁くべきは何か。裁の字は裁縫の裁である。教育刑とかいった概念もあるが、そもそも教育が可能なのかどうか。また警察とか刑務所とかその意識において少なくとも夜警国家論的な義務と責任を真面目に果たしているのだろうか。憲法の番犬とか言って吠えているだけではないか。ハローワークも警察も本当に困った人の助けにはなっていない。正直者はバカを見る。本来行政は積極的なもののはずが、彼らはそうしたことを好まない。面倒くさいのであろう。生活と安全が保障された彼ら公務員には結局わからないことなのであろうか。行政法も民法化する部分が多くなっている。いつか反省もあり気づきもあるのだろう。しかしメビウスの輪。何が本当の幸せか(自分のDNAとしての魂=心の進化:清浄)を知るほうが勝ちである。仏は言う。仏法は勝つ。王法は儲ける。と。禅語に言う。主人公。と。さて、塾が精鋭を連れてある学校へ受験する。当然上位合格者を占める。始めから入学の意思はない。これでいいのかどうか。紳士協定のようなものは今ない。戦争も戦争法がなくなったのだろうか。国際法もなくなるのだろうか。野蛮な時代である。</P>
【平成17年2月11日】今日は大祭だった。朝仏道で遙拝所から黄金の光が反射した。遙拝所からは、仏道に黄金の姿が、宝殿地獄界の刻彫のひとつの十方の仏さまのように、逆V字に現れていた。お餅を切る善業をさせて頂いた。その時に指を少し切った。指切りの約束をした。と、今は思う。
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<TD>【平成17年2月12日 大祭お礼参拝より】
「昭和29年11月11日 平等大慧教菩薩法佛所護念眞實證明のご本尊樣と妙法華経の顕説。昭和30年1月24日 仏法の地、房州阿波国清澄山で、早朝ご来迎を拝し、御供養して御宣言。日蓮がはじめて南無妙法蓮華経を唱えた場所。自分だけでなく人にも唱えさせた場所。仏さんが唱えなさいと言っていたこと。日蓮は方便の中で重要な御役。方便は真実の教えが出るまで、仏さんの教えを遺す役があった。そうした仏法上の先輩に礼儀を以て真実の教えを発表することができました。と。これからは、この教えで一切大衆を救うことをして参ります、と。次に皇居へ入城することを目指された。今でも遠い。何時でも入れるわけでもない。時間も決まったらその時間でないと入れない。同じ日の裡に入る。宝の門である乾の門から入った。錦の御旗先頭に。王法。神さまの教えの中心地。天皇のお住まいの地。天皇家は代々日本の神さまを司る役。神さまの教えに対して発会の挨拶。地上唯一、王佛冥合の教えだから。大衆が救われるためには王佛冥合の教えでないと救われない。仏さまの教えの神髄は絶対に勝つこと。王様の教えの神髄は必ず儲けること。一月二四日のうちにしなければならなかった。そして、多くの人と共にすることができた。次の日に、神さまの場所として大切な伊勢神宮を参拝した。天津神を祀る神社。錦の御旗を先頭に。大勢の人が手を合わせて礼をした。その頃の日本人は目に見えない方を尊重するところがあった。御旗に何か感じたのであろう。昭和30年2月11日 目に見えるところ、娑婆世界全てに向けて御宣言。經巻所住のところには塔を建てなさい。と言われていた。御寶帳をお祀りすることが地上初めて許された。ご祖先を宝とすることが始まった。妙法塔。見える方見えない方両方に通じる塔。大衆を救うための智慧が世の中に顕されて出発の日。その因縁を頂いた。新たに出発する。仏さんの願いは大衆を救うこと。仏さまが方法を教えて下さり、法則を教えて下さる。こうこうこうだから困り、大衆は救われたいと思っている。こうしたら救われる。と。救世者とは、教えを聞いて、大衆を救うことを仕事とする。救世者を生み出す方法、救世者の活躍の場、救世者の因縁、解決するための方法を作り、教えて下さった。大衆を救うために必要なもの。大衆が救われるための病院として佛所建立。大衆を救う医者としての救世者。大衆を救うための薬としての御法妙。使命としての役はそれぞれにある。人を連れてくる役。病人をその場で手当ができなければ病院へ運ぶ。仏所へ来ないと救われない。病院・医者・薬があっても連れて来ないと意味がない。これが船師大船師。医王大医王は病に従って薬を処方する。病院にはいろいろなものが必要。消毒薬、ガーゼ、メス、輸血。仏さんが大衆を救うために必要と思うものを調達する。調御大調御。それぞれが救世者である。どの役かは修業する中でわかる。必要なものは全てそろった。9月16日 仏さまの秘宝といわれた「事」。ふつうにはわからない。目の前にあってもわからない。説いてもらわないとわからない。その時、自分たちの状態がどういう状態かわかった。事とういものを教えて貰っていたが、仏さんの教えに対し、疑ったり、できないと思った。そのような大きな事をするなんて、と驚いたり、怖がったりした。素直にする方へ換わっていかなくてはならない。11月11日 自分たちの戒めを本当に解いてもらうために、実相戒壇建立が開かれた。悪業で戒めを受けているから仏さんの教えをできない。しようと思っても足が動かない。口が動かない。頭では思ってもできない。戒めがあったからこれをほどいて貰う。1月16日 仏さんの思いに自分の心を合わせる。佛さんの流れの方に飛び移る。大の親の供養が始まった。佛さんとの約束だった千の塔を建てることを仏子一同でさせてもらった。久遠劫に約束していたことを思い出し、文理を以て救世者の志願を許して頂いた。久遠の昔に弥勒菩薩さんといっしょにさせて貰っていた。約束がなかったなら、巡り会うこともなかった。一大事因縁をもう一度教えて貰った。霊界に対しても、実成の今日させてもらいます、と約束。心恐怖せず。私たちの行は止まっていたが、佛さんが涅槃された縁で、佛さんの思いに心を合わせることができて、疑わず、恐れず、佛さんのことをできるようになった。全ての順序が運ばれた。故に、救世者として世の中を救うことの準備が整った。出発の因縁を頂いた。因果応報で、天災・地災・人災と三災に困っている人が多い。大宇宙は本来平等。人間の悪業で不平等がはびこった。経済、何百倍の差。自分の力ではどうにもならない人が多くいる。自分が生まれた場所においても差がある。同じ人間であっても寿命の差がある。三十の寿命の人がいる。五人に一人は五歳で亡くなっている国もある。平等というものを作ることが平等大慧会の仕事。自分の周りに佛さんのお陰でよくなりましたという人を産み育てる。人間以下のものに対しても。その為に佛さんの縁をつけてもらう。今までは惡の縁がつながって今がある。どこかで善の縁を頂かねばならない。仏縁ではじめて善の方の縁へ変わっていける。善縁あって、教えて貰うこともできるし、救世者として志願もできる。だから、これから、善の縁をつないでいく。自分の知っている人の中から。そうして世の中が平和となる。過去からの惡因縁を自分で解決してゆける教えに会っている。今まではすべて方便の教えだった。あなたまかせだった。自分で解決する教えではなかった。気休めに過ぎなかった。本当は自分しか解決できない。それを地上初めて教えて貰えた。体力に応じて一歩ずつしていけばよい。体力のある人は一気に走ってすればいい。それだけ早く楽になれる。先ずお経を上げることをする。ご祖先が楽になる。上げ方にも段階がある。お経の時間がとれないのもその人のこと。徳があれば時間はとれる。それぞれにしていく。自分のことしかできない人もいる。親の供養。亡くなった方々にどういう人がいたのか。祖先を集めてくる。御法妙を贈る。ご祖先の戒めがとれる。昭和30年2月11日に許されたご寶帳へ記帳する。ご祖先は子孫の宝となる。ご祖先は子孫を助けたいと思っている。戒めある裡はできない。