2006年05月31日
ツバメが来ました
平成十八年(2006)五月三十一日(晴れ) 今日は薄暑。全国的に五月晴れとか。五月最後の五月晴れ。終わりよければすべてよし。沖縄では梅雨の最盛期。1時間に40ミリを超える雨が降る。モンシロチョウも舞い、シオカラトンボも飛んでいるという。さてこのシオカラトンボ、観測では例年より二十日遅いとか。九州では梅雨入りしている。関東から北海道では貴重な晴天が続きそう。予報が修正された。しかし先は見えている。この晴天を有効に使っていただきたいとのこと。ラジオでは You can get what you want. という曲が流れてきた。ツバメが飛んでいる。若いツバメの夫婦のようだ。店の軒先に巣を作ろうと調査しているようだ。さてどうするのかな。軒先(緑のアーケード)は低くて人が往来する通りに面しているよ。カラスもいるよ。危険が一杯だよ。それでも作るのかな。ツバメが来ました。You're welcomed !
13:39 NHK-AMラジオによると、助詞「に」と「へ」の使い分けについて:「東京へ行く」と「東京に行く」がある。東京へゆくのか東京に行くのか。『きょうへつくしにばんどうさま』。京へ筑紫に坂東さま。「へ」は京都で使われ、「に」は九州で、「さ」は関東で。本来の意味として、「に」は時間空間における場所を示し、動作の先にある到着点・目的を示す。点である。「へ」は方向を示す。「に」を使うときにはそこに目的がある。「へ」を使うときは方向を示す。「学校に行く」のかそれとも「学校へ行く」のか。from A to Bそして for Tokyo。また go to sghool とgo to the school。子供が勉強に行くのが前者。保護者が用事で学校へ行くのが後者。よく似ているね。「西に向かう」と「西へ向かう」。ポイントはない。西へという方向性。光は西へ向かうのかなってラジオが言っていた。「膝の上に載せる」。到着点・目的がはっきりしている。「未来へ続く」。さて「に」と「へ」どちらもある。感覚の問題。無意識に使い分けているのかなということでした。
15:00 消費者契約法が可決された。不特定多数を目的とした悪徳業者に対してその悪徳商法を察知した団体が当事者に代わって訴訟もできるという制度です。市民を前提とした当事者主義が修正されて、新しい消費者主義立法ですね。庶民のための法律ですね。善と悪がはっきりとしてくる時代です。
孫子の兵法だったかな。深追いはしないこと。相手に対して必ず逃げ道はこしらえておくこと。目的は相手の殲滅ではない。目的はどこまでも正義の実現だから。大義名分がなくては勝てない。世界を味方につけることができない。
真実真理
さて生きるということがどういうことであるか。時の流れがあってそれからスリップダウンするとどうなるか。何もかも今となっては懐かしい。すべてのことがいい思い出ばかりである。すべては知らしめんがためであったと言える。何を知らしめんとするのであろうか。真実真理である。何を以って真実真理というか。黄泉の国の掟である。それぞれ持って生まれた種がある。その種にある意味でプログラムが内蔵されているといえる。所詮プログラムどおりである。黄泉からは見える。池の中の鯉である。黄泉からの導きがある。その導きどおりであれば良いのであるがそこが人間である。自分勝手する。その度につまづく。惑わされる。人間の弱いところだ。所詮自分の花しか咲かせることはできない。何が自分の花なのかわからない。それで迷う。代々たどった道を歩みなおさねばならぬ。そして何時か自分を知る。そこからが自分の人生である。所詮この世は平等即差別。生まれたのは平等であるがそれぞれ持っている種が違う。時々の選択を間違うと遠回りとなる。道草食えば時の流れに漂流する。しかし黄泉は可愛い子を手助けする。時には手痛い罰もある。この人生は過去の修正である。やがて至るべき世界がある。魂の遍歴としてね。帰るべき世界があるのである。やがてわかる。それぞれの人生である。それぞれの階梯である。同じと思うことなかれ。先を行く存在は常々ある。かつては仏陀、孔子、ソクラテス、キリストがそうだった。この世は地獄と思っていい。この地獄からどのようにして逃れることができるか。それを教えるのが仏法である。この世を地獄と思わぬ限り何をしても空しい。この世から逃れる方法はある。空しくない人生がある。内実のある人生がある。浮かれていては時間がもったいないよ。嘆いても仕方ない。恨んでも仕方ない。乗り越えなければならないものがある。自分である。人間である限り人間を超えることはできない。人間として正当化している。猫とか犬とか見てどう思うのだろうか。自分の過去の姿である。未来から見れば今の自分がどのような姿をしているだろうか。本当に自分がわかればすべてわかる。誰にもそうした時が来る。何時か来る。必ず来る。私は恵まれていた。宇宙の真実真理を確かにつかんだのかも知れない。あまりにも尊い経験をさせてもらったようだ。一歩先を歩ませていただいたようである。磨くべきは知性と感性と両方である。これからの私の人生は貴重であるのかもしれない。私にしかわからないことがあまりにも多くあるようだ。自分自身を今まで疑っていた。今はもう晴れている。すべては導きであった。使命があった。その使命を果たす日が来たのだろうか。永い遍歴であった。ひとつの救いのために。 すべては日々の思念と行為によって決まる。ひとつの解決があって次の課題が来る。間違いは正せばいい。心に恥ずるところなければすなわち吉である。心で思うことはやがて実現する。自己責任の真の意味はここにある。今の自分の哀れな姿を恨む事なかれ。そこから始めるしかない。正すべきは自分である。戦後自由を知った。そしてその結実が今の風潮である。これが真実であったのかどうか。とても救われた状態ではない。今の自由を追求すると腐敗でしかない。真実の喜びと楽しさはこれまでの延長線上にはない。道を間違えていたのである。間違えであれば淘汰される。間違いを吹聴すれば同じく淘汰される。真実はどこにあるのか。探すしかない。それが人生だから。算数の問題でも教えることはできる。しかし解くのは自分である。自分で解かない限り自分のものとはならない。そのようにして完成に近づいていく。そうしたことを努力という。無理して勉強することが努力ではない。大人になって自由と思う。そして自己正当化している。自分が正しいと思っている。そうだろうか。そうでないことは自分が一番良く知っているよね。だから誰しももう少し勉強しておけばよかったって思う。しかし勉強を否定している。自己矛盾しているよね。勉強ができることが偉いわけではない。勉強したことで諸問題を解決するから偉い。勉強だけでは役に立たない。医者になれば偉いのではない。医者になってからが勉強である。医者になって何をするのか。お金儲けが医者の目的ではない。人を病気から助けるのが医者である。仕事が目的ではない。仕事をして食べる。そして余暇には何をするのだろうか。生まれてきた意味は何だろうか。無意味に時を過ごしていないだろうか。ここを禅は二十四時に使われているという。二十四時を使ってなすべきことがあるのではないだろうか。いつまでも怠惰だと悔いる。嘆くことになる。いつまでもさまよっていては仕方ない。至るべき道に気づいたなら即進むがいい。やがて宇宙の秘密に気づき、真実真理と遭遇し、人生の醍醐味を知るだろう。結局本来の自分に帰るしかない。主観と客観は表裏である。自分が変わることによって世界が変わる。世界が環境となって周囲に影響する。そして他己に影響する。そして他己が変わる。順々に伝播する。そして世界が変わる。戦争を伝播するのか。平和を伝播するのか。自分の願いは何か。世界の願いは何か。悪の根は抜かねばならない。自分が出発点である。穏やかでいること。やさしくあること。すべては解決する。いつか解決する。今の自分は過去の自分の延長である。それは祖先代々の延長である。自分が救われることで祖先も救われる。祖先は実在する。常に援助している。耳を済ませてそれを聞く。本来あるべき自分の姿がある。それは何か。流行に惑わされていないか。流行の餌食となっていないか。自分を見失っていないか。自分を救うのは自分である。そして如是相。第一印象。挨拶。どんなに隠れても黄色い足が見えている。迷いと疑いとの七つの海を渡りきるとやがて大安心の真実真理世界が開ける。遠い祖先からの果たせなかった夢が実現される。祖先は知っている。祖先は導く。そして現実世界における自分の本来の人生が始まる。何をしても本当に自由でとらわれのない自分が歩き始める。ゆるしゆるしているからである。ゆるされゆるされているからである。自分が自分をゆるす。真実の人生を楽しむことができるようになる。日々新しい発見となる。喜びとなる。これが人生だったんだと生きていることを実感する毎日となる。日々は生きている喜びと感謝となる。笑みがこぼれてくる。誤魔化しの刹那的な笑いではない。刹那的な笑いの後にはそれに匹敵した憂いが来る。永遠につながる笑みである。真実の喜びはある。それは真実真理へ至ってわかる。そうした世界がある。さて一、二、三。一富士二鷹三茄子。宇宙自然魂。三位一体。生活が宇宙に受容され自然に守護される。自然が神々である。人生生命生活。すなわちこれがlifeである。仮定結論証明。大前提小前提適用。公理定義定理。ソクラテス、プラトン、アリストテレス→アレクサンダー大王。ナスは為す。ビは尾すなわち結果。ひとつの終わり。そしてはじまり。実行実践なくして何事も成就しない。身分に安住する学者の概念遊びの不毛性。ウェーバーの『職業としての学問』は言っている。日給で授業をしてはどうかと。実行あるのみ。間違っても良い。間違いは正せばいい。やってみなければ間違いであるのかどうかもわからない。所詮この人生は過去の人生の修正である。限りなく完成に近づく。何時かはたどりつく。引き返すべき黄金の橋は常に架かっている。天橋立である。引き返すが良い。悪の結果へ渡らぬ前に。結果事実責任主義。結果事実が出てからではどうにもならない。行為責任主義。為すべからずを敢えて為す意思傾向の表出。心に思うことは染み出す。遵法精神は市民としての人格の表現。善の種を蒔く。善の実がなるであろう。大切なのは事実である。解釈ではない。傍論は未来を方向付ける。地方自治の本旨は団体自治と住民自治。真実の市民社会の成熟。冷静に間合いを取る。いつでも打ち込める。涵養するべき実力と人格。尊ぶべき人格の格差。己の分際を知る。ゆるされた範囲内での自由。宇宙自然に受容された精神の絶対的自由。そこへいたる可能性としての自由。自分勝手自分解釈は通らない。行きはよいよい帰りはこわい。帰った自分は善か悪か。基準は何処にあるのか。おそるべし。地震雷火事親父。戯言ではない。雷も落とせずして大きなことを言ってもらっては困る。特に芸能界及びお笑いは困る。公然と本来の価値を愚弄しいじめをしておるであろう。その増殖は困る。テレビの社会的影響力及び効果は大きすぎる。何故野放しにしておるのか。当局の良識が疑われる。また教育界の怠惰怠慢であろう。親の子に対する懲罰権がある。虐待ではない。その包括的委任が教師にはある。親も教師もそれを放棄したのかね。何のための親か。教師か。そうしたこともわからなくなったのか。所詮その程度に過ぎないのであろうか。否。自信を失っていただけですね。本来古来日本として。しかしすでに六十年です。自然に満ちた日本です。大丈夫日本です。古来守護されてきた日本です。間違いはあるものです。間違いを間違いと認める精神に対しては自然は寛大です。潔いとはこのことだったのです。商人根性の知らないところです。一切嘘はない。それが古来日本の大和魂であり、武士道であり、海軍魂です。代々培われた古来精神です。そろそろ帰りましょう。本来の日本へ。恐れることは何もない。古来日本です。愛はアイ。はじまり。おわりはン。阿吽の呼吸。以心伝心。夫婦の形。相性の問題。乗り越える。やがて愛を知る。それが今生での仕事。使命。わがまますぎないか。為すべきことを為さずして。為してはならないことばかりしていないか。愛を知って人生が始まる。夫婦はその学校。それを放棄してどのような人生があるというのだろう。誰がこのような風潮を始めたのか。そして流布しているのか。焚書坑儒となる前に反省だね。戦争と平和。ローマの没落は内部からだよ。外敵は常に狙っているよ。神々に守護された豊饒の國日本を。しかし神々の守護する日本。そう簡単にはへこたれないね。今も昔も最後の楽園日本。エデンの園。愛の國。神々が守護している。神々のすみか(住家)日本。
2006年05月30日
郷原の里
郷原を散策しました。以前私にとって多くの気づきを与えてくれた場所です。郷原の遠景を山田の里から眺めてその風景がある版画の風景と一致したとき一つの解明がありました。すなわちその風景がある日突然沈下してしまえばそのままその版画の風景であることに気づいた瞬間でした(この版画の裏に一枚の版画が隠されていた。祖父が版画をしていたのは知っていた。しかしその作品は遺されていなかった。この頃に発見した。何故版画を断念したか。祖父の思いは何処にあったのか。あるいは何であったか。そのほとんどに気づいた瞬間であった。祖父の遺影の目は輝いている)。さて、以前にも書いたことがあって、少なからず個人的に反響を感じてはいましたが、あらためてその地を訪問して参りました。世間では靖国神社の英霊の問題で騒がれておりますが、それでは明治維新の英霊はどうだったのか。即ちある神社でかつて見つけた文書です。「新堂平神社 祭神 市杵島姫命 由緒 往古里人神田の地に小祠を営み産土神と祀りて氏神と尊崇せしが永禄三年霜月三日座主良勢厳島より市杵島姫命の分霊を勧請後宮野首氏の祖六兵衛の寄進により此の地に遷座社名を新堂平神社と改め國土安穏五穀豊饒万民豊楽の祀○と里民の崇敬を蒐め今日に及ぶ 境内社 岡野社 祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 招魂社 祭神 維新後國事に殉じた○英霊」。私を震撼とさせたのは維新後國事に殉じた○英霊が祀ってあることだった。いわば賊軍である。官軍からしてみると磔獄門である。ここに日本史の謎があると直観したのだった。今となってみれば明治維新で散った英霊を慰めることも私の仕事であったのかも知れない。それは果たしたと思っている。私は石外克喜教授ゼミ卒業だけれど、先生の十八番は正調田原坂だった。彼らの夢が何であったか。彼らの思いは何であったか。彼らは破れて次の時代に譲った。夢を託した。黄泉で見ている。裏切るわけにはいかない。およそ世間の解釈は間違っている。世間のレベルでは理解できない。その後も失われた何か大切なものを求めての旅は続いた。今も続いている。浮かれながらも。思い出の地を巡っているとある看板が目に止まった。『牛石』とある。この牛も仕留めることにした。「牛石(うしいし)とその背景 大きさ 東西 七.一〇米 南北 二.六〇米 高さ 一.八〇米 重さ 約五十五トン 牛石の由来 巨石が牛の坐っている形に似ているので牛石と昔人が名指したといはれている。平安時代の永承年代(後冷泉天皇)に、即ち、源義家の頃、荒谷角四郎貞玄なる者きたりて大積(郷原町大積)にはいり、其の山中にすみか(住家)をかまえた。時代をかさねるにしたがい、角四郎の子孫は分家し、そしてまた、分家と十二戸くらいになったと語り継がれておる。農耕が自給自足できるすがたとなりはじめた永享年間(後花園天皇、南北朝合一の時代)(西暦1429年)大積は熊野七郷に近く、往還道として大積道は此の頃つくられたと伝えられておる。おそらく、黒瀬郷一帯を支配した岩山城主に貢米搬送の必要に迫られて設けられたのであろう。牛石は大積道の守り石として遠く永享年代からその姿を現はしておったのであり、数すくない名指し石の一つとして黒瀬郷一帯に広く知られていた。大積道(現在の大積一号線)は細道であり石ころのいばら道で糧穀を背負った牛馬がやっと通れるくらいの道であったと語られておる。糧を貢ぐ牛馬がおい茂った木立のなかをゆっくりそしてゆっくりゆきき(往復)したものであろう。当時大積道の中程に位置したのがこの牛石であり、かえりには塩や交換物を背負ったであろう牛馬がたどりついて、人も牛も休み、安息したと伝えられておる。さかのぼること約五六〇年の昔から、この牛石は飛郷(どびごう)大積人から安息をあたえてくれる守り石として崇拝されてきた石であり、減損することなく、昔のままの姿で今日にいたっておる。」
月下咲く大和出雲の契約の時計草咲く代変わりたり
宿王華
もういいではないか
探していたものは見つかったのだから
何時かはめぐり逢う
秘密家伝黒花宿命宿王華乃花
長い旅だった
何千年来の旅だった
この感性だれも知りはしない
知らずとも咲く時の来て
確かに咲ける宿王華
父を殺し母を殺し
関将軍の大刀は得るものなりて
宇宙自然の解明は
己の心の解明と
代々伝えられしことなりて
大和の民の秘密なる
これを解きて時来る
如良寛従帝則 如一休歌狂雲自由詩
オレンジ仕掛けの王国は
見えない世界に護持されて
見えない世界にその建設の
夢はここに果たせるか
しかれど現実の孤独なる四面楚歌
この楚歌を如何せん
黄泉も従う来る春の
ここに確かに生きてむと
命を賭した善財の旅は終わりたり
そして咲きたるその花は
雑華経華厳宿王華
純粋精神身心清浄
家伝伝来秘密宇宙開闢
真実証明自然歓喜
日月照らす真実の春
莫妄想!
