法華経 1
過ちを防ぐために守らなければならない禁制。精神を集中して心を乱さないこと。物事をよく見極め、道理を正しく把握する精神作用。完全な精神的自由を得ること。解脱に対する正しい認識を成就する者たち。
その心は無我であり、生死を超越した悟りの境地に入る。常に精神を集中させ、乱さない状態にあって、穏やかで淡泊であり、無為無欲。正しい理に反し、乱れた思いの入る隙がない。静寂にして清く澄み、心は興味深く、無限である。このような状態を保ち続けて動じないこと億百千劫。無量の仏の教えは全てこの前にあった。
物事をありのままに把握し、真理を見極める偉大な認識力を得て、諸々の教えに滞りなく通じ、存在するものの本性とその理由を理解し、悟り、諸々の事理を思量し、識別すると、存在するものと存在しないもの、存在の長短は明らかである。
人々のいろいろな性格や欲望を知り、不思議な力を持つ呪文や、どのような煩い、悩みにも妨げられない弁才を用いて、諸仏の説く教えによく従い、教えを説く。
先ず、僅かな水滴が落ちて欲望の塵を流し落とし、煩悩の火が消された安らぎの境地への門を開き、苦しみから解き放たれる風を扇いで、世の中の悩みの熱を冷まし、教えの清らかですがすがしい境地へ至る。
次に非常に深い十二の因縁の教えを雨のように降らし、それを以て無知、老化、病気、死などの勢い盛んな激しい苦悩の日の光に注ぎ、この上ない衆生の平等な救済と成仏を説く大乗経の教えを注ぎ込み、人々がそれぞれ持っている善い報いを招くもとになる行為を潤し、善の種を蒔いて現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いの田を隅々まで広げ、全ての人々に無上の悟りの智慧の芽を出させる。
物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力は日月の光のように全てを照らし、人々を教え導き、悟りに近づけるための巧みな方法は四季のように移り変わり、苦の中にある人々を平等に救う事業を増長して、人々に遍く一切の真理を知った最上の智慧を成就させ、永遠の安らぎと複雑で難解な真実によって、無量の大きな慈悲が苦悩に満ちた生命のあるもの全てを救う。
これは真に人々を仏の道へ誘い導くものであり、福徳を生じるもとになり、これは諸菩薩が生命のある全てにとって求められる師であり、生命のあるもの全てにとって安穏を願う場所、救われる場所、守られる場所、大きな拠り所である。
気が狂った者には、物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れさせないようにする。生死の大河を渡して煩悩の火が消された安らぎの向こう岸へ渡す。まるで獅子の勇猛な姿のようであり、その威儀は多くの獣をひれ伏させて教えを阻ばませない。
誓願の力に留まって広く仏の国を清め、遠くない未来に於いて一切の真理を普く知った最上の智慧を成就するだろう。この諸々の悟りを求める修行者や大乗を求める修行者は皆このような通念では理解できない徳が備わっている。皆阿羅漢で煩悩によって生死に結縛されることはなく、縛るものも執着もなく、まさしく解脱している。
仏心は持戒、禅定、智慧、解脱、事物に対する正しい認識などの行いをすることによって生じ、精神を集中させ乱さない三昧と自在に移動できる力、普通の人の聞こえない音を聞く。他人の考えを知り、自他の過去世の姿を知る。煩悩を取り去る力の六通と修行の方法より発し、慈悲と処非処智力、業異熟智力、静慮解脱、……の十力、無畏などの智慧行より起こり、人々の善い行いは因縁により生まれ出る。
しかも実際には自然の姿の実体を持たず、全てのありのままの姿は目で見ることができず、定まった形のない姿であり、姿のある体である人々の体の姿もまたこれと同じである。
人々に喜ばれ、礼を尽くされ、心を思いやり、敬いを表わし、礼儀正しく、丁寧に接せられる。自分を高くしてそれを自慢することをせず、このような秀でた容姿になられた。心の中の思いや意識を無くして、煩悩の作用で乱される身心を調え、制御するための智慧を授けることができる師に心から教えを信じ従い奉る。
妙法の教えから頂ける仏となる種、この世のあらゆる現象、あらゆる存在の奥にある根源的な実在すなわち全てのものを存在させ動かしている唯一の法の教えを心から信じて従います。言葉ではとても言い表すことのできない仏法の教えがあるのです。
滑らかな音声が雷震のように響いた。だれもが好きになる柔軟な教え。だれの心にも調和し、適合する教え。尊い智慧の教え。男女の区別なく、だれでも実行できる教え。間違いのない教え。奥深く、尽きることのない不滅の教え。もしもその声を聞く者があるならば、心が開けて、永遠に続いている誕生や死を繰り返す人々の魂の迷いやとらわれを断ち切ってしまう。すべての迷いを残らず離れ去り、様々な事象を縁として、自らの力で一分の悟りを得た者や、真の永遠絶対の生命は生と死の対立を超越した無生無滅ないし生死不二のところにあるとする菩薩の心境を得る。
あるいは、測り知れない一切の功徳を総じて持つという真言である陀羅尼や滞りなく流れて障りがない説法をするための才能を得て、非常に深く、はっきりと捉えられないほど細かく、複雑で難しい仏や菩薩の徳を称える詩を演説し、修行を自由自在に行って、教えの清らかな水路の中で洗い清め、あるいは躍り上がり、素晴らしい速さでどんな所でも行ける能力を現し、水や火に出入りしても体は自由である。如来の手足にある法輪は清く、澄み切っていて、無限で数限りがなく、考えて理解することは難しい。
清らかな仏の声の教えを心から信じ、従います。全てのものは縁に因って生じ、縁に因って滅びるという教え、人生は苦であるという真理、その悟りに到達する方法は八正道であるという四つの真理、多くの善の中から仏が薦められた6つの善の教えを心から信じ、従います。
世尊は遙か過去の前世に於いて、勤勉に苦しみに耐えて徳行を修め、ありとあらゆる人々に尽くした。諸々の人々が捨てることのできない財宝や妻子、国城を捨てて、身体を全て人々のために尽くした。人が刀や杖で害を加え、罵り辱めたとしても怒ることはなく、極めて長い時間坐禅をしていても集中を欠くことがなく、昼も夜も心を一定に保って常に精神統一を保ち、全てにわたっていろいろな仏道や仏法を学び、智慧が深く、人々の生命活動や感覚の原動力に入って見て来られた。このために今、自由自在の力を得て、仏法に於いて自由自在であり、教えの王となられた。巧みに諸々の困難な修行を成し遂げられた。
十二因縁は人間の悲しみの原因を説く。
この世に存在する有形無形の一切のものは、本来実体がなく空である。古いもの新しいものが入れ替わりとどまらず、時々刻々生じ滅すると説く。このような理由で初期の説法、中期の説法、後期の説法があり、文章の言葉は同一であるが、その教義は異なっている。教義が異なるために生命のあるもの全ての理解が異なる。理解が異なるために仏道修行によって得られる教え、得る位、得る悟りもまた異なる。
私が悟りを開いて初めて教えを説いた時から今日、大乗無量義経を演説するに至るまで、未だかつて説かなかった。苦や空は常に存在しないし、自分自身も存在せず、真実もなく、虚偽もない。大きさもなく、小ささもない。本来生まれてもいなければ、今また滅してもいない。自己の悟りのみを求める修行者と仏の教えに因らず十二因縁を観じて理法を悟った者の二乗には理解できない。ただ仏と仏のみ究め、理解することができる。もし、この上ない悟りを開こうとするならば、非常に深く、この上なく衆生救済を重んじる無量義経を修学しなさい。仏がこれを説き終えると、三千大千世界が六つの種類に振動した。
過去、現在、未来における諸々の仏が守護なさる。邪道に誘い込む悪魔や諸々の邪道は入り込むことができない。一度でも聞けば巧みに全ての教えを授かる。もしも全ての生命のあるものがこの法を聞く機会を得たならば、それは大きな御利益を受ける。もしよく修行すれば、必ずすぐに最上の完全な悟りを成就できる。悟りへの一番の近道は、大無量義経を聞くことである。険しい道を行くには困難が多い。この経典は人間の認識や理解の限界を超えている。
善行は現世や来世に幸福をもたらすもとになる。通念では理解できない力があって人々を早く悟りへ導く。人々に最上の完全な悟りを成就させる。一度でも聞けば、巧みに全ての教えを理解する。諸々の生命のあるもの全てに大きな利益を与える。悟りへの近道を進ませて苦難をさせないためである。
この経は諸々の仏の心の中より来て、生命のある全ての者の悟りの心へ去り、諸々の悟りを求める修行者の行いの中にあり続ける。このように来て、このように去り、このように存在し続ける。このためにこの経は、測り知れない現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いと通念では理解できない力があり、人々を最上の完全な悟りへと導く。
諸々の煩悩のために心が乱れて不安定な者には、精神をある対象に集中させる心を起こさせ、自分の心に逆らうものを怒り、恨む者には侮辱や苦しみに耐え忍ぶ心を起こさせ、善行を修めるのに積極的でない者には雑念を去り、仏道修行に専心する心を起こさせ、諸々の煩悩のために心が乱れて不安定な者には、精神をある対象に集中させる心を起こさせ、因縁によって生じた一切のものを楽しむ者には、二度と再び、迷界に退転しない心を起こさせ、煩悩に迷って悟りを開くことができない者には、全ての迷いを残らず離れ去る心を起こさせ、これをこの経の第一の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いであり、通念では理解できない力という。
第二にこの経の通念では理解できない現世や来世に幸福をもららすもとになる善い報いの力とはもし衆生がいたとして、この経を聞く機会を得た者は、ある者は一度教えを聞いて、ある者はたった一つの賛美の言葉や或いはたった一句を聞いただけで、すぐに百千億の教義に深く通じて、数え切れないほど多くの教えを授けられ、それを演説することができるようになる。理由は、この教えは教義が数限りないからである。
人や物に利益や幸いをもたらすことが、もれなく全てに及び慈しみを受け、苦悩の生命ある全てを仏道へ導く。このためにこの人は、遠くない未来に、一切の真理を普く知った最上の智慧を成就することができる。これがこの経の第十の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行であり、通念では理解できない力である。
全ての生命のあるものに、仏教の教えをまだよく理解していない時に、諸々の悟りを求める修行者の測り知れない多くの悟りを得ようとする心の芽を出させ、現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行の樹木を生い茂らせ、大きく育てる。諸々の仏教の教えを理解していない人に仏道修行によって得た悟りの境地を得させて、永遠に生まれては死に、死んでは生まれる苦しみから解放されて、自由を得させるでしょう。過去、現在、未来における諸々の仏が共に守護なさるところです。
法華経 2
禅定は静かな瞑想であり、解脱は煩悩の束縛から放たれた状態である。心を集中した静かな状態で深く限界のない境地に入り、かつてない教えを体得し、成就したのである。如来は巧みに種々に物事を良く分析し、巧みに諸々の教えを説き、言動は柔軟で、人々の心を励まし、喜びを伝える。測り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを仏は悉く身につけている。
仏の力や畏れを感じない智慧、解脱や諸々の心を一つの対象に集中して動揺しない状態、仏の諸々のその他の教えの真意を測り知る者はいない。数え切れない仏に従って教えを身につけて、いろいろな道を修行してきた。非常に奥が深く、一言では言い表せないほど複雑な教えは、見ることも、理解することも難しい。何ものをも恐れない心。心を一つの対象に集中して動揺しない状態。心を静める禅定。この世の世俗的な束縛からの解脱。これらの人間の認識や理解を超えている教えを身につけている。
諸仏世尊は、ただ一つの大きな因縁のためにこの世にお生まれになる。生命のあるすべてに仏の事物に対する正しい認識を聞かせ、清浄であることを会得させようと願うために、この世にお生まれになる。万物が本来空であって、平等無差別であることを知るとともに、現象として出現する諸相をすべて知る仏の最高の智慧を得させようとするのである。世尊は相手を見て法を説く。世尊がそれぞれの心を知って、誤った見解を取り去り、諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないという空の教えによって確証を得させる。その時、それぞれの心が自ら言うのだった。生死の迷いを超越した悟りの境地に至ることができた、と。しかし今すなわち自覚するのだった。これ(空の教え)は真実の生死の迷いを超越した悟りの境地ではない、と。もし仏になることができるときには、仏の身に現れる三十二の人相を持ち、天人や人間や夜叉や龍人らは恭しく敬う。そしてこのとき、即ち言うのだった。長い間かかり、苦悩を滅ぼし尽くして余すところなし、と。
仏のその心が安らかな様子は海のようである。その説法を聞いて疑いがなくなる。過去の世の数限りない生死の迷いを超越した悟りの境地を聞かれた仏は、相手に応じて、わかりやすく説く。仏の柔軟な声は深遠ではっきりと捉えられないほど細かく複雑である。
