後藤静雄プロフィール(2015/08/12現在)
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生年月日 昭和三十一年(1956)年丙申四月士日 23時34分
星座 牡羊座
誕生石 ダイヤモンド
血液型 B型
空亡 寅卯
守護 午亥
手相 これほど恵まれた手相は写真でも見たことがないとのことだった。あらゆる能力を持っている。完璧な能力である。二重生命線、成功線があって、情が基本にあり、頼まれたら断れない。欲しいものは何でも手にはいる。そして与えることも出来る。生きている次元が違っている。求めるものが違っている。タイミングを計っている。祖先には武将がいる(武将だけではない。流れている血が違う)。ものすごい守護がある。既に完成している。これだけきれいな人生を生きた人はいない。
祖先 父方:父後藤昭亮(アキノリ[朝青龍は明德と書いてアキノリ]。昭和2年3月7日生、平成元年5月22日没。昭和そのものだった。16歳で志願、カムチャッカ赴任、戦後網走に復員(刑事?)、やがて帰呉、国鉄職員、生涯現役、最後はブルートレイン機関士。定かではないが、予科練の教官もしたという。家にはケンパスと絹の紐で出来たまっさらなパラシュートと海軍の毛布があった。ある日父はいった。私もおまえと同じだった。おまえは大丈夫だ。私の子だ。その意味を確信するにはとてつもない試練があった。そして気づく時が来る。師子は師子である。いつかその時が来る)。祖父良亮(昭和50年2月28日没、行年82歳。千畝の四男。四十余年男子校訓導及び保護司。保護司が特別職国家公務員であったのを知ったのは、大学に入って時の刑事政策の権威森下忠教授の講義を受けた時のことだった。家には廣島桑原家から持ち帰ったいくつかの宝があった。晩年の祖父は得意の楽焼きを作っては知人にプレゼントしていた。箱も手作りだった。版画も絵も得意で、何をしても天才かと思われた。亦、銀杏の種を植えて苗にし、それも知人に配っていた。祖父が生きている間、裏の国道沿いに交番があり、時々警察官が立ち寄っていた。交番は今、移動交番となった。いわゆる覆面パトカーである。その頃、駅伝もあった。父も選手だったらしい。国道は31号線である。祖父が亡くなる直前に私にサインを送っていた。それは電話の受話器を取っては指さすのだった。周りの者達はぼけたと思った。母も知らなかった(それが孤独であった最大の理由だった)。そうではなかった。その時の祖父の目は輝いていた。そうした謎のすべてを知るには殊の外試練があった。しかし知ってしまった。祖父が何者だったのか。これには驚いた。まさかと思った。しかし自分の人生を振り返って疑えない事実がある。今となっては申し訳なかった。しかしこれからでも遅くはないと思うに至った。代々の務めである。誰も知らない未来に伝えおくべき古来日本の秘密がある。熱鉄丸を吐き出す時は来た。それが彼のアイデンティティであり、存在理由だった。本来日本を取り戻す。主権在民国民主権。何を以て勝手し来たる哉。容赦しない)。[父も祖父も殊の外寡黙だった。さぞ孤独であったであろう。「松」の字の意味を知ったのは、祖父に対する叙勲の時のお祝いの掛け軸の書を見つけた時だった。しかし誰にもいえないままだった。その意味を知るには戦後はあまりにも困難な時代だった。]尊祖父広島大手町桑原千畝(広島藩城代家老と聞いている。祖父と密かに墓を守っていた)。嘉兵衛、覺兵衛(或る所で真実の祖先供養の方法を教えて貰い、広島市中区区役所の中の除籍謄本に祖先は眠っていた。手渡す時の官吏の手は震えていた。この一本の除籍謄本で六代遡ることができた。覚兵衛獅子は祖先かと思ったこともあった。越後の意味がわかる頃、すべてが解決した。それまで例えば監視されているのかと思ったこともあった。そうではなかった。見護られていた。導かれていたのだった。その意味を知る頃、感謝の涙がやさしい雨となった。雨とは天だった。忠臣蔵に懐かしさを覚えるのはいうまでもない)。
