夢中問答集 (講談社学術文庫)より

仏の大慈悲とは、多くの人々の苦しみを取り去って楽を与えることである。

そのありさまを見ると、一生涯ただ身体を苦労するばかりで、そのねらいのとおりに求められた福もないようだ。

福が多ければ、罪作りもまた多いからして、来世には必ず地獄に堕ちる。

世渡りの法が下手だから貧しいのではない。要するに、福の受け分がない定めだから、世渡りの法もまずいのだ。

貧しくあるべき前世の報いの結果で、目をかけていただけるはずの御恩も給わらず、自分が治むべき領地をも治めることがかなわぬのである。それ故に、福を求めようとする欲心をさえ捨ててしまえば、福の受けまえは自然に満ち足りるであろう。

しあわせ=福分はすべて、無欲できよらか(清浄)な心の中から起こる。たとい末代の世でも、もし人間が無欲ならば、無限の福徳が即座に満ち足りるであろう。眼前の小利を求める心を翻して、無欲な心(自分のものを仏を通して回向する=供養)を学んだならば、仏の大利を必ず得ることができる。

楽を得ようとのみ思って、情欲の赴くままに福を求めるならば、今生に大利がないばかりか、来世は必ず餓鬼道に堕ちるであろう。

仏道とは、みずからも悟りを開き、衆生を極楽往生させる道。

命をながらえて仏法を修行し、衆生を誘引する方便(てだて)のためであるならば、世間の種々の事業をやっても、それらは皆善根となるであろう。またそうしているうちに仏法を悟れば、前に営んだ世間の事業が、単に衆生の利益の因縁となり、仏法修行のたすけとなるのみならず、すなわちそれが、自由自在の悟りの境界を得る妙なる作用(はたらき)となるであろう。

もし人間が世間を出世しようとする一切の欲心をただちに投げ捨ててしまえば、本来の領分なる無尽蔵がたちまちに開けて、そこから限りない妙なる働き、測りしれぬ三昧等という種々の家財(比すべきもの)を運び出して、自分も使い、他人にも役立たせること、無限際ということになるのである。もしもこの大欲を発こす人があれば、小乗の極果をも願わず、菩薩の高位をも羨まない。いわんや人中・天上の福報を羨むということがあろうか。

昔の人が言っている。「食べ物はただ生きてゆくだけのものがあればよい。衣服はただ寒さを防ぐだけのことだ」と。どんなに貧しい人でも、命をつなぎ寒さを防ぐに足る衣食はあるものだ。もし命を顧みず仏道修行に励めば、たとい前世の福因はなくとも、三宝・諸天の加護によって、仏道修行の資(たすけ)となる程度の衣食は満足できるであろう。伝教大師は「衣食の中には道を求める心はないが、道心の中には衣食が具わっている」とおっしゃった。もしこの大師の名言を知るならば、仏道のために福を求めるということもまた、愚かなことである。

仏菩薩は皆、一切衆生の願いを満たしてやろうという誓いがある。

今のありさまを見ると、貴賎上下の中に、誰一人所願が満足していると思われる者もない。

薬師如来は、衆生の病をなくそうと誓われているが、世間を見ると、病人でないものは少ない。普賢菩薩は、一切衆生にしたがって仕えようと誓われたが、世間を見ると、従者(とも)一人もなくて貧しい身分の人が多い。たまたま手下はたくさんいるけれども、誰それこそ普賢(すぐれた者)と思われて、主人の気に入った人もいない。ずっとそのかみには、大師高僧が世に出て、霊験を施して衆生の厄難をお救いにもなった。昔は、世も末世ではなくて、人間の果報もよろしかったから、たとい大師高僧が霊験を施しなさらなくてもよかったであろう。しかしながら、今は世もいよいよ濁悪になってしまい、人間もまた福が薄くなった。こういう時にこそ、ことさら霊験がおありの大師高僧が大切であるのに、あるいは入滅、あるいは入定といって、世を隠れて、この世に現れなさらぬというのは、一体どうしたわけか。

世間普通に情(なさけ)と言っていることは、皆妄執にとらわれる因縁である。それ故、人の情もなく、世間の思うにまかせぬことは、かえって出家解脱(さとり)の助けとなるというものだ。

仏菩薩の世を救う誓願(ちかい)は種々であるが、その本意を詮索すれば、要するに、衆生が六道をめぐる迷いの境界を抜け出て、本性なる清浄(きよらか)な悟りの彼岸に到達させようというためである。しかるに凡夫が願っていることは、すべて迷いの輪廻の基になるものばかりだ。そのような願望を満足させることを、聖賢(しょうけん・仏菩薩)の慈悲(なさけ)などと言えようか。そうはいっても、やむなく、まず衆生の性質(たち)と好き好きに随って、だんだんに誘い込もうとして、仮に所願をかなえてやることもある。そこで、その人間が仮に世間の所願が満足したことに自惚れて、いよいよ執着を生じて、ほしいままに恥知らずの心を発すような者に対しては、その所願をかなえてやることもないはずだ。仏菩薩の功徳とはこういうものである。それ故、末代の凡夫が祈ることの効(しるし)がないことこそ、仏菩薩のまことの功徳の効というものだ。

諸経の終わりの流通分において、諸天善神が願を発して言われるには、「我等はこの経文を信ずる人を守護して、必ず災難を除き財宝を与え病苦を救うであろう」と。その趣旨を見ると、仏法修行をしている人間が、もし前世の行いが因(もと)で諸種の苦厄(くるしみ)に遭って、仏道修行の障害(さわり)となるようならば、我らがその苦厄を除いて、修行者に嫌気(いやけ)を発させないようにしようというわけである。邪見で手前勝手な人間が仏法を修行せず、ただ世間の名利を求めていながら、災難に遭わぬように願う者のために、仏が救いの誓願を発しなされたのではない。よくよくこのことを考えてみるに、末代の人の祈ることが効験(しるし)のないのは、もっともなことである。

仏神にお参りして経・陀羅尼を読んで、身の上を祈る人もあるが、それも決して仏道のためではないようだ。ただ世間の福寿(しあわせ)を持ち続け、災厄を免かれようというためだと思われる。仏菩薩は仏道を願うようにすすめておられる。

要するに、仏道を祈り求めるならば、早速に悟りの境界に達するというまでのことはなくても、みずからの善根の力により、また仏神が加え与えられる力によって、災難も自然に除去され、寿命も無事である程度の利益は、ただ現世のみでなく、永く後世までもあるはずであるのに、たとい祈り得て効験があったとしても、いくらでもない果報を祈るというだけのことで、一生を無駄に暮らして、来世は地獄に堕ちるというのは、あさましいことではないか。