この世は苦であり、その苦の原因は煩悩であること。その煩悩を滅する八正道の実践修行が、煩悩を滅した理想の涅槃に至る手段であるという四諦の教えを説いた。仏道は相手に応じて巧みな方法で説かれる。仏の教えは、生、老、病、死の苦悩から離れさせ、煩悩の火が消された状態の安らぎを究める。解脱と三昧などによって、自ら無量の安穏と楽しみ得る。仏の教えに従って仏法を聞いて信じ受け入れ、真心を込めて雑念を去り、仏道修行に専心して一切のものについて完全に知る完全円満な仏の智慧、人為を離れて法の本性をよく見極め、道理を正しく把握する精神作用、自分一人で身につけた智慧、如来の事物に対する正しい認識力、法を説くときの何ものをも畏れない態度などを求め、無量の生命のあるすべてを哀れみ、安楽にさせ、天人と人間とを利益し、すべての人々を迷いの世界から救う者があれば、これは自己の解脱だけを目的とするのでなく、すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるという立場に立つ者であり、大乗と呼ぶ。
法華経 3
悟りを求める修行者を菩薩と呼び、大乗を求める修行者を摩訶薩と呼ぶ。生命のあるものすべてが仏教の教えによって生まれまた死んで往来する世界の苦しみや怖れに満ちた険しい道を逃れ出て、永遠の平安という楽しみを得る。
如来とは測り知れず果てしない智慧と力と教えを説くときに、何ものも畏れない態度という諸仏の教えの蔵がある。諸々の生命のあるものすべてが生まれまた死んで往来する世界を逃れた者には悉く諸仏の精神を集中し、寂静の心境に達することや完全な精神的自由を得ることなどの娯楽を与える。これはただ一つの姿であり、ただ一種であって、聖者が称嘆せられるものである。
初めに三つの教法を説いて生命のあるものすべてを導いて悟りの道に入らせ、後に、大いなる教法によって迷いの世界を渡らせ、そこから抜け出させる。何故かというと、如来には無量の智慧と力と教えを説くときの何ものも畏れない態度や諸々の教えの蔵があって、すべての衆生に大いなる立場の教えを与えるからである。しかしそのすべてを受け取ることはできない。諸仏は衆生を導くのに臨機応変の手立てを用いる智慧の働きによって、仏の真の教えは唯一である仏の教法に於いて、道理をよくわきまえて三つの教法を説かれた。
衆生は深くこの世の楽しみに執着して、物事をよく見極め、道理を正しく把握する心がない。三界は安らかなことはなく、あたかも燃える家のようである。多くの苦しみが充満して甚だ怖ろしいありさまだ。常に生、老、病、死の苦悩があり、これらの火は勢いが盛んで激しく燃えさかっている。
如来は既に衆生が生まれまた死んで往来する世界の燃えさかる家を離れて静かに俗を逃れて心静かに暮らし、林や野に安らかに住んでいる。衆生は教え示しても信じ受け入れようともしない。諸々の欲に染まって貪りや執着が深い。如来は諸々の生命のあるものすべてに、生まれまた死んで往来する世界の苦しみを知らしめ、生まれまた死んで往来する世界から脱出する道を開示し、演説する。心が定まりさえすれば、過去・現在・未来を知る能力と神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通の六種の神通力とを備えて悟る者となり、また、仏道修行の過程で既に悟り得た境地から後戻りしない悟りを求める修行者となる。
仏の真の教えは唯一つであるという仏の立場を説く。もしこの言葉を信じ、受け入れたならば、すべて皆、きっと仏道を成就する。この教義は一言では言い表せないほど細かく、複雑であり、清浄であること第一である。皆を悟りの境地に導き、苦悩を抜き去り、生まれまた死んで往来する世界から脱出させるのである。
諸々の苦悩の直接の原因は、貪って飽くことを知らないことが根本である。徳のあるものに依存してそれを頼みにすることもない。諸々の苦悩を悉く滅ぼしてなくすことを第三の諦と呼ぶ。執着を断ち、苦を滅することが悟りの世界であるという滅諦のために仏道を修行する。諸々の苦悩や束縛を離れることを名づけて解脱と呼ぶ。
如来は衆生を安らかならしめるために、世に現れる。煩悩の火を消して、智慧の完成した悟りの境地に導く。すべての事物は因縁によってできた仮の姿であり、永久不変の実体や自我などはない。
生まれまた死んで往来する世界を出て、一切の悩みや束縛から脱した円満で安楽な境地へ至ったという証を得させて頂きました。今になって急に滅多に聞くことのできない教えを聞けるとは思って居りませんでした。深く自らこの幸いを喜び、大きな喜びと御利益を得ました。測り知れない珍しい宝を求めてもいないのに自ら得ることができました。
働くときに常に嘘をついて怠けたり、怒り恨んだり、恨みの言葉を言ってはならない。
世尊は仏の智慧に於いて物惜しみすることはない。私たちはずっと仏の弟子であったけれども、しかし、ただ自己の悟りを第一とする教えである小乗のみを願っていた。もしも私たちに、他の衆生の救済を願う大乗の心があれば、仏は私たちのために大乗の教えをお説きになられるのだった。今、この経典の中で、一切衆生を乗せて仏の悟りへと運ぶ一条の教えを説かれる。衆生の救済を第一とする大乗の教えによって教化する。私たちは今日、仏の教えの声を聞いて歓喜し、躍り上がる初めての経験を得たのだった。
仏は仏の教えを聞いて一分の悟りを獲得した者はきっと仏になることができると説かれた。それはこの上ない宝を求めてもいないのに得ることができたのだった。これまでは自分たちだけの幸せを願うのをお知りになって、未だすべてを説かれておまえたちも最高の悟りを開きなさいとは言わなかった。仏が説かれた最上の道は、これを修習する者は必ず成仏することができることを人に説きなさいということだった。偉大な悟りを求める修行者のために、諸々の因縁、種々のたとえ話、布施としての優しい言葉をかけることを以て、この上ない道を説く。仏に従って教えを聞き、日夜対象を心に浮かべてよく考え、雑念を去り、仏道修行に専心し、習って身につける。その時に諸々の仏は、これに対して、未来に最高の悟りを得るであろうことを予言し、約束する。
すべてこの世に存在する有形無形の一切のものは、悉く実体がなく、その本姓は空であり、生じもしないし滅びもしない。大きさもなければ小ささもない。煩悩もなければ因果の関係もない。消滅変化しない永遠絶対である。このように対象を心に浮かべ、よく考えて、喜びや楽しみを生ずることもない。煩悩のために悟りを開けず、生死の境界に彷徨っている。仏の物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力に於いては、貪り求める心はなく、執着もなく、また望み願うこともない。しかも自ら教えに於いてこれが物事の最後に行き着くところであると思う。
私たちは煩悩のために悟りが開けず、生死の境界に彷徨っている。諸々の事物は因縁によって仮に和合し、存在しているのであって、固定的な実体はないというあり方を説く教えを習って身につけることにより、すべての衆生が生まれまた死んで往来する世界の苦悩に嘆き悲しむことから抜け出すことができ、煩悩を絶った心の生命の拠り所としての肉体に留まる。心は煩悩を絶ったが、未だ生命の拠り所としての肉体があっても、煩悩の火を消して、智慧の完成した悟りの境地に達したのである。
俗世間を離れるのは、自分の心を見つめるためである。最初の人に仏の道を説いて勧めるときに、実際の利益や効用があるとはお説きにならない。志の劣っている衆生を導くのに臨機応変の手立てを用いる。智慧の働きによって、その心を和らげてから制御し、形作って、その後にすべての財宝を与える。滅多にないことを現じるのである。
道を得て修行し、その成果によってすべての迷いを残らず離れ去る教えに於いて、煩悩、私欲、罪悪などがなく、心の清らかな眼を得ることができる。仏によって制せられた清浄で正しい戒を守って、初めて今日に於いて、その行いの結果として、現世で受ける果報を得る。教えの王の教えの中で、長い間仏道の修行を修めて今、すべての迷いを残らず離れ去り、この上ない仏道修行により悟りの境地を得る。私たちは今、真に自己の悟りのみを求める修行者である声聞となったのである。
諸々の仏は非常に稀であり、測り知れないほど多く、測り知れないほど大きく不可思議な神通力を持っていらっしゃる。煩悩もなければ、因果の関係もなく、諸々の教えの王である。私たちが非常に道義的に下劣であってもそのことを忍んでいらっしゃる。教えを理解していない凡夫を外観から見破って、その程度にふさわしく合わせて、そのためにお説きになる。諸仏は教えに於いて最も望む通りに物事を為し得る。諸々の命のあるすべてのもののいろいろな欲望や願い及びその志の力をお知りになって、許容する能力に従って数え切れないほどの比喩を用いて、そしてそのために教えをお説きになる。この教えを聞き終わって、現世では安らかであり、後の世では善い世界に生まれ、道によって楽しみを享受し、また教えを聞くことができる。
既に教えを聞いて、諸々の妨げになることを離れ、この世に存在する有形無形の一切のものの中に於いて、その能力に応じて、物が水に溶けるように、道に入ることを得た。かの大雲が一切の草や木や叢や林や諸々の薬草の上に雨を降らせたときに、その種の素質によって潤いを吸収して各々成長するようなものである。
精神を集中して無我の境地に入り、神通力を得て、あらゆる存在はすべて実体がなく、空であるという教えを聞いて、心は大いに喜び、無数の光を放って、諸々の生命のあるものすべてを悟りへ導くことがあれば、これを大樹がしかも増えて成長したと名づける。
法華経 4
肉体は、煩悩を絶った心の生命の拠り所である。仏の教えがよく保たれた時代から、正しい修行によって悟りが得られなくなった時代となる。諸々の仏たちを供養し、観奉って、仏の物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力を得るために、清浄にして淫欲を断つ修行をする。その心は控えめで穏やかであり、超人的能力に到達し、諸々の仏の大乗経典の教えを銘記して忘れず大切にする。すべての迷いから離れ去り、煩悩を絶った心の生命の拠り所としての肉体を持つ。
我らを憐れんで、仏の声音を聞かせ給え。甘露を降り注がれて煩悩の熱が除かれ、清くさわやかになるであろう。
仏によって未来に最高の悟りを得るであろうという予言を授けられたなら、快く安楽になるであろう。偉大にして勇猛な世尊は常に世間を安らかにしようとしていらっしゃる。像法の時代は、教法・修行は行われて正法の時代に似ているが、悟りが得られなくなっている。
仏は常に何も妨げるものがない空間にあって、人々のために教えを説いて、無量の悟りを求める修行者と自己の悟りのみを求める修行者たちを悟らせるであろう。当然、無数万億の諸仏を供養し、仏の説く修行の方法に従って徐々に大道を身につけるに違いない。仏道修行の過程で既に得た境地から後戻りせず、教えを説く。
三明、六通、八解脱を保ち、威厳と人徳があるその仏の説く教えは、数え切れないほどのどんなことも自由自在になし得る測り知れない不思議な働きや力を現し、人間の認識や理解の限界を超えているのである。
諸仏を供養し終わって、悟りを求める修行者の道を備えて仏となる。煩悩を絶った心の生命の拠り所としての肉体に於いて、仏の智慧を得る。生死の迷いを去って、一切の真理を正しく平等に悟り、国土は清浄であり、数え切れないほどの万億の生きるものを悟りの境地へ導き、皆あらゆる方向に供養する。仏の身心から発する慈悲や智慧に勝る者などいない。全ての生死・輪廻の根源となるものを断ち切った者である。諸仏を敬い、供養し、諸々の仏所に於いて常に淫欲を断つ修行をし、測り知れないほど長い時間に於いて仏法の教えを銘記して忘れず大切にするであろう。
完全円満な仏の智慧は純粋で一言では言い表せないほど複雑である。煩悩がなく、妨げもなく、測り知れない時間を超えて伝わる。一切の真理をあまねく知った最上の智慧であり、永遠の平安である。大いなる威光と福徳のある世尊は生命のあるすべてを救うために仏となる。諸々の願いは既にすべて満たされ、素晴らしい吉祥になることこの上ない。世尊は非常に稀有であり、坐して身体及び手足は平静であり、安らかで動くことなく、その心は常にこだわりがなく、かつて一度も散乱せず、完全に永遠の平安を得て、煩悩のない教えの中に安住し給える。生命のあるものはすべて、常に苦悩し、盲目であり、導き見守る師はなく、苦悩を終わらせる道を知らず、迷いなど煩悩の束縛から解き放たれることを求めることも知らず、煩悩のために悟りが開けず、生死の境涯に彷徨い、悪しき世界に趣くもとになる悪業を増し、諸々の天人衆に加わるもとになる善業を滅損し、闇黒から闇黒に入って、永く仏の名を聞かなかった。
今仏は最上であり、安穏な汚れなき教えを得られた。我らと天人にとって、これは最大の恵みを得たのだった。この故に皆大地に頭をつけて礼拝し、この上ない仏を信じ、身命を投げ出して従い奉る。仏に等しい者はなく、百種の福徳によって自ら飾り、無上の智慧を得られた。願わくは世間のために説いて、我らと諸々の生命のあるすべての種類とを迷いの世界から渡し、そこから抜け出させ、我らのために、諸々の事理を思量し、顕示してこの智慧を得させ給え。
