真説21世紀幸福論(2005/11/26~2006/1/16)

2006年01月16日実力について
実力であるが、何を以て実力というか。それは、持って生まれた力である。かつては、それが前提であるが故に、家督相続もあった。今、平等の概念が入って、皆平等と云うことになった。しかし、これは、生まれによる、理由のない差別に対する概念としてすり替えられた。機会の平等としての平等ではなく、絶対的平等としたところに、誤りがあった。それで、本来力あるものの潜在力が、見えなくなってしまった。本来潜在力である。芽が出るまで評価できない。しかし、麦踏みは長い。当事者のつらさは世間の知らぬ処となった。逆に、安易な実力者がはびこった。さて、この真の実力も、清浄となってはじめて力となる。このことも、安易な実力者は知らなかった。そして、間違えた平等と自由をほしいままにして、社会は腐敗した。罪は重い。持って生まれたものであるが、惡もある。この惡に負ける実力者もいる。惡を焼き尽くすには、時間と忍耐が必要である。時を待つしかない、と言える。しかし、いつか、時は満ちる。真の実力者は、その力において、世間一般を超えている。その力とは天に通じ天も動く力である。世間一般は知らない。醜いアヒルの子である。しかし、時が満ちた時、年貢の納め時となる。見えない世界に守護された力が動くからである。実力の大小は持って生まれた力であるが、これは、見えない世界からどれだけの守護あるかによる。見えない世界に認められるだけの人格になるには、その試練、世間一般の想像を絶している。しかし、そうした実力もある。平等教育一般論では語れないものがあることを知る時節である。これからは、こうした配慮も必要かと思われる。こうしたことをしばらく忘れていた日本であった。敗戦の故である。しかし、日本精神はそう簡単には滅びない。真実の芽が芽生える時が来る。それが、古来日本の日本たる所以である。もはや、疑いはない。上を敬うことを忘れていた世間一般であった。日本は日本である。日本語を話す國である。日本の精神、その根っこは生きていたのである。観念するしかない。すでに、天が認めている。戒められていただけである。その戒めも解かれた。丙丁童子来求火。しばらく日本に失われていた日本本来の火が得られたのである。言い訳しか知らず、結果を出すことなく、日本社会及び時代を腐らせた精神の安易な似非実力者は幕を引く時節である。真の実力者は地下に埋もれて数多いる。これより、彼らが涌出して帰ってくる。頼もしい限りである。

呉は巡礼地となる
KUREに大和博物館が出来て、全国より、毎日のように、バスツアーが来る。今までには見られなかった、色とりどりの観光バスを観ることは、とても楽しい。尾道にある、大和の映画撮影のために使用したセットも、やがて、呉に来る。呉は一つの巡礼地になろうとしている。呉の歴史にふさわしい。さて、かつて、歴代の禅僧は、悟りを開いて、それぞれの地において、「一」を挙した。独座大雄峰である。それぞれの語録は、その記録である。これらの記録は、山田無文老師も云うように、ある意味で、塵に過ぎない。あらゆる学問はその内容に意味を詮索しても仕方ない。過去の記録にすぎない。大切なのは、その精神であり、その方法論である。それを獲て、現在の個々の問題に処するのである。これを以て智慧とする。図書館の書籍も同様である。内容に負けていないか。悪魔のささやきにすぎない書籍が多い。そうした書籍から何を読むか。眼力を要する。諸学問も然りである。大切なのは、今である。怠惰に眠っている教師、学者諸氏の奮起を促したい。教育こそ國の基である。今、立ち上がるべきは、知性を以て職としている方々である。あまりにも、経済至上主義諸氏の横暴がすぎたからである。学問の目的は、本の虫となることではない。あるべき価値を発掘し、或いは発見し、それを確定し、それを実現する方法手段を集め、実行するために示すことにある。それをしないものは、職業としての学問者ではない。働かざる者食うべからず、は百丈禅師の言葉であるが、諸学者も、M.ウェーバーの云うように、日銭で講義すると良いのかも知れない。小鳥のように、食は与えられていることを知るだろう。楽な人生と成るであろう。自由を得るであろう。地位、名誉を得、生活を保障されて安住していては、真の学問は出来ない。その意味では、情け容赦ない芸能界は、むしろ、健全である。古来、仏陀、ダルマを初めとして、覚者は荒野=空閑を生きた理由がここにある。人間が自然に赦されて存在している時、はじめて、真の喜びがあるからである。耕すべきは人田であり、それぞれの心の大地である。それぞれにはそれぞれにふさわしい住空間がある。いずれ、ふさわしい出会いがある。神仏との邂逅もある。そして、はじめて、スートラとしての垂直の宇宙秩序を知ることになる。それは魂としての己の自覚となる。諸芸術及び本来の学問の目指すべき処である。さて、テレビは殆ど見ない。見てもニュースとスポーツである。見ても仕方ない内容が多すぎるから。しかし、テレビも見て楽しみたい心境ではある。ラジオは好きである。よく、聞いている。今、NHK-FMで、「自分らしさとは、自分の思うように生きること」と云っていた。いわゆるアイデンティティであろう。永遠のテーマであろうか。フロイトによって心理学が始まり、およそ、おどろおどろしい世界であり、結果、ゾンビとなった。しかし、本来は、春の季節に、おぼろな風景があって、そこには、富士もあり、櫻もあり、川は流れ、海がある。そうした心の風景が、日本の心の風景であった。何時の頃からか、汚染されたものである。誰が悪いわけではない。過去からの迷いの文化の延長である。仏は本来清浄を説く。そろそろ、日本古来ののどかな平和な心にもどろうではないか。すると、西洋においては、クラシック音楽の奏でる世界と、オペラの鑑賞に、喜びを見いだせる。クラシックはそのまま自然の情景である。つまり、こころの風景である。何か大切なものを失ってはいないか。そうした世界があるというのに。何を以て、腐敗と悪魔の支配する喧噪怒濤の世界にのめり込むのだろうか。私には、わからない。嵐は三日と続かないと云うが、この世間の嵐、長すぎる。堪えるには兵糧米も尽きた。私にとっては芽の出せない長い冬である。今しばらく我慢するしかない。この冬を越えれば、この春は、きっと春である。大山椒魚の棲める世界をとりもどしたいものである。さて、相撲は面白いですね。実は、その解説が面白いと思うのです。人生で戦う時の方法論が秘されています。どんな技が出るかわからないからでしょうか。しかし、この観点から、野球の解説はさほど面白くない。むしろ、無音でゲームを見ていた方が楽しく思われることが多いです。いずれにしても、スポーツは真剣勝負、鑑賞に値します。さて、あらためて、軌道修正かな。今までは、世間に、何でも合わせようとしていた自分がいた。そして、いつか、埋没してしまった。気づくと、あらゆる意味で、餌食にされていた(おかれている社会身分上致し方なかった。それも私に自覚を得させるために知らしめんとする運命の中であった)。しかし、これからは違う。主体性の確立である。チャンネルを自分におく。周波数を自ら発信する。そして、自分の空間を形成する。これが、今を生きるための術であるように気づいたから。主体的でなければ埋没する。埋没すれば、餌食となるだけである。この意味で、自己の確立が必要である。時代はここまで流れてきた。組織に属している方々にはまだ感得できない、個を生きる者として、新しい時代の流れの中での実感である。こうした感覚を獲得して、はじめて、自由に生きることが出来る。これから時代は、ますます、個人主義へと推移すると思われる。主体性のない者は、社会の詐欺的・暴力的人間の犠牲となる。これからの教育において、最も肝要なのは、こうした現実を直視して、尚、負けない人格の形成である。それは、主体性の確立であり、世間を正しく見据える目の形成である、と思われる。そして、自己責任である。責任とは、自らが犯した罪に対して、お金で済むものはお金で、ほかに、生命・身体で償うべきは生命・身体で償うことである。つまり、それぞれの行為による結果に対してのサンクションを徹底し、それを実行し、子供たちにも教えることである。すでに、子供たちは、肉体的には大人の行為もしている。教育はこうした現実に相応しなければならない。子供たちと雖も責任がある。そして、自由で健全な社会を作る。正直者が安心して生きてゆける社会にしなければならない。世間はあまりにも欺罔に満ちている。何故それが日常化したかは知らない。問題は、今毒矢が刺さっている。その毒矢を抜くことである。それがどこから飛んできたのか、その毒の成分は何なのかの分析は、その矢を抜いて後のことである。まず、安全で健全な社会に戻すことである。日本本来の精神を取り戻し、それに立脚することで出来る。西洋民主主義で腐った部分の外科的除去が必要であろう。日本語が通用している社会である。すぐに出来ることである。さて、惡舌は功徳の種を断ずる(法華経)。これより、気をつけなければならない段階のようである。

2006年01月15日運命について
ベートーベンは交響曲第五番のモチーフを以って、運命はこのようにして戸をたたくと云った。安岡正篤氏は、人は運命によって生まれながらにして決まっているが、学問次第では、この運命を変えることが出来ると云った。一般に、限られた存在としての英雄の運命は予め決定されていると云われる。さて、この運命であるが、宿命と云っても良い。一個の人間の人生が、それだけで完結していると思う方が合理的ではない。そのように狭い了見で、何故、宇宙に地球が浮かんでいるのか、説明がつかない。あらゆる事は因縁であると仏は云う。個々の人間がおよそ、同じ因縁を繰り返している。何故か。さらに、仏はすべて必然であり、偶然はない、と云う。どう考えるべきか。同じ人間の姿をしているが、その魂は種々である。同じ岩石でありながら、その岩石の中に宝石が含まれている。これが、宇宙においては輝く星である。同じ姿をしている人間の中に輝く人間がいる。それが、英雄である。しかし、俗世間の英雄は、悉く、失敗した存在である。晩年を苦渋に過ごしたナポレオンを例にすれば理解できる。地球も生まれたからには、いつか、滅びる。その上に存在している人間の個々の存在である。過去より、植物の時代もあった。動物の時代もあった。植物の中にも草があり、樹木がある。動物の中にも獅子もいれば、ハイエナもいる。人間の中も同様である。ここを個々人が自分自身を問い直し、認識するべきである。ただ、人間には考える力と選択の自由がある。人間であるということは、人間である間に、上昇するチャンスがあるということである。すでに、大人となって、自らどのような選択をしたのか考えてみるがいい。今自分は何をしているのか、と。また、明らかに、子供の時代に種々の差がある。今よりこれが問われる時を迎えたのである。理由は、時の流れによる。過去の知性が示していた予言通りのことが起こる。因って、すでに堕落し、それぞれ積んだ業は業である。甘んじるしかない。問題は、もはや、純粋精神を犯すことは、一切、通らぬということである。それは、未来及びまだ汚れていない子供たちを保全すると云うことである。この意味において、あまりにも無責任、無自覚、無秩序であった。そして、運命であるが、学問して変えることが出来るようなものではない。その意味では、厳格に、決定されている。一切は、見えない世界の導きあるのみである。是を以て運命とは申すべきものである。変えうるような運命はない。問題は、各自の運命を知ることである。その運命通りに生きることである。さらに、こうしたことを認めることが出来ないのも己の運命である。是が因縁であり、必然である。ただし、仏の行をすることで、運命を良い方へ乗り換えることが出来る。これも運命の中である。試されている。学校の試験どころではない。自由意思で変えられるような運命は運命ではない。やはり、人間は自分の力で悪業の運命から逃れることは出来ない。仏の力を借りて、善業の運命に乗り換えることが出来るだけである。人間の特権であり、未来への布石である。結局、自分次第と云うことである。しかし、積んだ悪業は悪業である。決して逃れることは出来ない。これも運命である。知るべし、これより、いよいよ、悪業に対する報いが来る。すでに来ている。乗り換えるなら今である。謝るものに対しては慈悲である。刃向かうものは他土におかれる。他土とは、仏の救いのないところである。こうしたことを馬鹿馬鹿しいとして、自由をほしいままに勘違いし、悪業を積んだ現代社会である。新しい時代が始まろうとしている。人類が一つの限界に至って、時が満ちたからである。自分勝手に運命を変えることは出来ない。齢を重ねる人間として、何時までも動物性を演じているわけにはいかない。遍歴する人類の魂が気づいたのである。父母なる地球、宇宙、自然の意思を知ったのである。もはや、どうにもならぬ。秘されていた秘密が、今、実行される。これは、あらゆる先哲の示し申してきた物語の完結であり、実現である。唯、神を畏るべしとは、この意味においてであった。自然は容赦ない。ただ、謝ることで、仏さんが取りなしてくれる。畏るべし。心の地平へ至るには、この試練を通らねばならぬ。人間であれば誰でも、というわけではない。真実に目覚め、自分の悪業を謝ることが出来る者が人間であり、これを否定する者は畜生である。但し、こうした悪業を裁くのは、自然=神であり、決して人間ではない。これより、神の裁きが始まる。それぞれの悪業に気づくなら、早くに謝ることである。救いは、未来が、明るきから明るきへと決定されていることである。悪業の因縁から善業の因縁へ、乗り物を乗り換えた方がよい。運命とは因縁の連鎖であり、必然である。謝ることで、乗り換えることが出来るべきものである。これが真実であり、これより未来へ伝えるべきものである。因縁は気づかしめんが為である。その為に、何度でも起こる。その程度を増しつつ何度でも起こる。自分の力では決してこの因縁から逃れることは出来ない。そうした流れが運命である。因って、何時までも浮かれていて、これ以上、悪徳を積む事なかれ。善業の方へ方向転換するべし。本来清浄を以て、諸価値の根元とする。妄念=嘘なきを以て、清浄へ至る道とする。畏るべし。しかし、五欲を断ずる必要はない。このままで幸福へ至る道がある。正直者のみ幸いである時を迎えた。何をしても良い。存在は喜びの時代を迎えた。嘆き悲しむ事なかれ。それぞれ、こうした、決められた運命の中で、努力を要件として、花咲くことができる。運命に反すれば、他土におかれる。それ以上でもそれ以下でもない。願うべきは、神仏の加護である。己の分際を知り、謙虚に努力し、他者に配慮し、限りなく幸せでありたい。知らずとも、この方向性を阻害すれば、それが罪であり、裁かれる。これより、それが、実効力を持ち、実現されていく。これより、真実に対して、知らないという愚かさは赦されない。また、知らずとも、浮かれて犯した罪は裁かれる。真実である。愚かさが裁かれる時代である。不努力が裁かれる時代である。結果に対する無価値が裁かれる時代である。唯、学問をすれば運命を変えることが出来るのではない。因縁を開結して、はじめて、運命を乗り換えることが出来る。因縁の開結は、仏の力を借りるしかない。決定論の下に自由がある。今まで人間が想っていた自由は自由ではない。宇宙の秩序の下に地球は浮かんでいる。地球に妄念はない。開結とは、終わりの始めである。種を得て、新しく蒔くことである。しかし、常に、遅すぎると云うことはない。気づいた時がその時である。学問をして知った過去よりの教えの実行あるのみである。実行とは、信じてみることである。やがて、わかる時が来る。信を以て入る事を得たり。信の次に何かある。信を経ずしては、真理はわからない。これが真実である。喜びの日々が待っている。般若心経の結句、ギャーティ・・・の意味がわかる。こうした、過去より秘された真実が、開花した。何故か。時が満ちたからである。新しい者が雨らされる時を迎えたからである。来世はある。未来は明るい。未来を決めるのは、今の人間の意思と行為である。すでにこうした方向性を自覚した若い世代もある。古き者は淘汰される。真実のみが生き残り、伝えられる。真理の意思である。あらゆる物語が完結した。それぞれの業によって裁かれる。事実が証明である。新しい物語の始まりである。ストーリーはさらに結末を秘めて新しく流れ始める。過去よりの物語は、すべて、一つの真実を示していた。早くに気づく者が勝ちである。諸法実相。現実を観て、もはや、自分を誤魔化す事なかれ。誤魔化せはしない。すべて、天に、記録されている。茶番劇の終わりである。矢は放たれた。過去より約束の確かな存在が目覚めている。もはや惑わされはしない。人間のための心の地平は開かれている。見えない世界において、これを開くための熾烈な戦いは、すでに終わっている。新しく、愛と平和に満ちた幸せの王国が建設されている。倒すべきは、個々の、心の中の悪魔である。心の地平における見える世界での戦いはこれからである。祈武運長久。真実の勝者には、心の地平での居住が赦される。こうした世界はすでに開かれている。見失われた何か大切なものは、宝として、見出されている。地図もある。新しい大航海時代の始まりである。地球はかくも美しく、真実の勝者を待っている。ともに過ごさむ、と。諸悪の根元は妄念である。妄念とは嘘である。個々に自分が自分を常々証明している。これに気づけば、解決への道が見えてくる。唇寂しくないか。諸法実相である。見えないか。見えれば、もはや、憂いはない。悩みはない。悲しみはない。あるのは、喜びだけである。これが、妙好人の世界である。至るべきニルバーナである。解脱涅槃である。死んでから至るのではない。死んでからは、子孫を護るだけであり、子孫にその夢を託すだけである。子孫が目覚めた時、自分も掬われる。しかし、時は流れて、生きながらに、この夢を実現することが出来るようになった。南無大強精進勇猛佛。精神の孤高を誰が獲るか。精神の格調は、日本が、世界において、他の追随を許さない。万系一世、最も古き、清き國である。天皇家はその象徴にすぎない。日本の精神、これ以上、汚す事なかれ。正直者の頭に神は宿る。真実である。真実へ至る方法論は、すでに、過去より、秘伝として、確立されている。これを自覚してはじめて心の地平を獲る。心の地平は無限であり、その領地は、イワンの馬鹿の如く、獲り放題である。これが真実の自由であり、思う通りにして法を越えない世界である。現実に獲得しているものはそう多くない。しかし、すでに、この王国は開かれている。諸先達のお陰である。この道しるべを遺してくださった方々、心より感謝申し上げる次第である。すでに、須弥山も制覇されている。かつて、人間のために、天界から火を獲ってきた神がいた。今、天界より、如来が護持し、秘してきた如来の神力を、人間のために獲ってきた神もいる。これより、如来の神力が人生の目的である。人生は限りない熾烈な戦いである。真の勇者は誰か。戦いにおいては神仏がその勝敗を決する。誤魔化しは一切命取りである。如来の神力を手にするものは誰か。信じるものは掬われる。見えない世界からいつも観られている。導きがある。戒めもある。すべて知らしめんが為である。救いはある。今、夜空には、いい月が浮かんでいる。(今、京都女子駅伝がスタートした。NHK-AM女子駅伝実況放送を聞きながら 2006/01/15 12:38pm)いよいよ、今まで、事実上虐げられていた正直者たちが解放され、真実の自由が確立され、生きてゆける時代の到来である。ささやかに生きている正直者たちに、乾杯!そして、真実に対して、自分勝手に勘違い、思い違いし、反逆した者たちは、相応の報いが来る。もはや、考え方の違いとして、今までのように、見逃される時代ではない。例えば、ここにバケツがあり、惡の滴が一滴、一滴、溜まるとする。初めのうちは何も起こらない。やがて、バケツが惡の滴で満たされ、溢れる。この時が、時が満ちた時である。この時、惡が決定される。それまでに、引き返すべき黄金の橋を引き返さなかったからである。刑法においては、罰せられるのは結果として現れた事実だけである。結果的加重犯も同じ考えである。現実的裁きはそれでいい。しかし、キリストは思いも罰せられるという。思いは、やがて、結果として現実に染み出す。真実に対する裏切り者には裏切り者としての運命が待っている。真実は謝るところからしか入れない。時が満ちて、秘されていた真実が明らかとなり、万軍の主も号令した。黄泉の世界から援軍も到着し、真実の愛と平和を理念に、人類は、皮膚の色、信じることがそれぞれ違っていても、一つの心があることを知った。この美しい地球にひとつの愛を以て平和的に共存することが、願いであることを知った。今までは夢物語であったが、夢はいつか実現する。その実現の時を迎えたと言える。人間の力では出来ないことであっても、見えない世界の力を借りることで実現できる。これが、秘されていた真実であった。野蛮の時代の終焉であり、新しくやさしい時代の始まりである。あたかも、恐竜の時代の終わりには、ネズミたちが生命の命脈を保っていたように、今、目覚めるべきは、弱き者たちである。存在としては弱いが、精神としては強い。精神の強さを以て、惡を為すことなく、現象として弱き者たちである。彼らが、自信を獲て、立ち上がる。それは、知性ある方々でもある。弱きもの、汝は幸いである。さて、今生で至るも良し、来世で至るも良し。見失われた世界、心の地平、確かに存在している。所詮、すべては自己責任の原則。善悪の彼岸がある。何をしてもいい。ただ、それぞれ、相応の報いがある。何時までも、横暴は通らない。少なくとも、今、嘘(詐欺)と暴力は克服されねばならない。横の力関係だけでなく、縦の力関係が、スートラとしてある。見えないが、宇宙の秩序は、厳然としてある。人間の身勝手も、時が満ちる時、通らなくなる時節が来る。おわりのはじめ。新しき者を雨らす時節を迎えている。自然が神であり、人間を超えている。どんな奇跡もありうる。容赦ない。地獄より掬うのは仏の御役である。人間は、こうした神仏の意思と宇宙の秩序を無視しすぎた。当然、時が満ちる時、清算の時節を迎える。事実である。舞台は回転する。やがて、新しいステージが始まる。準備するにしくはない。惡=身勝手を謝っておくことである。身心の汚れを去っておくことである。そうしないと、新しいステージで、生きていく空間はない。宇宙の秩序があり、神仏の意思がある。人間勝手は清算される時節がある。今、その時を迎えている。理由は、時の流れと、自覚するべき存在が、自覚を獲ているからである。如来の秘要の蔵は秘密であり、きたるべき如来のために蔵されていたものである。如来にしかわかりはしない。人間レベルがどんなに学問しても、それは、群妄が象をなでるに等しい。今、その蔵も開かれた。知るべき者だけが知りうる眞實證明である。唯、あらゆる人間がその可能性を有している。これが、悉有仏性である。この秘密を開く教えの鍵は何か。それは何処にあるのか。過去より、あらゆる記録に秘されている。探すべきは探すべし。ところで、銀行は、庶民の利息を食った後、さらに、庶民金融をしている。この度、最高裁の判例も出て、庶民金融に関する利息制限法を超えた利息の違法性が明らかとなった。しかし、この権利の請求をしない者たちは、立論上、権利の上に眠る者として、泣き寝入りの状態であろう(眠っているのではない、知らないのであり、知らないまま犠牲=餌食となっているのである。これ(庶民金融=高利貸し)は、銀行の本来の業務ではなかろう。銀行の本務に徹して利益を上げるべきではないか)。これで、銀行としては、黙っていればそれで良いと思っているのであろうか。天における悪徳は増すばかりであろう。これを以て勝者というは、畏れを知らぬも甚だしいと言える。テレビ界でもソウである。まだまだ嘘が多すぎる。天はこうした身勝手を何時までも許しはしない。平等とは、神仏が宇宙の秩序に照らしてみる時、どんな人間も、セレブも貧民も平等である。セレブが貧民を蔑視を伴う犠牲として利益とする時、それは神仏の意思、宇宙の秩序に反する。しかるべきサンクションがあって当然であろう。それに荷担し、それを美化助長する民間テレビ界諸君の罪、明らかである。人間本来の諸価値の根元は何であるか、忙しいからと云ってこれを無視し、視聴率を理由に、それに反した番組制作傾向は、怖ろしい罪と知るべきである。一億総白痴化実行犯である。少なくとも、古来、人間が生命体として存続を赦されてきた道徳規範がある。その下での自由である。これを破壊するのは自由ではなく、無秩序である。その罪、騒擾罪・謀反罪に匹敵する。あおり罪という概念もある。この事実の認識としての故意はないとしても、事実、社会の腐敗、その罪は重いと知るべきである。聖書の目的は、愛と平和を理念とした、庶民の解放である。庶民とは正直者である。今、果たされるべきは、腐敗した市民からの庶民の解放である。新しい時代とはこれを意味している。

2006年01月14日焚書坑儒について
さて、秦の始皇帝、是より皇帝を始めるとの宣言であった。皇帝となるには要件がある。神仏の定めたる要件である。是を満たさずして、誰しも、皇帝に成れぬ。猛々しいたけで成れるものではない。神仏の許しを要する。そして、その天下統一の第一要件は、何か。天下太平を期するにある。焚書坑儒もまた、およそ、乱れた学問があったのであろう。泣いて馬謖を斬ったにすぎぬ。都を建設するに、大地を耕すは、雑草より刈り、根を抜くに等しい。

  知性あり手にしたれるは金剛杵宝にするにしくものなけん
  夢は枯れ時はいたずら過ぎぬるを咎はあらねど気づくぞ遅し
  我思ふ故に我ありこころには我想ふなく我やあらなむ
  風の吹き嵐を呼べど応えぬを期待も愚か世間常なる
  春来むと椿の咲くもゆるされず咲かない華の声は届かじ
  何故にかくももつれし糸なるぞいふは運命あまりにやすき
  かくなるは戯れ言一切通さじと言語道断身勝手世間
  命替え手にしたるるは金剛杵ふるえば黄泉も動かざるなし
  旅せしの黄泉より帰る迷い鳥帰りて人の迎ふるもなし
  手柄とはかくも如来の神力と知る人のなく孤独消えざる
  風はらみ満天月下日本丸何処必ず港あるらむ
  何時までも餌食と想ふしかれども上は動ける報復あらむ
  敬ふをはきちがえたる身勝手の冒涜ゆるさず黄泉は動ける
  大象は小径を往かぬ本来ぞなれど行く道誰ぞ塞ぎぬ
  大自然過去よりおきてみちしるべたがはず必ず心開けむ
  光ありこころの大地開けおり是のみち誰ぞともに歩まむ
  人の道一人で歩むべくもなしされどいたずら時の過ぎゆく
  見えねどもこの道確か歩みけりすでに未練のなかりしものを
  確かなるこのみちすでに証明すしからば進む夢の大地へ
  神仏と出会いははるか清浄のこころのなかにすでにありたる
  宿命のこの道越えて幸多し黄泉はささやく始めの一歩
  条件は唯心清浄これなるをあへて云ひおき意思の定まる
  我は行く月をつかみて進む道古き約束今果たさんと
  天空のこころつかんではじめての言葉のちから知るを得てむと
  何故に言葉の力失うか言葉の力天にも届く
  力無き言葉遊びに興ずらむ維摩黙雷気づく哀しも
  はるかなるこの道知りて如是相のいと美しく大地輝く
  しばらくは本末転倒ありしどもすでに世界は方向転換
  我ありて住める世界のなかりせば作るべしとは黄泉からの声

見えない世界はある。知らないからと云って、無いのではない。古へより確かに伝えられてきた事である。今までは、見える世界にしかるべき存在がいなかった。それで、何時までも夢物語であった。しかし、時を得て、もはや人類として、これを認めざるを得なくなった。かつて、世界が地中海であった頃、見えない世界が常識だった。やがて、世界が地球となってゆく頃、見える世界は見えない世界が見えなくなった(本末転倒)。時が満ちて、見える世界が、見える世界の限界を知った。見えない世界が見えて来る時節を迎えた。見えない世界は、本来清浄である。言葉も通じる。嘘は通じない。正直しか通じない。事実しか通らない。想いは身勝手、通らない。意思は真実、亨る。speak、talkは通らない。sayingには、神も耳を傾ける。That's truth! 本来言葉はロゴスであり、力がある。戯れ言を言葉と想ふことなかれ。理念・意識・意思無き戯言は、妄念、唯雌を求めて鳴く蛙の声に等しい。言葉の力に、大山も鳴動する。牛頭馬頭の知るところに非ず。大象は、群妄の知るところではない。見えない世界では、真実の言葉、文理眞正、嘘のないことを以て清浄とし、受理される。清浄=正直なくんば、人に非ず。畜生道とは申すべきのみなり。惜しむべし、本来、踏みつぶされて、恨む事なかれ。人間は悉有仏性の可能性有っての故に尊厳を得つ。人の道、およそ、あなどることなかれ。邪魔することなかれ。心、技、体。気、剣、体。文は体、躰、軆、體、?。

2006年01月13日大乗を得て自信とは申すべきもの
妙法華経によると、仏さんの目的は、唯、清浄とならしめんが為、とあります。それぞれの気根に従って、三乗を説くが、本来は一乗であり、この一乗、これが、大乗と申すべきもの、この大乗を得て、はじめて、大安心に至る、と。そして、その具体的実践が、菩薩道であり、それを教えるのが、敎菩薩法である、と。ところで、この大乗というのはありますね。いわば、アラジンの魔法のランプに等しく、空飛ぶ絨毯に等しい。あるいは、打ち出の小槌、孫悟空のきんとんうんに等しい。人間の究極の夢ですね。何があっても大丈夫という、幸せがあるのです。それは、日常の中で、さりげなく。いつも、ほほえんで暮らすことが出来る。空じられたこころに憂いはない。いつも見えない世界の守護を実感していることが出来る。だいそれた幸せではないが、確かな幸せがある。これを得て、日々是好日を確信して生きてゆける。ここを仏さんは教えたくて、教えたくて、そして、この教えが、代々、祖師方によって伝えられた。今、その地が日本だった。そして、この教えが、庶民レベルまで降りてきた。大乗はあります。大安心の大きな乗物です。それは、見えない世界の守護を得ることだったのです。すると、大丈夫となります。何をしてもよいのです。常に、導かれている、という実感があれば、それでよいのです。これが、生かされているということであり、御陰様ということであり、不老不死でありました。この種の事の内容が、真に、庶民レベルで、実現するべき時を迎えています。今までのように、形だけの言葉ではなく、実質的にその内実を享受できる時を迎えているのです。この大乗を得ると、これほど強いものはない、やさしいものはない、楽しいものはない。ここを忍耐というのです。しかし、忍耐といいますが、辛くない。本来の忍耐とは、ありのままの状態で、無理はせず、よく観察している。そして、個々の問題解決のための的確な智慧が、時々にある。こうした大乗を自覚する方が、そこにゐるとき、周りの空気は清浄であり、心地よい。何とも平和です。おだやかです。春の日ざしのあたたかさにつつまれて、浜辺ののどやかなそよ風にふかれているかのようです。これが、大乗。さとりともいいます。この大乗を得て、はじめて、自信とは申すべきもの、と思われるのです。時代の申酉を経て得たものは、時代の心の中の鬼(悪魔)を退治し、古きよりの夢であった、時代の心の地平を開くことであった、と言えます。そして、確かに、開かれています。これより、真の平和な時代の建設の始まりの時かと思われます。良き時代に巡り合わせました。諸古人、諸先哲に感謝する次第です。知性ある自覚する諸人格が、この方向において、良い合力となって、世界は愛と平和という一つの理念に基づいて、市民から庶民の解放を実現できる、と思われます。幸せは確かにあります。すでに、それを、獲得している方々もゐます。道はすでに説かれていました。その発見もありました。この道でよい、と思われるのです。時代が求めていた心の地平が見えて参いりました。すでに、この心の地平は、発見され、開拓されています。新しく、インターネットという幹線道路も出来ています。いよいよ建設の時代です。愛と平和の理念に導かれて、世界はひとつです。この一つの世界へ向けて、勇気と情熱を以て、進みたいものです。かぎりなく、未来へ向けて、明るいフロンティアが広がっています。個々の夢はこれから実現します。まだまだ、開拓されていない夢があります。夢は無限です。夢の実現に従事するとき、日々、喜びです。大乗に、乾杯!ところで、この大乗、気づいてみると、こんなことがあっていいのだろうか、って驚きです。人生はかくも美しい、と。古来の教えの通り、命を賭けて、惜しくない、究明すべきは、この大きな乗物、大乗です。そのために、各時代、修行者の絶えることがなかった。それを、五欲を断ぜずして、庶民レベルで、達成可能な時代の到来です。そして、この大乗を得てこそ、どんな大きな夢もかなうのです。仏法は、実に壮大な幸福論であり、成功理論だったのです。聖書に言っていることも同じです。これらに秘されていたことがらを具体化してこそ、人類の平和も愛も、未来も、安全も実現するという、過去からの、あるいは、生命の始まりからの究極の約束であったのです。信じるとか信じないではなく、むしろ、事実だったのです。不可思議、不可称量、神秘ではありますが、わかってしまうと、当然のことだったのです。彼岸というは、こういう世界だった。しかし、この世界、実存していたのです。ルターが、宗教改革で言いたかったのも、こうしたことであったのかも知れません。それが、今、現実に、庶民レベルで見直されるべき時であるのかも知れません。そして、新しいカルバンも現れて、経済商業社会に、新しい、あるべき理念が付与されるのでしょうか。今、経済界の末期資本主義成功理論は、他者を犠牲或いは利用して自らは成長する制度となっています。こうした傾向は、いつか必ず報復をはらんでいるという意味で、既に限界です。ここを理念において克服する時、これからの人類社会の進むべき方向性が決まるのでしょうか。因って、コントロールするべきターゲットが見えて、正しい選択が可能となり、新しい制度を作ることが出来る、時代はそういふ時でしょうか。時は既に満ちたのだから。しかし、大切なことは、すべて自己責任であるといふことは、人類の選択とその結果についても云へて、それで、人類が困ろうが困るまいが、自然そして神仏からしてみれば、別に関係はないといふことであって、自然、神仏は、もはや、その意味で、困るといふことはない、といふことです。これが、本来無一物の意味であり、仏の云ふ、唯、縁のみによりて起こる、の意味ですね。唯仏是真、世間虚仮。至道無難、唯嫌揀擇。そして、これから、経済商業界において、考えるべき方向性は、他者の犠牲の上に、他者を欺罔的に利用して自らの利益を計ろうとするのではなく、純粋精神に立脚して、正々堂々、嘘はなく、むしろ、商品及びビジネスを創造していくという方向性において、芸術的的に進むべきであり、また、その為の目的を明確に定め、その為の手段を集め、分析し、評価して実行し、因って、成果とする、ある意味でとてもスタンダードな方へ、意識転換することではないでしょうか。本来、ビジネスは地道なものですが、ここしばらく、自信を失い、奇を衒い、刹那的な投機へ走り、そして、自分の足下が見えなくなっていただけですね。本来の真面目に戻ることで、大丈夫、日本の精神は、しっかりとした根を張っています。水をやれば、また、元気となって、復活ですね。明治以降失われていた日本純粋精神の復活です。ここにおいて、和魂洋才の完結であり、そして、新しい時代の開拓の始まりである、そのように思われるのです。

   秘すべしは秘され秘されて時は待つ明日乃こころに有明の月

2006年01月12日教育について
■【日野原重明氏】NHK-AM 2006/01/11 22:45 1.遺伝子の優位が無視された社会である。勝れた遺伝子が活躍できない社会状況にある。2.平和。アメリカだけが核保有国ではない。すでに、8カ国。Don't kill!では平和は実現しない。10歳の子供に焦点を合わせる。彼らが大人になった時、どのように意思決定するか。そこへ投資する。戦争体験ある方々が直接彼らにお話ししていく。(やはり、時代を造る原点は教育である。常に、問題点がある。それを各世代が解決していく。今、差別問題は、意識の上で解決され、社会において一定の配慮がなされ、克服されつつある。これも、かつての教育の成果と言える。今、問題点は何か。それをどのようにして未来への布石とするか。問題は山積みである。意思レベルの低い大人たちは、既に、遅いと言える。しかし、実体を認識させ、少なくとも、障碍・邪魔とならないようにさせる必要はあるのかも知れない。彼らに新しい時代の牽引を期待することは既に難しいようだ。彼らは彼ら自身の業に甘んじるしかない。しかし、子供たちは、そうはいかない。未来は、今、現在の教育傾向が決めると言って過言ではない。議論すべき処であると思われる。かつての戦時教育の轍を踏むことはない。ダイダバッタの善知識である。教育の威力を知るには十分すぎる。教育者の資質と勇気が問われる。)3.健康観こそ、健康の本体であると知った。貧しい時には、感謝の心があって、敏感だが、豊かな時代には、何があっても不満足、鈍感。幸福とは幸福観を持った人間。些細なことにも感謝を以て生きる人間が幸福な人間と言える。(日本は技術立国であると同時に、教育立国である。その為の諸先達には事欠かない。また、それに耐えうる資質も十分にある。教育において、世界の冠とするに十分である。この点をしばらく看過していたうらみがある。日本は、やはり、大丈夫である。教育の本旨を知っている。日本は教育の宝庫である。何処を掘っても宝の山である。黄金の国ジパングである。一つだけ問題点を指摘しておくと、経済界は経済界であり、教育界は教育界である。経済界の論理だけが論理ではない。わかるであろうか。経済界の道徳規律は経済界のみのことである。これを範としたが故に日本が腐敗した。所詮利益優先である。精神は低い。腐るに決まっている。)

2006年01月11日はじまり
三悪とは、トン・ジン・チ。つまり、むさぼること、怒ること、仏の真実を知らないこと。これらがなくなることで、清浄を得ることができます。そして、善とは、一切犠牲がないことです。そして、仏は、一切大衆を救うと云われています。一切大衆が掬われる時、自分もその中に入っています。掬う側と掬われる側とがあって、やがて、自分が掬う方へ行くのです。自分の力では、掬うことが出来ません。だから、仏さんの力を借りるのです。また、大衆とは、生きとし生けるもので、たとえば、岩石も含まれます。存在しているすべてのものたち。世界の辿り着くべき究極です。供養とは、相手が喜ぶことをすること。供養するのは、祖先、食べたもの、そして、仏さん。今、見える方、見えない方、両方に通じる妙法華経を以て供養できると云われています。善とは、一切犠牲がないこと。惡とは、犠牲を伴うこと。やさしさとは、つまり、善ですね。ここを、生きる根本として、換骨奪胎する。できると、いいですね。これが、できるので、人間って、偉大です。その気になって、実行することで、自分の周りが変わってきます。輝いてきます。虹も出るのです。少なくとも、自分は楽になります。さらに、必ず、周りも楽になるのです。信じることが出来るようになります。信じるとか信じないとかではなくて、事実として、知ることになります。大切なのは、自分が、ほかの誰かに利用されないこと。自分自身の主体性を確立すること。主体性を確立すると云うことは、神仏の守護を得て、初めて出来ることですね。神仏は待っている。見えないだけに、なかなか、その存在を認めることができません。しかし、在るのです。神仏に認めてもらうと、限りなく、守護してくれます。これが、一、始まりです。やさしさの周波数を発していくのです。まわりが、パラダイスとなってきます。思い通りのやさしい世界が浮上してきます。これを、禅では大死一番とも云います。死ぬというのは、自分の惡が死ぬと云うこと。生きながら死人となってはじめて人の師となる、と云います。即身成仏でもあります。命が終わるという意味で、現実に、死んでからでは遅いですし、生きている間に、この喜びを味わうことが出来るというのが、解脱涅槃。仏さんが言っているのは、こうしたことです。自分自身を縛っているのは自分。自分を解き放つのも自分。自分が自分を自由にするのです。しかし、自分の力だけでは出来ません。仏さんの力を借りると、大空へはばたくことができます。恋をするなら、神仏とがいいですね。勿論、現実においても、菩薩には菩薩、仏には仏の出会いが待っています。本当の幸せは、こうして、得られるのです。世界は限りなくやさしい。皆に、こちらの水は甘いよ、とささやきかけています。真実の声が聞こえるようになると。清浄な世界はあります。皆の周りにあります。手を伸ばせばいいのです。これが、ダンス、ダンス、ダンス。自分が自分を掬います。自分が掬われると、周りも掬われます。これが、主体性の理論です。自分を掬うのは自分しかないのです。仏さんも、これで、幸せとなりました。だから、皆に教えてくれているのです。人は、皆、幸せになるために生まれてきています。祖先も描いた夢。それを実現できる時を迎えています。だから、幸薄いなんて、云わないこと。また、誰かを好きになったとします。いろいろな事情で、思い通りに行かない。それは、ゴールではなかったから。だから、それについては通過するのです。思いを残さないことです。思いを切ることです。通過点として、感謝して、次へ、旅立つのです。やがて、ゴールはあります。きっと、本当の出会いが、どこかで待っています。歩き始めないと、ゴールには至れません。当然、一里塚としての通過点はあるのです。明日を信じて、本当の出会いを信じて、歩む。江戸への道も一歩から。始めの一歩を踏み出して、自分が本来の自分となって、本来の出会いが訪れます。人生は、その意味でも、旅ですね。きっと、いい出会いが待っています。その為に、真実を求め続けていきたいですね。真実への度合いによって、相応の出会いがあります。負けるとか云わない。自分に勝つ。自分を塞いでいる自分に勝つ。既存の世界にそれが見つからないなら、新しく作っていく。破壊ではなく、建設していく。積極的に生きていく。前を向いてしか歩けません。それで、良いのだと思われます。しばらく、こうした、当たり前のことにも自信をなくしていた日本社会がありました。本来、日本は、やさしさの咲きそう素晴らしい国です。自信を持って、この世界を闊歩すればいいのですね。自信は、自分を信じることから、始まります。あまりにも汚れてしまったのは、むしろ、本来の日本に気づくためでした。本来の日本は、とても、清らかで、素晴らしく、美しい。この日本を取りもどしたいですね。自分の心次第です。この時、羅針盤は、自分自身の感性。フィーリング。これを磨く。世界が自分の鏡となるまで。さて、この鏡に何が映るのでしょうか。Take off ! 