戒めを解いて貰って、お供養して貰うからには、子孫を助ける。菩提樹御供養。生きとし生けるもののお供養。どうしても行ってあやまらなければならないところ。一天の戒壇。あやまるところとして許して頂いているところ。食べたものに対して、これまでしてきた悪業に対してあやまることをさせて頂く。あやまることで、真実の中の真実に入ることができる。仏子として御法器を拝授する。御宝珠は仏子としての印。解脱開門のカギ。仏所御供養へ行ける。仏所破壊の罪。法を説くお釈迦様の住所と、それを証明する多寳佛様の住所へ仏子となったことを報告しに行く。人間とは何か(畜生)との間にあって人になっていない。親の供養ができないでいる。解脱の式をして、はじめて人となれる。善の入神。目に見えないところにおいても仏子としての印。御宝珠こそ、王佛冥合の印である。佛さんの教えに会ったことを人に伝えていく。これが分別屬累。真実の事No2が頂ける。如来の神力を頂くための行をひとつでもしていく。ひとつづつしていくとだんだんとやさしく進める。縁の方、エリアの方、その人に合った行をしていく。自分がこうであったのだから、他の人も……でない。自分が進めないから、他の人も進めない……でもない。子の成仏は親の成仏。人がどんどん進めるのを止めるのはお釈迦様の教えに反する。喜んでする。喜んでできる。どんどん自分が変わってゆける。真実の中の真実に入っている。ギスギスすることはない。喜んでさせてもらったらいい。仲良く、支え合って、させて貰ったらいい。合わない人がいる。向こうから見たらお互い様。嫌い、嫌いと言っている人は嫌われている。相手のいいところを見つける人が幸せな人。自分のいいところを見つけて貰えるから。道場はみんなが護る。親近して、みんなで仏所護念する。先ずは心がける。行かして貰って、掃除とかさせて貰う。地区支部が明るくなり、法のことをさせて貰うことが喜びとなる。出発の縁は頂いた。これからは楽しく法のことをさせて貰ったらいい。御寶を頂いたら、それにふさわしい家・自分になっていく。自分を磨くことによってよりよい未来が開ける。実成の今日改めて志願を実成としていく。自分に何ができるのか、周りの人と共にしていく中で、人のいいところをさがす。相手もさがしてくれる。自分ではわからない自分自身がある。これは周りの人に教えて貰わないとわからない。そのためには相手のいいところをさがす。相手は鏡。自分でしかわからないものは自分でさがす。そうすれば自分がわかってくる。そして、自分の徳分を発揮していく。仏所御供養で体験したこと。宝として生かしていく。自分のこれからに。驚疑怖畏。怖れることはカチカチとなって現れる。仏さまからしてみればすべてわかっていること。自分の持っているもの。失敗も出るものは出る。よくないものは改める。いいものはそのまま伸ばす。自分にないものは出ない。佛さんのお陰で自分のいいものを出すことができた、と思う。佛さんは全てわかっている。その中でベストを尽くす。そして結果を受け止める。」
</TD>
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<P align="left">【平成17年2月12日】かつて大戦の頃、アメリカは日本のことを調査した。精神的なバックボーンは何か。そして、日本の神道の調査で得た結論は、神としての存在はあるが、その正体はわからなかった。彼らには日本の精神はわからない。中国もそうかもしれない。それで靖国神社にこだわっているのであろう。21世紀を救いに導けるのは日本である。政治的にでも経済的にでもない、別の方法がある。
【平成17年2月13日】しかし、苦労してきたことである。言うに言えない苦労をしてきたことだった。私の場合は深淵へ下った。誰も見たことのないものを見てきたのかも知れない。しかし、ここにいたってよしとする。ただ、私を食い物にしたものたち(私の解かねばならなかった因縁は明治維新とヒロシマである)を私の諸精霊は赦さないかも知れない。それほどの目にあってきたことではあった。大学にしても就職にしてもヒロシマから出ようとして出ることはできなかった。何故だったか。今はわかっている。心を鎮めること。これも自分でするしかない、と。ところで、私は高校受験も大学受験も一校しか受験していない。最も重要なことがある。かつて地球は何度も地殻変動を経験している。80年周期の東海地震どころではない。その痕跡がムー大陸だったりする。そして、この宇宙の営みは人間の行為と連動している。つまり、ここで、宇宙との約束を思い出さないと、人類は滅ぶ。そういう時期である。真に平和を愛する新しい人が少なすぎる。人類の意思決定で幸せな千年の至福を得るのかどうか。問題はこれである。哲学書・歴史書は全てここに集約する。そのように思われる。むしろ杞憂であることを願う。遺跡・化石をどう評価するべきか。一瞬にして何がそこに起こったのか。天災・地災・人災、三災は一災である。私はある意味で千尋の谷を登り切ったのかも知れぬ。地獄の黙示録から抜け出したのかも知れぬ。ある人曰く、衆生病む故に我病む、と。で、一隅を照らす。足下を見る。虎視眈々と、目を光らせて。小林秀雄は身を切らせて骨を切るという。しかし、彼の性根では魂は切れぬ。さて、普賢菩薩樣はいて常に守護してくれている。佛の智慧は仏説を聞くことにより、如来の智慧はお経の讀誦により、自然の智慧は『すべてが僕の力になる』という歌のように、頂くことができる。確かにそこに幸せな世界がある。21世紀はそういう世界!これがビートルズのレット・イット・ビー! 夢実現のために生まれてきた。それぞれにしかできないことがある。だから、それを見つけて出航、Good
Luck! 新しい時代が始まってる。すでに。 Let's Ride on Time! いい時代が来たな、と思う。ほんとに21世紀だなって、思う。
【平成17年2月14日】新井白石は『鬼神論』を書いている。鬼がいる。鬼に角が生えて家に住めば魔となる。この魔がとにかく邪魔をする。思い通りにならないのはこの魔の仕業である。しかし魔も救われたいと思っている。そして、佛に頼んだ。佛は救うと約束した。それで、魔も佛の子を護る約束がある。佛の子の印は、宇宙の姿と人間の体をも示している御宝珠である。佛の御宝珠には頭がある。そこに印が刻印されている。さて、魔の住処は日本である。ここに日本の秘密がある。この辺りをあまりにも無視しているのが現代の不幸の原因である。
【平成17年2月15日】<FONT face="osaka,MS" Pゴシック,arial,helvetica>坂井三郎著</FONT><FONT face="osaka,MS" size="-1" Pゴシック,arial,helvetica> </FONT>『続大空のサムライ』というのがある。 神風は吹く。 不沈艦大和は沈んだ。黙って抵抗することなく。第二次世界大戦は負けた。しかし
負けたからといって神風がなくなったわけではない。神々も契約を破れば滅びる。ワルハラ城の物語。そしてどんなに優秀なパイロットも戦闘機がなければ戦えない。戦争では武器がなければ負ける。 神々は武器を持つ。仏は武器を持たない。仏法は必ず勝つものを。王法は必ず儲ける。神々もあやまらなければならないのが、六斎日。梵天帝釈も踏み給ふべき実相戒壇。事の戒法とはこれを言う。懺悔滅罪の実相戒壇建立である。さて、神々の存在をわからせる方法はいくらでもある。雷神風神を呼ぶべきか。