我らも仏道を得たならば、生命のあるものすべてもまたそのようになるでしょう。世尊は生命のあるものすべてが心の奥底で思っていることを知り、また行っている道を知り、また智慧の力も知っていらっしゃる。欲望や楽しみ、修めた福徳と前世に於ける善悪や苦楽などの状態とをすべて知っていらっしゃるのだから、どうか無上の教えの輪を転じてください。教えの輪を転じて、生命のあるすべてのものを迷いの世界から渡し、そこから逃げ出させ、永遠の平安への道を開き給え。
宮殿の光明は仏が世に出現されて、生命のあるものすべてを迷いの世界から渡し、そこから抜け出させるためであろう。今仏が世に出現して生命のあるものすべてのために眼となり、世間の物事が最終的に行き着くところとして、すべてを救い、擁護し、生命のあるものすべての父となって、悲しみ、哀れみ、豊かに恵みを与える。私たちは前世になされた善業によって得られる福徳の恩恵に与り、今の世に於いて、世尊にお会いすることができた。生命のあるすべてがこの教えを聞けば、悟りを開き、または天に生まれ、諸々の悪道は減少し、苦難に耐えて善い行いを積む者は増えるだろう。世尊は非常に見奉ることは難しい。諸々の煩悩を破壊し給える者である。測り知れない物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力を持つ者である。三千年に一度花を咲かせる優曇波羅のようであり、今日縁により巡り会うことができた。深遠な声でお話しくださるに違いない。
普く悟られた天人や人間の中の尊い者は、生きとし生ける者を憐れみ、天上の神々の飲む忉利天にある甘い霊液のような仏の教えの門を開いて広く一切を救われる。たいへん趣き深く何とも言えない美しい音声によって、我らを憐んで無量劫に習われた教えを譬えを挙げて詳しく説明し給え。
人間が前世・現世・来世に於いて三界を流転する様子を輪廻という。
 これが苦である。
 これが苦の原因である。
 これが苦の滅である。
 これが苦の滅に至る道である。
心の底で念じている処を仏は自ら承知しておられる。仏所護念とは、仏が心にかけられて守られるものである。一切の真理をあまねく知った最上の智慧を以て、生命のあるものすべてを救い、教示し、喜ばしめて、一切の真理を普く知った最上の智慧に向かう心を起こさせた。既にかつて無量百千万億の諸仏を供養し、諸仏のもとで常に清らかな修行をし、仏の智慧を銘記して忘れず、生命のあるものすべてに明示してその中に入らせた。如来の智慧は信じ難く、悟り難い。
私が世を去った後、また弟子があっても、この経を聞くことはない。悟りを求める修行者の行為を知らず、自分で得た現世や来世に幸福をもたらすもとになる善業によって完全な悟りを得たいという思いを生じて、きっと永遠の平安である涅槃に入るであろう。生きとし生けるものすべてが区別なく仏の悟りに到達できるようにする教法によって完全な悟りに至るのであり、さらに他の教法というものはない。ただ諸々の如来の人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段による説法は別である。
もし如来が自ら永遠の平安である涅槃に入るべき時期が来たと知り、周囲の公衆が清浄で、信解力堅固であって、諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないという教えを悟り、深く禅定に入っていると知れば、すなわち如来は諸々の菩薩(弟子)を集めて、彼らのためにこの経を説く。声聞乗と縁覚乗の二乗の立場で完全な悟りを得る者はいない。一切衆生を乗せて仏の悟りへと運ぶ教えによってのみ完全な悟りを得る。
大乗の教えはすべての人間の平等な救済と成仏を説く。願わくは世尊のように、第一に清浄であり、一切の事物を空であると見通す智慧の眼を得たいのです。静かな部屋で思いを静め、心を明らかにして真正の理を悟るために、一心に一箇所に坐り、精神を集中した無我の境地となって修行する。常に師と共に生まれ変わる。
真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段を用いて、導いて仏の智慧に向かわせる。前世から定まった運命の因縁によって今、法華経を説いて仏道に入らせる。心が明瞭であり、定まっていた案内人(導師)が、険しい状況に於いて人々の難を救う。仮に作った涅槃城を出て、一所懸命に雑念を去り、仏道修行に専念して、まさに共に宝のある場所に辿り着かなければならない。
諸々の道を求めている者が、途中で落胆し、疲れ果て、生まれては死に死んでは生まれる苦しみや煩悩の諸々の険しい道から悟りの境地へ渡れないのを見て、そのために導くのに臨機応変の手立てを用いる智慧の働きを用いて、休息させるために仮の安らぎを説いて、おまえたちの苦悩はなくなり、やるべきことはすべて終わったと言ったのだ。
既に智慧の完成した悟りの境地に至り、皆阿羅漢の位を得たと知って、それから人々を集めて人々のために真実の教えを説く。一切のものについて完全に知る智慧と、仏のみが持つ十種の超人的な知力を証明し、仏のみが持つ三十二の特徴的な相を持てば、すなわちこれが真実の悟りの境地である。
世尊は非常に言行や心がけなどが優れていて、為されることは不思議である。如来以外にはその思想や見解を発表し、論じられる者はいない。無量無辺の諸仏の教えを尊んで守護し、述べ伝え、無量の生命のあるものすべてを教化し、豊かに利益を与えて、一切の真理をあまねく知った最上の智慧に向かう心を起こさせるであろう。徐々に悟りを求める修行者の道を備え、無量阿僧祇劫という長い時を過ぎて当然この仏の国土に於いて一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得るであろう。
信念は堅固であり、雑念を去り、仏道修行に専念して、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力があり、全身皆金色で三十二の特徴ある人相を持ち、自ら飾る。その国の生命のあるものすべては、常に二種の食物があるであろう。一つは仏の教えを聞き、それを信じることによって心に湧く喜びという食物であり、もう一つは禅定に入った心の喜びという食物である。
大乗は、数え切れない生きるものたちを迷いの世界から渡し、そこから抜け出させ、皆すべて仏道を成就させることを得させる。貪・瞋・痴は人の善心を害する三種の煩悩であり、因果の道理を無視する誤った考え方の様相であることを人々に表す。人々を真実の教えに導くために仮にとる便宜的な手段を用いて生命のあるものすべてを悟りの境地に導く。
前世に会った千億の仏に於いて仏道を勤め、修め、諸々の仏の教えを述べ、従い、この上ない智慧を求めたために、諸々の仏のところに於いて仏道の指導者となり、多くの物事を聞き知り、智慧があることを示し、恐れることなく教えを説き、よく人々を歓喜させた。未だかつてくたびれて厭きることはなく、仏道の儀式や行事を助けた。既に大神通力を持ち、人々の求めによって、喜んで巧みに教えを説く。自由自在に教えを理解し語る完全な能力を身につけた。
法華経 5
人々の生まれつきの利発なことや愚鈍なことを見抜き、常に清らかな教えを説き、衆生救済を重んじる大乗の教えを護り続け、自ら仏の国土を清浄にし、未来に於いても測り知れないほど無数の仏を供養し、正しい教えを述べ伝え、また自ら仏の国土を清浄にし、常に諸々の人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段を用いて、教えを説くのに恐れることなく、測り知れない人々を悟りの境地に導き、一切のものについて完全に知る智慧を成就させる。
諸々の如来を供養し、仏の教えを尊んで守護して、その後に仏に成ることを得るであろう。その国の諸々の生命のあるものすべては、色情の欲は既に皆既に無くなって、母胎や卵などからではなく、忽然として純粋に生まれる仏の相を身につけ、智慧・福徳・相好で身を飾る。
仏の教えを聞き、それを信じることによって、心に湧く喜びと禅定に入った喜びを食物とし、さらに他の食べ物を心の中に思い浮かべることはない。諸々の女人はいない。また、諸々の現世で悪事をした結果、死後に趣く苦悩の世界もない。現世や来世に幸福をもたらすもとになる善業と善根、一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得るという成仏、生死の迷いを去って、一切の真理を正しく平等に悟る。常に大きく明るい光を放ち、諸々の神通力を身につけ、世間での評判や名声は十分に広まり、すべての人々から尊敬される者として常にこの上ない道を説く。この国土は清浄であり、悟りを求める修行者たちは皆勇気があって、何ものをお恐れない。仏はそれぞれの弟子たちに未来世の成仏の証言を与える。この会にいない者たちには、おまえがその者たちのために述べて解き明かすにちがいない。常に思いのままにし、足りないと思うことがないようにする。仏もまさにこれと同じである。物事の最後に行き着くところの最高の悟りの境地がある。仏の安穏な声は今までに一度もなかったことであると歓喜し、永久に無限の恵みをもたらす智慧の仏を礼拝し奉る。苦しみの根源である我執や煩悩を滅して真実の悟りの世界に渡る。
仏のこの上ない物事をよく見極め、道理を正しく把握する智慧を得て、そしてこれこそが真の煩悩や苦悩の消滅であると言う。智慧、福徳、相好などで浄土や仏のみを飾る。
仏の真理を知ってはいてもまだ迷いを完全に断ち切っておらず、学ぶ余地がある者がいる。煩悩を立ち尽くして、もはや学ぶべきもののない境地の自己の悟りのみを求める修行者もいる。私は常に努力し、雑念を去り、仏道修行に専心した故に、既に一切の真理をあまねく知った最上の智慧を完成させることができた。道場に坐って物事をよく見極め、道理を正しく把握する精神作用の証明を得る。いろいろな神通力を用い、十方の生命あるものすべてを悟りの境地に導く。名声があまねく至るところに広まり、徐々に煩悩の火を消して智慧の完成した悟りの境地に入る。声聞に対しても十方の生命のあるものすべてとして悟りの境地に導くとしている。
法華経は第一である。最も信じ難く、理解し難い。この経は諸仏がみだりに人に授与してはならない。諸仏世尊の守護し給うところである。昔から今まで未だかつてはっきりと説いたことはない。しかもこの経は如来が現に存在していてもなお怨みや嫉妬が多い。言うまでもなく、如来がこの世を去った後に、この経をよく書写し、教えを銘記して忘れず、見て読み、節をつけて唱え、供養し、他人のために説く者を如来は衣によってこれを被(おお)う。そして世に出られている諸仏に心にかけられて守られることを得る。この人には、仏やその教えを信じ従う強い気持ち、望み願う力、諸々の善い報いを招くもととなる行いをする力がある。この人は如来とともにある。そして如来の手によってその頭を撫で給うことを得る。
あちらこちらに於いて或いは説き、或いは読み、或いは節をつけて唱え、或いは書き、或いは経巻を置く所には皆七宝の塔を建て、きわめて高く広く荘厳に飾る。そこには仏の遺骨を置く必要はない。理由はこの経巻の中には既に如来の全身があるからだ。一切の真理をあまねく知った最上の智慧は皆この経に属している。この経は人を真実の教えに導くために仮にとる便宜的な手段の門を開いて真実の姿を示す。この法華経の蔵は深く堅固ではるかであるから、人はよく至ることができない。如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐り、そして広くこの経を説く。如来の室とは一切の生命のあるものすべてに対する大慈悲であり、如来の衣とは柔和な忍耐心、如来の座とは諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はない。この立場に立って、しかる後に善業を修めるのに積極的な心で諸々の悟りを求める修行者と出家者と在家者の男女の衆のために広くこの法華経を説くのである。
この経を聞く機会を得ることは困難である。信じて受け入れる者はまた得難い。大衆に対して恐れることなく、広く大衆のために諸々の事理を思量し、識別して説く。大慈悲を空とし、柔和な忍耐の心を衣とし、諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないとする教えを座とし、この観点によって大衆のために教えを説け。
もしこの経を説くときに、ある人が悪口を言い、ののしり、刀や杖で傷つけ、かわらや石を投げても、仏を念ずるがためにきっと忍ぶであろう。私がこの世を去った後に、よくこの経を説く者には、私は神通力で作った四衆、出家した男子、出家した女子及び在家者の男女を遣わして、仏法によく通じ、人々を導く師となる者を供養させ、諸々の生きるものたちを悟りの道に導いて、これを集めて教えを聞かせよう。ある人が刀や杖で傷つけ、かわらや石を投げようとすれば、すなわち姿を変えた人を遣わして、このために付き従い守らせる。
説法する人が一人で人の中から離れた静かで修行に適した場所にいて、静まりかえって人の声がしないのに、この経典を見て読み、そらで唱えるならば、私はその時に説法するために清浄で光り輝く体を出現させる。もし章や句を忘れたならば、そのために説いて精通させる。ある人が徳を備えて或いは出家者と在家者の男女のために説き、空虚なところで経を見て読み、そらで唱えれば、皆私の身体を見ることができる。この人は教えを説くことを楽しみ、諸々の事理を思量し、識別し、障害はない。諸仏が心にかけて守るために、よく大衆を歓喜させる。この法師に親しく近づけば、早く悟りを求める修行者の道を得る。この師に随順して学べば、ガンジス川の砂の数ほどの仏を見奉ることを得る。