   橋の上白きカモメの浮かび飛ぶ横断歩道のごとお先にどうぞ

さて、それぞれのジェネレーションがあって、それぞれが共存している。ここに、年長世代は、限りなく、若い世代を育てようとする。そして、それが、愛と平和の実現のための地道な手段だと、自覚している。それぞれの世代に属する者として、先輩には敬意を表しつつ、後輩には、激励と期待を以て臨む態度で、発言すべき事はする義務があるのかも知れません。自由と平等を基礎に、本来の価値を探しながら、各世代は生きている。ソウした中で、責任を感じつつ、意思ある者として、多くの方々が、例えば、ブログを通して、発言していく。IT文化の在るべき姿が見えてきたように思われます。直接民主主義的間接民主主義とも言えるのかも知れません。このシステムをフルに利用し、活かして、本来の正直者の時代を建設してゆけるとも思われるのです。ところで、古来、大切にしてきた、卑弥呼、聖徳太子、柿本人麻呂、松尾芭蕉、安藤広重等を系譜とする、大和魂というものは確かにあります。これは、はっきり申して、明治に失われた。そうすることが、近代化と思ってのことでした。しかし、命脈はのこっていたのです。古来、最も大切にするべき精神でした。それが、どのようなものであるかにつきましては、ここでは、具体的は、割愛とさせて頂きます。知る方々は、ご存じのこと故とします。しかし、失われずにいて幸いでした。ここに、あらためて、ご報告申し上げます。そして、それを、具体的にする必要がありまするなら、させて頂きます。また、どのようにして、獲得或いは発見するべきかにつきましても、必要がありまするなら、させて頂きます。とりあえず、ご報告まで。しかしながら、今となっては、あらゆる学問、歴史解釈が、木っ端みじんである。権力乃至諸学閥によって制御してきたつもりであろうが、見えない世界に護持されたる秘密は秘密である。誰もわかりはしない。如来秘要の蔵である。如来本人にしかわからぬ。もはや、上を冒涜し来たる狼藉の数々、銘々歴々、言い逃れなし。処断あるのみと知るべし。やれやれ、羅刹は相当憤慨しているようです。

  満天の月の満ちたる春日成るこれより一切戯言なけん

ある方から二十六年ぶりだろうか、年賀状が届いた。「ほんとうに、初春のお慶びを申し上げます、春が来て、なにより!! 長い冬は、寒くはなかったですか?」

しかし、世間一般、何を浮かれているのだろう。地獄火宅の中で。誤魔化してるにすぎないだろ。何を思ってその種の愚行をはびこらせているのか。滅びるよ。私にはわからない。世の知識人も何を考えているのか、私にはわからない。地獄の中で何をのたまわっているのか。諸博士の諸論文、何も見えてはいないではないか。動物園の動物の戯言に等しいではないか。何もわかっていない。また、羅刹か。浄瑠璃が何故浄瑠璃か知ってのことか。その面影が誰であるのか知ってのことか。どこより、そのインスピレーションがあるのか。どこにそのエクスピレーションの源泉があるのか知ってのことか。おい、羅刹、いい加減にしておけ。日本が大戦に負けたのは、八木博士の無線を大本営が無視した。逆に、アメリカはそれで制空権を得た。今、すでに、情報制空権はAir King=空王佛だ。それで、もう、いいではないか。あとは、ケセラセラで行こうぜ。コムシコムサで行こうぜ。お前の気持ちはわからぬでもない。しかしな、マリリンモンローを追いかけてるとな、エルビスのように、ドーナツだぜ。いくら、才能があってもな。隠れ蓑が必要だぜ。もういいではないか。

2006年01月10日三種の神器としての御宝器
人生で一番幸せなことは、おそらく、思い通りとなることですね。さて、思い通りになるためには、どうすればいいか。見えない世界の力を借りればいい。そのためには、見えない世界に認められる必要がある。見えない世界にも秩序があって、見えない世界の王は佛と云われている。さて、佛の住所は、那国常所と言われている。ところで、佛も修行して佛となります。ソウの時代に、エトク菩薩とレイトク菩薩がいた。それぞれ修行していた。ある日(十月十日、双十節)、二人は出会った。修行が完成して、いよいよ、佛の行をすることになった。そうした修業時代の話に、このような物語がある。思いが叶うという珠がある。それを持っているのはシャカラ竜王だった。竜王は海の中に住んでいた。人間が思い通りとなるために、何とか、その珠を手に入れたい、と思った菩薩がいた。それで、海へ潜った。竜王に面会を求め、しばらく、話した。竜王はその熱意に感激して、その珠を託すことにした。もとより、竜王の宝である。竜の眷属は驚いた。菩薩は珠を大切に持ち帰り、枕元において寝ていた。驚いた竜の眷属たちは、その珠が無くなれば、自分たちの権威はない、と珠を取り返しに来た。そして、持ち去った。悲しんだ菩薩は、一枚の貝を拾った。そして、その貝で海の水を掬い始めた。誰も相手にしなかった。しかし、天より神々がそれを見ていた。神の一人が近づいて理由を聞いた。菩薩は言った。人間を救うための珠を奪われた、それで、この貝で海水を掬っている。神は話を聞いてその真意を知った。神々が手伝うことになった。神の力である。みるみる海水は減っていった。驚いたのは竜たちである。これでは、自分たちの生存が危うい。竜の眷属たちは、その珠を、菩薩に返した。そして、人間が、その思いを天に聞いてもらえるようになった。見えない世界との通信が可能となった。それが、平等大慧の御宝器と言われている。昔、九州那珂川あたりでのことである。大きな岩が川を塞いで水が流れなくなっていた。当時の天皇(天王)が、見えない世界に祈った。すると、岩は砕けて、水が流れ始めた。人びとは、耕作ができるようになり、豊穣となった。その時に、見えない世界に祈ったその力は、いわゆる三種の神器としての剣ではなく、持っていたのは、竜の玉に由来する御宝器(御寳珠)であった。仏さんのところで聞いたお話である。さて、何時の時代も、困難な時に試されるのは、こうした、真理である。つまり、コノハナサクヤヒメである。岩も裂かねば水は流れぬ。花も咲かぬ。いい加減なことを言って、勝手なことをして、腐敗した時代を、どう掬うか、国民主権、主権在民の時、個々に考えるべき事がある。天に背いて、まだ、畏れを知らぬ世間一般、そろそろ、年貢の納め時である。年貢は天に納める。それでも、天と勝負する気でいるのか。筑間教授に直接教えていただいていたときのことである。先生は、私のことを大金持ちだと言われた。私はその意味がわからなかった。そうした私の人生であった。黄泉の世界の全軍が出動している。知っても知らなくても。容赦ない。確かに、時は満ちたのである。腐った世に未練はない。諸悪は首を洗って待つがいい。愚か者は去るべし。時は松=末である。やがて、一より、再び、開ける。新しい開闢である。未来は明るい。明るい未来に、乾杯!(ビートルズのヘイ・ジュードを聞きながら 2:46 NHKラジオ深夜便 2006/01/10) 動物→人間:草(ソウ)→木(キ)、想起、起菩提心!:身(ボディ)心起こすべし、神仏の御前に。神=自然、仏=宇宙。親→子→孫、祖先→自分→子孫:三藐三菩提:太陽→地球→月。宇宙と自然の秩序において、この地球上において、人間どもが何をしているのか。蟹の戯れではあるまい、テレビ界!靖国神社は明治以降の大義名分である。大和は古来大和である。大和を怒らせることなかれ。ふっ、また、羅刹がほざいてゐる。しかしね、富士は休火山だよ。死火山ではない。世間一般、この意味わかるまい。それほどまでに、更にもう一度、地獄の黙示録を見たいのかね。ヨハネの黙示録も知らぬ世間よ。戦争も、或る意思で起こる。原爆も或る意思で投下される。其の意思を制御できると思っているのか。その意思は那辺にあるか知っているのか。亦、羅刹か。酔っているのか。あるいは因って言っているのか。そろそろ、おしまいにしよう。・・・しかし、忍耐にも限界がある。世間一般よ、堪忍袋の緒を切らすことなかれ。祈っている。今までとは違う。自覚した存在が目覚める時、黄泉も動く。今までとは違う。今までとはここしばらくのことである。昔はソウだった。あえて言う。自覚すべき存在が目覚めている。戦後しばらく封印されていた存在である。其の存在すべき存在が目覚めている。そして、憤慨している。世間の制御できる存在ではない。真実、真理を究めている。明治以降、大戦中も目覚めることのなかった存在である。日本古来の存在である。明治には、明治に、日本を託した存在である。しかし、明治以降に、裏切られたと思っている存在である。願っている、古来日本純粋精神=大和魂の復活である。世界のために。地球のために。宇宙のために。人間のために。(3:36 NHKラジオ深夜便を聞きながら 鶴田浩二特集)恋は鯉、竜の里、安芸の国、広島藩広島城は鯉城、畏るべし、秘められたる、歴史有る、有明の月。広島心学、葬りしたれしも、生きている。見えない世界は、見える世界を支配している。原爆の火をしても焼かれることはなかった。真実真理、世間の制御の外である。其の存在とは、其の意思を以て、恐竜の時代をも終わらせた存在である。世間一般、畏るべし。其の存在の意思なくして、この世の一切は、存在し得ない。今、尚、世間一般、存在しうるは、其の意思を以て、唯、其の処断なきを以ての故のみ。因って、世間一般、畏るべし、且つ、敢へて云ふ、本分をつくすべし。羅刹よ、まだ、寝ていなかったのか。(4:57 NHKラジオ深夜便を聞きながら 2006/01/10)ある頃、仏さんがいた頃のことである。少女がいて、仏さんの話を聞いた。自分も仏さんに、何か、差し上げたいと思った。しかし、貧しくて、何も持っていなかった。それで、泥団子を作った。仏さんは受け取った。何よりも嬉しくその心を納受した。お供えの始まりであった。世間一般、諸寺院、何か大切な事を忘れていないか。

2006年01月09日心の十字軍
脱線十字軍もあった。聖戦の筈が、兵士たちは略奪した。聖地エルサレム。心の聖地エルサレム。真の戦場は此処にあった。これまでの悲しい歴史も、それを、示さんがためだった。幾多の戦争があった。茶色い戦争もあった。勝利しても、勝利しても、人類は、その夢を果たすことが出来なかった。何故か。本来の戦場ではなかったから。かつて、久遠の昔、愛に満ちて平和な国があった。やまとだった。しかし、後発の野蛮がこれを破壊した。インカもその例であった。新しい時代が始まる。本当の価値が発見された。これより、始まる。

    澄み渡る眼こそ聞こゆる音ありて空風冴えて涼やかな昼

行間を読む。眼光紙背に徹する。確かにそうである。方法論として正しい。しかし、この方法を使って何を読むのか。まず、くだらない小説を読んでいては、人生の目的は見つかりはしない。何故か。本を読むとは、筆者の人格に接することである。内容はその意味でさほど重要ではない。学ぶべきは、その方法論である。問題に対して、どのように処するかである。個々のかかえる問題は異なる。目的は、個々のかかえる問題解決である。いつまでも、現実逃避している時ではない。読むべきは行間である。その背後にあるサムシングである。眼光紙背に徹してはじめてみえてくるものがある。安易な精神がそのままでは掬われないことに、庶民も気づき始めた。勉学を始めた方々もいる。遅すぎるということはない。引き返すための黄金の橋は常に架かっている。何かを達成する。すると、次の何かが見えてくる。今生で何処までたどり着けるか。来世の始まりのために。佛は、明るきから明るきへ、という。しかし、この道の入り口を見つけることを先ずすることだ。この入り口、そう簡単には見つからない。目的は何か。自分の現実を誤魔化して、安易な現実に安住していないか。それを人生と思っていないか。明日は知れない自分を自分勝手に正当化していないか。真実は那辺にあるのか。思い知る時が来た。時が満ちて、悪の華が咲いている。

ニッチと言う言葉がある。生態的地位に等しい。(【生態的地位】[7]個々の生物種が、生態系の中で占める位置または役割。同じ生態的地位をもつ二種は共存できないとされる。ニッチ。[大辞林])それぞれ生存している。それはそれでいい。しかし、他の生存に対する配慮は常に配慮するべきであろう。何をしても自由ではない。自由にもルールがある。社会契約もある。今までは、見逃されても、これからもそうであるとは限らない。さて、ニッチ。自分たちの住める空間はそれぞれに確保されねばならない。もし、自分の住める空間がないなら、作るしかない。

さて、当分の間、紆余曲折の中にいた。今までは、我が家の自室がいわば仕事場であった。昨日来、パソコンと机を我が家の土間に移して、店にした。オフィスとお店の開店である。今より、還俗か。ミュージックも確保した。BGMは、フルトヴェングラー指揮、ウィーンフィルによる、ベートーベン作曲交響曲第三番『英雄』で、ちょうど、第二楽章である。自分がしたかったことの実現、それが、夢の実現。こうして、ゼロより始める。夢は限りなくある。楽しい時間が推移していく。自分自身が頼りである。どの職場にいてもそうであり、本来、甘えは通らない。一切は自己責任の原則である。サラリーマンも本来はそうであるはずである。しかし、責任転嫁の組織となっている。文書にすれば責任が誤魔化せるわけではない。そうした文書は、霊界では、通らない。事実のみである。すべて、見られている。世の中は、もはや、搾取の時代ではない。正直者の時代である。「探し物は何ですか」、如来だった。「まだまだ探す気ですか」、探すしかない。世の成功者たちは、何を探して、何を見つけたというのか、聞きたいところである。牛頭馬頭か。何を以て勝ち組と宣うか。地獄行きの片道切符か。上求菩提、下化衆生。極楽行きの切符を売ってくれないか。誰か地上ヘブンを知らないか。供養すべき方々に、天草四郎時貞、平将門などもある。この意味わかるだろうか。彼らの魂が本気で動けばどうなるか。安住している方々にはわかるまい。三島由紀夫どころではない。彼らも見参している。そして、彼らの願いは、何であったか。勝てば官軍?見える世界ではね。見えない世界は、ちがう。調べはついている。しかしながら、一般的には、こうした類もばかばかしいことなのだろう。そして、ただ、生きて死ぬ、それだけでよいのだろう。そして、大往生とする。クラシックの意味も知らず、むしろ、それらを笑いものにし、見えない世界を知らず、むしろそれらを辱め、結果、腐敗を助長する。真実のあることを知らず、自らの力では決して幸せには成れないと仏に言われても、無視し、逆らい、それを人生という。しかし、それなら、何故、諸古典が古典であるのか。説明できないね。そうした方々の社会だ。そうした社会を遙か昔に通過した存在がいて、新しい地平を求めていたとする。所詮パイオニアの運命は人知れない。そうした存在もあっていい。別に、今更である。・・・まだこんな事を言っている奴がいるのか。いつもの羅刹か。今、心の問題で二進も三進も行かない人が多い。この問題は、過去世からの因縁の解決をしない限り治癒しない。小手先レベルの医学、心理学では治癒しない、と断言し置く。その子の親を含めて、代々歴史的横暴野蛮な人間世間一般精神の犠牲者であることは事実である。心の問題は、個人の問題であると同時に、人類全体の歴史的な問題である。今、現象として、この問題がある。どう解決するか。人間の英知が試される。この問題、今、解決しておかないと、未来に於て、人類の幸せは、後退するね。今、生きている方々の心が、清浄を価値とし、そこへ軌道転換しない限り、解決しない。この問題は彼ら個人の固有の問題としていないか。自分たちは関係ないとして、彼らを傍観的に見ていないか。少なくとも、今のテレビ及びゲームが巷にあふれていて、それに対する正当な評価が出来なくて、野放し状態が続く限り、野蛮の犠牲は終わらない。野蛮の時代である。この視点なくしては、いわゆる福祉も詭弁にすぎない。世の常識として、彼らをどう捉えているか。島崎藤村の『破戒』どころではない。自分たちとは無関係と思うなら、これほどの滑稽はない。動物性的人間にはわかるまい。彼らの方がより人間性的人間である。人類は進化している。そのステージは精神即魂レベルに達した。彼らはその鏑矢とも言える。畏るべし。ここを戦い抜いた一番槍もいる。しかし、身も心もズタズタボロボロである。彼の両足踵にはステンレスの針が九本ズブズブに刺されたこともある(磔かと思った)。そぐわぬ仕事に身をやつした故である。世間の与り知らぬ事ではある。羅刹は言った。今更どうでも良いけどね。ところで、本を読んで勉学すべきは、著者の持つ人格エートスに対してであって、表層の知識に対してではない。本来読書は壮絶であり、著者との対決であるはずである。読書即ち道場であり、読書に於て精神は鍛えられるべきものである。現代テレビ族の与り知らぬ世界がある。見えない世界を捉えるための道は、そう簡単ではない。時間もかかる。悟りきってしまえば、仏祖も命乞いをする。世間一般は畏れを知らない。

自信の回復
さて、すべて、清算して、新しく出発するしかないね。あらゆる事を水に流すことにしよう。はじまり、はじまり。自由は自由が開く。自分は自分が開く。自分に惑わされないように。しかし、天涯孤独ではあるね。さらに、本来の自分に帰るしかないね。さて、間に合うかな。時間がない。長い漂流であった。本来の眷属のところへ、帰る。仲間は周りにはいない。どこにゐるのだろうか。私にとっての本来のふるさとはどこか。何故に、此処まで、戒められていたのか。平等大慧の実相戒壇は、戒めを解く為の戒壇であるという。菩提樹ご供養も、見えない世界から、赦されて初めて出来る事である、と云ふ。有難いことである。今、解き放たれた。鶴か、あるいは、コウノトリか、あるいは、・・・。得体は、未だ、知れぬ。世間の常套句に負けないように。彼らは、群れを成し、それで、勝ったつもりでいる。そして、腐敗への道を歩んだ。あなたがたも、見えない世界から見られている。いつか、気づく時が来る。来世かも知れぬ。「車屋さん、アテにならない奴はバカ、アテにするのは、もっとバカ」。仏法の法輪を回すのもかくの如きか。ラジオで谷村新司氏が面白いことを言っていた。稲荷をはじめたのは、秦氏であるという。(ハタ _ウヂ【秦氏】漢氏(アヤウジ)と並ぶ古代の新羅系渡来氏族。養蚕をはじめ鉱山開発、灌漑・土木事業に従事した。山城国葛野(カドノ)郡を本拠に、近畿一帯に広く住し、平安京の建設にはその財力が大いに貢献したといわれる。)また、INARI→INRI。(INRI【略】〔ラテン〕Iesus Nazarenus, Rex Iudaeorum ユダヤびとの王ナザレのイエス《◆キリストのかかった十字架にかかげられたとされる句》.)そして、平安京建造は秦氏の貢献大。秦氏の「秦」は渦であり、これを中国人に問うと、ローマであるという。そして、平安京がエルサレムという。当たっているだろう。世界史の不思議である。秘されてきた事実があまりにも多い。時の人間権力によって葬られたのだ。過去からの見えない精神が、世界に、秘されている。自分自身でしか探すことのできない、自分自身の精神の遍歴がある。これが、魂の遍歴である。見えない世界が見えてくる。しかし、極東日本、オリエント。原点回帰。日本より始まり、日本に帰ってきた。日の出づる国である。ふきだまりではない。これが、喪失していた日本の自信の復活である。因って、腐敗を好まない。世界で最も良識ある国家である。しばらくは、社会は、勉学をしなかった。その間、安易な精神が地位を得た。これも、新しい芽が出るための、土壌を作るためであった。本来、イキイキと生きるべきである。新しい芽は出た。誠に、お芽出たい事だ。国家は、本来の目的を定めて、創造するべきものである。かつて、ローマもそうだった。エジプトもそうだった。プラトンの哲人政治とはここにあった。その為には、雑草から刈ることを始める。悪の根を抜く。新しい国家の建設である。その為の技術も経済も智慧も資源も無限にある。人間の英知で、かつての夢の実現が可能となった。目的は何か。周りが幸せであれば、その中にいる自分も幸せである。全体のボトムアップである。それが、合理化、効率化の意味であった。自分だけが助かろうとする思想は滅びる。限りない庶民の解放。理念は、強いがやさしい世界。愛と平和を手段として。人生は戦いである。真の戦いは、自分との戦いである。自分との戦いに勝利すると、見えない世界が味方につく。見えない世界は、見える世界のこの勝者を通して、動く。思念が現実化する次元がある。いつも、見えない世界から見られている。そして、この戦いは、試練である。辛いことはこれ以上なく辛い。しかし、忍耐することで、必ず、救助船が来る。ノアの箱船であったり、七色十字の大宝船である。祈武運長久。見える世界の戦争だけが戦争ではない。見えない世界での戦争がある。知っても知らなくても。この戦いで勝利するソージャーは誰か。この戦いに勝てば、もはや、幸福である。そして、何も思うことはなくなる。空である。しかし、見えない世界が動く。しかるべく、しかるべき存在に、見えない世界が、認められたからである。現実(法)と夢(妙)。ブラームスとシューマン。すべては、因縁である。因縁は、解決されるまで、知らしめんが為に、何度でも、度を増して、起こる。事実である。見えない世界を供養するしかない。見えない世界に赦しを乞うしかない。諦めるしかない。所詮、人間レベル、惡を含んでいる。如来は常にいます。佛は、唯、清浄とならしめんがために法を説く。唯、時を待っている。時は来る。やがて、潮も満ちる。Time and Tide ! 船出の時である。行き先は心の地平。すでに開かれている。Go to the Heaven !

2006年01月08日明るきから明るきへ
修復は完了したようだ。一番良い時の自分に戻ってきた。いよいよ復活。長かったね。今、思うと、何故、こんなにまでも彷徨っていたのか、むしろ不思議である。問題は、自信の喪失だった。一切のやましさが払拭された時、解決した。身とは、殺盗婬、心とは不善を念ずる。すべての理由はここにあった。此処より脱却しない限り、何も手につかなかった。Take off するためには。本来、何も必要なものなど無い。その時々に何を為すべきか、それを為せばいい。足りている。足りないものなど無い。大切なのは、時々の智慧であった。大自在、大自由。智慧を以て最大の武器と成す。ここを確信する。自由であって、法を超えない。ここが、究極の目的だった。辿り着いたようだ。すでに、至った方々の、智慧の周波数の発見。それに、同調する。そして、自分を生きる。それぞれ、個性は違う。しかし、成功理論は、ひとつのようである。即ち、六根清浄。これなくして、成功はない。若い間に、いろいろと、成功と失敗を繰り返し、矯め、直される。それを、怖れないこと。それでいい。所詮、持って生まれた能力を活かすしかない。人は、誰も、助けてはくれない。助けてくれるのは、見えない世界だ。見えない世界に認められること、これが、最高の手段である。何をしてもいい。導きがある。この導きが周波数だった。自分自身を開発開拓する。自分自身が自分自身になっていく。人生だね。自分自身が自分自身を発見した時、自分を取り巻く世界が変わる。とりあえず、須弥山は捉えた。満足である。それは、如来を知ることだった。自分の実相を端座して自得することで、如来を得ることが出来る。本当だった。自分自身を知ることだ。過去世を含めて。これが、生まれてきた意味であった。しかし、難しかった。手懸かりなど無かった。それでも、探していた。此を見つけない限り、私の人生はなかった。禅の本をしこたま読んだ。わかっていたつもりの頃もあった。しかし、ある方と話して、九分九厘は論破するのだが、その人に、最後の最後で、「ちがう」と言われて、そこで、引き下がざるを得ない自分があった。牛過窓櫺だった。その方は、行をしていたのだった。その人の名前は横山知代子(旧姓来栖、幼名陽子、来栖三郎、太田道灌、ニギ少年の系譜)。そして、自分も自分なりに、佛所護念した。本も売った。CDも売った。あらゆる仕事が停滞した。ボランティアのようなことばかりしていた。裏切られたという思いにうちひしがれた。しかし、そのようにして、追いつめられて、初めて、打成一片である。気づくと、教えの意味が、すべて、わかる自分がいた。そして、世間の蒙昧がゆるせなかった。ゆるせないうちは、まだまだ、だった。やがて、すべては、知らしめんが為と気づいた。わかる人とわからない人がいて、当然だと思うようになった。そして、むしろ、わからないのが当然であるなら、あはれ、と思えた。責める気持ちはなくなった。しかし、ボヤッとしていることに対する憤りはある。それで、叱咤する。しかし、相手は、笑ってる。わかってくると、そう簡単には、笑えない。笑うことが人間の人間たる特性?誤魔化しているにすぎない。笑いが去った後、泣いている、悲しんでいる、悩んでいる。わかってくると、憂いはない。あはれだけである。笑えない。だからと言って、悲しむのではない。意見はする。しかし、責める気はない。無意味な議論をしているのに、勝ったつもりでいる。議論、理論の、根拠とするところが違うのに、それに気づくことなく、表面上の自分解釈で勝ったつもりでいる。相手にしていないだけなのに。自分のことは自分にしかわからない。今生で解決しておかないと、来世も人間であるとは限らない。人間である時に、真理に目覚めないと、目覚める時はない。真理とは、神仏である。これは、どうしようもない。そして、神仏に認められると、本当に、大安心である。この安心を得て、自分自身を生きてゆけばよい。間違えなければ、必ず、成功する。しかし、世の成功と、この意味での成功は違う。世の成功は転落を内在している。神仏の加護を得れば、転落は無い。さて、未来は明るい。明るきから明るきへ。是の明るきを進むことが出来るかどうか。試してみる価値はある。一個の存在が目覚めれば、草木瓦礫まで目覚める。過去よりの教えである。面白い時代となった。パスカルは、「人間は考える葦である」と言った。考えること、勉学することで、妄念が焼き尽くされていく。因って、学問はあなどれない。また、パスカルは言った。「その葦を通して宇宙を見る」。宇宙とは見えない世界。この宇宙、魂とリンクしている。それは、神仏との邂逅を経て、見ることができる。神仏を知るには、修行を要する。行なくしては、何を言っても、不毛に帰する。行をして、神仏を知る。新しい始めである。さて、銀行は、自分の身を護るために巨大化した。恐竜だね。仮登記担保、譲渡担保もしてきた組織だ。次は何をするのであろうか。ところで、今、時の流れが速い。高速頭脳回転で、乗り切らないと、振り落とされる。ボヤッとしている暇はない。本来固執すべきものは何もない。新しき者を雨らす時、古き華は吹き飛ばされる。既成概念は一切通用しない。古典のあらゆる解釈が間違いを思い知らされる。間違った文化であった。新しい文化は、容赦なく、古き文化を淘汰する。真の温故知新である。あらゆる怠慢、怠惰に眠る者は滅びる。新しい時代を生きるための運動神経が試される。何をするにしても、賞を取るまでにするのでなくては、意味はない。その過程が違う。何が違うか。集中力が違う。練習の段階で、勝負は決まっている。個人のパワーが、組織のパワーを超える時が来た。「我思う故に我あり」は、「唯我独尊」に等しい。亦、結果に於て問題はあるが、「我が世とぞ思う」に等しい。また、「太陽王」と自称するに等しい。個人のパワーである。それは、思う力である。この思う力、確かにある。無より有を生じる。客観を主観が作る。ミュージックが見えるか。見える世界だけの時代から、見えない世界も視野に入れる時代にはいる。抽象芸術に先駆された思念が、これより、現実化する。因って、芸術的的時代である。また、目的的時代である。目的を決めて、手段を集め、具体化する。目的は抽象的である。抽象的は、また、理想的である。理想の現実化の時代。20世紀の夢が実現する時代。愛と平和が実現する。愛と平和も抽象的である。こうして、順々に、刑事訴訟法理論における「手続き」のように、時代は、人間の理想を、漸漸と、限りなく、実現する。因って、知性の時代となった。知性とは、数学的的能力である。愚かさは、もはや、時代を生き残れない。牛頭、馬頭は帰らざるを得ない。本来、人格を持った市民の、シビリアンコントロールの時代である。公務員法によると、公務員の使用者は市民及び国民である。国民主権の真の実現の時代である。もはや、大本営発表ではない。情報は、すでに、制御できない。情報の制空権は、市民及び国民の下にある。憲法制定権は、国民固有の権利である。今、行使するべき根本権利は、これであり、抵抗権ではない。すでに、市民革命以降、市民社会も進化した。いつまでも、過去の方法論で、制御できない。20世紀に文字にしたためられていた市民の諸権利が、実現されていく。そういう時代を迎えた。詭弁は通らない。歴史的真実として、真の意味で、庶民解放が為し成されていく。愚かな時代ではない。

現実は十進法
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十
十はゼロ
ゼロはゼット
ゼロより一、ZよりA
オメガよりアルファ
イロハニホヘト チリヌルヲ ワカヨタレソ ツネナラム ウヰノオクヤマ
ケフコエテ アサキユメミシ ヱヒモセスン
あいうえお ん 五十音 
あは現実、んは夢の世界(無) うは有 現実は有無より成る、
現実は見える世界と見えない世界からコンシストされている(諸法実相)
終わり(十)の始め(一)→士
ハニホヘトイロハ CDEFGAHC
五→正→中道
ダイヤモンドのグレードはGより始まる
glは光るもの
alはアラビア、医学、化学
要は、今、モードは何か 羅針盤
今より、心。
法(現実)+妙(夢)→妙法(超現実)

(USA? 私はS、父はA, ISA!愛さ。我田引水。佛は法(水)を以て人田を耕す。神は愛を以て平和をもたらす。ミュージック:ロックンロール→カントリー。東征?フロンティア!・・・パイオニア。変遷?西遷!・・・聖戦。West W ダブル・ビクトリィ 比丘鳥居 此の丘に鳥います。どこの丘かな。仏所 佛のいますところ、佛の住所。何処IS此処? 空閑=荒野 Good luck! 祈良航海。Go And Start, J-ship! Time and Tide is consisted.[consistの用法は、文法上、正しくないが、ほかに、単語が思い浮かばない。])

白隠禅師は五百年間傑出の禅僧だった。至道無難禅師から正受老人を経て、かすかな命脈が保たれた。その地は日本であった。白隠禅師は、また、文学表現に長けていた。しかし、禅僧たる者、文学に非ずと諦めた。さて、『夜船閑話』のナンソ、何を意味しているか。彼も、地獄を見ている。それ故のナンソだったのであろう。このナンソ、今は、科学的に脳内分泌物として解明されつつある。どんな薬剤よりもよく効く。白隠禅師は文学を諦めた。僧の故である。還俗出来ない地位に、すでに、あったからである。今、むしろ、求められているのは、文学かも知れない。ナンソにあたる文学かも知れない。迷える子供たちにあたふべきは。そして、その文学とは、むしろ、音声だとおもはれる。母の子に対する寝物語である。爆発を伴うランボーなテレビ、ゲームより出でて、世間のやさしい風に、生きていくために。

クラシック音楽の聴き方。尊敬する諸先達に学びながらモチーフとし、テーマとテーマの織りなす綾、対話、ささやき、ソナタ形式を通して、それは、あたかも、ジャズ的であった。

行政法。柳瀬良幹著『行政法講義』が良かった。

2006年01月07日入てん垂手
ある禅僧が、ヨーロッパのどこかの国で、禅について語っていた。すると、相手が言った。日本には『十牛図』という、とてもわかりやすいお話があるではないか、と。さて、悟りへ至る道を絵で表現した十牛図の第十番は「入てん垂手」。修行を経て、第八番で無あるいは空となる。そして、第九番で、自然が満ちてくる。そうして、第十番、現実娑婆世界に帰還する。いわば、手を垂れて、さえない風貌で、お酒でも飲みに店にはいる。一見、ふつうの人であるが、話をすれば尽きない智慧があふれ出す。そして、ひょうひょうと、家に帰る。そうした日々である。まるで、宇宙人である。あるいは、星の子である。しかし、世間は言う、私もそう思う、と。次元が違うのに。修行した人は、ふつうの人と、何処がちがうか。目がちがう。目の輝きが違う。ダイヤモンドの輝きである。微動だにしない。この目を見た時、信じざるを得ない。言葉は本来ロゴスであり、言ったことは実現する。しかし、ふつうの人の言葉は何も起こらない。嘘ばかり言っているから、天に通じない。今、言葉には意味がない。あらゆる概念が空洞化した。それでも、議論している。勝ったつもりでいる。学校の勉強もできなかったものが、社会に出ると、通じると思っている。そして、やりたい放題で、悪徳を積む。そして、メジャーの餌食となっている。あはれだね。それでも、自分は勝っていると思っている。時には暴力もふるう。動物性が出ている。ある方がラジオで言っておられた。「負けて勝つということがある」。今は、負けておくけれど、次は、しっかりと儲けさせて貰います、という意味であるらしい。しかし、世間では、勝つことしか考えていない。バランスがとれない。いつかはバブルとなってひっくり返る。利益ばかり追求してるとね。誰かが勝てば、誰かが負ける。誰かが儲ければ、誰かが損をしている。バランス取らないとね。危ないよ。こけるよ。たまには、負けることも大切。そして、勝てばいい。負けが大きいとね、勝つ時も大きいね。また、言われていた。低金利政策の意味、庶民の利子を何処へ持って行ったのだろうか、って。思うに、個人投資家、結局、メジャーの餌食だよ。そして、唇寒し秋の風。話してるとね、破綻するね。それで、勝負が決まる。何処まで破綻せずにいられるか。学問の深さが露呈する。究極はね、さとりだね。数学は暗記科目ではない?数学こそ暗記科目だよ。定義、定理を暗記していなくて、解けるわけがない。応用問題の前の基本問題ができていないね。その前の例題を暗記していないね。だれが、このようなこと、数学は暗記科目ではないって、言い始めたのだろう。教育者の怠慢だね。算数をしなくてもいい、小学生も方程式で解けばいい?お話にならない。算数ができないものが、どんな問題も解けはしない。それで、社会に出て勝ったつもりでいる面々。どうなってんだろうね。この危機的局面を脱却する智慧などあるはずもない。でも、善かったね。日本社会の基本ベクトルは軌道調整された。また、世間は勝ったつもりで行くのかな。何も知らないままに。今、世間の経営層の目は輝いているという。しかしね、ダイヤモンドではないね。欲得に輝いている。政府の発表では、今年の成長率は2%。それ以上の成長を目指してどれだけの会社が成功するか。面白くなりそうだ。ところで、日本はね、やはり、技術立国だ。本来日本精神は商売はあまり得意ではない。商売としての株式投資に走るよりも、本来の力で戦った方が良いように思われる。企業のあり方も、メジャーの餌食となっては、日本の本来の力が発揮できない。投資は投機家に任せておけばいい。メーカーは手を出さない方が良い。日本のお家芸で十分勝負できる。良いものを作れば売れる。アップルコンピュータとIBM、そして、マイクロソフトの戦いを覚えてるかな。マイクロソフトがどのようにして成長したか覚えているかな。今、その懺悔で、世界と福祉にお金出してるね。そして、大手商事会社に言いたい。自分たちの利益だけのために、技術を外国に持ち込むのは、国益に反している。かつて、日本の工業力はどこにあったか。町工場の技術だよね。彼ら旋盤工、溶接工の技術を、君たち、大企業社員が持っていたか。反省を要するね。頭の使い方を間違ったね。しかし、日本の底力、へこたれはしない。庶民万歳。会社は利益追求の手段である、という定義をほしいままにして、勝手がすぎた。会社も、国益を損なっては意味がないことに気づく頃だね。一番にならなくてもいい?一番になったことのないものに、一番の気持ちはわからない。その気になれば、何時だって、何処だって、一番になれる。ただ、ばかばかしいだけ。さらに、次元のちがう価値を追い求めていただけ。それも果たしたけどね。・・・ブツブツ・・・・いつもの腹ぺこ羅刹の独り言である。ところで、当分の間、世界のマネーは日本に来る。世界で最も知的で安全な国であることに気づいたからである。本来の日本の復活である。不図、若い頃、伊豆半島を沼津の寮にいた友人と一周したのを思い出す。東から回って、下田の民宿に泊まった。西にはいると、道は狭くなり、しかし、櫻の枝越しの富士は美しかった。浄蓮の滝も行った。ここは弘法大師の歩んだ東端だったろうか。旧天城隧道も歩いた。鎌倉もある方と歩いた。建長寺の裏山にも登った。(3:53am 2006/01/07 NHKラジオ深夜便を聞きながら 今朝は、石川さゆりと北島三郎特集・・・石川さゆりは都はるみと同期だった。デビューは昭和何年だったろうか。昭和48年。そして、初めての受賞は、昭和52年 8月25日 第3回日本テレビ音楽祭  グランプリ『能登半島』 )

ヘッセ
内面への道を見つけたものには
燃える自己沈潜の中で かつて
自分の心が 神と世界を ただ
形象 比喩として 選ぶのを
知恵の核心をおぼろに感じたものには
すべての行為と思考が
世界と神を含んでいる
自分の魂との対話になる

高校の頃にこの詩を見つけた。自己との戦いを始めた頃のことだった。高1の時だった。旺文社の全国読書感想文コンクールがあった。確か、『二十日鼠と人間』をテーマにした。佳作だった。しかし、一夜漬けの感想文だった。一晩で読んで、メモを作り、提出日の朝、教室で完成して提出した。自分としては、何も考えずに、書いたようだった。しかし、読書感想文の全ての要件を満たしていた、という。つまり、起承転結があり、引用等が適格で内容が正確に把握されており、最後に、自分の考えもあった、と。別に、構成など考える暇はなかったのに(また、学生時の卒論も、下書きなどしなかった)。さて、その頃、国語の先生は、奈良女子大学卒の岡本晴子先生だった。寒い校庭の低い鉄棒のところで、一緒に文学をしましょう、と誘われた。一時間は話しただろうか。THE PEN IS MIGHTIER THAN THE SWORD. は知っていた。しかし、その頃、文学など畢竟女々しいと思っていた。その後、文体を知ったのは、『源氏物語』だった。内容よりもその文体に癒された。そして、次に文体を知ったのは、吉田健一だった。文体とは呼吸であると思った。つまり、文学も、肺活量の問題である、と思った。(4:48 RCC「走れ歌謡曲」木の実ナナ『道』を聞きながら)広島こそ、火の島、日の島、陽の島であり、ひ→イ、イロハである。即ち、色であり、四季である。これにて、色即是空であり、空即是色である。・・・支離滅裂。百花百裂、百雑砕。・・・大海の磯もとどろに寄する波、われて砕けて裂けて散るかも・・・もうやめておこう。・・・

     ゆく春の波のまにまに映る月
          かくも静かな朝乃あるらむ

そして、仏さんに教えて貰ったこと、悪いのはすべて、過去世を含めて、自分である。善いことは、すべて、仏さんのお陰である。神は、耐えられない試練は与えない、という。確かに、ここまで彷徨わなければならなかったとは、よほどの業であったのだろう。そして、この現実社会に対する抗体がなかったようだ。つまり、純粋ではあったということか。いずれにしても、今日の空はよく晴れている。雲も、楽しそうに、浮かんでいる。しかし、今更、世間に染まろうとは思わない。引き換えにしたものが大きすぎる。また、得たものは、大満足である。悪が蕩尽されれば、善のみが入ってくるようになる。今生で試してみなければならなかったことだったのだろう。そして、その証明は得た。十分である。仏法は勝つ。王法は儲ける。自信を得て進むしかない。もはや船出である。「我如来の知見力を以ての故に、彼の久遠を観ること猶お今日の如し。・・・香風時に来つて萎める華を吹き去つて、更に新しき者を雨(ふ)らす。・・・若し是の城に入りなば快く安穏なることを得ん。若し能く前(すす)んで寶(ほう)所に至らば亦去ることを得べし。是の時に疲極の衆、心大に歓喜して未曾有なりと歎ず。我等今者斯の惡道を免れて、快く安穏なることを得つ」(平楽寺書店版『訓読妙法蓮華経并開結』p154,155,175-6)「汝今此の寳を以て所須に貿易(むやく)すべし」(同p192)

   飄飄とおもふことなし風のごと
        小鳥食あり明日も生きてむ

(23:48 2006/01/07 RCCラジオ サザン[桑田佳祐とはらゆうこ]がビートルズを歌ってる:学生の頃だった。小学校の時の友人、八十島直基君の下宿を訪ねた。その時、彼の連れに早稲田大学応援団員がいた。彼が手伝ってくれという。竹内マリアの応援だった。場所は東京九段坂武道館、『全国新宿音楽祭』[ラジオのレコード大賞に匹敵]だったろうか。そこで、サザンもいたように思う。)

2006年01月06日大安心とは
佛所護念する者は諸佛より護念される。これは、佛の約束であるから、必ず、大安心となる。この確信を得る時、大自在と大自由を得る。つまり、思う通りにして、法を越えない。間違えば、必ず、サインがある。それは、往々にして、化人を使って示される。または、自然現象とか事象とか、あらゆる事がサインとして示される。ここに、アンテナを立てる。このアンテナは、精密である。信じて間違いはない。是を信じることは、通常、困難である。何故か。この周波数を得るには、一定の修行が必要であると思われる。例えば、御経讀誦などがそうである。自分勝手にしても、この周波数は獲得できないようだ。やはり、佛の決めたルールがあるらしい。そのルールに則って一定の行を積む。すると、やがて、順々に、視界が開けてくる。これは、実践済みで間違いない。経験を通して、これらは、形成獲得される。三年かかって見えてくる。六年すると力がつく。八年すると、いわば、悟りを知る。やはり、行が必要であるようだ。一切衆生悉有仏性であるが、この仏性、行を要する。その間、己の業が清算されていく。熾烈な戦いとなる。一切を失うかのような戦いである。しかし、失うのは悪業によるものだ。悪業が空じられてしまえば、後は、善いものだけが入ってくる仕組みである。試してみる価値はあるね。そして、諸佛の約束である。結果、善に決まっている。賭けるならこれだね。爽快な快晴のような心が待ってるよ。人生の醍醐味は、それから、始まる。この秘宝は日本にしかない。日本に生まれてきて善かったね。以後、宜しく。「衆生功尽きて大火と焼かるると見る時も我が此の土は安穏なり」ということを信じられるかどうか。試金石だね。日本も元気になりつつある。私も私の仕事はしたのかも知れない。そろそろ旗を倒す頃だろうか。さて、世間を見てみると、蛙の子は蛙だね。結局、そのようになっている。そして、それぞれ群れを成している。さて、私は誰の子だろうって思う。所詮はぐれ鳥の子かと思う。さて、人生は不可思議だ。良かったのか悪かったのか。まだわからない。人間であることは確かなようだ。所詮、人間世界だ。救いはないのかも知れぬ。そう思った方が楽なのかも知れぬ。しかし、ここまで歩んできた道だ。もう少し歩むことにする。失ったものは大きい。得たものも大きい。所詮、プラスマイナスゼロかも知れぬ。そのあたりで、諦念かも知れぬ。清浄を目指して歩いてきた道だ。進むしかないと思っている。何が見つかるかな。何も見つからないのかも知れない。世間的なことは。およそ、見当はついた。Good Luck! もう、日本も大丈夫ですね。ベクトルの修正はできたようですね。所詮、私の出る幕はない。すべて、アイデアは、・・・。生まれた時からそうだった。現実政治経済社会、憤りだけが、風と吹き、どうしても馴染めないものありて、言っても言っても、本末転倒している。政治家とか諸企業人とか、罪が重すぎる。罪とは嘘である。自分計算である。自分勝手である。それで社会を腐らせている。もはや、時代は、下流だ。上流は住めない時代だ。よくもここまで汚したものだ。されど、力を出す気もしない。力を出せばどうなるか、怖さを知ってしまったから。遅すぎたのではない。早すぎたのだ。この苦悩は誰も知らない。今更、どうでもよい。それでも佛は救うという。地獄より掬うという。掬う方法を説くという。実行有るのみ、と。すると、確かに、掬われている。少なくとも、憂いはない。むしろ、カクネンムショウである。このカクネンムショウ、確かにある。思うことなくんば、吉。自分が晴れれば、周りも晴れる。頑張るしかないね。苦悩の英雄ベートーベンも歓喜へ至った。己の生命を燃え尽きる、それしかない。情念を越えて、開ける世界がある。何もかもがゆるされる世界がある。ニルバーナだ。確かにある。代々の教えである。勇猛果敢攻めるはここである。勇気が要るけどね。獲物は大きいよ。南無大強精進勇猛佛(正三)。見失われていた神仏との恋、何時果たさんとするか。お楽しみはこれからですね。さて、何を以て、自信の根拠とするか。代々のことはある。それだけでは足りぬ。誰もが代々のことがあっても清浄は得られぬ。少なくとも、生まれてからの軌跡が違う。およそ、ほかの誰よりも違う人生を、この世で、歩んでいる。神仏は見ている。誰に真理を託するか、と。覚悟すべしとは、この、人生の軌跡である。因って、ゴールは切った。もはや、他の追随はない。思い知るべしとは、ここである。苦節五十年の勉学、あだや、おろそかにはできぬ。キジも鳴かずに撃たれまい?幻の極楽鳥・迦陵頻迦を撃てるか、撃つなら撃ってみるがいい。これは、誰の言いか。羅刹か。如来の神力は、戯言ではない。裏切り者は容赦ない。裏切り者とは誰か。既に、それぞれ犯した罪の清算段階に入っている。基準は、身とは殺・盗・婬、心とは不善を念ずる、これである。人間に非ざる畜生道が先ず裁かれる。小羊たちは幸いである。同時に、妄念が裁かれる。今までは通った嘘は、これより、通りはしない。神仏は、すべて、お見抜きお見通しである。唯、時の満ちるのを待っていた。それぞれの為した業が裁かれる。そして、新しい時代が、始まる。仕方ない。時代の約束である。眞實の花が咲き、実が成り、種となった。もはや、どうしようもない。新しい種のための土壌も開拓され、開かれている。新しい種蒔きの時である。神仏の約束である。二千年来の時が満ちたのである。あるいは久遠実成である。「戒壇とは。王法佛法に冥し佛法王法に合して王臣一同に本門の三秘密を持(たも)ちて、有德王覚德比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅撰竝びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可きものか。時を待つ可きのみ。事の戒法と申すは是なり。(霊山は世界最大の墓場=ヒロシマ、最勝の地は日本三景の一つ瀬戸内海国立公園内にある厳島辺り、似たらんを示すは広島湾に浮かぶ似島(ここに原爆の犠牲者の遺体の多くが運ばれた)=広島小富士、戦艦大和誕生の地は呉(武蔵に非ず)」に秘されていたことが明らかとなって、其の「時」を迎えた。すでに、是(日の下の人)の大衆のための実相戒壇は建立されている。梵天帝釈も踏み給うべき、一切大衆が謝ることのできる場所、一切大衆のための菩提樹。すなわち、時が満ちた。惜しむべし、未来のために、悪の花は摘まれる、悪の根は抜かれる。善の種が蒔かれる。信じる信じないではない。事実である。神仏は、謝らぬものを赦しはしない。唯、謝るなら赦される。謝るところからしか、新しい時代に入れない。終わりの始めである。時は満ちたのである。代々の教えが完結したのである。もはや、言い逃れはない。事実が裁かれるのである。常々、教え示されてきたことが実現するだけである。神の栄光が示され、仏の慈悲が証明される。致し方ない。真理である以上、必ず、実行される。これが、諸預言の意味であった。咲くべき花が咲いたのである。そして、実となり、種となった。種となったからには蒔かれる時節を迎えた。それだけのことである。各々、それぞれの為した業である。謝るところからしか入れない。恨むべきは、不倫の子は不倫の子である。時代は流れた。見えない世界の地平が開かれた。そして、あらゆる歴史書が見直しを余儀なくされる。そのひとつ、「神のものは神の手に、シーザーのものはシーザーの手に」。見える世界では奪いしも、見えない世界では、護持されている。かつて、久遠の昔、仏説も仏所もあった。人間がそれを破壊した。原罪である。諸悪がそれよりはびこった。本に還すことを、人間は、見えない世界から、請求されている。歴史とは、こうしたものである。新しい時代の始めである。この冬を越えて来るなる春ぞある、歴代教え、おわりの始め。一天四海皆帰妙法(四界:地獄、餓鬼、畜生、阿修羅は、皆、天、すなわち、妙法[見える世界と見えない世界]を以て一に帰する)。原点回帰。平等大慧教菩薩法佛所護念眞實證明(平等大慧の敎菩薩法を習って、実行し、佛所護念して、眞實は見るべきものなり)。眞實證明。

2006年01月05日四聖は一つ、一天四海皆帰妙法
四聖とは、釈尊、孔子、キリスト、ソクラテスですね。彼らが同時代に出た。そして、かつて、新しい時代が始まった。彼らの説いていたことは、今、実現しようとしている。釈尊は、悟りを説いた。孔子は仁を説いた。キリストは愛と平和を説いた。ソクラテスは対話を説いた。孔子は、理想を周とした。釈尊は究極の幸福状態を示した。聖書は、報復を説いた。彼らの共通項は、純粋精神=正直だった。そして、本来への復興であった。今、それが、実現しようとしている。そして、これらのことが、国家として、実現可能な國は、唯一、やまとごころ=純粋精神(正直)の咲きそう國、最も自然=神のある國、日本であった。これが、日本の意味であり、使命であった。たとえば、如来は末法になって、初めて、その真実がわかることになっている。キリストは、時が満ちて、主がその真実を示す。孔子は、人間の最高の愛としての仁を説いた。ソクラテスもキリストと同じく、不条理(人間解釈の身勝手)の毒杯を仰いだ。かれらは、かつて、同時代に、神或いは如来=見えない世界を知っていた。聖書の目的は、民の解放であった。純粋精神の解放であった。途中、デカルトがコギトエルゴスムを言った。我思う故に我ありは、唯我独尊に等しかったのかも知れない。同じく、確率論を説いたパスカルも、メモリアルを経て、神秘を知った。そして、それを伝えるための草稿としてのパンセだった。確率論は、その後、量子論として確立されたのではなかったか。量子の世界は、個々が不確定な動きをしながら、ひとつの秩序へ向かっていた。それは、そのまま、個々の人間の存在する世界に等しいのではないか。それでは、その秩序とは何であったか。孔子もここを本来に帰ることとして説いている。四聖は、同じ事を説いている。本末転倒から、本来に帰ること、それが、如来の教えるところであり、主の理想である。そのための手段もそれぞれ説いている。而もそれぞれ、その本質は、同じである。今後、どう進むべきか。復古ではない。本来の実現である。そして、これを、実現することができる國は、唯一、日本である。因って、いつまでも、腐敗では申し訳ない。時を待って、新しい時代を牽引するための國、それが日本である。愚か者は、淘汰される。四聖は一つ、一に帰する。一天四海皆帰(回帰)妙法である。現実主義で、人類は、権力・武力・金力を力だと思った。欠落していた力があった。如来の神力である。見える世界しか見えない人類であった。それが世界史であった。四聖は、真実は、見える世界と見えない世界があることを知っていた。それを、種々、説いていた。しかし、人類は理解しなかった。できなかった。木々は、見える部分と見えない部分から成る。見えない部分が根っこである。根っこが枯れる時、木は枯れる。養分は水とともに体内を巡る。水は、妙法華経によると、法であるという。法とは仏法である。また、現実である。見えない世界を妙と呼ぶ。見えない世界が涸れる時、見える世界も枯れる。四世が説いていたのは、これであった。見えない世界は、亦、黄泉である。祖先・諸精霊の世界である。何が大切か。祖先・諸精霊の供養である。供養とは、相手が喜ぶことをすることである。見えない世界は、その存在を認められることを喜ぶ。そして、供養する者に対して、見えない世界は守護する。これが、一大事としての事実である。戦うべきは、自己内での悪魔である。これを征服して、はじめて、見えない世界が見えるようになる。これが、眼根懺悔であり、本来の自分の始まりである。終わりは始めである。さて、何が大切か。個々のことである。修身斉家治国平天下は正しい。これをあまりにも無視し、刹那的な欲望が、幸せだと錯覚し、それを助長している文化は滅びる。五欲を断ずることは必要ない。要は、その、因って来る精神である。傾向犯的文化は終わらねばならない。聖書に於て、モーセが海を開いたという。これは、魚から人間へ至った道であった。法華経も、文殊は、海中に於て、ただ、妙法華経を説いていたと言う。海にあった頃から、生命体は、一つの秩序としての方向性を示されていた。それらが、四聖によって、説かれていた。人類(庶民)は、初めて、現実主義から脱却しようとしている。すなわち、見えない世界を、庶民レベルで、認識しようとしている。ここを克服して、21世紀である。道は開けた。これが未知との遭遇であった。方向性は示された。宇宙開発が進展している今、羅針盤は、自分自身である。それは心である。心の地平。どう歩むか。すべては、時を待たねばならなかった。時が満ちる時を待たねばならならなかった。時が満ちるとは、人間がひとつの限界を知る時であった。「子曰、学而時習之、不亦説乎。」(孔子は言った、学びて、「時」、これを習った、また、説かずにいられようか。)妙法華経では、時とは天=神である。「爾のときに」=神がいます時に。少し人里を離れて、山にはいると、木々がへし折られ、昨年の台風の爪痕が、あまりにも明らかに痕跡として目にはいる。自然は何を教えようとしているか。人間のあまりにも横暴な自分解釈と身勝手、科学(=人間の奢り)の限界である。神は自ら助くる者を助く。自から、水=法である。自らを助けるとは、修身である。世界はどうあるべきか。人類は、生命体として滅びたくはない、と願っているはずである。神も如来も、人間が本当の幸せを掴んでほしい、と思っている。それが、慈悲である。人間でしか、真実の幸福は掴めない、また、掴める。それを神仏は知っているから。英知と勇気を持って、正しい選択をして、真実の幸福を実現したいものである。因って、知性は立ち上がるしかない。もはや、この世の腐敗に耐えられない時を迎えている。ここまで、人類は進化したからには。自らの地位に安住し、傍観する知性は、腐敗を助長している輩と共犯であることを知るべきである。