嵐など何故起こるのか。神が泣けば雨も降る。 神が怒れば雷も落ちる。風も吹く。今、神々はどこにいるのだろうか。やはり天にいるのか。地より出てくると言う菩薩たちはすでに出てきてどこにいるのか。地蔵菩薩たちは。天と地との間で人は何をしているのか。悪は征伐されるべきのみであるものを。悪が善に変われる時代でもある。何が善であり何が悪であるか。妙法華経を持ちそれを修行するを以って善である、と聞いている。さて、陽数の最大は9、陰数の最大は6。それでヨハネの黙示録の666も理解できる。作る人は朗らかなり、も。最後に笑う人が勝利者であるということも。朗らかが価値であり、怒りは鎮めるべきであることも。悪舌は功徳の種を断ずる、と。鳥の舞は美しい。鳥居はかつて神の居た処の痕跡である。神々は生きている。代々生きている。痕跡は過去の印にすぎない。現成公案。活発である。これが日本の秘密である。かつて神々の中には悪神もいた。今、神々は諸天善神となり、21世紀を迎える。そして、諸相が現れる。魂の格が現れる。本末転倒が解消する。やがて諸相も正しい姿に戻る。
【平成17年2月17日】彷徨うもいい。流離うもいい。いつか本来の道に戻るならば。その時、歩んだ道の遠さに比例してその道の意味を知る。そして、今雨が降っている。やさしい雨である。しょうしょうと。春の雨のごとく。長谷川四郎という作家がいる。『よく似た人』が最高に好きである。『知恵の悲しみ』もいい。さて、彼は陸軍中野学校から大陸で諜報員をした。そして、終戦を迎え、シベリア抑留25年の刑。帰国して愛知県で半農半作家業。東京に出てくるように何度も誘われたが、出ることはなかった。杉浦民平とかもいた。何とも言えない。石原吉郎も。『望郷と海』。有吉佐和子の『私は忘れない』は黒島の物語。『私は赦さない』という書もあるかも知れぬ。
【平成17年2月18日】
常に相手の立場と気持ちを考えよ、と。相手はつらい状況にあるかも知れぬ。あそこに泣いている子がいる。あれは自分なんだと思う心が万物同根の仏法でもある。生きることとは何か。生命のありったけを燃やし尽くす。そして、灰となる。成仏・遷化である。今生での解脱開門である。真剣勝負、必死の諸相で仕事をしている方々がいる。まさに、生きることは、生き抜くことは、戦乱の世と同じである。市も県も中小企業経営者は破綻すると認識している。そして行政している。何のための行政なのか意味がわからない。彼らのしていることに目的としてのパースペクティブが見えない。自分たちだけは大丈夫と思っているのであろうか。悪業の因縁となる。衆生は自ら出ることはできない。宇宙の法則である。唯、善業の因縁より出たり、と。大切なことを忘れている。何千年来の。ところで、「事」は仏、「爾」は神、「字」が人。仏とは宇宙そのものの化体。人は宇宙の子。人の姿となった仏が有る。頭も有れば全てある。その形が御寶珠。人の進化した姿が神。神は示し申す人。人間は神に非ず。人間性は畜生・動物性の一種。仁が人の性。阿修羅は人間の醜い瞋の姿。何が言いたいか。むさぼること・いかること・真実を知らないことからの脱却。人が神ともなれば仏にもなる。人の姿が娑婆世界に反射する。思えば映る娑婆の色。誰が、何が、自然現象も含めて、この娑婆世界を作っているのか。人間の心と行為である。だからマスコミは恐るべし。特にテレビは。もはやそれが赦されなくなりつつある。地球環境は自分たちで作るべきもの。人の心を変える。人の行為を変える。21世紀の課題。そろそろ知るべし。魂は進化する。教育も進化する。アナクロニズムなく。逆行しては元の木阿弥。未来志向。未来は今。本来今。今昔物語。地球は太陽の子。月は太陽の孫。日面佛。月面佛。宇宙は全て仏を目指す。仏があがり。ゴール。さて、金は慈悲。銀は平和。謎は自分で解かねばならぬものであるが、私の家にあった朝井清の版画の謎が解けたのは、郷原の山田の里を訪ねたときのことだった。そこに、その絵そのものを見た。つまり、湾は山田の里の田の風景であった。そして、朝井清の版画の裏から、後藤良亮の版画が出てきたのであった。かつて、何故長崎・佐世保行き急行出島号は呉8:15始発だったのか。また、東京行き寝台急行安芸号は広島発呉線経由で、何故蒸気機関車が牽引していたのか。私が小学校の頃のことである。夕方安芸号が走ると、家路に就かねばならぬと思ったものである。それは、夕日の赤さが郷愁的にさせるのと同じだった。カラスの声にその種のデリケートなところを感じたことはない。さて、ソドムとゴモラは地殻変動による地球の罰ではなかったか。しかし、地球の子としての人間が正しい道を選択するならば、不思議、その道を進むことを宇宙の掟は赦す、と。芸能人の文化が雑草のごとくはびこったは滅びる運命か。あまり、冒涜なことは言わないほうがいい。どうしようもないことなのであろうか。源氏物語のあわれ、と。そして、スティービー・ワンダーの「愛の園」は何故日本語で歌われていたのか。また、会社の舵取りは社長がする。市の舵取りは市長、県は知事、国は政府。地球の舵取りは神々がする。梵天帝釈の仕事である。梵天帝釈が救世者である。宇宙の運転は諸仏がしている。那国常所に於いて。「常」とは「永遠」のことである。
【平成17年2月19日】罪のない人がある日突然・・・・。その人に罪がないわけではない。過去に因縁がある。種を蒔いている。それが今生に実と成って現れる。だから、過去の因縁を解決しないとまた出てくる。今までその方法はわからなかった。しかし、仏と仏との約束がある。久遠実成の。どこにあるのか。誰が知っているのか。真実は自分が探すしかない。時ここに至って、本当のことが説かれている処がある。そこが仏の住所、佛所である。仏は言う。一切大衆を救う、と。大衆が大衆のままで救われるときが来た。大衆とは人間だけにあらず。一切の生きとし生けるものをいう。時・場所・方法・人・実行。すべて説かれた。あとは、人の実行あるのみ、と。妙法華経と説と現実が一致する。よって真実である、と。お経典より一歩も出ない、と。そして、道元いわく、「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふる」。畏怖すべきはここである。
【平成17年2月20日】いろいろな意味で、再び、本気で御経讀誦だね。何だかやはり世の偉い人は勘違いしてる。人間でしかないのに。このようであるなら、逃げ出したくもなるよね。何故だろうか。もっとやさしく生きられると思うのだけれど。みんなおかしいね。怖れを知らないというか。神々が本気で怒ると何が起こるか、知らなすぎる。原爆が落ちたとき神々の世界に何があったのだろうか(伝家の薙刀も螺鈿の槍も折られた)。やはり仏所護念して諸仏に守護してもらうしかない。人間環境は悲しすぎるから。あまりにも無知すぎて。このことを癡と言うのだけれど。世の方とか、もっとやさしくなると、きっと成功するのに。かつて学生の頃大塚博堂が好きだった。中国新聞本社であったコンサートにも出かけた。その頃は布施明と小椋佳をたして2で割ったように好きだった。レベルが高いと思っていた。しかしその後それは編曲力と気づいた。そして、その後、二十年もすぎて、その面影に出会うことになろうとは。運命の悪戯だね。かつてはこのようなことを信じられなかった。今は信じられないのではない。楽しんでいる。こんなに祝福されていて好いのだろうか、って。もう大和は沈んだのだし、碇も沈めることに決めるのだから。だから、もう何事も起こらないように、祈ることに決めるのだから。出来る事ならば。それが21世紀の神々の意思となるように。そして、小学校のとき、黒板の上に架けられていたのは、「楽音」という広島高等師範出の先生の書だった。そしてその教室から、グロブティック・トーキョー52万トンタンカーの出航も観た。呉造船所がIHIになった頃、100万トンタンカーが計画されていた。そのために大きなブリッジもあった。大和が建造された第4秘密ドックの隣にあった。その後そのブリッジを見たのは鹿児島でだった。今はもう解体されたと聞いた。さて、プライバシーの権利とは、