花咲けば蝶も来たりてそよ風に舞う
ジィスマスカレードの舞踏会
(蝶は平家の家紋)
貧學道
物事をまともに考えるにはハングリーでなくてはならないようだ。貧學道(道元)の意味はここにあったのだろうか。さすれば敢えて貧しくあるか。 宵越しの金は持たない直参旗本の粋があった(母方の祖父は山持(山道)家長男であるが名は直三である)。それもまともに考えるための条件であったのかも知れぬ。考えるということがどういうことか。考える葦に過ぎないがその小さな存在が宇宙を見る。亦おもしろからずや。この醍醐味はお金では決して買えぬ。至極の贅沢と言っていい。宇宙の守護、目の当たりにしている。ここまで耐えた特殊潜行艇である。しかしそろそろ浮上の頃かも知れない。かつて技術も音楽も美術も体育も10であった。今はどうか。無底船(正受老人)である。測定不能である。宇宙或いは深海と合致した。マグマの流れも変わる。かつて伊豆半島は何処より来たか。富士はどの火山帯に属するか。富士は死火山ではない。休火山である。かつて頼朝は伊豆にいた。何故伊豆だったのか。何故処刑されずにいたのか。黄泉が守護していたからである。やがて時が来て使命を果たすためだった。歴史は繰り返すが同じ轍は踏まない。常々進化する。いつまでも古い方法論は通用しない。人類の願いは何であるのか。歴史の原動力である。そして何時か目覚める。やがて至るべき世界がある。誰かがはじめに到達する。そしてその世界が確かに存在していることを確かめる。そしてそれを伝える。皆が気づく。新しい解放となる。アポロ11号の意味は何であったか。その事実の真偽よりその象徴性である。人類の進むべき方向性である。人類は限りなく幸せを求めている。豊かさを求めている。真実の幸せとは何か。真実の豊かさとは何か。平和な暮らしとは何か。生きるということはどういうことか。精神と心と魂と。その実体は何であるのか。宇宙との関係はどうなっているのか。心の優しさで全て解決する。この世界をどう証明するのか。伝えるのか。それは真実の周波数がある。それをどう体得するのか。確かに自然が守護している。それをどう説明するのか。魔女裁判があった。キリストの磔があった。同じ轍は踏まない。踏んではならない。そしてそろそろ生まれてきた幸せを実現したいと思っている。その形を見たいと思っている。現実を生きたいと思っている。旅は終わったのだから。確かな宝を見つけて帰ってきたのだから。もう十分なのだから。これ以上探すべきものはnowもうないのだから。
2006年05月29日
因縁
全ては縁である。因縁である。因として原因を作る。その後は縁である。縁があって結実する。縁がなければ何も起こらない。自分が起因する。常に原因は自分である。無理はしないことだ。無理をするからおかしくなる。終わりがあって始めがある。始まりのためには終わりがなければならない。ひとつの終わりがあってひとつの新しい始まりとなる。新たな因となる。そうして物事は展開する。流れができる。どのような流れにしたいのか。そのためにはどのような原因が必要か。その原因が種。どのような種を蒔くのか。土壌はどのようなものが必要なのか。何事も中途半端では成就しない。命を賭ける。命を賭けて花と咲く。何に命を賭けるのか。花と咲いて結実する。どのような花なのか。どのような実であるのか。どのような種であるのか。咲いてみなければわからない。結実しなければわからない。種を得てその花を知る。散華して結実する。散るとき己の人生を振り返る。自信を持って散ることができるかどうか。おのおのの人生である。人生に悔いなしといえるかどうか。一度しかない人生である。過ぎ越しの人生である。生きて何をしてきたのか。おわりに楽しむことあるは吉。騙し奪うは何事か。さらに裏切るとは何事か。所詮この世は男と女。縁があれば結ばれる。因があって縁がある。ほかに何もありはしない。因は自分。因が迷っていないか。因がぶれていないか。因が確かであることで後は縁次第である。この縁を恨んでいないか。恨むべきは因である。縁は助力するのみなのだから。縁次第という。良い縁がある。悪い縁がある。前世での味方であるのか。あるいは敵であるのか。縁は因に従う。自分次第である。自分の意思は確立されているか。どうしたいのか。敵をも味方にするという。敵は敵である。ゆるしゆるすなら何をしても自由である。ゆるしてはいない。ゆるされてはいない。ゆるしはしない。
鴎の急降下爆撃
いつもの浜辺についた瞬間だった。浜辺から距離十数メートル、高さ十数メートル正面に一羽の鴎が浮いていた。宙に一点。二度大きく羽ばたきをした。瞬間一気に急降下した。海面に没したかに見えた。そして静かに舞い上がった。捕食の瞬間だった。大きく羽ばたきをして浮かび上がった。重そうに飛び去った。大きく弧を描いて真っ直ぐに飛んでいった。視界には一点のままだった。何時までもその距離は変わらないように思えた。羽ばたく姿が何時までもあった。
ファッション
流行を身につける。即ちファッションである。その目的は何か。何を身につけるのか。魅力である。その魅力で何を魅きつけるのか。異性である。善の異性を魅きつけるのか。それとも悪の異性を魅きつけるのか。面白そうだね。友達関係は大切だよ。世間の濁流の中で流されないように。染まらないように。腐敗を土壌として咲けばいい。咲くのは自分の花。
真実の実
真実の解がある。この解はなかなか見つからない。真実の貝も同じである。しかし何時かみつかる。それは素直となった精神が見つける。そして海へ帰る。エーゲ海の真珠というのもあった。しかし真実の真珠ではなかった。邪念の真珠だった。時は流れた。永き時が流れた。流れ着いた椰子の実もある。真実の実とは何であったか。種となってわかる。誰もそれを知らずに大人だと思っている。子供たちが笑っている。真実の実はひとつしかない。真実の貝もひとつしかない。報道によると道長の奉納した塔の欠片が見つかったという。9×8cm。修行中の釈迦の姿が描かれているとか。当時の文献には中国より500基日本に持ち込まれたという。今9基しか確認されていない。そのひとつであろうという。これだけの塔が奉納できたのは時の摂政関白道長のほかに考えられないという。さて華と咲き実となり種となる。この一生どのような種を遺すのか。それぞれの人生である。真実の実はどのようにして結実するか。身心清浄。しばらく忘れていたね。勝手な解釈をしていたね。この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へばという歌も。これは誰もが思うことができることだった。心の大地へ至れば。このことが今庶民に開かれた。これが21世紀です。知はチカラなりと知ることで。チカラとは変えることができるあるもの(如)です。何を変えるのか。自分を変える。自分に帰る。自分は買えない。楽しい時代となりました。
言葉
表層だけの言葉がある。深い意味を蔵した言葉がある。解読。
創世記
神々の仕事は手続きに等しい。順々に小さな結果がつながってやがて一つの大きな仕事が成就する。一大事である。そしてふとその手を休めてそっと眺めてみる。これで良いとほっと一息する。創世記である。その時の笑みが何とも心地よい。歩々清風。世界が歩み始めた。本来の価値が確かに復活している。まるで恐竜時代の後のネズミたちのように。これで神々の生きる空間も確保されたかな。正直者たちが馬鹿を見なくてすむのかな。動物から人間へ。身体から精神へ。仕事はしたようだ。なかなかの作品である。さてこれからは、自分のことを考えることにしよう。もう自分を犠牲にするのは止める。嘘世間に合わそうとして自分を失うことはない。思うように生きる。それもゆるされた。やっと自分に戻れたようだ。素直な自分にね。本当の自分にね。只の人間としてね。これでよかったのだと思う。何もかも。しかし分を超えた愚かさと野蛮は容赦しない。淘汰する。斬り捨てる。黄泉の定めである。代に見限られたときが年貢の納め時である。今までとは違う。代は変わった。素直な心たちとすべての美徳が生育するために。代々の夢が成就した。千尋の谷は抜けた。新しい大地が開けている。
2006年05月28日
念仏あるいはお題目
念仏が上かそれともお題目が上か。それは申す者あるいは唱える者の格の高さで決まる。どちらでもいい。問題はカエルの念仏はだめだ。カエルのお題目はだめだ。念仏もお題目もロゴスとなったときチカラを持つ。それだけのことである。宇宙に通じるという。その前に宇宙に認められることだ。宇宙に認められるとどうなるか。日月自然が応えてくれる。十牛図第九図である。そして世間に帰る。
ところでカエルの成仏もある。美しくカエル。
不倫
不倫の怖さを知らないものが不倫する。あまりにも怖くて云えない。生き霊は死霊より怖い。自分に現れなくても子孫に結果する。霊の洪水がある。だれも逃れることはできない。正しくかわいい子孫は祖先が護る。祖先が復讐する。そしてその子は目覚める。知らしめんが為である。黄泉の掟である。黄泉にも秩序がある。持つべきは恥ずるところなき祖先代々である。知るものは知る。知らない者たちが愚弄する。やがてサンクションがある。何時あるのか誰も知らない。善因善果。悪因悪果。
嘘も方便
嘘も方便という。嘘は嘘である。方便とは嘘ではない。嘘は結果破綻する。方便は結果救いとなる。勝手な解釈をしていないか。
男は度胸、女は愛嬌
男は度胸というのは本当である。甲斐性である。女は愛嬌というのは本当である。ところが今はどうか。逆転してるね。私は違う。
臨済の四喝
臨済の四喝がある。同じカーッである。しかし四喝である。言葉はその表層だけが意味ではない。その真意は何か。言葉の裏の思いは何か。打てば響く。かぐや姫。輝く容姿の方もいる。
抑下(よくげ)の托上(たくじょう)
抑下(よくげ)の托上(たくじょう)ということがある。禅においては相手をほめるときには悪く言う。相手をだめだと思えばほめあげる。そして祖師は一番弟子に言った。この大泥棒め。この一番弟子は何を盗んだのか。禅譲。
ロンパールームの頃
ロンパールームというのがあった。お天気坊やというのがあった。自分のことかと思っていた。
美しい女性女子
最近美しい女性女子が増えた。皆が憧れた姿が世に現れている。確かに美しい。姿形は。これから三十年後には心の美しい女性女子が数多現れるのだろう。皆の憧れはこうして代々現出する。
私が英語がわかったのは
中学より英語を始めた。高校でも習った。しかしそれは何だか概念のような英語だった。私が生きた英語に触れたのは予備校の頃だった。その時の先生は平賀春二先生だった。後でわかったのだがその先生はもと海軍教授で船舶関係の英語の専門家だった。研究社英和大辞典第四版で知った。さて今だから云えるのは、その先生、授業が終わって休憩時間となって、生徒からの質問に応えるとき、何故かチョーク箱が灰皿となるのだった。誰も文句の言えない存在だったのだろう。すでに70歳かと思われた。その先生から人生の自由な生き方を習ったと思っている。自由を得るには条件がある。要件がある。
究極のダイエット
さて頭脳は考えるとき運動以上にエネルギーを消費する。究極のダイエットは頭脳を使うことだ。考えることだ。勉強することだ。
手紙
無線LAN設定をして、その後で、インターネットのブラウジングはできた。次にメール設定である。POPサーバーは良好で受信できた。しかし送信ができない。何度設定してもできない。もう一台のパソコンではうまくいく。これを参考にしてアカウントをもう一度設定してみる。やはりだめだった。こんなの初めてだった。そして思った。久しぶりに手紙をした。これは私にとって意味のある手紙だった。というのも中学の卒業式に紅葉のすかしのある手紙を渡そうとして果たせなかった。それ以来私の人生は狂ったのかも知れなかった。何故か。自我に目覚める頃自分が何者であるかに気づき始める。だが私自身の属性は悉く通用しない社会となっていたのである。自己否定するしかないではないか。そこへ帰る必要があった。そうした意味を持つ手紙であった。個人的なことではある。しかしこの度渡した。導きあってのことだった。そのチャンスを逃さなかった。これは何を意味するか。メールサーバーが見つからないとエラーが出る。そのことかと思った。さてその手紙、あらためてサイは投げられた。復活である。
posted by GT at 22:21| 広島 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
今日の三句
仕事してがんばったねと日の照らし
心配はいらぬぞよと風の吹く
この道でいいのですよと小鳥飛ぶ
シノーポリ、マーラー『復活』
帰ってみるとNHK教育テレビでは思い出の名曲としてジュゼッペ・シノーポリ、フィラデルフィアのマーラー『復活』をしていた。ちょうどフィナーレへはいる辺りだった。どうして今頃シノーポリかと思いながら見ていると1987年サントリーホールでの演奏だった。さて復活。死して神のもとへ連れて行くという。復活というとキリストで歴史的事実として或いは宗教としてとらえられている。果たして真実はどうか。復活の物語は何であったのか。キリストだけのことだろうか。否、ちがう。常々代々個々の人間にとっての可能性である。すなわち即身成仏である。ダルマも西来して面壁九年のあと弟子を一人作ってどうしたか。徳利をぶらさげてまたぶらりぶらりと西へ帰る旅をしているのを見たというお話もある。さてキリストの復活。歴史的事実として確かに処刑されたであろう。しかし復活した。その意味は何か。既に説いた。個々のあるべき人生の姿である。マーラーは言った。何時か私の時代が来る、と。
2006年05月27日
シャドー・キャプテン大航海日誌のはじまり
例えばエルラルド、聖剣伝説。宝島。理想の國。哲人政治。求めたものはすべて同じだった。そして常々それは発見され成就された。それが物語となって残っている。人類の遺産として。これらの物語は謎である。この謎を解く鍵は無限無量である。それぞれ自分で解くしかない。人生最大のゲームである。生きている間に解くことができればそこがニルバーナ解脱黄金郷。そして解いたその人は天使となる。 辛島美登里さんもその一人。ユーミンも。そしてそれがスター。様々な星がある。輝けば星である。さてどの星となるか。日天使、月天使。平等即差別。色即是空。空即是色。理想と夢。夢は実現する。感性が完成する。成就する。これが幸せの条件です。さて本当に幸せと云えるかどうか。中途半端はどうなるか。仏は云う。仏法なくして小説を書いてゆけばやがて自殺する。さて、どうするか。内面の未知なる道だ。地獄は地獄。相当の覚悟がなくては飛び込めないね。飛び込む勇気があるかどうか。飛び込めばいい。必ず掬われる。救われなければそれも仕方ない。それも己の運命と諦めるしかない。その為に来生もある。来世は今世の続きなのだから。しかし諦めるのは飛び込んでからだ。飛び込んでみるが良い。必ず道は開ける。それが宇宙の約束だから。導きはある。地図もある。自分解釈しないこと。先哲先輩に従う。信じることのできる方々のね。そうした友がいないこと、みつからないことも運命だよ。しかし道は必ずある。自分次第だ。正しいと思うなら飛び込むが良い。自信がなければ自信を与えてくれる方が現れるまで待つがいい。いつも遅すぎることはない。すべて見られている。そして導かれている。黄泉の意思にはやく従いたいね。サインが出たらすぐに飛び込むが良い。きっと救われる。自分を救うのは自分だよ。そのために、様々な姿形で、救いの手はある。一里塚もある。本当だよ。このブログもそうだよ。嘘はない。実験経験検証済みだから。あらゆる理論意見を論破しようと思えばできる。しかしそれも必要ないと思う。何故って、みんなそうして生きているのだから。自分が弱いと思うとき相手に戦いを挑む。それが野蛮・暴力。自分が本当の強さを自覚すると相手にしなくて良いことに気づく。それがやさしさとなる。水は高いところから低い方へ流れる。愛とか恩とかもそうだった。何を求めていたのだろうね。求めて得られないのは当然だった。宇宙自然に受容され守護されること。究極のチカラである。生まれながらにして。さぁ自分を信じて勇気を出してその一歩を踏み出そう。一番槍たちはすでに敵前突破してるよ。すべて良かったと思える日が必ず来る。恥じない自分に気づく日が来る。必ず来る。それが生まれた意味であり約束だったのだからね。間違いは正せばいい。死んでからでは遅い。生きている間に楽しもうぜ。淘汰は自然に任せればいい。所詮悪は悪。相手にすることはない。信じた道があるなら行け。必ず道は開ける。必ず。 そして本当の人生が始まる。今世を燃え尽きる。燃え尽きて灰となる。遺恨を遺さない。灰とならねば来世がまた辛いよ。灰となるまで燃え尽きることが仏法であることは道元も云ってる。生きている間に灰となれば幸せばかりとなる。つまり悪性が焼き尽くされたということだから。これが幸せの秘密方程式です。さて問題はどう解くか。先ず例題をマスターする。お手本だ。そしてその方法論で個々の問題を解く。難問もいくつかの基本を組み合わせて解けば解ける。その基本がないから解けない。基本が大切な理由です。個々人の問題もこうして解かれるのです。例題はある。個々人の問題は個々人が解く。他人は解けない。自分を救うのは自分であるとはこういうことです。仏も方法は説く。仏といえども個々人を救うことはできない。また仏も忙しい。だから普賢菩薩さんに皆のことは任せてあるという。それらが法華経に書いてある。法華経は難しい。自分で読んでもわからない。如来でなければ如来はわからない。いつまでも愚かでいては救いはない。愚かから知性へ。21世紀です。ここまで庶民にも開放されたのです。すなわちこれが庶民の解放です。自己確立健全善良庶民民主主義。新しい時代です。『知恵の悲しみ』から『智慧の楽しみ』へ。さて修身斉家治国平天下。My home and my town ! 何を思い煩いさまようか。幸せの基はもとより夫婦にある。解くべき問題はその相性である。鳶に鷹を産ませるようでは不幸に決まっている。それが今骨抜きにされて腐敗の実体となっている。その実践流布者は覚悟されたい。傍観者も共犯である。その重きによりて処断あるべし。僭窃君主の時代は終わった。正統に還る。もちろん今姿は庶民。主権在民。見えない世界の秩序に従う。今セレブとかが求めているのは何だろう。例えば豪邸。既に過去においてそれらを克服している存在がいる。そして新たな幸せを求めて旅をした。そして帰ってきた。真実の宝を見つけてね。それは何であったか。幸せ。すなわち愛と平和そしてやさしさ。周りが幸せであるときその中の自分も幸せであるということ。知性の復活。探すべき宝島は何処にあったのだろう。自己の内面だった。自分がわかれば全てわかる。世界がわかる。真実の愛と平和とやさしさがわかる。やさしさとは強いが故のやさしさ。それは制御されたピアニッシモ。強さは自由。思い通りにしてしかも法を超えない。法の遵守は人格の表出。愛と平和がなくては暮らしはない。暮らしこそ生きる目的。暮らしは生活。その基は夫婦。夫婦は相性。この世で共に幸せ本線の旅をする。幸せって何だろうね。21世紀幸せの時代が始まっている。乗り遅れるわけにはいかないね。世界は動き始めているよ。もう出発したんだよ。この大航海。きっとみんな幸せ世界にたどり着ける。黄泉の決定だから。信じてみたいね。すでにたどり着いた方々が待ってるよ。そして諸手をあげてエールを贈っている。辿り着きたいね。みんなで。一切大衆を救う。仏の決定だ。大衆の中には我々人間も含まれる。安心していい。大宝船だから。自分から降りないことだよ。人生楽しい。十分に祝福されている。点検は済んでいる。シャドー・キャプテン(CSN)も乗船しているよ。自分の感性を大切にしようね。それが羅針盤だ。文章は人格と心の表出。文体は大切だよ。如是相。すべて顔に書いてあるよ。言葉は正直であることで宇宙に通じる。正直とは身心清浄を以て成就する。正直者のこうべには神宿る。神の宿った方々が主権者。健全な精神と善良な庶民の時代です。その方々が真実の幸せを求めて新大陸を目指す。モーゼがかつてエジプトから解放したように庶民が解放される時代の到来です。それが21世紀の約束。旧約聖書に預言されていたのはまさにこのことだったのです。この大宝船こそノアの箱船。信を以て入ることを得たり。何を信じるか。自分の感性とその選択。さぁ帰りなんいざ。未来は明るい。明るきから明るきへ決定されている。信じて進むしかない。幸せの王国美しいこころの大地へ。やさしさですべてが解決する大地へ。すでにそれは開かれている。そしてね、どうして皆が救われるかというとね、観音菩薩が自覚したからだよ。やっとね。この縁、大切にしたいね。戦いは終わった。(しかし一つの懸念がある。世間は浮かれすぎているのではないか。大正時代に大正デモクラシーがあった。今よりもっと自由の空気が支配していたと聞いたことがある。その後どうなったか。世間はある意味で烏合の衆浮かれ現象しているのではないか。用心するべき所である。しかし冷静に目覚める方々は大丈夫である。何時の世もそうである。いい加減すぎるのではないか。自由をはき違えているのではないか。怪しい。スナフキンの目で見る必要があるの火も知れない。所詮浮き世の定め知らずも。まるで元禄の腐敗である。一つの時代の帰結が近いのかも知れない。真実の何も見ていない。見えていない。何とか切り抜けたいものである。このような時代であるからこそ神仏の守護も必要であるようだ。古来日本が生き残るために。何事も法則通りである。世間の浮かれようは異常である。本末転倒故当然の現象か。 Goodbye yellow brick road (エルトン・ジョン))。
善財童子の旅