ところで、ドストエフスキーの「罪と罰」、高利貸しは殺された。ラスコリー・ニコフは罪を犯した。しかし、罪とは思っていなかった。彼を救ったのは誰であったか。ソーニャであった。娼婦である。彼は大地に接吻した。DHロレンスの死んだ男においても、仏陀においても然り、救ったのは少女或いは女だった。女の存在意義はここにある。社会的キャリアなど、女の本分ではない。ちょっとピンぼけのキャパがいた。従軍写真家であった。彼は妻を亡くしていた。しかし、再婚することはなかった。妻に対する永遠の愛を身をもって示した。やがて、彼も戦地で倒れた。悲劇である。しかし、彼の魂はきっと満足していることだろう。戦争を通して試される魂もある。何をもって平和というか。腐敗退廃がきわまれば、戦争も起こる。これが戦争と平和である。トルストイはこの解釈を誤った、あるいは、この視点がなかった。因って、自ら、その芸術性を否定した。すべては、人間に対して、自然は何かを知らしめんとする。そのサインが見えるかどうか。眼根懺悔して、すなわち、清浄のこころを得て、はじめて見えるようになる。かつて、ダルマは何を見ていたか。何を伝えたかったのか。西来意。ダルマは自然に導かれ、流れてきただけである。その時々に見るべきものを見ていた。その時々に気づきがあった。それ以上ではない。それが、道元が空手で帰還した意味でもあった。間違いと気づけば、間違った地点まで戻って、正しい道を歩み直せばいい。知性のあり方である。如来は自ら如来の神力を得てそれを試す、しかし、試した後、それを使うことはない。如来にはそれで十分である。後世に対して手段として教えを説く。如来とは西洋に於ては主である。如来は神の恐ろしさを知って教えを説く。無知とはこれを言う。人間はあまりにも愚かであると知る。それを伝えようとしている。見えない世界を見て知った者たちは、今までにも、あまたいる。占い師などの与り知らない世界である。このことに、庶民レベルも、思いをいたす時代である。時が満ちたというのは、こういう意味である。末法である。末法はまた、末法を得た者が、一番よく笑う。笑いとはこれである。どこぞの低いレベルのお笑いではない。清浄を得て頂上を究めるのである。腐敗の中の退廃ではない。負け犬の遠吠えではない。覚悟とは、かくして、成る。六牙の白象?ヨハネの黙示録が実現した。すでに、天に於て、戦いは終わっている。悪魔は退治されている。因って、21世紀の約束であった心の地平が開かれた(戦いである以上、犠牲は大きかった)。これから、この地上に於て、それが反映する。そういう時を迎えているのである。さて、信をもって入ることを得たり。何を信じるのか。妙法華経において、ご宝器がある。それは、ご宝珠である。このご宝珠は数珠であるが、頭がついている。頭のついた数珠はこれしかない。それは、太陽も月もあり、男でもあり女でもあり、宇宙であり、人体の姿をしている。さて、化体である。神の化体もある。地球の化体もある。その化体が意思する時、自然=神が動く、そうした化体もある。如来の神力である。これが、如来一切の所有の法であり、如来一切の自在の神力であり、如来一切の秘要の蔵であり、如来一切の甚深の事である。すなわち、これが、妙法華経である。そして、普賢、文殊等にも譲り給わす、況やそれ以下(いげ)をやとする、仏、仏とのみ究了し給ふ処の法である。もはや、天網恢々、一切、逃れることはできない。万軍の主も来たりて号令し、黄泉は動いている。そういう時を迎えている。いよいよ、庶民の解放である。庶民とは、清浄で、正直な方々である。つまり、小羊たちである。「有朋自遠方来、不亦楽乎。」(友あり、自ずから遠方より来たる、また、楽しからずや。[友とは、ソクラテスであり、孔子であり、キリストであり、仏陀、或いは、人類の英知、或いは神仏、或いは主、或いは如来])「人不知而不慍、不亦君子乎」(世間は知らない、しかし、慍むこともない、それが、君子の君子たる証明ではないか)ソクラテス、私は知らないことを知っている。(あなた方の言葉の背後に隠れたあなた方自身も知らないあなた方の魂の実体[段階]が見えている)「一切衆生自ら出ること能はず」。(どうしても、人間は自分を主張したがる、それぞれのレベルに於て、今まではそれも通った、これからは違う、「通りゃんせ」である。)「天王如来・・・。威音王如来・・・。浄華宿王智如来・・・。空王仏。雲雷音王仏。雲雷音宿王華智仏。・・・尚ほ是の経に於ては信を以て入ることを得たり・・・是の経を説きたまひし時、十六の菩薩沙弥皆悉く信受す。・・・仏此の経を説きオハって、即ち静室に入って・・・是の時に十六の菩薩沙弥、仏の室に入て寂然として禅定したまふを知って(禅定とは禅譲である)・・・我が塔廟是の経を聴かんが為の故に・・・今正しく是れ時なり。仏此の妙法華経を以て付属して在ることあらしめんと欲す・・・所以は何ん 此の経は則ち為れ閻浮提の病の良薬なり。若し病あらんに(若い頃に病があったとしても)是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん。・・・是の語を説きたまふ時十千の天子は法眼浄を得。・・・平等大慧教菩薩法佛所護念眞實證明華德大菩薩」【京都→薩摩→広島→霧島(第二位)→敷島】

2006年01月04日小さな巡礼
平成十八年一月三日十六時十六分 快晴
風が吹いている。上空には、銀色の機体が光を浴びて、短い飛行機雲の細く尾を引いて、飛んでいる。右四十五度後ろでは、太陽光線が反射し、二階建てのビルの中央のてっぺんで、凸型をした学校の校舎の絵の時計台のように、まばゆくて。目の前は、ジュンサイも採れる小さな池。季節には、アヤメがカキツバタかは知らぬが、美しく咲く、池畔もある。その周囲には、赤松が乱立しており、この辺りでは、松茸も採れる。昔は、アヒルもいただろうか。ここは、国立賀茂療養所である。呉国立病院前、白市、広島大学前を巡礼した。そして、ここにきた。清浄となって、懺悔滅罪となることが、第一だと思って、御経を讀誦していた。ここへ来て、変わった。すべてが。そして、『十六の沙弥・・・』ときて、何もかもが開けた、私だったのだ。途中ではあったが、タバコを吸った。読み方も変わっていた。本当の讀誦となった。これより何が始まろうとしているのか、このペンにかかっている、と気づくのだった。もはや、道元の空手となって、すべて足りていることに気づくのであった。気づくということが、瞬間瞬間にあり、これからは、それで十分。私は開花したのだ、と思った。それから、夜の坂(JR呉線水尻駅あたり)の海浜公園へ行った。整備された渚がある。瀬戸の島々がある。夜空には、何機もの飛行物体が通過した。遅いスピードであった。星の輝きと同じだった。

≪「その時、執金剛秘密主云々」というのは、如来の自らの証しの智慧は、たとえ超人的な不可思議な力のはたらきを加えても、また人に示すことはできない。前に「奮迅示現」「無尽荘厳蔵」といっているのは、皆、外に現れたはたらきのあとにすぎない。智慧ある者はその枝末をみて、すなわちそのおおもとをよく知ることは、象の歩いた跡が他の衆の群をはるかに越えて、そのおどり践んでゆくところがますます深く広い跡がつくのをみて、その象をみなくても、まさしくこの象は体の力がきっと大きいと知ることができるように、またすばやく走る雷のともなった雨が降って、よく鳥や動物を震い死なせたり、数知れぬ河川がわき立つように流れて、山を崩し丘にも流れがのぼるとき、そのみなもとを知らなくても、まさしく(雨を降らせる)竜はいきおいが必ず大きいことを知ることができる。今、さまざま多くの人びともまた、そのとおりである。如来の尽きることなき身体・言葉・意(こころ)は、よく一時にひろく真理の世界を生きとし生けるものに応じて、みごとにかれらの宗教的素質に適合し、たくみに仏のはたらき(仏事)をなしとげるのをみるから、すなわち、次のことを知る。如来の智慧の力は必ずひと思いにおいて広く多くの人びとの本と末とのわけをよく考えて、究極的にさわりのない自由なはたらきをする。世俗をみそなわす仮りの姿にしてなおこのようであるから、その真実にかなった境界はまさしくまた、どのようなものであろうか。もし真理が存在していなければ、微かな足跡を探し出すことができようか。わたしはすでに残らずこれを見たのである。ところがこの真理は何によってこれを得るのかと言うことを知らない。だから、金剛杵を持つ者は多くの集まりにおける疑いの心にもとづいて、仏に質問申しあげていう、「どうして如来、供養を受けるに適(ふさ)わしい者、正しい完全なさとりを得た者は、このすべての智慧のなかの智慧を得たもうたのであるか」と。(筑摩書房刊、仏教経典選8、『密教経典』p232)≫

旧約聖書をどう読むか。ある精神病者が、聖書を開いていた。ある部分に赤線が引かれていた。どうして狂ったか。群妄が象をなでたからである。精神科医及び心理学者は、この病気を治せない。何故か。彼らも単なる科学者であり、経験としての、このメカニズム(見えない世界=精神世界)を知らないからである。さて、たとえば、「コヘレトの言葉」。「太陽の下」とは現実である。たとえば、「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。・・・足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも、聡明だからといって富を得るのでも、知識があるといって好意をもたれるのでもない。」(9.9-11)しかし、これは、「知恵は力にまさるというが、この貧しい人の知恵は侮られ、その言葉は聞かれない」(9.14)ということを前提としている(知恵とは真理に対するものであり、現実に対するものではないことに気づいていない方々の知恵)。そして、彼らの結論は、「死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。」(10.14)である。ここをもって、勝手気ままをしている。そして、神の怒りにふれるのである。これに対して、たとえば、エズラ記(ラテン語)には、「死後の霊のたどる道」(7.78)が説かれている。ここを知らない限り、解決はない。魂を扱う芸術家諸氏の肝に銘じるべき箇所である。現実は謙虚さを忘れていない限り「お笑い」でよいとしても。

男と女であるが、女が行為能力を得て、六十年である。それ以前は何故なかったか。女は、妄語するからである。しかし、女も社会的に認知された。むしろ、男が女化した。事実である。因って、社会が腐った。嘘の故である。女の本来の使命は子育てであった。そのために、嘘もゆるされていた、と言える。生命存続の故である。しかし、餌場としての社会はそれでは困る。反省すべきはここである。このあたりを何時までも誤魔化せはしない。女は卑怯である。その姑息さで男を支配している。男はそれに気づいていない。力は本来男の属性である。時代が進化して、女も社会に参加してきた。しかし、錯誤している。男と女は歴史が違う。六十年やそこらで逆転するわけがない。それをゆるした男が社会の上位にいる。本末転倒であろう。男の領分と女の領分とを定め、棲み分けするべきではないか。腐った社会の原因を反省するべきではないか。大切なのは正直と清浄。嘘を通しすぎている。男の怠慢である。女々しい男は男ではない。かつて、修行者は何故女人を避けたか。一考に値する。女は常に現実利益を優先する。利益社会は女社会である。見えない世界を無視している限り、腐るのが必然である。

桃太郎の鬼退治、鬼は心の中にいる。征服するべきは、心である。これが、新しい「汝自身を知れ」であり、「神は自ら助くる者を助く」であり、新しいパイオニアの開拓するべきフロンティアである。ここを開拓して、鉱脈を探す、新しい心の地平である。この度の鉱石は「さとり=真実を見抜く眼」である、あるいは、神の智慧である。時が満ちて、如来も究極の教えを説き、神の真実も明らかとなっている。いつまでも、牡蠣のごとく、何にしがみついているのか。真実の幸福の在処は見えている。

『恵み』と『栄誉』
2006年01月03日イザヤ書・・・『恵み』と『栄誉』
「乾いた埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに。わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎めのためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちは平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53.2-5)これを正しくわかる人がいるであろうか。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え。産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる。・・・恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、・・・。捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかとあなたの神は言われる。わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはしないと、あのとき誓い、今またわたしは誓う。再びあなたを怒り、責めることはない、と。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約がゆらぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」(同54.1-10)このことも、ある存在の時代として、ある存在の事実としてである、と知る人はいるだろうか。時が満ちるまで、誰も知るものはいなかった。「お前たち、女まじない師の子らよ。姦淫する男と淫行の女との子孫よ。・・・お前たちは背きの罪が産んだ子ら、偽りの子孫ではないか。」(同57.3-4)「わたしがそれらを容赦すると思うのか。」(同57-6)「あなたたちが切り出されてきた元の岩(地獄)、掘り出された岩穴に目を注げ(どこから来て、この世の中を腐らせているのか)」(51.1)「虐げる者から遠く離れよ。もはや恐れることはない。破壊する者から遠く離れよ。もはやそれがあなたに近づくことはない。見よ、攻め寄せる者があっても、わたしによらずには何もなしえない。攻め寄せる者はあなたの前に倒れる。」(同54.14-15)「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。裁きの座であなたに対立するすべての舌を、あなたは罪に定めることができる。」(54.17)「わたしに聞きしたがえば、良いものを食べることができる。・・・聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。」(55.2-3)「わたしは生きている、と主は言われる。」(49.18)「わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。」(48.17)「これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは、今、創造された。・・・お前は裏切りを重ねる者。」(48.6-8)「島々よ、わたしに聞け。遠い国々よ、耳を傾けよ。」(49.1)「島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。」(51.5)「見よ、主なる神が助けてくださる。」(50.9)「頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る(神を無視し、身勝手で行くなら、嘆きしかない)。」(51.11)「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かにゆるしてくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる、と主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(55.7-9)「正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。」(56.1)「お前は、わたしを心に留めず、心にかけることもしなかった。わたしがとこしえに沈黙していると思ってわたしを畏れないのか(時が満ちる時を待っていただけである)。」「わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない(人間として反省し、新たな一歩を始めるためである)。霊がわたしの前で弱り果てることがないように、わたしの造った命ある者が(現実に、虐げられている)。貪欲な彼の罪をわたしは怒り(世間に染まろうとしたにすぎない)、彼を打ち(痛かった)、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ(隠れていては見えまい)。わたしは彼の道を見た(導かれていたとはいえ、見つけるのは難しかった)。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために。(辛かったよ)」(57.16-18)「神に逆らう者に平和はない。」(57.21)「あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば、『わたしはここにいる』と言われる。」(58.9)
「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことをあなたの中から取り去るなら、飢えている人にこころを配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃墟を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。」(58.9-12)「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。」(59.16)「主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。主は恵みの御業を鎧としてまとい、熱情を上着として身を包まれた。主は人の業に従って報い、刃向かう者の仇に憤りを表し、敵に報い、島々に報いを返される。西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。」(59.16-19)「むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ、唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者もない。むなしいこと(偶像)を頼みとし、偽って語り、労苦をはらみ、災いを産む。(59.2-4)」そろそろ、結論かな。「わたしがあなたに与える命令は平和。あなたを支配するものは恵みの業(自然=神)。あなたの地は再び不法を耳にすることなく、破壊と崩壊は領土のうちから絶える(如来が世に現れる時節、衆生功尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏である)。あなたの城壁は『救い』と、城門は『栄誉』と呼ばれる。」(60.18)「あなたの嘆きの日々は終わる。」(60.20)「主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。」(60.22)「今、これを聴く(菊)がよい。快楽に浸り、安んじて座る女よ。わたしは神であり、わたしのような者はいない。わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしの望むことをすべて実行する。東から猛禽を呼び出し、遠い國からわたしの計画にしたがう者を呼ぶ。わたしは語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる。わたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。わたしは報復し、ひとりも容赦しない。」(47.8,46.9-11,55.11,47.3)「彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木(呉市の木)と呼ばれる。彼らはとこしえの廃墟を立て直し、古い荒廃の跡を興す。廃墟の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする。彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう。これこそ、主の祝福を受けた一族(菊と櫻の一族=やまと)である、と。」(61.3-4,6,9)「あなたの神はあなたを喜びとされる。」(62.5)「民の道を開け。見よ、あなたの救いが進んで来る。あなたは尋ね求められる女。捨てられることのない都と呼ばれる。」(62.10-12)「わたしが心に定めた報復の日、わたしの贖いの年が来た。わたしは見回したが、助ける者はなく、驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕により、わたしを支えたのはわたしの憤りだ。」(63.4-5)「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を。主がわたしたちに賜ったすべてのことを。主は言われた。彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。」(63.7-8)「期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば、あなたの御前に山々は揺れ動く。」(64.2)
「わたしたちの輝き、わたしたちの聖所、先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ、わたしたちの慕うものは廃墟となった(霊鷲山[人類最大の墓場]、ヒロシマ=Houses!:太平洋戦争は、偽計を手段とする明治維新(下級武士による西洋の波を利用した革命=楊柳の辺[洋流の変])の愚行結果の一つである。本来純粋精神清浄の大和はかような無意味な戦争はしない。)」(64.10)「初めからの苦しみは忘れられる。わたしの目から隠されるからである。見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。見よ、その民を喜び楽しむものとして、創造する。」(65.16-18)「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」(66.2)(10:09am 2006/01/03 文化放送制作第8界箱根駅伝を聞きながら)

法華経がわかる時節
2006年01月02日 法華経がわかる時節
「幾千という多くの世界に於て、余は教えを説いた。しかも、いままた、余は仏の智慧のために教えを説く。すべての経典の中で、この経典は最高といわれる。・・・良家の息子たちよ、如来が汝らの面前にいるあいだに、汝らの中で誰が後の世にこの経典を伝えるのに耐えるかを語れ。・・・彼は至る所で仏たちから賞賛され、男らしい勇士として誉れ高く、また速やかに神通力を得て、「さとり」に到達するであろう。この経典を信奉する者は重荷を背負う者であり、仏たちの実子として平静な境界に到達した者である。仏が入滅した後に、この経典を世に宣揚する者は、神と人間の住むこの世において、その眼となった者である。」(岩波文庫『法華経(中)』p201)
1.余とは誰か。2.重荷を背負うとは、何を意味するのか。3.良家の息子とは何を意味するのか。4.如来が汝らの面前にいるあいだとはどいうことか。1.2.より、法華経は聖書とよく似ている。余は主と読める。2.より、迫害が予定されている。3.は、前世での修行と誓願を意味している。悟りは何世代もの修行を通してのことであり、時を要する。時とは、如来出現の時である。時が満ちるということは、人間の惡が満ちる時である。その時まで、聖書にもあるように、神は現れることはなかった。これが、4.の意味でもある。如来も末法になって、現れ、教えという手段で法を説く。洋の東西を問わず、預言されていたことである。そして、その原点が日本であった。秘宝として伝えられていた。法華経は、インド南部海洋民族より生まれた。かつて、ある頃、鹿児島あたりに、南からの民族が上陸した。それが、天孫光臨であったろうか。開聞岳の麓には、月の輪熊の石像が遺っている。ここより、東征があったか。大和の始まりであったであろう。故に、法華経が、代々、伝えられた。しかし、法華経の意味は、如来が現れる時を待つまで、だれにもわからなかった。諸佛の守護したまうところで、秘密のままであった。時が至って、今、その意味がわかる。法華経だけでなく、あらゆる記録・物語の意味がわかる。そうした時代を迎えた。それは、この二千年来の清算であるかのようである。ひとつの失敗としてのバベルの塔、その反省をして、新しい始まりを迎えている。
「この経典を讀誦する者だけが、余を見ることができよう。彼の受ける福徳はこのようである。彼の機転は障碍なく発揮され、彼は教えを説明する仕方を多く知っている。あたかも仏に加護されている故であるかのように、彼は幾千万億の人間を満足させる。」(岩波文庫『法華経(中)』p165)「この經説(法華経)はすべての世の中に受け入れられず、またすべての世の中から信ぜられていないのだ。それはまた如来の心の内にある教えの秘密で、如来の力によって完全に護持されていて、未だかつて暴かれたこともなく、未だかつて見られたこともなければ、未だかつて示されたこともない。・・・他の人々に説き聴かせようとする良家の息子たちや娘たちは、・・・信仰の力と善根の力と誓願の力とを持っているのである。」(同p153)「このような良家の息子や娘はこの上なく完全な「さとり」に到達した人と知るべきであり、また世間の人々を憐れんで、この經説を説き明かすために、前世における誓願の力によって、この閻浮提(地球)において人間のあいだに出現した、如来さながらの人であると知るべきである。また、良家の息子あるいは娘で、みずから得た高い功徳を捨て、輝かしい仏国土に生まれることも顧みず、この経典を説き明かすために、余が入滅したのちに、人々の幸福のために、人々を慈しみ憐れんで、この世に現れた人は、如来の使者であると知るべきである。」(同p145)そして、如来の願いは何であろうか。時の満ちる時を待って、むさぼりと怒りと愚かさの中から、自分では出ることのできない哀れな人間に、真実を教えることをする如来の願いとは、この原点としての教えを、世世代代、後世に末永く、伝えることである。すなわち、「当に大願を發(おこ)して、久しく住することを得せしむべし。」(同p194)人間が本当に救われる、あるいは、助かる教えとして。そして、一から始めなさい、って。やがて、この教えも種々に色を変えて伝えられていく。如来たちはその頃には姿を消しているであろう。そして、再び、人間の英知にその舵は委ねられる。次に、また、二千年後には、如来の時が来るだろう。如来とは、如来の神力を持っている。それは、宇宙の有無開閉を司る力である。しかし、その力を使うことなく、手段として、教えを説く。それは主に等しい。人間が本当の幸せを掴むことを願っている。そして、いつか、全ての人間が如来の力を獲る時が来ることを知っている。
「その時代には、善根が少なく、高慢で、利益と世間にもてはやされることを期待し、悪徳の根をはびこらせ、自制心がなく、信仰しようともせず、余りにも不信心な、心の悪い輩がいるでありましょう。・・・生まれつき不正直だからです。」(同p227-229)「またかれら自身の前世における修行と誓願とによって、世尊の前で獅子の咆えるような声をとどろかせた。・・・世尊は、たとえ他の世界にいられても、われわれをお守りくださるであろう。」(同p235)「如何なる邪悪な考えの持主がわれらを軽蔑しましょうと、そのとき『これらの者も仏になるんだ』と、われらは如何なる場合にも堪え忍びましょう。時勢の堕落という怖ろしく物凄い大恐怖の際に、ヤクシャの姿をした多くの僧たちが、われらを罵るでありましょう。・・・われらは、仏よ、身体も生命も惜しみませぬ。・・・後の世には、無知でありながら深く微妙な意義のある言葉を、如何なる邪悪な僧たちが語るか、世尊こそ知っていられましょう。・・・われらの意向をよく知りたまえ。」(同p239-241)「これらの人々は実に生まれつき理知の鈍い人々である。かれらは如来が巧妙な手段として語る意味の深淵で微妙な言葉を聴かず、知らず、さとらず、尋ねず、信ぜず、積極的な関心を示さない。しかも、これらの人々はこの經説を理解せず、さとらない、しかし、余がこの上なく完全な「さとり」をさとったとき、誰が何処にいようとも、余はその人を神通力によって入信させ、信仰させ、理解させ、この上なく完全な「さとり」を選択しうるように成熟させるであろう。」(同p269)「如来はまさに教えの支配者であり、教えの王者であって、みずからの腕の力と福徳の力で征服した三界において、教えによって正しい統治をする。凶悪な悪魔が彼の治める三界を襲う。そこで、如来の気高い戦士たちが悪魔と戦う。・・・これらの魔と戦いながら、非常な勇気を奮って、かれらが貪欲と憎しみと愚かさを滅し、三界の繋縛のすべてから脱出し、一切の悪魔を撃退するのを見て、そのとき如来は非常に満足して、これらの気高い戦士たちに、愚かなすべての世間からは歓迎されず、すべての世間の信じない、しかも未だ語られたことも説かれたこともないという、このような經説を説いた。」(同p271-273)「彼は教えを聴いて悦び、心に歓喜を生じて供養をする。彼は速やかに引き返すことのない智慧に到達して、夢の中で求法者が教化のために取得すべき記憶力を得る。仏は彼の志願するところを知り、彼が仏の位に達すると予言する。」(p281)「汚れない教えを世に弘めて、幾千万という多くの人間を元気づけたのち、油の切れた燈火のように彼は消える。彼の夢はこのようである。」(p283)[2006/1/2 12:55pm H-FMを聴きながら。先ほど浜田省吾の歌が流れた。高校の先輩である。演奏の中で、ムーディ・ブルースの『セブンス・ソジャーン』のフレーズが一瞬聞こえてきたように思われた。クラシックもそうなのだけれど、とてもジャズ的だと思った。嬉しかった。]

地天泰
2006年01月01日 謹賀新年
新しい年が明けた。今年は良い年になりますように。新しい時代として、良い方向へ進むことができますように。何も思うことがなければ、それで、必要に応じて事が進展し、お金も、必要な時に、必要なだけあれば良い、という考えが、普遍化して、皆が本当の幸せに気づき、その方への体験もして、自分自身を信じることができて、それ故に、勇気も出て、何があっても動じない大安心を持って、日々を平穏に、大切に生きてゆける、そのような時代として、始まることができますように。

さて、岩波文庫『法華経(中)』p123に「神・人間・アスラもともに住む世の中で」とある。神・人間・アスラ(阿修羅)は、どれも、人間の姿をしている。しかし、神・人間・アスラである。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・神(天)を以て六道という。地獄は岩石、餓鬼は植物、畜生は動物である。ここを進化しているとも言える。しかし、問題は、人間も、人間以下に墜ちるということだ。神も墜ちるということだ。これを、六道輪廻という。この巡りを左回りとする。これに対して、右回りの巡りがある。すなわち、人間、天、声聞、縁学、菩薩、仏である。この巡りに入ると、人間以下に墜ちることはない。そして、上求して、仏にも成れる。ボクシングにおける、4回線ボーイと6回線ボーイとの差に等しい。後者に至れば、世界選手権でも戦えるだけの資格である。さて、同じ人間の姿をしていながらも、阿修羅の人と、人間と、天とある。ここで、人間と、人と、仁がある。人間とは人とそれ以下との間の存在であると言われている。人間だからと言うとき、その人は、自らの動物性を前面に出している。阿修羅には、それ以下、すなわち、地獄・餓鬼・畜生を内包している。だから、戦争になれば人殺しもするし、食料はなくなって、餓鬼にもなる。餓鬼とは、我の食を鬼が食らう状態である。つまり、食べることができない。地獄とは岩石であるが、牢獄の中にあって自由のない状態である。植物は動くことができない。動物は、手が自由でない。ところで、人とは供養することができる存在である。供養とは相手を喜ばすことをすることである。供養の対象は、三つある。すなわち、生みの親と、育ての親と、教えの親である。生みの親は両親であり、育ての親とは食べたもの、教えの親とは仏である。親孝行と言うことで、親の供養をする人も、食べたものの供養はしていない。ましてや、仏の供養はしない。食べられたものは、恨みを持っている。これは、当然である。命を奪っているのだから。それで、食べたものの供養もして、その恨みの原因を除去する。仏は、親以上の親であると言える。親であるなら、子を守る。しかし、護念する者は護念されるという法則がある。仏の供養ができれば、守護がある。仏の供養とは、仏を褒め讃えることである。動物でもかわいがれば好いてくれる。仏を同列に扱うことはできないが、仏に刃向かう者まで守護しない。ただ、改心して仏の教えを素直に実行するなら、何時でも守護してくれる。これが、仏の慈悲である。仏の守護があれば、大難は中難になり、中難は小難となり、小難は無難となる。その間に、修行して、上昇していくのである。さて、この人間界であるが、下から生まれてきた者と、上より下生してきた者とある。互住である。上より下は見えるが、下より上は見えない。しかし、往々にして自分解釈してしまう。上を認めようとしない、わからないが故に、大間違いの身勝手をしている。ここで、パスカルよろしく、上に賭けることである。自分が上へ至れば、その下がわかるようになる。で、人間であるが、この人間である時に、修行によって、左回りから右回りへ移行できる。これを以て、到彼岸である。墜ちても人間から始めることができる。しかし、左回りのままだと、墜ちれば地獄まで堕ちる。そこで、日々のこととなる。

新しい年を迎えた。新しい時代が開けた。前進あるのみ。さらに、次の地平を開く。自分を生きること、それしかない。所詮、人生、何を目的とするか。安住だけはしたくない。低いレベルで。さて、子供の頃より、確かに、何か探していたようだった。それは、世俗のことではなかった。およそ、世俗のことは、過去にすませていたと思われる。そして、今生で私が探すべきものは何であったか。それが、はっきりしてきたのは、最近のことであった。それまでは、私も、世俗の中で生きようとしていた。しかし、何をしても、だめだった。これは、何か大きな力に、制限されていたとしか、今は、思えない。私には、何か別の目的が与えられていたようだ。私の感じることは、世間も皆感じているし、私の知っていることは、世間も知っていることと思っていた。しかし、そうではなかった。今思うと、世間は気づいていない。しかし、スウェーデンボルグは、「とはいえ、人間はみな神メシアによって一つの究極目的へと導かれるのだから、・・・」(角川文庫『霊界日記』p13)と言っている。そして、「善い天使は、太陽の照る木立ちのあいだとか、ここちよい緑草の高地といった、楽しい場所におり、また清澄な水の流れるところにもいる。しかし悪い靈は、よどんだ池や陰鬱な場所にいる」と言う。世間が汚れていることは常識だし、それが世間だということになっている。その中でしか生きられないということになっている。そして、汚れることが当然として、世間は生活している。果たして、そうだろうか。今汚れているだけではないのか。そのように思いながらも、それでも、世間で、もがいた。もがくが、所詮、よごれきることができなかった。多少はよごれたとしても。しかし、それでは、世間が赦さなかった。経済的には破綻した。それでも、世間に染まれなかった。そして、世間を恨みにも思った。しかし、それも通らねばならない道だった。そして、思った。蓮華は泥より咲くではないか、しかし、泥に染まってはいない、と。それで、世間を否定しようとした。しかし、それも間違いであることに気づいた。今生だけではどうしようもないものがあることに気づいたからだった。前世、そして、来世が視野に入ってきたからだった。そして、そこに、人間存在がどんなものであるかが見えてきた。本体は、別にある、それが、実体としての魂であった。そうしたことは、以前から読んで知識としては知っていた。しかし、そうしたことが、現実に、自然に対する作用としての力のあることに気づき、自然の祝福もあり、宇宙からの守護もあることに気づいた。気づくと、子供の頃から、ずっとそうだった。如来はそうした力を知りながら、その力を使うことなく、手段としての法=教えを説くことも知ることになった。以前は、同じ本を読んでも知り得なかったことだった。順序とはこうしたものかと思った。そして、あらゆる事象が、自分にとってサインであることにも気づいた。それは、善因善果、悪因悪果であり、仏の言う、種としての因と条件としての縁のみがあり、その他は空であるとする教えそのものであった。すべては、知らしめんがためである。何を知らしめんとするか。仏の真実である。仏の慈愛である。厳然としてある自然法則である。こうしたことは、すでに、あまたの教えで説かれていた。しかし、人間は今もかくも不幸である。それが何故だろうか。教えを知らず、知っても実行しないからである。仏が正しいとするのに、人間は自分解釈して、それとは違った方法で、事に処する。間違うのが当然である。それで思った。実行してみよう、と。しかし、この思ったのも、導かれていたとしか言えない。そして、世間的には失ってばかりだった。これも導きであった。教え通りであったのである。得たものは何であったか。仏の言うことは、すべて、真実であったという体験的確信であった。所詮人生は自分との戦いであり、自分の発見であり、因って、真実をつかんだ時の至福である。人は人である。真実があるとして、その宝探しである。もはや、世間一般を非難する気持ちは失せた。世間一般の中で溺れるつもりもない。陽は昇ったのである。BGMはマタチッチ、ブルックナー7番、スケルツォである。(2006/1/1 13:08)「人間は霊たちに、霊たちは天使たちにそれぞれ支配され、同じようにして、人間はメシアによって彼の許しを通して支配されている。しかもこの支配は、あらゆるものの中に、どんな最小のものの中にすらもゆき渡り、かくして人々は、どんな瞬間でも悪霊から守護されているのだ。」「他生の人々は、彼らが肉体の生命のあいだにおかれていた状態の中にはいない。なぜなら、他生では彼らは真意を隠せないし、また言うこととちがうことを行えないからだ。さらに彼らは、惡であるときに、その知性的な心から善い行動をすることで、善いふりをすることもできない。彼らの性質はそのとき、その意志の性質のあるがままに留まる。彼らの本性に刻み込まれなかった知性的なものは消滅しているから、誰もその人の意志の中にいる以上のどんなふりもできないし、その意志に応じて行為する。天使の外観を装うことのできる、たばかりに満ちた霊たちもいるが、この霊たちは最悪の連中である。そうした霊の本性にずるさが根付いていることは、依然明らかだ。」(同p15)今生の人生で、自分の性格が試されているし、そして、自分の性格を矯め直すこともできるチャンスにある。あの世へ逝けば、性格だけである。それが、魂であり、さらに、天使ともなる。惡の性格のままだと悪魔となる。そして、悪魔は悪魔で人間を支配する。悪魔となれば、もはや偽善もできない、悪魔そのものでしかない。それは、また、意志である。人間は、悪魔と天使との属性を常に、同時に持っていて、いつも二者択一である。その瞬間瞬間に、魂が、その性格を改造されていく。急ぐことは必要ではないが、やがて、旅たつ時までには、良い方への改造を済ませておきたいものだ。これが、生まれた意味である。だから、人生では何をしても良い。いわゆる善悪を超えている。目的は一つしかない。ここを、仏は、「清浄とならしめんが為に」と説いている。その方法も説いておられる。悪魔も成仏したいと思っている。それで、仏に願い出た。仏は許した。それで、悪魔も仏子だけは護る。宇宙間での約束事である。(14:56 2006/1/1 NHK-FM 「日曜喫茶室」を聞きながら:ほのぼのと生きて、ほのぼのと笑えるだけの余裕のあって、熟年の離婚なんて吹き飛ばすと良いですね、所詮、夫婦となったのも、一つの目的を成就するためであってのことですから。)今、最悪の連中の天下となってしまっている。これは、真実を知る人が、傍観していたからかも知れない。知性を活かして、教育的に、個別具体的に、最悪の連中と戦う必要があるようですね。つまり、悪魔と。それは、そのまま、自己内の悪魔との戦いでもある。知性と良識のある方々が合して悪魔と戦う姿、それが複数としての菩薩道ですね。唯、傍観しているだけの時代は終わりましたね。実践的に勇気を出せる時代の到来ですね。そして、今、その必勝が新しく予言されたのです。それは、悪魔との戦いの構図、及び、魂の実体、そして、人生の意味がわかったからです。わかれば、実行できる。何事も証明されれば、あとは、理論及び定理として使えばいい。証明は為されたのです。自分の環境は自分で造ると言ったのは吉田健一でした。知性を活かして、私たちの住める世界を造る力が、人間の創造力です。今、その時を迎えているのです。立ち上がるしかないですね。それは、日々の実践の中で、個々に、そのチャンスを逃さないことから始めましょう。良い時代です。国民参加のスタイルです。悪魔も救われたいと思っています。社会を善導して救うことで、悪魔も救われます。これが、「知性の時代」の意味であると思われます。良識と知性が具体的に働く時代です。たとえば、目には目を(タリオ)は既に克服されている。暴力には暴力ではない。しかし、暴力は怖い。それで、傍観していた。暴力は撃退しなければならない。どうするか。暴力に対する恐怖を払拭する。どうするか。暴力の実態を知る。知れば、知性と良識は手段を考えることができる。実行する。必ず撃退できる。ところで、暴力の実体は、その究極は、悪魔の仕業である。根本解決は宗教へ引導するしかない。しかし、その前に、市民社会として、できることがある。その過程で、良識と知性も強くなれる。国民としての戦い。急ぐ必要はない。無理をする必要もない。そのために、合力を作る。物理的な法則で必ず勝てる。今までは、インテリゲンチャは弱かった。それも、意味があった。最悪の連中が十分はびこるまで、つまり、時が満ちるまでのことだった。知性たちよ、勇気あれ!知性が立ち上がるための準備はできた。理論も解明された。世界は知性ある人間のためにある。真の平和と愛のためにある。そのための、これからの戦いは、こうした知的レベルでの戦いとなった。ディメンジョンの質的転換があった。これが、21世紀の意味であったように思われる。これを以て、主は来たりて号令す全軍出動黄泉も動く、とする。(15:26)万軍の主も味方についている。閻浮提の良薬も取って来ている。如来の神力も既に獲得済みである。最強の武器は全て既にこちらにある。知性たちよ、一切、怖れること無し。この度の戦いの恩賞は悟りである。新しい時代の始まりである。常に歴史は戦いの歴史である。それぞれ自己との最終決戦の時である。この戦いの勝利は決定されている。この勝利を獲た時、世界は真の平和と愛を実現する。これは、1192、1588以来の戦いである。すべて良し!こころの地平は開かれた。

2005年12月31日 地天泰
易経で、卦を一年十二ヶ月に配すれば、旧暦の正月の卦は『地天泰』ですね。今、西暦で動いていて、正月を迎えようとしています。何もかも新たに始めることが出来る良いオポチュニティ(好機)です。そして、ノストラダムス、フォトンベルト、日月神示とかで騒がれた21世紀も始まっているし、天体の運行も、開闢以来の稀有な時代です。旧約聖書の中には、400年周期説も秘められていたように思われます。そして、法華経の真実が、『妙法華経』として、すでに明らかにされています。キリストの生誕は、正確には何時だったか、4年くらいずれがあったかも知れません。本当の21世紀の始まりは、2005年だったのかも。そして、2005年も終わろうとしています。この年は、如来の入滅した意味も明らかにされたのかも知れません。いよいよ、21世紀、新しい千年の始まりです。千年王国の青写真は、地球ヘブンの発見と、その文化の建設なのかも知れません。そのためのインフラとして、ITもGPSも、すでに、その実験段階をすぎて、実用段階に入っています。神の新しい見えざる手というべきでしょうか。人類も進化して、本当の幸福実現の時代でしょうか。さて、新年を迎えようとしています。文理真正の文字は、見えない世界にも届くと言われています。妙法華経讀誦の音に乗せられて。届くには、2日かかると言われています。さて、卦は地天泰。地にエネルギーが充実し、今から、芽を出そうとしています。何もかもが、新しく、始まろうとしています。それは、一年単位のことではないですね。400年単位でもあるし、千年単位でもあります。あるいは、二千年来のことかも知れません。また、久遠実成の時でもあると言われています。時が満ちたとも言われています。この新しい時を迎えて、それぞれに、未来を描いて、出発ですね。神の実体も明らかとなって参りました。良い一年となりますように。仏の守護も明らかとなりました。その方法も。良い時代の夜明けです。

宿命の冬を越すらむ春ぞ来る重きを知りて也恨み消ゆ
しかれども世間のにごりをとりてけむ我の色にぞ染めてけむ
かくまではゆるされざるを知る頃と世間身勝手もはやゆるさず
環境の中で埋没見えぬ故そのまま餌食それでもつくす女
万軍の主は来たりて号令す全軍出動黄泉は動けり
日本には古来さきそう花のあるやまとのこころ今も咲きたり

万感を廃して後にのぞむればとこしえの春今を染めぬく
如来をも越えたる空のあり、すくっと立てる大酉居ます、
今はばたかむとす
にしのくに士はいたりて一のとりさなぎ越えてや春をむかえむ
宿年の身をも捨てけむ五十年過去より夢に見し神仏との逢ひ
今までの教えはすべて百雑砕、百花百裂今より始むる
知らねども真実山々こえきたる花咲く時ぞ代々の果実
呉灯火消えずにいたる月のごと今も輝く波のまにまに

みはるかす目覚めて見れば辱惡の毒花乱る世間は火宅
自由得て結果乱れて世間ある地獄もえ見えず彷徨うばかり
彷徨いてそれをも思う人ありてあはれ知らずに今日も惡積む
彷徨いて彷徨いゐるを人生と思うこころの何処にゆかむ
何をもて人生ぞよと思うらむ間違いだらけ人の世の中

あまりにも乱れ乱れて乱れたる誰かこの世を直し治めむ
時満てる言うはやすきもあまりにも乱れを知らぬ世間世の中
何故にここまで世間腐りしか本来日本敗戦かなしも
古来より伝え来たるをわすれたる面々天下本末転倒
神仏を見たことなき人々のあはれかなしも人の世の中
しかれども日本は日本むかしより神こそすめる國にてあらめ
この世をば忘れえざるはやまとなる時節因縁時満ち来たる

知らずとも時は満ちたる時ぞ来る天は喜び力しめさむ
末法の時は来にけり如来くる教えはかくも確かなりけり
人々の我見はもはや通らぬをそろそろ覚悟するべき時なるかも
あまりにもバベルの塔の横暴に神は赦さじ時ぞ来にけり
昔より一切英知の伝え来しその意味すでに明きらかなりけり
この世をば人の世とぞ思う無し神は秘かに自然に示す
神仏の存在証明され居るを今時迎えて一つ道ある

人生の目的ゑ知らず人生を人生と思う人の世の中
天国は無いと思ってごらん、レノンのイマジン限界示す
いつわりを智慧とする人々のあまりに多き今の世の中
弱き者食い物にして男だとそれを見抜けず女はつくす
強き者その理は既に終わりたり無価値論理横暴なるは
弱きものその価値弱きにあらず真実は純粋精神ここにあり
真実は確かにあるらむ神仏の、加護こそあらめ、信より入りてむ

人の世は真実知らずに生きてけむ畏れ知らねばその罰あらむ
神仏の加護無くして生けてけむ?神仏ありて生きてけむ!
真実にあまりにくらき人々の歴史はかくも悲惨きわまる
正直はこころのことと思わるるされど真実あらわるるなし
正直は神の前にぞあらわるる、はからい捨ててあらわるる、
こころにあらず

さて、今年のNHK紅白歌合戦、始めより盛り上がりがなかった。そして、ヒロシマがテーマとなった。はき違えている。ある意味で、ヒロシマを冒涜している。紅白歌合戦は年忘れ、テーマが違う。採点するに、どうするか。ソースと醤油、或いはサトウと塩の使い方も知らない調理人に等しい。どんな味だ。これは、自信をなくした結果である。何故、なくしたか。組織に安住していたからである。ウサギとカメ、気づいた時には遅い。努力をせずにいた果実、そう簡単には復活しない。かくも大きく怠惰であったのか。サラリーマン頭脳の限界である。身分以上、努力以上に所得を保障されてきた方々の現実である。近代資本主義の腐敗であり、限界であり、終演であるとも言える。公務員の堕落は推して知るべしだろう。彼らの正当性は、一枚の公務員試験を通過しただけである。代々の蓄積としての資質に欠けている方々が、身の程を越えた所得と身分と生活の安定を得て堕落した。魂の法則を無視した結果である。荒野に生きることは出来ない方々の思い上がりの結果である。

さて、新しい時代が始まったね。新陳代謝。法則通り、怠惰な者たちは、淘汰される。努力を無視して、要領(たとえば裏口、カンニング)で閥を為していた愚か者たちの時代が終わった。それを以て他者を餌食にしていた者たちは、一切、生き残れない。新しい時代に於て、一度や二度の成功で地位に安住し、その後怠惰でいた者たちは、今、競争力がないのである。いよいよ、個人主義、実力主義である。今までのやり方で、実力もないのに、護送船団方式に、グループに所属しているだけで、優位を得た者たちは、もはや戦闘力を失っている。だから、今まで、スポットライトの当たらないところで、堪えてきた方々の時代である。自信を持って良い。今まで努力し、力を蓄積していても、制度上、浮上できなかった方々が、フィールドを得たのだ。神々は、そのフィールドにいたからだ。そして、時を待っていた。ここに、無理をすることはない。自分の今のあるがままの力で十分に勝負できる。今、安住している者たちとは、大きく、既に水が開いている。勝てる。世の中の諸現象が、自然現象も含めて、その傾向を証明している。だから、自信を持てばいい。あるがままの自分の今の力で良い。ある意味で、勇気も要らない。そのまま、平静な気持ちで、手を挙げるがいい。また、それでも、堕落した自分を正当化し、それを人生というなら、そのまま、進めばいい。この意味で、神仏は人間に対して平等であったのである。苦は楽の種?苦からは苦しか生まれない、楽から楽が生まれる。善因善果、悪因悪果である。そして、大切なのは、獅子は一匹のウサギを狩るにも全力を尽くす。何事にも手を抜く事なかれ。すでに、安住することなく、力を獲ている獅子たちよ、君たちの時代である。夢は青年の特権である。青年は荒野に住んでいるものたちである。青年はかぎりなく荒野を目指す、と言われていた時代の夢が、今、まさに、実現しようとしている。このチャンスの到来をどう見るか。それぞれの資質によって、その見方は違う。これをチャンスと見ることができるかどうか。今までの人生によって、自ずから、視点が決まる。目覚めること、それが悟りである。悟りを獲ることが、人生の究極の目的であり、使命である。幸あれ。(22:12 2005/12/31 NHK-FM 村田英男『皆の衆』、三波春夫『俵星玄蕃』、三橋美智也『古城』を聞きながら)戦前、我が家には、なげしには、螺鈿の槍と長刀がかけられていた。今はない。しかし、見えないところに、確かに、かけられている。時は流れて、そういう時代となったのである。こころの時代と言われる所以である。そして、このことは、人知れず、ある存在によって、幾多の試練を通って為されている。こころの時代は、こうして、築かれた(一番槍)。時代はこうして、見えないところで、地平が開かれる。そして、見える世界が、形成される。それでよいのである。これが、歴史の真実であり、今までもそうであったし、これからもそうである。真実とはこうしたものである。自得体得自証であるが、十分に自然と宇宙が知っている。世間の与り知らぬ事、知る由もない。だからこそ、謙虚であらねばならない。敬虔であらねばならない。自然は堕落腐敗を嫌う。思い上がっては身のためにならぬ。