母方:広島白市山持(山道)家(除籍謄本は安芸河内町にあった。呉で大地震があったが、その時これを申請中だった。河内町と呉市が震度6だった。亦、この大地震があったのは或る道場で祖先の供養を初めてさせて貰った日の帰りのことだった。その時、私は或る車の後部座席にいて、広島女子大学前の交差点を左折した瞬間だった)。
座右の銘 日月照らし、風が吹く。
身長 177.8cm
読書 吉田健一、森有正、辻邦生、ヒルティ、アラン等。
幼稚園:明徳幼稚園 お遊戯会:音楽指揮及び弁慶役
小学校:
呉市立港町小学校
音楽会:コントラバス(於呉市民ホール、曲目:ウィンザーの陽気な女房達)及びタンバリン(大学祝典序曲)担当(この頃、ソルフェージュとカデンツァをみっちりしごかれた。弓の弦は馬の尻尾である事を知った。手入れは松ヤニでしていた)、鼓笛隊(総勢160名、トランペット及び太鼓等、あらゆるパートの教育を受けた)総指揮(呉みなと祭り行進、呉線電化に伴う最終ジーゼル車を呉駅にてお迎え)。新聞部長、放送部長、毎週金曜日朝礼全校お誕生日会司会、オペレッタ「シンデレラ」白い鳥役、給食時間DJ、方形校舎屋上気象観測記録(夏休みも毎日実行)。担任:竹花礼子先生(1,2年)、本田照子先生(3,4年。もしもの時はと、ロッカーの鍵を預かっていた)、前門戸露子先生(呉市で二人目の女性校長)[すべて広島高等師範卒]。小4の頃の事だった。担任の本田照子先生はピアノが上手だった。その頃、学芸会は音楽会だった。先生はオペレッタの伴奏ピアノを弾ききった。とても感動的だった。その頃、先生は病弱だった。ある日先生はロッカーの暗証番号を教えてくれた。何かあったら、あなたが此処を開けて処理するのよ。小5の頃の事だった。担任の先生は前門戸露子先生だった。授業中に、会計帳簿と生徒から集めたお金を入れたいくつかの封筒を持たされて、全校の係の先生を訪ね、印鑑を貰ってくることが日課となっていた。小6の事だった。校庭にライオンの石膏像を作ることになった。これも授業中に、選ばれた数人が作業した。とても立派な獅子座像ができた。亦ある日、運動会の行進の練習をしていた。鼓笛隊のマーチに合わせて。体育の先生が大きな声でいわれた。すぐに曲の演奏を止めろ。途中での止め方など教えてもらってはいなかった。とっさに考えた。一フレーズ、四小節。カウント七のタイミングで止まると思った。実行してみると、無事止まった。亦、前門戸先生からコントラバスのパートを任された時のことだった。先生は、第一弦と第二弦だけでいいといわれた。しかし何故か四弦すべてを使っていた。そのまま先生は黙認してくださった。専門の先生にも指導してもらった。特に問題ないとのことだった。そしてこの頃、港町小学校は道徳教育の研究モデル校だった。白い犬がある日突然黒い犬になった話があった。そして再び、白い犬に戻るのだった。『星野君の三塁打』という話もあった。亦、学校の図書館が開かれ、蔵書が充実された時、各生徒が本を一冊借りて読む時間があった。私が借りた本は『西遊記』だった。前門戸先生はそれを一瞥して微笑んでおられた気がした。小4の頃、近くの測候所へ見学に出かけた。その感想文が宿題となった。先生は、原稿用紙に1枚から2枚に書くようにとのことだった。私は11枚書いた。ずいぶんと先生は驚かれていた。先生とのお別れの会の時、先生は生徒の一人ひとりに手紙を書いて、それぞれ涙声で読み上げて手渡した。私の時には、「将来はどのような大人になっているのか楽しみです。ずいぶんと大将をしていましたね。上手に嘘もついていましたね。小説家になるかもしれませんね」。
中学校:
呉市立両城中学校