現実浮き世にいながらあの世をさまよっていたかのようである。まるで倩女離魂( せいじょりこん)である。十六の頃からである。そしてこの度還俗したようだ。すると目の前の光景は何だ。まるで浦島太郎である。何だか知らないけれどこれが三十五年後だったのか。皆妄想に浮沈しているように見える。真実からあまりに離れている。それが自由と思っている。それが人生だと思っている。浮き草のように。次なる私の使命が来るようだ。私は私を生きる。幸せ方程式。幸福への函数。解は得ている。覿面提示。電光石火。道元空手。この度の自己は本物のおだやかさを迎えようとしている。運命通りだったと云うべきか。あるいは運命を超えたと云うべきか。そのようなこともどうでもいい。確かに自分がここにいてそれを信じるに足りている。前進するしかない。それが私及び私たちの使命であったようだ。何もかも気に入らないなら気に入るように作るしかない。そして宇宙自然もそれを待っていた。真実である。今足りないのはグランドデザインである。過去には不比等のそれである。そしてその感性は見えない世界にある。見えない世界の感性との感応。これがグランドデザインである。気分が優れていること。その時、写真においてはシャッターチャンスが待ってくれている。カクネンムショウ。気分が晴れるとき空も晴れる。老子に奥山の老木の話がある。曲がりくねって材木に適さない。それはそのままニーベルングの指輪のトネリコの木である。また菩提樹である。役に立たぬ故にその生を全うした。そして真実を伝えた。黄泉の秘蔵っ子がある。秘蔵っ子であるが故に俗世間に染まることなく秘密守護された。やがて時が満ちる。その時の使命があったからである。ラインの黄金を巡って神々もその契約を破ったが故にワルハラ城は焼け落ちた。そしてラインの黄金は再び川の底に還った。本来清浄なくしては神々といえども没落する。ラインの黄金も象徴である。その実体はむしろ見えない。すなわち精神である。魂である。あらゆることがそうである。それなのに現実が現実だと思っている。ここに浮き草の宿命がある。精神はある。魂はある。そして清浄清凉への旅をしている。これを認めることで禅もすべて解決する。この精神を磨く。そして魂を得る。向かうところ敵はいなくなる。宇宙自然と一体となるからである。黄泉が守護するところとなるからである。この時野蛮も克服されている。真実の愛とやさしさを知る。愛とかやさしさとかを妄想していないか。その表裏一体の裏は何か。地蔵尊が即ち閻魔大王であることに等しい。浮き草している限りわからない。さてキリストは云う。時が来ればふさわしい伴侶が与えられると。そして菩薩には菩薩が伴侶となる。先ず自分を磨くことだ。それをせずして何を求めても空しい。また本来の自分がある。その本来の自分になって初めて人生は開ける。それぞれ本来の自分は違う。出発するまでに時間がかかることもある。本来の自分を見つけることは大きな大理石から本来の自己を彫像するに等しい。鑿を振るう。本来の像の方から現れてくる。大理石の中に本来の自己が隠れている。鑿を振るう勇気があるかどうか。試されている。黄泉に感性がある。それはやがて現実化する。それが浮き世の現実である。浮き草はそれを追いかける。そして自分が浮き草であることを知らない。この度黄泉の感性が自覚した。感性が知性と結婚した。故に世が代わった。この世が代わったことにまだ気づいていないのが浮き草である。浮き草は浮き草である。源氏物語の光源氏。今もいる。過去の光源氏を今頃になって追いかけているのが現在の浮き草たちである。今の光源氏が何を思い何をしているか誰も知らない。知らずに知らないことも知らない。さて母を尋ねて三千里。泣かないでアージェンティーナ。見えない世界への旅だった。シャガールの夢だった。古来大和の魂の旅だった。この世にはその痕跡がなかった。孤独に探す旅だった。それが善財童子の旅だった。そして安寿と厨子王の厨子王のごとく黄金の仏像はその胸の裡にかけられていた。それが唯一のパスポートであった。しかしそのパスポートもどこで使っていいのかわからないままだった。孤独に耐えるしかない旅だった。浮き世に染まることのできない孤独な旅だった。そのつらさはおよそ想像を絶している。日本は日本である。卑弥呼の系譜秘密大和邪馬台国である。卑弥呼は火を呼ぶ水を呼ぶ。火に焼かれて精錬する。水に浸って浄化する。そして魂が精神となる。それが大和魂である。この大和魂を持ってやさしくおだやかに生きる。それが暮らしである。21世紀の日本のあり方である。腐敗はその土壌である。時は満ちた。因って咲け先代嫡男月下着南無秘密宿王地獄火裏蓮乃華。日月君主到来君が代我が世我らが世。もはやどうにもならぬ。我が儘勝手我慢怠慢も限界である。我慢の対立概念が自由である。世間身勝手解釈愚弄本来古来伝来大和之価値。和は持って尊ぶべきもの。もはや勘弁ならぬ。誰が為に鐘は鳴るか。我が為ではない。君が為である。君とは主。おのおの自己の主は誰か。是、為すべきは主体性の確立。発見確認確立成就された男女それぞれの自己が王である。王を無視して勝手し来る而して腐敗。これより新自己確立自由男女平等真実民主主義。即是国民主権主権在民。天中天。王中王。新しい時代である。すなわち開闢である。碇は降ろすべきものである。怒りもね。するとそよ風が吹いているよ。やさしくなれるね。そして好きなことをすればいい。瞋恚。目くじらたてていないか。心も立っていないか。目は凝らすだけでいいですね。申し訳ないことでした。和むのがいいですね。平和ですね。人間人格文章文学論。現世世間に合わそうとしてさりとて世間身勝手我が儘社会に染まることもできずしばらく見捨てられていた私の人生は取り返しができない。しかし得たものはあまりにも大きい。しかしそうならざるを得なかった理由もおよそ理解している。過去からの因縁である。この因縁を解決するしかない。それは負の遺産を焼き尽くすことである。ところで、刑法責任理論に行為無価値説と結果無価値説がある。法は至って人間的であり、罪を憎んで人を憎まずという。引き返すべき黄金の橋はいつも架かっている。思想は罰せずともいう。法は事実結果に対してサンクションとして機能する。事実の結果無価値である。そして引き替えすべきを引き返さなかった行為無価値である。因って二者択一ではない。この度のホリエモンについて、報道によると、その結果無価値は事実として明らかなようだ。また多額の保釈金を払って保釈されるまでに反省して引き返すべきを引き返さなかったようである。法の寛容の要件すなわち再法併酌減刑事由を自ら思い上がり勘違い身勝手解釈して欠いたかな。そして、健全で善良な庶民諸君、みんな生きて輝こうぜ。この時々の瞬間を。亦嬉しいではないか。
2006年05月26日
本末転倒
先祖代々自由だった方々がいる。今生で初めて自由を得た方々がいる。後者が本末転倒支配している。そして古来日本の精神を破壊した。前者は生きる空間がなくなった。さぞ本望であろう。しかし歴代の約束がある。時が満つる時開示される。今その時である。そんなに歴史は甘くない。根無し草は根無し草。泡沫は泡沫。もはや観念するしかない。古来の精神を愚弄した文化である。黄泉は赦しはしない。それほどまでの思い上がり勘違いがやはりある。しかしわからぬものは所詮わからぬ。明治以降の商人と下級武士の天下である。大義名分のないままペリー来航に乗じただけの天下である。大義名分がなかった。故に明治天皇を担ぎ錦の旗まで作った。そして勝手し放題である。結果腐敗。もうこれまでである。さて、そのようなこともどうでもよい。故事あるいは己事究明、時代あるいは自己は晴れた。いつまでもこのままではない。やがて時代が証明する。雑草には雑草の運命がある。カラスにはカラスの運命がある。何を思い違いしているのか私にはわからない。そして帰るべき自己がある。帰り着かねば何も始まらない。それはそよ風。春の風。長き嵐の冬は終わる。既に過去の清算はできた。つまり条件は整っている。何と複雑であったことか。このパズルは解いた。すでに解いている。この度は。暖かい風が吹いてきた。このあたたかさは初めてのことなのかも知れない。少なくとも私にとっては。そのように感じる時代の風である。いつも吹いていたのであろう。古いコートは脱がねばなるまい。そしてこの身一つで生きてゆく。十分である。やっと報われたのかも知れぬ。風よ吹かば吹け。雨よ降りたくば降れ。真実は開花した。開花すれば自由である。輝きを発すれば自由である。もはや惑わされはしない。やっと時代も気づいたようである。否。生まれたときから気づいていたのであろう。しかしそれにしては過酷すぎた。その責任は取ってもらう。さもなくば黄泉は赦しはしない。本来大切にするべきものを粗末にしすぎた事実がある。それ故の今の腐敗がある。わからぬというならそれもいい。わかるというもそれもいい。もはやどうでもいい。しかし過ぎた勝手は正される。黄泉の意思である。・・・羅刹は帰ってきたのか。まだいたのか。羅刹は云った。そう簡単に参るわけにはゆかぬ。まだまだ云うべきことはある。新しい時代を開かねばならぬ。と。風は羅刹に向けて吹く。仕事はしなくてはならない。今仕事は何であるか。こうして書くことである。世界のためにである。知っても知らなくても、靴屋は夜仕事する。綴る文章は蚕が繭をはくがごとくである。或いは鶴の恩返しである。しかしまだ誰も知らない。自覚した太陽のごとくである。常に道は開ける。自覚あらば。今も昔もそうであった。しかしその自覚も資格がある。かつて頼朝が正統源氏であったようにである。もはやチカラを得たからには刃向かうものに対して赦しはしない。宇宙の掟である。なびくものには至って寛大である。かつての野蛮はない。野蛮は克服されている。子羊は子羊である。狼は狼である。一声百雑砕。前に出れば逃げまどう。姿を隠せばつけ上がる。昔よりそうである。今もそうである。相手にならぬ。我が思い、宇宙に通じている。自然が証明する。如何ともしがたい事実である。下手な手は打たぬが良い。王の耳王の目は配備済みである。空王仏。雲雷音王仏。すでに味方につけている。コギトエルゴスム。どういう意味であったか。応神天応がまつられる神社がある。何故まつられたか。時の産業技術発展の守護神であったからである。その時民は豊かであった。かつてジャパンアズナンバーワンと言われたのは何故だったか(昭和50年、その頃何故カープが強かったのか。今何故阪神タイガースが強いのか)。そしてそれが成就しなかったのは何故であったか。その後どうなったか。バブルの崩壊である。それはバベルの塔であった。盲目の民の計らいの故であった。まつるべきをまつらなかったからである。大切にするべき価値を愚弄したからである。これが明治以降の浅智恵であった。お金など狐の木の葉にも劣る。だれがお金お金と言い出したのか。 カルバンか。お金で神力が買えるか。科学で神力が作れるか。これよりまつるべきはまつるべし。しばらく失われた価値を見直すべし。本来古来神國日本大和の価値は何か。民草として反省するべし。日本復興の条件である。今それを知らしめん。菊もある。刀もある。槍もある。薙刀もある。お金で買ったものではない。家伝伝来である。何を以て勝負するのか。 時代駆け自分探しの宝島宝見つけて帰る港に 『微渧先ず堕ちて以て欲塵を淹し涅槃の門を開き解脱の風を扇いで世の惱熱を除き法の清凉を致す爾して乃ち洪に無上の大乗を注いで衆生の諸有の善根を潤漬し善の種子を布いて功徳の田に遍じ普く一切をして菩提の萌を發さしむ 智慧の日月・方便の時節大乗の事業を扶蔬増長して衆をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成じ常住の快楽微妙眞實に無量の大悲 苦の衆生を救はしむ』 私の生きる空間がなくなっていた。それでその空間を切り開かねばならなくなった。それが時代を開くほどのこととは思わなかった。しかし生来の使命であったようだ。いつも時代と私の関係を感じてはいた。しかしこの度のことも唯逼塞した私が生きていくために必要なことだった。それだけのことだった。本来の自分に還るとは現実の自分の事実を認めるところから始まる。過ぎ越し自分をである。悲しい現実をも。自分が自分をゆるす。するとゆるされている自分に気づく。自分がわかれば世界がわかる。自分の願いがわかれば世界の願いがわかる。エゴからの脱却。一隅を照らす。 自分を救うのは自分である。馬鹿な世に馬鹿ならなくのことどもをあえて生きてむ愚かなるまま。良い時代である。この時代の主は誰か。よくもわるくも神々である。神々とはちから(血統)を持つ存在である。権力武力金力を以てして主権が譲られることはない。神々は宇宙自然である。日本は卑弥呼の系譜邪馬台国大和の國である。時には現実に身を賭してその力を示さねばならぬこともある。気づけば吉。気づかぬは愚か。自分の分際を知って幸せに生きることができる。過ぎたるは凶。未来は明るい。神々は本来朗らかである。本来心身清浄。アレクサンダー大王とディオゲネスが時を同じくして三途の川で出会った。アレクサンダーは言った。何時かあなたとお話がしたかったのです。ディオゲネスが言った。願わくば一歩下がってくれ。日の光が届かない。私は昼寝している。
2006/05/25 夜の川原石港 海に抱かれている。海は慰めである。永遠の故郷である。
2006年05月25日
疲労について
日々疲労している。しかし歓喜奉行して為すべきことをしていれば疲労はない。心地よい疲れがあるだけである。そして眠る。それだけのことである。邪念と無行為及び結果無価値は疲労する。さて、 ビートルズの歌にもルーシーがダイヤモンドの眼をしていることを歌った歌がある。限根懺悔である。しかしそれ以上に顔全体が輝いている方がいる。すなわち如是相。美白もそのためか。しかし全ては面に表出する。誤魔化せはしない。ところで流行を追いかけるということがある。それ自体に善悪はない。要は流行に対して主体的であるかどうか。そして若さとは年齢ではない。年若くして既に老いた相の方がいる。齢重ねて尚毅然として若さを保つ方もいる。日々の思念と行為及び過去よりの因縁おそるべし。若さとは情熱である。夢を持っていることである。日本霊異記は続行中である。若くしてすでに年老いたくはないね。未来への責任果たしたいね。今の思念と行為と反省が未来へ持ち越される。いつまでも愚かでは誠に申し訳ない。さて本日アメリカ航空母艦リンカーンが長崎に来航した。先日横須賀にワシントンが寄港したのだったろうか。もう覚えていない。世は掬われたのかも知れない。救世者の到来だったのだろうか。あの羅刹は。しかし羅刹はもういない。彼は黄泉へ帰った。そしてじっと手を見る。我が暮らし楽にならずと。未だ伴侶あらず条件整わずと。(2006/05/25 20:38 NHK-FM モーツァルト『ジュピター』を聴きながら)
新しい始まり
新しい始まりにしよう。一つの幕が閉じてまた一つの幕が開かれて。それで良いのだと思う。昨日までのことは昨日までのことで良いのだと思う。そしてまた歩み出せばいい。これまでは自己発見と自己確認のために必要だった。これなくしては新たな一歩を歩み出せなかったからだった。とても主観的なことだった。とても個人的なことだった。これからもそうなのだろう。生まれてきた意味を自己の内面で問い直し、そして確認できたなら、新しい始まりを迎えることができる。これからは少し客観的になれるのかも知れない。つまり、サナギの時代を終えることができる。とても長くて険しい道だった。自立するためには通らねばならない道だった。これほどまでにとは思わなかった。しかしこれで良かったのだと思う。この道しかなかったのだと思う。これで一個の独立した自己を発見しその基礎を築くことができたのだと思う。もう迷うことはないのだと思う。信じることのできる自分がやっと見つかったようだ。新しい始まりである。目覚めてみるとその風景はそれほど変わりはしない。しかし一つの確信がある。もう大丈夫だと。これまでも十分に掬われていたのであって、それに気づかない自分がいるだけだった。何事も自分次第だったようだ。素直になれたのだろうか。この世に生まれて本当に良かったと思える。このように素晴らしい世界があったのだと思う。夢は叶う。探し求めていた世界は開けた。心配は要らない。いつも見守れていたのだった。いつも導かれていたのだった。ずいぶんと心配もかけ、ご迷惑をおかけしたことだった。これほど恵まれた自分はいない。それなのに・・・。これからは本来のあるべき自分に還ろうと思う。それでいいのだった。所詮自分は自分でしかあり得ない。どれほど遠回りしたことだったろうか。どれほど道草を喰ったことだろうか。しかしそれも必要であったようだ。この道しかなかったようだ。至りついたことは間違いない。これが私の探していた道だった。やっとその道を見つけることができた。もうこの道しかない。この道を歩むことにしよう。もう惑うことはない。 やっとゆるされたようである。ゆるされるとは自分が自分をゆるすことだった。すべて自分次第であった。どうしてここまでさまよわなければならなかったのか今となっては不可解である。これほどまでに重荷を背負っていたのだった。どうして背負ったのかはもう問わない。生きていくということがこれほどまでに真剣勝負であった。真剣勝負でなければ打開できないものだった。正直であることが人間として大人となる条件だった。それについて詮索することも必要であった。出発するには過去の清算が必要である。生まれる前からの過去の清算である。そうしないとこの現世での人生は開けない。それだけのことだった。それは過去からの約束だったのだった。それがこの世に生まれた使命だった。やっとその使命を果たすことができた。とても辛いこともあった。しかし今となっては良い思い出となったようだ。幼き頃より思い出は尽きない。いつも恵まれていた。とても恵まれていた。それらがやっと意味を持つ。あらゆるマイナスを克服するとき、プラスのみが残る。それが成仏の姿である。マイナスが大きいのはプラスも大きい所以である。克服するべきマイナスがある。そのマイナスをプラスに転じる。そこから新しい始まり。そこから人間としての人生が始まる。もうそれで良いのだと思う。もう迷わなくて良いのだと思う。見つけるべき自己がある。探すべき自己がある。信じるに足る自己がある。いつも冷静でいることですべては解決する。過去の因縁も解決する。過去の清算ができる。さすれば新しい始まりとなる。新たな一歩を歩み始めることができる。何があってもゆるすことができる。そしてゆるされた自分がある。本来の自分を見つけてそこから出発する。本来の自分に還る。それだけのことだった。そして世界に合流する。そして自由を得る。自分を解放するのは自分である。過去の過ちは過ちである。それは清算する。そして新たに歩み始めればいい。自由を得て歩み始めればいい。必ず至りつくことができる。必ず発見することができる。それが夢。もう大丈夫なのだから。これで良かったのだと思う。なにもかも心地よい。淘汰は自然にまかせれば良い。あるべき自分に戻れば良い。やっと本線復帰である。とても軽くなった気がする。何があってももう大丈夫な自分を信じることができる。何もかも背負っていた自分が馬鹿だったように思える。本当に馬鹿みたいに思える。いつもほほえんでいることができるだろうか。何があっても。これからの課題である。気分が優れていることができるだろうか。本来の自分で充足し素直でいることができるだろうか。新たな目的である。新たな夢である。自分が変わることで世界が変わる。変わるべきは自分である。世界を変えるなんて馬鹿げている。切り札はそろった。マイナスを克服するとは切り札をそろえることである。そこに自信が生まれる。自信こそ勇気の淵源である。自信とは本来の自分を信じることができることである。そのためには本来の自分を発見し確認する。自信を得れば勇気がある。何があっても負けない自分を確信する。そして余裕が生まれる。この余裕がほほえみとなる。相手或いは諸問題に対して間合いができる。必ず勝てる自分である。どうしたのと見つめることができる。発見するべき自分がある。確認するべき自分がある。自分を救うのは自分だ。自己を解放するのは自己だ。それは本来の自己の発見と確認によって実現する。その時、夢が実現する。探していたものは見つかる。はじめよりそこにあったのだ。見えない自分がいただけだ。自己は生まれながらにして十分に充足している。それに気づかない自分がいただけだ。自己発見。自己確認。自己確立。そして新しい始まりが始まる。それだけのことだった。自分が宝である。自分が宝島である。自分がわかれば全てわかる。世界がわかる。自分が優しくなれば、やさしい世界がわかる。自分は生来十分に祝福されて生まれてきた。そこに気づけば全ては解決する。自分が自分をゆるすとき世界もほほえんでくれる。自己確立の道、開かれたようである。自己解放の方法、発見されたようである。これで良かったんだと思う。これからだ。これからが私の人生である。お芽出度いことである。私の法学のお師匠は筑間正泰刑法教授である。直伝である。日本で唯一因果関係を純粋に捉える先生である。すなわち相当因果関係理論ではない。ある日先生は言われた。君は大金持ちだと。その意味、今頃になって理解している。株式投資について思うことがある。これは投資である。種を選んで育てるに等しい。自分が投資してその会社を育てるのである。あるいは誰が投資しているか。それが大切である。全ては縁である。誰と縁が結ばれているか。その会社にしかるべき縁があれば必ず開花する。この世の秘密である。世のヒットする流行とかも同じである。才能は数多無数無量である。その中からどれが開花するのか。それはすなわちだれがそれに縁を持っているかで決まる。しかし既存の下手な縁は終焉である。究極の縁が開花したからである。もはややはり問答無用である。故に時は代わったのである。御破算で願いましてはである。あらゆるマップが新しくなる。その基準は何処にあるか。新しい宝島発見の物語である。2001年宇宙の旅の食卓である。ロゴスである。ロゴスが開花した。ロゴスはこれまで息もできない時代であった。そのロゴスのさじ加減である。ユピテル(ジュピター)の秤である。故なく恣に神々の思いよりはずれ勘違い思い違い自分勝手わがまま自分解釈により奪いしものは一括返還請求である。よされである。時は満ちたが故である。一切清算である。寒き冬と愚かな夏は終わった。本来の春到来である。あなた方の時代は終わった。ここに引導を渡す。400年周期説。新しい始まりである。(RCCラジオ 文化放送 走れ歌謡曲 加藤登紀子『知床の歌』を聞きながら 2006/05/25 4:24am)ムイシュキン公爵の夢が咲いたというべきか。シャガールの見果てぬ夢が咲いたというべきか。アインシュタインもニュートンも量子力学もすべてこの開花のために存在したというべきか。ペリー来航以来日本史は世界史となった。そして、世界史はやがて地球史となる。常々将軍は存在する。群雄割拠の後にである。天の認めぬ限り天下統一はない。天に認められるために条件がある。それは何か。心身清浄。武器は変わった。時代は見えない世界にシフトし冥した。もはや時が満ちたとはこの意味である。すでに宇宙自然が証明している。天下人とはこれである。もはやどうにもならぬ。一大事は成就した。事実である。(2006/05/25 8:53am NHK-FM フランツ・シュミット (ブルックナーの弟子)を聴きながら)
2006年05月24日
さようなら
さてここまで辿り着いたわけだけれど、あともう少しのようです。今日ひさしぶりに呉市中央公園のシンジュの木に挨拶して参りました。まだまだ激しいものが遺っていることが否めません。これもどうしようもないのですが、しばらく時を待つしかありませんね。唯違いはこれまでは信じられない自分がいたのでした。今は事実として一つの確信へ至っているのです。しかしまだ自覚が足りていないのも事実です。何もかも自分が悪かったという反省がまだない。まだ誰かに責任転嫁しようとしている自分がある。一切の責任が自分であったことを認めきってはいない。しかし以上のことはすでに気づいているのです。気づいているのですがまだ他に何かを求めようとしている。水は高いところから低いところへ流れます。それを恨むかのようです。恩愛の奴ということがあります。恩とか愛とかを与えてそれに固執するなという教えです。すなわち恩も愛も高いところから低いところへ流れるのであってその逆流はない。その意味で本来絶対の恩愛であるのです。自分より上がないとしたらどういうことか。すでにそうであるとしてそれを認めない自分がいるなら何も解決しない。あらゆる善にも悪にも基準がある。その基準は何処にあるのか。それを他に求めてどうするのか。すでにそうではないことには気づいているのです。あらゆる淵源が自分自身であると。因って結晶するのを待つしかないのです。それほどまでにこの精錬は大変な作業です。あともう少しです。達成する確信はあります。ここまで来たのですから。辛くも長い孤独な旅でしたよ。すべて見られ聞かれていたとして誰が耐えることができるでしょう。それもすでに克服しています。生まれながらにしてのスタンダードの宿命です。もう少しですね。本当に自由を得るのは。自分自身を解放するのは自分自身であるという大実験です。必ず成功してお見せしましょう。悟り解脱へ至る道の大公開です。少なからず疲れてはおりますが続けることにいたしましょう。達成成就の暁には祝福してくださいね。善悪の彼岸における大戦争はあともう少しで終わるのです。そして新しい基準ができて皆が幸せになるのです。その為の磔のようなものなのです。 私及び私たちの背負った十字架です。降ろすのはあともう少しです。これでゆるしてくださいね。十の能力あってそのひとつも開花できなかったことで。 私たちが悪うございました。ここまでで私の仕事は済んだようです。あとはお任せ申し上げます。羅刹には羅刹の住処があります。帰ることにいたしましょう。かぐや姫が月へ帰るように。ありがとうございました。これでお別れです。すべて述べるべきことは述べました。今度逢えるのは何時でしょうね。また二千年先のことでしょうか。それまでさようなら。