地上ヘブン=世界論(引用:GSワンダーランドより)
ヘブンというとどういうイメージだろうね。先ず、無神論というと相手にして貰えない。何故か。ヘブンは宗教を超えている。宗教は筏に過ぎない。だから、この筏に目を呉れないならヘブンは相手にしない。ヘブンを妄想していないか。ヘブンは実在する。ヘブンはむしろ知性である。インテリジェンスである。宗教を超えて現実に実在する世界である。すでにそこへ至っている方々もいる。しかし、偶然のように思われていないだろうか。偶然ではない。必然である。清浄となって至る。清浄は宗教を通して成就する。既に至った方々は必ずそうしているのではないだろうか。しかし、今までその理論はなかった。今、時が至ってそれが理論的にわかった。努力は何故必要か。努力することで、人格が向上する。それは魂の向上でもある。今生で至ることができる方もいる。要件は努力と宗教である。宗教で渡る。しかしそこは出発点に過ぎない。ヘブンでの出発点である。ヘブンに入る条件は、ヘブンの世界の住人に認められることである。ヘブンは実在する。すでにそこの住人もいる。ヘブンに至る道がある。生命のゴールである。今生で至れなくても良い。来世がそのためにある。この事を知って努力する。この事を無視すると地獄のままである。これが本来の生命としてのあるべき人生の目的だった。或る意味で秘密であったことが、庶民レベルで明らかとなったと言える。時代はリセットされた。新たなラインが引かれた。これが21世紀の約束だったのかな。さぁ、地上のヘブンを目指して頑張ろう。無理はしなくて良い。自分のペースで十分だ。その為に未来もある。後世もある。今の自分の位置から始める。マイペース。マイウェイ。何時か到達できる。全員が到達する頃が我々の宇宙の終わりかな。焦らなくても良い理由。現世で至ることができれば至福。良かったですね。安心して人生行路を進めます。ヘブンはかぎりなくやさしい世界。でも、攻めてくる者に対しては容赦ない。当然ですね。幸せの王国ですから。(2005/10/08 2:47)ところで、やはり大切なのは、経験と体験。これを通してのみ自分のチカラとなる。嘘はダメ。法律は守る。人格の表現だから。ルール。掟。社会。社会の中でしか生きられない。孤立は孤独。淋しい。幸せはある。自分でそれを手にする方法はある。21世紀幸福論。がんばりましょうね。若さは年齢ではない。若さとはいつも夢があること。幸せへの夢がね。That’s happiness!美しく生きること。美しくあること。人生の目的。ここへ至ってヘブン。地上の幸せ。隻手の音声(おんじょう)。せかいはやさしくてあたたかい。みんなの成功を見守っている。世界に迎えていただきたいものですね。一度この道を知れば、もう迷うことはない。だって、いつも自然が祝福してくれてるのだから。それが世界。大安心の幸せ世界が諸手を挙げてこちらへ来なさいって声が聞こえるかな。この道はやく見つけてくださいね。Good Luck!得天に帆を上げて大航海です。何時の世も。流した涙だけ幸せに近づける。何時か涙も枯れる。でも、亦新しい涙。哀しい涙ではない。感動の涙です。でも、この涙は人には見せられない。だってカッコ悪いから。だから、サングラスをしている人もいる。トライアムフ。ヴィクトリアス!サインはV!世界に合流。JapanShip!親孝行しましょうね。良い子していましょうね。言葉にならないこの世界。でもこれが真実の世界。いつかきっと至る。自分で見つけたものしか自分のもにならないですね。ありがとうございます。ここまで待ってくださって。何とかここまで辿り着きました。思えば辛いこともありました。しかし、今は感動を以て満足させていただいています。生きていて良かったなって。これで良かったんだなって。ありがたいばかりです。こんなに幸せ者はいなかったと。社会的あまのじゃくで良かったかな。そのように思えてくる今です。多少のしっぱいもありましたが、これもこれでよかったと。とりあえずは。まちがわないこと。間違いのモトは妄想。人とは。身とは殺盗淫。こころとは不善を念ずる[仏説]。みだれてはいけない。みだしてはいけない。門(モン)。門の中に何があるか。日でも良い。月でも良い。諾。関!ここからどちらへ進むのか。自分次第。甘受。反省。出発。ドコへ?目的は?意思は?成就。幸せ世界。地上のヘブン=世界。世界は待っている。This is the World.どうにかなるさではどうにもならない。目的的行為論。屋上屋重ねていては家がつぶれる。We’ re happy.Are you?お金はなくても。若者達は幸せの可能性に気づいている。彼らに道しるべを。あるべき本来の道標を。悪の華は咲かせないように。道元曰く。花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。と。ベートーベン第九番、歓喜の歌。オシドリ夫婦。急峻な山?穏やかな海!嵐の海?老体山!理念としてのやさしさ。ピアニッシモはただ弱いのではない。強さを保ちながら制御された微音。良い意味での緊張感。フォルテは自由。自由であって法を超えない。濁流の中で清廉を保つ勇気。蓮華の前に化生できる理由。成功の秘訣。感じていては遠い。知って始めて自信を持って歩み始めることができる。Go!Start!点検?その時々の傾向、微分!結果、成果は積分!積分されたものは何か?幸せか?21世紀自由個人主義の原則は自己責任。人生の喜び、目的は「くらし」。その為の制度、経済行為。周りが幸せであれば、その中の自分も幸せである。脅迫、詐欺の現在世の中。未来は近い。

さて、今、紅白で、ユーミンが歌ってる(23:01 2005/12/31)。「もう一度あなたの笑顔を見たい、・・・最後(SAIGO)と」。あかるい紫イメージの和服。髪型もお正月。さすがですね、上海からの中継。そして、ドリカムの「10001回目かも知れない」というのもとても良かった。五木ひろし、渡辺美里、とても良い歌です。ただ、気がかりなのは、盛り上がらない。何故だろう。アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」は同時代だった。もうすぐ、除夜の鐘が鳴る。呉の港では、建造中のタンカーや停泊中の汽船が、一斉に汽笛を鳴らす。多くの護衛官・潜水艦も停泊している。今夜はイルミネーションしているだろうか。新しい時代を迎えようとしている。


本末転倒について 『安楽行品』 2005/12/30
世の中は、本末転倒している。この本末転倒を以て当然とする。所詮、それが、世の中である。そして、こうした世の中にあって、どのように、自身を処するか。法華経第十四品『安楽行品』には、「この世に存在する一切のものが正しく置かれ逆に置かれず、あるがままに置かれて動かされず、震わされず、ひっくり返されず、転がされないのを見て、それらは『空』であると見るのである」とある(岩波文庫『法華経(中)』p249)。さらに、「すなわち、それらのものはあるがままに置かれていても、その本質は虚空のごときものであり、説明することも言葉によって表現することもできず、生まれたものでもなければ存在したものでもなく、移り変わるものでもなければ移り変わらないものでもなく、存在するものでもなければ存在しないものでもなく、言葉に表現しえないとはいえ、障碍のない場所にあって、知覚の誤りによって生じたものと見るのである」とある。つまり、あれこれ考えるから迷う、煩わされる。所詮人間の考えることである、間違いを含んでいる。ここにおいて、謙虚さである。一切は障碍のないところに置かれているというのが、真理であり、空であり、宇宙的である。それに対して人間解釈しているのであるから、波風が起こる。あるところで菩薩が言った、「空とは全て仏さんのものだということだ」と聞いている、と。本来人間のものなどありはしない。本末転倒を以て、ありのままである。知覚妄覚している人間世界の現実として当然の姿である。(22:50 2005/12/29 H-FM 『ナイス橋本』くんを聞きながら http://www.tfm.co.jp/lock テーマは、ビンボー、バイト、音楽)そして、みな、幸福を求めて、個々の生活をしているのだが、あるいはお金かと思い、あるいは自由かと思い、あるいは仕事かと思い、あるいは家庭かと思う。しかし、究極の幸せが獲られたことはなかった。方法を間違っていた。目的を間違っていた。そして、時が至って、その真実を知る。時が至るとは、人間の愚かさが満ちるときであった。それは、人間解釈が横暴を極め、真理から乖離し、それを以て人間であり、大人であり、人生であるとする。その時、過去の幸せだった頃に、針が戻る。原点、円満。実が成って種となる。いよいよ、新しい時代の種蒔きの時ですね。良い種を蒔きましょうね。そして、如来が現れるのはこうした時であった。人田を耕すために。時代の約束であった。あらゆる記録にそれが秘められていた。そして、今、それが証明されつつある。で、「求法者で如来が入滅した後に、正しい教えの衰微する最後の五百年の間に、この経説を世に弘めようと欲する者は、安楽な生活を送るのである(同上p257)」。つまり、幸福は何によって獲られるかというと、お金ではなかった。教えだった。教えをよく学び、わかり、実践し、それを、人に教えていくことで、安楽な生活ができる。安楽であれば、他人を悪くいうこともなく、そしることもないので、よい人間関係の中で、幸せな日々である。これを以て、「周りが幸せであれば、自分も幸せであり」、英知に乾杯!とする。自分が、自分が、ではない。「我の力にあらず」、である。このことを、「疑いなけん」と大肯定して、実践するとき、世の中は、みな、幸福となる。不幸なのは、心の運転方法を間違っていただけだった。一切、惑うことなく、煩わされることが無ければ、何事も幸せ。しかし、この自信をどう獲得するか。ここに、実行としての行が要る。これが、日々のことであり、日常であり、これを、禅語で、「平常心是道」と言う。亦、「道という、言葉に迷う事なかれ、朝夕、おのが為す業と知れ(至道無難禅師)」と言う。そして、入り口は、日々の仕事の中に無限にあり、門は見えないから無門と言える。しかし、どこから入っても目指すべき頂は一つであり、そこを究めれば、最高の乗物を手に入れることができる、すなわち、「わけ登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月を眺むる」と、自由自在を獲て、「乾坤をそのまま庭に見るときは我は天地の外にこそ住め」となり、大道を闊歩することができて、何事にも動じない、大自信を獲る。但し、この自信を究極に獲るためには、神仏の加護を自得体験することを要する。そこへ至るまでの、長い魂の遍歴の途中である、人間レベル。因って、今、どう生きるべきか。ゴールが見えた。五欲を断ずることはない。そして、どう生きるべきなのか。時代の約束として、問われている。(23:35 2005/12/29 NHK-FMを聞きながら)安楽行品で言っているのは、如来の入滅の後の、さとりへ至る道である。それを夢の形で説いている。要は、滅も夢も見えない世界でのことである。煩悩が焼き尽くされて、煩わされ、悩むことが無くなって、さとりへ至る。さとりへ至ると、如来のこころがわかる。仏は見えない教えを説き、見える世界はすべて多宝仏に帰属している。自然現象とか事とかは、見える世界でのこと。仏の説く教えが正しいことを多宝仏が証明する。つまり、自然現象と事が多宝仏の証明である。仏は目に見える実在でありさとりを開いた存在であり、目に見えない教えを説く。多宝仏は、目に見えない世界での存在であり、目に見える自然現象と事でその存在と仏の見えない説の正しさを証明する。夢に描いたことは、それが真実であり、本当に求めていけば実現する。因って、誰もが、この方法で、さとりを開くことができる。魂は見えない世界の住人であり、魂の求めていることを知り、それを、心から希求すれば実現する。魂の求めているものは何か、魔も成仏したいと思っている。人間として、安楽を獲るための究極の教えは、さとりを開くこと。さとりを開けば、目に見えない神々も教えを聞くために追いかける。仏は守護する。何があっても動じない自信はこのようにして獲られる。自信があるところ、勇気がある。何だって実現する。我の力ではない。仏と如来とが、つまり、見える世界と見えない世界が、祝福する。見えない世界の応援があって、見える世界が実現する。魂の真実に気づくことで、見えない世界からのご褒美がある。魂の真実に気づくとは、清浄なる魂を知ることである。そのために、貪欲な自分と、恨みを持っている自分と、真理に対して愚かな自分と戦う。それらに勝利したときに、すべてがわかる。成就する。かつては狩猟漁労だった。今、最後の獲物は、自分自身の中にある。さとりは自分との戦いに於て勝ち取らねばならない最後の獲物である。それは魔との熾烈な戦闘である。これに勝って真の勇者である。グズグズ安住していては獲られない。そうして、さとりを開く。開いたら、神仏の祝福を自得体験する。それが、全ての人にできることとして、教えとして弘める。世の中、当然、幸福となる。誰もがさとりを開けば、みな、安楽として生きていける。お金はなくとも、乞食でも。勿論、乞食もたとえであって、現実にはしなくてもいいのだけれど。いずれにしても、何もかも失って、はじめて魂と対峙する。そこからが始まり。目的は、隻手の音を聞くためである。この戦いは厳しい。相手が見えないから。しかし、勝利は決まっている。相手が見えればね。それまでの戦いが厳しい。やがて、楽な戦いとなる。もう、迷うことはない。仏法は勝つ。王法は儲ける。儲けるとは、仏の教えを信じる者を自分の周りに集めることである。目に見えない仏法が目に見える王法と結婚である。冥するのである。合するのである。そして、何が生まれるか。さとりである。仏も末法までは語ることの無かったという、最高で最後の教えである。法華経の言いたかったのは是である。誰もがさとりへ至る唯一の道であり、唯一の乗物である。それは法則である。無理をすればどうなるか。無理をしなくてどのようにして幸福となるか。科学法則を何のために使うのか。安楽のために使う。安楽行品である。清浄な方へ心を決めることである。時が満ちた今、こうした真実の中の真実の教えが、『妙法華経』である。「『仏の智慧を得るために、勝れた勇気を沸き上がらせよ。このようなさとりの境地は、いまだ何処にもないのだ。』だが、仏の智慧に到達し、仏の本領である十種(仏の種)の力(神仏からの守護)を得たときに、汝らは三十二の吉相ある(だれからも好かれる)姿の仏となり、さとりの境地(神仏から祝福され守護された状態)に至るであろう。仏たちの教示はこのようであり、汝らを安心させるためにさとりの境地を語ったのだ。汝らが疲労から回復していても(日本が戦後、平和の中に復興していても)、未ださとりの境地に達していないことを知り(本来の幸福に至っていないことを知り)、仏たちは汝らすべてを一切を知る仏の智慧(本当の幸福を獲る智慧)に導く。」(岩波文庫『法華経(中)』p91[化城諭品])如来の入滅とは遷化ではない、如来がさとりへ至ったということである。人類及時代はここまで、やっと、辿り着いた。ギャーティ、ギャーティ・・・。(11:32am 2005/12/30 RCC 谷村新司『昴』を聞きながら)


2005年12月29日
強き者と弱き者
強いということは、能力があること。弱いということは、能力がないこと。ここで、庶民の中には、暴力と騙すことで奪うことを以て強いと思っている輩が、今もいる。前世を知らないにもほどがある。魂は進化していく。暴力と騙すことで奪うことの段階は、すでに、過去に於て、通過している存在が、今の能力を獲て生まれてきている。言語道断。本気になれば、今能力有る者は、どのような手段でも用いて、単なる暴力を撃退する。見えない力さえ味方にする。ところで、能力有る強い者も、その能力を発揮するには、鍛錬を要する。不純物があるからである。これが、父母より受け継いだDNAである。いいものだけを精錬するのが、試練。そして、この人生で獲得した能力を持って来世へ旅立つ。因って、中途で亡くなると無念ということになる。さて、究極の能力とは何か。知性である。此処で大切なのは、公田連太郎氏が『易經講話』で言っていた、強い者は能力があるからいい、弱い者は能力がないからいい、と。それぞれの器と使命がある。問題は、その能力と現実とのギャップである。これが、不幸の度合いとなる。しかし、機会は平等である。それぞれの努力の度合いがある。この観点から、人間存在を見ると、いわゆる、いじめとか差別とかは赦されない。それぞれに与えられた人生を邪魔する者は誰だ。やさしさとは、一切の存在に対する思いやりである。能力が低いことを何故否定するのか。自分たちの、過去、通った道ではないか。岩石も周波数を発している、生きていると言える。やさしい目で、その存在を認めていこう。そして、自分は自分で自分の人生を歩めばよい。欲得経済行為、動物行為だけでは、来世がどうなるか。人間に人生があるように、国家にも、岩石にも、人生といったものがある。命。この命を全うする、或いは、燃え切る。道元の言う「灰となる」。この観点を獲れば、慈しみを以て、万物を観ることができる。それぞれの存在が、生まれてきた意味を達成する、それが、人生。その目的遂行のために頑張っている存在を邪魔する者は赦されない。さて、強き能力ある者は、宗教を超えている。それを当然のこととして通過している。因って、信頼できる。弱き者は、宗教へさえ至っていない。だから、何をするかわからない。(21:28 2005/12/29 NHK-FM タンホイザー[中世に於て官能の愛の先駆、しかし、生命としての犠牲を以てあがなわれる愛(罪)の運命]を聞きながら)
天火同人
公田連太郎著『易經講話二』p95-97
「城から遠く離れたる地に居り、同志の人が極めて少ないのである。自分の志は未だ成就しないのである。・・・天下の志を通じ、天下の人人と協同一致したいといふ志望を持って居るのであるけれども、其志は未だ遂げ得られないのである。閑散の地に居るけれども、天下を忘れてはゐないのである。要するに、・・・門外に出て私心を捨てて人と協同するのであって、位は低く、力は乏しく、まだ廣く大きく人と協同することは出来ないけれども、これは正しい・・・咎められるべき過失は無いのである。自分の正しく應じて居る・に、只管、心を傾けて居るのであり、勿論、惡いといふわけでは無いけれども、何分にも陰・のことであって、規模の小さい缺點があることを免れない。・・・自分の正しく應じてゐない者即ち自分の眞實の仲間で無い者と一しょにならうとして、むやみに進んでそれを得ようと思ひ、いろいろな策略を運らすのであって、禍に罹るべき・である。自分の正しく應じてゐない者、即ち自分の仲間でない者と協同しようとするのであって、形勢を観望してゐたが、後にそれが正しい道に叶はぬことを悟って、自ら反省して引っ返して正しい道に復るのである。・・・剛健中正の德を持って居る理想的の・であり、下に在って従順中正の德を持って居る賢人を引き挙げて、自分の協同者としようとするのに、始めにはそれを妨礙する者があって、一方ならず苦心憂慮するのであるが、後には妨礙する者を払い除いて、下にある賢人を挙げ用ひて、之と協同一致することが出来るようになり、そこで天下の協同一致の道も成就するやうになるのである。・・・天下の協同といふことは、結構な事であるが、然しなかなか容易に出来ることでは無く、必ずそれを妨礙する者が若干有るべきであり、それを適當に處置して、始めて天下の協同が成就するのである。・・・閑散の地に引っ込んで居る隠君子であり、僅かばかりの人と志を同じくして天命を楽しんで居るのである。必ずしも世の中の人と志を同じくすることを求めず、天の道と一致することを求め、必ずしも當時に於て同志の人を求めず、萬世の後に同志の人を求めるのである。」

NHK-AM 3:28am 2005/12/29 山崎ハコさんが、ライブで、『月の砂漠』を歌ってる。五木寛之氏も同席。さて、月とは、黄泉の世界、かつて、破れた魂は宿王華、彷徨ってる。それは、明治の時には、破れし家々の魂でもあるか。彷徨ってはいるが、いつか、胡蝶の夢となり、夢なら覚める代々の旅、かつての栄華はもはや過去なりて、過去であるなら、過ぎ去りし事、今更追うこともなし、やがて、魂、上昇すべきもの、美しき心を探しつつ彷徨う、だが、帰り来る時節もある。
2005年12月28日
人は時として
「人は時として、不幸に遭遇すると、どうしてこのような目に遭うのかといろいろ悩む。しかし、他人を恨んだり、疑えば疑うほど、結局は自分が苦しむ。「疑いあることなけん」と、「嫉、恚、慢、諂誑、邪偽の心を捨てて、常に質直の行を修すべし」を長い時間かけて、身と心で悟らせて頂いた時、初めて、幸せの道が開かれ、ほんとうに楽な境界へと変わることができる。

因縁を解決するには、自分の悪業の罪を懺悔し、仏様の教えを人に伝えていくという、功徳力がどうしても必要である。そして、如来の神力と言われる薬、つまり、ご法妙を自らが贈っていき、人の苦も抜いていかねばならない。

この教えをまだ知らない人に伝えていき、そして、その人のお世話もさせて頂き、その人が幸せになっていけば、それだけ德を積んだことになる。

無量義経十功徳品という、十の功徳がしたためられている御経の中に、真の仏子たるものは、一切大衆の苦しみを抜いて、災難等の厄を取り、その人を仏道へ引導して、救っていきなさい、としたためられている。

この教えは、自分だけがしたり、すがったりする教えではなく、仏様の大慈悲によって、祈願をさせて頂き、自分の足りないところを守護して頂き、難を逃れている間に、自分の悪業の罪を謝り、人にもこの事を勧め、共に、仏道を歩んでいく教えである。」(平等大慧会会報NO.216)

2005/12/28

真実の仏法
さて、如来とは、見える世界と見えない世界とあって、見えない世界から来るものと言える。見える世界のことを、仏法では、法と言う。実相とは、見える世界と見えない世界の両方を言う。諸法実相とは、見える世界は、見える世界と見えない世界の両方から成り立っていることを言う。ここを、鈴木大拙氏は、即非の論理と言ったのであろう。アウフヘーベンというのは、ヘーゲルの論理である。正・反→合。止揚である。善・悪の世界(此岸)→彼岸と言えるのかも知れない。論理とは、A=B、B=C→A=Cであり、A=Cを直接言えないときに、それを言うための、證明という手段で用いる。此岸と彼岸という、断絶があり、それは、超えることのできない、断崖絶壁であるが、それを渡るための、懸崖から懸崖にかかる、丸木の一本橋である。しかし、是を以て、渡ることができる。渡るには、勇気が必要である。だれも、怖じけて渡れない。また、仏法は、彼岸へ渡る筏であるとも言われる。筏であれば、渡り終えるとその目的は達する。後に続くもののために、遺しておくべきものである。仏とは、これを渡り終えた存在である。そして、彼岸に至り、確かに、そこに如来があり、いわば、桃源郷、或いは、究極の幸せを知り、それが、宇宙の意思であり、また、自然には、意思があるかのごとく、それは、ある時は、嵐ともなるが、天災・地災・人災は、災害として同列であり、また、連動していることを知り、人災の故に、やがて、サンクションとしての諸災もあることを知り、さらに、人間とは、心と身体と有るが、本体は魂であり、魂は、如来の住人であり、化体としての人間でしかなく、個々の人間の幸不幸は、偏に、個々の魂を抱いた個々の人間の、その時々の、思いと行為の結果でしかなく、これを種としての因と、条件としての縁として捉え、人間は、みな、幸せに成りたいと思いながらも、困るのは、目的に対する手段・方法を間違えているからであり、自分は、その正しい方法を、あたかも、如来に導かれての故であるが、実行し、至ったので、これが、前世からの因縁であることの確信も得て、如来=神仏(宇宙)のメカニズムを伝えたいと思い、だれもが、この方法で、彼岸へ渡れることを言う。しかし、人間である以上、自分解釈するので、自分より上の論理はわからず、仏の言葉さえ、信じようとしない。これが、哀れで、悲しく思われた。それでも、時が至れば、わかる面々もいるだろうと、教えは、代々、伝えられてきた。そして、その教えは、様々にあるが、一切大衆が、五欲を断ぜずして救われるという教えは、時を待って、昭和の世になって、『妙法華経』として、顕現した。たとえば、鎌倉仏教が、新仏教と言われるが、この度の仏法は、真仏法とも言うことができる。すでに、顕説されて五十年となるが、その間、一度も醜聞が無いことを以て、その証明と言える。知る人ぞ知る仏法である。

「夫れ釈尊初成道より四味、三教、乃至、法華経の広開三顕一の席を立ち、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさ給ひし所の実成の当初(そのかみ)證得し給ひし壽量品の本尊と、戒壇と、題目の、五字七字を教主釈尊(此)の秘法をば三世に隠れ無く、普賢、文殊等にも譲り給はず、況や其の以下をや。弘安四年卯月八日高祖日蓮大聖人(此)の事を二千余年の当初教主大覚世尊より口決相承され、本尊と。題目とは。弘通されたり。戒壇とは。王法佛法に冥し佛法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を保ちて、有德王覚德比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣竝びに御教書を申し下して靈山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可きものか。時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり。三国竝びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり。秘すべし秘すべし等々と申され、事の戒法は時を待つ可きのみと(此)の事明されず。仏法を学する者亦大衆も昔も今も唯(此)の秘法を知らんとし(此)の経の秘法が解き明されゝば、いかに衆生が喜び豊かに又平和になる事と、多くの佛法を学する人、平和を愛する人々に依って、学び苦しみ研究されて居り、文明の世、化学の世となった現今も亦其の通りであります。昭和の今日過去の佛、菩薩神、祖先、大師、智者、学者の御苦労を感謝し、此に(此)の経の秘法を明さん。(此)の経と申すとは無上菩提即ち阿耨多羅三藐三菩提を成就する事の出来る。平等大慧教菩薩法佛所護念眞實證明の妙法華経の事なり今大衆の爲に斯の事を説き明さん。」(一説妙法 南無平等大慧一乗妙法蓮華経(1) より)



佛が宇宙を支配し、神が地球を支配しているとして、佛はかぎりなくやさしい。しかし、神はそうはいかない。怒らせると何をするかわからない。その怒りは、正義に基づく。その理由は、今、人間の横暴に対するものであるが、その理由を、人間は知り得ない。本来神の世界は清浄である。現在、世の中は腐敗、退廃である。佛は、神の怒りを知っている。故に、救いに至る道を説く。高橋和己『悲の器』では、裁くのは国家のみとした。しかし、神は国家をも裁く。神を制御できるのは、神仏のみである。そうして、こうした真理をも食い物にしているのが、現代知識人である。奢りを奢っている。恐ろしいことである。人間の思い上がりが裁かれる時が来ているのか。本当に時が満ちるとき、人間はどうなることか。時が満ちるとは、旧約聖書にあるように、人間の惡(人間勝手、人間計算)が満ちるときであるが、それまでに、眞實の反省(真理に対する畏敬、人間関係における謙虚:純粋精神、やまとごごろ[動物性からの自由:格調、理念はやさしさ、やさしさとは、他のあらゆる存在に対するおもいやり、嘘がないこと、脅迫・詐欺のないこと、自らの心に忠実であること、しかるを現代成功者の心は如何、部下をボロ雑巾と思っていないか、責任転嫁していないか、自分のことしか考えていないのではないか])が出来るだろうか。どこまで無知であり、愚かであるのか。愚か者ほど、真理(神仏:神=自然、佛=宇宙)を冒涜している。神は正直者に宿り、正直者には、自然が恵む。本来の秩序であるが、それが、破壊されている。たとえば、人間の現代お笑いであるが、現実逃避にすぎない、根本解決はない。「甚深(父母の愛より深い)微妙の法を我今すでに具え得たり。十方の佛も亦然(しか)なり。當に大信力を生ずべし。」「是(かく)の如き妙法は諸佛・如来・時に乃(いま)し之を説きたまふ。諸佛・世尊は衆生をして佛知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。今正しく是れ其の時なり。」(9:09am 2005/12/28 NHK-AM「フィガロの結婚序曲」を聞きながら)「汝今應當(まさ)に身心に懺悔すべし。身とは殺・盗・婬、心とは諸の不善を念ずる。」市民革命で市民が解放された。その市民は、かつての貴族と同じ間違いを犯した。平家が武士でありながら貴族化したのと同じ轍と言える。今、これら退廃市民から解放されるべき存在がある。時が満ちる。そして、本来の価値を本当に実現できる時かも知れない。清浄。佛知見。これを求めての魂の遍歴であった筈である。いよいよ、その方法も解き明かされている。勇気ある魂は、ロトの如く、振り返りはしない。自らの罪によって滅び行く魂は、自らの責任に於て泣く。あの世へ逝って初めて気づく罪である。それを生きながらに知ること、これが、禅経験である。そして、これを知ったとき、宇宙は守護し、自然は祝福する。唯、それだけのことである。これを以て寂滅の意味とする。[ベルディ「椿姫」、『乾杯の歌』を聞きながら 9:38 NHK-AM(呉市の花は椿):高級娼婦、退廃社会、メロドラマ、本来ベルディは愛国主義者であったが、人生の悲哀、そして、庶民生活の中に幸せの形を見たか、この頃のテーマとして、真の愛とは。身分と現実。人間は過去の罪を謝るための人生を歩まさせられている、因って、真実の愛は現実化しない、反省してはじめて、実現する、本来の幸せ、神仏との邂逅、宿命、試練、至福。されど、甘い蜜。人間の動物性。悲劇。救いへ至る道、心の真実。現実は、諸々の惡因縁(条件)の綾なす世界。解脱、涅槃。寂滅。常寂光。己事の究明、汝自身を知れ。懺悔の日々、神仏に赦されて、ここより、真実の人生が開ける。]さて、旧約聖書に400年周期説が秘められている。そして、その中にある、切り倒された二つの切り株とは、神仏と思われる真理である。今、西暦で世界は動いている。西暦元年は、キリストの誕生と言われている。次の400年後に何があったか。日本に於ては、古墳時代である。この頃、春秋戦国、およそ、歴史的文書はない。おそらく、各地に豪族が群雄割拠した。やがて、大和王朝が天下を統一した。その頃の双璧は大和と出雲であったであろう。大和は出雲を根絶やしにしたつもりであろうが、それは、見えない世界の真実を知らなかった愚かである。その後も、権力のための戦乱の世が続く。そして、次の400年後は794平安時代のはじまりである。ここで、王権支配から、貴族支配に入る。次の400年はどうか。その頃、平家は武家でありながら、貴族化した。それで、本来の武家精神を以て、源氏が台頭する。1192武士政権の始まりである。次の400年、1600関ヶ原である。その頃、1588秀吉の太閤検地、イギリス海賊キャプテンドレイクによる、スペイン無敵艦隊に対する勝利。世界に於て、イギリスの時代の始まりである。王家の支配に対する、議会の支配への移行であった。市民革命の始まりであった。次の400年、現代である。市民の時代であるが、この市民が、今、特権階級として貴族化した。推して知るべし、次なる時代の始まりである。庶民の解放である。ここで、重要なことは、神仏がどちらに就くかである。歴史の大河がある。人間の我の力ではない。如来の出現の時であり、時が満ちる時である。時が満ちる時、神が動く。見えない世界が動いて、見える世界は大義名分を得る。畏るべし。神は淘汰する。佛は救う。今、一切大衆を救うと言い切っておられる。唯、「信を以て入ることを得たり」。両者そろった稀有なる時である。ELP「庶民のファンファーレ」が鳴っていたのはいつの頃だったか。時代は悲鳴をあげながら、何を待望していたのか。その後、時が満ちるのが待たれた。腐敗が進んだ。腐敗の限界、今、時が満ちた。

2005年12月27日
苧坂光龍著『提唱無門関』より
「人さんをこっちの岸あっちの岸と望む方に渡してあげるのが宗教家、菩薩の任務である。とにかく、人のためにプラスになろうということ。たいていの人は自分の仕事を浮かび上がらせて高く評価されることを希望する。自分のすることが問題ではなくなって、余人のしてくれることが非常に有難くなり出したならば、その人は本当に偉くなってきている。

  人をのみ渡し渡して己が身は岸に上がらぬ渡し守かな

それが本物であれば、いつか大人物に会えば、肚の底まで見抜かれる。

人格の力。風格。そこから出る波長。根こそぎ人を一大転換さしてしまう力。何も言わないが、単なる無言ではない。

光とは、本来備わっておる德が、言語動作に依らずに、無限に出てくること。

人間にも敏感の度合いがある。

人間に本質的な区別はない。男性も女性も老人も青年も、みな仏性があり、素晴らしい能力を持っている。すでに成った者と、将来成る者とがある。その間に相違はない。成るのはみんな成る。仏にも成るが、餓鬼・畜生にも成る。上に進むか、下に進むか、宙ぶらりんのままか、それはその人の、その時の精進次第。菩提心によって上がったり、下がったりする。十界互住。無常である。決まっていない。こちらのやり方で、なんにでも成れる。努力次第で、仏にも成れる。

捨て身の覚悟。全身全霊を打ち込んで、捨て身になって、おまかせしていく。なんか手懸かりを求めがちになるが、どれも役に立たない。いよいよ行き詰まって、全面的な捨て身になるより仕方なくなり、死も覚悟して、いわゆる空の状態、自己もなく、雑念妄想もなく、しかも、精神統一したという、その正念もなく、天地も無く、無い無い尽しの無いということもない。本当に打ち払い果てたるうわの空。全てが清算されて、その空の世界から、自己・宇宙が再活現成してくる。これを妙有とも中道ともいう。仏となっての再活現成である。

諸法実相とは、有無を超越した妙有の世界であり、靈性の自覚であり、禅経験である。

仏教は、己事の究明である。

本当の自己を確立し、宇宙を確立する。

全ての言葉や態度は心から出てくる。

素晴らしい珠をお互いが持っておりながら、それがなかなかわからずに、みな困っている。

能力、力を惜しみなく発揮する。そこに喜びを持ち、生き甲斐を感じてする。自己の力を自覚し、100パーセント活動させる。個人も活きるし、社会も活きる。お互い、それだけの自覚を持って、精進していく。他の人はともかくとして、まず自分が本当の線に沿って、努力し、精進していく。ここを自覚して、自分が主役となる。責任のある仕事をしてゆける。頭が動かぬと、しっぽはついてこない(牛過窓櫺)。

チャンスは積極的に求めていく。

全ては自覚するための手段、方便である。何を自覚するか。

本当にやる気のある人であるなら、どういうマイナスの条件があっても、いよいよ、この道で精進しようと決めたからには、すべての時、すべての処、すべての立場を生かして、やってゆけばよい。燃えるような菩提心を持ってくると、非常にやりにくいところでも、そこが道場となる。直心即ち是れ道場。本当に素直な気持ちとなる。天真爛漫。ひね曲がっていない。純粋・素直な境地を持てば、是れ道場。非常に危ういところであれば、それだけ、真剣になれる。亦、人間ができる。本当の菩提心を持って、どんな危ういところでも、「単刀直入」。千万人と雖も我れ行かん。この熱意、気力。”火裏蓮”。火の中で、色も香りもますます冴える。そういう決意・捨身となれば、およしなさいとどんなに言われても、出来るか出来ないかわからないが、とにかくやってみようという、向上心、力がついてくる。

こちらが威風堂々としていれば、お歴々の方も、命乞いをしてくるようになる。

人生の本当の味、どこに本当の生き甲斐があり、喜びがあり、感謝があり、感激があるか。人生の真相。本当の生き甲斐。死して悔いのない人生。よく見届けないといけないものがある。

全身全霊を打ち込む。あらゆる煩悩を焼き尽くし、血や肉までが大肯定するところまでいく。時節因縁到来して、最後の一点が空じられる。すると、遊戯三昧、自由自在の境地がくる。

今日はこれをしようと決めたならば、とにかく、それに向かって邁進する。そこに自己の生命を建立する。使命を達成するために働く中に、自分の命を打ち立てる。その信念に生きるとき、人間の生命を、働く中に見出す。すると、毎日の生活が有難くなり、喜びに満ちたものとなる。

悟りは一種の絶対の境地。真剣になると、子供でも悟れる。龍女も。よほどの勉強があっても、悟れるわけではない。

自分の一生、自分がこれまで何十年かけて生きてきた歴史はあるが、その歴史的塊が本当の自分ではない。お互いの人生を通じて、天に通じ、地に通じ、古に通じ、未来に通じるという、時間・空間の制約を受けないで、永遠の生命、不滅の光明に直参する。触れる。One is total!

微笑。喜び三昧。真如の法が自然に微動してくる。我々もだんだんと境涯ができてくると、常に微笑の境涯となる。布袋の境涯。いかにも肚の底から喜んでいる。体全体の細胞が法喜禅悦に満ち満ちている。法というものはそういうものである。全宇宙がそういうものである。すべて、真の世界であり、善の世界であり、聖の世界である。ここまでくると、「人天措くこと罔し」。人間も天上界もこれに対してチャチャを入れることはできない。あれこれ批評もできない。本当に法そのものの顕現の世界である。」[2:32 2005/12/27 NHK-AM While My Guitar Gently Weeps を聞きながら]

「世界というものは非常に広いが、その中でお互いがどうしてこんなことをしているのか。広い世界で、自分が選んだ世界は実に微々たるものであるが、法如ゝに、自分のやりたいこと、自己の使命を遂行していくこと、そこに実に広大な宇宙的生命が出てくる。広いところ、その広い中に差別があり、差別の中に、生きながら同じく世界的な生命を顕現させることができる。この差別と平等、広い狭いを、どう自分の裡に調和し、活かすか。この問題が解決できれば、物理学をやっておろうが、芸術をやろうが、傍らが騒いだからといって、自分も血眼になって騒がなくちゃおれんよいうふうな考えにわざわいされるようなことはなくなる。

放てば手に満つ。常に空。虚心坦懐。常に放っておれば、必要に応じて掴める。こちらが空であれば、宇宙の真理や、その人の最も必要としておるものが、ピューッとはいってくる。お互いの頭の中には、有象無象がいっぱい詰まっておって、これが邪魔になって、必要なものが入ってこない。また、せっかくもっておるものが出てゆかない。だから、頭の中のクシャクシャを清算して、常にスーッとしておると、素晴らしいアイデアが出てきて、素晴らしいものがキャッチできる。

趙州の無字にしても、禅の公案にしても、禅のいろいろな問題が、その人の身についてしまったならば、これはもう一生涯その人のプラスになってくる。心の糧にするというが、単なる糧ぐらいではない。

とにかく、苦労するということじゃ。

自分のこの小さな体で、五十年、七十年の人生だけでなしに、小さな己を離れていわゆる大我、宇宙的人格、宇宙と自己がぴったりとひとつになった。主観と客観とが一体となったところを自覚した。」(世の識者及びリーダー達並びに芸能人及びマスコミ関係者に言いたいのは、ここである、つまり、ここを知らずに、大きなことを言って貰っては困る、日本古来の純粋精神即大和魂、而して、当事者は己の無知を恥じ、日本本来の価値に目覚め、責任を自覚し、是を復興する方向へ意識して、仕事するべきではないか、安住しているアナウンサー及びスタッフ達が、日本本来の空気を淀ませてはいないか、on Airを司っている方々の認識を換骨奪胎し、新たむる、日本復興の近道であると思われる。活、大元気!トロトロしていないか。真剣・真面目の価値を、自分たちの低いレベルで自分解釈し、愚弄していないか。真理(=神仏)に対して敬虔&謙虚(尊敬)!マッタリなど、今、必要ない。これ以上、日本の土壌、空気を腐らせるわけにはいかない。今咲いている花は、それぞれ、腐った土壌の花と知るべきではないか。心身清浄の花は咲けないのではないのか。仏でなければ、蓮華として咲くことはできない。)

いろんなことを言い出したら、もうおさまりはつかん。百鬼夜行。

すべてのものが、瓦礫に至るまで光っている。華厳の世界。それぞれの処を得て。

まず、全体を把握し、しかもその中で、自分が何をやるか決め、世界的基盤に立って、時々刻々、上層建築を築いてゆけば、人生というものはシッカリしたものになる。

人間というものは、お互いに常識を持ち、どうしたら素晴らしい生活ができるか。きわめて簡単な中に全てが調和して、喜々として生活できるようになれば、どんなに素晴らしいことか。単に、無目的にするのではなく、天地(あめつち)の生命というか、顕れるべきものが、自然にスーッと出てきて、各人がおのおの処を得ている。」
(H16.7.6~ 中国労災病院入院中のメモより)

ところで、般若心経は喜びの歌ですね。最後の、呪と呼ばれる、ギャーティ、ギャーティ・・・は、行けり、行けり、我は行けり、彼岸へ行けり、ここだ、ここだ、ここだったんだ、たどりつけたんだ、これでよかったんだ、・・・といった意味ですね。(ギャーティ?GT!)[2005/12/27 14:56 RCCラジオを聞きながら]

2005年12月26日
達観
「悪舌は功徳の種を断ずる」と法華経にあって、その意味することは何だろう。それぞれにそれぞれの事情があって、それぞれにがんばってる。それに対して、何かしら、知らず識らずの過失もあったとする。それを、ことさらにあげつらうとどうなるか。結果、惡だったとしても、本人はあずかり知らない。今更、糾弾されてもねって、いなおるしかなくて。こうしたことが悪舌。直線的に言うのは、猫を引っ張るようなもので、暖かい春風のように、示すことが出来ると、自ずから気づいて、ハッピーな方へ歩み始めることが出来る。これが、功徳。要は、善悪を超えたところの住人が、ひょんなことから、善悪の中でもがいていて、それで、悪舌してるとしたら、結果、波風しか立たない。これは、プロとは言えないね。達観。そうすることで、善悪を超えたところに戻ることが出来る。何があっても甘受できるし、腹も立たなくなる。幸せな時間がいつも待ってくれていて、そこに、住することになる。法華経の神髄だね。常寂光、曼荼羅華、摩訶曼荼羅華、確かに降っている。清浄な空気に、いつも、包まれている。いいことばかりが、起こりそう。さて、ところで、因縁というもの、あるね、世間一般、得知らず、気づき得す、もがき苦しみ、地獄必定、自ら出づること能わず、それでも、自分は、自分は、と、思っている、あはれなること限りなし、解脱涅槃の道、かすかにあれど、その入り口さえ、見ず。
ユーモアについて
ウィットとかありますが、これって、品格が有ってのこと、単なるお笑いではなくて、それが、ジョーク。英語では、日本語の敬語に当たるものがない、それで、センテンスを長くして、相手を思いやる気持ちを示したり、あるいは、表現を工夫したりする。しかし、同じセンテンスでも、相手を苛立たせることもある。その場の雰囲気である。で、発声としての音声の問題がある。とってつけたような音声ではない。ハートがある。日本語に於て敬語を使えばよいと言うわけではない。しかし、形式としての敬語にこだわっている社会がある。実質的文化は、英語に学ぶところ大である。だから、内容が残酷な童話でも、親しめる。音声、リズム。これは、そのまま人格の表現である。子供たちは、言葉を通して、人生を学んでいる。今、たとえば、テレビにおけるパフォーマンスに、そうした洗練された文化がない。日本は、まだまだ、後進国だろうか。音楽に於て、西洋とのギャップは、百年ある、と、明治の頃には言われていた。高貴さに於て、如何。庶民の目指すハードルであるね。声は大切だ。相手の心を動かすのは、文字でもなくて、内容でもなくて、意味でもなくて、声=人格だから。観音菩薩、声を聞いて、地蔵尊に伝えてもらえることで、救われる。声が神仏をも動かしている。その鍛え方、御経讀誦。音響。神仏の周波数がある。神仏と同調する声がある。声=音を獲て、人生=人間関係は楽しめる。自然=神とも会話できる、応えてくれる。小鳥ともお話しできる、花々がささやく、蝶も舞う、猫とも遊べる、宇宙が如ウィンザーの陽気な女房たちとなる。是諸仏法、是諸やまとごころ、是諸21世紀幸福論、バラ色の人生だね。知性文化に乾杯!クラシック、古来伝えられていたこと。情緒(ジョウショ)。言葉は、しみじみと、いふべきもの(良寛)。善悪を超えた人格がゐて、アトモスフェア、フェアレェディ!人格的高周波の時代が始まっている。人格、品格、格調。ところで、御経讀誦、あるいは、善業の効果として、眼根懺悔す、つまり、見える世界が明るく美しくなる、輝き始める、色は鮮やか、クリアとなる。真剣な御経讀誦をするとね。ただ、讀誦すればいいというわけではない。だから、既存の寺は、本来の機能を果たしていない。要は自己一身の問題だ、自己究明だ、自分が何者か知ることだ、それなのに、世間一般、何を目指しているのか。修身斉家治国平天下→楽:家庭、「ホーム」;ハウス、「家」、そして、Houses。・・・暗夜行路?日天航路!在家禅は、苧坂光龍著『提唱無門関』。本当の自由、三楽。

卑弥呼の系譜
邪馬台国がどこだったのか、謎である。永遠に謎である。卑弥呼の系譜があるやも知れぬ。しかし、その系譜といえども、代々、間違いもあった。それで、しばらく、世に現れなかったか。卑弥呼が、どこにいるか、わからない。アマテラスよろしく、活動を始めたか。自然は神々の感情で動く、という事實があるかも知れない。卑弥呼も卑弥呼を自覚するまでは卑弥呼ではなかったであろう。如来というものがある。如来も如来を自覚して如来となる。如来の意思は実現する。如来の意思が明らかとなったとき、自然=神々も手伝うからである(この度は、万軍の主も味方についている:和平)。敗戦の頃、枕崎台風があった。その後で、進駐軍が入った。仏はやさしいだけではない。仏を喜ばすものを救う。背くものは他土におく、救いはない。仏の顔も三度までである。刃向かうものには容赦ない。その制裁は自然=神がする。それは、法則である。過去に蒔いた種が因となって、何らかの条件が縁となって、事が起こると果である(ところで、刑法理論に於て、学説通説は相当因果関係論であるが、日本で唯一、はだかの因果関係論を唱えるのは、筑間正泰教授であり、検察はむしろこれで動いている)。結果、果実、事実である。その源は心である。思ったことは実現する。ご用心。地蔵尊は、閻魔大王でもある。謝ることで消してもらえる。謝るとは、二度と同じ間違いをしないこと、そして、反省して、良いことをすること。因縁は、悟らしめんがために、改めるまで、何度でも、程度を増しながら、繰り返し、起きる。謝ることは、しかるべき行を伴う。今、妙法華経を持っているかどうか、さらに、妙法華経の行をしているかどうか、が唯一の試金石となっている。人間としての原罪は、嘘をつくこと=妄念することである。人間が考えるとき、必ず、自分計算している。結果、嘘となる。唯佛是眞。眞實は、仏さんのところにしかない。助かる方法はある。佛さんのところにある。佛所とは、佛さんの住所のこと。佛所護念。護とは、身を以て護ること、すなわち、佛所へ身を運ぶこと、念とは、心で守ること、どこでもできる、常に仏さんのことを思うこと。知っても知らなくても、自然=法則。取引行為の概念には、現代資本主義下では、解釈上、多少の嘘が赦されているという。しかし、「多少」がふくらんでいるね、つまり、程度が増している、限度を超えたか。白隠禅師の隻手の音。聞かぬ間は、何をやっても嘘だ、聞いたら何をやっても真実だ、と言われている。仏法が真実であるとして、何故、世に現れなかったか、日蓮いわく、時を待つべきものかは。時とは、天(神)である。いずれにしても、時は満ちたか、善悪がはっきりする。人間とは、身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。すべて、畏敬の念のないところ=人間解釈している妄念からくる。見える世界、見えない世界、表ジャック、裏ジャック。本来大和民族は嘘を嫌う、清廉潔白、正々堂々。正義とするところには命をも惜しまない、来世と神仏の加護を知っているからである。今、本来の大和民族が犠牲になっている。純粋精神が笑いものとなっている。本末転倒。腐敗、退廃が世を席巻している。英知を笑いものにした、愚者の天下となっている。グロテスク、エロ、牛頭馬頭は表舞台から去る頃である。東洋は西洋ではない。自信を以て言い切れる。

2005年12月24日
英知に乾杯!
「夫れ法華経巻第七神力品に云わく。『要を以て之を言はば如来の一切の所有の法。如来の一切の自在の神力。如来の一切の秘要の蔵。如来一切の甚深の事。皆(此)の経に於て宣示顕説す』等云云亦普賢菩薩行法経に云わく『(此)の大乗経典は諸佛の宝蔵なり。十方三世の諸佛の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり(此)の経を持つ者は即ち仏身を持ち。仏事を行ずるなり。』等云云。亦十功徳品に云く『(此)の経は能く是くの如き無量の功徳不思議の力あつて衆をして疾く無上菩提を成ぜしむ』等云云眞の佛法を求め学する者は権実の二法の名を知らずして佛法を学したとは云はれない。たとゑ二法の名を知って居ても、(此)の経たるや何んであるか知る由も無くいたづらに時を過せり、・・・」(『一説妙法』南無平等大慧一乗妙法蓮華経(1)より)

この人生はありがたい、もったいない。このような宝があるというのに、何を以て、世間一般人生、経済行為と動物行為とのみに走るのであろうか。愚かなること限りなし。五欲を断ぜずして、仏の知恵=さとりを獲る、これ、究極、人生の目的、使命(生まれてきた意味)。極楽三楽、確かにある、須彌山。されど、自分解釈身勝手で、感謝なき輩、地獄を彷徨う。自信のなきことその證明なり。自分は正しい、と言い切れるか。キリストは言い切って十字架に架かった。

さて、人を喜ばすと言ってお笑いしても、その精神の傾向に於て、神仏は悲しんでいる。「精神的向上心のない奴はバカだ」と、すでに、漱石が『こころ』の中で言っている。精神的向上心のない文化を増長し、低いレベルで自己満足しているだけではないだろうか。自分より上の価値は見えまい。結果、日本の資質を落とした責任がある。衆愚と結果その助長は罪である。出版社におけるパーティで主賓は漫画家である。文筆家が末席である。どう答弁できるだろうか。しかし、悪人正機説。善人なおもて往生す、いわんや、悪人をや。平等は神仏からみてのことである。上から見れば、善人も悪人もない、人間である。現代芸人の過失は、謙虚さを失っていること、すなわち、恥ずかしいことをしているという意識をなくしていること、むしろ自己主張していること。善人は、名を以て、世の中を生きる。惜しむべき大和心の傾けるこの身賭して也護る人有る。高貴なるかな古のこころふたたび大空舞うを見む。

日本国民ひとりひとりが、今ある地点から、ほんの少し、意識を高める。一度高めたとする。全体としては一億度。灯が点る。あるいは、それぞれが、方向を意識する。意識の合力が浮力となる。大和は浮上する。怖れることはない。疑うことはない。すでに、諸佛諸天善神の体験的実証済みの手段である。過去に於て失敗も確かにあった。しかし、今、システムが違う。信頼してみようよ。英知に乾杯!

