そして子どもは天使となる
2010年12月02日
厚生労働省発行、『ハンセン病の向こう側』というパンフレットがある。かつてハンセン病は恐ろしい伝染病だと思われていた。故に差別もあった。しかし、それも制度上、反省があった。ところで今、学校教育現場では、問題行動を起こす児童生徒が多い。先生方の日々の取組みは、たいへんなものがある。指導が通らない。しかし問題は、例えばLD、ADHD等、それはある。学校現場で新たに起きていること(不登校等)は、新たな差別の種となるかもしれない。この件に関する対策も講じておかねばならないのかもしれない。早期発見があれば、早期治療が可能であり、多くの問題点は克服することができる。
子どもたちを理解できないと思っている大人が多い。何故だろうね。彼らの判断基準は、現在の目に見えるお金であり、地位であるのではないか。目に見えない知性とか経験ではない。故に伝統的な諸価値に重きをおかない。無理もない。それが戦後、高度成長期の大量消費社会で私たちが求めていた価値基準でもあった。子どもたちは今、まったくの現実主義者となっている。それは、都市化した社会の必然だったのだろうか。しかし今、デフレとなって大量消費はなくなった。故に子どもたちが彷徨っている。新しい道標を必要としている。それは本来日本の価値が何であったかを見つめなおすことで解決があるのかもしれない。
現場教師は今、膨大な事務を抱えている。故に生徒指導に関して、既に問題点が分析され、これからの指標も示されている例えば、文部科学省発行、『生徒指導提要』(平成22年3月)等を熟読研究する時間的余裕はない。これまでの方法ではどうにもならなくなっていて、新しい方法がどうしても必要である。教師はたいへんなことになっている現実を前に、解決の見えないジレンマに陥っているのかもしれない。しかし教育なくして社会的人格の形成はない。
生徒指導は既に、管理統制ではなく、子供たちの現在及び未来に対する適応(居心地の良さ)のためにする支援であり、むしろ考え方は、教育相談的なもの(要件として例えば、ロジャーズの三つの条件:①来談者への無条件の肯定的関心、②共感的理解、③相談者自身の一致性)であることは、各報告書及び研究の指摘するところである。行政がサービスであるとき、学校教育もサービスであり、子どもたちのニーズに合致する必要がある。ここに乖離があれば、子どもたちは反抗する。彼らに理由は明確ではないとしても。
問題行動を起こす子どもたちも、自分が悪いということは認識している。しかし、そういうことをしてしまう自分を受け入れて欲しいと思っている。しかし、私たちは彼らを頭ごなしに怒っている現実がある。この点をどうしたらいいのだろうか。彼らの気持ちは受容し、彼らの行動は悪いとして指導する必要がある。その時、彼らは言うことを聞く。頭ごなしに怒ることは、彼らの存在を否定していた。こうしたアプローチに成功すれば、彼らとのコミュニケーションが成立する。指導が通る。そして子どもたちは、存在を認められたと無意識に思い、学校生活に適応し、日々、快活となっていく。教師との関係も生徒間においても好ましい展開が始まる。好ましい学校生活を考えるようになり、実践し始める。学習意欲も喚起され、次世代を担うにふさわしい教育が始まる。そしてあらゆる学校の教育課程が効果的に実践されることになり、意味あるものとなると思われる。
子どもたちは条件がそろえば、すくすくと育つ。児童福祉論的観点からすれば、非行少年もその多くは、親を含む環境の被害者であるという考え方がある。問題行動は、このままでは適応できない子どもたちから発するSOSであるとも言える。発達段階のどこかで、その時々に身につけるべき課題が阻害される要因があったのではないだろうか。それを見つけて、その要因を除去し、改めてその課題を身につけることで乗り越えることができるのではないだろうか。身体は成長していても、年齢相応の判断能力が低いままである場合が多い。この時、子どもたちは悪くない。