庭球部呉市民大会第二位、県体育大会呉市代表選手、県西部地区団体戦第三位、勝率9割以上、団体戦メンバーとしては無敗(何故か個人戦はその後、雨で流れた。県体予選も無敗だった。この頃、女史体育教師をしてスポーツ万能といわしめた。その頃、先輩は三代にわたって県知事杯を受賞していた。故に強くなれた。テニスクラブ活動は玉拾いより始まる。諸先輩のフォームを自分のものとする。そして初代県知事杯受賞の先輩は近くの高校に在籍していた。その方が当中学校に来て練習するのだった。その時、指名されて乱打させてもらったのは私だった。高校受験も大学受験も一つしか受験しなかった。高校の合格発表の日、キャプテンと先輩の一人が家を訪ねて来た。そして一緒にやろうと入部を勧誘された。当時の実力はインター杯への出場は保障されていたのだったのかも知れない。しかし、家庭の経済的事情もあって固辞した。今にして思えば、そのままテニスをしていれば、人生は別の展開もあったことだろう)。学業成績席次:首席もあり(1/210)、9教科最高平均点93.6点(三年二学期末試験でマークした。その後、9教科平均93点台は寡聞にして聞かない。9教科平均91点台は数多いた。5教科平均と9教科平均は違う)。技術科での実習作品評価は中学三年間を通して常に一人だけA°だった。 三年二学期には9教科中、十が8つだった。表示上は6つである。2つは他に譲ってある(担任の弁)。十でなかったのは国語だった。故にその後の人生に苦労した。その頃、問題作成者の用意した答えが答えだと思わなかった。真実真理が答えだと思っていた。その後、それも克服した。ところで、国語の先生は福間先生だった。ある日、本読みをして褒められた。とても良い声をしているから大切にしろとの事だった。平生点としていつもの二倍を貰った。この頃より命も賭した孤独な旅が始まった。今としてはある謎を解かねばならない宿命としての使命があった。それはヘッセの如く『内面への道』だった。帰ってくることが出来なかったかも知れなかった。小学校から中学校まで各学年、一学期学級委員は指定席だった(それが今はどうだろう。このギャップが不幸である。しかもその理由が示せないままだった。これもすべて過去の因縁であると気づくにはさらに時を要した。故に三十有余年の孤独があった。思えば社会的な自殺行為だったか。そのまま埋没かと思われた。何か方途はないものか。意を決して一人旅に出たのだった。それはブログへの書き込みだった)。そしてこの頃、公害があった。その後、理科第二分野の藤岡先生は公害の権威となった。その頃、近くの二河川でもお化けハゼが釣れていた(その後、大学で不法行為を研究した。そして公害に関する受忍限度論及び疫学的証明の転換の解釈論の努力を知った。企業は利益追求を目的として何をしているのかと思った)。
高等学校:
広島県立呉三津田高等学校
普通科
旺文社全国読書感想文コンクール入選。テーマ『二十日鼠と人間』(高一の夏休みの宿題だった。提出日の前日にメモを作り、提出当日の朝、教室の片隅で仕上げた。全校生徒千人を超える中で入選したのは二人だった。文芸部の顧問の岡本春子先生(奈良女子大卒)から冬の寒い朝、校庭の片隅の鉄棒の傍らで、一緒に文芸をしましょうと一時間あまり口説かれた。その頃、文芸など女々しいと思っていたのでお断りした。今思えばこの頃既に、文章力は免許皆伝だった。亦、この頃、学校は全共闘の余波が来ていて、勉強する雰囲気ではなかった。学校の勉強をしているのは、利己的な人間のように思われた。そして部落研究会の嵐があって、或る先生が吊し上げられ、2回も全校集会があった。それで訳のわからない本ばかり読むようになっていた。その後、柔な読書はしていない。この頃、「人間関係は同レベルで触発する」と思った。そして『失われた何か大切なもの』を求めての旅が始まっていた。それでもしていたZ会C問題では最高席次22だった。その後、十九の春があった。原因は失恋だった。それは十六の中学卒業の頃に始まっていた。もう人生も青春も終わったと思われた(今にして思えば、馬鹿げた話である。