螺鈿の槍
若さとは年齢ではなくて、若くても若くない方がいる。年老いて尚若い方もいる。若さとは情熱を失わないこと。未来へ向けて。夢があること。ピカソも五十にして青春を知った。
水脈とは何だろう。水は法。法は宇宙の約束。心の水脈がある。汲めども汲めども尽きない。
カクネンムショウ。心が晴れると空も晴れる。
歩々清風。お散歩するとお日様が照らしてくれる。
不思善不思悪。何思うなくて、頭も軽い。心も軽い。日々是好日。ただ眺めている。楽の中にいる。何もなくてそれで生きている。鳥のように。すべてゆるしている。すべてゆるされている。自尊独立。新しい時代。遙か彼方に広がるパノラマ。自然模様。人間模様。綾なしているね。走っている人がいる。急いでいるんだね。何処へ行くのだろう。心の水脈見つけに行くのかな。それとも・・・。右往左往かな。 人は人。私は私。それでいい。宇宙の秩序。これに従う。すでに知る。宿王華開花。確かに咲いている。使命は果たしたね。不言実行。咲くまでは。咲いたなら、有言実行だね。未知なる道。夢は尽きない。幼き頃より大切にされた。今もされている。気づかない自分がいるだけだった。こころの嵐。待てば海路に日よりある。冬来たりなば春遠からず。春来れば花も咲く。蝶も舞う。時代の春只今到来。こぞって花が咲いている。何千年来の花だろうね。知る人は知る。そよ風吹く。あたたかい。ほのぼのしている。これでよかったんだと思う。克己したんだね。克服したんだね。守護されている。受容されている。今も昔も。喜びの歌。遠くで鳴っている鐘の声。祝福されている。至りついたようだ。この度は間違いないようだ。幾度下ったことだろう。幾度失敗したことだろう。何時かは成功するとは聞いていた。信じて良かった。感謝。思い出は大切だよ。それで生きてゆける。明日へ向かって。トータルorナッシング。 中途半端からの脱却。強い意志は実現する。夢は叶う。命を賭けた草薙の剣を振るえば風が起こる。雷も鳴る。真実は証明される。いつかはね。真実の愛を自分のものとすれば台風もなびく。海に手を漬けて海をなだめることによってね。実験済みだよ。私の祖父は後藤(桑原)良亮と山持(山道)直三。どちらもそれぞれの道で完璧に近い人だった。それ故に私もこの道をみつけるのに苦労したね。あまりにも険しい道だった。しかし道に迷ったときには鳥に目的地の方向を導かれたこともあった。鳥が大きな獣をくわえて眼前に舞い降りてきたこともあった。You See ? 幼いアオサギが孤独な私のために舞ってくれたこともあった。まるで宮島の舞台の上での舞のように。自然が師であるね。自然が教えてくれる。そのような道もある。自然が神である。人間の計らいなんて知れてる。自然に帰ろうよ。楽しいよ。自然の中での大航海。この船に乗ってみないか。魂の遍歴。善性と悪性を持って生まれる。悪性を焼き尽くす。善性が命を得る。それが救い。解脱。ニルバーナ。祖先供養もその為にする。そして即身成仏。エデンの園に帰る。幸せだけの人生が開ける。すなわち開闢である。その為に与えられた人生である。これよりほかに道はない。その為に生まれてきている。幸せには条件がある。(2006/05/24 RCCラジオ 山口百恵 『さよならの向こうがわ』を聴きながら 5:28am)こぼれくる笑みに従う風の吹く 風ふかば やがて時なる船出かな 日本丸海王丸 夜空の星の導ける 日はまた昇る 鮮やかなる朝 目的地 遙か広がる青海の 心の地平ひらかるる こぞって贈る 喜びの歌は夜空に月となり 月は来る梧桐の上に 時を違えず咲く花の この道 誰とともに歩まむか 確かなるかな意思のあり そこに開ける道のある 宇宙生命 喜びの歌 父は復員後しばらく網走で刑事もしていたと聞いたことがある。事実は明らかではない。謎が多すぎる。 父は十六歳で海軍に志願した。その後呉に帰ってからは国鉄職員機関士であった。定年までブルートレインを牽引していた。大酒飲みで祖父より大トラという三角のマークがカレンダーにいくつも記されていた。およそ逸話に事欠かない。ある意味ではちゃめちゃ自由でおもしろい人生であったろう。父は言った。私もおまえと同じだった。おまえは大丈夫だ。私の子だ。と。祖父も自由な人だった。ルールに縛られない人だった。しかし毅然としていた。ルールは後からついてくる人だった。世間一般を常に先に超えていた。代々のことである。 私の家に家系図などない。あるとすれば広島市中区区役所にある。一本の除籍謄本に六代が記されている。どうでもよいことではある。しかし日本は日本である。卑弥呼の系譜邪馬台國である。天照らす國である。私に履歴書などない。振り向けばこの人生がそのまま時代の履歴書である。何をかいわむホトトギス有為の奥山超えてけむ。見るべきものはすべて見た。すべてゆるされる時節を迎えている。今、神々は寛大である。黄泉における神々は統一されている。議論を尽くすべし。裁可の時である。逆鱗に触れる前に。たわけた戯言(たわごと)ではない。権利の権は権狐の権、仮のものである。本権主権は譲られはしない。所詮この世は地獄である。地獄で咲け。それが蓮華華厳火裏蓮の花である。あの世のことはあの世へ逝ってからのことである。新現実生命姓名論。さて名乗ってもらおうか。黄泉の國より羅刹見参。家伝伝来秘密螺鈿の槍。常々公儀の隠密剣士はいる。闇よりの使者である。おもしろき時代となりてなりにけり。天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す。(酒中十詠序) さて誰と縁があるのか、それでこの世のことは決まる。見えない世界での縁が見える世界を決定づける。生きるも殺すも縁次第である。その縁、究極の一点はどこか。探すべし。21世紀幸福論の最重要事項である。新しい物語は始まった。新しい宝島への地図は秘された。時は流れた。放たれた幸福の矢は新羅を過ぎた。何処へ落ちるか。楽しみは尽きない。人生の醍醐味はこれに尽きる。次なる発見者は誰であるか。その喜びの声はどこから発するか。宇宙生命自然ネットワークは広がる。究極のゲームである。志願するべし。世界はパスポートを発行するべく待っている。インターネットもその一つの手段に過ぎない。見えない世界はすでに開かれている。いつも開かれていた。気づけばこちらの水は甘い。裏切ることはない。永遠の幸せが約束されている。合い言葉は何か。見つけるべし。自ら光るが良い。一度発見された星は輝き続ける。星々の世界がある。ゾンビの世界ではない。気色悪い宇宙人の世界ではない。おだやかで美しい方々の世界である。はやくこちらへ来なさいっていつも手招きしてくださっている。飛び込むが良い。必ず掬って貰える。梵天帝釈が救う。約束されている。はやく逃れてくるが良い。地獄を救うのが地蔵菩薩の御役である。地蔵菩薩はお耳が遠い。観音菩薩が伝える御役である。救われむと欲するものは挙手するべし。但し条件がある。その条件、自ら探し求め成就するべし。この世界、素晴らしい。地獄を掬うには地獄を知らなくてはならぬ。地獄に赴かねばならぬ。地獄はまた楽しい。資本はその身ひとつでいい。
2006年05月23日
真実の民主主義開花
自己同一とかアイデンティティとか言われる。その意味は何であったのか。自己の独立である。真実の民主主義の開花である。地方自治は民主主義の学校であるという。ギリシアの頃には直接民主主義だった。今間接民主主義である。間接民主主義の主体は官僚と政治家である。今に彼らのみの綱引きである。政治家は選挙より出る。官僚は一枚の公務員試験より出る。権力の淵源は国民である。公務員は単なる国民の被用者あるいはご用聞きに過ぎないことは諸公務員法に「使用者たる国民」との規定があって明らかである。国会議員も特別公務員に過ぎない。どちらも権力の主体ではない。なのに思い違いしている。勝手な解釈で国民を無視し恣にしている。国民はそれに気づかないことを良いことにである。しかし民主主義も学校卒業の時節を迎えた。真実の民主主義の始まりである。国民も目覚めた。今までは無力であった。だから三無主義でもあった。無理もない。学校であったのだから。これからは違う。国民主権の真実の意味が開花する。この意味わかるだろうか。国民も唯国民であるのではない。自己の独立を果たしたものたちが国民である。すなわち自由を得た方々である。新しい市民と言える。独立するべきは自己である。そして自己連邦を作る。これが世界である。すなわち地上ヘブンである。真実の力を得ている。その力も実験済みである。間違いない。自信を持って進むべき時である。時は満ちている。やがて月のごとくである。潮のごとくである。この時を逸する事なかれ。Ride on time ! 日は昇った。自己の花は持って生まれた自己の花しか咲かせることはできない。今真実の花が咲く時節である。すでに咲いた花もある。これから咲く花もある。今まで咲くことのできなかった花たちである。世界もこぞってエールを贈っている。自分の花を咲かせるということはどういうことか。やがて明らかとなる。時が来た。基準とすべき花が咲いた。今まで地に埋もれていた花である。誰もが心の奥底で待ち望んでいた花である。真実秘密宿王華である。日本の秘密を知らしむるためにである。目覚めよ。そして立ち上がれ。今その時節である。自己自治の時代の始まりである。個として完成して真実の自由を得た男女の世界が開花する。腐った世を土壌として。すなわち蓮華の前に化生である。心身清浄。恐れずに咲け。一切の心配はない。一切の心配はすでにある存在によって克服されている。因ってここより進むがいい。道は開かれた。この道、確かに、すでに開かれ、護持されている。進むべし。橋は架けられた。渡るべし。21世紀心の地平へ。後ろは振り向かなくていい。ロトになる。ノアの箱船である。救いの道である。心の清きもの、故に貧しきものたち、解放の時である。霊能とか占いとかの低いレベルではない。事実である。自己の内実を高めることによって新しい時代は開かれる。それは自己のエネルギーの質を高め充実することである。宇宙自然と同調する周波数がある。その周波数を発見することである。それが気となって体内を巡る。そして周囲を潤す。伝搬する。これが一隅を照らすということである。この真実のエネルギーを以てすれば動植物岩石もなびく。彼らも待っていたのである。神仏の周波数と言っていい。お告げとか霊感とかの妄想ではない。真実と同一すれば黄泉も動く。黄泉も待っていたのである。見えない世界は認められることで成仏する。そして宇宙自然が事実として証明する。およそ宇宙生命の究極のメカニズムである。秘宝である。人類の夢見た夢である。至ってシンプルである。どのようになりたいのか。どのようにしたいのか。黄泉は助力する時を待っている。その意思が確立すればどのような夢も実現する。黄泉が実現する。世の中が腐ったのは偏にリーダーの腐った心の結実である。しからばその当事者の責任は重い。人類としてどの方向へ進むのか。このまま没落するのか。その意思明確にあらざれば黄泉も助力のしようがない。身心清浄。本来の価値。進むべき道は明らかである。しからば決心するべし。迷わば迷う。確信して進むしかあるまい。信じた道があるのであるならば。相手の目を見てものは言うが良い。相手を動かす秘訣である。黄泉も然りである。中途半場では何事も起こらない。足の裏から地の清浄なエネルギーを吸収する。そして背面より頭頂へ吸い上げる。そして顔面を通し肺を通して腹におさめる。あるいは白隠のナンソである。すなわち頭の上にナンソをイメージする。それがじわりじわりとしみ出す。頭から身体へと流れる。これで治らぬ病気はないと白隠は言う。五百年間傑出の禅僧白隠の言うことである。信じて良い。こうして真実の自己が独立し解放される。21世紀はかれらの時代である。雑草腐敗文化に用はない。真実の民主主義開花である。続くべし。このたびの開花は今までとは違って、明るきからへ明るきへ、そして明るきへと決定されている。二千年来21世紀の約束である。善財童子の旅の完結である。すなわち華厳の花が咲いたのである。笑うなら笑うが良い。悲しき笑いなど笑いではない。知って初めて知る笑いがある。知らずに笑う笑いは空しい。見える世界と見えない世界との秘密はすでに解かれている。悪の根は抜かねばならない。悪であるならば。悪がはびこり善の種に気づかず無視或いは愚弄しその古来日本本来正直の種を根絶やし或いは瀕死に追い込んだ事実は事実である。今更遅い。さて真実の指導者がいれば、その方と縁を結ぶことで何もしなくとも救われるというのは事実である。因って縁は大切であり、何事も縁次第である。しかし往々にして間違った縁が実行支配している世の中である。結果当然である。ところで、やがて真実の指導者も逝去する。しばらくはその影響も遺るのであるがやがてその力も失せる。正法像法末法が大なり小なり繰り返される。そしてそうしたチカラある存在は常々現れては消える。消えたとき、その真実の指導者の後に新たな真実の指導者の出現しない限りそのサークルは過去の栄光に酔うことになる。形骸だけが遺りその中で右往左往することになる。伝説はあるので信じるのではあるが、現実の救いはない。だんだんと衰退していく中でさりとて疑うこともできず、あはれな状態となる。真実の指導者は存在して教えは説いた。それを実行することで救われる道は開かれた。しかしそれぞれの実行が真実の実行ではないのだから何も変わりはしない。リーダーの価値はここにある。そしてリーダーとはチカラとエネルギーを持った存在であり、ここに人格のどうしようもない差がある。信者はそれを目の当たりにして信じるのである。真実の指導者の条件は現実にチカラを持っていることにある。そのチカラとは宇宙有無開閉のチカラと言っていい。今真実は何処にその鳥居を築いているか。謎である。このたびのその存在はあまりにスケールが大きくて見えないが故に。見えないこの真実を信じ大切にし敬意も払うことで楽しく喜びに満ちた日々が約束される。これからはそういった時代となる。一切の邪悪は整理される。経営においてもそうである。健全な経営であれば職業に貴賤はない。正すべきはここである。健全な精神と善良な庶民の解放である。一部の既存利得主義者の時代は終わった。腐った魚は食えない。さて、ここに至っては、自分が自分として咲けばいい。詐欺脅迫とか暴力とか愚かとかもはや相手にする必要もない。始めからそうであったのであって、それが人間社会であるが、それにしては気づくのが遅かったか。しかしここまで気づかずにいてむしろ良かった。何故か。本当の力を得るには時間がかかる。木鶏となるには素材も必要だ。ここまで秘されていたのも見えない世界からの守護としか言いようがない。時は待つべきものである。素質と環境の問題がある。ここまで待たされたか。環境は最悪であった。しかしこの劣悪な環境からの目覚めである。本物でないはずもなかろう。やはり覚悟されたい。これまでのどのような人格も陳腐化した。仏法は王法に合した。王法は仏法に冥した。勝負にならない。宇宙有無開閉秘密のチカラそう簡単には手に入らぬ。歴代の約束あってのことである。あだやおろそかなかるべし。このたびの事、尋常ではない。裏街道を歩むことはない。金権選挙の実体及び裏街道のいくつかは見聞し知っている。だが大象は小徑を選ぶことはない。そのような暇はない。究明すべきことがある。すなわちコギトエルゴスム。歴代の約束の内容である。人類の夢、願い、祈りとは何であったか。責任は重大であるね。真実の民主主義は開花した。真実の国民主権の意味も明らかとなった。主権在民の意味はどうか。説くにはまだ時が早いようだ。やがてわかる。この真実秘密知るものはいない。月は流れて東へ西へ。陽水はすごいね。 トラトラトラは旗艦長門より発せられた。やはり世のわがまま勝手気ままし放題解釈勘弁ならぬ。下手な縁で繁茂したるは何者か。常に導きはある。これまでもあった。常に見られ聞かれている。しばらくは世に現れぬとしても、時が満つれば全てが開示される約束である。これが元服である。また代々の清算である。おのおのの分際が明らかとなる。過ぎ越し人生の所産である。全ては昔物語のプログラムであった。これ以上如何とするか。まだわからぬか。もっとわからせてほしいのか。何時までもわからぬならどうなるか。あはれである。これまでは信じられなかった。今となっては信じるも信じないもない。事実である。不思議ではある。しかし不可思議である。騙し取ったものは返してもらう。常々のサインを見逃さないことだ。勝手な行動は慎むことだ。如是我聞である。耳を澄ましておかねばなるまい。耳無し法一では役に立たぬ。祖父のラジオはいつも鳴っていた。トランジスタラジオであった。その電池はいつも私が買いに行って入れ替えていた。私の精神は祖父伝来直伝直道である。もはやどうにもなるまい。何時までも腐敗を腐敗のまま見逃すわけにはゆかぬ。公憤のしばらく止まず日も陰る月夜に帰る天橋立
復活
花は哀惜に散り、草は棄嫌に生ふる。どうしようもない事実である。このどうしようもない事実を枉げていた。いつの間にかである。すなわちそれがアメリカの占領政策の目的だったとも云える。日本を骨抜きにしたかった。それでどうしたか。日本の価値を殺した。しかしそうはいかない。それほど日本の価値は柔ではない。根はあった。根があれば蘇る。今その時を迎えた。これもどうしようもない事実である。しかしこの風雪は尋常ではなかった。それほどまでに雑草がはびこっている。しかしこれからである。除雪ラッセル車は動き始めている。まずは足下からである。おのおの一隅を照らすのである。本来清浄の価値、今蘇る。復活である。眠れる獅子たちよ立ち上がれ。地蔵菩薩たちよ空閑より涌出せよ。心が晴れれば空は晴れる。仮に雨が降っていてもいい。雲の上は晴れている。自分が本来の自分の花を咲かせることが人生の目的である。咲くしかない。咲けばわかる。蝶も飛んでくる。この風雪も耐えるだけの価値はあった。それだけ強く咲けるからである。生きてゆけるからである。この六十年間あらゆる文化が世迷いごとであった。その文化は終焉を迎えた。新しい文化の芽生える頃である。時は代わった。一切の牛頭馬頭には帰っていただく。この六十年間何をしてきたというのか。何に迎合し何を帰結したか。問答無用である。
2006年05月22日
開闢
魅力って何だろうね。懸命にがんばっている姿も良い。造作は関係ない。やはりその精神の方向性である。究極の魅力は持ったエネルギーの質と量である。芸術は爆発だと言った方もいた。ピカソもその魅力はその持っていたエネルギーである。そこに人格の差がある。勝負にならない。棟方志功も然り。祖父は棟方志功と同門であったと聞いたことがある。祖父の彫刻刀は遺してある。ピカソは何をしてもピカソであったはずである。世の浮かれたお笑い芸能に用はない。何時までも浮かれた時代ではない。究極のエネルギーとは何か。宇宙自然に通る力である。黄泉をも動かす力である。やがて自分が何者であったかを知る。その時までの浮かれた時代である。黄泉もこの時を待っていた。浮かれた時代はもはや勘弁ならぬ。世のセレブ及びテレビ芸能界諸氏、今生で何をしてきたというのか。黙示録。見たいのか。見たくはなかろう。時代を形成する淵源としての主体がある。それはある存在の願いであり思いであり祈りであり決定(けつじょう)である。その主体が代わった。女の時代は終わった。何故か。何故女が支配していたのか。秘密である。『2001年宇宙の旅』の食卓である。現実世界はその反射に過ぎない。禅定である。時代の大戦争は終わった。それは見えない世界で行われていた。見えない世界での統一は果たされた。本来の正統が蘇った。時は代わった。学問と聡明さすなわち知性の台頭である。因ってあらゆる愚かなミーハーの恣意的時代は現実利益を限度として処断される。不当利得一括変換請求である。見えない世界での自覚が果たされ力を得たからである。力とは変化を起こす。雲は竜に従う。時すなわち天に新たな道が開かれた。因って時の流れ及び潮の流れ並びに風の向きが変わった。開闢である。天下の大号令が発せられた。これより黄泉が動き見える世界も変わる。普遍真実真理が目覚めた。愛と平和とやさしさの世界が実現する。これを理念として新たな始まりである。これまでは夢であった。これより現実となって顕現する。これが21世紀の二千年来の約束であった。その約束が果たされた。あらゆる物語の完結である。そして始まりである。草木瓦礫も喜んでいる。日月宇宙自然が祝福している。微風が心地よい。おだやかな光さすさわやかな朝である。小鳥たちの声が聞こえる。子供たちの声が聞こえる。子供たちの子供たちの子供たちのために(プログレッシブロック)。野蛮たちよさらば。
ジャンゴ
父は映画は西部劇が好きだった。テレビでも『カートライト兄弟』とかあった。マカロニウェスタンの評価はわかれるが、しかし、そのイメージは強烈だったように思い出す。中でも『ジャンゴ』(続荒野の用心棒)はすごかった。棺を引きずって歩くぼろぼろの姿である。中にはマシンガンが入っていた。復讐劇であった。また父の膝の上で『ライフルマン』も見ていた。『コンバット』も見ていた。ここに軍曹のリーダーとしての条件が描かれていたように思う。部下の命を預かる人間性豊かなリーダーシップであったように思うが詳細は覚えていない。イメージである。ある頃ボランティアをしていた。 ヘルパー制度が始まる前の3年半ばかりであった。特別養護老人ホームでシーツ交換をしたり保健所のリハビリ(六ヶ月)へ毎週金曜日の午前車椅子を送迎したりだった。後者は家族の唯一解放される時間だとか保健婦さんは言っていた。特別養護老人ホームでの花見とかに招待されてお弁当をいただくのが嬉しかった。そのボランティアで独居老人の話し相手ボランティアもしていた。二人一組になって一人暮らしのご老人を訪ねるのだった。一時間ばかりただ子供の頃の思い出などお話ししてもらって聞く。そうしたボランティアだった。一人の老人がいた。その方は中国大陸からビルマまで最前線を戦い抜いたトラック部隊の一員だった。早くから車の免許を取り、東京でタクシードライバーだったときには2.26事件の目撃者であった。この頃ボランティアの取材があって呉市提供の5分ばかりのテレビ番組にこの方が収録された。私も参加した。さて、この方のお話はずいぶんと聞いた。ボランティアを離れて個人的に何度か訪問して聞いた。いくつかお話は覚えているがとても書くわけにはゆかない内容もある。戦争の残酷である。仲間が川へ落ちてワニに喰われた話もある。何度か戦闘もあったという。トーチカが包囲されてもうだめかと思ったこともあったという。朝になって敵がいなくなって助かった。朝とはいえまだ暗かった。水たまりがあったのでその水で米を炊いた。しかしその米は妙な色だった。その水たまりは血だまりであった。もう本当にだめだと三度思ったという。残酷な悪い兵隊もいたという。悪いリーダーもいたという。人間ドラマの集約である。その方はやがて捕虜となり芋づる一本持たされてレイバン島(死の島)へ送られた。夜中にぼちゃんと音がする。海へ何かを投げる音である。ある日、ある男が他の男の芋を掘った。皆から制裁された。この方もやがて宇品に復員した。そして一番始めにしたことは錦糸勲章を闇市で売って屋台で一杯の酒を飲むことだった。
2006年05月21日
ハーベスト(収穫)
詠人得不知 秘伝之歴史 正統大和魂 也開天定地
廣島敷島しろしめす 天下の秘事 まつりごと 民は楽しむ 納め知らずも
仏の十力とは何か。神の六通とは何か。十指はすべて渦を巻いている。神通力はある。天眼通。王の耳。見ざる、聞かざる、言わざるを以て天下泰平とするか。さにあらず。何故か。自覚を果たしたからである。すなわち覚兵衛である。革命ではない。正統である。異端を廃する。
A knight is still here now. Where is his land?