the right to let me be alone で、もう私を放っておいて欲しい、悲しませないで欲しいと願うのだけれど、食事はしないといけないから…働く。仕事とは仕える業と聞いたから。それから、放てば手に満てり!大死一番絶後に蘇る。飛び込めば重さで浮かぶ蛙かな。同じことである。救われるためには飛び込む。どこへ?!地獄を見ないと、天国は見えない。で、貧しき者は幸いなり。ところで、自分なりに学問してきた。潜在的な能力では世間は認めない。吉田健一も言っていたことだが、一部の専門家でしかないのに全体の専門家のように錯覚するのが人間の常である。そして、戦争の頃阿国のために死ぬことが正義であった。現在、明らかに競争社会であり、弱肉強食である。そして、すでに社会的に生きてゆけるようになった方々はゆとりとか人間性とかを説く。そこへ至れない子もいる。で、豚は死ね。言わないだけで、社会はそういうことをしている。虐げられている子は自分の思いを明らかにすることも出来ず、表現することも出来ない。しかし、世間は明るい声に満ちている。世間はハングリーであるが世間の空気はハングリーではない。上層階級は虚飾に満ちている。で、彼らには結局わからない。大自然の営みは弱肉強食なのである。今もピラミッド社会である。よいか悪いかではない。現実である。もっと現実主義となれば救われる子もいるかもしれない。ところで、客観主義は仏の境界である。仏の慈悲は甘えたゆとりなどむしろ言わない。この現実の厳しさを解いてなお生き抜く秘密の力を説く。火裏蓮。火を通らねば本物とはならぬ。日本は戦争に焼かれた。ヒロシマは……。この経験を無にすることはない。馬鹿でなければ同じ轍は踏まぬ。さて、『蓮』こそコミュニケーションである。天と地をつなぐ。宇宙と地球をつなぐ。宇宙とは大自然である。そして、祖先と子孫をつなぐ。過去と未来をつなぐ。これで全てが解決する。つなぐのは人間であり自分であり今である。自分とは代々の魂の化体である。身と心である。で、明日を思い煩うな、と。今を明るく元気でいることで全ては解決する。そして、六和行。あらゆる人と仲良くなれる力。それは何か。身につけるはそれである。社会に出て楽に生きるための術。好かれる力。学校の教職員には教えることは出来ない種類のことかもしれない。地球は地の球、地獄の球。地蔵尊は閻魔大王でもあり、地獄を救う役。その前で自分の代々の黒悪を発露して懺悔して罪を閻魔帳から消してもらう。謝るということは同じ過ちは繰り返さない、ということ。で、きれいな自分に変わる。すると周りが変わる。そして地球が変わる。思念は宇宙に通じる、リンクする。自分が諸仏に守護されていると感じるようになる。間違っていれば誰かが教えてくれる。迷っていれば鳥が導いてくれる。宇宙とのリンクを観じることで自分と大自然との関係もわかってくる。これが価値観となる。で、仏法は必ず勝つ。と。そして、信じることができるようになる。信を持って入ることを得たり。信じる者は儲ける。で、王法は必ず儲ける。と。これが必然。自然法爾。ところで、私は結構富士を見ている。富士の近くを通ってむしろ見えなかったことがない。中でも学生の頃私の高校のときの一番の友人が東京電力にいて、その頃沼津の寮にいた。遊びに行ったことがある。沼津の魚市場の朝、食した本シラスとマグロの大きな刺身が美味しかった。さて、翌朝、友人はすでに出社していた。私は準備して沼津駅まで出た。すると、目の前に富士があった。一点の雲のない、青空にそびえる三月の富士であった。思わず私は吸い込まれるように富士に向かって歩いていた。30分も歩いたであろうか。逆方向に歩いていた。あのときの富士の角度と姿は今も瞼に有る。ある日、真っ白な福山城天守閣が無垢の青空に映える姿と一日を共にしたこともあった。雲は無かった。その日はそのまま20時までその下で過ごした。天守閣の裏の水銀灯下で本を読んだ。
【平成17年2月21日】さて、いよいよ始まったな、と思う。何が?右往左往している方々に追随することはない。自分の信じた道を進むがいい。信じたのなら。結局、貪瞋癡(とんじんち)の人は赤信号。つまり、むさぼる人、怒る人、仏の教えを知らない人。つまりマイナスの人。あらゆる事柄がプラスとマイナスとある。マイナスもプラスにするつもりで進むのがいい。明るく、楽しくがいい。私も言うに言われぬ重荷を降ろしたところである(自己の内面において魔と戦闘していたと言える)。降ろしたのではあるがまだ背負っている感覚が残っている。早くなくなればいい、と思う。ところで、五字七字。妙法蓮華経と南無妙法蓮華経。地水火風空。仏は出現し滅する。南無で出現し、経で滅する。因って経は空。魂である。妙が地。法が水。蓮は火。華は風。この五大が宇宙の構成要素。人も然り。それぞれの要素にはプラスの働きとマイナスの働きがある。水も大水となれば悪、田の水となれば善。で、人も地球の子。供養せんといかんと思う。やはり。祖先は待っている。妙法華経での供養を。妙法華経でなければ真のご供養は出来ない、と聴いている。不思議。何故この基本に気付けないのだろうか。明治維新の近代化精神の故だと思う。しかし、これも通らねばならなかったこと。久遠からの約束の故のこと。一大事因縁とは、仏の因縁を言う。仏の願いは一切大衆を救うこと。つまり世界平和。地球も年をとった。人類も。そろそろ真実の平和に気付いていい頃かも。頭と頭がぶつかれば痛い。日と月で明るい。日と日とでは暗い。男と女は陽と陰。男の上に女が立ってどうするのか。男尊女卑?西洋民主主義の男女平等がすでに怪しい。倭の心は和を以って尊しとなす。柔和忍辱の心である。男の世界に女が入って男がやる気を失う。社会がそれを助長する。反省すべきはここである。日本男子は本来潔い。正直である。筋を通す。女は本来弱い。因って身を守るために嘘をつく。妄語する。よって業が深い。ここを認めるべき、と。亦男は女の進出に甘えた。因って男にも罪がある。あわれである。男女平等を否定するのではない。差異を認めた上で平等というべきではないか、と。平等の概念をまちがっているのではないか、と。何もかも同じと思っていないか。2千年来のことが、戦後60年のことで、簡単に塗り替えられるものなのかどうか。敗戦の力にもはや推進力はない。本来の力の作用を見つめるべき時である。と。さて、ベートーベンの九番であるが、フルトベングラーが振ると面食らうと言われた。バイロイト祝祭管弦楽団との演奏が定盤であるが、その奥様によって、ルツェルンの方が良かった、と。しかし、この盤はソプラノだったか失敗があったらしく表に出なかった。聞けば確かに活きた演奏である。その時々によって或いは人によって演奏される楽曲はその諸相を変える。さて、気圧とか血圧とか。地球はどこの誰と連動しているのか。地球はその化体に誰を選んだのか。その白羽の矢は誰に当たっているのか。そのようなことを考えたことがあるだろうか。ブラックジャックに聞いてみるしかないかも。さて、音楽の表現形式の最大はソナタ形式である。文学のそれは小説である。ところで、『戦争と平和』には、いわゆる主人公級が500人いる。その中で特に突出するのはアンドレィとニコライである。そして、ニコライは懺悔する。私は二度間違いを犯した、と。むしろ二度しか犯していない。今の世の中で自ら反省してそれぞれ何度の過ちを犯しているだろうか。ところで、西洋においても、日本においても、国家の運転は為政者であり、その時々の思想家ではない。むしろ、私にはカントにしてもソクラテスにしてもデカルト、パスカルにしても世の賢人たちは同種であると思われる。それぞれの思想を分析合理化すれば色々とあるであろう。しかし、その本質は同根のように思われる。
