ハッピーライフⅢ


いくつの門を通ったことだろう。どの門でもよかったのだった。多くの門を通った。しかし何故か他の門を探した。愚かだった。ひとつの門でよかったのだ。一つの門を通過すればよかった。それがチャンスだった。しかし多くの門を通った。それぞれ垣間見ただけだった。文学も通った。法学も通った。宗教も通った。麻雀も通った。政治も通った。確かに通った。しかし気づけなかった。そうしたものだったのだろうか。故に無門というか。
不遇であればチャンスである。それに気づけないでいた。しかし気づいたのだろうか。気づいたらしい。この世の経験則がある。英知である。学ぶべきはそれだった。物語も智慧の宝庫だった。何をしてきたのだろうね。多くの書籍を渉猟した。成功哲学も制覇したようだ。笑うしかない。
この世は如何に簡単であったことか。 優等生というのはやっかいだね。オール10など迷いのもとだった。しかし究極の真実とは何だったか。これを知る者は少ない。やはりすべての門を通って至るのであろう。代々の務めもある。古来大和の秘密もある。風神雷神。草薙の剣。金剛杵。
そう簡単にはわからない。 廓然無聖に至ってはどうにもならない。生まれながらの導きもある。さて、どうするのだろうね。準備万端となったか。自由だね。どの門からでも良い。目指すべきは頂上である。
どの道でも良い。やがて至る。その時、合流する。同じ光景を観ているだろう。これを以て成功といって良い。自己の確立といって良い。愛とは何だったか。自分のためにしない。潜在意識にとって主語はない。述語が動く。宇宙にとって精神も物質も同じだった。
昔神仏が今宇宙である。宇宙は無尽蔵の智慧の宝蔵である。それはそのままDNAであり、魂だった。これにアクセスすることで無限の可能性がある。すなわち創造性だった。コンピュータにとってプリンタもファイルである。これを以て現代哲学の究極の総論とできるかもしれない。各論は各方面に任せるとして。
何時まで無門というのだろうね。わかりにくいね。十門といってもいいのかも。笑うしかないね。彼はいった。日本は大丈夫だよ。

(2009/04/01)


ソクラテスはいった。「汝自身を知れ」。「私は知らない事を知っている」。これが無知の知です。それは、鈴木大拙氏の即非の論理。それは、西田幾太郎氏の純粋精神。
ニーチェの『ツァラストラはかく語りき』もきっと獅子を自覚したその作品。しかし、少し病的であることは否めない。ただ、その獅子が山から里へ下りてくる情景は、まさに、R・シュトラウスの交響詩だね。
結局、どこから入ってもいいのではないかな。例えば、獅子を自覚すればね。ニーチェの場合、『善悪の彼岸』を読んだ方がよいとは思うのだけれど。
そして、サルトルの『嘔吐』を読んだり、ダリやムンクの作品を見るとき、さらに、フロイトとか読むときは要注意です。これだけを読んだりするのではなく、必ず、その対照を用意して比較的に読まないと危ういです。地図として、時代背景を地図とか歴史とかも一緒に考えないと、一人で歩めない世界です。これをするには争闘の覚悟がいるのです。
これを以て研究とは言うのですが、我々庶民はその成果を享受することでハッピーですね。道を先導してくれる先人に対する感謝を忘れずにね。その精神が法を守るということです。その人の人格はいつも見られています。あなたの人格も。これが、大切だと思います。