向かわんとすればすなわち背く。自信のなき所以也。しれはまよいしらねはまよう法の道、何が仏の実なるらん。自信。
仏の事、神の爾、人の字という。それでは自とは何のJIか。にしむく侍。士:四←→匹。獅子→師子。
広島大学は文理大学である。第八帝國大学である。廣島高等師範学校である。広島の地に来て大きなことを言うでない。廣島はもと安芸(ア行ア段カ行イ段:一1、二2)の國。廣島には廣島心學があった。明治の頃には大本営があった。何故か。何故ヒロシマに原爆が落とされたか。・・・(無記)。
東風ふかば主ある故春日なりけり
神仏である。仏神とは言わない。仏心とは言う。
一二三四五六七八九十 ひふみよいむなやこと
あきのなーみやーじーま まわれーばよー しちり しちりななうらよ やーれとんぼもむのぉえー
裁判において大切なのは何か。事実。その提示と範囲は当事者が決める。判断の根拠は何か。弁論の全趣旨。事実を曲解しての下手な解釈など通用しない。
あらゆるマイナスが克服された。過去は過去である。今は今である。未来は今が決める。自己の内面の大戦争に勝利したものは無敵である。黄泉が認め守護するからである。すなわちこれが新しい自由の定義である。自分を解放するのは自分である。自。高2の頃に見つけた詩がある。始まりはこの詩であった。因ってこの詩に帰り克服しなければならない。そして真実の自由となる。誰も手がつけられぬ。何故か。身心脱落。脱落身心。覿面提示。電光石火。
≪これまで知ったことが今や彼には新たなる未知の前で何でもないのを悟った。善財が行かねばならぬ道はこれからだ。(お茶の水書房刊高銀著三枝壽勝訳『華厳経』p573)しかし幼い境地ではあれ、いかなる底辺の境地であれ、異なった本性が互いに一致する異体相即は全く同じなのだ。そうしてより輝かしく燦爛たる華厳は狂気の者のうわ言とブッダの三昧を一つに見ずには、そこにすくっと構えて待っているのは地獄であるのみだ。幼い旅人はその森の深い所で泣く子供を連れて共に港に出て行った。「私と一緒に行こう」「・・・・・・」(同p575)≫
2006年05月20日
雲竜
あうんの呼吸というものがある。始めと終わりである。アルファでありオメガである。終わりがあって始めがある。始めのためには終わりがなくてはならない。さて、雲竜。雲は竜に従う。雲とは何か。雨の云う。雨は天。すなわち天命である。竜とは何か。理由である。運命にも理由がある。理由とは何か。過去の因縁である。故である。ここに新たな故を作す。あらゆる故事が究明されたからである。畢了である。因って新しく物語が始まった。過去のあらゆる物語は真実真理の宝島へ至る地図であった。シュリーマンである。そしてその真実真理は発見された。その埋蔵物は誰の所有に帰するか。発見者にである。二千年来の謎が解かれた。すなわち仏陀、キリスト、ソクラテス、孔子の謎である。真実の宝島が発見されたのである。人類の究極の宝物は何であったか。誰もが夢見ていたのではなかったか。しかしそれを探そうとしたものがどれだけいたか。神仏の護持せし秘宝である。真実真理を求め成就するための試練条件に耐えたものにそれは開示される約束であった。あらゆるストーリーの淵源が発見されたのである。再び水は流れ始める。妙法蓮華経(五字)。南無妙法蓮華経(七字)。それぞれ中心は蓮と法。蓮の草冠はいらない。仏語で南無妙法蓮華経とは生死地水火風空のことである。中心は水。水とは法である。法は現実。妙が黄泉。見える世界と見えない世界。両者そろって実相である。過去現在未来(縦)。現実人間社会世界(横)。見えない世界の祖先諸精霊魂の縦の糸(スートラ)。現在の人間関係の横の糸。これをつなぐ。誰がつなぐのか。今生きている自分である。見えない世界と見える世界は鏡のごとくである。これが十字架の意味でありメビウスの輪である。こうした真実真理がある。知らなくともある。発見されたからにはいつまでも看過できない。水は流れ始めた。塞いでいた大岩は破砕された。腐敗はやがて本来大和の清流に還る。新しい始まりである。腐敗の理由も明らかにされた。すなわち愚かさによる支配である。腐敗に対する引導も渡された。新しい一歩が踏み出された。モーゼのごとくにである。これよりほかに救いの道はない。これよりほかは外道である。続くものは続くべし。日は日出づる國日本に昇った。過去においても現在においても未来においても日本は極東オリエント日本である。現在その歴史の連続性において最も古き國である。あらゆる智慧と技術そしてその運用能力の宝庫である。この秘密の宝箱が今開かれる。人類自然宇宙世界のためにである。もはや日本の使命を自覚するべき頃である。その為には先ず為すべきことがある。その為に為すべきこととは何か。議論すべきところである。本来清浄安全国家日本の復興である。戯言ではない。胡蝶の夢も夢であるなら何時かは醒める。寝た子もやがて目覚める。頼朝は幼年時代には伊豆にいた。家康は静岡にいた。400年周期説。時代はすでに見えない世界にシフトしている。見えない世界における大戦争はすでに終わっている。見える世界は見えない世界に従う。これからそれが明らかとなる。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
柿を食べてどうしたと思われる。当時誰もが柿を食べることができたかどうか。美味しい柿を食べることができたときの感動である。その時法隆寺の鐘が鳴った。法隆寺とは聖徳太子である。すなわち法華経の真実である。鐘の音にもいろいろある。清浄な鐘の音はそうあるものではない。一陣の風も吹いたであろう。晴れたおだやかであたたかな昼下がりであったかも知れぬ。柿食え、ば・・・かきくけ、ア・・・カ行変格活用である。すなわち力である。力とは何か。黄泉をも動かす力がある。どのようにして成就するか。心身清浄。ここに人格と品格がある。この人格と品格をしばらく忘れてはいないか。テレビバラエティ界にいいたいところはこれである。これ以上愚かさの流布は控えてもらいたい。日本のためにである。あなたがたに生きる権利はあろう。しかし世を汚す権利はない。いくら視聴率はよいとしても表舞台から去ってはいかがか。見るに堪えない。
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
和歌≪百人一首≫<古今・2・春下・113・小野小町>[訳]桜の花の色は、すっかり色あせてしまったことだなあ。むなしく日を過ごし、長雨が降り続いていた間に。(私の容色はすっかり衰えてしまったことだなあ。むなしく恋に時を過ごし、もの思いにふけっている間に)。歌の一般的解釈は多かれ少なかれ人生の悲哀の確認で終わる。ウィットとペーソスが限界である。現代流行歌にしてもそれらしい歌詞の羅列はあるのであるが内実がない。理由は明らかである。作るものそして歌うものの限界である。あらゆる作品は自己の表出であり作者自身の内実としてのレベルを超えることはない。そこを超えて打って出るサムシングがない。行き止まりである。打破或いは創造がない。所詮その運命は知れている。本来生命は生きることを欲するはずである。しかるを癒しとか称して自らを慰むる。果たしてそれでいいのかどうか。活発はないのか。何故ないのか。ある意味で悲しみとして中途半端であるからだ。悲しみに死にきっていない。だから悲しみの種が遺る。遺恨である。そして再びその悲しみが芽吹く。同じ悲しみの繰り返しである。六道輪廻を繰り返す。これが俗世人間の限界である。真実はそうではない。悲しみは何故あるのか。悲しみを通してしか至れない楽園があるからである。今生で生きている間にその楽園を見つけることができるかどうか。悲しみに死にきるのであるから勇気も必要である。問題はその道を知らないことにある。探そうともしない。知らず探そうともしないものたちが指導者ぶっているところにある。いろはにお江戸散りぬるを。かつてある時いろは歌ができた。このいろは歌は真実真理を知ったものによる作であった。それで宇宙自然に刻銘された。その後、後世のものたちはこのいろは歌に規定されることになる。はじめに言葉ありきとはこういうことである。ロゴスとはこうした現象事実である。力無きものがいくら歌を作り文字にしても所詮浮き草である。究明するべきところである。真実の言葉は宇宙に通るとはこういうことである。宇宙に通るとは黄泉が認めその実現を助力する。黄泉に認められるということはどういうことか。空海は黄泉に認められた存在の一人であった。ここに畏れがある。何を以て大きなことを言うかということになる。自信を持って云えれば吉である。大夫である。やがて宇宙自然事実が証明する。
コミュニケーションについて
sayは言うこと。これは意見を言うとき。意見はよく考えて言葉を選んで相手の様子をよく見てする。speakは話すこと。言うことはある程度学問もあってよく考えることが必要だけれど、話すことはそうでもなくて、ある程度の文脈は必要だけれど、例えば幼い子供でも話すことはできる。talkはおしゃべりであって、脈絡はなくて良い。女子のよくしているのはこのおしゃべりに過ぎない。しかしこのおしゃべりこそが最大の楽しみなのは女子が好くことでわかる。まるで『ウィンザーの陽気な女房たち』である。井戸端会議である。ささやきである。経済行為において何が売れるのかという予測がなかなかつかないのは、例えば『泳げ鯛焼きくん』が何故売れたのかわからないことにある。考えることと感じることとあって、それは知性と感性の違いだけれど、この感性がむしろ大きく作用するのはこの例でわかる。日々を楽しく過ごそうと思うと、むしろ感性を磨く方がよくて、直観というのも感性の部類にはいる。感性はむしろ先天的と云えて、知性は先天性もあるが、後天的に自己に賦与することができる。だから努力ということも云えて人間の特権となる。考える力と感じる力とどちらも生きていく上で大切であって、生まれてきて生きていくことが最大の目的で、例えば戦争もそのためにする。しかし戦争もすでに反省されつつあって、先進国間ではもう克服されているのかも知れない。しかしそれでも何時起こるかわからないのが戦争で、日本もパールハーバーは奇襲だった。生きていくことが唯一の目的であるとしてそのためにコミュニケーションがある。人間であるというとき動物であることを払拭できなくて、そのバランスが大切であって、しかしだからといって動物性を前面に出しては何だか寂しいものがある。だからといって動物性としての本能を否定するのも寂しい。このあたりのバランス感覚が何とも難しい。要は相性の問題があって、相性が良ければ何だって受け入れることができるしゆるせる。そうした関係をみつけることだね。そうすればセクハラなんてない。このあたりも教育する必要があるのかも知れない。暴力とか犯罪とかもあるのだけれど、それが何故よくないのかも教育が足りないのかも知れない。無政府状態ということが暴力とか犯罪であって、人類としてすでにそれは克服していることを教えていないように思える。文化的に生きるということは平和でなくてはできなくて、戦争になれば人をも殺す。生きるということがどういうことか考えなくてはならないね。信仰の自由ということがあるけれど、これは信仰によって恣意的に迫害された歴史的反省にたつものだけれど、信仰が無価値であることを宣言したわけではなくて、現代日本人は思い違いしている。信仰は人類の見つけた生存の前提であって、むしろそれを護ろうとした。憲法理論は概念的なものではなくてむしろ歴史的なものであって、人類の英知の営みの成果といえる。それで感じるよりは考えなくてはならないものだが、感じるだけで拒否している。日本が世界に合流するためには克服しなければならないところだね。さて、そのためにもコミュニケーションだ。おしゃべりするところから始めるのが良いね。街の中で小雀のように。カラスは醜いところがあって、カモメとかツバメはスマートである。それは鳴き声にも飛び方にも現れている。しかしカラスと生まれて生きていくことでその生をまっとうすることができる。それでいいのであってカラスはカラスと結婚する。人間が複雑なのは同じ人間でありながら様々な属性を持っていることにある。ある日突然犯罪を犯したりする。人間が暴力の時代を経てきたからでそれがある日突然出てくる。これを制御しての文化であってすなわち文化とは平和である。人間が殺す力を持っていることを自覚しなければならない。究極は神仏の守護を知るところにあるとしてもそこへ至る道は険しくて遠い。平和と穏やかさの価値を自得するまでの旅がある。人類も長き道のりを歩んできた。野蛮は嫌だから克服してきた。物質的豊かさを求めるのもわかる。やがて精神的豊かさを知る。そして救われる。救われるときその過程はさまざまであっていいのだけれど例えば仏陀によって中道が説かれている。しかしその中道も仏陀自身過酷な修行を経験した上でのことであった。彼によって一つの結論として中道が説かれたのだとしたら、そこから始めるのがいい。目的は平和と穏やかさの中で動物としての人間としていかに文化的に生存しその生を全うするかにある。生きることの楽しみがある。生きていて良かったと云える。生まれて良かったと云える。あらゆる苦悩もそのための試練であったと知る。そうした人生がある。何をしてもいい。自由である。やがて太陽も燃え尽きる。宇宙があって銀河系があって太陽系があって地球があって月がある。これが宇宙の秩序である。輝く星もあれば彗星もあり惑星もあり衛星もあり塵もある。そしてそれぞれ進化している。人間も人間社会も人生も同じである。輝くものもいればこれから輝くものもいる。星たちである。スターである。道しるべとなる。そして人類としてここまで辿り着いた。法華経第七品の化城からさらに進むべき時である。今生命体としてその座標はどの位置にあるか。そのマトリクスの中で自分はどの位置にいるのか。汝自身を知れとはこういうことだった。人間としての分際を知るとはこういうことだった。なのに本来の価値あるいは品格を無視あるいは愚弄して腐敗に至った。そして自分の生来のエネルギー及び現人生過程で開発した技術は何か。道元の山も運歩するとは宇宙生命の秩序であり、位置であり、エネルギーであり今世での成果である。来世へ何をバトンタッチするのか。伝えるべきものがある。開発するべきものがある。最も遅れて精神的なものが進化する。すでに仏陀、キリスト、ソクラテス、孔子の至っていた世界がある。われわれも続かなくてはならない。やがて還るべき宇宙への旅をしている。その旅において先駆者は常々居る。見えない世界と連動した魂が存在する。エクスパイアしている。あるべき道を指し示している。見るものは見るべし。聞くものは聞くべし。幸せ世界はある。その宝島を発見したものたちがいる。蓬莱山である。かれらは確かに見つけている。疑う事なかれ。言葉は本来ロゴスであり宇宙に通じる。言葉は技術である。言葉は本来音楽である。妄念止むとき言葉は音楽となる。身体頭脳の奏でる音となる。身体精神が空じられて言葉は鐘の音となる。宇宙自然生命身体精神魂神仏が一体同調する周波数がある。自己が空ぜられて成就する。事実は知性。感性が事実と一致する。即是眞實證明。即非にあらず。ここに論理がある。A = B、B = C → A = C。言葉では言い尽くせぬものがある。この言い尽くせぬものを知性は論理で説明する。感性は音で表現する。小説も本来そのための装置に過ぎない。ソナタ形式をはじめあらゆる形式はそのための手段である。過去の蓄積を学びそれに何か一つ付け加える。それが人の営みである。愚かな文化に甘んじ迎合しすぎた傾向は反省されなければならない。魑魅魍魎牛頭馬頭悪魔小悪魔は去るべし。故なく侵略したりし雑草は刈り取られるべし。雑草には雑草の位置がある。孔子の公憤天命下るときである。宇宙生命自然真実真理普遍天下無敵大和魂の城砦はかくも神仏によって秘密護持されていた。腐敗衆愚の輩どもに指一本触れさせはしない。古きものさりてあらたに音ありて日々生きて聞くはこれなり(2006/05/20 9:51am NHK-FM岡田将(まさる)メンデルスゾーン『無言歌』を聴きながら)さて我が人生悉く裏切られた。それも宿命であった。通らねばならぬ道であった。しかしここに至ってすべてわかった。過去に我及び我らを裏切り勝手し放題せしものたちに言い置く。黄泉にて待つ。赦しはしない。
2006年05月19日
For whom the bell tolls
失われた何か大切なものがある。浮かれた世の中に孤独三十年真実最終大戦争を戦っていた存在が居る。心の中の大戦争である。浦島太郎である。なにをかいわむ浮き草の水面に繁茂空しき悪種世のセレブ。Loveとは純粋無垢心身清浄。汚れた大人に用はない。神は正直者のこうべに宿る。マリアは処女。処女の子が正直の条件である。キリストはその純粋精神である。汚れたものたちの文化は淘汰される。宇宙自然の掟である。もはや反省するも遅い。おのおのその運命を甘受するべし。過酷な時代である。真実真理は存在する。汚れた人間の計らいを遙かに超えている。唯畏るべし。新たな時代は祝福されている。一つの失敗の時代の幕が引かれた。出直しである。400年周期説。旧約聖書に秘められている。新しき種蒔きの時である。トルストイの『戦争と平和』には主人公と評するに足りる存在が500人以上出てくると言われている。中でも両雄はアンドレィとニコライである。そしてニコライは告白する。私は二度間違いを犯したと。その間違いとは何であったか。愛=loveに対してであったであろう。Love ゲームとはテニスにおいてゼロ得点ゲームである。つまり空であり無である。男女の愛もトータルorナッシング。愛とは絶対である。そうしたものである。世の風潮に愛は永遠である。しかしその愛の本質を知るものはいない。愛を歌えば流行歌もヒットする。しかし彼らの愛は知れている。何故か。心身清浄を経ていない。トルストイは晩年になって自らすべての芸術を否定した。何故か。小林秀雄が晩年になって神仏に対して人間の分際に気づいたに等しい。彼の『本居宣長』も宣長を語り尽くしてはいない。映画 『誰がために鐘は鳴る』をみた。今のハリウッドなど語るに落ちる。真実は那辺にあるか。誰も知らない。如来は如来でなければわからない。法華経がわからぬ所以である。世の学者の解釈などに用はない。大嘘である。真実とは何か。永遠の謎である。神でなければわからぬ。神となってみなければわからぬ。人間のおぞましさ、知らしむるべし。神となるには神の種がある。何処にあるか。自らのDNAに尋ねるが良い。 神とは心身清浄を以てその属性とする。姿は見えぬ。光のようである。因って鏡に映す。如是相。己の相に神が見えるか。もはや時は満ちた。時が満ちるとは悪が満ちることである。悪が満ちて花が咲けばその時摘み取られる。もはや遅い。おのおの観念するべし。ゲームは終わった。あなた方の信じた道と実践は間違いだったね。勝利者は誰か。そして新しい物語が始まるのである。田舎侍の末裔などに用はない。城代家老の系譜である。上田男爵も眷属と聞いている。しかし孤高の松である。虐げられていた。世の衆愚たちにである。黄泉の国より見参である。幾たびか下る蒼龍の窟。如意摩尼宝珠も取ってきた。覚悟されたい。世の腐敗。時を待っていた。あらゆる謎は解き証明済みである。黄泉も従えた。天下はいかにして動くか。見たいか。それでも大口をたたくか。この人生尋常ではない。金剛杵。螺鈿の槍。すでに力は得ている。それでも逆らうか。時代はすでに見えない世界にシフトしている。見えない世界の統一は果たしている。全軍すでに配備完了している。まだわからぬか。誰が為に鐘は鳴っているのか。祇園精舎の鐘である。聞こえぬか。一切大衆のためにである。一部の俗悪セレブのためにではない。・・・また羅刹がほざき始めたか。大山椒魚か。あるいは鯰の寝返りか。鯰の夢か。どうでもよいことである。自由は自由が切り開く。愚か者及び裏切り反逆者並びに身分の上に安住する傍観者及び金権選挙による指導者に用はない。腐った世に未練はない。祖父は男子校訓導。父は予科練教官をしたと言っていた。この意味だれにもわかるまい。ところでモーツァルト交響曲第三十五番、スゥイトナーがドレスデンを率いて本気になったらすごいね。汽笛一声。鶴の一声。浄瑠璃とは何をテーマとしているか。誰を淵源としているか。誰も知らない。見えない世界をあなどることはできぬ。世の勝ち組たちはあの世で裁かれる。黄泉の定めである。掟である。大和は因って出雲が怖い。浄瑠璃は続行中である。真実真理を知らずに大きなことは言わない方がよい。すべて見られ聞かれている。見えない世界で現代浄瑠璃の台本が常に書き続けられている。それがエクスパイアである。世の芸術はそのインスパイアに応える。およそこのメカニズム、世に初めて顕現した。秘密宇宙生命真実真理宿王華開花。時は代わった。
2006年05月18日
真実男女平等社会論
どうしようもない感性の違いがある。佐藤愛子氏のかつてより指摘するところである。本来男女平等。考える力は男の属性であり、感じる力は女の属性といえる。日本において女性が解放されたのは戦後のことであった。それまでは経済としてのパイが小さかったので女性の社会参加は制限されていた。今十分にそのパイは大きくなり、女性の社会参加が果たされた。しかしその間暗中模索試行錯誤であった。考えることと感じることが錯綜した。それぞれ善性としての属性と悪性としての属性がある。それぞれ花咲き結実した。結実してその種がわかる。これよりその選択である。そして再び蒔く。新しい時代の黎明である。ある意味で天地開闢である。奴隷が解放されたのはリンカーンによってであった。それは海賊キャプテンドレイクによるアルマダ海戦における勝利より始まった。人類の自由範囲はこうして拡大してきた。新しく自由を得た階層が成長していく。その途中にははしかもある。ワクチンも必要である。育てなければならない。しかし新しく自由を得たものたちは悪性を含んでいる。その悪性が整理される時節である。新しい時代のためにである。これより真の男女平等社会となる。それぞれが知性と感性との高度の融合を果たす。パラダイムはこうして代わる。本当に楽しい時代の到来である。楽園は近い。人類としての自由解脱社会幸福論である。過去より代々探し求めていた宝島が見つかったと言うべきか。その王国が建設される。王国である。個々の存在男女がそれぞれ王である。その連邦である。国家レベルでの連邦はあり得ない。個人レベルでの連邦こそ実現可能な連邦である。レベルの高い個人男女平等社会の出現である。それが世界である。その世界への居住条件は何か。その社会の住人に認められることである。そのための新しい社会契約論がある。守るべきルールがある。若きものたちはこの世界を目指すべし。 教育もこの社会のためにその基盤を形成するべし。本来の価値の未来へ向けての見直しである。愚かな時代は終わった。腐敗も必要であった。新しい種を得るための土壌であった。正直であるが故に虐げられていた、目の輝きを持つ男女が解放される時節の到来である。正直者が馬鹿を見る時代は終わった。真実を見抜くものたちの社会の出現である。高度の知性と感性とが結婚する。日月合して明るい。陰陽合一である。+極-極つながって灯りは点る。その種は何処にあるか。くまなく探し育てるべし。
楽しみに女なし男なし:男が楽しいと思うことは女も楽しい、娯楽に男女の差はない、との意。★As deep drinks the goose as the gander. What is sauce for a goose is sauce for a gander. A mare's shoe and a horese's shoe are both alike. (創元社刊『日英比較ことわざ事典』)
2006年05月17日
幸せの条件
