平等及び自由について

2012年03月27日

法華経に「悪舌は功徳の種を断ずる」とある。言わなければ善いものを言ってしまったりする。そして後悔していた。その必要はなかったのに。この悪性をどのようにしてとるのだったろうか。それを人間性として正当化或は言い訳していなかっただうろうか。かつて私たちは戦の時代があった。戦となればどうなるのだったろうか。あまりにも人間的でなかったのではないだろうか。戦になれば何が正義となるのだったか。人間は人間として生れて人間であるのだったろうか。動物性を以て人間性とは言えない。人間が人間となるために教育がある。動物性で生きれば野蛮状態となり、まさに弱肉強食である。それを人間社会が受け容れることはない。人間は社会的動物であると言うとき、それは一定の人格或は品性を要求する。即ち、自然状態の動物性を教育を以て陶冶するのだった。平等とはどういうことだったのだろうか。地球において人類として全て尊厳があると言える。その時、平等と言うのは、皆同じと言うことではなかった。桜は桜であり、樫の木は樫の木である。それぞれ持って生れた自己の花を咲かせることができるということだった。その時、人間社会として差別意識はない。人類としてそれぞれ自分の花を咲かせて善い。多様性の中で個性の花を咲かせる。自己実現こそ幸せの形だった。勉強だけが教育ではない。それぞれの善いところを正当に評価することができる感性と知性を涵養することが教育だったのである。社会の中で生きている。孤独はあまりにも悲しい。自分は自分で善いのである。そう思えるかどうか。それが自尊感情の育成だった。何か大きな勘違いがあったようである。だれもが存在として平等だった。持って生れたものは違う。それを皆同じであるべきであると思っていた。平等概念の履き違いがあったのではないだろうか。それぞれ皆違っていて、それで善いというのが多様性の概念だった。そしてその中で固有の花を咲かせるのである。社会として受容できない自己実現が犯罪だった。犯罪は、西部劇では必ず縛り首である。このあたりも子どもたちに教える必要があるだろう。それが生徒指導だった。自己実現と自己有用性を確認して、自分は自分で善いと思えるかどうか。なかなか難しい。自由も絶対の自由はない。社会契約があって、自由の一部は差し出されている。そして社会を形成しているのである。啓蒙期の社会契約論は今も生きている。このあたりを思い違いしていたのが、面白ければそれで善いとか馬鹿になることが幸せであるなどと吹聴したお笑い芸能界だった。あなた方の思想の故に、子どもたちは惑わされた。モンスター保護者もそうである。相応の懺悔あるべし。ローマ法において、壊した者が償う。償うべし。誰もが自己の実現を願っている。誰もが向上したいと思っている。悪いのは自分だった。それを認めて、そこより始めよう。私は思う。私が悪かった。何もかも。申し訳ないことだった。これより、理想の世界を目指す。未来の夢は、殺戮なくして平和を勝ち取ることである。いずれにしても知性の勝利である。神仏を貶めてはならない。