【平成17年2月22日】木鶏ということがある。ある闘鶏を育てる名人がいた。ある王がその名人に最も強い鶏を作るように言った。一ヶ月経った。名人はまだだと言った。2ヶ月経った。だいぶ仕上がったが、まだ感情がある。3ヶ月経った。名人は言った。もう誰にも負けることはないであろう。木鶏となった。双葉山であったろうか。連勝記録が敗れたとき師匠に手紙を書いた。吾未だ木鶏とならず、と。さて、公理、定義、定理とある。公理も知らずに、社会と学校は違う、社会に出れば……と、勝手なことを言っている。大自然に勝てるとでも言いたげに。地獄行きは間違いない。こうした方々が救われるにはどうすればいいのだろうか。貪の人。瞋の人。癡の人。彼らも救われるという。方法は?やはり、ばかばかしさの中で犬死しないために、と言わねばならないのか。どんなことがあっても感情的になってはならない。感情的になって怒れば何が起こるか、その恐ろしさを知る者として。ところで、キレルとかキレナイとか議論しても仕方ないところもある。過去の因縁がある。それを知らずして、食べ物で治せるとでも思うこと自体あさはかなことである。あまりいい加減なことは言わないがいいのに。それ自体が社会を間違ったほうへ導くのに、と思っても、今朝は寒い。お前百まで私は九十九まで、と言うと、かつての人事本部長は理解できなかった。理解できない自分が優れているとして模範のつもりでいる。問題はここにある。で、不言実行となるのか。おかしいと感じていることに対して自分を無理強いしていないか。もはや私は楽なほうへ行く。大空を飛ぶ。戦えというならいつでも戦う。戦い方は知っている。方法はいくらでもある。それが知恵力。世の人の知らない知恵も有る。しかし戦うということは相手を倒すことであることを知って言っているのか。私は戦わないでいたい。もはや権力・金力・武力の時代ではないのだから。自分との戦いに勝ち、内面の世界で神仏との邂逅を果たしたものが現在する。宇宙を知る。大自然も味方する。かつて仏陀が田の畦道で乞食した。農夫は言った。あなたは労働していない。食べるに値しない。仏陀は言った。これほど人田を耕した。私は食べるに値する、と。私はあらゆる人間が同じくらいに常識があると思っていた。不幸はそこにあった。私の周りに常識などなかった。いつの頃からだったろうか。孤独とはこれを言う。しかし、私はそれであるが故に違いを違いと認めるべきであることに気付いた。しかし、この種のことは、普通語っても無駄であることにも気付いた。馬耳東風とでも言うべきか。東風吹かば…。東風は幸せの春風である。心の琴線というものがある。これは代々のものである。そして神のものは神の手に、カエサルのものはカエサルの手に。奪ったものは還さねばならぬ。これが掟である。そして、王の目、王の耳。どこにあるか。障子に…壁に…。単なる比喩にとどまらない。大自然から奪ったものは大自然に還さねばならぬ。そこから新しい時代が始まる。力とは何か。現実を変えることが出来る或るものである。力のないものがリーダーをしている。オピニオンリーダーだと言っている。頭脳が戦闘状態になったとき、力を知ることが出来る。真剣勝負とはこれを言う。精神一到。為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり。大事とはこれである。いい加減が横行しすぎている。それから、悪の種から悪の華。善因善果。すべて因縁である。過去に蒔いた種がある。それが今咲いている。実と成る。実と成ってはじめてその種がわかる。ここで選別する。いい種を遺す。そして、善の種を蒔く。未来は明るい。自分の心が種。だから心を磨く。今しか磨けない。地獄へ行くのかどうか。自分次第。仏は惜しみなくすべての善を譲る、という。その慈悲は親より深い、と。そして、誰がために鐘はなる。か。或いは鳴らすのか。ホトトギスにあらず。痴人を雇って雪で以って井戸を埋める社会のしていること。気を使うだけ無駄かも。
【平成17年2月24日】
ところで、儲けとは売り上げではない。[儲け]とは[売り上げ]ー[コスト]。生産性とは何を言うか。結局、諸個人の資質とそれを生かす環境。しかし、その種の環境も自分で作っていくということも知るべきときだと思われる。で、王法は儲ける。儲けるとは、宇宙の法則を知ってそれに従うことが第一の条件であると思うのだが、それを知らない方、或いはむしろ敢えて無視或いは否定する方が一般だから、彼らの救いは遠い或いは無理である。本当の人生とか幸せとか、自分でつかむ時代、いい時代である。時代はやっとここまで辿りついた。そして、これからは、平和的産業でなければ生き残れない。そして、ネット化したことの意味は、一切の嘘はもはや通らない、ということである。いわば、天網がかけられたのだ。だから、正直者の時代が来た。私はこれを確信している。現代においては正直であることがキャプテン・ドレイクの資質である。で、重商主義資本主義社会の無敵艦隊(大企業群)は敗れた。リンカーンの奴隷解放令に等しいことが起こった。今までは大企業でしか出来なかったことが個人でできる時代の到来である。面白い時代である。大企業はその図体が大きいだけでもはやこの時代を戦えぬ。恐竜のように。悪の輪廻から善の輪廻へ。果たしてどれだけの存在が次の世代へ渡ることが出来るのだろうか。ところで、祖父が何かにつけて私に見せていた本が、高見澤木版社刊、上村益郎発行『初代廣重高見澤版東海道五十三次』であった。今となっては、色々と、祖父の気持ちも、父の気持ちも、自分なりにわかる。しかし、もはや語るまでもなかろう、とも思っている。私は私を得た。ソクラテスいわく、私は知らないことを知っている。ソクラテスが毒杯を仰いでいなかったことを祈る。チャイコフスキーとかバイロンは仰いでいたことを祈る。個人的には。さて、平山郁夫の絵であるが、シルクロードの頃より、好きだった。彼の絵を見ていつも思うのは、時の流れが悠久のまま止まった静寂だった。ユトリロの絵にはもっと明るさの中での静寂がある。ユトリロが白の時代に入ってからのことである。そして、とてもデリケートな時代に突入したのだが、同じことを言うにしても、言葉の問題がありそうだ。例えば、同意と通知・公表、そして宣言とか。これらの言葉もやがて手垢がついてすぐに使えなくなりそうな気もする。世の中、汚れちまった哀しみは、と歌うしかないのだろうか。花は愛惜に散り……と。この度、祖先の戒めを解くと言われるご法妙を教えていただいて贈らせてもらった。父には十三文字、祖父母には十一文字である。ところで、その方々は見えないところにおいて自由を得て、私たち子孫のために働く。これを観じている。テレパシーのようなものである。私にとっては当然で別に怪しくはない。魔も守るという仏法である。個々の子孫を守るのは神でも仏でもない。祖先である。そしてハッキリと観じる。世間の方々はどう思おうと勝手だが、もし人間の行為が大自然の法則に反するところがあり、そこに反省がないならば、大宇宙からすれば、地球などもののかずではない。私の場合は諸精霊が動く。それだけの供養はしている。
平成17年2月26日