誰もが幸せになりたいと思っている。そのために日々生きている。幸せの条件って何だろう。一般的には何よりもお金かと思う。それで毎日仕事をしている。ここで禅の観点からすると二十四時に使われているとする。禅は二十四時を従えることを言う。人間存在の本質は魂であり、肉体はその化体にすぎない。あたかもヤドカリのごとくである。魂の遍歴があって本来清浄を目指して旅をしている。鮭が生まれた清流を目指すに等しい。また現在の資本主義及び民主主義であるが究極絶対のものではない。現段階の人類による選択に過ぎない。それらは幾多の反省の上に選択されたものである。資本主義はおよそその理念をカルバンより始まった。それまでは利得することは罪であった。資本主義は取引行為を基盤としていて取引である限りある程度の欺罔が許されている。利益を上げる根本メカニズムは欺罔である。しかしそれを限度を超えて行使する方々がいてその程度に応じてセレブとなる。正直に生きる限り利得できない。民主主義も唯一絶対の制度ではなく現段階において他のどの制度より優れているとするに過ぎない。それぞれの幸せを目的とした制度である。しかし所詮人間行為である。やがて矛盾も生まれて大きくなる。そして弊害もある。そうした弊害が無視できなくなると軌道の修正も必要だ。幸せの法則として自分だけが救われても周りが救われていなければその中の自分も幸せではあり得ない。一切大衆を救うのが仏の意思である。周りが幸せになることで自分も必ず幸せになれるからである。すでに大人は自分の理念に縛られている。むしろ若き健全なものたちはさらなる幸せのメカニズムに気づいている。議論するべきところだ。さて、周りをゆるすことはどのようにしてできるだろうか。自信とゆとりである。自信とはどのようにして得られるだろうか。常に神仏の守護がありその事実を認識しそれを信じることができて神仏を信頼し身を委ねることによってである。この自信ができれば常に精神的ゆとりができる。相手をゆるすことができる。相手をゆるすことができるようになれば自己の心身がさらに精錬されていく。あたりまえに生きることができるようになる。思い煩うことは一切なくなる。本来無一物。煩うべきことなどない。小鳥のごとく日々食が与えられていることに気づくだろう。そして日々幸せに生きてゆけるようになる。目指すべき理念である。利得するために欺罔を手段とする限り救いはない。お金は寿命を削って得たものである。命の代価である。命を削ることは命に傷をつけるに等しい。鶴の恩返しは自らの羽で布を織った。人間は自らの命を削ってお金を得ている。命を削るとは精神的に傷つくことである。精神の自由こそ本来目指すべき自由である。資本主義的行為はむしろ精神を縛らざるを得ない。労働形態が労働力を売って対価を得ているとき自由ではない。そうしてあくせくしている。清貧こそ自由の条件である。貧学道は道元の示した方法論であった。貧しいということは精神的に豊かであるための条件である。自由を得る。与えられた時間をいかに使うか。二十四時に縛られていないか。むしろ時を従える。妙法華経においては時とは天であり神である。幸せの形とは本来の自己の花を咲かせることである。それぞれ持って生まれた種がある。その種はDNAとして様々持っている。その中からどの種を選択しどの花を咲かせるか。自覚することが必要だ。できるだけ美しい花を咲かせたいものである。それは自分が自分になることである。隠された自己の発見である。そのための旅をしている。そのための青春である。大切に育みたいね。日々の思念と行為で人生は形成される。今の自分はこれまでの自分の人生の成果である。本来の自己及び過去の自己に恥ずるところのないない今の自己でありたいね。持って生まれたものの中には悪性もある。その悪性は焼き尽くす。そして美しい自己を形成する。本来の自己をさらに磨く。宝石のような自己となる。ここに人生の醍醐味がある。人生は与えられたすばらしい一個の素材である。できるだけ芸術的に美しく形成したいね。腕の見せ所だ。人生楽しむにしくなし。タイムイズマネーが現代の理念である。それでビジネス至上となった。しかし本来大切なのは何だろうね。時は寿命即ち命だよ。生命が真に欲しているのは何か。時である。精神的自由である。それを獲得するためには何が必要か。命とすり替えるべきはお金ではない。時である。その得た時で何をするか。人生は楽しい。限りなく自己を精錬していく。笑顔がこぼれてくる。煩いがなくなってくる。あらゆるものがその存在価値を得る。草木悉皆成仏である。美しく見えてくる。ここちよくなる。新しい仏説がある。すなわち権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅ぶ、唯法力あるのみ。権力は市民革命によって克服された。日本もペリー来航以来いくつかの試練を経て世界に合流を果たした。武力は原爆によって克服されつつある。日本は唯一の被爆国としてジェンナーのごとく使命を果たした。今金力が克服されるべき時である。そのための戦いが開始された。この戦いの勝敗はすでに決まっている。宇宙自然神仏の意思と力を得た存在が立ち上がるからである。万軍の主も味方につけたからである。そして法力が庶民のために開示され賦与される。かつて天より火をとってきた神の仕事に等しい。人類が幸せとなる条件である。時は流れた。21世紀の約束である。その戦いにおいて日本に使命がある。日本といえども選択を誤れば歴史の流れに淘汰される。法力は神仏が守護し見えない世界に秘守されていた。いよいよ庶民のために顕現する。法力とは宇宙有無開閉四大原動力である。神仏に受容され神仏に祝福され守護されて健全な思いが実現する力である。心身清浄を以て成就する。それが本来の大和魂であり、自然の満ちた國、日本に秘されていた。日本が唯一古来歴史古き所以である。ここに日本の使命がある。これも認識しなくては意味がない。時は代わった。時が代わったとは時が満ちたことである。時が満ちて如来が如来を自覚することができる。その時までは秘密である。法華経はこれを伝えていた。 日本は四季自然に満ちている。自然が神である。我は海の子である。地球の子である。See the sea and seasons ! (NHK-AMを聞きながら 2006/05/17 9:53am)ところで、ジョークとウィットがある。すでに世界上流社会はジョークとウィットの社会である。日本も本来のジョークとウィットの社会となる。それはゆとりの表れである。ゆとりの淵源である心身清浄の具体的方法論はすでに日本にある。それを実践してより上質なジョークとウィット文化社会が生まれるだろう。程度の低いいじめの転化したお笑いの跋扈にはbe boredである。さて孤高の松。失われた大和の精神が復興する。正義は勝つ。正統と異端。本来の価値が復活する。歴史はこうして流れる。天下泰平。苦しい時代は終わる。そのためのしばしの腐敗であった。古来大和が蓮華の前に化生する。言葉は語るべきものである。意見は言うべきものである。speak say talk。言葉はコミュニケーションの手段である。大切なのは関係である。どうしようもない相性もある。一個の存在として自由を得て生きる。幸せの条件である。好きなことをして生きていく。諸結果は甘受する。自由は結果に対しては自己責任だね。
2006年05月16日
新たな出発
気づいてみると苦節芥を払うこと三十年だった。失ったものは大きかった。得たものも大きかった。失ったものに比例して得たものがあったというべきか。かつての轍は踏まない。犬死にするわけにはいかない。本来の自分に戻るしかない。自分以外に自分はあり得ない。本来の自分とは何か。所詮自分探しの旅である。思い煩う事なかれ。思い煩いすぎた。本来思い煩うことなど何もない。本来無一物である。人生は何のためにあるのか。ただ楽しむためにあるのか。楽しみとは何か。白楽天がいた。太公望がいた。怠惰或いは怠慢だったのだろうか。そうでもない。このようにして探すしかなかった。何を探していたのか。夢は何であったのか。誰も教えてはくれなかった。自分で見つけるしかなかった。振り返れば地獄だった。地獄は内面であった。およそ想像を絶する嵐であった。その嵐は長かった。ヨブ記のようであった。今生での救いはないのかと思った。しかし真実は良くできたものである。耐えられない試練はないという。すべては試練だったのか。それにしては過酷であった。運命と言うには残酷であった。失われたものが大きすぎた。しかし今思えばこの道を通るしかなかった。やがていつか至る。何処へか。自分の求めていた世界へである。その究極は何であったか。釈迦、キリスト、ソクラテス、孔子の世界だった。彼ら何するものぞ。彼らの言いたかったことを知りたかったのだろう。そのような大それたことを思っていたのであろう。その代償は大きかった。しかし何時かは至る。その導きもある。それが真実だった。経験を通してしか至れない。江戸への道も一歩からである。現実は黄泉の反射に過ぎない。ある存在の魂と連動している。ある存在とは何か。コギトエルゴスム。思うということはどういうことか。思いが実現するレベルがある。悟る前からあり、それらは知らしめんがためにである。何を知らしめんとするか。自己である。自分である。自分とは何か。持って生まれた種がある。教育で教えることができるのは下位の種に対してである。誰も知らない上位の種がある。この花を咲かせることは難しい。自分で咲くしかない。咲いてみればわかる。自分がわかる。醜いアヒルの子であったことも富士がどうして高いかもわかる。富士が武士道の象徴である。すなわち大和魂である。武士でないものに富士はわからない。大和魂はわからない。わからぬものたちが愚弄する。咲いてみなければわからない。咲くまでは地獄である。コノハナサクヤヒメである。このようなことを言っても無意味かも知れぬ。しかし誰かの一里塚となるのかも知れない。そう思って書いている。あらゆる解釈が不毛である。あらゆる解釈が気に入らなかった。世間虚仮。それでも世間は自己主張する。間違っている。なのに正当化する。あはれである。そして傷つくのはいつも自分だった。それが醜いアヒルの子の実体であった。しかし目覚めると世界が逆転する。その時までの試練である。もはや敵はいない。不思善不思悪。もはや過去は振り返らぬ。目覚めることで一つの清算である。これより新たな出発である。もはや惑わされはしない。負けることもない。長い青春であった。最長不倒距離かも知れぬ。刃向かうものには容赦ない。時は流れた。武器も変わった。見えない世界での大戦争の勝利者は誰か。先駆である。一番槍である。螺鈿の槍である。後に続くものは続くが良い。無視するものは無視するが良い。それぞれの問題である。呉湾は第二溝渠である。雲は龍に従う。広島城は鯉城である。広島は安芸の國である。國とは大地と人口を戈で護り囲いをなしたるものである。その中で民は豊穣を楽しむ。衆愚の腐敗ではない。日は昇った。はじめに言葉ありき。真実の言葉はロゴスである。ロゴスは画餅ではない。ロゴスは黄泉が助力実現する。学者諸氏の弄ぶ概念ではない。天中天。天王仏。空王仏。威音王仏。腐敗した衆愚は顔を洗って出直すが良い。如是相。お里が知れている。個人情報保護法を以てしても隠せはしない。すべて顔に書いてある。目の輝きが通行手形である。目の輝きは過ぎこし日々の思念と行為との結実であり人生の証明である。衆愚の支配勝手は終わらねばならぬ。詐欺脅迫暴力など言語道断。一切言い逃れはない。言葉の真実は言葉の表層ではない。見抜くべし。声の音色を聞けばわかる。風の音にぞ驚かれぬるである。磨かれ続ける代々の声がある。
ある存在が自覚を果たしたことの意味
さて日本経済が上向いてきたのは何故か。改革の故か。何故改革しなければならなくなったのか。すべては知らしめんがためであった。ある存在の自覚を促すためであった。歴史の流れである。その意味では予定されていたことだ。それを自分たちの改革の成果であると思うは何たることか。どれだけの力があって言っているのか。経済が上向き始めたのはその流れの中である存在が自覚を果たしたからではなかったか。結局そのレベルが知れてるね。日本は大丈夫だよ。あなた方の故ではない。あなた方は風見鶏に過ぎない。風はどこから吹いてくるか。風はどこへ向けて吹くのか。誰も知らない。事実としての腐敗がある。問題はこの腐敗をどうするかである。選挙にしても今に金権選挙ではないか。地方に不似合いな道路がある。確かにおかしな空間に突然立派な道路ができていたりする。できた道路が重要なのではない。その時その場所に仕事があったということが重要である。すなわち労働力を売って生きるしかないものにとってその時その場所には生活があったのである。今地方の商店街はシャッター通りとなった。庶民の生活が消えている。一票の格差を言う。その一票は人間の頭数である。政治は何のためにあるのか。人々の生活=くらしのためにある。人間だけで生きていくことができるか。消費地に過ぎない都会だけで生きてゆけるのか。生産者としての田舎がなければ米もできない。一票の格差を言うとき人間の頭数しか考えない。田畑にも票を割り振ってはいかがか。わずかなレートで良い。田畑に貢献する竹木虫土にも割り振ってみると良い。人間のエゴ。思い違いの故の腐敗であろう。自分の不利益となればあらゆる他の犠牲及び迷惑を顧みない。その基準は唯一金銭である。悲しいね。金銭地獄の中で蠢いている。空気がお金で買えるか。風を起こす力があるか。自覚を果たさばささやくだけで歩々清風である。十六の頃より探し求めた道である。芥払うこと三十年。しかし自覚を果たしたとしても辱悪の世界に棲息している。つらいことはつらいね。まだまだ道は遠いか。周りが幸せになることでその中にいる自分も幸せとなる。一切大衆が救われなければ自分の救いもない。衆生病む故に我病む所以である。やはり菩薩道しかないか。大乗菩薩道は日本にしかない。善財童子の帰還は浦島太郎であり、本来の自分即ち心身清浄に還ることである。これを知っているのは日本だけである。だが、しばらくむしろ愚弄されていた。そしてそれを流布し庶民を惑わすのがテレビ界バラエティ及びドラマ諸氏である。間違っている。その腐敗の増殖は終わらねばならない。一切大衆を救うことに決めなければならない。一切大衆とは竹木虫土岩石を含む。祖先諸精霊を含む。仏となって初めて仏がわかる。仏とは五大元素すべてプラスに転じた状態である。邪悪な人間は何をしても無価値である。動くハウルの城は城のゾンビか。日本の城はゾンビの城ではない。日本の恥を売るべきではない。恥を売って外貨を稼いでどんな結果が待っているか。そのお金で何をするというのか。さらなる腐敗を招くのみか。野獣メジャーが日本を狙っている。新日本海防論が必要であるのかも知れない。ある存在があるチームを熱烈に応援していた。その頃そのチームはとても強かった。その後彼の興味がなくなった。そのチームは弱くなった。ある存在とは何か。宇宙のフォーカスである。
格好について
格好だけよくて中身がなくては見抜かれる。やがて飽きられる。中身ができてからは格好も大切である。男子諸君こころすべし。ある人が貧しい格好でパーティへ出かけた。だれも相手にしなかった。彼は家に帰りモーニングを着込んで再びパーティに参加した。あらゆる人が彼に媚びた。彼はモーニングを脱いでモーニングに言った。食え食え。この逸話をどう解釈するか。一般的な解釈では外見にとらわれることに対する警鐘であろう。しかし如是相である。第一印象である。人間関係の淵源である。一般的解釈は事実を無視している。良い格好をすれば良い人間関係ができる。入り口となる。その後は中身即ち実力の問題となる。入り口としての格好がある。この格好がなければ入ることもできない。威儀即仏法。見るべきは菩薩の姿である。宝石で荘厳されている。人を救うには人との人間関係が要る。入り口に入れてもらうには格好が要る。救うことが目的である。格好が目的ではない。中身のない人の格好は無意味である。さて芥を払うこと三十年。やがて至るべき世界がある。魂の精錬である。輝きを得て金剛宝剣となる。斬れぬものなどない。この剣を振るえば黄泉も動く。如来の神力も目ではない。虚空をも斬る宝剣である。黄泉をも動かす。真実の精神一刀である。また、背負った重荷は下ろすが良い。はじめより重荷を背負わぬは話にならぬ。そして自由は自由が切り開く。幸せの王国の建設はすでに静かにしかし確固として始まっている。見えない世界に通じる文理真正の文字もすでにある。時代の大将棋はすでに都詰めである。キリストが何故処刑されたか。彼が神力を示したからだ。中世における魔女裁判も多かれ少なかれ彼女たちの示した神力によるのであろう。ソクラテスもそうであったのかも知れぬ。故に毒杯を仰がねばならなかったのだろうか。ここを吉田健一氏は天才は自分が天才であることを知ってそれが何でもないことに気づくと言う。 男と女。したたかのは常に女の方である。男が女を選ぶのではない。はじめに女が男を選択する。そして男が選んだように仕組まれる。男から選ぶように仕向ける。辱悪の世界に棲息することはつらいことである。このつらさの癒えるのを待つしかない。何事も赦すことである。他を赦すことで自分を赦したことになる。菩薩道を歩めばやがて仏道へ至る。お楽しみはそれからである。仏の顔も三度まで。仏がただ優しいと思うは妄念である。仏はあるときは鬼である。宇宙自然をも従える。完全な力を持つものとして仏である。自分勝手解釈は通らぬ。分際は知るべきものである。分際については小林秀雄も晩年になって気づいた。畏れは知るべきものである。すべて思念も含めて黄泉より見られている。試されている。日々の思念と行為に対するサンクションはある。それは突然やってくる。事実に対する法則通りである。
2006年05月15日
新しい始まり
一つのステージが終わると新しいステージが始まる。さよならは別れの言葉である。一つの別れがあって新しい出会いがある。振り向かないことだ。ロトになる。新しい始まりのためには一つの終わりがなければならない。人生には時々刻々課題がある。その課題を仕上げて次の課題が来る。人生とはそうしたものである。中途半場はいつまでも次の始まりを迎えない。おわりがはじめである。今こころの美しいものたちの始まりである。ムイシュキン公爵たちの時代の始まりである。そのためには腐敗は終わらねばならぬ。世のテレビはすべて腐敗である。腐敗は腐敗のままでいるがいい。腐敗を相手にしない新しい芽が出ている。こころの美しきものたちは目がちがう。どんよりと曇ってはいない。むしろ鷹のような目をしている。しかしやさしい。どう猛であるがやさしいのである。それが真実のやさしさである。愚かな目をした輩など本来相手にならぬ。一掃しようと思えば手段はいくらでもある。だがしない。だからといって赦したわけではない。それぞれおのおのの問題であることを知っているからである。思い違いなきことを願う。ところで、人間がまるくなるという。これは角が取れて成るものと思われている。しかしそれでは人間として縮小するではないか。むしろ自信を持つことでやさしくなる。人間として大きくなる。積極的になる。いつでも戦闘状態に入れるのであるがやさしいのである。いつでも勝てるだけの自信を持つことで自分より弱い相手に対してやさしくなる。強いが故にやさしい。これが男のやさしさである。女とは違う。しかしこうしたこともいつの間にか骨抜きにされた。アメリカ占領政策の故か本末転倒してしまった。嘘を当然とする女社会となってしまった。そして思い違い勘違いの輩が大きな顔をし大きなことを言っている。それで腐敗し訳のわからない犯罪社会となってしまった。本来男に嘘はない。なのに欺罔を以て本来の価値を無視愚弄し健全な魂と善良な庶民市民を喰い物にし詐欺及び脅迫が横行はびこる商業資本主義ビジネス至上社会となってしまった。戦後経済至上主義の限界が明らかとなった。身分に安住した指導的立場にあるものたちが自分たちとは関係ないと思い違いし愚かにも傍観したからである。結果腐敗に荷担し腐敗を助長し腐敗をあおった。あおり罪である。刈るべき雑草を刈ることを怠ったのである。間違えた自由の名の下に雑草がはびこった。雑草がはびこれば本来咲くべき花は咲かない。事実腐敗させたその責任はとってもらう。日本腐敗化傾向の危機を避けるための最後最善の手段は面舵いっぱいである。本来の大和魂及び大和撫子への精神的回帰である。日本は世界の英知の宝庫であり技術もある。そして古来日本の精神こそ世界を救う精神である。日本の価値はその歴史の最も古きところにある。古代エジプトの末裔もローマの末裔もいない。ヨーロッパはゲルマン民族大移動後のことである。中国も王朝が何度も入れ替わっている。一個の國としてその歴史は日本が最も古い。古ければそれだけの蓄積がある。日本の本来の価値が見失われて久しい。流行の病に冒されて久しい。日本精神復興は世界人類のためでもある。ヨーロッパの没落はすでに19世紀に唱えられた。このあたりで軌道修正である。西洋と東洋との真の合一である。そして新しい始まりとなる。始まるためには終わりがなければならない。一つの時代が終わらねばならない。時は満ちた。歴史はふりこのごとくである。また大河のごとくである。個々の人間の計らいとは関係なく流れる悠久の流れがある。そこには宇宙自然の意思が働いている。その周波数に同調し修正する頃となった。あまりにも愚かな微分傾向である。本来の目的及び価値を見失った輩が跋扈としているからである。新しい始まりである。経済は下部構造である。経済が大切なのは云うまでもない。その経済の基盤の上に上部構造として何を構築するべきか。それを考える頃となった。自由競争の実体は弱肉強食でありそれが経済の指導理念である。これはすでに克服されている。そのための社会契約論であった。そのためのルールである。上部構造は弱肉強食が指導理念ではない。21世紀、未来へ向けて文化文明のパラダイム転換の頃である。ヒントは本来古来の価値の見直しにある。ここで選択を誤れば日本といえども歴史の大河に淘汰される。しかし日本精神は間違いはしない。ここに大和の秘密と使命がある。やがて歴史は流れる。その流れを塞き止めている腐敗という実体としての大岩は砕かれる。その一穴が開けられた。そして再び清水が流れ始める。そして國は再び豊穣の時節を迎えるのである。民は喜び歌うだろう。自然咲きそう大和の秘密である。自然が神である。こうして新しい時代は開かれる。負けるな一茶これにあり。一揆ではない。サ行変格活用。為すべきことを為す時節である。為せば成る。為すべきこととは何か。
2006年05月14日
アオスジタテハ
愛を語るハイネがいました。言葉を選ぶそのリズムがハイネでした。蚕のように言葉が紡がれるのでした。言葉はこころのリズムでした。こころから流れてくるのでした。堰を切ったように流れてくるのでした。それはルソーの『告白』のようでありました。つらい時代もありました。醜いアヒルの子だったり青虫の頃だったりするのでした。しかしやがてサナギを通って蝶になるのです。蝶になれば自由に空を飛ぶのです。 ひらひらと見えますがふわりふわりです。風に乗って飛ぶのです。暖かさに身を任せて。先日みなとの岸壁のあたりでアオスジタテハが飛んでいました。良寛さんのこころが飛んでいました。明るいこころが飛んでいるのでした。楽しい昼下がりの情景でした。カモメが一羽平行に飛んでいきました。いつもの散歩道でのことでした。
今宵は静かことのほか もう戦いは済んだのだから 鬼退治はおわったのだから 見えない世界は平和だよ だからこれで帰ろうよ 楽園へ みんなやさしくなれる時代です もう奪わなくてもよい時代です 裏切ることがどんなにつらいことになるかもわかったのだから 真実は限りなくやさしい 身をゆだねていいのです みんな幸せになっていいのです いく時代かありました やっと克服できる時代です もうこれでいいのです
2006年05月13日
一つのステージの終わり
すでに一つのステージは幕となったようである。すなわち善財童子のように、あらゆる師との対決が終わったと云うべきか。この世の真実真理を見たというべきか。虚言ではない。尋常ではない経験体験済みである。振り返れば生まれてきたときからそうであったと云える。唯自覚がなかった。まさか自分がそのような運命であったとは思いもしなかった。そしてかつての轍は踏みはしない。犬死になどしない。思い或いは言動が実現するということがどういうことであることか。言動が原動力なのである。代々のこととしか云いようがない。経験するということがどういうことであるのか。もはやどうでもいい。ここに一つのステージは終わった。終わることで次の始まりがくる。さて何が始まるのだろう。
2006年05月12日
誰もが至る幸せ