その後、埋没を余儀なくされた。何をしても駄目だった。奈落の底だった。糸車の針が刺さったのだった。自信を失ったのだった。絶対の自信を回復するには、三十有余年を要した。そして今、気づいている。長い冬だった。しかし春は必ず来る。諦めないことである。不安と孤独から逃れる方法はあった。自分のすべてを認めることだった。それが素直ということだった。或いは正直である。そしてそれまでの黄泉=祖先の総体の守護と導きを確信するに至るのだった(前世はある。来世もある。すべては霊界に認められることで決する。霊界はどのような子が可愛いのか。この世もあの世も同じである。誰も知らない。知らずに勝手した。貶めた。裏切った。或いは奪った。いつか気づく。その時は遅い。黄泉もその時を待っていた。それが歴史である。黄泉が成敗する。半端ではない)。それは十九の春を認めることだった。これは勇気を要した。そして真実の救いが来た。糸車の針が抜かれた。自由となった。本来の自分を知るに至った。知った自分は何者だったか。それがそのまま禅のテーマだった。禅は今、日本にしかない。故に伝えるべきことがある。護るべき國、神国日本がある。祖先に感謝するのだった。日本に感謝するのだった。私は黄泉に護られていた。そして導かれていた。この試練に耐えた時、どれほどの祝福があるか。知る由もなかった。しかしそれも過去からの約束だった。謎を解かねばならなかった。この試練を解決しなければならなかった。未来のために。そして何時かその時が来る。その頃、ナポレオン・ヒル氏の代償の法則に出会うのだった。即ち、どんな悲しみにもそれと同等か或いはそれ以上の喜びの種が宿されている。それは三十有余年の熾烈な自分との戦いだった。自分の人生とは何だったのだろう。改めて思うのだった。そしてこの世に生まれた使命は果たしたと思った。それは何だったのか。明治と戦後を見直すことだった。明治と戦後は彼には仇だと思われた。金ぴか先生とか、お笑いバラエティなど、言語道断だった)。高校の頃は積極的な学校の勉強はしなかった。読書と手紙三昧だった。或る失恋があったからだった。しかしそれでも最高の成績を修めたことがあった。ひとつは読書感想文全国コンクールだった。そしてもうひとつは世界史だった。或る試験で、どうしても納得がいかなくて、職員室へ乗り込んだ。その根拠は、『都市の空気は自由にする』だった。その時の成績は最高点だった。高校時代は闇だった。しかし片鱗はあったらしい。大学が決まって、誰もが疑った。小学校の時の同級生で、その後社長をしている友達がいった。いろんな奴に出逢ったが、現役で楽に東大に行くとしたら、お前しかいないと思っていたと。事情があった。十九の春を通って大学に入学したこと自体が奇跡だったといえる(その後、これを解決するには、三十有余年を要した。しかしこの克服は人類にとって福音であったといえるだろう)。それほどの試練があった。社会の最下層を歩むことになった。ゆえに結婚も出来なかった。事情があったのである。しかしその事情を知らない世間に肩書きのないことで愚弄されたことも事実だった。例えば、資格がなければ、校長の仕事は出来ない(今となってはどうでも良い。今更がんばる気はない。何かを知ってしまった。これがこの世の務めだった。笑うしかない。そして至り着いた。至り着くまでは決してわからないことがある。論理はすばらしい。そして美しい。故に三島由紀夫氏だったろうか、刑事訴訟法を絶賛した。科学が論理ではない。世間は知らないことが多すぎる。そして今、彼は究極の謎を解いた。もはや彼が本気になれば彼に反論できない。何故であるか。黄泉が実現する秘密がある。しかしながら、彼は自らその大風をも制御する力を行使することはない。世間はそれを知らない。知らずに彼を貶める。そして一休髑髏ご用心となる。真実である。あるいは事実である。誰も知らなかった。知らないことを以て世間は勝手している)