呉の歴史について
最近になって、祖父(修道卒、呉男子校で訓導、晩年は広陵高等学校で七十歳まで勤めた)の筆跡で、永久保存、43.4月21日、とある、『呉市暦年表』が出てきた。昭和43年というと、私は小学6年だった。その頃の校長先生が、呉の歴史を研究されていて、自費出版もされていた。呉市は明治になって開発され、江戸の頃には、漁師の家が数軒あっただけだと聞いていた。しかし、市史編纂室調、呉相互銀行印刷室作成のこの書によると、原始時代の土器の出土及び、古墳時代の遺跡が確認されている。このギャップには驚いた。私は知らないままだった。とても象徴的である。新書版で、『正統と異端』という本、NHKブックスで『歴史を見る眼』という本があったけれど、何が言いたかったのか、今頃になって気づいている。しかし、偶然というにはあまりにもリアルな経験をし過ぎている。悲しいね、リフレクション、さて、仏を出すか鬼を出すか、自然が思案してるよ。自然も優しさの周波数に気づく頃、21世紀を明るきから明るきへ、本当の幸せへの方向付けをしたがってはいるようだ。だが、人間の愚かさがついてこない、と、嘆いているようだ。選択の自由、その意味は、極楽への道か地獄への道か、結果は必定、さて、どうするのかな、人類は。呉にあり、独座大雄峰!

呉市暦年表
S43.4.21
総説 呉市の足どり
原始時代と古代
呉は芸予叢島を前に眺めながら、多くの岬の曲折する長い海岸線をもって延びている都市である。背後は100m~150mの標高に一躍とびあがった台地をかゝえている。こうした複雑な地表の上に、また複雑な史実が刻み込まれ、似たような歴史が宿命のように繰り返されて来た。2,000年以上もの原始時代には、吉浦地区から弥生式の石斧が2個も出土した。弥生土器の破片も吉浦と広(ひろ)とから出た。だから既にその頃から我が呉は人類の居住地となっていたことが知られる。弥生式の次の土師器(はじき)と須恵器(すえき)とが少量だが出土していることは、古墳時代の遺物として注意される。前者は大麗女島(おゝうるめじま)、後者は横路(よころ)、立石(たていし)情島、池浜から出た。今では古墳が遺っているのは情島である。小さい島の上に横穴式石室古墳の存在することも面白い。
古代に入ると、和名抄で阿賀の語源の香津(かがつ)と船木(ふなき)が現われて今の呉の中に2つも古地名が指摘される。鍋地区に平安時代の観音像があることなどから平清盛と音戸の瀬戸の伝承に多少のつながり、つまり平安朝文化のわが地方への流入が考えられる。源頼朝が京都府下の石清水(いわしみず)八幡宮のための荘園を呉保(くれほ)の名で寄進したことは古文書(こもんじょ)の上で知られているから、それやこれやで、ずい分古くから書かれた歴史の上にあらわれて来たわけである。

中世と近世
足利尊氏は九州から東上の時、音戸の瀬戸を通過し、南方安親(みなみがたやすちか)は南朝へついて伊予の北朝勢を討ちに呉から出帆し、今川貞世(いまがわさだよ)の旅行記にも大内氏の法津にも呉の地名が記されている。応仁の乱には西軍につくために呉地方から出征し、更に戦国兵乱の際には呉湾上で白井氏の軍と海賊とが戦ったり、呉の末永常陸介(すえながひたちのすけ)らが厳島で陶晴賢(すえはるかた)の軍を敗走させたり、或いは石山本願寺合戦や大阪夏の陣へ呉から将士が加勢に出かけたりしている。
近世、つまり江戸時代にはいると、先ず、安芸の国を領した福島正則(ふくしままさのり)によって、領内の耕作地と屋敷地が調査された。これを慶長6年の検地という。その時の検地帳が呉にものこっている。伊能忠敬(いのうただたか)が瀬戸内海の北岸に沿うて測量した時にも呉の各所が測量されている。この時、はじめて呉地方の正しい地図ができたのであった。
広島藩が山間や海べりに耕地を開くように命令を出した時、はじめて呉地方では野呂山(のろさん)の頂に近いところに開墾地をつくったり、広地区その他に干拓して新開(しんかい)をつくったりして、今の市街地の基礎が出来たのであった。米、麦、綿などが沢山生産されるようになり呉市の前身を成した14の村落にも流通経済がかなり行われるようになった。






2005年12月23日
もてあまし気味の時間
とてもステキな景色がいつもあって、とても楽しい時間があるのだけれど、何故か、一人でもてあましている。もったいないね、だれか、いい人いないかな、と、思ってみても、現実、厳しく、理解は周囲になくて。待つしかないね、時を。・・・エルバ島を見るまでは力ありき?エルバ島を見てから力ある!Now莫散漫堕、菩提南無チカラ美、三昧其我哉?帰り来たりて別事有り、拙攻は失し世、葵い空! 季節とは海の子SEASON 云うや安くも 眞實は 道なき道を一人開ける 常なる 反射 感謝なし身勝手世間必定地獄也 泣き言 戯言 悩み事 言語道断 未清浄 至りてわかる眞實 至らねばわからぬ眞實 眞實は夜にかかる中天の月 疑いなくんば吉 向かわんと疑すればすなわち背く 神は決して背かない 裏切ることはない 裏切っているのは常に人間である ここより新たむるしかないね。さて、羽ばたくころを迎えたか。意識的善において。意思、自然、宇宙。もはや、間違えない。迎合することはない。

眞實の顕説は、昭和にあった。(S29)
「亦提婆品に未来世の中に若し善男子・善女人・あって妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は・地獄・餓鬼・畜生・に堕ちずして十方の佛前に生ぜん」(疑いのないことは、たとえば、男女関係・夫婦関係でも言える幸せの第一条件である。信じることができるかどうか。あらゆる一切を。悪いことは自分の過去からの因縁として、善いことは佛さんのお陰として。悪いことは謝る、善いことは佛さんに感謝する、佛さんは、唯、悟らしめんが為に法を説き、慈悲あるのみ、それは、或る意味で、容赦なき、神=自然の掟を知っているからでもある、それで、掬われる唯一の道を説く。)
さて、公法は垂直関係、私法は水平関係、その原点に、個人としての自分がいる。
「所生の處には常に(此)の經を聞かん・若し人天の中に生れば勝妙の楽を受け若し佛前にあらば蓮華より化生せん。云々」(自分の前世・過去からの行の結果として、今の自分のステイタスがある、しかし、問題は、心のステータスは何処に在るか。)「地上に於て現今迄に内外諸教数多あれども、唯(此)の妙法華経のみ地獄・餓鬼・畜生・の境涯を、逃れ亦・聲聞道・辟支佛道、佛道であっても皆供に阿耨多羅三藐三菩提を得成佛する事教書文明にして、唯だ(此)の一事のみあるばかりなり。妙法華経地上に出現する迄は佛敎・神敎にても地上の大衆の救はれたる事實之無し。」(人類の文明が開けてから、多くの教えが世に出たが、事實として、現在に至るまで、一切大衆が救われたことはなかった、本当に救われるという意味で、真実の御経典は、見える世界、見えない世界、両方に通じる『妙法華経』がこれであり、これは、『法華経』の中に秘められて、代々、諸佛の守護の下、伝えられてきたのであって、これまでの六經は、その可能性と方向性を示していたのに過ぎなかった、それが、昭和の世に、時を得て、その御役の方も現れ、顕説された、それは、宇宙の有無開閉四大原動力を発揮し、自然現象をも動くだけの力であり、すでに、少なくとも、気象関係者は気づくところであったが、その実体は知られないままであった、しかし、さらに時を得て、それまで、見えない世界での事であったのが、しかるべき方々が目覚めることで、見える世界においても、この事を疑えなく成りつつあり、それは、「文明」として、文字(文字も二千年を経て命を得たと言うべきか、この世の存在は、見えるものも、見えないものも、全て命を持つ、佛とは、五大元素そのものが、すなわちそれであり、この世の生きとし生けるもの、あらゆる存在に対して、帰依する必要がある、とする所以である、ここに心の在り方の原点がある、すなわち、個々にやさしき周波数を得て、それを発する、これを以て、「一隅を照らす」という意味とする、これにて一切が整い、解決するは、実験体験実証体得自得済みであり)に秘されていた真実が明らかとなり、あたかも、発芽するように、芽を出せば、やがて、自然の力が育み、葉が出て花が咲いたのである。之を以て、21世紀の約束とは言う。)「而も此の事地上に出ずる迄は、日蓮聖人も『持妙法華問答鈔(「鈔」の文字を付せしは、何故か、この字「少」を以て、未だ日蓮時を得ていなかったが、真実を一人知ったことを意味している)』に、昔の人は只名のみ聞くと申され、亦建治四年二月『三澤氏』に送られたる文にも日蓮龍の口にて頸を刎られんとせし時より後我に付きたる者實の事云はざれば不便也と内々申す法門ありと、(此)は佛より後過葉・阿難・龍樹・天親・天臺・妙楽・傳敎・義眞・等の(過去より約束の佛の種が芽生えて葉が出る頃、大難の時を迎えているが、やがて、その大樹は龍樹の自覚を得て、すなわち、天を動かし、法華経の中に、秘されていた妙楽を知る、そして、それを教えとして説き、さらに伝え、真実の意味が明らかとなる時となり、・・・)大論師・大人師は知って而も後心の中に秘せさせ給ひて口より外には出し給はず其の故は、佛制して云わく我滅度の後末法に入るずば(此)の法門云ふべからずと有りし故也。(「滅度」とは、佛が真実の悟りを得ることである。今、佛が本当の悟りを得る時を迎えた、すなわち、末法(腐敗退廃無恥)の世である。蓮華の花が泥より咲くように、佛は末法の世に、真実に目覚め、滅度する。今、世界に数多の佛が目覚めている、空閑=荒野における知性たちが。)『日蓮は其の御使にはあらざれども其時剋に當る上存外に此の法門を解りぬれば聖人の出させ給ふまで先ず序分にあらゝゝ申す也(『妙法華経』のことである)。』而るに此法門出現せば正法(佛の教えを素直に聞けた時代)像法(大きな仏像仏閣を以て佛の威光を感じていた時代)に論師・人師の申せし法門は、『皆日出て後星の光』巧匠の後に拙きを知るなるべし(此)時には正像の寺塔の佛像僧等の靈驗は皆消失て但(此)の大法のみ一閻浮提(地球)に流布すべしと見えて候、各はかかる法門に契ある人なれば、たのもしと思すべし(仏縁あるは、佛の世に生まれる時、生まれ逢わす因縁である)。等々 ・・・平等大慧敎菩薩法佛所護念眞實證明の錦の御旗に照され、やがて霜露の如く消うせ(此)に佛と佛との約束に依り眞に大衆の救はるる時期が来たのである今一大事因縁を以て(此)の事を顕説せん。」(以上平等大慧敎菩薩法佛所護念眞實證明『一説妙法②』より[なお、畏れ多くも、私註す])

2005年12月22日
生命体としての不思議として、ここまで歩んできたことで、未来は明るい。ここより始めるしかないのである。あらゆる時の流れがこれを証明している。そして、最も大切なのが時であり、この時とは、仏・法・僧・戒・施・天の菩提心としての六法での天あり、天とは神である。もはや、清浄となる時を迎えたのである。それは、真理に対する愚かさと無恥(退廃としての動物性)よりの脱却から始めるしかない。進化する人間に定められた道である。神はここに定めを措いたのである。文化的劣悪な人間の自己肯定としての合理化は、もはや、通らない。21世紀心の時代の始まりであり、その為の掟である。自然がもはや堪えられなくなったと言うべきか。高貴なる精神の復興である。[2:18am 2005/12/22 NHK-AM チャイコフスキー『眠れる森の美女・ワルツ』を聞きながら]
ところで、科学は、仮説に過ぎない、真実ではない、人間レベルは、真理(自然=神、宇宙=佛)から遠い。

2005年12月21日
浅見帆帆さんの本
浅見帆帆子さんの、『やっぱりこれで運がよくなった!』って、面白い本ですね。ただ、「この本は、今の私が考える「見えない世界」について書いてあります。私はこれらのことを科学的に証明することはできないし、見えないものを感じてしまうような特殊能力もありません」とあります。思うに、モーツァルト、彼の音楽活動は、天才でした。ひらめくと、後は、自動的に音楽となりました。浅見さんは、似たような力を持っているのでしょうね。そして、この事を証明するのは、前世ですね。前世である程度していたことを、今生で完成させている。そうとしか説明がつかない。ところで、メダカの大群がいたとします。先頭が向きを変えると、全体が向きを変えますね。こうしたリーダーがいるのです。何時の世にもね。浅見さんも、それに忠実に反応しているのかも知れませんね。しかし、その正しさにおいては、群を抜いているかな。きっと、生まれながらに、清浄な方でしょうね。それで、鐘が鳴るように、本当のことを感じるのでしょうね。真理が風としたら、風に鳴っている。お正月の凧も、よく揚がる凧と、少ししんどい凧と有りますね。身の清浄と心の清浄とでは、どちらが先か。前者ですね。心の清浄は、なかなか得られないですね。しかし、身の清浄が有れば、足りるのかも知れません。心の清浄は、来世で良いのかも知れません。究極は、「空」ですが、これは、頭で考えないことですね。考えるときは、およそ、ロクなことを考えてない。考えなくて良いんです。気づくだけでね。気づいたら、実行すればいい。順々に満たされてきます。実行することが肝要です。良いことをね。しかしながら、歴史にしてもそうだけれど、あらゆる事象が、やはり、ある存在のリフレクションだね。知っても知らなくても。これは永遠の秘密だね。本人は知らぬ間に、サーカスのような人生を歩まされている存在もある。尤も、何時落ちても良いように周到に受け皿としての網とか病院とか用意はされていたのではあるけれど。誰も知らないところでね。しかし、茶番は茶番だ。本人が気づいたとき、とても憤慨していたよ。でもね、それでね、この上ない幸せという境涯を手に入れたらしいことは確かだ。しかし、その幸せはね、およそ、世間一般の幸せではなかった。試練に耐えたという意味では確かだから、帆帆さんの、「辛い経験をしなければ得られないことはない」という認識ははずれている。それ相応の辛い経験がないとね、進化した幸せはないね。一番はね、お手本がない。だから、コピーはコピーだね。世の本は全てコピーだよ。一番槍は、突っ込むだけだよ。これが、命懸け。だから、世の本は命懸けではない。世の説法者もそうだ。だから、確信がないし、自信もない。完全ではあり得ない。全能ではない。それでも、いい目してるよね。しかし、一番槍の突撃の醍醐味は決して味わえないね。勇気なんてものではない。狂気だ。これが特攻突撃だよ。真理に賭けたんだね。それも、大いなる力に導かれてのことではあるけれど。しかし、帆帆さんの本は良くできている。或る意味で、くやしいね。法華経にある大神通力については、知らないようだね。その意味では危険きわまりない思い上がりかも知れない。こうした傾向も様子を見るしかないのかも知れないね。単なる流行かも知れない。刹那的なものなのかも知れない。徳が切れたときが怖いよ。ご用心。運とか魂とか語るのは自由だけれど、測り知れないなら、自重した方がよいのかも知れないね。悪魔は隙を狙ってるよ。自信がないことは言わない方が良いとは思われる。新しい轍とならないことを祈ってる。要は、真理に対する無知という愚かさが、恥知らずな行為とならないことを祈ってる。清浄な鐘の音が鳴ればそれでいい。そうでなければ、どのような方法論も地獄の門、方便=嘘であり、結果、掬いはない。如来の神力のないところ、所詮方便であり、嘘であり、真実ではない。修行を通さない理論はやがてその虚実が露呈する。実行とは行であり、行入がなければ、真実の門をくぐったとは言われ得ない。やはり、自己一身の問題は、無門の法門=行を通らねばならないだろうね。行をしたかどうか、試金石だよ。ここで、決定的な差がある。大いなる力に認めて貰ってるかどうか、その祝福としての諸現象であるかどうか。単なるシンクロでは、究極の解決はない。関所を通過していない。涅槃ではない。滅ではない。結果、世の中を惑わしていないことを祈ってる。千尋の谷を通ってのことがある。千尋の谷へ落とされてのことがある。真理はそれほど甘い道程で得られるものではない。こうした傾向は、真理の存在に気づかしめただけだね。そこに本当の幸せがあることをね。新たな旅の始まりにふさわしいね。さて、誰が、本当の宝を手にできるか。新しい宝島だね。その方向が示されているのですね。ひとつの一里塚として現象しているのですね。進路よし。隻手の音を聞くとね、絶対の自信が生まれる。微塵の疑いもない。決定(けつじょう)がある。それが、この本には見られない。まだ、自分は修行中だと言う。露呈してるね。自信を持って書けるかどうか。ここに分水嶺がある。しかし、この自信、そう簡単に手に入るものではない。真理或いは魂を扱う限り、それは、自己にとって怖い。自己との大戦争に勝利できるかどうか、真の勇者は試されるのです。ここに大勝利を得れば、大歓喜とともに、自然の祝福がある。感じるだけのシンクロではない。確信としての事実がある。これが真実です。売れる売れないは関係ない。真実はむしろ衆愚の中では売れない。世間一般の理解を超えている。時代は追いつかない。以て、畏るべし。やはり、神は実在している。ここを確信できているか。疑いはないか。400年来の重商主義が裁かれている。取引行為の名でのやりとりが、詐欺・強迫となっている。これに対して、新しい価値がその芽を出している。既存の流れに乗っている限り、所詮、古い。若さとは何か。未来を信じる夢があること。新しい芽が見えているか。恐竜の時代が終わる頃のネズミに等しい。古いパラダイムでは生存できなくなってくる。新しい流れがすでに始まっている。自然はその為の準備を静かに余念なく作業している。このトンテンカンが聞こえるかな。地球は資源として無限だから、経済の外形はこのままだろう。要は、心の問題だよ。心が神の存在を希求している。今までの無神論が反省される。世の牽引車たる方々のね。嘘が多すぎる。人間の奢りとしてのね。今、換骨奪胎するのは、これだね。自然=神の認識の復活。それで、敬虔さを取り戻し、人として、謙虚さを取り戻せる。事実、諸現象がその存在証明をしている。信じざるを得なくなったけどね。信を以て入ることができる。神=自然の意思を知って、嘘はなくなる。神=自然は神の子を通してその意思を知る。神の子が自覚し、自信を得て、意思を持ったとき、自然は動く。敵対するものは排除される。淘汰としてね。因って、やはり、畏るべし。畏れるだけで足りる。ところで、F1、プロストの走りがある。ゴールを描いて走る。無理はしない。しかし、極限の走りである。彼はボディが柔らかい頃からの選手、事故の怖さを知っている。プロフェッサーと呼ばれる所以である。彼はセナとデッドヒートをくり返した。セナは天才ドライバーだった。ミッションが壊れて、1速と6速だけだったろうか、アクセルワークだけで優勝する選手だった。しかし、ボディが堅くなってからの選手だった。ミッションがオートマに代わった頃、事故を起こし帰らぬ人となった。その第1コーナーでプロストと接触したこともあった。プロストは言っていた、セナは何時か大事故を起こす、と。セナはもういない。年間所得50億を超える選手だった。セナがいなくなって、F1を見ることはなくなった。さて、また、世間一般の交通事故であるが、例えば、スポーツの試合における緊張感が有れば、ある程度、結果としての事故はそのほとんどを回避できる。スポーツをしても、選手として、入賞しているかどうか、大きな分水嶺である。すればよいと言うわけではない。勝つことは意味がある。スポーツにおいて勝つ極意、状況判断、ゲームを作る、風を呼ぶ、勝利を呼びこむ、独特のロケーション、一瞬の判断即実行、電光石火、勝てる。練習の段階で、無意識にこの状況を実現できるところまで高めておく。これが、鍛えるということ。真剣。天衣無縫。実戦。前歯の歯茎に菌が入ったことがある。膿んでいたらしい。広島鉄道病院の歯科医は女医だった。麻酔などしない。メスが入った。確かに痛かった。しかし、無表情のままだった。その後暫く、傷口にリバノールのガーゼが入っていた。いつの間にか、消えた。およそ、滅多に、痛いと言ったことはなかった。それで、どれほど苦しんでいても、周囲は気づかなかったようだ。それも、与えられた試練であったと言うべきか。しかし、試練は乗り越えることができる。解くべき課題に過ぎない。使命としての火裏蓮という試練もある。世間一般の試練を超えている。これを与えられる存在もある。苛酷な運命ではある。幾たびか下る、蒼龍の窟である。しかし、それも予科練である。これを卒業して、出世する。世間に帰還する。これもコギトエルゴスムである。古義を得て住む空間は開けると言うべきか。難問中難問。天中天。これを解かない限り、開けない人生もある。君が代である。結。千秋楽。(12:23pm 2005/12/21 Wed. fine, as litening to NHK-AM)[スティービー・ワンダー KEY of LIFE を聞きながら]

2005年12月20日
生育と脳波
ほのぼのとして、そっと思うだけで、すべてのことが、整っていく、つまり、夢も実現していく、けれど、待つことの大切なのは、パソコンシステムの安定への時間、と同じで、しかし、確かに、それは、植物の生育のようで、芽が出て、それからは、自然の力が、育んでくれる、私たちは、そのために、少し手入れするだけで善い、すなわち、私たちの意識と思いが、自然行為に対しては、破壊行為となっているのかも知れなくて、よく観察しながら、その生育を見守り、それで、あらゆる現象も、すくすくと生育する、間違いは、考えることが、それだけで、世界に影響していることの事実に、気づけないでいたこと、つまり、誰かが何かを考えると、その考えは、脳波となって、空気に振動を造り、誰かがそれに反応する、それぞれの周波数があって、同調する、すると、現実に起こるのは、たとえば、テレビの怖さ、小説の怖さ、アスラの現象は、そうして、与り知らないところで、起こる、その脳波の作成者、責任、有るね、だから、やさしい脳波を思い出して、その脳波を発することで、社会も変わることができるのかも知れないのは、これが、コギトエルゴスムだったろうか。

神々は存在するとして、大切なのは、神々を苛立たせないように、自然は神々の感情で動く、自己証明のために、神は正直者に宿るとして、正直者が呻いている社会は、不幸だね。正直というのは、身と心の清浄だったんだね。人間の上に神がいる、その事実を忘れていた、ここしばらくは、それが、たとえば芸能界・テレビ界の思い上がり、勘違い、しかし、やがて、時は熟すよ。そして、神が目覚めて、自信を得たとき、自然が意思を持ったと言えるのかも知れなくて。その時、人間からは、その意思を測り知ることはできなくて、それで、神秘、それ故であろうか、神を畏るべしということにはなっている、のに、しばらくは忘れていたことだった。神とは自然の子だったんだね。つまりは、竜の子太郎だよ。善神が世に現れたからには、悪は滅びるね。善悪の基準は、人間の都合ではない。自然だ。これが、空閑=荒野の掟だった。地蔵菩薩の涌出だね。彼らの時代に切りかわるね。つまり、悪とは、トン・ジン・チ。愚かさは悪だよ。これからは、知性の時代となったね。悪は諦めた方が良いね。始めは小さな悪の癖がね、やがて、凝って、鬼となる、その鬼が角が生えて家に棲みついて元服するとね、魔となり、これが禍を起こす、しかし、この魔もね、改心したいと思ってる、それで、佛さんに頼んだ、すると、佛さんはね、これを受容した、それで、魔も仏子だけは守る約束となった、そして、神の住所が日本であるように、魔の住所も日本だよ。今、時は大なる申酉戌、桃太郎も出てきて鬼退治、牛頭馬頭は帰って貰う。ある時は桃太郎、ある時は金太郎、ある時は一寸法師、すべて、神の子だった。おわり、そして、はじめ、の時ですね。人間的愚かさと無恥の根は抜く、知性と品格・謙虚さの種を植える。神います、清浄なる本来の大和を復興する。神及び如来の意思は実現する。自然が動く。世界が動く。華は咲く。雀は歌う。

「不思善不思悪正当恁麼の時、那箇か是れ父母未生以前、本来の面目」、六祖恵能大鑑禅師が明上座に対して発した言葉です。何も思わなくて善いのです。すべては、成るように成る。鳶が鷹を生むことはない。成るような自分に成って、後は、天命に任せばよい。ここをキリストは、思い煩うことなかれ、と言う。例えば、神は花嫁も与え給う。お似合いのね。ここを信じて待つしかない。待てば、やがて嵐は過ぎ去る。人の子として、住める空間が開かれる。神には神の約束があり、仏には仏の約束がある。仏、仏とのみ、究了したまう。そして、その種は、みな、それぞれ、持っている。さて、どの種を見つけるか、そして、咲かせるか。醜い花は疎まれる。自覚した神は、その意思を実現するとき、およそ、人間の想像を絶する、つまり、自然が動く。神の子には、神の子の試練がある。仏の子には、仏の子の試練がある。それらの試練を通してのみ、神の子は神となり、仏の子は仏となる。そして、得たチカラは何か。如来は神力を知って、それを使うことなく、そこへ至る方法を手段としての教えで説く。学ぶべきは何か。学ぶべきを学ばずして、何をしているのか。

霊長類の研究を通して、人間がわかる。人間は進化しすぎたとも言える。文化的傾向よりはその動物性傾向がね。上野動物園では、ボスザルと呼ばなくなった。確かに、ボス的存在がいる。彼は、餌を独占して中央にいる。その周りに、メスが集まる。その周囲に、独身の雄ザルが取り巻いている。しかし、自然界においてはこの秩序はない。餌は何処にでも有る。その全てを支配することはできない。むしろ、ベネフィットとコストの関係で、マイナスが大きい。サル社会は合理的である。さて、ボスザルがいて、それをメスが取り巻き、さらに、その外周に独り身の雄ザルたちがいるとする。いつまでも、独り身でいるわけにいかない雄ザルがそれまでのボスザルと取って代わったとする。すると、そのサルは、かつてのボスザルの子をかみ殺し始める。自分の子孫を残すことを急ぐためである。子ザルに乳をやるメスは、次の子を繁殖しない。(by NHK-AM)人間社会も、いつも、未だに、同じことが起こっているようだ。平和の名の下に、何をしているのか。本当の平和について、考えるべき頃だね。21世紀文化人として。

かつて、ブラジルにいた奥様とお話しした。その子は、小学4年生で日本に帰国した。今なら、ポルトガル語が話せる帰国子女として、重宝されただろう。しかし、当時は違っていた。時の校長先生は、小学2年生から始めるよう提案した。その奥様は、拒んだ。確かに学力に差があった。日本の言葉も定かでなかった。日本の生活において、ポルトガル語を忘れさせることに、日々、戦いだった。さて、リオデジャネイロでは、日本人は尊敬されていた。彼らは問う、シモネ?コリアーノ?日本人の勤勉さとまじめさを知っていた。ボタンを買いに行って、日本人だとわかると、カウンタの中に入って、自由に探し、選ぶことを許された。他の外国人にはなかったという。それは、それ以前に、つまり、明治の頃に、ブラジルに移民した日本人のお陰でもあった、と。そして、その奥様の仰るには、ドイツ人はその実直さにおいて、日本人とよく似ている。ところで、最近、上海へ行ったときに、上海の人は、日本へ行きたいそうである。しかし、夢であるようだ。日本へ行くためには、240万円に当たる金額を預けないとビザが降りない。帰ってこないからだという。帰ってこなければ、その保証金は没取されるのだろう。しかし、上海の庶民には、それだけのお金はない。また、日本への渡航費用もない。そして、言っておられた。今の、日本のテレビを見ていると、恥ずかしいことばかりしている。これでは、日本はダメになる。周辺諸国は、日本がダメになることを待っているのかも知れない。また、リオでは、大統領がいない時期が4ヶ月あったそうである。その時、土地の人が言った、家から出ないように、買い物が有れば行ってあげるから、と。銃を抱えた方にパスポートを見せろと言われたときは、それは、怖かった、って。自由と安全が何故にあるかを知らず、たとえば、世の芸能人たちの腐敗は、ローマの退廃である。何をしているのか。

2005年12月19日
五十音
あい、愛が一番である。目的である。これを如何に獲得するか。
かき、柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺。どのようにして、この妙音を得たか。
さし、その定規・基準は何か。
たち、太刀で断ち切るべきものは何か。
なに、何を以て、最高とするか、人間の英知。目的、手段。
はひ、我の灰となって(滅)、「はい」と言う。Yesである。真理に対して。
まみ、真美、本当の美しさがわかる。美とは、相手を喜ばせる何かである。それは、供養の定義でもある。
やゆ、揶揄では至れない。ヤイヤイ言っていては五月蠅すぎる。
らり、ラリラリララ、ラリラリララ、歓喜の歌だ。
わを、和を以て尊しとする。解結である。わゐわゐ言っているだけでは、解結しない。
ん、 わかるかな?・・・!

夢幻は無限、智慧を以て何を選択して目的とするか、その為に、何をするか。愚かでは打開できない。何を以て愚かとするか、その根元は何か。無知。何に対する無知であったか。真理。バラエティ(=衆愚)の限界。真理はひとつ。退廃腐敗からの克服。智慧の合力、合同行為。

お笑いではない。喜びである。喜びのあるところ、神の恵みがある。神仏の守護がある。悲しみ→喜び。喜び本線日本海である。敵陣直進突破特攻。神仏の意思と守護がある。「冬、雪冴えて、涼しかりけり」。メビウスの輪が立ち上がった。8。7はHeaven、神。eight→knight、night、夜、月、nine。9→10。ten→天、転、てんまり、てんてまり、てんてんてまりの・・・→蜜柑。ご褒美。神=自然からの祝福。神力。神通力。如来の神力。清浄の果実。8が家にいる→宮。呂、露!関!・・・第八番は「無」。零。零戦。さて、誰が、勝利するか、自己との戦い。勝利して、自然顕現、世間に帰郷する、今日の都(京)へ。心、すべて、良しなりこの世をば、如何して得てむ、心とは、我が力なけむ、大いなる導き有る。

(旅人の木、バナナと同じ芭蕉科。広島植物公園にて開花。この度の開花は6年目のこと。栄養が善かったか。30年前に植えて4度目の開花。これより、1週間楽しめる珍しい花。その葉は東西に開き、旅人に方角を教えた。名の由来である。by NHK-AM)

さて、如来の神力は化人を使う。人為的な化人もあるが、自然の化人もある。この自然の化人は、人だけではなく、あらゆる現象が、化人となる。これが、不可思議である。しかし、今思えば、子どもの頃から、常にそうだった。こんな馬鹿げた話はないね。(植民地再分割請求、存在証明、暁の特攻作戦終了す。2005/12/19 23:08)何事も智慧第一なり。奢りは、目上に対する謙虚さと神仏に対する敬虔さのなきことなり。これ、現代人のオオバカの所以なり。本末転倒。一切の現在リーダーたちの奢りなり。明治以降の恥知らずなり。大和を冒涜することなかれ。身の程を知り給え。さりて、言うべきことは言った。春を待つしかない。この冬を越すしかない。しかし、世間一般、神はいる、畏るべし、本当に怒らせないように、愚弄しないように。

仏法の神髄(真理)
「そのとき、僧たちよ、かの尊きマハー=アビジュニャー=アビブ如来は、かれら幾千万億というブラフマンたちと、王子である十六人の息子たちの懇請するところを知って、そのとき三回回転して、十二の外形をもつ教えの車輪を回したが、この車輪は沙門によっても、婆羅門によっても、あるいは神や悪魔やブラフマンによっても、またそのほかの誰によっても、この世においては二度と回すことのできないものであった。その教えとは、『これが苦悩(苦)である。これが苦悩の原因(集)である。これが苦悩の絶滅(滅)である。これが苦悩の絶滅に至る道(道)である。』という神聖な真理である。また、かの如来は縁起の展開を詳細に説明した。すなわち、無知(無明)が原因で生活活動(行)があり、生活活動のために対象を識別する作用(識)が生じ、対象を識別する作用があるために名称と形状(名色)が識別され、名称と形状のよりどころとしての六種の感官(六入)があり、六種の感官が働くためには対象に接触すること(触)がなければならない。対象に接触するためには心のはたらき(受)がなければならないし、心がはたらくためには欲望の満足を強く求める心(愛)が起こらねばならぬ。欲望の満足を強く求める心の原因として深く思いこむ心(取)がなければならない。深く思いこみ具体的に固執する原因は自己の生存(有)であり、自己の生存の原因はこの世に生まれること(生)であり、この世に生まれたが故に老と死(老死)とか憂いとか悲しみとか苦しみとか不安とか悩みとかが一緒に生ずるのである。このようにして、苦悩の大きな塊の全体が起こるのである。従って、無知を滅することによって生活活動はなくなり、生活活動をなくすることによって対象を識別する作用は起こらず、対象を識別する作用が起こらなければ名称と形状はなくなり、名称と形状がなくなれば、それを識別する六種の感官は不用となり、六種の感官をなくすれば対象に接触することは不必要となり、対象に接触することがなければ、心のはたらきは起こらない。心のはたらきがなければ、欲望の満足を強く求める心はなくなり、欲望の満足を求めることがなくなれば自己の存在は問題とならず、自己の存在を否定すれば生まれることがなくなる。そして、生まれることがなければ、老も死も、憂いも、悲しみも、苦しみも、不快も、悩みも、すべてなくなるのだ。このようにして、苦悩の大きな魂の全体がなくなるのである。」(岩波文庫『法華経(中)』p55-57 「化城喩品」)

これが、仏陀の悟りとしての真理であった。この世の、生老病死の苦悩からの解放が彼のテーマであった。そして、難行苦行したが、解結はなかった。しかし、その難行苦行を通っていたが故に、靜慮という手段に至った。そして、気づいた。仏陀が、見つけてくれた真理である。私たちは、ここから始めれば良い。この理を真に知るための業がある。そして、この真理を体験的に知ることこそ、人類の永遠の夢であった。しかし、私たち一般は、この真理の存在さえ知らず、あるいは、知ろうともせず、認めようともせず、エネルギーを刹那的快楽に使用している。愛(情熱、パッション、孔子の公憤)はエネルギーの根元であるが、それを使う目的を誤って自分解釈し、その必然として、法則通り、生老病死という地獄へと再び赴く。悲しき存在である。せっかく人間として生まれて、生老病死の原因とメカニズムを学び、それより解脱する手段としての方法(業)も見つけて貰っていて、その方法は、難行苦行ではなく、普通に生活しながら、つまり、五欲を断ぜずして、五衰より三楽へ上昇できるチャンスを得ているのに、六道を輪廻してしまう。これを以て「悲」と言う。気づけないのである。人間に生まれた意味は、この真理を知り、自分たちも、仏陀と同じ安楽を得ることにあったはずであり、過去において、それを恋いこがれ、憧れていたはずであったのに、である。たとえば、ここに言う、自分の存在を否定することの意味にしても、自分解釈して、取り違えている。不生、不死についてもである。自分の存在を否定するとは、むしろ、自分を大肯定することである。これを以て、仏語は、人間の言葉を超えている。人間が人間である限り、その解釈を間違う。因って、体験的に悟るより他はない。ここに、理入を得て、行入の必要がある。それは、祖先の供養とか、菩薩として生活してみるとか、仏を讃えるとか、真理としての法を讃えるとかである。そうして、この自然が、たとえば、『十牛図』の第九番のように、還現する。「花は紅、柳は緑」である。そして、第十番は、世間に帰る。これを以て、「廬山は煙雨、淅江は潮。未だ到らざれば、千万感消せず。到り得て、帰り来たれば、別事なし。」(『廬山は煙雨、淅江は潮』蘇東坡)である。至る前も現実、後も現実。同じ現実であるが、違う。「大死一番絶後に蘇る」。難行荒行苦行は要らない。しかし、これより他に、真の幸福へ至る乗物はない。過去より諸聖賢の証明しているところであり、経験を通して、自得するところである。そして、この真理の内容と、そこへ至る方法が、秘められていた國が日本であった。世界そして人類の秘宝である。もはや、疑いはない。かつてあった、仏国土、あるいは、楽園の建設である。悪の根は抜く、善の種を蒔く。これが仏の一大事であった。始めに戻る。一から始める。ごわさんである。(御和讃?破産?七五三→1?・・・?・・・『遠野物語』だったろうか。著者は言った。「ピピッ」、その時、鳥が鳴いてくれなかったなら狂っていた、と。)

2005年12月18日
ある二十歳の女子
2.26事件が何故起きたか。青年将校たちが何故暴挙をしたか。東北における飢饉だった。妹たちが年期奉公に出された。その運命たるや悲惨を極めた。それは、明治の製糸工場にも等しかった。あるいは、精神的苦痛はそれ以下であった。今も、同じことが起こっている。父親が失業した。その父親は某国立大学卒であった。しかし、家計を支えるために、その子はキャバレーに勤めた。そして、今、二十歳である。この社会のギャップは何だ。世の知識人たちよ、よくも、浮かれた勝ち組とのさばっていれるものである。見る目を持っていない、としか言いようがない。それで、知識人とよく思えるものだ。同じ時代に生きていて、この日本の底辺で何が起こっているのか。オオバカ知識人たちよ。来世はあなた方の子がその目に遭う。メビウスの輪である。堕ちた彼女たちを努力しなかったと責めることができるだろうか。ニートたちを、あなた方は、責めることができるだろうか。彼女たちの因縁は、あなた方の因縁である。万物同根。何のために、勉学しているのか。単なるエゴとしか思われぬ。努力したくてもできない女子がいるではないか。西洋個人主義インテリゲンチャ及び経済至上主義の弊害だね。医学上の病だけが病気ではない。貧しさも病気である。思いとのギャップはすべて病気である。肉体上の疾患だけが病気ではない。問題は、この因縁が、来世に遺恨として残る。あなた方の子孫が、その報いを受ける。もっと、視野を広げては如何か。こうした、因縁というものに。自分とは関係ない、と思っていないか。宇宙は全て連動している。鳥ウィルス?渡り鳥は制御できない。貿易風に国境はない。「苦悩の迫害に打ちひしがれた者たちを済度されよ。人々に悦びを味わわしたまえ。教えを聴いて、かれらは「さとり」を得る者となれ。また、神々しい場所に行け。すべての者はアスラの身体を捨てて、平静で、温和で、安楽であれ。」(岩波文庫『法華経(中)化城喩品p39-41)』)今日は平成17年12月18日。12月としては、異例な大寒波である。呉の町も粉雪が舞い、あたかも、北の雪国であるかのようである。<冬将軍、顕現せしは、過去からの、しるしなるかな、何か生まれむ。>(奴隷解放、西郷隆盛銅像建立、東京駅命名の日[NHK-AM 2005/12/18 Sun. windy&snowy 5:31am] 広島において観測を始めてから最も多い雪の日)存在するべきbeingは、自らの意思を自然によって矯め直される、敵対する者は、自然が排除する、そして、やがて、白鳥の如く、身心の清浄となり、自らの存在に気づく。たとえば、ダイヤモンドは、始めよりダイヤモンドではないが、だれもが、ダイヤモンドに成るのではない。自然の環境が、ダイヤモンドを造る。自然は、長い時を待って、慈しみを以て、育む。そして、ダイヤモンドがダイヤモンドと成った時、自然は、自らの威光・威厳を証明する。自然の業がある。私の父の頃、中流社会と言われた。今、下流社会と言われている。何故か。「甚深」とは、海よりも深く、山よりも高い、父母の愛と言われているが、自然を親とする存在がある。仏が父、如来が母と言うべきか。見える世界が父、見えない世界が母と言うべきか。金剛界が父、胎蔵界が母と言うべきか。自然=神・・・宇宙・・・魂。はるかな時の流れを観ずれば、悠然として、この世の一切を靜慮する、その時、一切の煩わしさから解放され、苦悩はない、ここへ至るは、唯、身心の清浄あるのみであり、そのプロセスは、往々にして、人間は脱落する、至りつけるは、唯、祖先の導きあるのみか、一つ間違えば、至りはしない、間違えたとき、治癒すべき軽微な瑕疵であったかどうか、少々の傷はある、所詮、人生は、孤独な航海である、私たる身体を舟として、やがて、帰りつくは、故郷であり、港である、赤子の心でなければ悟れないとする禅の意味するところであり、人は、往生する頃に至る、この帰りなむ、いざ、を何時果たすことができるか、壮年にして至るを「さとり」とする、前世からの積み重ねを要する所以であり、至れば、その後は、極楽であり、三楽であり、余慶なる、三藐三菩提成就哉。(2005/12/18 6:12am)さて、ある禅僧に老婆が尋ねた。憐れみを以て、我に教えを給え、と。禅僧はその老婆と傍らの夫の頭と頭をぶつけた。思わず、「痛い」と老婆は叫んだ。禅僧は言った、「そこから始めるが良い」。修身斉家治国平天下。修身とは何か。家庭の基礎は何か。夫婦喧嘩は犬も食わぬ、本来は。しかし、身の勝手が過ぎている。仲良くしては如何か。互いに、信頼しては如何か。その為の一夫一婦制度であろう。家庭は王国、王は誰か。信頼の基礎が崩れる所以は何か。姦淫。芸能界及テレビ界或いはセレブ諸氏要猛反省!新しき世代、若者たち或いは庶民を惑わせし罪は重い。身の清浄なき者、これ諸悪の根元、公に出ることなかれ。悪しき周波数を発することなかれ。本来、古来、日本は大和。明治以降の本末転倒は、神が許さぬ。しかしながら、如何なる場合も、現実に対する因縁は、悪いことは全て自分に責任があり、善いことは仏さまのお陰である。これも、新しい仏説である。それで、謝るところからしか入ることはできない。「衆生自ら出ること能わず」、「唯、善業の因縁より出たり」。謝るためには、仏さまの因縁を頂くしかない。つまり、仏子となって、法を聞いて、よくわかり、実行することで、修行するしかない。成功は、すべて、努力の結果である。地蔵尊は地獄から掬う。地獄界がわかれば、仏界がわかる。地蔵尊は、また、閻魔大王である。アカシックレコードはある。それは、閻魔帳である。閻魔帳より、過去の悪を消して貰える。仏の説を聞いて、実行して、謝るならば。これが、人間の特権。仏所(仏の住所)破壊、仏説破壊、悪の根元である。原罪である。

