地方の時代

2010年09月02日

長い旅だったですね。とても孤独だったですね。理解してくれる者などいないと思っていましたね。何度か挫折もありました。
多くの失敗もありました。そしていつか至ります。これ以上の謎はありませんでした。何もかも失いました。それ故に至り得たのでしょうか。
もうこれで良いのです。これから何が実現するのでしょう。あなた故に。
帰り来たれば別事なし。条件がそろうと物事は一瞬にして変わります。悪も善に変わります。周波数が変われば、今まで存在していなかったものが現出します。この世の不思議です。
そこへ至るには努力は必要です。新しい時代です。あらゆる苦しみから逃れることもできます。ある本を読んでいて驚きました。非行少年も環境の犠牲者だったのです。
彼らは知らないのです。あたたかい愛で満ちた家庭があります。素晴らしい世界が待っています。彼らに伝えたいですね。
ところで今、地方の時代と言われています。それは何を意味しているのでしょうか。国としては各種報告書として情報を与えます。それをプロジェクトとして実現するのは、各地方だという意味です。
そうであるのに、地方は国に何かを期待していませんか。例えば学校は今、開かれた学校として生まれ変わろうとしています。問題点の分析と方向性は示されています。つまり生徒指導主事をコーディネーターとしてする保護者及び地域並びに諸機関との連携とホームページでする情報発信です。
しかしながら現場は、そのチャンスをチャンスとして捉えているでしょうか。ただ、形式だと思っていませんか。何も変わらないと思っていませんか。
故にチャンスです。何処で手が挙がるのでしょうね。楽しみです。
子供の最善の利益を中心にして、児童福祉の観点から、ネグレクトを基本的な原因と考え、いじめ及び不登校並びに問題行動への対処を組織的に展開する必要があります。担任がすべての責任を負う時代ではありません。
学級崩壊を経験した今、状況はとても深刻です。子供の監護は、一義的には保護者の責任です。しかし、ネグレクトの問題があります。その背景には、都市化及び核家族化があります。母親が就労していることもあります。
何もかもが専門性を帯びています。それらを結びつけて対応しなければ、現在の状況に対する解決はありません。それが連携であり、組織化です。
そろそろ本格的に考えるべき頃です。国も情報の提供だけでなく、こうした推進が必要ではありませんか。地方及び現場は気づいていないのです。環境の被害者としての傷ついた子供たちが待っています。