今までは、この世の中がおかしいって思っていた。もともとおかしい。おかしいものをおかしいとすれば問題はない。地獄へ落ちる者は落ちて当然。そう思うと楽になった。今まであまりにもつらすぎた。おかしいものをおかしいと認めることが出来なかったから。すべてを救うとは気づかせるに等しい。つまり、馬を池まで連れて行くことは出来るが、水を飲むのはやはり馬である。さて、『一粒の種』はジッドであったろうか。見えないところに代々守られていた種としての秘密がある。時ここに至ってその意味を知る。わからないひとにはわからない。それでいいのである。しかし、『一粒の種』、いつかは芽吹く。私の学んだ日本史の先生は言われた。歴史書に名前の出る人は所詮ロクなことをしていない、と。中身がなくてもあるように見せかけてそれが通る時代は終わった。何故か。時代の選択であり、進化である。そしてこのことは21世紀としてあらかじめ決まっていたことでもある。取引の合理性とかで勝手なことをしてきたことも反省される。詐欺的行為は一切通らぬ、すでに、終わった。真実の時代は賢者の時代である。何を持って賢者とするか。妙法華経に書いてある。ところで、あらゆる書物に記された最後の審判とは地球の地殻変動のときである。そして、そこから逃れる方法はある。信じる信じないではない。事実である。『仏の事』である。数千年来のことではない。億億万劫のことである。その時罪の軽いものは救われる。罪を軽くする方法はある。真実は謝るところからしか入れない。謝る場所はどこか?もうジタバタシテモ仕方ない。天網はかけられたのである。
平成17年3月4日
何事が起こって或は興って或は怒っているのであろうか。六天の魔王。十二天の魔王。邪魔のつもりが邪魔ではない。葬ったつもりが葬られてはいない。見えない力。出雲もカ。覚悟するべきは覚悟するべきである。孔子は何を以って食を忘れたのか。公憤である。公憤とは何か。歴史的な憤りである。そのエネルギーは一切の人間レベルの学識・道徳を吹き飛ばす。所詮それらが偽善にすぎず、それを以って喰ってるにすぎぬのに、奇麗事を言い過ぎる。人間どもの偽善こそどんな野獣の食行為より醜い。羅刹以下である。人間が人間性を口にして正当化するとき、人間の限界を露呈する。背広着てネクタイすれば文化人だと思っている。少なくとも、鬼はその精神において純粋である。人間を超えて精神的に進化している点で、鬼と神は同レベルである。そして、鬼も神もいる。鬼も神も精神力が具体化する。恐るべきはここであり、これが心の時代の実体である。否定したくばすればいい。雨は降りたければ降る。おろかな人間の本能でしかない人間性など、そのレベルなど、大自然からしてみれば、始めから相手にもされていない。すでに人間の格は魂の格である。今生でその成果が現れる。すでに汚れてしまった魂たちは花道を去るがいい。汚れたままでいつまでも存在できると思っていること自体が浅はかである。生命現象はそんなに甘くはない。日出れば、夜の星は光を失う。原因結果。甘くはない。サイは投げられた。新しい時代はすでに静かにテイクオフしている。見えない世界ですでにコンダクターは新しい時代の指揮をしている。さて、天体観測をして、地球の未来を知っているつもりがNASAかも知れぬ。しかし、南極大陸のどれほどを知っているのだろうか。深海のこと。地殻変動のこと。歴史以前の歴史。何を以って地球を知っているといえるのだろうか。まして、大自然、大宇宙のことを。むしろ、無知に等しい。それ以上に生兵法である。そして意思理論。誰の意思が重要なのか。「議会は男を女にする以外なんでもできる」といった人間の意思などもののかずではない。地球の意思。宇宙の意思。あると思ったほうが良い。代々の神々の意思もある。諸仏の意思もある。厳然と。ないと思う人間が破廉恥な罪も犯している。一番の罪は、大宇宙の意思に反することである。大自然法とでも言うべきものがある。大きいものに合わせたほうが良い。
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平成17年3月6日
昔、絵の名人がいた。あるときもう一人の名人と絵を競った。もう一人の名人は見るからに素晴らしい絵を見える形で描いた。名人の絵は見えないかのような絵であった。しかし光が当たるとそこにはこの世とも思えない絵があった。また、見えない絵は竜の絵であった。その竜に目を入れた。すると、絵の中からその竜は大空へ舞い上がった。大空を舞う大鵬がいる。しかしその飛ぶ姿を見たものはいない。誰も知らない。しかし、大鵬の舞う時節がある。大鵬はカモメのジョナサン以上に飛ぶことが苦手である。何故か。そこまで進化しているからである。しかし、何時かは飛ぶ。一度飛び方を覚えれば、間違いはない。餌は竜である。大鵬の飛ぶ時節を迎えている。時代は変わっている。時代の声がしている。覚悟するべし、と。正直さを正憶念、思い出せ、と。正直とは何か。これぞ大和魂であり、世界に誇る純粋精神である。正直でないものが舵を取る時代は終わった。かつて恐竜が地球を制覇した時代があった。しかし彼らも反省を余儀なくされて滅んだ。人類は同じ轍を踏みたくはない。地球が滅びるか否か。救うことが出来るのは人類がこの精神性を認めたときである。偽善はもう通らない。人間は宇宙の子供である。宇宙の一部である。いつまでエゴでいるのか。魂の格としての精神の向上とあらゆる野蛮からの脱却。ところで、ハウルの動く城とかあるが、城のゾンビか。文化の荒廃もはなはだしい。城も冒涜されたものである。
平成17年3月10日
食べることは相手を喰うことである。厳然とした自然界の掟である。食べたものの供養するしかない。
平成17年3月13日
「風の音にぞおどろく」ということがある。さて、これがテーマの短歌は教科書にも載り、幾多の学者の分析もあり、文部省の指導要領によって学校で解釈が教えられもしている。しかし、その真意がどこにあるのか、知る人は少ない。或はそれを語ればきっと袋叩きになりそうである。何故か。それを認めれば自分たちの存在の根拠がゆらぐ。しかし、種々の勲章も文部省の役人の選定であるが、ノーベル賞にしたってその基礎はダイナマイトである。つまり、爆撃機の爆弾である。人間の偽善の一端である。その種の野蛮が文化人を装っている。野蛮であるのに文化人と思っているところにいつまでも不幸でしかない原因がある。さて、風の音にぞ驚かれぬる…であるが、その真意は、例えば、善の玄題を唱えれば、どこであろうが、涼風が吹いてくる、それである。ところで、花はさくら、<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/20020729 1631.jpg" target="_blank">蝶</A>は平家か。そして男の功と女の業。数千年来の掟である。男は立てることによって仕事をする。本末転倒は下克上よりひどい。時代はますます秩序を失っていく。これでいいのだろうか。海底に積もったヘドロを知る者は少ない。悪のバケツはパンドラの箱が開くのではない。鍾乳洞の滴りのように、何時かは形となって現れる。それが種々の魂の姿でもある。それが今であるのだろうか。清浄こそ救いと雖も、見える者、聞こえるものは少ない。清浄でなければ清浄はわからない。地獄は淘汰される。悪は浮沈する。しかし、地蔵尊はそれ故に世に現れる時節に地獄に入り地獄を掬う。ところで、ナノとかピコとか研究するのもいいが、彼らの論理は常に現象に対して防御或は征服である。しかし、大切なのは原因の除去であり、解結である。そのために原因を知ることが第一であるのに、原因の究明よりも、現象に対する処方ばかり考えている。それも現象だけである。見えない世界のことなど考えも及ばない。しかし、見えない世界のほうが大きい。見えない世界の病院がある。見えない世界の薬も有る。見えない世界はすべて、本当にすべて、過去の因縁である。過去に蒔いた種である。過去に遡って因縁を発見し解結する。その方法がご法妙である。現実しか見えないもの、お金しか価値が見出せない者、哀れむべし。見えない、聞こえない。わからない。むさぼること。怒ること。知らないこと。三悪である。見えない世界への情熱、21世紀の意思である。火裏蓮。火が意思である。情熱である。魂としての存在がこの生でしておかねばならないこと。それがシゴトである。つまり、為すべきこと、すること。魂も古里へ帰るのである。これまでは喰うことしかして来なかった。これからは、食べたものに対して供養してゆけばよい。そうすれば、その仕返しを受けることはない。そうして、為すべきことをしていく。供養すれば、食べられたものたちも成仏する。供養は妙法華経でなければできない、と仏は言う。さらに、仏は言う。仕事とは、仕える業である、と。ところで、私の好きな英単語は、appreciate