「指導者に会うのは、まことに得がたいことである。よくぞ来られた、生活の汚れを滅ぼす方よ。あなたは、今日、この世に久しぶりに現れられたのだ。百劫を満了して、われわれは、いま、ようやくあなたの姿が見られる。渇きはてた人間をうるおしたまえ、世間の主よ。いずれにせよ、未だかつて見たことのないあなたの姿が見られた。ウドゥンパラの花のように見ることのむつかしあなたの姿が、いずれにせよ、見られたのだ。」(岩波文庫『法華経(中)』p43-45 「化城喩品」)「幾千万・幾百万の衆生たちを、苦悩より解放したまえ。」「かの世尊は無言のままでマハー=ブラフマンたちの言葉を受諾した。」(岩波文庫『法華経(中)』p47 「化城喩品」)「あるいは、殊勝な業を具えた、ある天子がこの世に生まれたのであろうか。・・・それとも、遂に仏がこの世に現れたのか。」(岩波文庫『法華経(中)』p49 「化城喩品」)「有難いことに、あなたは確かにこの上ない仏の智慧に到達された。われらは、神もともに住む世間もまた、あなたを歓迎する。・・・われらも、すべての衆生も、最高の「さとり」に到達せんことを。」(岩波文庫『法華経(中)』p53 「化城喩品」)「世尊はこの世に平安の境地を示したまえ、・・・神も悪魔もブラフマンもともに住み、沙門と婆羅門のいずれを問わず、人間の住むこの世に教えを示したまえ、・・・幾千万劫のあいだに得た、耳に快き妙なる音声を放て。」(岩波文庫『法華経(中)』p53-55 「化城喩品」)

2005年12月17日
人間の英知
既に人類の英知がある。これから、はじめさせて貰えばよい。それが人間の英知である。どこから始めるか。最高の英知はドコにあったか。ソクラテス、仏陀、キリスト、孔子。そして、そのそれぞれに何か付与できるものがあるか。いくつも山はある。どの山を登るか。頂上より見る景色は絶景か。自由とはね、如来を知ったときだね。人間レベルでどんなに語っても人間レベルを超えることはない。そうした限界を知って語ることも必要だね。語るというのはね、内容ではないのかも知れない。人格と人格の接触だね。それが魅力となる。雰囲気と言っても良い。くだらない話をしているとね、脳が痛くなるよね。これが、苦悩の原因となるのかな。全てを理解できない。理解できるところからで良いね。魅力ある人生でありたいね。説明は要らない。良いものは良い。何を表現しても自分の表現だね。自分は何の花を咲かせているのか。芍薬、牡丹、・・・。ガーベラ、彼岸花(おぞましい)。蟹の姿を見ると蜘蛛かと思う。好きにはなれない。貝はアカガイ、そのヒモの寿司が食いたいね。やはり、アワビが最高かな。魚の刺身もかみしめると美味しいよ。トロは大トロと言うけれど、カマだね。アラ炊きは、ヒラメが最高さ。美味しさいろいろあるけれど、人間の英知が一番美味しいよ。努力努力と言うけれど、結果、不幸となる努力は悲しい。しかし、努力してるとね、必ず、大いなる力が味方してくれる。だから、世間一般の要領のよさがいけない。間違った方へ導かれる。自分のチカラで例題を解いてね、それが、大いなる存在を喜ばせる、すると、大いなる力が味方についてくれる。試練はあるけれどね、必ず、幸福へと導かれる。試練が大きいとね、喜びも大きいよ。今、安易に成功している方々を師とするとね、地獄へ堕ちるよ。すでに、聖賢は多く存在している。学ぶべきは、聖賢からが良いよ。至りつく世界が違う。往々にして、人間は諦めるね。諦めたらそこが終着駅となるね。魂のレベルはね、良いよ。宇宙の胎蔵界へ入れるよ。極楽だ。低いレベルだとね、来世も、また苦しいよ。

A・トフラー著『第三の波』が、世に論じられたのは、昭和56年だった。その後、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出た。しかし、その流れは、バブルの崩壊として帰結した。何故か。日本経済に世界が期待したのは、機関車としての牽引力であった。無意識的に、世界は、日本にその能力があることを感づいていた。確かに、その頃、瞬間的にその可能性があった。しかし、日本はその原動力としての核を失っていたのだった。それに気づく者はいなかった。そして、必然として、日本経済は逼迫した。これも、真実を知らしめんが為であったと今は言える。さて、第三の波はITである。そのインフラは整った。いよいよ、日本があらためてその真価を発揮しなくてはならない時を迎えた。真実の中の方便としての時を過ぎて、真実の中の真実の時を迎えたと言うべきか。世界が無意識に日本に期待したのは、当時、世界で最も安全な文化国家であった。何故、日本が最も安全な國であったのか。それは、たとえば、国鉄のダイヤの正確さが象徴となる。日本の勤勉さである。スイスよりも日本の方が安全であったはずである。世界の資産家は、日本のマーケットに期待していたのはそれであった。日本の勤勉さは何故あるか。それは、日本古来の精神にある。スイスでは、庶民は家庭に銃を持っている。個人の安全は個人で守らねばならぬ。日本の家庭には銃はない。また、世界において、最も古い國は日本である。中国五千年と言うが、何度も、王朝が入れ替わっている。ヨーロッパはゲルマン民族大移動後のことである。古代王朝で、その純粋性において、万世一系を誇るのは日本のみである。また、自然の恩恵を受けて、日本こそ、四季(season)の咲き乱れる唯一の國である。これが、日本こそ、最後の楽園であり、また始めの楽園であった所以であり、人類という生命体に秘められていた謎であった。あらゆる記録あるいは物語を分析して、得られる結論である。して、日本史と世界史とが合流して、いよいよ、世界が地球となって、その地球が進むべき道をドコに求めるかとするとき、オリエントの極東日本が、純粋精神の種が、諸神仏によって守護されていた國として浮上する。大和魂は汚れ及び嘘がない。しかるを、西洋文明にかぶれた輩が暫く支配していたことも、反省されて、本来の日本のクラシックが復活する。すると、花咲けば、誰もがその存在に気づく。日本こそ、世界の財産を預けるにふさわしい國として、世界が日本を再認識する。富が、託されるのである。日本が日本古来の精神に目覚め、それを復興する所以である。世界は、意識的に、それに気づく。歴史の流れであったのだ。約束であったのだ。これが、新しい世界の幸福論である。そして、それが、証明されつつある。そのための、試練の時があった。そういう認識で足りると思われるのです。因って、未来は明るい。すでに、日本は日本であり、そのままでよいのですから、苦労はないのです。本来の日本を素朴に表現すればそれで良い。勤勉さと精細さは、技術において、日本に勝る國はないのですから。ありのままの日本で良いのです。それで、本来の価値に基づいた牽引力を発揮できるのです。無理しなくて良いのです。さて、日本はどうあるべきか。

日面佛、月面佛。日天子、月天子。どちらも佛である。寿命の長い日天子、短い月天子。細く長くとも言うし、太く短くとも言う。一生で食べる量は決まっているとも言う。しかし、佛にしてみれば、一切足りている。プラスでも足りている、マイナスでも足りている。善でも良し、悪でも良し。所詮、人生である。そこを、鈴木大拙氏は、人殺しもいれば、泥棒もいる、だから面白いと。花は哀惜に散り、草は棄嫌に生ふる。それぞれの人生である。佛から見れば平等である。結果、何処へ行くかは別論としても。それで、是諸仏法、諦則がある。苦悩からの脱出、それが仏法。衆生功尽きて大火と焼かるると見るときも、我が此の土は安穏なり、如来の約束である。であるが故に、一切大衆に、救われる道を進んで欲しい。しかし、往々にして、自ら地獄へ赴く。世の説法者も然り、人間である。人間である限り、一切衆生自ら、出ること能わず。それでも、地獄へ向けて、愛とか何とか、知ったようなことを言っている。因って、哀しむべきかな、と。地獄へ急いでいるのをえ知らず、自由とか思っている、悟りを知ったつもりでいる。で、日面佛、月面佛。如来を知って、生きようが死のうが、・・・。悟りとはそうした境涯である。楽であることは格別、保障されている。お金はなくても。世に、説法者ほど思い上がりはいない。言っていることと己の現実が乖離している。偽善の原型。僧であるなら、僧に徹するべし。今、僧がビジネス手段となっている。墓所を売っている。しかし、それは、飽くまでも使用権、制限物権であり、仮のものである。それで、商売している。世の学校教師もそうである。先生と呼ばれるべき人格がない。何故、こんなにまでも、内容がなくなったのか。金銭至上主義の故である。

君にも、メタ概念としての君がある。それが、神である。

2005年12月16日
草野心平 カエルの冬眠
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新国家論 神の実体
デカルトは言った。「我思う故に我あり」と。プラトンは哲人政治を説いた。清盛は、「望月の欠けたる事なしと思えば」と歌った。アッシリアは神の名において肥沃な三日月地帯を統治した。その時々において、支配=統治は、権力・武力・金力によって為された。今もそうである。そして、王権神授説にしても、王政復古にしても、そこに大義名分は、神であった。「時が満ちる」という概念がある。また、『法華経』が何故に経典の王と言われているか。旧約聖書と法華経こそ、秘密の蔵である。見えない世界と見える世界がある。見えない世界が、見える世界を支配している。表現は文字である。文字によって見える世界は支配される。契約がそうである。音声は見えない。見えないが、抽象的に存在する。そして、音声は誘導力がある。言ったことは、やがて実現する。これを、閨房においても王を呪ってはならぬ、小鳥がそれを運ぶから、と言われる。さて、この誘導力にも、チカラの大小がある。樹木と雑草に格における差があるのと同じである。チカラのある存在が音声を出すと、それが、誘導力となって、見えない世界が動く。そして、見える世界に現成する。是を以て神力とする。法華経の言う最高の「さとり」が是である。さらにそのチカラが進化すると、思うだけで、黄泉が動く。因って、怖ろしい。そうした秘密は、アッシリアの頃からあった。今もあって不思議はない。因って、神を畏れよとは言う。時が満ちるとは、人間の傲慢が熟するときであり、悪がはびこるときである。その時、神が現れる。それが、旧約聖書の預言である。もはや、時である。2000年来の時である。神は、人間の傲慢を決して許さない。時が満ちるまでは、わからなかっただけだ。如来は法華経で言う、完全な「さとり」を得るまでは、決して法華経を説くことはない、と。2000年来の種が芽生えたと言うべきか。神の実体は、羅刹かも知れぬ。そして、法華経の説くところは、如来の智慧のチカラと自信である。さて、見えない世界こそ自然である。自然が亦如来である。自然=如来=神=宇宙・・・魂である。魂は宇宙とリンクしている。魂を得た人格は、宇宙=自然が祝福し、守護する。これが、最高の「さとり」の結果としての神力を発揮する。発揮して如来である。如来の智慧は、佛の智慧である。そして、この智慧は、ただ、釈迦牟尼佛のみが説く。宇宙の王である。その國は那國常所である。常とは永遠という意味である。宇宙の中心、那國常所において会議があった。腐敗した地球=エンブダイを誰かが救いに行かなければならぬ、誰が行くか。誰も志願しなかった。一人、釈迦牟尼佛が手を挙げた。久遠の昔、地球は、平和だった。宇宙の王の秩序下にあった。佛の住所としての仏所があった。よるべとするべき仏説もあった。しかし、野蛮な人間にとって、この上ない、邪魔だった。自分たちの思うようにならなかったから。そこで、人間の頭たちが、仏所と仏説を破壊した。それから、人間の歴史が始まった。殺戮と破壊の歴史だった。理念、精神も破壊した。しかし、芽が出て葉が出て花が咲き実となり、実となってはじめて種を得る。一巡りである。久遠の種が何であったか。一切種智慧。360度(ミロク)巡って、元に還る。真実の種が分かる。人間の分際もわかる。人間である限り、結果、腐敗と堕落でしかない。今、原点に戻る。ひとつの失敗を反省する。振り出しだ。ここに、地球の限界も露呈している。人間が反省し、もう一度、一からやり直しである。二つの切り株としての種はのこっていた。神と仏である。反省するべきは反省しなくてはならない。反省とは、過ちを認め、同じ轍を踏まないことであり、具体的に、処方して、眞の平和と愛とを手段として、本来の目的である楽園あるいは佛国土を建設し、その果を幸福として享受することである。破壊は悲しい。建設は喜びである。同じ労力するなら、どちらが良いか。明らかである。同じ人間の姿をしていても、初めて人間となった生命体があり、すでに、過去において、人間或いはそれ以上であった生命体がある。これが、真実だ。陰門ばかり追いかけているのは前者である。畜生である。人間界はそういう世界である。己の分際を知るとは是である。因って、過去において佛を見ていた者は、一を聞いて十を知る。つまり、それを思い出す。それに対して、過去において、岩石或いは畜生であった者は、辛い思い出しかない。因って、仏の慈悲を理解しない。現実を厳しいもの、つらいものと思う(現実の厳しさ、つらさは、過去の自分の悪性の懺悔のためである、自分の悪性を認め、これを謝ることで、許して貰えるチャンスである、過去の悪を消して貰える、楽へと行ける、閻魔帳から過去の過ちを消して貰える、人間の特権である)。あえて、真実が説かれる時となったと言うべきか。すでに、法華経には説かれていた。今、現実社会は、本末転倒している。智慧の有るものにとっては、地球は、その可能性において、無限である。但し、既存のパラダイムは、既に、限界である。権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅びる、ただ、法力あるのみ、新しい仏説である。法力とは、例えば、仏説を聞いて、よくわかり、実行して、見えない世界に認められ、祝福され、守護されて、如来の神力とでも言うべきチカラを得て、思いが宇宙に通じ、見える世界に実現することである。これを、佛の事(じ)と言われている。すなわち、現実がたんなる偶然ではなく、目的を持った意思の必然であることに気づくことになる。見えない世界が確かにあってそれが動き、現実に実現する。かつて、このチカラも、時々の王によって、随分と間違った。それが、権力であり、武力であり、金力であった。しかし、権力は市民革命によって反省された。武力は、20世紀に、無差別殺戮(水爆、中性子爆弾)として結果することで、反省された。金力については、現在、反省されつつある。さて、仏説があって、その説と、真実のお経典があって、そのお経典と、現象としての現実とが一致して、それが、真実である。新しい仏説である。このように聞いている。見える世界は、見えない世界の犠牲の上に成立している。あるいは、していた。(2005/12/16 1:51am NHKラジオ深夜便を聞きながら)ところで、佛とは、蓮=連、つなぐ能力を持っている存在である(機関区操車場)。何をつなぐのか。法=現実である。特に、過去と現在と未来をつなぐ。五字とは、妙法蓮華経、七字とは南無妙法蓮華経、それぞれその中心は、蓮・法。つなぐとは、縦と横。縦は歴史、あるいは、過去・現在・未来、そして、祖先・自分・子孫。横は現在の世界、あるいは、現代社会、同世代、家族・親族。つなぐ中心は、現在・自分=人間。その能力は如何。身心、清浄。清浄は修行を通して賦与される。奥義は、魂=自然=宇宙(神仏)。果は祝福、幸福。主体は人間。魂を扱える特権。是、主体性の理論。五欲を断ぜずして、成仏できる。是、人間の尊厳。良い時代です。

イザヤ書
8・11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。
9.5-6 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
10・24 やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る。
10・27 その日が来れば、あなたの肩から重荷は取り去られ、首に置かれた軛は砕かれる。
12・2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌。わたしの救いとなってくださった。
14・24 わたしが計ることは必ず成り、わたしが定めることは必ず実現する。
14-30 乏しい者も、糧を得、貧しい者も、安らかに伏す。
(かつてローマ帝国があった。今、その末裔はいない。古代エジプトの末裔はいるのだろうか。何故滅んだのか。)
19・24 どこにいるのか、お前の賢者たちは。彼らに命じて、お前に告げ知らせよ。万軍の主が、エジプトについて定められたことを。
21・1 ネゲブに吹き荒れるつむじ風のように彼は来る。
21・2 欺く者は欺き続け、荒らす者は荒らし続けている。・・・私は呻きをすべて終わらせる(『呻吟語』もあったね、論語より勝れているとも言われている)。
21・5 宴は広げられ、座は整えられ、人々は飲み食いしていた。「立て、武将たちよ。盾に、油を塗れ。」
22・11 しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず、遠い昔に都を形づくられた方を、見ようとしなかった。
22・19 主人の家に恥をもたらす者よ。
22・22 わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう(宇宙の王、佛は、宇宙を有無開閉する四大原動力を持っていると言われている)。
22・25 だが、その日には、と万軍の主は言われる。確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ち、それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれる、と主が語られた(解放、自由)。
(太陽は父、月は母。その子たちは、今、毎夜、遊女となって世界中で姦淫している。)
25・8 (主は)死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。
26・1 我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた。城門を開け。神に従い、信仰を守る民が入れるように。堅固な思いを、あなたは平和に守られる。あなたに信頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩(ロックンロールだね、君が代は、今宵苔むしローリング、さざれ石となって平和)。
26・7 神に従う者の行く道は平らです。
26・10 神に逆らう者は、(神の)憐れみを受けても、正しさを学ぶことがありません。
26・18 主よ、苦難に襲われると、人々はあなたを求めます。
26・19 あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。
27・1 さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで。
27・5 わたしを砦と頼むものは、わたしと和解するがよい(和平)。
28・26 神はふさわしい仕方で彼に示し、教えられる(法華経の如来と同じことを言っている、智慧、知性を嘲っていたことが罪か、名宛人、主体は人間、愚かさの支配に対する警鐘、この真実を知り得、密かに自分だけの砦を築いていた知識人たちも、その傍観の故に、結果、社会腐敗の責任ついて、同罪か)。
28・29 主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる(佛も然り)。
29・4-5 亡霊のようなお前の声は地の下から聞こえ、お前の言葉は塵の下からかすかに響く。・・・そのことは突然、瞬く間に起こる。
32・4 軽率な心も知ることを学び、・・・
32・8 高貴な人は高貴なことをはかり、高貴なことを擁護する。
33・1 お前は略奪し尽くしたときに、略奪され、欺き終えたときに、欺かれる(時が満ちるということ)。
33・6 知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。
33・10 今や、わたしは身を起こすと、主は言われる。今や、わたしは立ち上がり、今や、自らを高くする(佛はすでに立ち上がっておられる)。
33・13 遠くにいる者よ、わたしの成し遂げたことを聞け。近くにいる者よ、わたしの力強い業を知れ。
33・15 正義に歩み、正しいことを語り、虐げによる利益を退け、手を振って、賄賂を拒み、耳をふさいで、流血の謀を聞かず、目を閉じて、悪を見ようとしない者、このような人は、高いところに住む。その高い塔は堅固な岩。彼の糧は備えられ、水は絶えることがない(これはそのまま、歴史であり、内面の戦いであり、国家である。是を自覚することが、如来の知恵であり、ここに至れば、宇宙が祝福する。それが、神力である。禅においては、自己一身の問題であるという。その意味での行であり、人生であり、生まれてきた意味があり、使命である。そして、ここを知って、知性とは言うのであり、智慧の泉があふれる。愚かな世間、これ以上、知性を嘲ることなかれ。少なくとも、公の電波で、愚かさを正当化することなかれ。あなた方の、姦淫の罪は重い)。
33・18 あのとき、数を調べた者はどこにいるのか。量った者はどこにいるのか。やぐらを数えた者はどこにいるのか、と。
33・24 都に住む民は罪を赦される。
35・2 花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。
36・3 今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。
37・20 私たちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上すべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください。
37・23 お前は誰をののしり、侮ったのか。誰に向かって大声をあげ、高慢な目つきをしたのか。(神とは知性である。知性を笑いものにしたバラエティ=お笑いの罪がある。大和民族の精神の繊細さがある。明治以降、愚弄された。神を侮る者がいれば、その者に対しては、死に神が来る。)
37・26 お前は聞いたことがないのか。はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを。わたしは今実現させた。
37・28 お前が座っているのも、出て行くのも、入って来るのも、わたしは知っている。(これが如来の証明である。気づくまでは、検閲かと思った。全ては神の計画の中にある。孫悟空が佛の掌の中にあるに等しい。そして、神は忍耐強く待っていた。秘密の種が花咲く時をである。この時、時が満ちる。全ての悪が裁かれる。如来の智慧の力と自信が証明される時でもある。不可思議、全ては、この時のために、準備されていた。知っても知らなくても。しかし、知るべき方々は、この時が満ちるのを、待っていた。この時を待って、自然=神々も動く。万軍の主の喇叭が鳴り響く。総攻撃となる。)
37・32 エルサレムから、残った者が、シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就させる。(世間の欲情に染まらなかった方々である。あるいは、空閑=荒野にて、地に埋もれし知性ある、地より涌出せし方々である。地蔵菩薩。)
37・36 わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために。(今、この城塞は、魂=精神の格調のみである。守るべき砦は、ここのみとなってしまった。しかし、この砦は譲れない。大和魂=純粋精神の砦である。もはや、背水の陣とはこれを言う。Z旗は揚げられた。)
38・5-6 わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。
38・8 太陽は陰の落ちた日時計の中で十度戻った。(清盛の日招き岩か。)
(背水の陣での試金石、神佛を認め、信じることができるかどうか、世間の知識人、そして、マスコミ関係者に、問う。無神論はもはや克服される。無神論者こそ、明治の残党、近代知識人、亡国の民。故は如何。神仏の前に正直を得る。神仏を否定する者は嘘をつく。妄念=嘘こそ地獄の門。世のリーダーたちの試金石である。)
40・21 お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか。初めから告げられてはいなかったのか。理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。

一般に、西洋絵画におけるキリストの肖像は優しい美男であるが、真実はどうであったか。聖徳太子の肖像は羅刹のようである。チカラを得た者の顔である。彼も少年の頃は美男であったであろう。チカラを得るまでは。ハリウッドにおいて、スターの肖像が何を意味しているか。ジョン・ウェインが懐かしくはないか。唾棄すべき腐敗社会をどうするのか。男は男、女は女であって、自然。人間の傲慢が極まっている。何故か。本来、人格者であった市民社会の制度である民主主義が、衆愚化しているからではないか。それを黙認した、現代知識人たちの責任ではないか。

主とはまたチカラを得た人間であり、無限の智慧を獲得した存在であり、その手段は、法華経に在る通り、手段である、とも言える。21世紀、時は満ちた。目的、手段。目的が定まれば、手段はやってくる。万物の霊長である人間に、自然が期待している。人間もここまで進化した。ニュー・フロンティア、心の地平。新しいパイオニアたちの時代である。新ゴールド・ラッシュ成るか。黄金の國、ジパング。東方見聞録。常に日本は黄金の國である。今、黄金は、大和魂=純粋精神である。日本に秘められて伝えられし宝である。ある時は武士道、いつも、日本を救うチカラである。このチカラが世界を救う時を迎えたと言って良い。Dig it ! 掘るべき鉱脈は是である。日本の財産である。それがクラシック。精神のクラシックは、世界において、日本である。是がオリエント=東方の秘宝である。目覚めるべし。何時までも腐敗・愚かではいられない。神・佛の住所は、日本である。これまでのあらゆる謎は解かれた。やがて、新たな封印となる。21世紀の目撃者が記録する。時代はこうして変遷する。人類の新しいはるかな旅の始まりである。久遠の昔もそうであったように。原点に戻った。今は、そういう時である。

40・28-31 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
41・1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て悟れ。互いに近づいて裁きを行おう。・・・・・・・(11:36am 2005/12/16 NHK-AMラジオを聞きながら)

禅宗『無門関』に「倩女離魂」の話がある。月の王である人間と女との分裂、あるいは、人間において魂との分裂。人間に生まれて果たすべきは魂との合体であり、これを得て、自由無限軌道に乗る。仏陀が明星を見て輝き始めたように、その人に火が点る。+と-で火か点る。マイナスとしての試練=悲しみ・逆境はその為にある。悲しみが大きければ大きいほど、点った灯は明るい。点って灯である。一隅を照らす。
【QED「我証明せり」】

2005年12月15日
イザヤ書
1.7 お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で、異国の民が食い尽くし、異国の民に覆されて、荒廃している。
1・18 論じ合おうではないか、と主は言われる。
1・20 お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。
1・21 どうして、遊女になってしまったのか。忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに。今では人殺しばかりだ。
1・27-28 シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。背く者と罪人は共に打ち砕かれ、主を捨てる者は断たれる。

(唯、愛せよとか言っても愛せるものではない。愛は、地獄を通って初めて知ることができる。因って、愛だけを説いても、世間は、むしろ迷う。羊ではない狼の群れを制御しようとしてもできるものではない。また、羊として遇することは、人間の尊厳に反する。愛を説くだけでは世界は救えない。因って、例えば、佛の智慧、如来の手段がある。万物の霊長たる人間を導くには、旧来の手段では不能である。在来の説法は噴飯ものである。真実を知らない方々の言葉であるからである。言葉が概念として上滑りしている。だから、庶民は信じない。説法者の思い上がりがある。心に於いて。音声にそれが露呈している。神でもないのに、神を語っても、庶民は聞きはしない。先ず、説法者が神となっては如何か。はじめより諦めてはいないか。誰もついて来ない。ついて行かない。現実を見よ。この現実からの脱出のためにどうするのか。具体的処方が必要である。チカラある言葉がロゴスとして出てこなければならない。説法者は無責任に説法している。本気で掬う気があるのだろうか。それで、庶民は疑う。この意味、わかるだろうか。庶民は、その魂において、真実の言葉を待っている。過去からの模倣の言葉では誰も信じない。「本を読んだり人から聞いたり、そのように他所からはいってきたものは大したものではないという。”自己の胸襟より流出して蓋転蓋地なるべし”」[大蔵出版刊、苧坂光龍著述、『提唱無門関』p5]説法者の説法より、ミュージックの方が、より真実を語っている。)

2・18 偶像はことごとく滅びる。主が立って地を揺り動かされるとき、岩の洞穴、地の中に入るがよい。主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。

授記品
「完全な学識と勝れた所行を具え、この上ない幸いに到達して、最もよく世間を知り、人間を訓練する調教師であり、神々および人間の師であり、仏であり、世尊となるであろう。」(岩波文庫『法華経(上)』p301)「また、そこには、悪意をもつ悪魔が姿を現すことなく、悪魔の眷属どもも見出されないであろう。しかし、後になって、悪魔とその眷属どもがいるようになるであろうが、たとえそのようになっても、かれらは、その世界でかの尊き・・・の教えを受けて、正しい教えを受け入れようと努力するようになるであろう。・・・かれらの許で彼は仏の智慧をもとめて、純潔を守って修行するであろう。仏たちに供養し、この最高の智慧を得て、最後の化身において世間の拠りどころとなり、比類のない偉大な聖仙となるであろう。」(岩波文庫『法華経(上)』p303)「かれらは心をよく克服し、偉大な神通力を具え、広大な教えを説いた経典を信奉する聖者であろう。教えの王者である仏の汚れない弟子たちが、最後の肉身をあらわして、そこにいるであろう。」(岩波文庫『法華経(上)』p305)「われらの貧しい心を終わらせたまえ」(岩波文庫『法華経(上)』p307)「かれらは六種の神通力と三種の学識をもつ偉大な神通力の持主で、八種の解脱に通暁している。彼が最勝の「さとり」を説き明かすときに現す神通力は、考えられないほどである。」(岩波文庫『法華経(上)』p313)「彼は最後の化身を清浄な国土に現すことができて、仏となるであろう。この智慧を充満させたのち、幾千万億という人間に示すであろう。彼は神もともに住むこの世において崇められ、この世を照らし見張るかす仏となるであろう。・・・幾千万の神と人間の救済者となるであろう。」「人間としての自己の存在を捨てて、二万と八千の汚れなき聖者である仏たちを見るであろう。彼は仏の智慧を求めて、純潔を守って修行をし、そのとき世の指導者である仏たちを種々に崇め尊ぶであろう。・・・彼はそのあいだ常に人間および神々の間に仏の指導を説き明かすであろう。」(岩波文庫『法華経(上)』p321)「『未来において、ひとりでに仏となるであろう』」(岩波文庫『法華経(上)』p323)

一切種智・・・諸法の総相を知る声聞・縁覚の一切智と諸法の差別を知る菩薩の智とに対して、平等と差別とを合せ知る仏の智慧をいう。(平等とは人間であり、差別とは垂直の秩序(スートラ)としての神=自然(魂・宇宙=仏・如来)である。)

春秋社刊、公田連太郎編著、『至道無難禅師集』p145
「あしくきたなき物と生をかへゝゝゝゝしてきたなき故、ちくしやうなとになれは、うかふ事なし。故にたまゝゝ人の形をえまゐらせ候時佛になれと云事也。
一.わか身ノ佛出候て萬事をいたす時、何事もおもふやうになる事、うたかひなし。
一.わか身の佛を、身のねんさいゝゝけがせは、必はちうくる事、うたかひなし。身の佛は神と云、てんたうと云也。せかいの有かたき添事、わか心ひとつにとゝまる也。
わか心はてんよりあたへて、佛なり、神なり。必うたかふ事なかれ。
その佛をあらはさんため身のあくをさるを修行と云也。
一.させんして如来にちからをつくし、たらにをくりて、身のあくをさるへし。身のとかなき時、心あらはるゝ也。うたかふ事なかれ。
一.身のねんにひかれては、ちくしやうになる也。
一.身の佛を見つけ、うやまひたうとみしてゐる時、身のとかすきとなし。外よりありかたくおもひかけぬよき事ある也。
(前世より、常々魂は、現実の醜さに辟易して、理想を求めて、代々、その身を変えてきた。畜生に堕ちれば、もはや浮かぶ瀬はない。人間であって、その間、佛となれる。佛を得れば、何事も、思うようになる。自分の中にあった佛となりたい願いを汚せば、必ず、天罰が下る。この過去からの願いであった魂が、佛であり、神であり、天道である。宇宙が人間に賦与していた秘密であり、心がここに至れば、この一つの真実によって、幸福の中に安住する。この佛を自分の中に見つけて、これを大切にすることで、過去からの因縁も解け、宇宙から守護され、自然から祝福される。そして、良いことばかりが起こり、幸福を実感して、生きてゆける。疑いがそれを拒んでいる。)[2005/12/15 4:41am 「走れ歌謡曲」を聴きながら]
無限なる地平の出現 薬草喩品
地球は有限であると思われた。そこで、あらゆる活力が減退した。世の終わりであるが故に、夢をなくした。これから、どのような夢が描けるだろう、と。しかし、それは、大航海時代以降の概念による限界であった。たしかに、今までの方法論において、地球は有限化した。しかし、それ故に、新しい地平が開かれる。それが、こころの地平であった。そこでは、これまでの既成概念がない。物としての価値が低下する。そして、無形の精神的な価値が、あたかも、昇る朝日の如く、見えてくる。新しい時代の始まりである。無限の世界が待っていた。お金がなくても良い。家がなくても良い。鳥のように生きてゆける世界が開けていた。新しい世代はそれを感じている。あらゆる縛りのない自由。社会は社会で在る。その中での自由。社会は社会で市民革命以降の理想を実現する。その中で、軽くなった鳥としての自由がある。こころが解き放たれる。あらゆる苦悩が払拭される。それは、現実において、今まで知られることのなかった心の自由が具体化するという意味である。既存の社会のパラダイムと対立する自由ではない。既存の中にあって、今まで具体化していなかった部分が開発されたのである。今までの中に、仏の智慧といったものが、やっと、芽生えたのである。心の地平は、知性の華の咲きあふるる無限の地平である。

「このように一切のものの本質がないことをさとり、形状のないことを会得し、作為なく存在していることを知ることが、この世の苦悩から解放される端緒(いとぐち)であり、これが「さとり」の境地への入口であると考えて、人間は無知を克服するのである。そして、無知を克服することによって業の原因となる所行も克服される。こうして、遂には、その人だけの大きな苦悩の集積が克服されるようになるのである。」(岩波文庫『法華経(上)』p293)[2005/12/15 0:44am NHK-FM ジョン・ウェインの映画音楽を聴きながら]かぎりなく、自由であること。それが、解脱涅槃。自分を自分で縛っていないか。あらゆる価値で。また、思い違いして、刹那的快楽を自由と思っていないか。

「そのように、この世の人間には差別はないのであるが、如来たちはかれらの意欲によって人間を区別されるのだ。」(岩波文庫『法華経(上)』p295)「内部にいる者は、外にいる者が何をしたか、何もしなかったかを、今も知らない。」(岩波文庫『法華経(上)』p297)「汝が全知を望み、神通力を体得しようと志し、また神通力の体得を人里離れたところに住んで念じ、清浄な教えを求めるとき、それによって汝は神通力を得るであろう。・・・一切を知ることがなければ、「さとり」の境地はない。その達成を試みよ。」(岩波文庫『法華経(上)』p298)「一切のものは同じで、本体がなく、本質的に相違ないことを知り、またこれらのものを望まず、また、そのいずれをも決して区別して見ない者は、偉大な理智の持ち主であって、教えの本体を残らず見て、三種の乗物は決してなく、この世には唯ひとつの乗物のみがあると知る。一切のものは同じで、すべては等しく、常に平等にひとしい。」(岩波文庫『法華経(上)』p299)

2005年12月14日
平等について 『薬草喩品』
平等とは機会の平等であって、結果の平等ではないと言われている。また、平等と自由は対立概念であって、両立しないと言われている。自由と平等は調和ある配分が必要であるとされている。それは、指導的立場がするとされているようである。しかし、この指導的立場は今どこなのか。経済界、あるいは、庶民レベルが指導的立場にあるかのようである。官民あるとすれば、官が本来役人であり、指導的立場の筈である。主権在民とする理論が自己矛盾する。官も民も平等である。しかし、システムは、官を指導的立場として組み立てられている。およそ、機能すべくはない。民は官を信用していないし、聞く耳はない。ならば、民が勝れているかというと、そうでもない。本来、人間はその意味で平等である。多少、勝れていたり劣っていたりしても。人間の上に神がいる。神は明らかに一般世間よりも勝れている。しかし、神も失敗することがある。サルも木から落ちる。しかし、人間を超えた神々は実在している。往々にして、自らの能力に気づかないままに。それは、あたかも、眠れる森の美女の如く、世間一般により、眠らされている。さて、本来の平等の意味は何か。それは、如来から見た人間の姿である。如来は仏の智慧を達成し、人々に、同じような智慧を得させたいと思う。そして、説く教えは常にひとつであり、それは、さとりへ至る道である。この一つの教えであるが、受ける人間の能力と環境によって、種々に、理解される。所詮、人間は持って生まれたようにしか成長しない。そこへ向けての教えである。同じ雨を受けて、大樹もあれば、雑草もある。さらに、自由は仏の領分である。因って、人間の自由は、本来の自由ではない。自由と平等の両立し得ない理由である。で、どうあるべきか。それぞれの理解である。如来は、仏の智慧を得て、本来自由となって、この上ない安らぎのあることを知って貰いたいと思っている。人間の価値としている全てが、堕落とその助長であると思っている。だからと言って、無理難題を言っているわけではない。難行苦行しろと言っているわけではない。それぞれの能力に応じて、ほんの少し、努力して、真実を真実と知ることで、来世への夢もあると、勝れた者にも、そうではない者にも、平等に、真実を伝えようとしている。これが、平等の意味である。さて、清浄となって神通力を知る。知って初めて神通力と分かる。清浄となるには、行しかない。観普賢菩薩行法経。如来は、苦悩からの脱出こそ幸福論であると説く。そして、その方法=手段は仏の智慧であるとする。しかるを、人間の行為は、悉く、苦悩を集積している。権力、武力、そして、金力を手段として。ところで、親鸞聖人の悪人正機説、悪人であればこそ憐れみをかけるというのではなく、仏から見れば、悪人も善人もない、平等である、どちらも人間である、悪と善は人間界での基準による、仏から見れば、善人も掬われるべき人間である。(また、本来の主権在民の意味は別にある。これについては、永遠に秘密であろうか。)
信解品
「こうして、わたくしどもは世尊が教えを説いていられます間に、すべてのものは本体がなく(空)、形状もなく(無相)、また作為がなく存在するということ(無願)を明らかに知りましたけれども、わたくしどもは仏の教えを聴きたいとか仏国土の素晴らしい光景を見たいとか、「さとり」を達成された如来が遊技として奇跡を示されることとかを熱望しませんでした。・・・わたくしどもは求めることもなく、望みもせず、考えてもみず、懇願することもしないで、このように偉大な宝玉を得たのであります。」(岩波文庫『法華経(上)p223-225)「ところが、かの富豪は自宅の玄関前で豪奢な椅子に腰をかけていましたが、貧乏な男をひと目見るなり自分の息子である事に気づきました。・・・わたしはあの子のことを幾たびとなく思い出していたのだ。あの子は自分からここへやって来た。」(岩波文庫『法華経(上)p229)「かの長者はこの貧乏な男が高望みをせず卑賤な境遇に甘んじていることを知り、また自身の栄輝栄華を息子が疎んじていることを知っていましたし、まして、この男が自分の息子でることを知っていたからであります。・・・さて、世尊よ、かの長者はこの場合の適切な処置として、彼が自分の子であることを誰にも明かさないでしょう。」(岩波文庫『法華経(上)p231)「すると、この貧乏な男は・・・衣食を求めて貧民窟に行くでしょう。」(岩波文庫『法華経(上)p233)「『おい、下男、おまえはここで働け。二度と他処へ行くでない。わたしはおまえに特別の給金をやろう。おまえの欲しいものがあるなら、何でも遠慮なく「呉れ」と言うがよい。・・・心配するな。わたしをおまえの父親と思うがよい。・・・それに、おまえは汲み取りをして、わたしにいろいろと尽くしてくれた。その上おまえはここで仕事をしていて、悪いことも、不正なことも、不誠実なことも、何ひとつしなかったし、傲慢なところもないし、猫被りも一度もしたことがない。今後も決してしないだろう。・・・おまえは今日からは、わたしの実の子と同じだ。』」(岩波文庫『法華経(上)p235)「某という都城があり、そこから五十年前にこの子は姿を消したのです。」(岩波文庫『法華経(上)p237)「父は自分の息子が家出したことを知り、・・・父は五十年ものあいだ四方八方を遍歴しよう。そして、このように、父は息子を探して他の大都市に赴き、そこに邸宅を造って住み、五種の欲情の対象に恵まれるとしよう。・・・またいつも王の寵臣であった。」(岩波文庫『法華経(上)p245)「『わが息子は本当に馬鹿だ。既に五十年ものあいだ失踪している。』・・・彼の愚かな息子は貧乏で、いつも困窮し、衣食を求めて村から村へ放浪しつづけていた。」(岩波文庫『法華経(上)p249)「『この愚か者は愚かにも欲がない。あの男はこのわたしの栄華が自分のものであると信ぜす、このわたしが自身の父親であることも信じない』」(岩波文庫『法華経(上)p249)「そして満二十年のあいだに、この男を次第に安心させた。・・・彼は自分の息子がこのように高潔な考えをもつようになったことを知って、・・・」(岩波文庫『法華経(上)p251)「父の財産によって仕事をせよ。」「また無欲であったことを思いめぐらし、そして父の善徳を肝に銘じ、家内中のものを得て、『いま、わたしは幸せだ』と、不思議な気がしよう。」(岩波文庫『法華経(上)p253)「仏のこの上ない智慧を、われわれは長いあいだ求めなかった。われわれはそれを熱望したこともなかった。」(岩波文庫『法華経(上)p257)「この世の師である仏は、われわれの意向を探り知り、われわれを放置して時を待ち、そのあいだ言葉の真実を語られなかった。・・・仏は巧妙な手段を示して、無欲で勝れた「さとり」を求めようとしない息子たちを馴らし、馴らしたのちに、この智慧を与えるという誠に困難な仕事をされた。」(岩波文庫『法華経(上)p259)「仏の教誡に従って、身体の純潔を守って、清浄な最高の修行をつづけてきたが、その勝れた果報を、平静で高貴で、しかも汚れのない果報を、今日われわれは得た。・・・幾千万劫のあいだ、専一に努めても、あなたの真似を誰がよくなしえようか。このように困難なことを、この人間世界において実に困難なことを、あなたはなされたのだ。」(岩波文庫『法華経(上)p261)「仏は洪大なる教えの持主であり、並ぶ者もない威厳を有し、偉大な神通力を具え、いかなる迫害を受けても堅く心を動かさず、大王で汚れのない勝利者である。・・・仏は教えの王者、一切の世間における自在者であり、大自在者であって、世間の指導者の王である。・・・如来はこの世に存在するすべての者や人間たちの行為を知り、この最高の「さとり」を示しつつ、種々さまざまに教えを語りたまう。」(岩波文庫『法華経(上)p263)

[法華経は難しい。是を理解するには、たとえば、ジグソーパズルが完成するように、すべての条件が、属性としてそろわなければならない。そうした人格は、前世からの積み重ね(宿王華)で為される。およそ、人間の失敗してきた所以も理解できる。如来とは宇宙より来たる。どうしようもない秩序がある。是に反しては、・・・。是からはみだしては、・・・。垂直の秩序(スートラ)がある。法である。]
ヨブ記の約束
ヨブはうめいた。津波のように不幸がおしよせた。それでもヨブは神に祈った。この祈りは何故できたか。これが、前世からの因縁であった。ヨブは考えた。そして実行もした。しかしすべて奪われた。何故か。過去の清算であったのだ。それは、ヨブに与えられた試練。ヨブは堪えた。堪えるチカラはどこにあったろうか。これも、前世で培っていたものだった。やがて罪が消えるときが来る。その約束があるからこその試練であった。そして、一切の妄念が焼き尽くされる時を迎えた。ヨブは祈った。我のチカラではなかった。ヨブは自然から祝福された。至り点いたのだった。この世の使命を果たしたのであった。これが、ヨブ記の約束である。

至道無難禅師集(公田連太郎編著)より
「しれは迷ひ しらねは迷ふ 法の道 なにかほとけの實なるらん
此歌の心明ならは、大道あらはるへし。
一.佛眼ひらき見るに、日本の衆生は佛にちかし。惡氣少き故なり。惡氣といふは、身を思ふなり。迷ひの根本なり。しかも我身にあらず。それをわがものと思ふは、至りてあさましくかなしき事なり。誰も知る事なれとも、死するなり、病むなり、貧苦をうくるなり、これ我物にあらさるしるしなり。かゝるうき世に生をうけて、苦みおほきをわきまへず、命なかゝらん事を願ふ。大方人を見るに、齢七十に及ぶは稀なり。」

知ったというと嘘になり、知らないと言っても嘘だけど、本来のさとりはどこにあるのだろうか。知って行をして、やがて至るところであって、観念ではない。だれがなんと言っても、どうにもならない体験を通して、自信を得る。それが、ほとけの實とも言うべきもので、それは、前世からの約束であり、それに応えた結果と言える。日本人は唯一純粋民族と言えて、大和魂という、清浄な心を持っている。また、自然に恵まれている。この身は、いわば、魂の仮の宿であり、自分のものではない。魂の思いに合致すれば、それは、そのまま、自然に受容され、祝福される。魂=自然(神)
が宇宙とリンクしている。宇宙が守護する。その反射がさとりと言える。それなのに、この世に生まれた意味を思い出すことなく、自分勝手して、そして苦しんでいるというのが、人間である。命のある間に、自分自身を見つけて、いわば、魂と合体して、この上ない幸せを味わうべきものを。そして、日本人が自然環境に恵まれ、単一民族国家であることから、このさとりへ至るのに、近い。また、日本人に与えられていた使命であるとも言える。それを、明治以降、世界と合流して試されたのだが、その使命も忘れかけている。要は、前世からの事があり、神も存在している。この事を日本に託されていたのに、世に汚れることで、日本も腐敗しつつある。しかし、是も亦約束であった。こうして、如来が示される時を迎えた。それは、旧約聖書の予言内容とも一致した時であった。ここに、人類、あるいは、生命体としての不思議がある。目覚めたものが勝ちである。そして、この道は至れば無難である。難行苦行は要らない。こころの清浄と正直が有れば足りる。そして、かぎりなくやさしくなれる。いつもほほえんでいることができる。そうした境地へ至ることができる。(2005/12/14 2:18am NHK深夜便 サラ・ボーンなど聞かせて頂きながら)

2005年12月13日
法華転と転法華
例えば、法華経は経典の王と言われている。また、最も難解な経典と言われている。さて、そこに書いてあることは何であったか。三乗の教えも方便であるという。ただ、最高の乗物である、一乗を説くことが目的ではあるが、段階に至っていない者のために、三乗を説く、と。結局、最高の「さとり」とそこへ至る方法論が説かれている。また、至ってみないと分からないとする。そして、至るためには、前世からの修行があってのことだという。人間は同じ姿をしているが、前世が違うという。それで、是が真実であるが、是を説くことはなかったという。すなわち、「さとり」へ至るまでは、法華転である。「さとり」へ至れば、転法華である。ここを、白隠禅師は「隻手の音」を聞かない間は何をやってもダメだ、聞けば何をやっても真だ、という。道元は、「現成公案」という。「さとり」は自得あるのみで、他の評価を待つものではない。その結果は、神力を得るかどうかである。自然に祝福されて、自然が自分のために動いてくれるかどうかである。因って、最高の「さとり」は、一般には神秘である。そして、大切なことは、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」。誰もが仏の種を持っている。そして、人間として生まれてきたのは、過去において、何らかの仏縁有ってのこと。かつて、必ず、自分も人間に生まれて、仏へ至る修行をしたいと憧れていたからこそ、今生に生まれてきている、と。しかし、人間である以上、本能がある。是に負ける。生まれてきた意味が思い出せない。また、仏になるには、荒行が必要であるかのように思う。それで、その気になっても、気持ちが挫ける。難行苦行が要らないことは、仏陀自身が証明済みである。五欲を断ぜずして、悟りへ至る道が開かれている。その道を探すことだね。それが菩薩業。教菩薩法も開かれている。ところで、政治と宗教がタブー視されている。一般人の一般人たる所以である。単なる卑怯な逃げである。経済は下部構造である。上部構造を考えようとしていない。それで、むしろ問いたい。政治と宗教を無視して、どんな未来と人格を描いているのか。唯、結果、腐敗と堕落への転落とその助長ではないのか。あまりにも身勝手、無責任ではないのか。どのような人間社会にしようとしているのか。動物以下の無秩序か。あなた方の表現の結果としての現実腐敗社会である。この腐敗の責任は社会全体にある。自分だけは加担者でないと思っていないか。この傾向がこのまま続けばどうなるのか。大人の責任である。次世代に、客観的判断基準を整理し、用意しておくべきである。あまりにも安易で愚かな方向へ進みすぎている。答えを待つ。