予備校:
広島YMCA予備校
平賀春二先生(大学に入って、研究社大英和辞典第四版の校閲者の欄を見て驚いた。海軍大学及び広島大学の教授をされた方で、船舶関係の専門家だった)の英語の授業を受講(真面目に受講したのはこれだけだった。コミュニケーションツールとしての英語がわかったと思った)。先生は授業の終了のチャイムの後、個別的な質問に答えておられた。さすがに海軍魂である。こともなげに黒板のチョーク箱をたばこの灰皿にしていた。そして、西城秀樹がYMCAの歌を歌っていたのがどういう意味だったのかを知るには、ずいぶんと時を要した(亦、就職の頃の寺尾 聰は何だったのか。尾崎清彦の『亦逢う日まで』は何だったのか。ずいぶんと悲しい頃のことだった)。
大学:
広島大学法学部法学科5261066(一期生)
法学部ゼミナール連絡会議を全会一致で設立(各ゼミ員の卒論テーマの開示を含む会報及び住所録の発行、年一回のゼミ連主催著名先生による講演、ゼミ間の交流を図るソフトボール大会の開催。ノンセクトではあったが、当時、国立大学にこうした学生自治組織を勝手に作ってしまったことは、今にして思えば驚きである。一切障碍はなかった。何故そのようなことができたのか。誰もができることではなかった。早く気づけばよかった。その理由は何だったのか。それに気づくにはさらに三十有余年の旅を要した。卒業後、広島大学は北海道大学を抜いて日本一のキャンパスを持つに至った。これも何故だったのだろうね.(父はカムチャッカにいた)。そして高校卒業時に志願していたのは京都大学法学部だった。受験票は持っていた。受験することはなかった。十九の春の故だった。その頃、祖父が他界した(昭和50年2月)。東京大学に興味はなかった(小五の頃の事だったろうか。たまたま遊びに行った友達の家のテレビで、安田講堂の屋上から火炎瓶が投げられるのを見ていた)。民法Ⅰ石外ゼミナール卒。得意科目:政治学、行政法(全優)、お師匠:石外克喜教授、筑間正泰教授(卒業後個別指導を賜る。ある日、先生があるところで講義されるのにそのリハーサルだといって(真意は伝授だった)、その内容を一時間あまり電話で話してくださった。刑法の条文からの体系的解釈方法構築論であり、刑罰の本質に関しての重要な内容だった(刑法における責任とは何に対する責任であるかを教えてくださった)。その時、刑法がわかったと思った。先生は刑法はとても人間的なんだよと教えてくださっていた。亦、ある日食事をしていて、先生は仰るのだった。後藤君、君は大金持ちではないか。その時、その意味するところ(国家)がわからなかった。理解するにはさらに時を要した。謎を解かねば解からなかった。私の探すべきものはまだ別にあった)。そしてこの頃、大塚博堂ばかり聞いていた。コンサートにも彼女と出かけた。中国新聞本社のホールだった。その後死んだはずなのに(その記事は朝日新聞4段抜きで見ていた)、大塚博堂と名乗る人に出会った。ずいぶんとだまされた。奪われた。サインしてくれるというので、レコードとCDを渡したが、帰ってこなかった。その大塚博堂を紹介した某市議会議員の方はずいぶんと自慢げだった。さて、私の刑法及び刑事訴訟法のお師匠は筑間正泰教授だった。先生は日本で唯一人の純粋な因果関係説を採っておられた。通説はもちろん、相当因果関係説だけれどもね。先生の立場は何処にあるか、知る人はあまりいない。それ故だろうか、その頃、広島高検の検事長とか広島高裁の長官の講義がよく行われていた。その頃、日本の司法は大丈夫だと思った。そのまま弟子でいることもできたのかも知れなかった。それもできなかった。ほかにやるべき事があった。いつか成就しなければならなかった。
卒論のテーマ 『不法行為の一般的成立要件について』(主な論点:「不法行為において故意と過失は別に論じるべきである」。10年後の民法学会でこのテーマが議論されたと後で聞いた。石外教授は個別的テーマに絞るように指導された。しかし私は一般的テーマだった)。