である。さて、風の音にぞおどろかれぬる、は禅語に言う「歩歩清風」である。
平成17年3月14日
さて、色々とあるのが人生であるが、あらためて思うと、やはり仏子でよかった。仏の子として守護していて頂いていたから。だから、これからは、いよいよその方向で生きていこう、と思う。何を恐れることもなく、怖じることもない。ただ、自分が本来の自分でなくなることを畏れる。この世に生まれて何をなすべきか。すでにそれを知るものとして、唯、実践あるのみ、と。
平成17年3月15日
何をしても自由と思っていないか。大きな間違いである。人間存在はある意味で人形浄瑠璃である。自分の意思で生きているつもりであろうが、黒子がいる。すべて黒子次第である。それが仏であるのか、諸天善神であるのか、或は、魔であるのか。恐れを知るとはここである。自分の意思が自分の意思ではない。これが黒子的真実である。だから、大自然の声に謙虚でなければ、魂の格は保てぬ。そして、われ思うゆえにわれあり、望月のかけたることの…等、世の解釈はすべて誤っている。本人に聞いてみなければその真意はわからない。なのに、解釈して、それを教えて、試験して採点したりする。三段論法における大前提を間違っているのに責任を取ることはない。さて、「今昔物語」もそうであるが、自分のバイアスで解釈してどうするのか。読み方によれば、平安朝の女流歌人の歌はすべてそのように詠める。しかし、それが魂の解釈であるのだろうか。信賞必罰。罰を食らってからでは遅い。大切なのは大自然から祝福されることである。ここを認めるところから、21世紀の幸福論が始まる。
平成17年3月16日
さて、神とは、示し申すことで、如来を得た者の力である。如来とは大自然すなわち大宇宙であり、そこより力を得たとは、そこより祝福されたということである。人が完成したものが仁であり、信であり、真であり、神である。それが心でもある。単なる言葉遊びではない。二千年を経て言葉が力を持つ。力とは動かす或は変えることが出来るあるものである。二千年来の英知のすべてが予言としての機能を付されていた。それが種として密かに伝えられてきた。今、時を得て芽吹く。21世紀の約束である。諸佛の約束である。歴代の諸仏のあるいは賢者たちの願いがかなう時を迎えたのである。そして、再び、赦しとは笑いとともに帰り来るこのことばかりは今始まる。
平成17年3月18日
何故、何が起こるかわからない時代となったのか。それは諸精霊が開放されたからである。リンカーンの業績どころではない。魂たちが自由を得たのである。さて常々最後の砦はある。経済においてもあった。秘すべく守られていた。何か。自然財と呼ばれるものである。誰のものでもない。宇宙のものである。ところで、世間はわかっているのであろうか。人間としての分際と責任を。あの時枕崎台風は何故来襲したのか。自然現象は何を意味しているのか。羅刹が腹をすかせたとき何が起こるのか。仏は何故羅刹に身を投げたのか。その時何故救われたのか。救った梵天帝釈とは何か。万軍の主は言う。私はbeing、ある者である。唯、主を畏れよ、と。主とは何か。世間は去年の台風群が単なる自然現象であると思っているのか。誰を供養するべきか。さて、一休さんがお正月に骸骨を竿の先につけて「ご用心、ご用心」と歩いた。その心境はどうであったろうか。思うに、虞(おそれ)を知らない彼らが哀れでならなかったであろう。彼らの地獄で浮沈している姿がかわいそうでたまらなかったであろう。ところで、月は何故地球からは表しか見えないのだろうか。かぐや姫が月へ帰った物語に何か意味があるのであろうか。ウサギが餅つきをしているのは十五夜のお月さんであるが、因幡の白兎と何か関係があるのか。そのようなことは、もうnow、どうでもよいのかも知れない。広島にはもはや主はいないのかも知れない。いずれにしても、宇宙は宇宙である。知っても知らなくても。ソリューションG。ダイヤモンドのグレードはGより始まる。私の生年月は4月である。2001年宇宙の旅の最後のシーンを覚えているであろうか。神が怒って嵐を呼べばどうなるか。神が平穏に暮らせば地球も平穏である。神でないものが権力と金力と武力を行使して民を貪れば、その報いや如何。権力・金力・武力による支配は終わる。これより、法力あるのみ、と。法力とは見えないところに認められて見える方を変えるための見えないところからのある力をいう。本来、楽なことであり、簡単なことであるのに、衆生病むゆえに我病む、と。さて、神神の系譜。明治の頃に大本営は広島にあった。旗艦長門は呉にいた。何故か。自覚すべき神が現れた時、一切が清算される。まさに時を迎える。自覚なき者は淘汰される。一切が明かとなる。あらゆる記録がその意味に気付く。しかし、悪舌の類が多すぎる。もの言えば唇寒し秋の風。蛙が口を開くとはらわたが見える。人間ももの言えばはらわたをさらけ出している。あわれである。悪舌はよくない。陰湿な無口も。善良な快活がいい。で、笑いである。笑いについて哲学したのはベルグソンまで時代が下ってからだった。醜いアヒルの子の話がある。自分が白鳥と知って白鳥となる。アヒルたちは尚白鳥とは認めない。白鳥は黙って飛び立つしかない。思念が現実化する新しい次元がある。佛所菩提樹御供養誓願である。これこそ、21世紀に約束されていた諸仏の大願であった。バチ等ない、太鼓のバチがあるだけだ、と言っていた者がいた。よほど都合が悪かったのであろうね。
【平成17年3月19日】
私もここまで生きてこれてよかったと思う。いろいろな事を見させて頂いた。不思議なこともたくさんあった。ある意味で、悪いことをあまりしなくてよかった。いつの世もこうであったのだろう。自分らしく生きればいい、と思えるようになった。環境が変わっても、そこで自分の花を咲かせるだけである。花を咲かすことはかくも骨の折れることである。すでに水は高いところから低いところへ流れる。やがて昇華もある。固体から液体となって気体となる。しかもいつも水は水である。五字七字では水は法である。自分の花を咲かせるだけだ、と。花が咲けば誰もが気づく。それまではただ耐えるのみ。少しつらいときが続くだけ。どんな花でもいい。私の場合は道路か野辺の片隅にささやかに咲かせたい。すでに雑草である。言葉は宇宙に届けておくことにする。そして、社会契約として、すでに、矢は医者に、ピストルは警察と自衛隊に預けたのだから。私は、庶民としてその界の生活を楽しめばそれでよかろうサ。薬も楽になるためのものなれば、草冠は取ろう。だれにも言葉がとどかない。無価値なことを追いかけているからばかばかしいと思う。しかし、所詮、仕方ないkotoなのかもしれない。気にしなくてもいいことなのだろう。是人生、自分なりに楽しめばいいのだナ。そして、山本五十六は、やって見せ、言って聞かせてさせてみて、ほめてやらねば、人はうごかじ、と言った。山本五十六の同期の首席が堀悌吉。そして、山本五十六の故郷は長岡市(山古志村の近く)。五十六もKUREにいた。そして、山古志村は1956年に生まれ、今年長岡市に編入される。
【平成17年3月21日】