妙法華経とは、仏が心にかけられて護られると名付けられた教えである。生死の迷いを超越し、悟りの境地を開かれたのが仏である。今まで一度もなかったことである。だれがこの娑婆世界に於いて広く妙法華経をよく説くことができるだろうか。今が正しくその時である。
間もなく如来は一切の悩みや束縛から脱した円満安楽な境地に入る。仏はこの妙法華経を委ねてそれが保たれるように願う。身体から言うに言われぬ美しい香りを出し、十方の国へ広がり、すべての生けるものは香りを浴びて自らの喜びをおさえることができない。誰がよく仏法を護るであろう。仏が衆生を救おうとする誓願を発して長く保たれることが得られるべきである。身心から放たれる光がある。常寂光。この経を説くならば、私(釈迦牟尼物)と多宝如来及び諸々の様々な姿で現れた仏を見奉る。
諸々の仏法に帰依した男子よ。それぞれ真理を諦観する心で考えよ。これは難しい問題である。衆生を救おうとする誓願を起こせ。
仏がこの世を去った後、悪世の中に於いてよくこの経典を説こうとすればこれこそすなわち難しいことである。私がこの世を去った後、もしくは自ら書き、教えを銘記して忘れず、もしくは人に書かせる。これこそ難しいことだ。仏がこの世を去った後に仏法の衰えた時代の悪世の中に於いて少しの間この経を読む。これすなわち難しいことである。私がこの世を去った後、この経の教えを銘記して忘れず、たった一人のために説く。これすなわち難しいことである。
今仏の前に於いて自ら誓う言葉を説け。この経典の教えを銘記して忘れないことは難しい。もし少しの間でも教えを銘記して忘れずにいる者がいるならば、私はそれによって歓喜する。諸々の仏もそうである。このような人は諸々の仏が賛嘆するところである。これすなわち勇気があって何ものをも恐れないことであり、これすなわち雑念を去り仏道修行に専心することである。過ちを犯さないために、護らなければならない禁制を守り、衣食住に対する欲望を払いのける修行をする。この方法は速くこの上ない仏道を得る。来世に於いてはこの経典をよく読み、教えを銘記して忘れずにいる者は、これこそ真の仏の弟子であり、素朴で穢れのない地に住む。仏がこの世を去った後によくこの教義を理解するならばこれは諸々の天人、人、世間の眼である。恐ろしい世の中に於いて少しの間でも説くならばすべての天人や人は皆供養する。
大乗の教えを求めることが目的となり、五欲を貪ることはない。心の中に言葉では言い尽くせない深い教えへの志があるために身も心も善業を修めるのに積極的でない心の状態にはならない。浄らかな心で信じ敬って疑いを生じない者は、地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちず、十方の仏の前に生まれる。生まれたところでは常に法華経を聞く。人間や天人の中に生まれたなら、極めてすぐれている楽しみを受け、仏の前にあるなら、蓮華の中に母胎からではなく、忽然として生まれるだろう。
すべての衆生の平等な救済を成仏と説く教えの中のすべての事物は皆因縁によってできた仮の姿であり、永久不変の実体や自我などはないという意義を修行している。
法華経 6
陀羅尼というのは、行者を守る力であり、神通力を与える力である。諸仏の説かれた非常に奥が深い秘密の教えを全てよく銘記して忘れず、深く精神を集中し、寂静の心境に達し、諸々の教えを心によく悟り、極めて短い時間の間に悟りに向かう心を起こし、信念を持ち、何事にも屈しないことを得る。衆生の平等な救済と成仏を説き、仏の真の教えの道があることを示して、一切衆生を迷いの世界から脱出させる。
自由な境地とは、悩みや迷いなどの煩悩から解き放たれて到達する。これらの道を教え導くことが難しいと雖も、大いなる忍耐力を起こす。この経を読み、節をつけて唱え、教えを銘記して忘れず、説き、書写して種々に供養し、身命を惜しまない。善業は来世に幸福をもたらすもととなる。自分の心に逆らうものを怒り恨む、自分の気持ちを曲げて人に媚びへつらう。心が誠実ではないからだった。
我らは仏を尊んで礼を尽くすために、悉くこの諸々の悪を忍ぶ。おごり高ぶって人を侮る言葉を当然忍んでこれを受ける。
法華経7
きわめて長い時間、仏法の衰えた濁った時代の中には、多くの諸々の恐怖がある。悪魔がその身に入り込み、口汚く侮辱する。心を動かさない鎧を身につける。この経を説こうとするために、諸々の困難な事柄を忍ぶ。侮辱や苦しみに耐え忍び、心を動かさない境地を守り、柔和で道義にかない、従順で荒々しいところがなく、心は動揺せず、また、教えに於いて修行するものがもはやなく、あらゆる事物や現象がそのまま真実の姿であるということを観察して、諸々の事理を思量し、識別しないことを行わないならば、これを悟りを求める修行者と大乗を求める修行者のなすべき行動と呼ぶ。虚空のようであって固有の性質はなく、全ての言葉で説明できないものであって、生ぜず、出現せず、起こらず、名もなく、姿もなく、実際には存在しない。測り知れず、果てしなく、姿もなく、妨げがなく、何ものに捉われず、妨げとなるものがない。唯、因縁によって存在しているだけであって、正しい理に反することに従って生ずる。
ふざけて笑うことを好む者に近づいてはならない。仏が法と説く時の何ものをも恐れない心を以て何も望まずにそのために教えを説け。もし教えを説く時には、戯れて笑ってはならない。一心に仏を念じよ。為すべき行動と近づくべき場所に従って、巧みに安楽に説け。この世に存在する有形無形の一切のものは空であり、存在しない。永遠でなく、また、起こることも滅することもない。これを悟りの智慧を開いた者の親しく近づくべき場所と名づける。この世に存在する全てのものを観察する時に、皆存在することはないのだという道理を悟れ。あたかも何も妨げるものがなく、全てのものの存在する場所としての空間のようであり、堅固でなく、何ものも新たに生ずることもなく、去ることもない。動かず、退かず、光ったりしない。永遠不変であって、一つの姿かたちである。これを近づくべき場所と名づける。
私が世を去った後に於いて、この為すべき行動と近づくべき場所とに従って、この経を説く時には、臆病な心があってはならない。悟りを求める修行者が静かな室に入る時には、正しく絶えず忘れないようにして、教義に従って教えを観察し、道理を悟り、思いを静め、心を明らかにして、真正の理を悟るための修業から立ち上がって、諸々の国王や王子や臣民、インドのバルナ(四種姓)の最上位の身分の婆羅門たちのために、新しい知識をわからせ、演説し、この経典を説いたならば、その心は安穏であって、臆病な心などはない。これが悟りを求める修行者の初めの教えに満足して巧みに後の世に於いて法華経を説くと名づける。
法華経 8
如来が世を去った後、教えが説かれるだけで修行する者もなく、悟りを開く者のいない時期に於いて、この経を説こうとするなら、安楽行にとどまるべきである。或いは、口で述べて説き明かし、或いは経を読む時には、人や経典の過ちを説いてはならない。また、諸々の他の法師を軽蔑したりしてはならない。他人の善し悪しや長所や欠点を説いてはならない。名前を挙げてその過ちや悪を説いてはならない。名前を挙げてその美点を称えたりしてはならない。また、怨んだり嫌ったりする心を起こしてはならない。よくこのような安楽の心を習得しているからこそ、諸々の聴衆はその人の意に逆らわない。もしも難しい質問をする者があったら、自己の悟りを第一とする教えによって答えてはならない。唯、利他の精神によって衆生の救済を説く教えによって、彼らのために解説して、過去からの幾世代にもわたり生まれ変わった体験を通してその教えを極めさせて、智慧を得させよ。悟りを求める修行者は常に願って安楽に教えを説け。一言では言い表せないほど細かく複雑な教義を以て穏やかな顔で彼らのために説け。もし難しい質問があったら、教義によって答えよ。
物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁を、譬喩によって意味や趣旨を押し広げて説明し、諸々の事理を思量し、識別せよ。皆に悟りを得たいという心を起こさせよ。諸々の憂いや悩みを離れて情け深い慈しみの心を以て教えを説け。私が世を去った後に、巧みにこの妙法華経を説くならば、心に嫉妬や自分に逆らう者を怒り、恨むことや諸々の悩みや悟りの障害となるものがなく、また憂いや悲しみ及び口汚くののしる者もないであろう。また、恐れることもなく、刀杖を加えられることもなく、のけものにされることもないであろう。忍耐に留まっているためである。
悟りの智慧を開いた者は、このようによくその心を修めれば、よく安楽に留まるありさまは上に説いたようになるであろう。
法華経 9
その人の現世及び来世に幸福をもたらすもとになる善行は、千万億劫の間、教えても例えても説き尽くすことはできない。後の末法の世の教えが滅ぼうとする時に於いて、この経典の教えを銘記して忘れず、読み節をつけて唱えようとする者は、嫉妬心やへつらい、欺く心を懐いてはならない。この世に生を受けた全ての生き物に対しては平等に教えを説け。教えに従うということのために、多くも説かず、少なくも説いてはいけない。或いは深く教えを愛する者にも、そのために多くを説いてはならない。末法の世の教えが滅びようとする時に於いて、この第三の安楽行を成し遂げる者は、この教えを説く時、悩み苦しんで心が乱れることはない。嫉妬心や腹を立てることや高慢さやへつらい心や欺く心やよこしまな心や偽りの心を捨てて常に地味でまじめな行いを修めよ。
人を軽蔑せず、また協議への無益な言論を慎め。教えを説く時は常に柔和であって、よく耐え忍び、全ての者を哀れみ、善行を修めるのに積極的でない心を起こしてはならない。第三の教えはこのようである。悟りの智慧を開いた者はこれを守護せよ。一心に安楽に行うならば、数え切れない人々に敬われるであろう。
悟りを求める修行者ではない人は、如来が用いる様々な方法や相手に応じて説かれる教えを失い、聞かず、知らず、気付かず、問わず、信ぜず、理解しない。私が一切の真理を遍く知った最上の智慧を得た時には、どこにいたとしても、神通力と智慧力によって、彼らを引きつけて、この教えの中に留まることを得させよう。如来が世を去った後にこの第四の教えを成就する者があれば、この教えを説く時、過失があることはないであろう。
虚空の諸々の天人は教えを聞くために常に後ろについて仕えるだろう。もしも村や都市や人里離れた修行に適した場所や林の中にいる時に、人がやって来て難しい質問をしようとしたなら、私たちは昼夜、教えのために付き添い、聴く者に皆よく歓喜することを得させるであろう。理由は何故かというと、この教えは一切の過去・現在・未来の諸仏の神通力によって守られているからである。
精神を集中し、三昧に入り、寂静の心境に達し、智慧の力によって教えの国土を得て、欲界・色界・無色界の三つの世界の王となる。しかしそのために法華教を説くことはない。教えによって一切の生命のあるもの全てを教化する。貪欲・憎悪・無智の三毒を滅し、欲界・色界・無色界の三つの世界を出て、悪魔を打ち破るのを見て、その時に、如来も大いに歓喜して、この法華経は、生命のある全てを、一切のものについて完全に知る智慧によく至らしめる。
一切の世間には多くの怨みがあり、信じることは困難であるので、これまでは一度も説かなかったが今、これを説く。この法華経は諸々の如来の説かれた第一の教えであり、諸々の説かれた教えの中で最も深遠である。この法華経は諸仏如来の秘密の蔵であるから、諸々の経典の中で最も上にある。
衆生は煩悩のために悟りが開けず、生死の境界に彷徨う間も守護して妄りに説かなかったのを、例を挙げて詳しく説明する。常に侮辱や苦しみに耐え忍び、心を動かさず、この世に生を受けた全ての生き物を悲しみ哀れんで、そしてよく仏の讃歎される経を説く。この経を聞こうとも信じようとしない人々は大きな機会を失ったのである。勇ましく健やかで処理するのが困難な事柄をよくこなした者には、王は髻の中の透明で曇りのない光り輝く宝石を解いてこれを授けるように、如来もまたその通りである。如来は教えの王であり、侮辱や苦しみに耐え忍ぶ大いなる力と智慧の教えの蔵があって、大慈悲心を以て教えに従って世の人を教化する。
全ての人が諸々の苦悩を受け、悩みや迷いなどの煩悩の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達することを求めて諸々の悪魔と戦うのを見て、この生命のある全てのために、種々の教えを説き、教化救済するために用いる様々な方法を用いて、この諸々の経を説く。
既に生命のあるもの全てがその力を得たことを知ると、最後にその人々のために、この法華経を説く。私が世を去った後に、仏道を求める者が安穏にこの経を大勢の前で説きたいと思うなら、当然このような四つの規則に従うべきである。この経を読む者は常に憂いや悩みがなく、また病気や痛みもなく、顔色はとても白くなり、貧しくて生活に苦しみ、身分や地位が低く、卑しく、醜い姿には生まれない。
志や一心に思うことによって得られる力は堅固であり、常に努めて仏の智慧の教えを求め、種々の優れた教えを説いてその心に畏れるところがない。雑念を去り、修行に専心して、心を一つの対象に集中して動揺しない状態に入り、出でて留まり、大神通力を得て、長い間、淫欲を断つ修行をし、よく次第に諸々の個々の現象諸相の相違を見極める智慧を習い、問答に巧みであって、人間の中の宝として一切世間に於いてこれは稀有なことである。