就職 昭和56年4月、某大手建設会社(名古屋支店配属、即退社。理由は十九の春の延長だった。その後、特殊潜行。社会に見捨てられたと思った。本当につらくて悲しい人生があった。世の成功者がとても羨ましかった。いつも慰めはラジオだった。それも試練だった。何時か解かねばならぬ謎があった。誰も解けはしない謎だった。属性を要する。時を要する。二十世紀最大の謎であったフェルマールの最終定理も解かれた。素粒子理論もある結論に達した。その時を待たねばならなかった。カミオカンデも大きなヒントとなった)。第一志望は某大手工務店だった。何となく広島支店を訪ねて、その後、ずいぶんと引っ張られた。しかし大ホールでの一対十五人の役員面接で落とされた(とても大きなホールでのことだった。大法廷かと思った。それは明らかな裏切りだった。触れてはならない逆鱗がある。或いは秩序がある。貶めてはならないモノがある。知らずとも。いつか仇は討つ。各々、勝手が過ぎた。両替商及び棟梁ごときなど相手ではないはずであった。しかし明治以降及び戦後、宿命として失われていたのはそれだった。故に苦しんだ。その頃、まだ力が足りなかった。自覚もなかった。そして密かに誓った。いつか祖先の仇は討つ。そのためには何が必要であるか。探さなければならなかった。それ故の苦節空閑三十有余年のさすらいがあった。何を根拠に勝手し来たる哉。何を勘違いしたる哉。いつか決着をつける。それはこの世の秘密を解いた時である。すなわち、祖先の総体としての黄泉の受容祝福守護を取り付けた時である。この國は神々も住む神国日本である。明治以降及び戦後、無視していたのはそれだった。時を待たねばならなかった。そしてその間、その時のために、開発するべき秘密の力があった。それも見つけた。それは何だったのか。それが黄泉の守護だった。即ち日月照らし、風が吹く。その開発が終わる頃、時が来た。武士の習いである。必勝の法則がある。宮本武蔵は何故遅れて巌流島に着いたか。太陽(日の丸)を背にするためだった(夕日のガンマンみたいだね)。即ち北面の武士である。務めがある。取り戻さなければならないモノがある。子供達の未来のために。本来日本に秘密があった。本来大和は負け戦をしない。時は熟するのを待つべきモノである。大工の棟梁或いは両替商ごときの与り知るところではない。何を以て勘違いしたる哉。何を根拠に勝手し来たる哉。これより思い知る)。その後、社会の最下層で地獄を見た。何もかも失った。改めて就職も結婚もできなかった。人生と青春は失われていた。十九の春は津波だった(今となっては笑い話である。西洋かぶれの風邪をひいたにすぎない。フロイト理論の所産であるゾンビは日本に似合わない)。それほどの地獄を見た。しかし、三十有余年を経て、ナポレオン・ヒル氏の代償の法則(アンドリュー・カーネギー氏の最大の遺産としての教育の中から出ている。そしてこの度(H21[2009]年9月)、鳩山首相が国連総会で喝采を浴び、亦G20サミットがピッツバーグで開催されことは、とても意義深い)に出会う頃、解決するのだった。その間、膨大な読書があった。苦行のようであった。そしてあるところで菩薩業も教えて頂いた。不思議かつ特殊貴重な経験を積んでいた。すべては自分のために準備されていたかのようだった。佛は我一人のためにのみ法を説くと親鸞はいった。解くべき謎があったからだった。憲法制定権力という概念がある。特別権力関係もあった。憲法の変遷なんて苦肉の策だね。主権在民。国民主権。もの申す時がある。防衛施設局は別表だった。何もかも奪ったね。六祖鉄鉢、奪えはしない。私の住所は今三丁目。昔六丁目。双葉山曰く。イマダモッケイタリエズ。木鶏とは何だったのか。黙契。目と目で微笑んで。それが摩訶迦葉拈華微笑だった。永遠へのパスポートである。何処でも通る。あの世も通る。それが亦、八難透牛過窓櫺だった。