発達段階に関して参考になるのは、マズローの『欲求の5階層説』である。それは一つの成長欲求と四つの基本的欲求である。これらは階層を成し、前段階の基本的欲求が満たされて、次の欲求が出てくる。成長欲求は自己実現だった。あらゆる教育の目的は自己実現と言える。それは人格の完成を目指す欲求と言っても良い。自律的に生きると言っても良いし、主体的に生きると言っても良い。この時、幸せに生きていくことを見つけるだろう。そのために必要な力が、生きる力だった。学習能力の本質は、知識及び技術ではなく、個々の課題を自ら見つけ、主体的に考え、問題解決してゆける能力である。いわゆる積極性もプラス思考も自己指導力もすべて、自己実現に収斂すると言って良い。こうした健全な意識は、前段階の四つの基本的欲求がすべて満たされて芽生える。発達段階において阻害されていたのはどの階層であるか。
四つの基本的欲求として、①生理的ニーズ、②安全、③帰属、愛、④自尊感情がある。①と②はむしろ、与えられるものであり、これが満たされていない時、ネグレクトである。③と④は他者との関係で生ずる。①と②は一次的欲求であり、③と④は二次的欲求である。③と④に至って好ましい人間関係となる。これらが満たされて、子どもたちは健全な成長を始める。これらのどこかで満たされないものがあれば、子どもたちは健全な育成段階に入れない。生きる意欲を失っていく。子どもを育てるのに、動物育成的要素だけでなく、植物育成的要素も考えるべきであることを指摘していたのは、河合隼雄氏だった。
④の自尊感情があって、成長的欲求である自己実現欲求に至り、子どもたちは健全な育成段階を生き始める。自尊感情とは、自分が大切な存在であるという自覚である。この時、他者を大切にすることができる。それまではできない。あらゆるいじめの原因はこれにある。自分が悪いことを認識していても、弱いものいじめをしてしまうのである。自分ではその理由が明確でないままに。子どもたちはここを教えて貰えることを待っている。彼らは知らないのである。何を知らないのだろうか。それが愛だったといって良い。この意味で、悪いことをする子どもたちは悪くない。
この観点を得て、これが子ども理解であったことに気づく。そして生徒指導も変わってくる。頭ごなしに怒るのでは窮鼠猫をかむ。何も解決しない。それではどうするのだったのだろうか。
例えば5歳の子どもがいるとする。おもちゃの前で、それが欲しいと泣く。親は怒る。すると子どもはさらに地団太を踏む。最悪の状況となる。さてこの時、子どもが求めていたのはおもちゃではない。自分の主張が通るかどうかを確かめていたのである。つまり、求めていたのは、どのようなことがあっても見捨てないというサインである、親の子に対する絶対的受容だった。だから、ここで必要だったのは、欲しいね、と共感することだった。その時、子どもは親の愛を確かめて安心する。おもちゃを買う必要はない。怒るべきではなかった。そして、子どもが大切にされていることを確かめて安心した笑顔を抱いて、その場を通り過ぎれば良い。生徒指導でも同じことではなかっただろうか。彼らが今、教師に求めているのは、ある発達段階で失われていた愛ではなかったか。悪いことをする子どもも悪くない。これに気づいて、子どもたちは天使となる。子どもは親あるいは教師、大人の鏡である。鬼と映るか、仏と映るか。自分次第だった。
子どもたちに必要なものは今、自己存在感(自分は大切な存在であるという自己意識)の確立である。すなわち自尊感情(自分は大切にされ、価値ある存在であるという感情)である。これが確立されることで、世界に目が開かれ、他者を大切にすることもできる。規範意識(規範を遵守することが社会的人格の表現であり、社会的に認められて、何をしても良い自由があるということを内面から自覚し、行動が変容する意識)は自然に当然醸成されるだろう。
君は悪くない
2010年12月07日
学校は今 自発性と自治性の時代だよ
2010年12月07日