仏が世を去られた後に聞いたなら、或いは信じ受け入れることが出来ず、教えを破る罪となる悪い行いを犯す因縁になるであろう。超人的な能力と智慧の働きがある。よく悟りを求める修行者の道を学び、世間の教えに染まらない姿は蓮の華が水の中にあるが如しである。
大地から涌出して、皆恭しく敬う心を起こして世尊の面前に立っている。このことは思い測ることが困難である。どうして信じられよう。志が固く、臆病でない。難しい問答を巧みにして、その心は畏れるところがなく、侮辱や苦しみに耐え忍ぶ心は定まって動かず、姿・形や動作が正しく威厳と徳があり、十方の仏の讃め賜れる者たちである。彼らは有能であり、道理をよく弁えて教えを説く。彼らは集団の中に在ることを願わず、常に好んで思いを静め、心を明らかにして真正の理を悟るために修行を行う。仏道を求める理由のために、娑婆世界の下の虚空の中に住む。もしもこの経典に於いて疑いを生じて信ずることがない者は、この世での悪事の報いとして死後に苦悩の世界に堕ちるであろう。
測り知れないほど多くの悟りを求める修行者をどのようにして短い時間に於いて教え導き、悟りを得ようとする心を起こさせ、仏道修行の過程で既に得た境地から後戻りしない状態を続けさせたのか。
仏とは煩悩の日を消して、智慧の完成した悟りの境地に入り、人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段として、仏は仏の眼によって、その信仰などの生命活動や感覚の原動力の利発なことと愚鈍なことを観察する。仏は仏となって久しい。人を真実の教えに導くために、仮にとる便宜的な手段によって生命のあるもの全てを教え導いて仏道に入らせようとしてこのように説いた。
如来が演説する経典は皆、生命のあるもの全てを迷いの世界から渡してそこから脱出させるためである。その言葉や演説は全て真実であり、虚妄ではない。欲界・色界・無色界の三つの世界そのものの内面などを表す姿・形・ありさまを正しく認識するからである。
心に恋慕を懐き、渇いた者が水を切望するように、仏を仰ぎ慕い、そしてより報いを受ける原因となる行いをするようになる。
法華経 10
仏法に帰依した男女が法華経を聞いて有難く思い、大いに喜んだとする。どれほどの福を得るだろうか。世尊が世を去った後にこの経を聞くことがあってとても有難く思い、大いに喜ぶ者はどれほどの福を得るだろうか。如来が世を去った後にこの経を聞いて有難く思い、大いに喜びその後、法会から出てよその場所に行ったとする。人の中から離れた静かで修行に適した場所で、それを聞いたように、父や母や親戚の者や友人や知り合いのために、その人の能力に随って説いたとする。他の人は聞き終わって、また聞いて、有難く思い、大いに喜んで他の者に説いたとする。そのように転々と説いて五十番目に至った。教えを聞いて有難く思い、大いに喜んだことによる現世や来世に幸福をもたらすもとになる善業の因縁となる。阿羅漢果(涅槃に入って迷いの世界[三界]に生まれない者)という最高の修行者の成果を得させると尚更のことである。しかし、これを得させたことも、第五十番目の人が法華経の詩の一句を聞いて有難く思い、大いに喜んだ現世や来世に幸福をもたらすもとになる善業に及ばない。
煩悩の火を消し、智慧の完成した悟りの境地へ至る真実の教えである。世界の全てが堅固でないことは、水の泡や幻影のようである。汚れた現世を嫌い、離れようとする心を生ずる。諸々の人はこの教えを聞いて皆、阿羅漢(涅槃に入って迷いの世界[三界]に生まれない者)という最高の修行者の成果を得る。三明六通八解脱がある。三明とは、自他の過去世のあり方を自由に知る宿命明、自他の未来のあり方を自由に知る天眼明、煩悩を断って迷いのない境地に至る漏尽明である。
最後の第五十番目の人が詩の一句を聞いて有難く思い、大いに喜んだなら、この人の福が勝っていることは比喩によっても言い表せない。このように次から次へと聞いて測り知れない最初に直に聞いた人と同じだけの喜びを得るということである。もしも一人の人に勧めて誘い、法華経を聴かせることをして、「この経は深遠であり、素晴らしく千万劫の長い時間に於いてさえも遭遇することは難しい」と言い、そしてこの教えを受けに行って聴き、ほんの少しの間だけ聴いたとする。その人の福の報いを今当然に詳しく説く。顔が整っていて、威厳があり、人が見ることを喜ばしく思う。もしもわざわざ寺院内にある僧の起居する建物へ行き、法華経を聴こうと望んで一瞬でも聴いて有難いと思い、大いに喜んだとする。今当然、その福を説く。後に天人の中に生まれ、天の宮殿に乗る。もしも教えを説いている場所に於いて人に座るように勧めて聴かせたなら、その福の因縁によって、帝釈天、梵天王、転輪王の座を得る。まして一心に聴き、その意義を解説し、教えの通りに修行した者は言うまでもない。その福は限りない。
この現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いによって、感覚や意識を生じ、またそれによって迷いを起こさせる原因となる六つの器官を美しく飾って皆清浄にさせる。父母が生み出した清らかな肉眼によって三千大千世界の内外のあらゆる山・林・河・海を見ることは、下は阿鼻地獄に至り、上は有頂天に至る。またその中の一切の生命のあるもの全てを見、前世の善悪の行為によって現世で受ける報いとしての生まれる場所を全て見、全て知る。
大乗の中に於いて、仏が法を説く時のような何ものをも畏れない心を以てこの法華経を説くならば、おまえはその現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いがあることを聴く。この人は八百の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いがある優れた眼を得る。この現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いに荘厳されてその眼は甚だ清らかである。
経典を読み節をつけて唱え、若しくは他人のために説く。法師はここに住して悉く皆これを聞くことができる。優れた教えを選んで編集し、その意味を理解させる。諸々の仏や大聖主世尊の生命のある者全てを教え導く者が諸々の大会の中に於いて趣深く何とも言えない味わいがある教えを演説する。法華の教えを銘記して忘れない者は、悉く皆それを聞くことができる。そして現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いとなることを成就する。
仏法に帰依した男女がこの経の教えを銘記して忘れず、若しくは読み、若しくは節をつけて唱え、若しくは解説し、若しくは書写するならば、現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いが成就する。人知では測り知れない不可思議な変異をこの法華の教えを銘記して忘れない者は香りを嗅いで悉くよく知る。香りを聞ぐ力によって男女の心に思い込んでいること、即ち欲に染まっていることや無智や憎しみの心を知り、また、善を成す者を知る。
法華経 11
天女の着た衣の好い花の香りに飾られてぐるぐる回って楽しみ、旋回する時、香りを聞いで悉くよく知る。認識を巡り移らせて、そして淫欲を離れた清浄な大梵天に至る瞑想に入る者、瞑想から出でる者を香りを聞いで悉くよく知る。初めて天人として生じたり、楽の世界から苦の世界へ堕ちる天人を香りを聞いで悉く知る。
教えに於いて常に雑念を去り、仏道修行に専心し、若しくは坐り、若しくは歩き回って思惟し、経法を読み節をつけて唱え、或いは林に在って精神を集中し、坐禅する。悟りを求める修行者の志が堅固であり、坐禅し、若しくは経を読み、或いは人の為に教義を説き聞かせる。香りを聞いで悉くよく知る。
全ての迷いを残らず離れ去る教え。奥深くて優れた音声と言論の筋道。深遠清浄な微妙な声で大衆の中に於いて教えを説く。諸々の因縁や比喩によって生命のある全て心を導いて悟りの道に入らせる。聞く者は皆歓喜して諸々の立派な供養をする。
この教えを説く人が妙なる音声によって三千世界を満たそうと欲するならば思いのままによく至る。諸々の仏及び弟子はその教えを説く声を聞き、常に念じて守護し、或る時はそのために姿を現す。この人の思考し、推量し、言葉で説明することは、皆これ仏の教えであり、真実でないものはなく、また、過去の仏の経の中に説かれたことである。
法華経 12「私は深くあなた達を敬います。敢えて驕り高ぶって、侮りは致しません。理由は何故かというと、あなた達は皆、悟りを求める修行者の道を修行して当然、仏に成ることを得るからです」。しかもこの比丘は、専ら経典を読んだり、節をつけて唱えたりはせず、唯、礼拝を行じていた。常に罵られたけれども、自分の心に逆らうものを怒り、恨む念を起こさず、常にこのように言っていた。「あなたは当然に仏に成ります」と。
視覚の働きから生じる迷いを断って清らかと成り、耳・鼻・舌・身・意の働きから生じる迷いを断って清らかな身を得る。そして広く人のためにこの法華経を説く。その大神通力と雄弁に語る力と大いなる禅定力を得たのを見て、その説くところを聞いて、皆、教えを信じて服し従った。四種の人々のためにこの経典を説いたという理由によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の働きから生じる迷いを断って常に清浄となることを得た。そして教えを説いて心に怖れるところがなかった。
多くの諸仏を供養し、恭しく敬い、尊重し、讃歎して、諸々の善い報いを招くもとになる行為の根を植えた。後にまた、千万億の仏に逢い奉り、また、諸々の仏が教えの中に於いてこの経典を説いて、現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行が成し遂げられ当然、仏に成ることができたのだった。この常不軽菩薩は他でもない釈迦牟尼仏だった。もしも前世に於いてこの経の教えを銘記して忘れず、読み、節をつけて唱え、他人のために説かなかったならば、仏の所に於いてこの真理を悟った境地を速やかに得ることはできなかったのだった。
自分の心に逆らうものを怒り、恨む念を以て私を見下し、馬鹿にしたという理由のために、二百億劫の間、常に仏に逢わず、教えを聞かず、僧を見ず、千劫の間、阿鼻地獄に於いて大きな苦悩を受ける。この罪を償い終わって、また、常不軽菩薩に逢い、一切の真理を普く知る。そして最上の智慧に教え導かれるのだった。一切の真理を普く知った最上の智慧に於いて、一度得た悟りを失って低い方へ落ちることはなかった。
一切の真理を普く知った最上の智慧に至らせる法華経。如来が世を去った後に於いて、常にこの経の教えを銘記して忘れず、読み節をつけて唱え、解説し、書写せよ。過去の仏だった威音王如来は智慧無量で、人間の知恵では測り知れない。一切の者を率い導かれた。天人・人間・龍神が共に供養した。この仏が世を去られた後、教えが滅びようとする時に、一人の菩薩があった。常不軽という名だった。他の菩薩達が教えを精細に調べることに執着していた中で、常不軽菩薩は「私はあなた方を軽んじません。あなたがたは道を行じて皆、当然菩薩となります」と言った。常不軽菩薩は、その罪が一掃され終わって、命が尽きる時に直面し、この法華経を聴くことを得て、六つの感覚器官から生じる迷いを断って、清浄な身と成った。常不軽菩薩は命が尽きて、無数の仏に逢い奉ることが出来た。この経を説いたという理由によって、無量の福を得た。少しずつ現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行を積み重ね、速やかに仏道を完成したのだった。常不軽菩薩は後の釈迦牟尼仏だった。諸々の人に勧めてこの経の第一の教えを聴かせ、心に深く刻みつけ、教えを説明して人に教えて、煩悩の火を消し、智慧の完成した悟りの境地に留めさせ、生まれ変わる度にこのような経典の仏の教えを銘記して忘れなかった。何度にも渡り生まれ変わる度に仏に逢い奉り、速やかに仏道を成就せよ。
法華経 13
真実で清浄な利他の精神によって衆生の救済を説く大いなる教えを得て、教えを銘記して忘れず、読み、節をつけて唱え、解説し、書写してこれを供養する。そして大いなる霊妙不可思議な力が現された。
  如来の一切の教えであること
  如来の一切の自在な超人的能力
  如来の一切の妄りに人に教えない重要な事柄
  如来の一切の非常に奥が深い事柄
教えを銘記して忘れず、読み節をつけて唱え、解説し、書写し、説かれている通りに修行する。そして経巻を安置する場所を作る。道場とは、仏が真理を悟った境地を得、仏の教えを説き、最後の悟りを得た境地に入り、この世を離れる所である。諸仏とは、世間を救う者であり、偉大な超人的能力に留まり、生命のある全てのものを喜ばすために無量の超人的能力を現される。
仏がこの世を去られた後、よくこの経の教えを銘記して忘れないという理由のために、諸仏は皆、歓喜して無量の神通力を現される。よくこの教えを銘記して忘れない者は、私(釈迦牟尼仏)と分身の仏、世を去った多宝仏を一切皆歓喜させ、十方の現在の仏並びに過去と未来の仏をまたは見、または供養し、または歓喜させることができる。諸々の仏が道場に坐して得られたところの妄りに人には教えない重要な教えを遠くない未来に於いてまたきっと得る。諸々の教えの意義、文字や言葉づかいに於いて、人々の求めによって喜んで巧みに教えを説くことの果てしないこと、風が空中に於いて一切の妨げがないようである。如来が世を去られた後に、仏が説かれた経の内的原因と外的原因とそうなるに至った理とを知り、教義に従って説く。結局最後には、一切衆生を乗せて仏の悟りへと運ぶ教えに留まらせるようにする。