早く気づけば良かったね。知らなかった。そして勝手した。もはやこれまで処したる人生の各々の所業が明らかとなった。これまでは通った。これより通らない。何故であるか。天神様の通り道である。昔より本来日本に取り戻すべき秩序(トップガン=本願)がある。彼はいった。もう、いいですね。十分に仕事をしました。彼にしかできない事がありました。見事にやり抜きました。彼はいいました。日本は大丈夫だよ。何をしたのでしょうね。測り知れないですね。やっと報酬を請求しても良い頃となりました。祖父もそうでした。父もそうでした。本来日本は、滅し給わず。このあたりで本日、千秋楽です。白鳳との優勝決定戦で、朝青龍が優勝しました【2009/09/27:NHK-FMから、プッチーニの『菊の花』が流れていました。君が代に関する本も出版されるそうですね。論議されることでしょうね。今日は朝青龍の誕生日。おめでとうございます。プロにはプロの仕事がありますね】。プロの仕事があるとして、それを見破る素人もいる。学校教育の場まで、餌食にすることはできない。それを智慧とはいわせない。日本には護るべきモノがある。
その他 角川書店『うたびとたちの現代秀歌選集』入選(「短歌」平成六年十月臨時増刊号p462.。この入選を以て歌人と名乗ることもできる。登竜門の一つであることは確かである。このようにチャンスは常にあった。しかし、求めていたものは別にあった)日本プロ麻雀連盟初段。呉市社協(保健所リハビリへの車椅子送迎,、毎週金曜日の午前、期間半年、延べ2回:お一人の方は焼肉店を経営する方の奥様で、脳梗塞に伴う半身不随のリハビリ、終わる頃には元気になられた。お二人目の方は、延髄小脳萎縮という進行性のもので、ご本人は努力されるのであるが、だんだんと衰えていくのを見るのはつらかった。退職されてこれから夫婦で旅行でもして余生を楽しもうとされていた矢先のことだった。保健婦さんがいわれた。奥様にとってこの時間だけが自由になれる時間なのだと)及び呉市椿号(年に一度、お一人では旅行できない車椅子で生活している方々及び盲目の方々のために企画される旅行の随行ボランティア)2回(チボリ公園及びとべ動物園)並びにボランティアグループ『おりづるの会』にてボランティア活動(特別養護老人ホームシーツ交換及び独居老人話し相手。この間、中国からビルマまで七年間、トラック部隊で最前線を戦い抜き、やがて捕虜となって死の島 「レンバン島」に送られた方の実体験をつまびらかに聞いた。この方とは一緒にテレビの取材(呉市広報番組)に出させて貰った。亦、特別養護老人ホームで歯ブラシで車椅子を磨くことがあった。これには閉口した。その汚れに嘔吐を伴うのだった。この頃、先輩の厚生省事務次官が事件を起こした。思わず叫んだのを覚えている。彼にこれをさせろ!)実績3年半(ヘルパー制度開始に伴い中止)。山本としあき衆議院選挙事務局長及び後援会幹事長(10月15日までは勝っていた。相手は池田行彦氏であり、彼にとって最後の弔い選挙だった。その後、金権絨毯爆撃があった。オセロゲームのように票田の色が変わった。色々なことがあった)。学習塾歴24年(鯉城学院非常勤講師、青嵐学院専任講師、有限会社青藍教育研究社取締役事務長及び高校部長、後藤塾自営。家庭教師をしていた頃、子ども達と随分と問題集を一緒に解いた。算数の難問集も二冊すべて解いた。高校受験選抜クラスの難問集を5教科すべて生徒と一緒に解いた。医学部受験生も指導した(見事に合格した)。大学受験英語指導も楽しかった。全国の大学の受験英語問題集を自らすべて解いて調べた事もあった。慶応医学部と早稲田法学部はやはり難しかった。勉学が楽しい頃だった)。パソコンサポート10年。
スポーツ心得 テニス、剣道。
ニックネーム ゴットン
ハンドルネーム 閑(パソコン通信:ビッグローブ、グルメ天国)
大好きだったアプリケーション 『まいトーク』