とても有能な人がいる。知識も経験も豊富だ。しかしその人は説明好きだった。一生懸命だった。何故かうとまれる。悪意はない。黙って仕事する人がいた。皆から完全だと云われていた。ここに確執が生まれる。ポリシーが違っていた。つまり相性が合わない。すべては相性であるとも言える。悪舌は功徳の種を断ずる。口は災いのもとである。いくら有能であっても積極的ミスといったことがある。あらゆるサービスにこれが云える。全体の中でのバランス感覚が必要だ。要求過多では人はついて来ない。ゆっくりでいい。静かでいい。人の幸せは強要されないところにある。やがて至る。ここに忍耐がある。ばかばかしさの中で犬死にしないための方法序説がある。地獄も見ないと極楽はわからない。自分が自分を傷つける。人を赦せない自分が自分を傷つけている。人を赦すことだ。自分も楽になる。微妙な距離感がある。人に影響されないことだ。自分自身を確立することの第一条件である。だからといってエゴではない。すべてを慈しみ悲しみ育む。ただ生きている。それでいい。鳥のように歌い花のように咲いて人生を謳歌する。そのために生まれてきた。この幸せは愚かではつかめない。幼虫からさなぎを通って成虫となる。人間も同じである。さなぎを通って大人となったとき自分がどのような蝶であったかわかる。美しい蝶でありたいね。さて仏を出すか邪を出すか。過ぎこし己の人生次第である。日々の思念と行為あだや疎かにはできない。知行合一。あまりに忘れかけている現実がある。日本の精神は何処にあるか。馬鹿が人の上に立っては危ういに決まっている。飛び込む勇気があるかどうか。賓主歴然。おそれることはない。誰が見ても勝負は決まっている。自信を持つことである。しかし本当の自信はそう簡単には手に入らぬ。世の勝ち組たちも本来の自信はない。いつも何かにおびえている。究極は黄泉におびえている。西洋文明は地獄は知っていても黄泉を知らない。黄泉は日本にしかない。そして黄泉の里はどこか。廣島である。すなわち黄帝の系譜である。黄泉において黄帝が動き始めた。世の身勝手腐敗がすぎたからである。時は満ちた。観念した方がいい。間違いは間違いである。悪は悪である。究極の悪とは真実秩序に反することである。黄泉にも秩序がある。真実とは何か。黄泉の存在することである。黄泉に受容されるかどうか。ここに秘密がある。いつまでも真実に対して愚かではいられない。真実に対して刃向かわぬ方がいい。時は代わっている。容赦なく報いがある。報いは神の属性であるとは聖書に書いてある。神も復活している。日本霊異記も続行中である。法華経の真実は真実である。わからないからといってないのではない。心身清浄。これよりほかに目的はない。 大和魂。そう簡単に死にはしない。原爆の火をしても焼き殺すことはできなかった。火裏蓮。腐敗の中でますますその光を発する。法華経真実秘種宿王華開花。日月陰陽南北朝。ここに日本の歴史の秘密真実がある。世の学者たちの知るところではない。しかしこれが自覚されたことはなかった。雑草根無し草にはわからぬ世界がある。千尋の谷からはい上がった獅子でなければわからぬ世界がある。本末転倒。成り上がりものにはわからぬ世界がある。一代や二代で成就できるものではない。それが日本の歴史である。酒は飲むより飲ませるものである。人生に楽しみ多ししかれども酒なしにして何の楽しみ(牧水)。メダカの学校。先頭がきびすを返せば一群が従う。所詮メダカである。つまりは自己の確立のない衆愚の習性か。孤高の松。孤独に風雨に耐え自己を保つ。他に惑わされはしない。この現実の腐敗も一瞬に過ぎないことを知っている。悠久の価値を知っている。刹那的愚かなど相手にしない。しかしここへ至るには時を要する。自覚するには惑わしが多すぎる。すなわち雑草がはびこりすぎた。雑草は刈られる運命にある。花は愛惜に散り草は棄嫌に生うる(道元)。雑草の勝手し放題天下もそろそろ終わりである。魂と宇宙自然は連動している。生命の営みがそのまま宇宙に影響している。しかし宇宙を超えることはない。腐敗と堕落を以て大人といい文化と思う愚か身勝手な恥が暴かれる時節である。本来清浄の価値を愚弄したる現代文化没落の時節である。身に覚えのあるものたちは自ら懺悔すべし。後生のためである。時は流れた。真実の種も芽吹く頃から開花する時節となった。そして結実する。かつて種を蒔いたのは誰であったか。釈迦、キリスト、ソクラテス、孔子である。その種の結実の時を迎えた。時は流れた。時は満ちた。かつて蒔かれた種、人類平和結実成就の時節である。そして新しい種が蒔かれる。蒔く人は誰か。参画するべし。本来の花を咲かせなければならない。それを邪魔させはしない。人類の夢である。夢は実現する。毒虫は退治される。新しい物語が始まっている。今も昔もはじまりは日本である。すなわち日出づる國、極東オリエント大和。これが邪馬台国である。本来清浄大和魂、大和撫子の復興である。世界宇宙自然のために。愚かゾンビなどに用はない。美しいものは美しい。賢者は賢者である。為すべきは学問である。科学など所詮知れている。人間レベルのバベルの塔に過ぎない。概念を弄ぶは学問ではない。本来古来精神清浄のないものに学問はできぬ。役に立たねば用はない。自分の身(老後)を守るを先とするものに国家運転=政治などできない。詐欺脅迫を属性とし悲しき笑いにうつつをぬかし逃避する姑息卑怯商人根性衆愚に迎合するのが政治ではない。百雑砕。虎は虎である。自分が自分であること。これ以外に人生はない。人生とは失われた自分を探す旅であるといえる。それを見つけたときから真実の人生が始まる。それは過去における祖先たちの探していたものを含んでいる。魂の行程は代々のものだ。「行け。一本の枝が道を示しているではないか。」(お茶の水書房刊、高銀著、三枝壽勝訳、『華厳経』p9)「老いた文殊菩薩の知恵は、善財を彼の一行に捉われさせたくなかった。善財は、自分独りで、彼の世界を経験しなければならぬ、大きな使命を持っていたのを、知っていた。」(同p10)太陽の光を浴びて朗らかに生きてゆける人生が開けるかどうか。勝負のしどころである。自己の内面における悪魔との大戦争である。これに勝利せよ。仕事に追われその戦いを放棄しているのが世間一般である。救いは永遠にない。自分を救うのは自分である。それは真実世界に飛び込むことを要する。とても怖いことである。真実の勇気を試される。深淵を覗き込んではならない、飲み込まれてしまうからと言ったの20世紀の知性と呼ばれたヴァレリィだった。地獄を語るのは地獄を知らないからであると言ったのは吉田健一であった。内面が地獄であれば周囲現実も地獄である。 地獄からの脱出を図らねば救いはない。真実へ飛び込めば必ず救いがある。それが真実であるからである。自分次第である。真の勇者とは『失われた世界』におけるロックストンである。千尋の谷にかけられた丸木橋を渡ることができるか。渡れば21世紀心の大地が開けている。真実朗らかな人生が開けるであろう。さて平常心是道。この何でもない当たり前の日々がなかなか手に入らない。いっさい計らいなくしてそのままでいい境涯がある。ありのままは難しい。しかしこのありのままが手にはいるとそれが桃源郷である。新しい時代が始まった。すでにあったのであるが自覚するまでは現れない世界である。そのままでよい。いっさい整っている。知足である。足りないものなどない。すべては与えられていた。それに気づかない自分がいるだけだった。門はたたけば開かれる。たたかない自分がいるだけだった。幸せはいつもすぐそばにある。スタンドバイミーである。気づくか気づかないか。そこに行がある。自分との戦いで自分を打ち破る。新しい世界が開ける。過去より伝えられていた真実である。過去より方法論は数多ある。人類の英知の蓄積がある。少なくとも流行は病である。世の成功論など相手にしないことだ。クラシックはなぜクラシックか。時の風雪に耐えた真実真理がある。どの道を選ぶかはそれぞれの自由である。すなわち選択の自由である。そのための機会平等である。どの道を進むにせよ信じた道をあきらめないことだ。やがて至りつく。求めた真理真実の大きさ深さに比例して当然要求される要件及び条件がある。それを満たす。それだけのことである。誰もが至ることができる。選択した道が正しいかどうか。悪の道を選択すれば当然悪の結果に至る。君子危うきに近寄らず。何が危うき道なのか今わからなくなってしまった。すなわち末法といえる。あまりにも悪雑草毒虫魑魅魍魎の天下である。しかしやがて正義が勝つ。黄泉の約束である。世の腐敗した大人たち牛頭馬頭は帰るべし。当然の報いを待つべし。あなた方の思い上がり勘違いは終わった。真実清浄の時代がこれより開ける。邪魔はさせぬ。
2006年05月11日
庶民レベルで悟りへ至る道が開かれた
一切の計らいはなくていい。流れに身を任せることでいい。羽のように軽い人生が始まる。あれこれ考えることは本来なかった。何故考えなければならなかったのか。それも因縁であった。この因縁が解決されることが自由を得ることだ。その時々の覿面提示に対処する。その連続でいい。一切心配は要らない。その時々瞬間の為すべきことに全力を尽くす。考えなくていいことを考えていた。無駄であった。風は吹きたければ吹く。雨も降りたければ降る。それぞれの自然現象がある存在の魂と連動する事実は事実である。それは証明である。しかしそれについて考える必要はない。自然現象はひとつの結果に過ぎない。結果であるならもはやどうにもならぬ。甘受するしかない。嵐であれば耐えるしかない。それでいいのである。ここに行雲流水の秘技がある。日々時々刻々宇宙自然黄泉から守護されるべく生きる。これが禅における「あるべきようは」である。それだけのことだ。考える段階はそこへ至る行程である。すなわち七つの海を渡る。彼岸へ渡る。これは自分だけでできることではない。祖先の魂が救われることを要する。さもなければこの到彼岸はありえない。これが真実である。また仏法であった。祖先の魂を救うとはどういうことか。代々の約束を果たすことである。生まれた意味を成就することである。それは自得自覚を以て成就する。そして至り得て別事なし。自然は自然、世間は世間でその姿に変化はない。しかし意義が違う。至り得てわかる。説明不能である。説明してもわからぬ。自得自覚するのみである。冷暖自知である。しかしこの境涯はある。不可思議不可称量である。ここに即身成仏である。かつてすでにこの道を歩み通した存在は数多いる。道元も日蓮も親鸞もしかりである。禅における祖師もそうである。これが悟りである。悟るとは自分だけが悟るのではない。自分と縁のある草木悉皆成仏である。祖先も救われている。ばかげた話であろう。信じられないであろう。それがあはれである。知っても知らなくとも真実は真実である。わからなければわからない。わかるならわかる。わからないなら神秘である。わかれば至極簡単当然である。それが真実である。これを以て至道無難である。疑うことが計らいであり唯嫌棟択である。いかにもすがすがしい幸せ世界が開ける。21世紀心の大地である。庶民レベルでそれが可能となった。生まれながらにその使命を帯びた存在がそれを成就した。釈迦の修行も要らぬ。禅の修行も要らぬ。菩薩道さえ要らぬ。御法妙さえ要らぬ。もっと簡単に至れる近道が開かれたのである。むしろ学問を以て至る道である。新天下開闢である。黄泉の守護を獲得する新方法論が確立された。 『2001年宇宙の旅』のコーダ部分、老人の食卓が回復された。日出づる邦、卑弥呼の系譜が復活した。邪馬台国平和な世の黎明が来た。もはやどうにもならぬ。すでに鏑矢は放たれた。遙か宇宙に届いている。黄泉の意思は成就した。『蝉しぐれ』は二十年一人の人を思った。三十三年一人の人を思った存在もある。勝負にならぬ。真実清浄精神秘密世界は制覇した。黄泉に受容され守護される。万軍の主も馳せ参じ稽首している。覚兵衛、嘉兵衛、千畝、良亮、昭亮、歴代心の水脈がぶち抜かれた。すでに過去および今生において我等及び真実を裏切りしものたちはその当然の報いを受ける。また黄泉にて待つ。追って沙汰あるべし。
2006年05月10日
身勝手な世の中の例
さて脱法行為とは見かけは適法行為に見えて実体は違法である行為です。今世間ではこの状況が常態化しているのではないでしょうか。見つからなければいいとするそれです。見解の相違とでも思っているのです。例えば、パチンコ業界ではいわゆる裏基盤による経営があります。これを使うとお客は騙されます。とことんやられます。果たしてこれは事実の認識を伴う故意犯ですね。故意があってお客が金銭的損失をこうむって詐欺罪が成立しています。お客はあわれなネギカモであります。かつて例えばスロットで5万円入れて何も役が成立しない場合、警察に願い出れば返金されました。勿論、その店には出入り禁止です。今はどうでしょうか。10万円入れて何も役が成立しなくても警察は取り合わないといわれています。理由は10万円儲けることもあるからだといわれています。しかしそれは検査済みの基盤による営業の場合でしょうね。ところでパチンコ業界のプリベートカードは警察庁OBと大手商社の開発でした。天下りと売り上げのある程度の把握ということでパチンコ業界との癒着となっているのではないでしょうか。献金もあるのでしょうね。それで手入れはほとんどありません。そこに裏基盤による経営の横行があるのです。詐欺的にお客は騙される実体事実があるのです。市井においてこれを事実上野放しにするのは警察庁の荷担傍観罪と云うべきでしょうか。身勝手な世の中となったものです。君子危うきに近寄らず。行くならはじめからそういう場所であると認識して行くべきです。ところで今は資本主義の世の中です。つまりこの制度の中で戦って生きていかなくてはならない。所詮人生は戦いです。戦って食を獲る。真剣勝負です。勝たなければ食はない。営業も戦いです。商品あるいはサービスを売ることによって生計を立てる。この制度をフィールドとして戦う。それで最終段階は財テクとなる。マネーゲームとなる。それでいいのでしょうね。それしかないのでしょうね。大切なのは食を獲てその目的は何か。食べることだけではない。何かある。後世に大切な技術を伝えることもある。真実を伝えることもある。人生生命生活としてのライフがある。何事も意識して探し獲得する。そして生まれた意味を知る。そのために必要な食としてのマネーゲームもあっていい。ゲームであるならば勝たねばならない。試合です。そのためにフィールドは平等でなければならない。はじめより負けが決まっているようでは意味がない。そのための制度。そのための秩序。詐欺と脅迫はいただけない。取り締まらねばならない。お金を売って商売しているのが金融機関ですね。そういうものだと思ってつき合う必要がある。営業が罠めいているのも仕方ないのかも知れません。罠にかからないようにするのは当然といえるのでしょう。そういう世の中なのでしょう。だから資本主義における生計構築最終段階であるマネーゲームへ参画していくことも当然あっていいことですね。強くなければ生きてゆけない。女も強い男にあごがれる。子供たちにはこうした現実も教えていくべきなのかも知れません。腐敗は腐敗として対処していくしかないのです。いつかはまた清浄となる。それを信じて。足下を固めて。一隅を照らして。被害者学もある。 交差点での交通事故もどちらかが停車するとかなりの効果がある。悪を前に立ち止まる勇気。悪に流されない力。あるべき目的を達成するために生きていく条件。男の本当の強さとは何か。女が男に期待しているあるべき形とは何か。ラブイズブラインド。命を預けるに足りる男とはどんな男であるのか。真実の男が失われて久しい。模範とするべき男がいない。女衒のようなあるいは野蛮な男ばかりである。ジョン・ウェイン。獅子は兎を狩るにも全力を尽くす。詐欺に騙されては生きてゆけない。騙さば騙される。騙して生計を立てる輩が増えすぎている。諸生命体のエコロジカルバランスが崩れている。生命秩序ホメオスタシス。やさしくなくては生きている価値はない。やさしさとは本来強いが制御されていることである。女は本来弱きもの。弱いが故に嘘もつくべきもの。女の社会?男の社会!男が女に甘えている。女は信頼する男を失った。因って腐敗した。本来男に嘘はない。男の復興。弱い男に女は用はない。なよなよした文化。嘔吐。本来強き男の種。開花できない世の中。刈るべき雑草がはびこりすぎている。自由は自由が切り開く。邪魔立て無用。新しい時代は空閑=荒野より開ける。地蔵菩薩が地より湧出する。新しい時代の黎明である。腐敗した世に用はない。魑魅魍魎牛頭馬頭は帰るべし。大象が歩み始める。精神性根において代々伝えられし螺鈿の槍がある。刃向かうものは許しはしない。
こうじょう_せい _ジヤウ_【恒常性】→♪[0]〔homeostasis〕生体がさまざまな環境の変化に対応して、内部状態を一定に保って生存を維持する現象。また、その状態。血液の性状の一定性や体温調節などがその例。動物では主に神経やホルモンによって行われる。ホメオスタシス。【大辞林】
さて自分自身を取り戻す。失われた自分自身である。魂と身体との再会融合である。そして自己が完成する。自己同一とはこれであった。多くの場合は意識しなくとも自然にそれは果たされるのであろう。あたかもさなぎを通って蝶となるように。しかしその変化に時間を要することもある。それは自分自身がたとえばダイヤモンドとなるときに起こる。宝石となるには長い時を要する。至り得てわかる。光り輝く自分自身を形成することができるかどうか。そのプロセスにおいて悪を為さないことが条件となる。心身清浄を以て宝石となる。人生、おもしろい。俗悪世間に染まらないでいることができるかどうか。宝石となったものは価値がある。黄泉が認める。一切の不安はない。何があっても大丈夫である。大乗救助船に救われるから。これが現実実在するノアの箱船である。今からでも遅くはない。目指すべし。今生で間に合わねば来世がある。もはやこれにて勝負はあった。人生の上がりである。知る人ぞ知る。七つの海は渡った。彼岸に到達である。すなわちここが地上ヘブンである。巷の喧噪が気にならない。まるで別世界である。至り得たのである。内面を制することで至る。長い道のりであった。導かれていたと言える。これでよかったのだ。足りないものなどない。すべて満たされている。必要なものはその時々に与えられる。空中より与えられるのである実感がある。これをも以て知足である。諦念とか努力とかを遙かに超えた充足世界がある。至るべきはここである。桃源郷である。すなわち即身成仏である。気色の悪い幽体離脱など無縁の世界だ。瞑想など妄想だ。明明白の世界が開けている。敵はいない。必ず勝つ。仏法は必ず勝つとする所以である。次は王法である。王法は必ず儲けると聞いている。王仏冥合である。仏の説はありがたい。すべて真実である。唯仏是真。見える世界が王法。見えない世界が仏法。仏は見えない世界を説く。現実世界がそれを実現し証明する。真実のメカニズムがここにある。解決するべき因縁は何か。仏の文字である御法妙がある。見えない世界にも通じる文字である。代々親があって自分がある。代々の悪が蓄積された自分である。これを解決し、清浄となって、子孫未来に流す。そのための現実人生である。そのために生まれてきている。代々の悪へ対して御法妙を贈る。これは因縁に対する薬である。その薬も発見され準備されている。この薬しか過去の因縁に対して効き目はない。また正しく使用すれば百発百中である。すでに経験実証済みである。
誰もが幸せになりたいと思っている。そしてその方法を探している。しかしどのような実践も幸せへとは至れない。何故か。因縁である。悪因縁と関係している限り悪の結果を招来する。それなのに懲りずにいつまでも悪因縁にしがみついている。悪因縁から解放されることよりもむしろ悪因縁に染まることをしている。真実幸福論は誰と関係しているかである。誰が友達か。誰と縁があるか。仏との縁があればやがて幸せとなる。これが真実幸福論である。キリストでは悲しい。彼の因縁は磔である。菩薩は裕福である。その姿を見るがいい。宝石で荘厳されている。縁を結ぶならこうした菩薩と縁を結ぶことだ。貧乏神と縁を結べば貧乏となる。真実幸福論である。自らは嘘をなくし清浄を目指す。やがて清浄世界が開ける。その世界の住人と縁を結ぶ。いつまでも愚かでは救われない。馬鹿なバラエティと野蛮なドラマのテレビ番組の罪は重い。あまりにも悪を世間に流布し世を惑わしすぎた。責任はとってもらう。芸能界及びテレビ界並びに似非マスコミ界の腐敗は暴かねばならぬ。それが自由であるとはき違えた罪は重大明白である。嘘が多すぎる。身勝手わがままが過ぎる。今生で何をしてきたというのか。やりたい放題し放題で他をあまりに犠牲にしてきたのではなかったか。エゴの権化であろう。それでセレブを目指す?黄泉は憤っている。いつまでも知性を笑いものにさせはしない。黄泉が動く時節を迎えている。おのおの観念し首を洗って待つがいい。真実実現の時である。久遠実成の時である。世の腐敗がこの時を迎えさせたのである。あらゆる物語に記しおかれた秘密開示の時節である。もはや言語道断。矢は放たれている。一切身の犯した罪が裁かれる。言い逃れはない。真実が生まれてきた意味を解決し成就したからである。万軍の主も馳せ参じ実戦配備完了している。このことばかりはこれよりはじまる。宇宙自然もこの時を待っていた。自覚あるものは参戦するべし。進軍ラッパは鳴り響いている。祇園精舎の鐘も鳴っている。聞くものは聞くべし。 時は代わった。見えない世界はすでに平定されている。これより見える世界の平定である。悪は一掃する。信ずべし。黄泉が動き守護する。黄泉も最後のカードを手にしたからである。黄泉はすでに切り札しかない。すべて真実は通る。希有なる時節である。真実の大和魂、大和撫子復興の頃である。大和の心は本来優雅である。野蛮浅薄下賤ではない。現在世は本末転倒である。どういう意味か。上下転倒。畏るべし。時代は振り子のごとくである。世の腐敗、もはや勘弁ならぬ。
2006年05月09日
心身清浄へ至る道
人間としての計らいを捨てると楽になる。だからといって動物本能的であるのではない。五欲を断ぜずしてしかも動物的でない。しかし動物である。ここにあるべきバランスがある。禅においては「あるべきようは」と云う。自分が主人公となる。しかし下手なエゴではない。すべては文字によって支配されている。契約も然りである。しかしその本体は情念である。人の思いを大切にする。死霊より生霊の方が怖い。思いを鎮める。魂の鎮魂も然りである。見える世界と見えない世界がある。見えない世界は黄泉である。黄泉は犠牲となった魂の住処だ。成仏した魂もある。供養することで成仏する。供養とは相手の喜ぶことをすることである。魂の喜ぶことは何か。人生において為すべきことは何か。心身清浄を以て真実の人生は始まる。さて文字にも見えない世界に通じる文字がある。文理真正御法妙順序である。仏の文字である。因縁解決のできる不思議な力を持つ文字である。これは仏よりいただく。しかしこの文字を使うには力が要る。その力が功徳力である。ここに功徳とは何か。仏の道へ人を導くことである。仏の力は絶大である。嘘はない。人間が勝手に疑っている。しかし秩序がある。知っても知らなくとも宇宙自然に秩序がある。それを知ることが悟りである。すなわち分際を知る。如来の神力を知る。自得自覚する。他の認証を必要としない。黄泉との契約である。ここへ至る道が仏道である。その方法が教菩薩法である。しばらく見失っていた道である。しかし昭和の時代に真実の仏法が新しく開かれた。鎌倉新仏教に等しく昭和に真実仏法が新しく開かれた。すなわち妙法華経である。真実とは何か。見えない世界があり見えない世界に通じる文字があり、行をすることで思いが宇宙自然黄泉に通じる。思いは文字にしたため妙法華経の音声に乗って見えない世界へ運ばれる。行とは自分のためにではない。一切大衆を救うに因って力を得る。故に宇宙自然黄泉より守護される。一切大衆を救うとは何か。仏の真実に目覚めさせることである。これが宇宙自然黄泉の究極の秘密である。これを知ることを以て悟りである。仏、仏とのみ究了したまうところである。妙法華経を持っているかどうか。妙法華経に従って行をしているかどうか。真実の悟りへ至る唯一の道である。誰もがこの道を通ることで至ることのできる法である。知れば迷い知らねば迷うのが法の道であった。しかし庶民レベルで五欲を断ずることなく楽に代々の因縁解決のできる道が人類史上初めて昭和の時代に顕説されている。真実の心身清浄はこうして実現される。 救うことで救われる道である。妙法蓮華大無量義平等大慧教菩薩法。仏所護念分別広説文理真正真実証明華徳大菩薩。さて祇園精舎の鐘の声。かつて王制が腐敗した。今共和制が腐敗していないか。すなわち事実衆愚支配となっていないか。真実清浄那辺にあるか。
2006年05月08日
楽園を取り戻す