法華経 14
大いなる霊妙不可思議な力を現す。一切の真理を普く正しく知る仏の智慧の教え。この教えを流布してその利点を広めよ。教えを銘記して忘れず、読み節をつけて唱え、広くこの教えを告げ知らせて、一切の生命あるもの全てに普く聴かせ、知らせるのです。如来は人々を憐れみ、楽しみを与え、苦しみを取り除く心があり、欲深くもの惜しみする心がなく、生命のあるもの全てに仏の智慧、如来の智慧、自然の智慧を与えようとする。
一心に仏に成ることを求めて、一万二千歳の年月を満たし終わる。心を一つの対象に集中し、動揺しない状態を得て、心は大いに歓喜する。精神を集中して励み、仏道を修行して、愛した身体を捨てる。一切の真理を遍く知る最上の智慧の心を起こさせる。「私は両腕を捨ててきっと必ず仏の黄金の身を得るだろう。もしもそれが事実であり、虚しくないならば、私の両腕は復元して元のようになるであろう」。この誓いを為し終わって自然に両腕は復元した。この悟りを求める修行者の福徳・智慧が厚かったためにこうなったのである。この一切衆生喜見菩薩とは、今の薬王菩薩がこれである。
現世や来世に幸福をもたらすもとになるよい報いは、この法華経の四句偈の一つの教えを銘記して忘れずにいることによる福徳が最も多い。永遠の平安への流れに乗った者となる。仏は諸々の教えの王であり、法華経は諸々の経典の王である。巧みに生命あるもの全てを一切の苦や一切の病の痛みから解放させる。もしも人がこの法華経を聴く機会を得て、若しくは自分で書き、若しくは人にも書かせることをするならば、それによって得る現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いは、仏の智慧で推し量ってもその限りを知ることができない。もし女人あって、この薬王菩薩本事品を聞いて、よく教えを銘記して忘れない者は、この女人の身体が尽きて後にまた女人の身体を受けない。欲望に任せて執着し、貪ることに悩まされない。自分の心に逆らうものを怒り恨むことや憎しみに悩まされることもなく、心性が愚かで一切の道理に暗いことに悩まされることもない。悟りを求める修行者の超人的な能力や、生じることも滅することもない真理を認識することを得るだろう。
おまえは今、既に、よく諸々の悟りの妨げとなる煩悩・疑惑・懈怠などの障りを打ち破り、生まれては死に、死んでは生まれる苦しみという軍を打ち破り、諸々のその他の怨みのある敵を皆悉く砕き滅ぼした。百千の諸仏が超人的な能力によって共におまえを守護し給える。一切の世間の天人・人間の中に於いておまえのような者はいない。現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行や物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力を完成した。故に教法を伝授し、弘通の使命を託す。私が世を去った後、後の五百年の中で、この人間世界に仏法を広く行き渡らせ、断絶させてはならない。悪魔・魔民・天人・諸天・龍・夜叉・人の精気を吸う鬼神(鳩槃荼)らに都合のよい機会を与えてはならない。
宿王華よ、おまえは当然超人的な能力によって、この経を守護する。この経は即ちこの人間世界の人の病の大良薬である。もしも人に病があっても、この経を聞くことができたならば病はすぐに消滅して不老不死になる。一切の生命のあるもの全てを老・病・死の迷いの海を渡してそこから逃れさせる。このようにして人間の認識や理解の限界を超えている現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いを完成した。
精神を集中して乱れない境地は、心を一つの対象に集中して動揺しない状態である。非常に深く正しく物事を認識し判断する能力を得て、妙法蓮華経の憧の姿を心に保持する。修養によって得た自らを高め、他を感化する清らかな精神的能力。精神を集中して乱さない境地。長い間仏道に於いて優れた徳を備え、自由自在に修行を行い、精神が集中して心が乱れない。仏の智慧を体現し、精神を集中して乱れない。一切の人々の言葉を理解し、記憶することに精神を集中して乱れない境地。全ての現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を集めることに精神を集中して乱れない境地。煩悩・私欲・罪悪などがなく、心の清らかなことに精神を集中して乱れない境地。どんなことも自由自在になし得る測り知れない不思議な働きによって、心に任せて自由自在に振る舞い、精神を集中して乱れない境地。松明の火が物事をよく見極め、道理を正しく把握し、照らし出すように精神を集中して乱れない境地。
智慧と福徳と相好などで身を飾ることを願い、精神を集中して乱さない境地。共に並ぶ者がない仏の智慧に精神を集中して乱さない境地。太陽がくるくる周り、全てを照らすように、仏の智慧で全てのものを照らし出すことに精神を集中して乱さない境地。
ガンジス河の砂の数に等しい諸々の心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得る。どのような仏の悟り得るもとになる善根・功徳を植え、どのような現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を修めてよくこの偉大・超人的な能力があるのであるか。どのような心を一つの対象に集中して動揺しない状態を行ずるのであるか。
威厳と人徳は火が燃え上がるように勢い盛んであって、光明照り映え、諸々の相が備わっていて、那羅廷金剛(帝釈天と共に仏教を守護する神)の堅固な身体のようである。
華徳よ、この妙音菩薩は既にかつて無量の諸仏を供養し、親しく近づき、永い間自らを高め、他を感化する精神的能力を得るための修養をした。また、ガンジス河の砂の数に等しい百千万億那由他の仏に逢い奉った。この悟りを求める修行者は種々の身体を現してあちらこちらで諸々の生命のあるもの全てのためにこの経典を説いている。或いは梵天の身を現し、或いは帝釈天の身を現し、或いは天の大将軍の身を現し、或いは……この経を説いた。あらゆる地獄・餓鬼・畜生及び諸々の困難な状態を皆巧みに救済する。
妙音菩薩は煩悩に耐えなければならない娑婆世界の諸々の生命のあるもののためにこの経典を説く。多くの物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力によってはっきりと娑婆世界を照らして一切の生命のあるもの全てにそれぞれの知るべき所を得させた。華徳よ、妙音菩薩摩訶薩が偉大などんなことも自由自在に為し得る測り知れない不思議な力と物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力を成就していることはこのようである。
妙音菩薩は深く善い報いを招くもとになる行為を行った。どのような心を一つの対象に集中して動揺しない状態に留まり、よくこのように至る所に姿を変えて現れ、生命のある全てを救うのか。
仏は華徳菩薩にお告げになった。仏法に帰依した男子よ、その心を一つの対象に集中して動揺しない状態は、現一切色身という名である。妙音菩薩はこの心を一つの対象に集中して動揺しない状態の中に留まって巧みにこのように無量の生命のある全ての心を豊かにし、願いを叶えた。
現一切色身三昧とは、その身が清らかであるために三千大千世界の生命のある全ての生まれる時や死ぬ時、上下、好醜、善所悪所が悉く身の中に反映されて現れることである。無生法忍とは、生じることも滅することもないという真理を認識することである。法華三昧とは、法華経の教えを銘記して読誦し、解説し、書写し、精神を集中して乱さないことである。華徳菩薩が得たのは精神を集中して乱さないことだった。
法華経 15
もしも無量百千万億の生命のあるもの全てが、諸々の苦悩を受けているならば、この観世音菩薩の名を聞いて一心に名を唱えれば、観世音菩薩は即時にその音声を観じて皆、悩みや迷いなど煩悩の束縛から解き放ち、自由の境地に到達することを得させる。この観世音菩薩の名を銘記して忘れない者は、例え大火に入ったとしても火も焼くことはできない。悟りを求める修行者の霊妙不可思議な力によるが故に、もしも大水に流されて漂わされてもその名号を唱えたならば、すぐに浅い所を得る。一人でも観世音菩薩の名を唱えたならば、諸々の人々は皆、羅刹鬼の難から逃れることを得る。この因縁によって、観世音と名づける。
また人が当然害を及ばされるであろう時に直面して、観世音菩薩の名を唱えたならば、彼の振られた刀や杖がずたずたに折れて難から逃れることを得る。もしも三千大千国土の中に充満している夜叉や羅刹がやって来て人を苦しめようとする時に、観世音菩薩の名を唱えるのを聞いたら、この諸々の悪鬼は凶悪な目によってこれを見ることができなくなる。まして害を加えることなどできない。もしもまた人が若しくは罪があり、若しくは罪がないのに鎖手枷等、罪人をつなぐのに用いる刑具にその身をつながれたとしよう。観世音菩薩の名を唱えたなら、全て悉く断たれ、壊れて、そして難から逃れることを得る。「諸々の仏法に帰依した男子よ、怖れることはない。おまえたちは当然一心に観世音菩薩の名を唱えるべきである。この悟りを求める修行者は生命のあるもの全てに何ものをも怖れない智慧を巧みに施す。おまえたちがもしも観世音菩薩の名を唱えたなら、この怨みを持つ賊から解放されることができる」。商人の集団はそれを聞いて、共に声を発して「南無観世音、南無観世音」と言うだろう。その名を唱える故に難から逃れることができるであろう。無尽意よ、観世音菩薩の霊妙不可思議な力の徳の高く尊いことはこのようである。
もしも生命のある全てが色情の欲が多いなら、常に念じて観世音菩薩を恭しく敬ったならば、色情の欲を離れることができるであろう。もしも自分の心に逆らうものを怒り恨む念が多い者がいて、常に念じて観世音菩薩を恭しく敬うならば、自分の心に逆らうものを怒り恨む念を離れることができるであろう。観世音菩薩には偉大で霊妙不可思議な力があり、豊かに利益するところが多い。常に心に念ずべきである。名を銘記して忘れないようにするべきである。無量無辺の福徳の利を得るだろう。
観世音菩薩は、現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を成就して、種々の形となって諸々の国土に行って教化し、生命のあるもの全てを迷いの世界から脱出させる。それ故に、一心に観世音菩薩を供養せよ。この観世音菩薩摩訶薩は畏れや危急の難の中に於いて恐れることのない自信を巧みに施す。故に衆生の恐れの心を取り去って救う者と呼ぶ。
無尽意よ、観世音菩薩にはこのような自在な超人的な能力があって、娑婆世界の諸所に出かけて人々を教化する。幾千億の仏にお仕えして煩悩や罪などがなく、清らかな願いを起こした。一切大衆を救うことに決めたのだった。私はおまえのために略して説く。その名を聞き、そして姿を見て心に念じ、空しく過ごさないならば、心を持つ全ての存在の苦しみを巧みに滅するであろう。仮に害を及ぼしたいと思う者があって、大きな地獄の火の穴に突き落とそうとする時、彼の観音の力を念じるならば、地獄の火の穴は変じて池となるであろう。彼の観音の力を念じるならば、波浪もその人を沈めることはできない。須弥山の峰にいて人に突き落とされても、或いは観音の力を念じるならば太陽のように虚空にとどまるだろう。或いは悪人に追われて金剛山から墜落しても彼の観音の力を念じるならば一本の毛をも失うことはないであろう。或いは怨みを持った賊が周囲を囲んで各々刀を持って害を加えることに遭っても彼の観音の力を念じるならば悉く皆その途端に慈悲の心を起こすだろう。或いは王に背いたことが原因で起こる災難の苦に遭って刑に処せられ、命が終わろうとする時に、彼の観音の力を念じるならば、刀は細かく切り刻まれ、折れるであろう。或いは足枷と鎖に束縛され、捕らえられて獄中に禁固され、手枷足枷に縛られた時に、彼の観音の力を念じるならば怨みや疑いが消えて、心が晴れるように解けて解放されるであろう。呪いや諸々の毒薬で身を害されようとした者が彼の観音の力を念じるならば呪いはかえって呪った者に取り憑くだろう。彼の観音の力を念じるならば声を聞いて自ら走り去るであろう。雲が雷鳴し、稲妻が光り、雹を降らして大雨を注いでも、彼の観音の力を念じるならばその瞬間に消えてなくなるであろう。
生命のあるもの全てが困難を被って無量の苦しみに身を責められても観音妙智の力は巧みに世間の苦しみを救うであろう。超人的な能力を備え、広く智慧によって救済するために用いる方法を修めて十方の諸々の国土に身を現さぬ仏国土はない。