高齢化社会と障害者にやさしいインターネット(引用)
●高齢化社会の中で、インターネットを楽しみ、パソコン・ライフを実践することは、たとえば、かつて、新幹線ができたとき、新幹線に乗りたい、といった気持ちを大切にして、つまり、自分の気持ちに素直になることではないでしょうか。東京オリンピックがあったとき、カラーテレビで見たい、と思った頃の気持ちを。今、68歳の方も、まだ、あと10年は働ける社会が、始まっています。だから、パソコンとインターネットを精一杯楽しむことをしてみましょう。しかし、何事も、案内人がいると、楽で安全です。そこで、そのためのお手伝いができるなら、無上の喜びとするところです。また、図らずも、障害を持ってしまった方も、パソコンをして、インターネットをして、それぞれが、楽しく、やさしく、生きていける時代が始まりました。だから、みんなが、ほんとうの幸せを、もっと、楽しんでいい、と思われます。つまり、「周りが幸せになれば、その中にいる、自分も、必ず、幸せである」という法則が実践されると、これが、「わかちあうこと」であり、つまり、全体のレベルが上がることで、自分たちも、自然と楽な環境の中で生活してゆけるのです。一部の方だけが、利益を得る時代は、もう昨日までのことです。だから、呉市だったら呉市中央公園へ出かけると、樹木がたくさんあって、美しく、整備されていて、お散歩するには最高です。そこへ、パソコンを小脇に抱えて、あるいは、車椅子のひざの上において、出かけることも、きっと楽しいことです。木漏れ日浴びて、そよ風吹いて。そして、小鳥たちが舞い降りてきます。もう、高齢者の方も、障害をもっておられる方も、自分ごととして、インターネット社会へ、入っていける時です。その環境は整いました。しかし、情報は自分で管理する、と言っても、それは難しいことです。それは専門家に任せて、自分たちは、この安全で楽しい、そして最先端の技術であるインターネット空間を、思う存分享受し、豊かな、新しい暮らしを作り出していきましょう!インターネットは、私たち、庶民あるいは市民のものとなりました。【2004/11/20 Sat.】
http://www.pc-kure.net/より

ITライフの始まり (引用)
●ITライフの始まり
【2005/10/16】 友情は出会いから生まれることが多いです。しかし、幾多の戦いの中から生まれることもあるようです。今、日本とアメリカは同盟ですね。それぞれの国にはそれぞれの歴史があって、事情もある。時によっては相互理解ができなくて、戦いともなった。しかし、その後で、お互い反省するところがあって、そして固い友情が生まれることもある。戦いは人間の哀しい性でもありますね。人間も進化しています。幸せへと向けて。幸福論はいくつもありました。その理念が実現されようとしています。人類の夢であったやさしさを理念とした世界がすぐそこにあるのですね。常に手を差し伸べてくれていたのですね。21世紀って、とても素晴らしく、美しく、ありますように。すでにある宝石の発掘。先哲へのアップリシーエイトをすることで、その道は既に開かれているのでした。その地図も見つかったように思われます。宝は取り放題ですね。インターネットに於いてその情報は共有で良いのではないでしょうか。但し、生活の手段としての諸権利は厳しく保護されるべきと思われます。何故かというと、以前にも増して、簡単に犯されるのですから。その意味では、インターネット内での監視も肝要かと思われます。そして、市民が、安全に、自由に、この新しい文化空間で往来できるといいなって思われます。インターネットは完成しています。今までの試験段階は既に終わっています。だから、新しい秩序を必要としています。この完成されたインターネット空間は、一般の想像を絶しています。およそ、一般の方の手の出せる世界ではありません。また、絶対の信頼を寄せて良い世界です。21世紀の新しい世界が形成されているのです。故に、システム管理は専門家にお願いして、安心して楽しむことができる、と思われます。これで良いと思われます。これから、いよいよ、夢に見た、ITライフの始まりです。この新しい文化に参加して、人生を謳歌したいものですね。
http://www.pc-kure.net/より

譬喩品
「疑惑はまったくなくなり、わたくしは、ここに最も勝れた乗物に乗ることができるようになりました。仏たちの声は驚嘆するほどに美しく、人々の疑念と憂いとを払い去ります。その声を聴いて、わたくしの罪障は消え失せ、憂いもすべて無くなりました。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p137]「『仏となり、最高の人間となり、人間や神や・・・から尊敬されて、三十二の吉相を具えた身体をもつ者となったとき、完全に「さとり」の境地に達する』と、仏の声を聴いて、わたくしの誤った考えはすべて除かれました。神々と世間の人々の面前で、最も勝れた「さとり」に到達すると予言されて、わたくしは今日「さとり」に到達しました。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p141]「多くの求法者たちを励まして、この仏の「さとり」を深く微妙な言葉で説くでありましょう。」「汝は長いあいだ余の弟子であった。汝は前世における求法者としての計画により、また求法者の神秘により、この世において余の説法に近づいた。ところが、汝は仏の不可思議な威力により前世における修行と誓願とを忘れ、前世における求法者としての計画も、また求法者の神秘も思い出すことなく『わたしは「さとり」の境地に達した』と思ったのである。そこで、・・・余は汝に前世における修行と誓願を思い出させて智慧を目覚めさせようと欲して、・・・すなわち求法者をいましめ、一切の仏の財産であり、大乗仏教の教えを詳しく説いた最高の経典を、・・・説き明かしたのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p145]「そのときこの仏国土にいる求法者たちの大部分の者は、宝玉の蓮華の上を歩きまわる者となるであろう。しかも、かれらは初心の未経験者ではなく、長いあいだにわたって善根を培い、幾十万という多くの仏のもとで・・・如来から賞讃され、仏の智慧を得ようと専念し、仏の偉大な神通力の遂行によって生まれ、あらゆる教えの方法に通暁し、温和で、前世の記憶をもっているのだ。・・・かの仏国土には、このような求法者たちが満ちあふれるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p149]「汝は幾千万の仏を崇め尊び、それによって修行の力を得て、また十種の力を生じて、この上なく勝れた「さとり」に到達するであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p151]「そこには、前世の思い出をもち、種々の修行の完成に長じた多くの求法者がいた。かれらは幾百の仏のもとにて修行を教えられ、その国土に生まれるであろう。そして、かの仏は最後の化身のとき王子の境遇を過ごし、愛欲を捨てて出家し、この上なく勝れた「さとり」に達するであろう。」「汝こそこのような仏となり、他に匹敵する者のない者となるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p153]「この世においても、またあの世においても、われらが聴き、行ったことが、また仏を満足させたことが、われらの「さとり」の誓願に役立たんことを。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p157]「理解すぐれた人は唯ひとつの喩え話をしても、直ちにその意義をさとる。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p159]「完全に「さとり」をひらいた如来は、すべての恐怖をまぬかれ、人間世界を覆いつつむすべての苦痛や混乱や害悪や苦悩や不快や無知などから、完全に、しかも如何なる場合にも、解放されているのだ。如来は智慧と威力と自信と勝れた特質と仏の教えを賦与されており、神通力によって非常に威力のある世間の父であり、素晴らしく智慧を働かせて巧妙な手段を用いることでは奥義を極めており、非常に憐れみ深く、世間の幸福を念じて倦むことのない心の持主であり、世間に憐れみを垂れる者である。彼は、生・老・病・死の苦しみと悲しみのために起こる苦悩とか不安とか混乱とか無知とかの真黒な覆いにつつまれた人間たちを、貪欲とか憎悪とか愚痴蒙昧から解放するために、そしてこの上ない「さとり」の境地に達するように励ますために、苦悩とか不安の火焔のために燃えさかり、屋根や覆いの朽ちはてた家さながらの三界に姿を現わすのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p171]「ところが、人間たちはまこと快楽のために、また愛欲の因縁のために、種々の苦悩に遭遇しているのである。かれらは、現世においては切望しているもののために、また来世おいては獲得しようとしているもののために、地獄や畜生の胎内やヤマの世界に生まれかわって、種々の苦悩に遭うであろう。・・・そして、かの大きな苦悩の集積に圧倒されながらも、苦悩に対して心を集中するべきであるという考えを起こすことはないのである。」「『余は実にこれら人間たちの父である。余はこれら人間たちを、このように大きな苦悩の集積から救出しなければならない。そして、これらの人間たちが遊び戯れ娯しめるように、かれらに測ることも考えることもできないほどの仏の智慧という幸いを与えなければならぬ。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p173]「『もし余が、智慧の力を有すると考えたり、また神通力を有すると考えたりして、手段を用いないで、これらの人間たちに如来の智慧の力と自信とを教えたとしても、これらの人間たちはこれらの教えによって苦悩から脱出することはないであろう。・・・屋根や覆いの朽ちはてた家さながらの三界から逃れ出さないままで、かれらは、どうして仏の智慧をさとることがありえよう。』」「完全に「さとり」に到達した如来は如来の智慧の力と自信とを具えていながらも、如来の智慧の力と自信を用いることなく、巧妙な手段を用いて、屋根や覆いの朽ちはてた燃えさかる家さながらの三界から人間たちを逃れさせるために、・・・」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p175]「三界から逃れ出るために、おまえたちは精を出して努めよ。」「『五種の力を発揮し、七種の修行をし、瞑想して解脱のために心の統一を達成することにより、偉大なる快楽をそれぞれに娯しめ。そして、おまえたちは偉大な幸福の楽しみを賦与された者となるであろう。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p177]「一切を知り、みずから存在する仏の智慧を欲して、多くの人々の幸福と安楽を願い、また世間に対する憐れみから、大衆の利益のために、また神々および人間の幸福と安楽のために、すべての人間を完全な「さとり」に導き、如来の智慧の力と自信を理解させようとして、如来の教誡に傾倒するのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p179]「そして、三界から離脱した人間たちに、如来は瞑想と苦悩よりの解放と心の統一の完成という、尊くて非常に楽しい、かれらが悦ぶ玩具を与えるのだ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p181]「彼は、自分の子どもたちが・・・何も知らない愚か者のように、遊びに夢中になって戯れていることを聴く。彼は子どもらに・・・告げる、『おい坊やたち、物凄い災難だよ。ここには、いろいろなものが棲み、またこの火だ。災難が続いて起こるし、激しいよ。毒蛇や、残酷な心の・・・どもが数多く棲息し、猛獣どもも、犬や狼の群れも、また鷲などが食物を探し求めている。・・・このような輩が棲んでいて、火事が起こらなくても、最高の怖ろしさなんだ。このように、どれもこれも災難であるのに、火がまた四方に燃え上がったのだ。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p191]「このように諭されたのにかかわらず、子どもらは、遊びに夢中になり、父の言葉を考えず、また気にもとめない。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p193]「そして、余は三界を解脱して、平静な心を得て、森林にただ独り住む。しかも、この三界は余の財産であり、そこで焼かれる者たちはわが息子である。余こそかれらの保護者であることを知り、余はそこにある禍惡を示した。しかし、かれらはすべて愚かにも愛欲に耽溺していて、余の言葉に耳を傾けなかった。余は巧妙な手段を用いて、かれらに三種の乗物を語る。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p199]「余のみを頼りとする息子(声聞)たちも、また独覚たちも、六種の神通力と三種の学識と偉大な威力をえて、後戻りすることなく、かれらはここに求法者となる。・・・学識ある人よ、唯ひとつの仏の乗物を説く。それを大切に護持して、すべての者は仏となれ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p201]「この宝玉づくりの最も勝れた車は、多くの求法者たちや仏の言葉に耳を傾ける声聞たちが、乗って遊びながら、この世において「さとり」の壇に赴く乗物である。」「幾千万劫にわたって焼き苦しめられている汝らを、余は危険と恐怖の満ち溢れた三界から救ったのだ。そして、その場合に余は「さとり」の境地を語る。・・・この世の人間たちが卑しく唾棄すべき愛欲に耽溺しているとき、またその場所で、常に真実を語る世の指導者は、この世における神聖な真理として、そのとき苦悩を説く。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p203]「愚かな理性の輩が無知で、この世における苦悩の根本を視ないとき、『激しい欲望の生ずることが苦悩の起源である』と、余はかれらに進むべき道を示す。激しい欲望を滅するために、汝らは常に執着してはならぬ。これこそ、余の説く第三の真理「滅諦」である。それによって、人は間違いなく解放されるのだ。この道を実行してこそ、解放があるからである。・・・迷妄から解放されるのだ。しかし、いずれにせよ、かれらは完全に解放されたのではない。『かれらは「さとり」の境地に達していない』と、この指導者はいう。余は何故にその人の解放を語らないのか。彼が、この上なく勝れた「さとり」に到達していないからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p205]「教えの王者として、人を安楽ならしめるために、この世に生まれるのが、余の望みなのだ。・・・神々と世間の人々の幸福のために、その教えを四方八方に説き示せ。・・・この経典を信奉する人は、かつて前世において如来たちを見、かれらに恭しく仕え、またこのような教えを聴いた人々である。余の語った勝れた言葉を信じる者たちは、余と汝とを見た人であり、また余の教えに従う、すべての僧の群れと、これらすべての求法者たちを見た人である。この経典は愚かな人を迷わすと、神通力によって知り、余はこの経典を説かなかった。ここには実に声聞たちの力は及ばず、また独覚たちも到達しえないからだ。・・・かれら(声聞たち)は余のみを信じて歩み、各自の勝手気儘な智慧は見られない。高慢な輩や自惚れた輩や、また修行しない連中に、汝はそれを語ってはならぬ。愚かな輩は常に愛欲に狂奔し、何も知らず、教えを語られても、それを捨てるであろう。余の巧妙な手段は常にこの世に確立されている仏の指導方法である。それを捨てて、渋面をして乗物を捨て去った人の、この世における悲惨な報いを汝は聴け。余の在世中であれ、あるいは入滅した後であれ、このような経典を捨て去って、あるいは僧たちに苛酷な態度をした人々の受ける報いを汝は聴け。愚かな輩は人間界で死んだのち墜ちて、幾劫かを満了するあいだ、阿鼻地獄に住む者となり、その後さらに幾小劫のあいだ、かれらはそこで堕落を続けるのだ。・・・彼は地上に教えを垂れる王者の仏を決して見ることはなく、仏としての余の指導を捨てて、教えを聴きえないところに住む。・・・このような「さとり」を捨てて、彼は決して心の平静を得ることはない。・・・また、他人にこき使われて、常に貧乏である。・・・個我に関して異端の見解を堅持し、また、彼の憤怒の力は増大する。・・・しかし、この世に賢明で博識があり、記憶力すぐれ、学殖があり、智慧ゆたかで最高の勝れた「さとり」に進む者があれば、汝はかれらにこの最高の真実を説け。幾千万の仏に見え、また数えきれないほどの美点を培い、そして信心の堅い人々がいるならば、汝はかれらにこの最高の真実を説け。勇気があり、常に慈悲の心をもち、この世において長いあいだ慈悲を行ない、そのために生命を捨てる者があれば、かれらのために、その面前でこの経典を説け。お互いの目的を尊重し、愚かな輩と親しまず、また山林などに満足する人々に、汝はこの素晴らしい経典を説け。・・・この大乗の経典を信奉し、しかも他の経典を好むことなく、他経から一詩頌さえも信奉しようとしない人に、汝はこの勝れた経典を説け。・・・最高の勝れた「さとり」に進む人々のために、その面前で、汝はこの経典を語れ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p207-221]凡そ法華経は分かった。しかし、・・・。羅刹は云った。やはり、勘弁ならぬ、と。仏もぬるい、仏如きの勝手も許さぬ、と。奴は何者か。仏をも超えたか。十?士!この度は、AnyThing is new! 既存の概念は一切通らない。人類初めての”法力”の支配の始まりである。自然が動いている。旗頭は「直心」!すべては、大いなる自然に導かれていたと言って良い。撰ばれし者の特権と云うべきか。知らしめんが為の戒めはある。しかし、いつも、その傷は軽微であった。治癒すべきものであったのである。何事も経験を通して、自分のチカラとなる。目に見える名誉だけではない。見えないところにおける試練を如何に克服したか、是が人格形成上の大きな要因となる。しかし、やはり、導かれていた。神=自然の摂理がある。法華経は、一般世間を愚かと規定する。さとりは、前世の結果であるとする。信じるべきは一般大衆である。仏の属性を持つものは、醜いアヒルの子(白鳥)である。世間は、やはり、罪を犯している。何時までも、これまでの愚かさの増殖は許されていない。知性を愚弄した罪は裁かれる。馬鹿騒ぎは終わりである。品格の否定はここまでである。自然の選択が為された。時が満ちた。世界の進路が示された。神=自然の自己証明が示されたのである。それでも、人間が思い上がるのであれば、凡そ、人類も地球にとって、通過点に過ぎない。己の分際を知るとは、小林秀雄も晩年に至って初めて気づいたことだった。やがて、わかる。今生ではないかも知れないとしても。もはや、法華経も古い。乃ち、現在、チカラのある唯一の御経典は『妙法華経』である。そして、世間一般は神を信じていない。これが、明治以降の重罪である。法華経は、世間一般から超越した神の実在を前提にしている。あらゆる愚かさの原因がここにある。世間一般にとって神は迷惑であろう。しかし、真実は真実である。同じ人間でありながら、生まれながらにして、人格の差がある。世間一般はむしろ、人格の向上を目指すべきである。しかるを、自分たちのコピーを増殖することしかしていない。文化が腐るのは当然である。クラシックを粗末にして、自らの存在がある筈もない。その意味では、アメリカもその非難を免れない。共和制の限界が露呈しているのである。しかし、世間一般の理解は得られないであろう。貧しさの真の意味は、無欲である。因って、貧しきものは幸いである。貧しさは人格の否定ではない。むしろ、高潔の故である。現在資本主義がどのようにして始まったか。日本においても、その資本はどこから始まったか。戦後、焼け跡の空き地を奪った者がいる。焼け跡の瓦礫を奪って始めた者もいる。現代腐敗は、その結果である。現体制は今のままで良い。ここから始めるしかない。問題は、根本精神の洗い直しである。利益追求の精神基準の転換である。利己主義である限り、けがれた人間の精神である。結果、不幸となる。さて、何を議論するべきか。これより、愚かでは生存できない。諸結果は出ている。反省の時である。一切、弁解の余地はない。人間レベルの勝手が過ぎた。基準の見直しである。努力することを忘れすぎていた。社会の辺境=荒野から敢えて呈する苦言である。ところで、女は畑、男が種である。日本も進路を誤るか、そこまで、見えなくなっているのか、女系天皇。世も末か。もはや民主主義ではない。衆愚主義のアンケート。終わりが近いか。民=人間はここまでつけあがったか。自然=神の鉄槌があるかも知れないね。自然=神の生存のために。自然摂理=神(命)を冒涜して、その罪を認めず、尚、自らの利益のみ考えている。虫がよすぎはしないか。自然が意思決定すれば、人間など・・・。敗戦の時の枕崎台風の意味を知らぬらしい。人間が掬われる為には条件がある。よく考えるべき時である。地球は愚かな人間のためにあるのではない。さて、社会の腐敗と秩序の悪化、行政各論の職務怠慢の結果だね。分を過ぎた身分に安住していたね。もともと行政能力とその資質はなかったと言うべきか。責任感もね。一度の試験に合格しただけで、権力を付与されていたとでも思っていたのかな。所詮、民主主義→衆愚制化の当然の結果かな。

2005年12月12日
方便品
「余こそ如来の智慧の発揮を鼓舞した者であり、如来の智慧を人々に示した者であり、また、それを理解させ分からせるとともに、それを発揮するに至るまでの道程を人々に理解させた者であるからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p91]「現在、十方にある、測ることも数えることもできないほどに多くの世界に、完全に「さとり」に到達した如来たちがおり、そこに逗留して居住しているが、かれらは世間を憐れんで、多くの人々の幸福と安楽のために教えを説く。」「さらに基本的な考え方を説明するという巧妙な手段によって、信心について、それぞれに異なった意向を持ち、さまざまな感覚をもつ人々の心の動きを知って、教えを説くのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p95]「如来は時代の堕落の際に出現するのである。」「この教えを仏たちが悟った次第を、・・・余から聴け。・・・汝の志願するところと修行を知り、またこの世における幾千万の人間の種々さまざまな意向を知り、かれらがかつて積んだ福徳と現在の数々の行為を知って、種々の説明をし根拠を示して、余はこれらの人間をこの教えに到達させよう。」「幾千万の多くの仏のもとにて修行せず、いやしいことを楽しむ無知の輩に、生死の回転(輪廻)に巻き込まれて苦悩にさいなまれる輩に、余は「さとり」の境地を約束しよう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p103]「賢聖は時機を待ち、好機を見て、しかる後に語る。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p105]「仏がどのようにして、どのようなことをさとったにせよ、仏がみずから安住するところに瞑想して解脱を願い、体力と感覚の機能をもつ人々を仏は安住させるのだ。」「余には、吝嗇の心は全くなく、嫉妬もなければ、また欲望も情熱もない。余は一切の惡を剪除している。余は世間をあまねく知るがゆえに仏なのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p107]「仏として余は「さとり」を世に弘めよう。」「すべての無知な輩は混乱し、必ずや余の勝れた言葉を理解しえないだろう。かれらは前世において修行をせず、愛欲の対象に夢中になって、それに心がとらわれ、渇望のために愚かとなり心が乱れていた。余はかれらがこのようであることを知っている。かれらは愛欲のために悪い運命に陥り、六種の運命にさいなまれながら、福徳の少ないかれらは苦悩にさいなまれて、かれらは死をくり返した。常に「有る」とか「ない」とか、「そのようだ」「そのようでない」とか、種々の邪悪な思想の密林の中にさまよい、六十二種の邪悪な思想を頼りとして、虚偽を堅く守ったままでいる。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p109]「かれらは心がねじれ、高慢で、不実であり、頑固で無知で愚かである。幾千万億の生涯を重ねても、かれらは決して仏の好い声を聴くことはない。」「かれらに手段を語る。人々が苦悩にさいなまれているのを見て、その場合でも平安な境地を約束するのだ。」「そして仏の教えもまたひとつである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p111]「如来は神々もいるこの世間において、人々の意向と心の動きを知り、仏たちの他の種々の手段を用いて、余の勝れた教えを弘めるのだ。かれらから親しく教えを聴き、あるいは教えを聴いた人々は、贈物を贈り、戒行を実践し、忍耐によって、すべての修行を成就した。精進し瞑想に専念して仏に仕え、あるいは理智でもって、この世に存在するものを考える。種々の福徳ある所行をして、その功徳によって、かれらはすべて「さとり」に到達するであろう。」「一本の華を供えても、取り乱した心で供養しても、かれらは順次に幾千万の仏を見るであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p117]「過去に入滅した仏であれ、あるいは現にこの世にいる仏であれ、これらの仏から、そのとき、教えの一部分でも聴く人があれば、それらの人々は「さとり」に到達するであろう。未来にも、考えられぬほどに数多くの、幾千万という仏が出て、その数は測り知られないが、これらの仏たちも世間の最高の庇護者として、この巧妙な手段を世に弘めよう。世間の指導者である仏たちには、巧妙な手段が無限にあるであろう。それを用いて、この世において、かれらは幾千万の人間を汚れのない仏の智慧に導くであろう。かれらの教えを聴いて仏とならない者は、一人としてない。「さとり」を求めて修行して、人々にも修行させたい、これこそ実に如来たちの誓願なのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p119]「この世において、すべての人間を安楽ならしめるために、かれらはこの最勝の「さとり」を説く。」「余もこの怖ろしい揺れる世界に、人々の堕落の真中に出現した。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p127]「現象で判断して偏見を抱き、うぬぼれている無知な愚か者たちには、いま、信じがたいであろう。しかし、これらの求法者たちは耳を傾けて聴くであろう。」「いつか、どこかに、なんらかの方法で、人間の雄牛(仏)たちのだれかが現れる。無限の眼を持つかれらは、この世に出現して、いつか、このような教えを教示するだろう。このような最勝の教えは、幾千万億劫を経ても、得がたいであろう。最勝の教えを聴いて信ずる者たちも、同様に得がたいであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p129]「それは、人を魅了する姿であり、神もともに住む世界の驚異であろう。余は、それよりも一層驚異すべき教えを語ろう。余の語った教えを聴いて、悦んで一言でも教えの言葉を語るならば、それはすべての仏たちに供養したことになろう。」「かれらはすべて求法者となり、余の弟子である声聞は一人もいない。」「これは汝にとって秘密であれ。そして、余のすべての弟子、これらの傑出した求法者たちも、余のこの秘密を信奉せよ。なぜだか分からないが、五種のけがれの時代には、悪意のある輩や凶悪な輩がいるものだ。愛欲のために盲目となった愚か者たちは、決して「さとり」を心がけることはない。余のこの唯ひとつの乗物が仏によって世に弘められたと聴いても、それを信ぜず、未来において、かれらは経典を捨てて、常軌を逸し、地獄に堕ちてゆくであろう。最上で最も勝れた「さとり」を得ようとする柔和で清浄な人々もいるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p131]「疑念を捨て、疑惑を去って、仏となれ。そして、それを悦べ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p133]
心の地平~如来がこの世に出現する唯一の動機~
「彼の仏国土は平坦で心地よく、瑠璃づくりで宝玉の樹木で飾られ、陥し穴も断崖もなければ溝や汚水溜りもなく、素晴らしく美しく、花が撒かれているであろう。そこでは、人々はあらゆる楽しみが設けられた宮殿楼閣の中に住居を構えるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p309]これが、21世紀の約束であり、乃ち、新たに開かれていた心の地平であった。これより居住するべきは、宇宙=心の地平であった。二十一世紀の新大陸であり、新世界である。

「このように、わたしは聴いた。あるとき、世尊はラージャ=グリハ(王舎城)のグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に滞在して、千二百人の僧と一緒にいた。これらの僧はすべて阿羅漢で、汚れもなければ、欲望のわずらいもなく、自己に克ち、心も理智も巧みに迷いを離れており、高貴の家の生まれで、偉大な象であった。かれらは為すべき義務をすべて為し遂げて、重荷を棄てて自己の目的を達成し、この世のきずなを断ち切っていて、完全な自制によって心に迷うことなく、あらゆる心の動きを制御して、六波羅蜜を完成しているばかりでなく、神通の智慧の傑出した偉大な・・・。」。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p9](今、広島大野に王舎城がある。霊鷲山とは世界一の墓場であり、それは、今、原爆を投下された広島だと云われている。)

「また、八万の求法者たちも、その座につらなっていた。かれらはすべて、「さとり」を達成しようと修行して後戻りすることなく、この一生だけをこの世で送って二度と再び生死の回転(輪廻)に陥ることなく、またこの上なく完全な「さとり」を達成するための確固たる地盤を獲得しており、四種の自由自在な理解と表現の偉大な能力を賦与されていて、教えの車輪を挫けることなく回しつづけ、幾十万という多くの仏に仕え、これらの仏のもとで善根をつちかい、これらの仏から讃歎された。かれらの肉体と心とは悲しみに包まれており、かれらは如来の智慧にはいることが巧みで、偉大な理智をもち、理智の最高の完成状態(般若波羅蜜)に到達する道を歩んで、幾十万という多くの世界に名声が高く、幾千万億という多くの生命ある者たちの救済者であった。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p13](輪廻とは、地獄(岩石)、餓鬼(植物)、畜生(動物)、阿修羅(戦争状態)、人間、天=神の六道を巡る。天=神と雖も、地獄に堕ちる約束である。これに対して、人間、天=神、声聞(教えを聞いて真実を求めようとしている)、縁学(独学で真実を学ぼうとしている)、菩薩(教えを聞いて、周りが幸せであることで自分も幸せであることを認識し、人と共に修行している)、仏(悟りを得ている)の新六道輪廻がある。此処に於て、人間以上に生まれる約束となる。ところで、人間界は、地獄から仏に至る十の階層からそれぞれ集まっている世界である。つまり、同じ人間でもその人格が異なる所以である。さて、この人間界に於て、行をすることで、旧六道輪廻から新六道輪廻に渡ることができる。彼岸へ至れるのである。人間とはそういう階梯である。ところで、仏とは、五大元素のことであり、それを仏語で、地水火風空と呼ぶ。このそれぞれには、プラスとマイナスがある。例えば、水も、ご飯が炊ける水はプラスであり、洪水はマイナスである。それぞれのマイナスが全てプラスとなり、プラスが十の状態が仏である。それで、仏の守護とは、自然から祝福されている状態である。)

「・・・これらの仏国土には、尊き仏たちが住んでいたが、かれらの姿もすべて見えた。これらの尊き仏たちが説く教えも、すべて、余すところなく聞こえた。また、これらの仏国土にいる僧・尼僧・在俗の男女の信者・苦行僧たちで、目的を達成した者も達成しない者も、すべて、その姿が見えた。また、これらの仏国土には、偉大な志をもつ求法者たちが、仏の教えを度々にわたって色々と聴聞したことから熱烈な意向を持つようになった種々の因縁をたよりに、また仏のさまざまな巧妙な手段に導かれて、求法者としての修行(菩薩行)をしていたが、かれらの姿もすべて見えた。また、これらの仏国土には、完全に平安の境地にはいった尊き仏たちの宝玉づくりの遺骨塔があったが、それらもすべて見られた。(以上のことは、すべて、広島大野王舎城で見た。)」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p21]

「如来は偉大な教えを聴聞させる会合を開きたいと思い、偉大な教えを人々に聴かせようと願われて、・・・すべての世間の人々が聴きたがらない教法を聞かせようとして、・・・驚嘆すべき奇跡を現し、・・・」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p39](昨年の台風を覚えているだろうか。広島では風速60mを記録した。また、今年の台風14号を覚えているだろうか。少なくとも気象観測者は気づいているはずである。また、広島在住の方々は、奇跡としての穏やかさを経験した方々もいたはずである。もう忘れてしまっているのであろうか。)

「さらに、偉大な志をもつ求法者たちには、六波羅蜜を中心として、完全な「さとり」にはじまり、一切を知る者(仏)の智慧に終わる教えを説いた。」「同じ家柄・氏族の、完全に「さとり」に到達した阿羅漢の如来が、相次いで出て、二万名もいた。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p41]「すなわち、求法者をいましめ、すべての仏が受持すべき、非常に大きな最高の経典を、説こうと欲していられると、わたしは思うのである。」「考えることも測り知ることもできないほどの数の劫を経た、昔を思い出す。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p53]「そして、かれらは、平静にして汚れのない、真実の言葉を知って説き明かし、多くの世界において、教えを説く。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p57]「そして間もなく世間の指導者(仏)は瞑想から立ち上がり、・・・そのとき話しかけた。・・・『余は教えの指導方法を説き、教えの本質がどのようであるかを語った。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p59]「勝利者の王であり、また一切をあまねく見わたし、最高の真実を知るシャーキヤ族の覇王が、そのときわたしが聴いた最高の經説を説こうと欲していることは、確かだ。・・・シャーキヤ族の獅子は、それを正しく用い、教えの本質の特色を語るであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p65]

「仏の智慧は深遠で、見きわめがたく、理解しがたい。完全な「さとり」に到達した阿羅漢である如来たちがさとった智慧は、すべての声聞や独覚たちには理解しがたい。それは何故かといえば、かれら如来たちは、幾千万億という多くの仏に親近したからである。かれらは、この上なく完全な「さとり」を達成しようとして、気力を振るい立たせて幾千万億の仏が行った修行にならって修行をし、かれらに遠くまで随行して驚異驚嘆すべき教えを体得し、理解しがたい教えを会得し、理解しがたい教えに通じていたからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p67]「如来たちは偉大な巧妙な手段を用いる智慧を示すことでは、最高に熟達しているのである。かれらは、繋縛もなく障害もなく智慧を発揮する力をもち、自信に満ち、普通の人間とは区別される勝れた特徴があり、また、そのような感覚機能の力をもち、「さとり」を達成する素質を具えているだけでなく、瞑想して心を静め、迷いから脱し、精神を統一して身心を平安させることができるという不思議な特質を賦与されているのであって、こうして種々の教えを宣揚するのである。」(誰もが知り、もっている当然のチカラかと思っていた。)「如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。」「如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p69]「神々と人間とが住む世間において、偉大なる勇士(仏)は無量である。この世のすべての人々が指導者(仏)たちをすべて知ることはできない。かれらの力、迷いからの脱出、そして、かれら自身がどのようなものか、仏のもつその他の特徴がいかなるものか、だれも知ることはできない。」(人間は平等だと教えられて、それで、・・・。平等即差別を早く教えて欲しかったよ。そうすれば、こんなに苦労しなくてよかったのにね。)「かつて幾千万の仏のもとで、意味深遠でかつ微妙で、見きわめがたく理解しがたい数々の修行を、余は修めたのだ。この修行を考えられないほどの幾千万劫のあいだ行って、「さとり」の壇上において、それがなんであるかを見たのは、余の得た果報である。そして、余はそれを知っており、また他の仏たちも知っている。それが、どのようであり、いかなるものであり、また、その特徴がいかなるものかを。それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない。(あるけどない。知る人が知るばかりである。)また、そのようなことができる人は、仏のほかには、この世には誰もいないのだ。かの教えが教え示されるべき人、また教え示された教えを理解しうる人は、信心の意向をもちつづける求法者たちを除いては、他にはない。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p71]「仏の教えは深遠で微妙であり、そのすべては追究しえられす、しかも清浄である。この世の十方において、仏たちが説いたことがいかなるものか、余のみが知る。・・・仏が語ったところを深く信ぜよ。偉大な聖仙である仏は偽りを語ることなく、長いあいだ最高の意義を語る。余が平安の境地に達したことによって鼓舞されて、各自に「さとり」に到達しようと努力しはじめ、連続して起こる苦悩から解放された、これらすべての声聞たちに、余は告げよう。この世においては、余は巧妙な手段を用いて、この勝れた教えを語るのだ。かれこれと心を奪われた者を迷いから解き放つために、余は三種の乗物を示そう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p75]

(さて、信を以て入ることを得たりという。是が難しい。何故って、自分が自分を信じるしかない場合があるからである。自分以外はすべて違っていてそれでも自分を信じるには相当の行が要る。また、その質において、相応の行が要る。因って、難しい。しかし、この泥の中にしか、蓮華は咲かない。その苦労を超えたときの喜びを信じるしかない。また、確かに、この喜びは無上である。)

「もう、よせ。その訳を説明して、何になろう。それは何故かといえば、神々も世間の人々も恐れおののくであろう。そして、僧たちはうぬぼれの心をおこして、大きな穴に落ち込むであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p83]「・・・その集まりにいた僧や尼僧や男女の信者の中で、うぬぼれの心を起こした五千人の者が座から立ち上がり、・・・これは、うぬぼれのために生じた悪い根性のために、かれらは得ていないものを得たと思い、達成していないものを達成したと思っていたからである。かれらは自尊心を傷つけられたと思って、その集まりから出ていったのであった。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p87]

「余は真実を語る者であり、ありのままに語る者であり、確実なことを語る者である。・・・正しい教えは推理することもできず、推理の範囲を超え、如来のみが理解するところである。それは何故かといえば、如来は唯ひとつの目的・唯ひとつの仕事のために、この世に出現するからである。・・・それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞するためであって、そのために如来はこの世に出現するのである。如来の智慧の発揮を人々に示すためであり、またそれを人々に理解させ、分からせるためであり、また如来が智慧を発揮するに至るまでの道程を人々に理解させるために、世尊はこの世に出現するのだ。このことが、・・・如来の唯ひとつの偉大な目的であり、唯ひとつの偉大な仕事であり、如来がこの世に出現する唯一の動機なのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p91]

自由の誕生~宣言として~   2005/12/02  (引用) 
さて、自信は本人が納得して至るものである。一度、この妙を得れば、あらゆる一切の言辞に惑わされることはない。一切は正憶念である。過去の自分が知れれば、一切の他者を排除できる。自得自証、それでいい。意に添わなければ、それは縁なきこと。自分は自分で充足している。ここに至らぬ限り迷う。いくら知ったかぶっても、わかったつもりでも、到らねば意味はない。自分が自分と一体となる。この事がわかれば、この世の一切が、自分の反射であると知る。到らねば、所詮自分ではない。これはまた、客観的チカラを根拠としている。そのチカラとは、神力である。神力によって証明されれば、世界が、自分を祝福していた。虚は一切虚であり、相手にすることはない。相手にしなくとも、地球は自転している。およそ、世界に嘘はない。真実は正直を以てその姿を現す。真実を知るとは知って神を見る。神は現実であり、知らねば秘密である。およそ、知らぬ者にはいくら説明しても到底解らない。知ればこれほど簡単明瞭はない。いつも、神は守護してくれている。いつもそばにいる。これほど信頼に足るナビゲーターはいない。助っ人はいない。命など惜しむこともない。神とはそうしたものである。その他、何も要らない。破れかぶれ、すっちゃかめっちゃか、はっちゃかめっちゃかである。是を以て本来の自由とする。是を以て大和魂とする。因って、大和は美しい。ここへ至れば、人生はジェットコースター。上り詰めた高さが自由の度合いを決める。下りはニュートラル。自由無限軌道に乗れ。下って上って亦下る。これより終わりは命の終わり。人生の醍醐味ここにあり。上るは最高峰、須弥山なれ。風は追い風、空を舞う。金銭レベルでは買えぬ(変えぬ)最高の至福がある。自由。(RCC「走れ歌謡曲」を聞きながら 2005/12/2 04:58am)自由とは、思う通りにして法を超えない。要件はただ一つ、嘘をつかない。力強く生き抜く。人生はフィナーレへ向かうクレッシェンド・フォルテ(チェリビダッケ指揮、ブルックナー4番の如く)。上り詰めろ。本来ある力が制御された緊張感あるピアノッシモ思惟精神構造を以て。制御された高速頭脳回転状態がそれであり、21世紀は良い意味での高度緊張状態人格を知るもの達の時代である。彼らの文化が華咲く時を迎えた。それぞれの文化の質が開花する。時代は満ちた。(2005/12/07 09:18am)これまでの敗戦状態に起因していただけの平和の中で、本来の価値を知り得ず、むしろ笑いものにし、貶め、履き違えていた者たちによる偽善文化(彼らの歩んだ道は、事実として、現実に於て、腐敗として現前している、その責任は取って貰う)、すなわち、甘え(責任転嫁)と他人を利用して利益を独占する手法は反省された。詐欺と脅迫は通らない。自由個人主義の時代である。心ある方々の待ちこがれていた実質文化の到来である。(2005/12/07 20:44)ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた真の理由を知るものはいない。アポロ計画が何故実行され、中断されたか、その理由を知り得ないように。また、宇宙ステーションが何を意味しているかを知らないように(スペース・シャトルが初めて地球に帰還したのは何時であったか、昭和56年春である)。それらは化人としてでしかなかった。すべて、ある人(存在)に真実を知らしめんがための故であった。しかし、その頃に、本来の種が蒔かれていた。今、やっと、その華が咲く。そして、実が成る。知らずともである。これが真実である。(RCC 甲斐バンド「英雄」を聞きながら 2005/12/07 21:26 (フッ、辛いぜ・・・))在法華宿王華としてのしかるべき存在が目覚め、自然=宇宙に受容・祝福された大神通力が世に現れたからである。真実のシャトルの帰還である。2001年宇宙の旅。長い旅であった。機体は少し損傷があるが、まだ飛べる状態である。(2005/12/10 4:45am RCC 「走れ歌謡曲」を聴きながら)
(http://www.pc-kure.net/より)

知は力なり
何の小説だったかは忘れた。女流作家だった。『文学界』か何かだった。女性が理不尽な男性社会で生きていく中で、自立して生きていくことがテーマだった。そして、決意した瞬間、内面でつぶやいた言葉が、「知は力なり」だったように覚えている。さて、人生の醍醐味は勝つことにある。負けるために生まれてきた訳ではない。みな、勝つために生きているといって良い。しかし、何を以てフィールドとするかが問題である。今、負けているように見えても、それは、勝つための準備期間だ。また、この人生は、過去世の裏とも思える。今、負けている相手は、過去に於て、自分が打ち負かした相手であり、ある意味で、その復讐を受けているとも思える。で、それならば、復讐を受ければ良い。いつかは、終わる。それから、反省するべきはして、新しい始まりを迎える。生きるフィールドのアウフヘーベンだ。通らねばならない宿命かも知れぬ。堪えることはできる。方法を間違えなければね。そして、復活。さらに強い自分を見出せる。そうした戦いの人生もある。負けることを通らないとならない人生もあるようだ。重い過去があるようだ。その重さを乗り越える。軽くなれる。そして、そこを通過すると、飛べるね。究極の軽さとは、そうして得られる。心の軽さ。現実はそうして乗り越えていくことができる。人生は戦いである。そして、宿敵が多くいる。往々にして、始まりに於て、敵は多数であり、援軍はいない。しかし、どこかに味方はいる。人生は、その味方への合流の旅である。味方へ自分の存在を知らせる必要がある。所詮多数に対して一人では戦えない。始めは一人である。しかし、いつかは、味方に合流できる。この事実を認識できるとき、はじめて、堪えることができる。勇気を持とう。パラダイスが待っている。そこまで、泳ぎ抜くことだ。あるいは、漂い抜くことだ。必ず、掬ってくれる。必ず。そして、堪えた悲しみの深さに比例した喜びがある。五十年苦しんだとしたら、五十年の喜びが待っている。今生で果たされなかった喜びは、来世への遺産である。天徳は、自分が本来の自分となったときに還ってくる。是を事実として認識することが夢である。夢は実現する。それが、二十一世紀の約束である。良い時代に生まれ合わせた。こうしたことが既に、ある人(存在=being)によって証明された。安心して苦しんで良い。喜びの境地(=真の桃源郷)は必ず待っている。二十一世紀幸福論の始まり。究極の幸福は、思いが宇宙に通じて、実現することであり、因って、自然から祝福されている実感の中で生きていることである。それは、たとえば、権力・武力・金力ではない。法力(=自然の摂理)である。そして、くどいが、身心の清浄を得て、そのチカラを得る。身心の清浄とは、妄念=嘘が焼き尽くされた状態である。その為の試練である。試練は乗り越えるためにある。やがて、本来の幸せを知る。過去からの脱却。今、が未来を作る。今の思いはやがて行為となって染み出す。今の思いと行為が未来を決定する。その繰り返しである。因って、順々に日常が変化する。自然を基準として善悪がある。草は棄嫌に生ふる、花は哀惜に散る(道元)。華と咲くことが人生の目的である。種は種々にある。自分の中にある。どの花を咲かせるか、日々の選択である。常に、二者択一の道がある。間違えても良い。引き返して、亦始めれば良い。人生は歩むに値する。生まれてきた意味を知って歩む。生まれてきて良かったと思える。感謝もできる。挨拶。推して返す。波に等しい。営業トークで、きれい事を云って、心では舌を出している世間の与り知らない世界がある。そうした純粋精神の方々が、たとえば、いじめの対象となっている。かれらは、いわば、高原に咲く花である。世の勝ち組は彼らの犠牲の上にある。高原の花が咲かなくなったとき、人類も終わる。やがて、逆転する。真の喜びは、純粋精神の勝ち取るべきものである。人生、あるいは、命の不思議がある。

2005年12月11日
感謝
確かにチカラを得た。それは、如来の神力とも云うべきチカラであった。そして、その過程は、凡そ地獄だった。地獄というのは、自分の思いと客観とのギャップだった。それは、何時の頃からだったろうか。おそらく、生まれたときからだった。そして、今は、感謝である。それは、諸先生、諸先達に対してである。特に、見えないところでの祝福と応援があった。何度も滑り落ちた。しかし、這い上がり、究めた頂上は、須弥山であるかのようであった。ここに、お礼申し上げる次第である。昭和56年就職は大林組だった(しかし、安住させては貰えなかった、あたかも、大海での遍歴が続いた、運命としての行のようだった、「何か失われた大切なもの」を求めて)。就職活動は大阪だった。また、文化放送には、履歴書の書き方(=自由)を教わった。その後も、見えないところの方々の応援の故だった。RCCからは、祖父の亡くなった頃、その旨を添えた応募で、オージェイズのEPレコードを頂いた。常に道標はあった。振り返れば。ありがとうございました。代々の果たさなければならなかったこと、果たせたようです。

さて、これは仮説であるが、飛行機は何故墜ちるか。それは、スタッフ、特に整備の問題である。スタッフが邪悪であれば、たとえば、その周波数が飛行機を墜とす。精神の問題である。正直者に神は宿る。正直者が整備すれば、神々が守護する。機体が喜ぶ。墜ちはしない。また、乗客の中に、たとえば、御寳器を所持する者がいれば、墜ちはしない。信じる信じないではない。事実である。

ところで、今、社会は明らかに女文化社会である。戦後、女性にも行為能力が与えられ、参政権も与えられた。女性の解放があった。そして、今に至っている。しかし、問題は、やはり、女性は男性に対して相対的に弱い。それ故の嘘をつく(=身勝手)。これから、女性が、社会に於て重要な地位を維持するための要件は、妄念=嘘からの自由である。女々しい男性は、掬われるには時間がかかる。