すべてのことは真実の人生を楽しむに至るための行程である。真実の人生とは例えばある愛する人を得てくらしをすることである。何もかも丁寧に処する。人生の一つ一つを丁寧に楽しむ。何もかもである。その中には秘事をも含む。その他に人生の目的はない。自己との関係を大切にする。仏は唯自分のために法を説くとする親鸞の自由がこれである。自己と宇宙自然との関係を大切にするのである。他己は他己である。他己は他己で楽しんでいる。自己の充足を果たす。下手なエゴではない。そのために生まれてきている。苦しんだり悲しんだりするために生まれたのではない。途中ではそのようなことがあるとしてもやがて至るべき世界がある。楽園がかつて奪われた。奪われたからには取り戻す。そのためにはある力が必要である。それまでは手も足も出ない。にっちもさっちもいかない。その力を得るまでの旅である。いつかその旅も終わる。力を得る。その力を得て本来の自分の所有を取り戻す。すなわち新しい流れを作ることによって。その力、誰もが持って発揮できる力である。持ってはじめて力となる。すなわち金剛杵である。これを以て明治に奪われたものを取り戻す。それは散り散りになった家族関係を含む。見えない世界でそれを取り戻す。犠牲となった魂たちの棲む黄泉の意思である。真の平和は不障害の徳を以て実現される。詐欺と脅迫の横行する世の中にはこれを以て処する。新しい無抵抗理論である。あらゆる動物が強要されることを嫌う。それが暴力の姿である。自由とは何か。精神的自由は憲法理論においてもダブルスタンダードである。すなわち絶対である。思念にもエネルギーがある。それが開発される。宇宙自然の周波数がある。それと同調する。失われた本来の力を取り戻す。この思念エネルギーにおいて善のパワーがすなわち愛である。このパワーで人間は善を実現する。実現するにはエネルギーが必要である。どのようにして開発するか。仏法によって開発する。この宇宙自然と同調する力は存在している。宇宙自然が守護する実体である。思いが通る。かごめかごめである。行きはよいが帰りは怖い。この力が確認された。そろそろ覚悟するべき頃である。21世紀幸福論。真実の幸せへ向けて旅たつ頃である。常に見えない世界からの導きがある。そのサインを見逃さないことである。心身清浄を以て成就する。心身清浄を以て精神が光り輝く。見えない世界から見えるようになる。大乗である。幸せへの約束切符である。真実である。人間はこれをも疑う。因ってあはれである。源氏物語のあはれは現実の実体である。見えない世界に認められることがすなわち人生の目的であり、生まれてきた意味である。見えない世界からの絶対の守護、幸せの条件である。妙好人の世界である。ここに謙虚になる。ここに敬虔がある。パスカルは言った。神が存在する方へ賭けよ。人間は悪を為す。そして地獄へ赴く。地獄から自ら出づることはできない。地獄より脱出して幸せを得る。大脱走である。導きがある。進むしかない。モーゼの杖はつかれた。海は開けた。新しい幸福の大地が広がっている。新しいフロンティアである。新しいパイオニアたちよ立ち上がれ。腐敗した世界に未練はない。すでにそこへ至った方々もいる。過去からの約束がある。人生は楽しむためにある。今生に至れなくともよい。来世のために今日の一歩を進む。代々の旅路である。自分の足で歩むしかない。幸せはある。見えないだけである。知らないだけである。この道はすでに開かれていた。先哲によって常々伝えられていた。愚かではわからない。わからないまま腐敗していく。新しい息吹の時である。人生の春は近い。春を楽しむために生まれてきている。若さとは年齢ではない。この幸せへの夢を持っていることが若さである。青年もこの夢をなくしている。人生ははかないのではない。人生は豊かである。約束されている。そのためには労力を惜しまないことだ。日々何をしてくらしていくか。何を考えて何を実行するか。日々の思念と行為が未来を作る。未来の種となる。法華経一切種智慧。善の種を蒔けば善の花が咲く。悪の種を蒔けば悪の花が咲く。それぞれ善の種も悪の種も持っている。持って生まれたDNAがそれである。日々時々刻々の思念と行為によって自己が開発改革されていく。自己を作るのは自分である。 未来は今現在の連続である。悪性は焼き尽くし精錬する。自己が輝き始める。仏陀の明けの明星を見ての悟りがくる。輝く明星は自己である。真実真理。すでにその道は開かれている。何故進まないのか。必ず至ることができる。いつまでも愚かでは悲しすぎる。かつてルソーは言った。自然に帰れと。今、本来の自分に還る時である。あるべき本来の自分とは何か。自分を取り戻す。謎は少年時代にある。持って生まれた自分を成就する。悪徳開花結実の愚大人に用はない。仕事?何のための経済行為か。愛に満ちた本来の暮らしとは何か。本来の幸せとは何か。誰もが夢に描くそれである。夢は実現する。子供たちに夢を。野辺に花咲き小鳥が歌う。魂は宇宙自然と連動している。 (2006/05/08 8:02am NHK-FMクラシック合唱曲ベルリオーズ作曲パリ管弦楽団『テデウム』を聴きながら) やがてこの世の生命を終えて見えない世界へ帰る。遠い旅を終える。あたたかく迎えて貰えるかどうか。この世で何をしてきたか問われる。常に見えない世界から見られている。隠せはしない。この世の旅である。やがて黄泉へ帰る。何も持たずに帰る。道元の空手にて帰還である。精神だけが黄泉へ帰る。あの世への土産は何か。鍛えし精神である。宝石のように輝く精神である。この世における人生行路の秘密がここにある。仏陀およびキリストの言いたかったことである。かれらもこの道を歩んだ。そして成就したのだった。NHK-FMではストラビンスキー作曲『春の祭典』(彼が夢の中で見た原始宗教による祭典)が演奏されている。(2006/05/08 8:33am) インターネットは生きている。新しい時代の黎明であり象徴であり実体である。世界はすでに一つの王国である。その世界の住人にはビルゲイツもいればローリングストーンズもいるしイーブンスもいる。ユーミンもそうである。日面仏。月面仏。すでに仏国土は建設されている。その住人に認められることがこの王国に住む条件である。知っても知らなくとも世界は常々そうである。絵においてはシャガール。孤高の精神たちの住む上層世界がここにある。気づくべきはここであり、これが秘密である。自得自覚心身清浄。これを以てこの王国へのパスポートとする。他己の認証を必要としない。至ればすなわち吉。Air King! 秘密の交信。黄泉の事実としてここに記録する。(2006/05/08 8:48am)道を成就すれば失われしもの及び奪われしものすべて返して貰える。楽園は取り戻される。精神の自由。求めるべき宝。黄泉の守護。渡るべき七つの海。一、二、三。1234567。ABCDEFG.。 CDEFGAH。ハニホヘトイロハ.・・・。明度、彩度、色相。
2006年05月07日
ロマンについて
男にはロマンがある。夢がある。究極のそれは、自分の思いが宇宙自然に通ることである。そのようなことはあり得ないと一般には思われる。しかし有る。宇宙自然に受容され、認められることで成就する。そして、世の成功とはこれを言う。世間に出世するとはこれを言う。そのための条件は心身清浄。過去より恒に代々伝えられしことであった。たとえばルパン三世のテーマソングもそうである。いわゆる世の勝ち組たちはこれを知らない。本当の勝ち組は別論である。最後に笑うものが一番よく笑うとするそれである。笑みがこぼれる。生きていて善かったと思える。生まれてきて善かったと感謝できる。そうした勝利がある。自己の内面での戦いに勝利することで得られる。桃太郎である。鬼ヶ島は自己の内面にある。自己の内面を制すること。これがあってはじめて真実の人生が始まる。禅における悟りもこれである。仏法における菩薩道もこれである。釈迦は明けの明星を見て悟った。自覚とはこれである。世のあはれな存在を見て悲しみ慈しんだ。すべて自分の通ってきた姿であるからである。だれもがいつかは辿り着く。 教育の前提である。本当の喜びとはこれである。ここへ至ることを夢見る。これがロマンだ。男はロマンのためには命を賭ける。賭けていい。真実に対して飛び込むものに対しては梵天帝釈が必ず掬ってくれる。仏陀もそうであった。真実を乞い羅刹に身を投げたのだった。方法論はすでに確立されている。実践実行有るのみである。必ず道は開ける。開けるのである。ここに古来大和の教育基本法がある。西洋かぶれはもう止めた方がいい。日本には歴史の最も古きを以て本来古来世界最高峰の精神が伝えられている。いつまでも看過するべきではない。慎んで申し上げる。ペリー来航以来日本も世界に合流した。いつまでも自己利益のみを追求しそのために手段を選ばす他者を顧みることのない理念に支配されるべきではない。リーダー諸氏交代の時節である。世のため人のため世界宇宙自然地球子孫未来のために。
2006年05月06日
本来価値独立宣言
何も心配しなくていい。どうにかなるさではない。日々是好日。何もかも一切計らいは要らない。行雲流水。流れに身を任す。as time goes by. 勝ち組とか負け組とか言いながら本当に大切なことは何も知らずに死んでいく。死すべきものと知ってはいるが生まれてきた意味は知らない。この世でなすべきことは何か問うこともない。そのようなことは無意味だと思っている。そしてその考えを広めている。それがどれだけの罪となるか考えようとしない。正直者が馬鹿を見ないようにしなければならないと言うとき正直者は馬鹿を見ざるを得ない現実がある。どうしようもない人間の悲劇である。解決するべき問題がある。自己の内面の浄化である。世間一般は誰もそれに取り組もうとしない。そのようなことは不可能だと思っている。可能である。DVDで「真昼の決闘」を見た。戦いはおのおのの内面での時節を迎えている。倒すべき敵は自己の内面にいる。所詮正義に生きようとすれば孤立無援である。孤高の松。心身に恥ずるところなくんばすなわち吉。くだらない世間の評価などどうでもいい。神仏に受容されるか否か。宇宙自然に意思がある。それと合致するかどうか。宇宙自然は忍耐強くはぐくみそれぞれの開花を待つ。それぞれ社会に出て自由に生きている。言いたいことを言っている。しかしそれぞれどのような花を咲かせているのか。人間行為のほとんどが無価値である。それを自分勝手な計らいで評価している。基準を間違えている。その間違えていることに気づかずむしろ自分たちの考えを正当化する。おろかでありあはれである。結果地獄から出ることはない。埴谷雄高の作品に「死霊」がある。死霊より生霊の方が怖い。情念は波動となって宇宙に伝わる。やがて現実化する。このメカニズムを世間一般は知らない。潜水艦もヘリコプターもかつての情念だった。ダビンチの日記にある。ダビンチは当時の科学の集大成をしたに過ぎない。彼がすべてを考え出したわけではない。下手な情念など妄想しないに限る。 テレビで下劣凶暴な情念をバラエティ、ドラマと称して流布している。衆愚に迎合し腐敗するばかりである。世間の笑いは逃避あるいはごまかしに過ぎない。腐敗の中で咲く花が蓮華である。蓮華の前に化生することができるかどうか。腐敗に染まらないで咲くことができるかどうか。勇気を要する。自己の内面での戦いに勝利できるかどうかが分水嶺である。男が男らしさを失いつつある。男らしいとは何であるか。女子供が嘘をつく傾向があることは否めない。男らしさとは嘘のないことである。嘘がないためには内面での戦いに勝利する必要がある。正直こそ最高の宝である。しかし正直者は馬鹿を見る。騙さば騙される。資本主義において取引行為はある程度の嘘が許されている。しかし現代商取引行為において勝ち組となるためには嘘の程度が高くなる。あらゆる営業に策略がある。現実を見据えると正直であることがばかばかしくなる。株式取引がその例である。はじめから勝負は決まっている。物量的資本の大きい方が勝つに決まっている。このばかばかしさから脱却するにはどうするか。最高の価値である精神の自由を獲得する。自由とは何も持たないことである。鳥のように生きる。日々の食は日々与えられている。財テクに縛られないことである。精神の自由を得るということが21世紀幸福論といえる。知足である。錦鯉。美しいものは美しい。人生は灰のごとく燃え尽きる。何事も使い切ることで成仏する。ピカソの食事において魚は美しく骨だけとなる。日々思いを残さないことである。死後に遺恨を遺さないことである。日面仏は命の長い仏、月面仏は命の短い仏。命は長くても短くてもいい。どのような障害を持っていてもいい。こころに清浄を得て生き抜けるがいい。立つ鳥跡を濁さず。思いを残さないことだ。断ち切るのではない。燃え尽きるのである。今目覚めてラジオを聞くとオージェイズが流れているのだろうか。EPレコードを一枚持っている。祖父が亡くなった頃RCCラジオにその旨を付記して応募したら貰えた。その時のDJは柏村武昭氏だった。友人の一人がラジオで私の名前が読まれたのを聞いて生きているって思ったという。(2006/05/06 7:45am NHK-FMを聞きながら)「死んだ男」という小説がある。学生の頃英語の授業で読んだ。その復活シーンは仏陀の乳粥シーンに等しい。現実への回帰である。ラスコリーニコフを大地への接吻へと導き救ったソーニャに等しい。さて鳥にもいろいろある。群れをなす鳥とそうでない鳥がいる。後者は猛禽類である。社会は群れをなす方々の世界である。成鳥となった猛禽類は自由である。猛禽類を猛禽類と知らずに扱っている世間一般である。爪が隠されている。現代人間社会においてその爪はペンである。あるいは芸術である。下手な物理的強制力としての暴力が爪であるのではない。すでに過去において凌駕克服されている。芸術を前に佇むようでは知れている。一瞬にして見抜く。一瞥で足りる。高速頭脳回転と精神の緊張度が違う。自分より上はうかがい知れない。しかし世間には自分たちの評価基準しかない。そしてその下に規定しようとする。因って維摩居士はいう。衆生病む故に我病むと。仏語のわからぬ所以である。法華経のわからぬ所以である。そして日々間違いを重ねている。本来の人生から離れていく。あはれである。救いはない。自分を救うのは自分である。天も自ら助くるものを助く。仏と縁を得て善業の因縁より現実地獄世界から出るしかない。どこへ出るのか。自由精神世界へである。すると神仏の守護もある。ほんとうの幸せがある。知っても知らなくてもあるものはある。これが真実真理である。悪は滅びる。正義は勝つ。何故か。宇宙自然の掟であるからである。生まれながらに黄泉が認めた存在に対しては黄泉が守護し動くからである。平等理論の本懐は生まれによるいわれのない差別を否定することにある。しかしいわれのある差別まで否定するのは逆差別であり世間の横暴である。ダイヤモンドはダイヤモンドである。これを無視しあるいは否定するは世間の盲目たる所以であり、世の腐敗化傾向の原因である。もはや本来古来大和魂も黙ってはいない。世間一般身勝手自分勝手わがまま気まま思い上がりはここまでである。世直しの頃である。腐敗および腐敗に荷担し腐敗を助長傍観するものに対して一切容赦はない。経済行為を理由に言い逃れはない。本来価値の独立宣言である。宇宙自然黄泉の意思実現の時である。黄泉の総司令官の号令命令である。あらゆる物語の謎が解かれ明らかとなった。それらはすべて唯一究極真実へ至るための道しるべであった。真実存在が目覚めるためのスートラであった。目覚めるとあらゆる芸術作品が慰めとなる。時は満ちたのである。 BGMはベートーベン作曲ピアノ協奏曲第三番及び第四番。ピアノ演奏はバックハウス、オーケストラはウィーンフィルハーモニー管弦楽団、指揮はイツセルシュテット。
posted by GT at 00:29| 広島 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
2006年05月05日
不障害の徳
本来の自分に還る。まじめであっていい。やさしくあっていい。他者に惑わされることはない。仏といえども他者である。自己の確立。そして君子危うきに近寄らない。大なり小なり人間は自分勝手である。所詮行なき人間は信用できない。導くは導く。これよりあらゆる支配より脱却する。自己を解放するのは自己である。それは内面の戦いにおいて勝利することによって成就する。これが真実アルマゲドンである。そして新しく真実自然自由皆平和主義が開ける。だからといって世を乱すことはない。禅は自己一身の問題であるとするところである。みなまじめであっていい。みなやさしくあっていい。そして神仏の守護もある。永遠究極真実平和皆幸福論である。是を以て不障害の徳とす。これより一切分際なき者に大きなことは言わせない。言った者には責任をとってもらう。黄泉の意思である。黄泉の目は目覚めている。黄泉の耳は聞こえている。 こころしてものはいふべしとなり。
2006年05月04日
小学時代
小学1~2年は竹花礼子先生、3~4年は本田照子先生、5~6年は前門戸露子先生が私の担任だった。すべて広島高等師範卒の先生だった。いい教育を受けた。叱られたこともあった。ぶたれたことは一度もない。もしもの時はと金庫のダイヤルも教えてもらっていた。授業中にお金と帳簿を持って各係の先生を訪ねて印鑑をもらったりしていた。そのような小学時代であった。算数の授業で時計算と仕事算を習った。家に帰って姉の受験問題集(算数難問集)で時計算と仕事算をすべて解いた。そうした勉強だった。音楽会があるというのでコントラバスを担当した。曲は「ウィンザーの陽気な女房たち」だった。第1弦と第2弦とだけでいいからということであった。しかし4弦すべて使っていた。専門の先生の指導もあった。何も言われなかった。それでいいとのことだった。コントラバスの管理運搬も自分でしていた。ある日松ヤニを落とした。粉々になった。その後、その欠片で弓の手入れをしていた。練習は給食時間に音楽室準備室でしていた。いつも一人だった。指は水ぶくれだった。窓ガラスがハウリングしてくれていた。窓の外は晴れた風景が広がっていた。そよ風が吹いていた。鼓笛隊の総指揮もした。みなと祭りを歩いた。呉線電化に伴う式典では記念列車を呉駅ホームで迎えた。新聞部長もした。放送部長もした。朝礼にはマイクの準備とか調整とか片づけをしていた。職員室の奥にある放送室では毎日給食時間のディスクジョッキーのようなことをしていた。食事は放送室に運んでもらっていた。全校お誕生日会が毎週金曜日に朝礼であった。その週のお誕生日の子がステージで紹介され祝福された。その司会もしていた。もちろん悪いこともしたことがあった。その時々に身の回りに恐ろしいことが起こるのだった。今思えばである。 (2006/05/04 8:25am NHK-FMでピエルネ作曲ピアノ五重奏曲を聴きながら)
2006年05月03日
毒虫と雑草の世の中に新しく卵
それぞれ社会に出て勝手気まましている。自分が正しいと思っている。そうだろうか。それぞれ知らず識らずのうちに間違いを重ねている。それでいいと思っている。自然に摂理がある。それに反して何の人生か。しかし気づいていない。気づいている方々もいる。しかし気づいている方々にとっては住みにくい世の中である。毒虫と雑草が世を支配している今である。庶民が解放され自由を得た当然の結果といえる。かれらにとってはじめて得た自由であるのであろう。おろかな文化が文化ではない。やがてわかる。その時は遅い。 精神自由世界は那辺にあるか。知るものだけが知る世界である。代々の王国は姿を変えて存続していく。今世を支配している姿はすでに過去において克服されたものである。精神自由王国はさらに進化している。 インターネットはそのひとつの象徴である。常々上層世界はこうして進化変化する。さてこれよりどうするか。上層世界の腕の見せ所である。おろか文化にいつまでも付き合いはしない。同時におろか文化にいつまでも大きな顔をさせはしない。おろかはおろかである。かつてウルトラQは怪獣の卵から怪獣が生まれるところから始まった。ビートルズが初来日した頃だった。エレキの若大将の頃だった。今新たな卵がかえった。ゴジラもガメラも真っ青である。名もなき姿なき怪獣である。誰も知らない。しかし生まれた。どのような力を持っているか。謎である。是より始まる。ランボーに憧れた小林秀雄など目ではない。それは龍を喰う大鵬に等しい。姿は普賢菩薩に等しく無限大である。宇宙大である。あらゆる物語を克服した。あらゆる物語が預言であった。ここまで真実は隠されていた。しかし真実は解明された。誰も理解不能であった真実であった。卵はかえったばかりである。これからいよいよ彼の時代である。完成された感性がよみがえった。宇宙も彼を通して動く。そうした存在である。すべては彼の誕生を待っていた。生かすも殺すも彼の自由である。かれは金剛杵としてのその力を得ている。本来の力である。これを手にするには生まれながらに種を持っていることを要する。是を使うことを許すは黄泉である。黄泉の許可なくしてその力を現実に発揮することはできない。かつて彼の言ったことはことごとく実現した。これまで彼を痛めつけたものはことごとく淘汰された。黄泉の秘蔵っ子である故である。黄泉は忍耐強くはぐくんだ。そしてやっと目覚めさせることができた。かれは力を持っている。竜の子太郎のそれに等しい。しかしその力を使うことをおそれている。宇宙有無開閉四大原動力としてのちからであるからである。これだけの力を得るための試練はおよそ世の想像を絶してる。日本において命脈を保つ禅の奔流である。心身清浄今その力が目覚めた。さてどうするか。彼の思いに合することが真実である。彼の感性が基準である。新しい時代の黎明とは是を言う。彼は自由を得た。これより彼の時代である。時代は代わった。世間はえ知らず蟹の戯れをしている。今BGMはベートーベン作曲ピアノ協奏曲第3番ハ短調、Op.37、ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団、指揮:ハンス・シュミット・イツセルシュテットである。(2006/05/03 Wed. 22:12) コギトエルゴスム。彼は何を思っているのか。彼の思いはやがて実現する。彼の意思決定には黄泉が守護し動くからである。黄泉も彼の誕生に安堵満足している。万軍の主も全軍配備完了し出陣を待っている。腐った世に未練はない。僕の前に道はない?有る!その道を見つけるはモーゼの力量を要する。道は切り開く。逆らうものは淘汰する。黄泉の意思である。自覚覚他。BGMは同第4番に入った。(2006/05/03 22:36)是までどれだけの音楽があったか。そして淘汰されて遺ったクラシック。さらにその演奏にも淘汰されて遺ったものがある。今世の流行がどれだけクラシックとなるか。およそ知れている。精神も同じである。クラシックの精神がある。フロイトに発した欧米心理学の結実は何であったか。ゾンビである。エログロを文化と思った時代もあった。大江健三郎のノーベル賞にどれほどの価値があるというか。タケシの映画など嘔吐である。日本の恥である。BGMは終了した。 ミニコンポはONKYO FR-N9.。(2006/05/03 23:08)
2006年05月02日
歴史は繰り返すからの脱却
本来人生は真剣勝負のはずであった。ところが一度や二度の成功で牙城を築きその後勝手放題の方々が支配している。それはあたかもかつて列強の帝国主義に等しい。個人レベルでそれがはびこっている。内容のない方々の勝手横暴が目に余る。平将門もそれで挙兵した。天草四郎時貞もジャンヌダルクも同じである。 第二次世界大戦が列強に対する植民地再分割請求であったとしてもそれが正しかったとまでは言わない。しかし同じようなことが低レベルで繰り返されている。さらば古き精神である。人類の真の願いは何であるのか。明明白。歴史は繰り返すとしていつまでも甘んじているわけにはいかない。すでに21世紀、人類も齢を重ねた。地球もそうである。新しい時代への脱却も考えていい。心の大地は開かれている。そのための戦いも終わっている。内面を制するとはどういうことか。神仏に守護されるとはどういうことか。おとなしく死火山となることではない。見える世界は見えない世界から見られている。正しいものには導きがある。己に恥じるところなくんばすなわち吉。やがて蓮華の前に化生する。あらゆる世迷いごとが晴れる。カクネンムショウを知るときがくる。だれにもくる。今生でくるものが幸いである。知れば迷い知らねば迷う法の道である。この法、何とするか。自信を持って言い切れるものがいるか。権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅ぶ、ただ法力あるのみ。法力とは何か。すなわち如来の神力である。冷暖自治。至ってみなければわからぬ。暮らしとは何か。情緒を愚弄する文化は淘汰される。時代の約束である。おろか支配はもう終わりである。夕日には夕日の良さがある。愚痴ばかり言っていてどうするか。悟ったものも暑いときは暑い。なぜ扇を使わぬか。知恵は何のためにあるのか。欲得だけで生きていては明日の保障はない。よく切れる鎌がある。やすく手にはいる。役に立つ。迷惑ばかりかけて何の人生か。空気環境を乱す世の勝ち組セレブのこころすべきところである。日本本来古来の美徳がある。野蛮文化は去ってもらう。牛頭馬頭の時代は終わる。牛頭馬頭とは経済社会及び衆愚テレビの本来価値を愚弄し迎合及び傍観しきたるリーダーたちである。はびこりしその罪は裁かれる。日本本来古来の感性をとりもどす。かつて衆議院選挙の事務局長をした。選挙の実体がどのようなものであるのか少なからず知っている。また真実に反したものの運命がどうなるか見ている。真実に反するとはどういうことか。無記。無記とは荒波を立てないための方便である。台風をも制御する力がある。知らないからといってないのではない。真実証明実験体験済みである。黄泉より受容され守護され授与されたる力である。これをもって真実である。孤高の松。誰にも影響されぬ。自由の姿である。すでに真実が目覚めている。時代は代わった。腐敗に対して容赦ない。真実の螺鈿の槍は見えない世界にかけられ納受された。万軍の主も稽首し黄泉の守護する真実に対して刃向かうものは赦されはしない。神仏を供養するとはどういうことか。ひとえにその怒りを静めることにある。鎮魂である。お客様は神様である?人間の分際が神であるはずがない。お客の中に神が隠れているかもしれないが真実である。だから大切にしなければならない。気づかずに怒らせては大変なことになる。しかるをお客の立場を利用する横暴がある。上には上がある。秩序がある。秩序に反することが本来の罪である。精神レベルでの格差がある。それを無視している。世の腐敗の根本原因である。