仏の智慧と生き方Ⅱ

黎明書房刊福田正治編著『新修・現代訳仏教聖典』より
仏の十号

  • 如来 仏は真如(さとり)から来られた方である
    応供 求めることなくして自然に与えられる
    等正覚 正覚(さとり)に等しい
    妙行足 あらゆる善行という善行をすべて満足している
    善逝 生涯をつくしてよく進み行かれる
    世間解 世間のありとあらゆる物事を知り通していられる
    無上師 この世の最上の導師
    調御丈夫 五濁雑乱のこの世と煩悩具足の自我をよく調御する大士
    さとった人
    世尊 世にたぐいない尊き師なるが故に
  • われいまさいわいにも自利利他の教えをみな満足し、まさに度(すく)うべきものは、天でも人でもみなすっかり度(すく)いとげたし、未だ度(すく)わないものは、みんなさきに得度(すきわれる)の因縁をむすんでおいた。

  • 現在(いま)からのちは、わがもろもろの弟子たちが、つぎからつぎへ、この法(おしえ)を身に行なうならば、「如来の法身」はつねにいきていられて滅(なく)ならないのである。

  • 仏は永遠に滅びたまわぬ。覚(さとり)が智慧の光となって現われ、その光が人をみちびき、仏の国に生まれさせる。この理(ことわり)をさとったものは、仏の子となり、仏の法(おしえ)をたもち、仏の法(おしえ)をまもって、後の世に伝える。まことに、仏の御力(みちから)ほど、不思議なるはない。

  • 世にこの仏を敬うにました幸福はない。一度仏の法(おしえ)を聞いたものは、仏をはなれない。法(おしえ)を聞くときは、いつもよろこびが湧きでてやすらかで楽しいからである。

  • 仏は人々を救うによい時がくれば、この世にあらわれ、その因縁がつきれば、この世から隠れられるのである。あきらかに真実を見る人の前に、仏はつねにあらわれたもうのである。

  • 仏のお身(からだ)は、もと一つの法身であるけれども、人々の性質が異なっているから、仏を見まつるこころは同じでない。見まつるところも異なっていても、仏はだだそれに応じて真実を見せようとせられるのである。仏とは肉身ではない。ただ覚(さとり)を身(からだ)としてすべてのものに満ちたまう。

  • 仏の大悲はすべての人々にそそいで平等であるが、人々の異なった性質に従って、その救いの手に変わりがある(方便)。

  • 仏はすべての人々を子として平等に慈しまれるけれども、わけて罪の重いもの、愚かなものに、深い慈しみと憐れみをかけられる。

  • 煩悩の魔はつねにおんみをうかがって倒そうとしている。

  • 仏は肉身ではない。覚(さとり)の智慧である。それゆえに、私の肉身を見るのではなく、私の法(おしえ)を知るものが、私を見るのである。

  • 常にもえつつあるに(火宅)、なんの笑いぞ、なんの喜びぞ。

  • 信仰は最上の富であり、真実は最上の味であり、功徳を積むのは、この世の最上のいとなみである。