真理を清らかに観じ、広大な物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力によって観じ、世の中や人生を悪と苦に満ちていると観じ、慈悲の心を以て観じ、常に願い、常に仰ぎ見る。煩悩の穢れを離れ、清浄である光によって智慧の太陽は諸々の闇を破り、巧みに災難の風や火を消して普く明らかに世間を照らす。慈悲の姿の戒めは雷のように震え、慈悲の心の不思議なまでに優れているような大雲の如く天井の神々の飲む忉利天にある甘い霊液のような仏の悟りの教えの雨を注ぎ、煩悩の炎を消滅し、除く。訴え出て法廷での争いを経たり、軍の陣営の中で怖れている時にも彼の観音の力を念じるならば多くの怨みは悉く退散する。言うに言われぬ美しい美声の観世音は五種清浄の音を発するという梵天の王の音声や広大な慈悲の音声が普く聞こえる海の潮の音や彼の世間の音より勝れる。
法華経 16
一切のものが生じることも滅することもない常住不変であることを聞き、これを認めて確信を得る。
心を一つの対象に集中し、動揺しない状態に於いて悉く隅々まで通じる。生命のあるもの全てを憐れむ心の動きのためにこの法華経が説かれた。因果の道理を無視する誤った教え方の家に生まれている。「おまえ達は父を憂えるのなら、父のために人知では測り知ることができない不可思議な変異を現しなさい。もしもそれを見ることができれば、心は必ず浄らかになるでしょう」。心を清らかにし、仏法を信ずることによってその教理を会得せしめるのである。その時に父は子の神通力がこのようであるのを見て、心は大いに歓喜し、今まで一度もなかった思いを得るのだった。諸仏に逢い奉ることは甚だ難しい。我らは仏に随って学ぶ。三千年に一度花が咲く優曇波羅のように仏に逢い奉ることはこれよりも難しい。
仏に逢い奉ることは難しい。三千年に一度華が咲く優曇波羅華のようであり、また、片目の亀が浮木の穴に首を入れるようなものである。しかしながら我らは前世に為された善行によって得られる福徳が深く厚かったために仏の存在する世界に生まれ、逢えている。浄眼菩薩は長い間、法華経の教えを銘記して読誦し、解説し、書写し、精神を集中して乱さない状態に深く通じた。そして諸々の邪悪な存在から離れた。そして一切の生命あるもの全てを諸々の邪悪な存在から離れさせることを欲した。その王の夫人は諸仏の智慧を集めることに精神を集中して心を乱さない状態を得て、よく諸仏の秘密の教えを知った。衆生を導くのに臨機応変の手立てを用いる智慧の働きによって一切大衆を教化した。仏の教えを信ずることによってその教理を会得させ、それを好み、楽しむようにさせる。教えを説いて具体的に示し、利益し、喜ばせ、大いに歓喜させる。両足を組んで高座に坐り、大いなる身心から発する光を放った。「仏身は不思議であり、姿などが整っていて威儀があり、特に優れていて、最も優れた何とも言えない美しさや味わいがある姿を完成していらっしゃる」。
仏の世界の中に於いて出家して修行僧となり、仏となるのに助けとなる教えを励み、修習し、当然仏となることを得る。現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いの例として、無量の悟りを求める修行者衆がいて、国土は平坦である。仏の教えの中に於いて出家し、学びを身につけた。出家した後、常に仏道の実践に努め、雑念を去り、仏道修行に専心して妙法華経を修行した。これを過ぎて後、全ての清浄な現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いによって身を飾り、精神を集中して乱さない状態を得た。
仏の行為は教化であり、説教である。どんなことも自由自在に為し得る測り知れない不思議な力や変化(へんげ)によって衆生の因果の道理を無視する誤った考え方を転じて仏の教えの中に安住させ、世尊を見奉ることができるようにする。仏道へ導く機縁として生まれている者がいる。過去世の善根によって悟りを求める心を起こさせ、利益せしめようとしてそれぞれの家に生まれる。仏法に帰依した男子や仏法に帰依した女子が善根を植えたならば何度にも渡り、生まれ変わる度に仏道へ導く機縁となる者を得る。仏道へ導く機縁となる者は教化や説教などの仏の行為を為し、具体的に示し教えて喜ばせ、一切の真理を普く知る最上の智慧に入らせる。
人を仏道へ導く機縁となる者に会うことは前世からの定まった大きな内的原因と外的原因があるからである。そして教化し、導いて仏を見させ、一切の真理を普く知った最上の智慧に向かう心を起こさせる。
「今まで一度もなかったことです。如来の教えは人間の認識や理解の限界を超えていて、一言では言い表せないほど細かく複雑な現世や来世に幸福をもたらす元になる善行を備え、成就されていらっしゃいます。教え戒められた行いは安穏であり、快く道義にかなっています。私は今日より以降、心の働きに自ら従わず、因果の道理を無視する誤った考え方や驕り高ぶって人を侮ることや自分の心に逆らうものを怒り恨むことや色々の悪事や悪行の心を起こしません」。
妙荘厳王とは今の華徳菩薩がこれである。浄徳夫人とは今のこの仏の前に光によって照らしている荘厳相を持つ悟りを求める修行者がこれである。妙荘厳王と諸々の一族の者達を悲しみ哀れむために彼らの中に於いて生まれたのだ。その二人の子は今の薬王菩薩と薬上菩薩がこれである。この薬王・薬上菩薩はこのような諸々の大きな現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を完成して既に無量百千万億の諸仏の所に於いて多くの自らを高め他を感化する精神的能力を得るための修行をして人間の認識や理解の限界を超えている諸々の善や現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いを完成したのである。もしもある人がこの二人の悟りを求める修行者の名を知っているならば、一切世間の諸々の天人や人民もまた礼拝するであろう。これを聞いて、俗世間の汚れを遠ざけ、身心の苦しみを離れて、諸々の教えの中に於いて、衆生を済度するための諸事象の真相を知るという浄い眼を得た。
法華経 17
厳かな徳の高さとどのようなことも自由自在に為し得る測り知れない不思議な力を普賢菩薩は持っている。如来が世を去った後に仏法に帰依した男子や女子がいるならば当然この法華経を得るべきである。
  一つには、諸仏に心をかけられ、守られる。
  二つには、諸々の自らを高め、他を感化する精神的能力を得るための修行をする。
  三つには、必ず涅槃の世界に至ることに定まっている者達の中に入る。
  四つには、一切の生命のあるもの全てを救う心を起こす。
この四つの教えを成就したならば、如来が世を去った後に於いて必ずこの経を得るだろう。後後の五百年の中、仏の教えの衰えた濁った世の中で、この経典の教えを銘記して忘れない者がいるならば、私は当然彼らを守護してその衰えや苦しみを取り除いて安穏になることを得させ、隙を窺って便利に利用する者をなくすだろう(伺い求むるに其の便を得る者なからしむべし)。諸々の人を悩ます者は皆、利用することは出来ないであろう(皆便を得ざらん)。若しは行き、若しは立ってこの経を見て読み、そらで唱えるならば、私はその時に六牙の白象王に乗って偉大な悟りを求める修行者衆と共にその場所に行き、自ら身を現じて供養し、守護してその心を安らかにして慰めよう。これは法華経を供養するためという理由からである。この人が若しくは坐ってこの経を心に浮かべてよく考えるならば、その時に私はまた白象王に乗ってその人の前に現れる。その人がもしも法華経の一つの句、一つの詩でも忘れる所があれば、私は当然これを教えて共に読み、節をつけて唱え、理解させる。法華経の教えを銘記して忘れず、読誦する者は私の身を見ることができ、大いに歓喜してまた雑念を去り、仏道修行に専心する。私を見たいという理由によって心を一つの対象に集中して動揺しない状態と不思議な力を得る。
二十一日の間、一心に雑念を去り、仏道修行に専念せよ。二十一日が満了したなら、私は当然六牙の白象王に乗って無量の悟りを求める修行者に取り巻かれ、一切の生命あるものが見たいと願っている身体をその人の前に現してその人のために教えを説いて喜ばせる。またそれに陀羅尼呪を与える。この陀羅尼呪を得ることによって人間でないものたちが傷つけることはない。また女人に心を惑わされ、乱されることもない。私の身は自ら常にこの人を護る。あたんだい、たんだばだい、たんだはて、たんだくしゃれ、たんだしゅだれ、しゅだれ、しゅだらはち、ぼつだはせんね、さるばだらに、あばたに、さるばばしゃ、あばたに、しゃあばたに、そうぎゃはびしゃに、そうぎゃねがだに、あそうぎ、そうぎゃはぎゃだい、てれあだ、そうがとうりゃ、あらて、はらて、さるばそうぎゃ、さんまじ、きゃらんだい、さうば、だるましゅはりせって、さるばさった、るだきょうしゃりゃ、あとぎゃだい、しんなびきりだいて。もし悟りを求める修行者がこの陀羅尼呪を聞くことを得るならば当然知るべきである。普賢の測り知れない不思議な力である、と。
悟りの智慧を開いた者は当然一心に自らも書き、若しくは人にも書かせ、教えを銘記して忘れず、説かれた通りに修行する。世尊、私(普賢菩薩)は今、超人的な能力によってこの経典を守護し、如来が世を去られた後に於いてこの人間世界に広く流布し、断絶させない。この経を守護し、助けて多くの場所の生命のあるもの全てを安楽にし、利益する。おまえは既に不可思議な現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行や深大な慈悲を完成した。また、世間の楽しみに執着しない。仏の教え以外の経典や著書を好まない。精神が素直で地味で真面目であり、正しく記憶して絶えず忘れず、福徳の力がある。この人は貪り・怒り・愚かさの三毒に悩まされない。この人は欲が少なく、足ることを知り、十分に普賢の行を修める。
如来が世を去った後、後の五百歳にもしも人が法華経の教えを銘記して忘れず、読誦する者を見るならば、この人は遠くない未来に於いて道場に至って諸々の仏道修行を妨げる悪神たちを破り、一切の真理を普く知った最上の智慧を得、仏の教えを説き、太鼓が兵を鼓舞するように説法によって人々を仏道に進ませ、法螺貝を吹き、雨が万物を潤すように仏の教えによって衆生を教化する。当然、天人や大衆の中の獅子座に坐り、衣服・臥具・飲食物・暮らしに執着することはなく、願うところは偽りではない。また、現世に於いてその福の報いを得る。
法華経 結経
如来が世を去られた後に、どのようにして生命のあるもの全てに悟りを求める修行者の心を起こさせ、全ての生命のあるものに、平等な救済と成仏を説く経典を修行させ、物事の本質をあるがままに心に留め、常に真理を求める心を忘れず、絶対平等の真実である善悪の報いによって各人が受ける境遇を心に浮かべてよく考えさせることができるのか。どのようにしてこの上ない悟りを求める心を失わないようにさせるのか。どのようにして煩悩を断ち切ることなく、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲を離れることなく、生命活動や感覚の原動力を清浄にし、諸々の罪を滅して排除することができるのか。父母が生み出した清らかな肉眼によって財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲を断ち切らず、しかも巧みに諸々の障害となる物事を見させることができるのか。
如来は過去に耆闍崛山とその他の仏の住む所に於いて既に広く絶対平等の真実の道を思量し、識別していた。今この場所に於いて未来の世の諸々の生命のあるもの全てのために平等な救済と成仏を説くこの上ない教えを修行しようと願う者と普賢の修行を学び実行しようと願う者のために私が今、心に思っている教えを説く。
清らかな身とは、六根から生じる迷いを断って得る。物事を細心に分別して観察し、道理を悟ることを学ぶことによる現世や来世に幸福をもたらすもとになる善い報いとは、諸々の悟りの障害となるものを排除して不思議なまでに優れている姿を見ることができることである。心を一つの対象に集中して動揺しない状態に入る。声を出して経文を読んで覚えるために、心を専念して修習し、心を捧げ続け、大乗経の修行から離れず、一日より二十一日に至れば普賢を見ることができる。
重大な悟りへの障害がある者は四十九日後に見ることができる。さらに重大な悟りへの障害がある者は一つの人生の後に見ることができる。またさらに重大な悟りへの障害のある者は二つの人生の後に見ることができる。さらに重大な悟りへの障害がある者は三つの人生の後に見ることができる。前世や過去に行った善悪の行為による報いは同じではない。この理由のために人によって異なる教えを説く。
全ての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるとする絶対平等の真実の道を讃歎する。「一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲を持つ者よ、私を哀れみ思いやるために教えを説き給え」。心に大乗の経典を念じて持ち続けてきた思いを失わないならば、睡眠の間に於いて夢で普賢が彼のために教えを説くのを見ることができる。
「全ての人間の平等な救済と成仏を願うために仏を見ることができ、仏の力のために諸々の仏を見ることができた。諸々の仏を見たといえども、なお未だ明らかではない。目を閉じれば見ることができ、目を開けば見失う。
仏に罪悪を告白して許しを請い、清浄になることを終わったならば、普賢菩薩はまた更に前に現れて日常の立ち居振る舞いの時にその側を離れない。或いは夢の中でも常にその人のために教えを説く。この人は夢から覚めて仏の教えを聞き、それを信じることによって心に涌く喜びを得る。また、教えを広める智力を得る。
