解決するべき課題があった

2012年12月27日

解決するべき課題があった。それは成就した。およそこの世での解決はないと思われた。とても孤独な自分との戦いがあった。しかしいつか、解決しなければならなかった。不思議な人生の意味を知り、古来伝えられていた本来日本の真実を未来につなぐためだった。そのために生まれていた。それ故に厳しい試練があった。そして既にそれは体験的に確証され、事実となった。本来日本に本懐がある。
 
悲しみよさようなら。青い空と白い雲。そのうち何とかなるよ。苦節三十有余年を要することがあったとしても。人生いつまでも捨てたものではない。失ったものが大きければ大きいほど得るものは大きい。山より大きな獅子はでない。
 
 楽しさに気づき始めて人生はかくもやさしく愛の満ち来る
 
明るいところ、楽しいところ、美しいところに人は集まる。人が集まるところに、経済がある。何事もプラス思考でいいんだよね。明日の日は雨か嵐かしらねども今日のつとめに田の草を取る そして 浜までは海女も蓑きる時雨かな 
 
やはり笑顔だった。だが笑顔であればいいというのではない。野蛮な言動での笑顔がある。諦めた笑顔がある。悲しい目をした笑顔がある。こうした消極的笑顔に対して、自信に満ちて明るく楽しく常に自分は後にして他者をいたわる積極的笑顔がある。
 
おもしろければいいというのではない。何かを笑いものにしておもしろがっている風潮がある。子供たちはおもしろいからいじめる。それを遊びだという。そして遊んではいけないのですか、と居直る。おもしろければいいというのではない。何をおもしろがっていたのだったか。
 
明るい笑顔が拡散している。なぜだろうね。花が咲いた。もうその花は咲かないのかと思われていた。彼が帰ってきた。だれもがこの日を待っていた。そうだったのだよ。それは昭和50年のはずだった。昭和56年にもチャンスがあった。しかし彼は埋没した。悲しい試練があった。
 
もはや誰も責めはしない。それぞれのことである。それぞれ相応の裁きがある。裁くのは、祖先の総体としての黄泉である。あまりにも知らなかった。そして勝手する。今までは通った。これより、通りはしない。何故であるか。時が満ちた。
 
戦後は殊の外困難だった。明治もそうだった。
 
呉市の画伯、原開氏の最終作品です。氏が逝去する三日前にこの絵を持ってお見舞いに行きました。氏は、「ありがとう。多くの発見があったよ。この絵はどこに出しても恥ずかしくない。会いたくなったら、私の方から会いに行く」。

 

長い冬だった。苦しい戦いがあった。最終最後最大の敵は自分自身だった。退治するべきはそれだった。
 
さっきまで川原石港にいました。ことのほか大きな炎が製鋼所の煙突からあがりました。
 
本来無一物だったのでした。これはなかなか困難な課題でした。頭でわかったのではわかったことにならない。本当にそれがわかるまではわからない。喜びで輝き始めるまでは。それが笑顔だったのです。
 
明るく楽しく日々を送ることに決めました。今まで何を苦悩していたのだったか。その必要はなかったのです。
 
改めて彼は確認してしまった。やはり彼だった。知る人は知っている。