代々、禅僧の悟りとは、現実一切が、たとえば、銀幕のスクリーンであった。

仏陀とは、眼(まなこ)ある方である。それぞれ、どのような目をしているか。諸タレント、サングラスで誤魔化したその目は、唯、欲望の目ではないのか。錯覚。否。涙雨。

蘇我氏の魂は、あるいは、今、鹿の中か。宮島、あるいは、奈良に於て。

孫にも衣装の意味。着るべき者が着れば、どんな装いもファッションとなる。
2005年12月10日
馬宿の王子
その運命は誰も知らない。捨て子状態で始まる。しかし、いつかは、自分に気づく。現代社会に於ては、あまりにも時間がかかることであった。発芽するために消費するべき養分は自分の中にあるとしても、自分を理解する者は周りにはいない。芽が出るまでは誰も気づけない。獅子は子を千尋の谷に落とす。しかし、神々は始めより祝福している。じっと待っていた。直接彼に不利益を与えるものに対しては、神々が処分しながら、その子の誕生は、時代の約束として。誰も知らない。因って、神秘である。キリストが処女受胎と言われる所以である。マリアも気づいていなかった。旧約聖書は続行中である。今より、そのいくつかが実現される。庶民はお陰を気づかざるを得ない。すべては心より始まる。その心には、質に於て、上下がある。水は高いところから低いところへ流れる。自然の摂理が復興する。愚か者の支配は終わる。もはやあらゆる人為的勝手は通らない。自然の意思が実現されるだけである。自然に受容されること。唯一の要件である。時が満ちたとは、こういう意味である。「自然に帰れ」の実現。自然を粗末にすることなかれ。しかし、堕落し、それを助長した、汚れた人間には決して理解できない。しかし、自然は意思を実行する時を迎えた。信じるべきは信じるべし。「信を以て入ることを得たり。一切大衆、自ら出ることはできない。唯、善業の因縁より出ることができる。香風来たって、古きものを散らし、新しきものを雨らす。一切衆生、功尽きて、大火に焼かるると見るときも、わが子の土は安穏なり。謝るところからしか入れない。時代は明るきから明るきへ。」時である。日月そろって、明るい。陽極と陰極とで灯りは点く。もはや、始まっている、21世紀。灯が燃えるためには、酸素が要る。酸素を供給する時代である。善人は神々が掬い取る。悪人は淘汰に任す。善人とは正直者である。代々の罪がある。覚悟するべし。
何故勉強するか
この生を受けて、自分のやりたいこと或いは為すべきこと(使命=生まれた意味)を発見する為。その為に、色々と、過去の文化を通して学ぶ。それは、内容だけでなく、諸人の方法。さらに価値基準。しかし、人間は往々にして間違う。間違った文化もある。現代は、むしろ、間違えた果実。反省を要する。無意味・無価値・堕落・低俗を自然は好まない。常にフォローを要する。スタッフ一同の怠慢であり、世を汚す罪は重い。時が満ちた今、本来の価値=文化を無視した彼らは淘汰=処断される。彼らの奢りの時代は終わる。得知らずとも。クラシックとはならない。社会腐敗の原因である低俗な刹那的快楽助長は猛反省の時である。何をしても自由であるが、その結果に対する責任があることを忘れないように。その基準は自然の摂理と言って良い。これが、ロゴスである。今、世間はこのロゴスを見失っている時代である。法=自然(神)を超えては生存できない。嵐には堪えることしかできない。命を懸けること(目的)を履き違えないこと。迷惑は迷惑である。悪の花は咲いたときに摘み取られる。根を抜かれる。馬謖は斬られる。時が満ちるまでは斬れなかったとしても。

菩薩道
「三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、是れ菩薩にして身命を捨てたもう処に非ることあることなし。衆生の為の故なり。然して後に乃ち菩提の道を成ずることを得たまえり。」「又聞いて菩提を成ずること 唯佛のみ当に證知したもうべし 我大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」(大乗仏道に於て、菩薩としての道を歩むとき、このための故に、衆生は救われ、また、この道を以て、菩薩の道も成就する一乗と言うべきか、そして、この事を知り、証明するのは、唯佛のみ、と。)「無量の衆生法を聞いて解悟し不退転を得、無量の衆生道の記を受くることを得たり。・・・娑婆世界の三千の衆生不退の地に住し、三千の衆生、菩提心を發こして受記を得たり。」(提婆達多品)

しかし、気づいてみれば、世の中に於て、自分の必要は足りている。足りないと思うのは、唯、自分の欲と言うべきか。そして、足りないところは、実行努力することで、やがて、その方法に至る。方法に至れば、さらに、実行努力することで、その果実を得ることができる。そうして、順々に満たされる。しかし、果実を得るためには、失うべきものが、自己内に生じる。それは、心の消耗であったりもする。だから、何も求めず、自然の中で充足できるなら、それが無量の幸せということにもなる。要は、バランスであって、心に障りなくんば、吉。至極簡単明瞭。すでに、与えられていることを知ることで、焦ることもない。淡々と生きてゆける。但し、自然から受容されている実感は別論と言うべきか。本来求めるは是であり、知足は、その為の入り口と言うべきか。

「深く罪福の相を達して あまねく十方を照したもう」「世尊の納受是の事疾しや不や。答えて言わく、甚だ疾し。」(提婆達多品)「過去に佛いましき、・・・國を現一切世間と名け、劫を喜見と名く(世間現実、自然=宇宙に受容・祝福され、知足を以て喜びと見ることで佛の知見を得)。・・・華徳、汝が意に於て云何、爾(神)の時雲雷音王佛の所に、妙音菩薩として伎楽をもつて供養(相手が喜ぶこと)し寳器(人格)を奉上せし者、豈に異人ならんや、今此の妙音菩薩摩訶薩是なり。・・・神通・変化・智慧に於て損減する所なし。・・・其の三昧を現一切色身と名く。・・・是の妙音菩薩來往品を説きたもう時、四萬二千の天子、無生法忍を得、華徳菩薩、法華三昧を得たり。」(妙音菩薩品)

「若し是の城(涅槃城)に入りなば快く安穏なることを得ん。若し能く前んで寳所に至らば亦去ることを得べし(佛所において安穏世界を知り、本来の桃源郷は、神仏=自然より受容祝福され、大神通力・大安心を見得したならば、やがて、現実世界へ帰還すべし)。」(化城諭品)天=神を知る、これ大和民族なり。これを真に畏れることなき方々の時代、終わるべし。神仏知れば、惡は為さぬものなるが故に。他者を粗末にすることは無きが故に。命=宇宙=魂=自然を知るが故に。ここより、衣食足りて、やさしさの理念へと至る。妄念=嘘こそ地獄の門。神は正直者の頭に宿る。神=天に虚実無し。無とはこれである。この無は有る。ここを畏るべし。今、改めて現成公案の果実を得る時代を迎えている。目的はやさしさであり、その手段としての愛と平和。21世紀、人類の階梯。やさしさは、思うことなくして、至福。足りている。四百年来の重商主義・金銭至上主義の終焉。本来の価値の発見。人格=魂の歴史的意義と変遷。過去からの約束。秘められていた種としてのDNA。眠られし神、乃ち、現在前。(2005/12/10 0:32am NHKラジオ深夜便を聞きながら)すでに、我、思うこと無し。我、思わずとも、帝則有り。その法の真実なるを知れば、安穏にして、身を任す。自然は神、容赦なく、淘汰する。(2005/12/10 0:55am RCCラジオを聞きながら)

「我等宿福の慶あつて 今世尊(久遠実成釈迦牟尼佛)に値(日給)いたてまつることを得たり」(化城諭品)(2005/12/10 1:04am RCCラジオ オールナイトニッポン を聞きながら)
2005年12月09日

十六王子
法華経に十六王子とある。十六人いるか。十六の属性である。王子は一人である。また、法に於て現前しないとある。自然は既に成就している。法とは、現実のことである。人間レベルが低すぎる。また、釈迦牟尼佛が、最高ではない。最高は、如来である。存在意義が違う。如来も一人である。あらゆる如来の属性を以て、様々な如来相を示す。そして、普賢、如来より来たる。王子は、元服して、法王となる。過去よりの約束である。併し、その道程たるや、その試練たるや、その資格を得るためのプロセスは、物語に有る通りであった。だれかれ堪えうる道ではない。蚕が繭を吐くには、透明と成らねばならぬ。それは、一つの死である。敢えて飛び込めるものではない。自然の導きによるしかない。さもなくば、長い繭の時代を人知れず、生存しうるべくはない。多くは、脱落する。脱落を以て大人と称している。大間違いである。大人と称して大きな顔をしてきた者たちは畏るべし。脱落した者に、チカラはない。もはや、あらゆる釈明もない。來生に夢を託すが良い。(2005/12/09 3:41am 「走れ歌謡曲」を聞きながら)

法華経は、大乗であるが、それは、己の悟りのみを以て価値とする小乗に対する革命であった。則ち、利己主義に対して、周りが幸せであれば自分も幸せであるとする、菩薩的立場の宣言であり、そのパラダイムの設計図であった。あたかも、現代に於ては、現在勝ち組に対して、断罪であるかのようである。また、彼らは自由を以て、荒野に住した。地より涌出する、知性を有した者たちの新しい時代の夜明けであり、船出である。また、空閑(=荒野)の摂理或いは決闘の極意を知っている者たちの時代の始まりである。

聖徳太子は馬宿の王子である。キリストも亦馬宿の王子である。王子はこのようにして生まれる。

マンダラケ、大マンダラケ。宇宙からの証明である。あらゆる事象がその存在を証明する。風景も然り。動植物も然り。自然の祝福である。時が満ちて、神秘が神秘ではなく現実であり、偶然が偶然ではなく、神々の存在証明としての必然であることを知る日が来たのである。それは、過去からの約束であり、秘められていた種からの開花である。時が満ちるとは、人間の傲慢が熟するときであった。人間の惡が満ちるときであったのである。あらゆる物語がそれを証明している。因って、新しい時代の始まりである。

「中腰で待つ」とはね、相撲に於て構えていて攻めていかない、剣の果たし合いに於ても然り、あるいは、テニスに於ける姿勢、・・・わかるかな。「歴史認識は待つしかない」は当たっている。一問一答、ご挨拶ってこと。つまり、キャッチボールだね。やがて、一つの答えが返って来る。民事訴訟法の鉄則は当事者主義、攻撃・防御。(2005/12/09 7:45am RCC 武田鉄矢を聞きながら 良い内容だった 笑えた)ビリー・ジョエルの歌って、エルトン・ジョンとトーンがよく似てるね。共通因数は「J」? (ま、いいか、誰かが舌打ちしている。誰だろう?羅刹か?)日本は変わった。面舵一杯である。進路良し。ところで、平家の家紋が蝶でしょうか。華は?櫻は?・・・そろそろ、ノーサイド(試合終了)かな? もはや、敵がいない。あるいは、始めよりいなかったか。しかし、あまりにも、腹に据えかねた。(by 羅刹:「明治のオオバカをなきものにする」[羅刹の生まれたときからのテーマ])

清盛の日招き岩
2005/12/08 今日、宍戸屋に寄って、宍戸氏とてっちゃんと話した後で、高烏台へ行きました。音戸ノ瀬戸を開いたのは平清盛ですが、工期が遅れたのでしょうか、完成の日に、扇で夕日を扇いだと言われています。さて、到着してみると、白いネコが二匹お出迎え。にゃーと。そして、日招き岩へ先導してくれました。気づくと、藤猫も一匹いて、先頭に立って道案内してくれました。そして、日招き岩の所では、彼らと遊びました。清盛が見たであろう音戸ノ瀬戸もしっかりと見てきました。さて、この瀬戸は、浅瀬であったらしく、それを掘ったのですね。
http://www.pc-kure.net/GT/doc/kiyomorinohimanekiiwa.htmlより

2005年12月08日
普賢菩薩
「爾の時に普賢菩薩、自在神通力・威徳名聞を以て(爾と言われるべき方が、自由を得て、神通力とでも言うべき、自然の守護を得て、そのチカラを世に示し、その存在が世に知られ)、大菩薩の無量無辺不可称数なると東方より来たる(菩薩の行を成就して、このチカラの存在を知っている多くの方々を眷属として、その方は日本にいる)」。(普賢菩薩勧発品第二十八)

「普賢菩薩其の人の前に住して、アマネク十方の佛を禮せん、十方の佛を禮しオワリなば、普賢菩薩其の人の前に住して、教えて宿世の一切の業縁を説いて、黒惡の一切の罪事を發露せしめん(その人は、普賢菩薩が現れて、この世の一切を知るチカラを得て、諸佛をみる、そして、世間の腐敗と真実=清浄へ至る道を説くことになる)。」「廣く説くこと妙法華経の如し。」「諸の惡声を聞く時は煩悩の毒を起し、処処に惑著して暫くも停まる時なし。此の弊声を出して我が識神を労し、三途に墜堕せしむ。」「普賢の行を行ぜん者は惡相及び惡業報を見じ。」(観普賢菩薩行法經)

(真実は、法華経が良い。道元も最期は法華経を読みつつ、遷化した。成仏とは使い切ること。命も使い切る。命を使い切るとは、ロウソクの如く、命の灯を点し、燃え切ること。)

「爾の時に釈迦牟尼佛讃めて言わく、善哉善哉、普賢、汝能く是の經を護助して、多所の衆生をして安楽し利益せしめん。汝スデニ不可思議の功徳・深大の慈悲を成就せり。久遠より來、阿耨多羅三藐三菩提の意を發して、能く是の神通の願を作して是の經を守護す。我当に神通力を以て、能く普賢菩薩の名を受持せん者を守護すべし。普賢、若し是の法華經を受持し、讀誦し、正憶念し、修習し、書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼佛を見るなり、・・・」。(普賢菩薩勧発品第二十八)
命の華
華を咲かせる。命の華である。自分が自分となることでその開花が成就する。そして、一度咲けば一生咲くことができる華である。これを以て、蓮華の前に化生すると言う。要件は、きれいなままでいることである。きれいは、身心の状態である。併し、世間は汚れすぎた。汚れることを良しとした。汚れたものにとって、自己否定はできない。だが、この度はそうはいかない。真実の華が咲いたからである。アマテラスが岩戸から出たに等しい。それは、世間の認知など必要としない。あらゆる自然と記録が証明している。
2005年12月07日
40才になったら顔に責任を持つ
リンカーンのところにある人が紹介された。しかし、何時までも雇って貰えなかった。リンカーンは言った。40才を過ぎたら、自分の顔に責任を持て、と(子供の顔の責任は親にある)。よく言われることだが、若い時分は左翼でよい。しかし、齢を重ねて、何時までも左翼では困る、と。ところで、てっちゃんは、私の誘いを断ってまで勉強すると言う。むしろ、宍戸氏の眷属であったようだ。彼の言うことをよく聞いている。ま、彼の選択だ。これまでのパタンである。彼に対する私の役はここまでのようだ。次のステージの始まりなのだろう。

これまでは、教育の名で、道徳を指導してきた。しかし、何時の頃からか、機能しなくなった。アメリカ的少年犯罪化傾向が熟しつつある。さて、道徳を教えることが、そもそも不遜であったのかも知れない。今、教えるべきは、客観的法則(サンクションを含む)でよい。道徳的価値判断は不要となったのかも知れない。教育的配慮を拒んでいるグループに対しては、結果について、厳罰に処するしかない。少年だからといって、責任無能力とは言えない場合もある。分野に於ては、少年の方が、精神年齢的に高い場合もある。また、知識も豊富な場合もある。そういった時代である。

開聞岳の麓にツキノワグマの石像がある。アイヌである。クマソ?隼人?出雲?明治(下級武士[脅迫、嘘]→商人[詐欺]:虚実)?大和(神[正直]:実質=真実)!

維摩居士曰く、「衆生病む、故に、我病む」。処方はなかった。自らのチカラとtimeとで癒すしかなかった。悟得のみ。因って、也自由。唯自証正雄(セヲウ→セイオウ)。[如来正雄は常に世間に在(いま)す。(妙法華経p29)]

そして、維摩居士は吐露した。二度と病みたくはない、と。また、羅刹が言った。自分一人で、世の破滅を止めている、と。自分(=時分)が諦めたなら、世が終わる。ゴキブリ以下の人間ども、潰しても惜しくはない、と。ダイナマイト。ノーベル賞如きでその罪は消えはしない。況や、アインシュタインをや、と。ナンダ(何者だ)、こいつらは?天命!

しかし、人間というのは、どうして、かくも、自分勝手であり、自分計算するのであろうか。自分だけの利益のために。すべて、天はお見抜きお見通しであり、そのそれぞれの行為に天罰は下るべくものなのに。自分の身は守りながら、自分の利益のためには、奪うことしか考えない。世間は、それが人間であり、人生だと言う。私は、みな、奪われたよ。哀しいね。

球拾い
スポーツ選手として立身するなら、球拾いである。その間、諸先輩を観察する。時間をかけてイメージトレーニングしている。そして、自分の時が来る。既に勝負は決まっている。体育系クラブ活動で脚光を浴びる極意である。実践に於ては、冬で次の夏が決まる。冬は走り込む。足腰を鍛えておく。新庄剛志選手の方法論はタレント的であり、商売(ビジネス)的であって、スポーツ選手としてのそれではない。だから、実力だけの結果がない。これが、民放テレビ放送における視聴率主義の結果と同じである。しかし、視聴率の基準が変わる。これまでの衆愚依存ではなく、需要を作るように、視聴率市場を作ると良い。制作者の意識転換、喚主体性。従来のマーケティング理論の終焉である。市場調査ではない。既存の市場は狂っている。新しい市場の開拓である。そこを耕し、種を蒔く。やがて、芽が出て葉が出て花が咲く。その過程は歓喜を伴う作ること。スタッフの方々、先の見えないまま苦しんで仕事しなくて良いね。

勉強の極意
人の三倍のスピードで人の三倍の量をこなす。時間は平等であるが、九倍の効果がある。禅語に「十二時をこき使う」。世間一般は時間に使われている。そして、無限軌道に乗る。乗れば自由時間空間が待っている。そこへ至るまでの勉学努力である。大丈夫。この世に何も畏れるものなど無い。世間一般を超越している。手がつけられない。しかし、・・・。

2005年12月06日
雪を担いで井戸を埋める
禅語に「雪を担いで井戸を埋める」が、わからなかった。今、思うのは、雪は清浄心。世間一般からすると無益な行為である。しかし、この行為こそ、身の清浄を得る。そして、はじめてわかる。

世間は合理性を言う。そして、ビジネスが人生の目的であるかのように、辛い日々を日常としている。幸せを求めて苦しんでいる。合理的ではない。衣食足りて礼節を知る。衣はある。食もある。さらに、何を求めての経済行為だろう。幸せ。幸せは、こころの領分である。それは、喜ばしき環境の中にゐて有る。環境は人間関係を含む。下町情緒。生きること。生活。目的を間違えていないか。美しい自然がある。昨日来雪が降った。雪絶景。山々は最後の紅葉が鮮やか。そして、雪の白。雪が降って、空が澄み、それを映した冬色の海の色は陶器色グリーンである。呉線沿線。瀬戸内海国立公園。切り取られた絵のように、美の瞬間があふれている。自然のやさしさに抱かれて、美しい風景を、見ている。見せてくれている。風景と溶けあう。至福。起こるべき事は常に起こっている。気づけるかどうかが、幸・不幸を決定する。自分の世界の確立。世間の影響からの独立。世間の中で餌食となること無し。自分に克つ。世間に勝て。「負けるな一茶これにあり」。

さて、広島大野王舎城には、三体のご本尊様がある。一身即三身、三身即一身、無作三身のご本尊様である。これが、知・仁・勇を表す。つまり、方法を教えて貰う。勉強であり、学ぶことである。理入である。そして、行をして、仁を得る。行入。仁とは、やさしさである。正しい方法を実行することで、人格としてのやさしさの価値を知る。そして、さらに実行する。実行は勇気を要する。飛び込むに等しい。方法が正しく、人格があれば、神仏=自然が掬い取る。「飛び込んだ重さで浮かぶ蛙かな」。釈迦も飛び込んだ。帝釈天=宇宙・自然が掬い取った。究極の目的は、神仏=自然に認められることである。これが本来の幸福論であり、ヨブ記の約束である。

人間であるかぎり完全な存在はあり得ない。多かれ少なかれ、障害を持っている。その障害が亦乗り越えるべきもの。この障害を通して自己を知り、自己を磨く。此処を通して真実(命)へと至る。近道かも知れない。ある青年が、肩から二の腕に火傷があった。子供の頃、家に火事があったか。その青年は屈託なく「勲章だよ」と言った。強く生き抜くことができれば、それで良い。所詮、魂の遍歴である。来世へのバトン・リレー走者である。人生は魂を宿すヤドカリである。永遠の百代の過客である。法華経に宿王華。何を宿すか。時々の選択の結果である。一切種智慧。己にある種は何か。どの華を咲かすのか。秘密は至ってシンプルである。代々の種が才能であり、可能性である。教育の目的も見えてくる。それは、DNAにある。矯めるべきは矯める。直すべきは直す。来世のためである。子供達のためである。未来は明るい。才能は経済的利益追求の具ではない。純粋精神及び諸才能を弄びし低俗世間一般要猛反省!

良寛
しばらく、良寛がわからなかった。意識が低いように思っていた。しかし、本当に至ると良寛だろう。ある日、食べる米がなくなった。親戚に手紙を書いた。米を貰って礼を言うことはなかった。とらわれることがなかった。良寛もはじめから良寛ではなかっただろう。いつしか、妄念が焼き尽くされた。良寛となった。やさしさだけがのこされていた。

「遊びをせえんや生まれけん 戯れせえんや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がれる 」

  花無心招蝶    花 無心にして 蝶を招き
  蝶無心尋花    蝶 無心にして 花を尋ねる
  花開時蝶来    花 開く時 蝶 来り
  蝶来時花開    蝶 来る時 花 開く
  吾亦不知人    吾れも 亦 人 知らず
  人亦不知吾    人も 亦 吾 知らず
  不知従帝則    知らずも 帝則に従う

道徳とタブー
道徳の目的は、円満な社会生活の形成のためにある。タブーもそうですね。しかし、道徳とタブーで縛ることで、人格の形成に、むしろ良くない傾向を付与することになるのかも知れない。強制すると必ずその反動がある。道徳とタブーからの解放が必要であるのかも知れない。要は、社会の形成。ゆがめられた人格が、結果的に、悪影響となるなら、その原因としての道徳とタブーは見直すべきだろうか。また、これらのことが、支配の手段として機能している。さて、大切なのは、should と must についての反省。意味のない強制ではなかったか。基準は、健全な社会。今、社会は、おかしい。目的は、心の自由。関係の形成。思う通りに行為して、しかも、法を超えない境地。自分にして欲しいことを人にしてあげる。しかし、往々にして、自分はしてもらいながら、人にはしていない。世間一般。価値の見直し。

いつもやさしい気持ちでいることができること
経験が大切なことは、森有正氏が言っていた。実験することで証明される。いつもやさしい気持ちでいることも、試してみる。はじめは意識している。やがて、その趣がわかってくる。こうしていることで、すべて整うことに気づく。思い煩うことなかれだね。

法師品第十
「我皆記を与え授く」(法華経に出会いこれを信じて讃嘆随喜する者は、記録としての仏の述べる真実を理解することになる)。「此の経巻に於て敬い視ること仏のごとくして」(法華経こそ仏であるのは、弘法水が弘法大師そのものであるのと同じであり、代代の仏が其の仏の真実を知り、信じ、認め、これを以って修行し、仏とはなったので、その言葉の数々に、真実としての実体がある)。

真実の花
「時に一りの導師あり 強識にして智慧あり 明了にして心決定せり 険しきにあって衆難を済う 衆人皆疲倦して 導師に申して言さく 我等今頓乏せり 此れより退き還らんと欲す 導師此の念を作さく 此の輩甚だ憐むべし 如何ぞ退き還つて 大珍寶を失わんと欲する」(化城諭品)

今思えば、すべての事実が、道標であった。何度か気づいたこともあった。しかし、其の都度、自ら背いたことだった。真実は、自らの悟得の他に其の道はない。この度のこの道は、もはや、疑うことはない。周囲世間のいくら知らずとも。真実の花はひそかに静かに咲いている。宇宙の命の花として。

2005年12月05日
てっちゃんに言ったこと
何か具体的なことをしたか。その後何もしていないではないか。すでに魅力はなくなっている。思うだけ、言うだけでは、何も変化は起こらない。実行して初めて次の課題が現れる。次第に課題を解くことで進歩する。やがて、望みは具体化する。当たり前のことは言うな。話を落とすな。公理と定義と定理の違いを知っているか。こうしたことも知らないのでは、語ることはできない。勉強をなめていないか。礼儀がないにもほどがある。

聖徳太子 蘇我入鹿
ある方が面白い話をしていた。趣味は考古学である、と。さて、聖徳太子も蘇我入鹿も実在しない。聖徳太子が馬宿の王子と言うこと自体ナンセンスである。蘇我氏については、読みが、「われよみがえる」となる。「入鹿」は、「海豚」である。「鹿に入る」は、ナンセンス。名前には意味がある。親が名前を付けるとき、無意味な名前は付けない。こうした状況は、キリスト=ユダヤ經の系譜でなければ説明できない。考古学的に掘れば解るであろう場所が制限されている。邪馬台国についても掘れば特定できる。しかし、掘らせないある力がある。ピラミッドもそうである。ピラミッドは人間の作品ではない。あれほどの建造物の建設は、人間には無理である。漢字は中国で作られたと言うが、その原型は日本にあった。同時代に、古事記と日本書紀のふたつの歴史書が作られたことは謎である。さて、聖徳太子は蘇我入鹿とのセットで理解できる。現実に統治していた者が別にいた。彼は表に出ることはなかった。聖徳太子は、人間として完璧すぎる。謎ばかりである。旧約聖書は読む人によって異なった姿を現す。復讐の鬼となるか、あるいは、福音となるか。等々。・・・目からウロコだった。(神々はいた。今もいる。日本にいる可能性が高い。神々は人知を超えている。どのような現れ方をするか誰も知らない。)

サービスの捉え方
量販店で家電を買う。価格は安い。しかし、往々にして、専門知識に欠ける。ユーザーとしては後で困る。専門店で何かを買う。価格か高い。しかし、ユーザーに対するアフターサービスは充実している。一般世間消費者は、量販店においては、アフターサービスを期待している。専門店に対しては、価格の安さを要求する。サービス料はまた無形の技術料である。消費者は自己計算する。価格はサービス料を含む。それを価格破壊と称して、安さで勝負するとする。当然、どこかで、費用の調整がある。経営レベルで価格破壊をする。誰が泣いているか。技術者である。技術が衰退する。全体の基礎的体力を犠牲にしている。愚。そして、消費者の身勝手。日本経済の実体。お金は使うべきものである。フローである。ストックではない。さらに、お金は労働の対価である。お金が利益を生むこと自体が矛盾している。マネーゲームは、亡社会システムである。巨大資本にとって個人投資家は餌食に過ぎない。目覚めよ。本来技術立国日本。作る人(メーカー)よ、立ち上がれ。商人に負けるな。或いは成り下がることなかれ。(2005/12/05 2:59am NHKラジオ深夜便を聞きながら)

ところで、私は、高校受験も大学受験もひとつしか受験してはいない。大学受験の日は、五十数年来の大雪で、辺りは、雪国だった。父は、16歳で志願した。戦地は最北端カムチャッカと聞いているがはっきりしない。また、復員後、網走で刑事だったとか。今も、網走から便りがある。すでに、私の人生、一切恥じるところはない。この身ひとつで、火裏蓮、どんな勝負でもできる。しかし、私の働き場はない。とか誰の言だろう。羅刹か。奴は言った。雑魚ばかりの世の中である、と。

2005年12月04日
良い環境は自分で作る

「若し妙音を以て 三千界にヘン満せんと欲せば 意に随つて即ち能く至らん・・・是の如き諸の天衆 常に其の所に來至せん 諸佛及び弟子 其の説法の声を聞いて 常に念じて守護し 或時は為に身を現じたまわん」「若しは独若しは衆にあって 説法する悉く皆現ぜん」「又浄明なる鏡に 悉く諸の色像を見るが如く 菩薩浄身に於て 皆世の所有を見ん 唯独自ら明了にして 余人の見ざる所ならん」「未だ無漏法性の 妙身を得ずと雖も 清浄の常の体を以て 一切中に於て現ぜん(自分自身が宇宙であり自然であり魂であり、現実は自分自身の反射である)」(法師功徳品)

ありのままで良い。ありのままの自分で勝負する。負けても良い。負けてはじめて強くなっていく。やがて、強くなる。いつまでも思うだけで何もしないなら、弱いままで終わる。強くなれない。スポーツ系の極意は、練習しかない。練習の過程に多くの発見がある。自分だけの技も見つかる。それで勝負するのである。勉強・勉学・研究に於いても奥義はひとつ、同じである。目的はそれらを通しての人格の涵養であり、確立された人格は何を為しても事を成す。垂直の秩序を持っている。今、ビジネス・芸能・マスコミ界に、この精神が見られない。あるのではあるが、抹殺されている。本来の価値・基準を見失っている。本末転倒している。ジャパン・アズ・ナンバーワンを履き違えた、安易な利益至上主義の結果である。自ら驕り、本来の価値をわらいものにし、本来の道しるべを見失っていたのだから仕方ないとしても。惜しいことである。其の所産がバブルであった。其の責任のとり方は、其の当事者の総換えかも知れない。今ある地位にいつまでもしがみつこうとしても、自然が許してはくれないであろう。既にそれほどの罪を犯してしまっている。(NHKラジオ深夜便を聞きながら 2005/12/05 2:20am)

自分に克つ
方法は教えて貰う。そして、それをよくわかり、実行する。このよく分かると言うことが大切。一(マイナス)を聞いて十(プラス)を知る。実行すればそれだけの結果。その結果を分析・反省して、新たな実行をする。仏もそうして仏となった。はじめはマネをする。マネをしていると、それが、何時か自分のものとなる。自分のものとなって、初めてわかることがある。これは、真っ向相対峙自己真剣勝負を要する。恐らく、自分に克つ戦いが一番熾烈。諸先達の喜ぶところは、出藍の誉れ。惜しみはしない。何か一つ、加えることができるなら、それで良い。学ぶことの大切さ。解ることの重要さ。実行することの大切さ。反省することの大切さ。さらに、実行していく。結果の評価はあまり重要ではない。立ち止まっている暇はない。諸結果は後世のための一里塚に過ぎない。やがて、真実を見る。真実とは、あらゆる一切が自分にとって鏡であり、意味があったと知る。世界がささやきかけてくる。祝福している。真実を、粗末にすることなかれ。真実の究極は、精神一刀での処断である。世間、知らずとも笑うことなかれ。

てっちゃんからのメール
「昨日は格好良かったね!あんちゃんだけが本当の自分で真っ向勝負して、オーラだけ見たら完全に主役だったよ!その点ではみんな置いてけぼり!あんちゃんはタレントにも負けない本物の芸術家じゃね!」

ところで、「朕は国家なり」?「朕は地球なり」!
また、『三遊記』:てっちゃん、宍戸氏、私。さらに、龍樹、クマラジュウ、出現成るか。

2005年12月03日
対談
今日、加納竜氏と対談した。『国際ジャーナル3月号』に載るという。少し言い足りないところもあったけれども、調和のある内容で終始した。お互いにフォローできたと思う。これで良いと思う。彼とは生年月日が近い。彼の本姓は、私の母方と同じ読みである。身長も同じ。何だか、因縁を感じざるを得なかった。

横須賀のアメリカ空母
キティ・ホークからジョージ・ワシントンへ。新しい時代の始まりですね。幾多の試練を経て、良い時代となりますね。新大陸。新世界。

2005年12月02日
自由の誕生
さて、自信は本人が納得して至るものである。一度、この妙を得れば、あらゆる一切の言辞に惑わされることはない。一切は正憶念である。過去の自分が知れれば、一切の他者を排除できる。自得自証、それでいい。意に添わなければ、それは縁なきこと。自分は自分で充足している。ここに至らぬ限り迷う。いくら知ったかぶっても、わかったつもりでも、到らねば意味はない。自分が自分と一体となる。この事がわかれば、この世の一切が、自分の反射であると知る。到らねば、所詮自分ではない。これはまた、客観的チカラを根拠としている。そのチカラとは、神力である。神力によって証明されれば、世界が、自分を祝福していた。虚は一切虚であり、相手にすることはない。相手にしなくとも、地球は自転している。およそ、世界に嘘はない。真実は正直を以てその姿を現す。真実を知るとは知って神を見る。神は現実であり、知らねば秘密である。およそ、知らぬ者にはいくら説明しても到底解らない。知ればこれほど簡単明瞭はない。いつも、神は守護してくれている。いつもそばにいる。これほど信頼に足るナビゲーターはいない。助っ人はいない。命など惜しむこともない。神とはそうしたものである。その他、何も要らない。破れかぶれ、はっちゃかめっちゃかである。是を以て本来の自由とする。是を以て大和魂とする。因って、大和は美しい。ここへ至れば、人生はジェットコースター。上り詰めた高さが自由の度合いを決める。下りはニュートラル。自由無限軌道に乗れ。下って上って亦下る。これより終わりは命の終わり。人生の醍醐味ここにあり。上るは最高峰、須弥山なれ。風は追い風、空を舞う。金銭レベルでは買えぬ(変えぬ)最高の至福がある。自由。(RCC「走れ歌謡曲」を聞きながら 2005/12/2 04:58am)

2005年12月01日
呉市安浦町中切川の源泉 野呂山弘法寺
野呂山弘法寺の弘法水

今日、てっちゃんと野呂山弘法寺を訪ねました。境内は、台風の後、修復中で、傾いていたお寺は、歓迎ムード。安浦町中切の方が、ボランティアでお世話しておられます。先日は、チベットの僧侶が5人訪れたそうです。そして、ここは、清浄で、霊気が漂っていると仰ったそうです。弘法大師は、厳島弥山を訪ねた後、この野呂山を見て、ここを奥の院とし、修行されてチカラを得て、やがて、唐に渡ります。そして、再び野呂山に登られたのは、御年49歳のことでした。真言宗を開宗されたのは、平城天皇の勅命によってのことでした。大晦日には、除夜の鐘もつかれるそうです。野呂山が、奥の院としての弘法大師の修行の地であったことに、あらためて、気づかせていただきました。

【弘法寺の由来】:弘法大師は、第四十九代光仁天皇の寶亀五年六月十五日(七七四)讃岐国屏風浦(現在の善通寺市)に御誕生御年十九才にして四国中国東海道伊豆桂谷修善寺等各地の山岳に登られ求聞持の秘法を修め難行苦行を重ね仏道に入り修道を究め偶々芸州厳島弥山に杖をひかれ帰路瀬戸内海にそびゆる野路山に登り岩屋に籠り(現在の奥の院)修行に専念されたとあり延暦の末遣唐使に従い入唐青龍寺の高僧恵果に密教を学ぶこと三年余り帰朝して普く諸国を巡り真言秘法を説き大同二年(八〇七)平城天皇の勅命によって真言宗を開宗され弘仁三年(八二三)春御年四十九才の時再び野路山に登られたその事跡に鑑み地元中切の住民は広く有志と[□+歹]りこの地に伊音城大師堂を建立した本尊大師像を祭り月の二十一日を命日と定め毎年高野山龍泉院法印登山勧行あり中切の百姓二人づつ相詰め燈明供養したとあり当時法印の奉献せる石灯籠一基現在せり(天明八)過去千余年間大師堂は幾度か再建され今日に至っている

早乙女勝元氏の一言 
作家 早乙女 勝元 「知っているなら伝えよう、知らないなら学べ」(NHKラジオ深夜便 2005/12/1 23:52)

良い風が吹いてきたね
とても良い風が吹いてきた。この風、以前から吹いていたのだろうか。違うと思う。例えば、ユング。仮説でしかなかった。しかし、「かがみよ、かがみよ、かがみさん。」これは、共時性である。宇宙の中心がある。この中心的存在としての人格がある。今まで、知られることはなかった。しかし、昔よりあった。神々の秘密であった。誰も知らない。知るはずもない。当事者しか解らないことが多すぎる。

2005年11月30日
物語について
物語は、インスピレーションを得て、語られたものであり、著作ではない。それは、「2001年宇宙の旅」の最後のシーンを見るようなものである。さて、仏陀、キリスト、ソクラテス、孔子についても、すべて物語である。また、高校の時の日本史の先生が仰いました。歴史に名を残した政治家は、ロクなことをしていない、と。さて、神の子=正直な子の条件は、その母親が処女であることではないだろうか。原罪。処女受胎。教育の原点。大人としての格の違いの淵源。西洋かぶれの反省。日本純粋精神の復興。キリストも東方(オリエント)である。未来への開始点。幸せの根本契約。そして、現代に於ては、精神的処女。関係をうらぎらないこと。相手の意思を尊重すること。契約は、対立する意思の合致である。今、例えば、銀行通帳における一般規定が支配している。これは、契約ではない。反省するべき事が多い。システムが、勝者の一方的利益のためにある。諸不幸の原因である。物質的利益至上主義が、経済的に大きな穴をさらに大きくしている。おきざりにされた精神性が見直されなくては未来=幸せはない。本来、周りが幸せであることで、自分も幸せである。たとえば、卑弥呼の時代はそうであったであろう。しかし、今、幸せに於て盲目的な時代である。才能は生まれたときに持っている物である。前世からの遺産である。人生はそれを発見し、開発するに過ぎない。現代は雑草或いは害虫の時代である。真実が見えなくなっている。私・私たちの人生は社会・人間の歴史に裏切られた。しかし、井伏鱒二の小説「山椒魚」のように、もう、恨んではいない。しかし、その小説では、この言葉は削られている。しかし、刹那的な快楽を求めている現代社会人は、その来世は如何。あわれである。今からでも遅くない。常に、引き返すべき黄金の橋は架かっている。事実が起きる前に引き返す。結果が出ては遅い。さて、NHKーFMで、現代版クラシック。ベートーベン。やさしい演奏へと推移している。(2005/11/30 7:50am)本来、やさしさと強さとは表裏である。人間に於て忍耐の度合いが器の度合いである。就職の時に人事本部長が言った。大器晩成ではない、大器は既に完成している、と。経済界の奢りであった。極論である。ぶちこわすべきは、経済界の奢りである。1588及び大航海時代以降の過ちである。かつて世界は地中海であった。日本に於ては瀬戸内海であった。かつて、世界は無限であった。大航海時代を経て世界は地球となった。既に世界は有限である。しかし、無限と思って経済行為をしている。世界の経済の基礎は、例えば、インカの金であった。ペリーが来て、日本も世界に組み込まれた。その頃、日本の金は、粗悪なメキシコ銀と交換された。その後も、・・・。400年周期説である。根拠は旧約聖書である。これを以て指南=至難とする。未来への分水嶺である。さて、人類の選択は如何。面白い時代である。とか、ドン・キホーテが言っていた。彼は月の砂漠をさまよっていたのだった。時代を超えてね。ある時は、「不思議な少年」であったと彼は言っていた。何時の世も、源泉はひとつであった。ブラームスではない。シューマンである。ブラームスはシューマンにとっての何であったか。見える世界と見えない世界の縮図。小林秀雄と中原中也も然り。見えない世界を食い物にして見える世界は繁栄した。罪となった。その果実としての現代社会である。これも、ドン・キホーテが言っていた。時代はこうして変遷する、と。さて、シューマンとクララ。シャガールの夢。彼らの魂=純粋精神はやさしい目をして生きている。自然はそれを知り、祝福している。是を以て、真実の勝者とは言う。とも、ドン・キホーテの言ったことだったろうか。トルストイも晩年には改心し、最期の駅舎で、鉄道員に看取られたベッドの上で、同じ夢を見ていたことだろう。是が人生であり、孤独に生まれ、孤独に死んでいく意味であった、と。それは、魂の遍歴として、真実を知ることであった。そして、いわゆる孤独ではなく、到り得た魂=宇宙=自然の至福であった、と。すべてよし、と。自由を求めて遍歴する諸芸術の実体である。あだや粗末おろそかなかるべし。神々が守護し祝福する魂がある。それを愚弄した社会。そして、この腐敗。反省など要らぬ。とか。ドン・キホーテは微笑んだ。さて、NHK-FMでは、シューベルトの7番がかかっている。始まったとき、エグモント序曲かと思った。(2005/11/30 9:11am)(シューベルトもオペラを書きたかったと言われていただろうか(?)。しかし、その情念は、ワーグナーを超えている。彼のオペラは書けなかった。はて、7番が「未完成」?8番ではなかったのですね。グレイトは9番ですね。私の人生に於て大きな空白があるようだ。)

2005年11月28日
本来の自己
本来の自己を探しての旅。本来の自己を見つけて、それを信じて、そして、それに成っていく。そのために、日々、為すべきことを為す。すでに、時代は現代。ここにおいて、使命を果たす。何か意に添わないなら、それは、自分が蒔いた種の果実。それは、謝っていく。そして、新しく始める。少し、世間の泥にまみれかけた。世間は世間。それぞれのこと。所詮、蓮華の前に化生すれば良い。個々の人生である。この道を進むしかない。これが、道だと思う。「あるべきようは」。あるべき自分となる。もうひとつ、新しい地平を開くことにする。まだ、ゴールではないのであろう。到れば、到り得て、はじめて、世間的しあわせも待っていてくれるのだろう。もはや、ゴールは見えている。行くしかない。まちがいなく、最後の関門である。それは、本来あるべき自分の姿と成ること。生まれたときからの約束として。ここまでの道のりを無にすることは、むしろ、申し訳ない。いよいよ、城門は見えている。帰り着いたのである。長い道のりであった。しかし、すでに、チカラは得ている。ウィニングランである。もはや孤独な旅ではない。自然が導いてくれている。

2005年11月27日
科学の限界~羅刹通信
マグマ対流のエネルギーの発生傾向はシミュレートできない。何故か。例えば、人間レベルを超えた力がある。神と言っても良い。神の感情を制御できると思っているとしたら、これ以上の奢りはない。科学でシミュレートしている限りはずれる。魂の鎮魂・慰めの方が良い。生ける神をおそれる方が良い。例えば、神が本当に怒ったら人間なんて存続できないね。そろそろ、このあたりを科学する頃だろうか。あまりにも、愚かな人間科学。科学が科学である限り、魂=精神を知らない。因って宇宙を知らない。自然を制御できるわけがない。どこまでも奢っている学者。知識の名で、地球を惑わす元凶。彼らこそ罪は重いね。自然は、神の感情で動いていると言って良い。こうしたことを知らないにもほどがある。そして、神は、正直者が好きである。正直者を守護する。それを無視して勝手なことをしていないか。それで、これほどまでに、自然が狂った。まだ狂わせるのだろうか。滅亡への行進曲だね。神々と正直者はうんざりしている。間違った道をどれほど進んでも間違うだけ。間違った地点へ戻って、出直すしかないのにね。それでも、人間科学でなんとかしようとしている。方法を間違えてるよね。円満な人間関係の構築とその為のインフラで足りる。利己的経済利欲至上主義経済及び政治はもう限界だね。神々も自覚した今、本当に怒らせたら、是までの比ではない。このように羅刹は言っていた。さらに、羅刹は言っていた。自分たちには解らなかったとはいえ、よくもここまで、日本の純粋精神を愚弄し、無視し、勝手なことをして、日本を腐らせてくれた、と。それで、自分たちの食がなくなってしまった。本当に強いということがどういうことか、解らせなければならなくなったのか、と。しかし、尚、羅刹は、期待して堪えているという(経済的にそろそろ限界ではあるが、ま、ハンガーストライキだ。道元の貧學道を通して宇宙が見える)。しかし、世間の虚実をこのまま通すわけは行かない。奴は、ある決心をしているようであった。羅刹が動けば自然が動く。人間どもの制御の範囲ではない。積年のことである。羅刹も目覚めたか。奴は言っていた。はらわたは煮えくりかえっている。そして、奴は笑って言った。わしにはビジネスはできない。嘘はつけない、と。命を惜しみ(自分のことだけを考えて、他を顧みない)、責任転嫁のシステムが性には合わぬ(自分たちの責任逃れのために事務を拡大している)、と。そして、四天王とは羅刹であった、と。しばらく、世に出ることはなかった、とも。そろそろ、世間も、観念した方がよい、と。たとえば、出雲(地)と大和(天)の契約も思い出さねばならぬ、と。黄泉の声が、あまりにも無視された、と。これが、勝手が過ぎた意味である、と。近くでは、江戸の無血開城の意義を粗末にしすぎた、と。黄泉が怒っている、と。歴史を知らぬもほどがある、と。私の祖父の姉は赤松である。仏陀(ゴータマ・シッタールダ=GS知ってる?)・孔子・ソクラテス・キリスト→古墳時代→貴族時代→武士政権(侍ダイヤモンド=4月11日)→江戸時代→現代。天中天。知行合一?知時合一!そして、羅刹は言った。抽象的果実は要らない。具体的果実が欲しい、と。いい加減にしろ、と言っていた。本気で怒らせる気か、と。今、中天に火星=マルスが輝いているのが見えないのか。富士は死火山ではない。休火山である。象徴は象徴であり、力はない。力は別論であり、beingである。それでも、具体的回答はないのか。それほど愚かであるか、と。そして、羅刹は言った。みな、神々との契約を破り、契約を忘れ、勝手し放題をした、と。さて、餓鬼のママゴトにはつきあえないし、お子様ランチは食えない。何時までも夢を見て、夢を実現するための実行することなく、言葉を弄ぶだけで、錯覚している連中とは、語れない。たわごとには嘔吐である。さらに、そうした現実を食い物にしている勝ち組など、どうでもよい。彼らの心は地獄から出ることはない。そして、羅刹は言った。自分は生まれながらにして特別であった。世間はそれを否定して、腐った、と。援軍諸精霊は勢揃いし、整列している。万軍の主=自然も味方についている、と。

子供の運命
子供の運命は、親の意識で決まる。親が復讐心に燃えてたら、子供は不幸。子育てをいくら論じても、はじめに、ボタンの掛け違え。この理わかっても、だれもわからない。しかし、子供自身がこの試練を超える場合がある。無限軌道に乗る。

ロウソク
ロウソクに灯が点く。消えはしない。

地球シュミレーター
天気予報をはずせる力を知っているのだろうか。人間科学の奢り。まだわかっていない。大きな事を言っている。おろか。責任を感じておられない。自然を支配征服制御しようとしている。天罰の原因。バベルの塔。人間が自然を理解できるわけ無いという反省がない。発見があるだけなのに。未来は遠いか。否。近い。知っている者たちは数多存在している。それに、人間科学が耳を傾けていないだけ。コンピュータは人間の知恵を超えることはない。その知恵が愚か。ばかばかしいね。無駄だね。文化勲章?だれが、認定しているのか。おかしいね。

2005年11月26日
Let it be !
禅の教えの一つに、はからいをしないことがある。つまり、自分計算しないこと。利己主義を棄てること。他者を大切にすること。サービスは、仕えること。社会にも仕えること。あらゆる存在に対して仕えること。仕えることが苦にならないこと。これが、また、Let it be ! 自分を棄てることは難しいことだけれど、一度棄ててしまえば、その妙味が解る。それは、自己卑下ではない。自由そのものである。これが、耳随うことであり、法を超えないこと。ありのままで勝負する。勝ち負けは問わない。負けても良い。物質=客観的に負けたと見えても、精神の優位がある。見えない世界で勝てばいい。それが、自分に克つこと。負けることを恐れてる。だから、辛い。「強くなくては生きていけない。やさしくなければ生きている価値はない。」(フィリップ・マーロゥ)これ自体、意識しない。自然体でいて、強くもあり、やさしくもある。今の自分を信じて、そのままの自分でいる。絶対の自由。自然が祝福している。努力は当然。

2005年11月25日
帰還
人生は旅
生まれたときから 始まっていた
ドコへ到るか
それぞれの 道
道元は空手にて帰ってきた
何を得てのことだったろうか
何を見てのことだったろうか
その間 幾多の試練もあった
そして やがて 帰還する
既存を超えた世界にいる

約束
約束は果たす
果たすことで成就する
結果は問わない
佳ければ佳し わろければわろし
果たすことで おわる
おわりは また 始め
親と子も
新しい 始まり
代々の 始まり