諸々の世尊に向かって自らの口で犯した罪を隠さず告白せよ。告白し終えたならばすぐにその時に諸々の仏の前に於いて心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得る。そして十方のそれぞれの諸々の仏の不思議なまでに優れている国土を明らかに見る。全ての感覚や意識を生じ、またそれによって迷いを起こさせる原因となる六つの器官から生じる迷いを断って清らかな身となる教えと懺悔の教えを普賢菩薩は仏道を修行する者のために説く。このように犯した罪悪を告白して許しを請い、一日から二十一日に至る。仏の前に於いて心を一つの対象に集中し、動揺させない状態を保つ力のために、また普賢菩薩の説法が荘厳であるために広く説くことは妙法華経である。
この六つの器官から生じる迷いを断った後、身心は歓喜して諸々の悪いことを心に浮かべることはなくなる。心をこの教えに専念して教えに従う。また更に百千万億の他を感化する作用が次々と伝わっていく力を得る。また更に、百千万億の測り知れない諸々の仏を見る。
全ての人間の平等な救済と成仏の教えを行ずる者は、智慧・福徳・相好でその身を飾る心を起こした者であり、全ての人間の平等な救済と成仏を念じる者である。悟りを求めると共に世の人を救おうとする心を起こした時、皆またこのようであった。
おまえは真心を込めて失わないようにせよ。この世に生まれ出る以前の世に於いて全ての人間は平等な救済と成仏を行じたために今は清浄で遍く正しい智慧を具えた身になった。この大乗経典は諸々の仏の教えを納めた蔵である。あらゆる方面、現在・過去・未来の諸々の仏の最も重要な眼目である。この経典を受持し、専ら読誦する者は即ち仏身を持ち、即ち仏事を行うことである。この人は即ち諸々の仏の使者である。諸々の仏や世尊の衣に覆われ、諸々の仏や如来の真実の教えの子である。全ての人間の平等な救済を成仏の教え行じて教えの種を絶えないようにせよ。
諸々の仏を見奉り、心は大いに歓喜してまた更に大乗経典を唱えて繰り返し読め。大乗の力のために空中に声がして讃歎して言うだろう。「仏法に帰依した男子よ、おまえは全ての人間の平等な救済と成仏を行じたことによる現世や来世に幸福をもたらすもとになる善業の因縁によりよく諸々の仏を見奉ることができた。今、諸々の仏や世尊を見奉ることができたと雖も釈迦族の聖者の如来とその分身の諸仏及び多宝仏塔を見ることはできない。耆闍崛山にて法華経を説き、絶対平等の真実の意義を説くのを見る。如来世間第一の雄者は常に世間にいらっしゃる。
釈迦族の聖者の如来は眉間の光を放たれた。その光は広く十方の世界を照らしまた十方の測り知れない世界を通り抜ける。この光の届く所の十方の釈迦族の如来の分身は同時に雲のように集まり、言葉では言い尽くせない意味の深い教えを広く説くこと妙法華経で説かれている。それぞれの分身の仏身は黄金の色である。身の大きさは果てしなく獅子座に坐られている。百億無量の諸々の大菩薩を従者にしている。普賢菩薩は光を放って仏道修行者の心に入れる。既に心に入り終わったならば自ら過去の無数百千億の仏の所に於いて大乗経典の教えを銘記して忘れず読誦したことを思い出し自ら前世の姿を見てはっきりと明らかに分かる。心の迷いが消え迷妄を脱して真理を悟り、多を感化する作用が次々と伝わっていく力や百千万億の能力を得る方法手段を得る。心を一つの対象に集中して動揺しない状態から立ち上がって宝石の樹の下の獅子座に坐られている全ての分身の仏の顔を見る。迷いを起こさせる原因となる六つの器官を清浄にする。諸々の仏の前に於いて過去に犯した罪悪を告白して許しを請う。測り知れない前世に於いて目とその視覚の内的原因と外的原因によって認識される物質や肉体に心を奪われた。そのために諸々の感覚の対象を貪り求めた。故に女人の身体を授かり何度にも渡り生まれ変わった処で諸々の物質や肉体の間の情愛の奴隷となった。そのために物質や肉体はおまえを欲界と色界と無色界の三界を生まれまた死んで往来させる。この物質や肉体の召使いとなった者は盲目であり何も見ることができない。
諸々の仏の名を呼び、焼香し花を蒔いて仏に供養して、全ての人間の平等な救済と成仏を思いめぐらす心の働きを発し、眼の過ちを説き犯した罪悪を仏に告白して許しを請うならば、この人は現世に釈迦族の聖者の如来を見奉り及び分身と無量の諸々の仏を見て数えられないほど長い間死後に赴く苦悩の世界へ堕ちることはない。大乗の力の為に大乗の請願の為に常に全ての陀羅尼菩薩と共に従者となる。この心の動きをするものを正念と言う。他の心の動きをするものを邪念と言う。
「私は今、何故釈迦族の聖者の如来と分身の諸々の仏のみを見ることができて多宝仏の塔の中の全身の遺骨を見ることができないのか。多宝仏の塔は常に存在して消滅しない。私の眼は穢れと悪に満ちている。この理由のために見ることができない」。この言葉を言い終わってまた更に罪を仏の前に告白して許しを請え。七日を過ぎた後、多宝仏の塔が大地から涌出する。釈迦族の聖者の如来はすぐに右の手でその塔の戸(とぼそ)を開かれる。「教えの弟子よ、おまえは今真実に全ての人間の平等な救済と成仏を行事普賢を心から信じて従い目とその視覚能力の罪を告白して許しを請うた。この因縁によって私はおまえのところにやって来ておまえを明るく照らす」。「大師よ、私に罪や過ちを悔い改めることを教え給え」。
普賢はまた言う。言うに言われぬ美しい音声を聞く時には心に迷いのもとになるものを生じ、耳障りな声を聞く時には百八種の煩悩の害を引き起こす。煩悩のために誤った考えや在り方をして聞いたために私語に赴く苦悩の世界、中央から遠く離れた土地、因果の理法を否定する誤った考え、仏の教えを聞くことができない処に堕ちるに違いない。おまえは今日に於いて大乗経の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行となる一切経を声に出して読んで覚えた。この因縁によって十方の仏を見奉る。多宝仏の塔は現れておまえに真理を体現させた。おまえは当然、自ら自分自身の犯した悪を説いて諸々の罪を告白して許しを請う。許しを請い終わって多宝仏が大光明を放たれるのを見奉る。
「おまえは今、大乗経典を声に出して唱えて読んだ。おまえが唱えたものはこれこそ仏が対象を認識する時の五官及び心の働きである」。「おまえは前世の無量劫という長い時間に於いて香りを貪っていたために我にとらわれた意識や前世の所業を内的原因として現在の母胎に生じる最初の一念があちらこちらに心を奪われ、生まれては詩に死んでは生まれる苦しみと迷いの世界へ堕ちた。おまえは当然、理想に達するための大きな乗り物の内的原因を細心に分別して観察し、道理を悟るべきである。自己の解脱だけを目的とするのではなく全ての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるとすることを生ぜしめる内的原因はこの世に存在する有形や無形の一切がこの世界の真実であり、ありのままの姿であるとすることである、と」。
「釈迦族の聖者の如来に心から帰依いたします。東方の善徳仏及び分身の諸仏に心から帰依いたします」。まるで眼に見るように一人一人に心を込めて礼拝し、香と華によって供養し、供養することが終わってひざまずいて、合掌して種々の詩によって諸々の仏を讃歎し、既に讃歎し終わって身・口・意の三業が作る殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見を説いて諸々の罪を告白して許しを請え。「私は前世無量劫という長い間に於いて香り・味・触感を貪って多くの悪を生じさせました。この因縁によって測り知れない前世より常に地獄・餓鬼・畜生・中央から遠く離れた土地・因果の道理を無視する誤った考え方などの諸々の善くない身体を受けたのです。このような悪の行為を今日隠さずに仏に告白し諸々の仏と正しい教えの王に心を向かわせて罪を告白して許しを請います」。
身体と心の働きを鈍らせることなくまた更に大乗経典を見て読み、そらで唱えよ。大乗の力のために空中に声がして告げて言う。「教えの子よ、おまえは今十方の仏に向かって他者救済を大重視し多くの人々を悟りに導く教えを讃歎して説き、諸々の仏の前に於いて自ら自分の過ちを当然説く。諸々の仏と如来は慈しみ深いおまえの父親である」。
舌とその能力は悪い行為をする想いに動かされて事実や倫理に合わない出鱈目な言葉、真実に背いて巧みに偽り飾る言葉、人を悪く言う言葉、二人の人に対して異なることを言って仲違いさせる言葉、他人を悪く言う言葉、不実な言葉、因果の道理を無視する誤った考え方の言葉を讃歎し無益な言葉を説く。諸々の仏は光明を放って仏道修行者の身体を照らし、その身心を自然に歓喜させ、一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲を発し、広く全ての者の心を動かす。人の幸せを喜び、平等に分け隔てなく見る教えを説きまた他者に優しい言葉をかけることを教え、身・口・意・戒・見・行の六つの点でお互いに敬い和合することを習得させる。仏は何とも言えない美しい味わいのある声で教えを説く。衆生は邪見や欲念に妨げられて真理を悟ることができない。
「私はどんな場所に於いて罪を告白して許しを請い悔い改めることを実行すればいいのでしょうか」。
空中の風を留めておくところがないようなものであり、万物の姿は生じないし消えもしない。全ての存在は留まることなく破壊されることもない。煩悩の束縛から解き放たれて自由の境地に到達する。一切の苦を滅し尽くした境地であり、解脱の境地である。罪を告白して許しを請うことを行う者は身心清浄であり教えの中に留まることなくまるで流れる水のようである。一瞬の間に普賢菩薩と十方の仏を見る。
その時に諸々の世尊は修行者のために大きな慈悲の光明によって見ることができる無相の法をお説きになる。仏道修行者は究極の真理である空を説かれるのを聞き奉る。仏道修行者は聞き終わって驚き恐れることはない。その時に、悟りによって確立した境地に入る。このように修行することを懺悔という。そして自信にあふれ何ものも怖れなくなる。身体は教えに触発されて活動を始める精神的能力の宿る主体となる。悪を消滅して永遠に諸々の煩悩を離れ、常に安らぎの境地の域に留まり、安楽であり、淡泊でこだわりがなくあろうと願うなら、大乗経を唱えて諸々の仏道修行者を生み出す母を思い描く。全て人間の平等な救済と成仏を説く大乗の教えが仏の真実の教えの道である。
多くの仏などの賢人が出た現在の一大劫の諸々の仏道修行者及び十方の仏と大乗経典の絶対の真理の教義を想う理由のために百万億阿僧祇劫という非常に長い時間に於いて生まれては死に死んでは生まれる迷いの世界で犯す罪を取り除く。この極めて優れた罪を告白して許しを請い、悔い改める教えによるために今十方に於いて各々仏になることができた。もしもすぐに一切の真理を普く知った最上の智慧を成就しようと願う者はもしも現在生を受けている身体に於いて十方の仏と普賢菩薩を見たいと願うならば清く身体を洗い清めて清い衣を着て多くの仏に奉る香を焚き、人の中から離れた静かで修行に適した場所に居る。
仏の真の教えの道である大乗経を読み、唱え、全ての人間の平等な救済と成仏を説く大乗の教義に従う。諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないと思うなら、百万億阿僧祇劫という長い時間に於いて迷いの世界で犯した罪を取り除く。「私は今日に於いて悟りを求めるとともに世の人を救おうとする心を起こした。現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行によって広く全てを悟りの境地に導く」。
一日及び二十一日の間、受戒の師である必要もないし、諸々の指導者である必要もない。純粋な受戒や懺悔の作法をしなくとも、大乗経の教えを銘記して忘れず、見て読みそらで唱える力のために普賢菩薩の助けがあるために、これが十方の諸々の仏の正しい教えの要点であるので、この教えによって自然に五つの教えである戒(言行を慎むこと)、定(心の動揺を押さえること)、慧(澄み切った理智を働かせること)、解脱(因果から解放されること)、解脱知見(解脱知見すること、解脱知見そのものを身体に備えること)を成就する。諸々の仏や如来はこの教えより生じるのである。
大乗経典を読み、第一義の空の教えを想う。空の教えを悟る智慧により、心と対象世界を統一する。この人は時時刻刻の間に全ての罪による穢れを永遠に無くし尽くす。人と天人の全ての供養を受けるようになる。
諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって固定的な実体は無い。第五の懺悔とは、前に行った善悪の行為がそれに対応した結果となって現れるとする考えを深く信じ、絶対平等の真実の道を信じて仏は滅することはないと知ることである。未来に於いて懺悔の教えを習得することがある時、この人は自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じることを身につけ、諸々の仏に守護されて、遠くない未来に於いて、一切の真理を普く知った最上の智慧を成就する。そして衆生を救うために、一切の法門の智慧を見ることができる眼を得る。<了>
後藤静雄
平成30年 9月19日
令和 2年 4月25日
令和 2年 5月28日