地球を憂えること、宇宙の意思を観ずること、ミッションではあるが、誰もが受容できるものでもない。そして、それについて色々思ってみても、所詮、雪で井戸を埋めるに等しい。で、世の大人たちが、自分たちをどのように自覚しているか。かくも生きることにアクセクしている。しかし、私も、もはや大空を飛ぶ。他者の邪魔をすることなく。あるいは、大宇宙空間を飛ぶ。むしろ是魂楽飛翔。霊鷲山とは世界一の墓場のことである。一瞬にして世界最大の墓場となった地はヒロシマ。その霊鷲山より火の鳥が数千年ぶりに飛び立つ姿を見たように思う。<A href="file:///C:/Documents and Settings/SG/My Documents/MyHP/GSWL/050320_170416_M.jpg" target="_blank">宮島</A>・大野辺りで迦陵頻迦の声も聞いたように思う。そして、C62-02はスワローエンゼルであったが、この度、飛び立たんとするのは一羽の真っ白な雀である。そして、この度、開くのはパンドラの箱ではない。おもちゃ箱。おもちゃの兵隊が繰り出す。実は、こちらの方が現実の兵隊より強い。何故か。宇宙の化体であるから。化人とは誰のことか。そして、家庭の幸せがある。最高の幸せである。知らないものが家庭の幸せより社会でのキャリアを言う。太陽と地球と月の秘密がある。21世紀になると、武器は弾丸ではない。文字である。真実のthe
pen is mighter than the sword.がやって来る。さて、空中より方法は教えてくれる。実行するのは自分たち。自分のことは自分でないとわからない。だから、(門を)たたけば教えてもらえる、自ら救うものが救われる。これが約束。で、ソクラテス、汝自身を知れ(諸侯と帝者と、その儀ことなるべし[道元『行持』下])、と。先ずは悪舌と妄語(嘘)を止めようよ。聞くのがつらいから。
【平成17年5月25日】
靖国神社について思うこと。靖国神社が何故問題であるか。第二次世界大戦の日本の軍事行動を正当化しようとする客観的意図を呈示するからである。ところで、第二次世界大戦が正当化されることはない。しかも日本を含めて世界の状況が間違っていたと歴史認識するべきである。靖国神社はその一端としての反省とするべきである。その意味で、中国の認識も誤っている。中国の主張に屈することはできない。中国は靖国問題で第二次世界大戦の歴史的意味を確認することはあっても、日本に対する主権侵害はしてはならない。また、日本にとって、靖国神社は政府にとっての神社である。そもそも錦の御旗と同じである。錦の御旗は明治の創作である。日本にとって比較的新しい。だから、そもそも別に固執する必要はない。靖国神社を祀らなくても日本の神々は別に問題としないだろう。
【平成17年6月17日】
人が人となるということは、いわば『清女帰魂』であり、自己のマイナスが克服されて表裏一体となり、あらゆる迷いが晴れて、何事にも惑わされることなく、一枚岩のような自己としての自信を得ることである。さて、人はコンピュータや車が自分のものとなると、幸せな生活が訪れると想った。自分の家が手に入れば幸せな家庭が持てると想った。しかし夢は儚くも思い通りに実現しない。物質を追いかけその物質はほとんど現出した。しかし本来求めていたものでなかったことが明らかとなった。そこで何が一番必要なのか今一度考えた。そして得た結論はやはりココロであった。既に禅はそこを見つけていた。いわゆる主人公であり一無衣の真人である。自分で自分をコントロールできることである。自分の思いが実現することである。それが究極の幸せの形であった。それが天地をも動かすカクネンムショウであった。しかしあまりにも高遠なものであった。それを庶民レベルで問題にしなければならなくなった。これが21世紀の意味である。これからの時代はここを目指して進む。時代の約束である。今までにもここに辿り着いたものはいた。それがシャカでありキリストであった。しかし誰もがここに辿り着けるべくもなかった。そもそもここに辿り着く可能性など考えなかった。だから目指すものも居なかった。しかし、時代の腐敗と限界はもはや新しいパラダイムを探していた。そして魂のレベルへの進化こそそれであることに気づいた。量子論からDNAを含めてあらゆる現代科学の収斂するところはここである。歴代の賢者の説いていたところもここである。歴史が事実として指し示す方向もここである。すでにあらゆる現象が証明し、疑う余地はない。今経済的に成功しているものたちにはわからない。この意味で貧しきものは幸いである。また占い師たちの猛毒に惑わされる事勿れ。彼らは自分たちの増殖しか考えていない。低級な思想に翻弄されているマスコミとジャーナリズムにも惑わされる事勿れ。彼らはもはや彼らの道を引き返せない。今大切なのは本当の自由が明らかになったということ。本来のココロの自由である。本来の幸せを求めて魂レベルの自由を得ることである。その方法はすでに説かれている。今、カオス(混沌)の時代である。確かなものは何も見えない。誰もが暗闇の中に居る。迷っている。その中で惑わす者たちが繁栄している。ここまで時代は腐敗した。しかし、時は待つべきものであった。すなわち、この混沌こそ人田が耕された時代である。いよいよ種まきの時代である。その種を蒔く。21世紀の種を蒔く。過去の種は根絶やしにされる。地球環境が拒む。時代の選択である。自分の内側より出づる本来の力がある。このパワーを得ることが究極の目的である。この力は宇宙と同化し、天地をも動かす。それ以外の成功はこの力の獲得の可能性を示す仮城に過ぎない。本来の力とは、本来の自分に気づき、いわば表裏一体となって現れる。自己においてあらゆるマイナスが修復補完され、自分自身の本来の姿形を得た時に起こる。禅における悟りである。この力の真実を知るために、人類はここまで腐敗しなければならなかったとも言える。泥より出づる蓮の花のごとく。自分に対する支配力を獲得する内面の戦いに勝利したものがこの力を得る。ほかに方法はない。自己の内面において自己統一が果たされた者が存在する。表裏一体の本来の自己自身となる。そして自由を得る。その力は宇宙と同化し、宇宙が動く原動力として機能を始める。いわば自己のココロの波動が宇宙の波動と同調する。やがてその波動をキャッチした魂たちが動き始める。これが個々の夢が実現するメカニズムとなる。この波動を神々もうらやむ。古いサタンの波動を、新しい魂の波動が克服しコントロールする。諸天禅神が目覚めたのである。眠っていたのは何千年来のことであろうか。あるいは億億万劫のことであろうか。いよいよ魂のレベルでの進化が始まった。知っても知らなくても。時は待つべきものかは、とはこのことであった。やがて悪は淘汰される。内面を制した者たちの時代が来る。もはや宇宙を誤魔化せない。この事が波動である限り、別にいわゆる表現する必要はない。波動は存在するだけでいい。やがて現実する。自分が自分であること。主人公としてあること。惑わされぬこと。自由は得られる。こうなれば宇宙が祝福する。自然が応援する。何も思い煩うことはない。一切気にすることもない。本来無一物である。億億万劫の約束が果たされる。21世紀である。そしてこの種のことに気づく者は常々いた。しかし庶民レベルで理解されることはなかった。今、この種のことを庶民レベルで理解しなければならなくなった。さもなくば恐竜の運命と同じである。バベルの塔も昔あった。プラトンの言ったことも昔あった。畏るべし。聖書の預言はいわば昔あったことの記憶である。賢者のみその意味を知る。これらが宇宙である。神である。ここに到れば大安心を得る。何事も憂えることなし。自然の中で遊ぶことができる。生まれてきたからにはそれぞれ使命がある。その使命を果たせば、神々も祝福する。護ってもくれる。天地人の証明もある。これが大宇宙・大自然の約束である。