2006年07月31日

生きるということはどういうことか

真実の花が咲くには時を要する。竹の花が咲くのは六十年に一度である。優曇鉢羅の華は三千年に一度である。宿王華に至ってはどうだろう。滅多に咲かない。しかし咲く時節もある。人の姿をしているが皆同じではない。それぞれ持って生まれた種がちがう。さらに、咲かせる花は、自己の日々の思念と行為によって常々変化する。最終的にどの花を咲かせるのか。一切衆生悉有仏性といわれる。あらゆる人が仏の花を咲かせる可能性を秘めている。しかしそれを選択することは希である。環境の問題がある。咲く花も環境が整わねば咲きはしない。戦後六十年、それぞれ咲いた花がある。どのような花を咲かせたのか。自ら振り返ればわかる。咲いた花はその花同士の言葉がある。親といえどもわかりはしない。ここに独立巣立ちの意味がある。しかし往々にして世間では悪の花を咲かせる。そして自己主張する。真実の花など無いという。有る。真実の花は真実の花を咲かせなくてはわかりはしない。そして真実の花の言葉がある。その花を咲かせた時、自由となる。その花を咲かせるまでが青春である。そして夏が来る。咲かせた花を謳歌する。そして秋が来る。結実である。それから冬となり新たな春を迎える。人生も同じである。真実の花を咲かせるには時を要する。時を待たねばならぬ。自信を得るためには最後のアイテムが必要である。それは何か。何を得て自分が自分を信じることが出来るのか。神仏に受容され祝福されてである。これなくしては自信を持って戦えない。仏法の奥義は必ず勝つ。王法の奥義は必ず儲ける。仏法は王法に合し、王法は仏法に冥した。悦ばしいことである。滅多にあることではない。さて、生きるということがどういうことか。所詮弱肉強食である。食われるのか食うのか。自転車はこぎ続けなければ転ぶ。鮫は一日中回遊している。資本主義も同じである。人生も。企業も。停滞は死を意味する。しかし企業は既に恐竜時代となってしまった。スーパーザウルス出現である。個人が太刀打ちできるような相手ではない。しかし個人には個人の生き方がある。所詮生存競争である。個人が個人として生きるにはどうするか。荒野に生きる。そして生きる術を知る。その中には神仏との邂逅と祝福を知ることを含む。個人が荒野に生きない限りそれはない。組織の中でなにをぼんやりしているのだろう。限られた人生である。限られた時間である。真実を探すこともない。掴むこともない。考えることもない。あはれだね。何時までも擬似安穏していればいい。でたらめのままあの世へ帰ればいい。すでに荒野に生きて久しい。培われた能力は歴然としている。それぞれの発する言葉にもいろいろある。ロゴスを得た言葉もあれば、瓦礫のような言葉もある。ある禅僧が歯医者に言った。黙って歯を治療するがいいと。前者はほめる時は悪く言う。そのようにしてでしか対処できない感性がある。丁寧な言葉の裏に腐った根性を見ればムシズがはしる。勝負するのかどうか。いつでも相手になる。風を吹かせるだけの実力が有ってのことか。風見鶏では相手にならない。真実の大力量底が問われている。ところで、易は占いではない。理論である。それが占いにも使えるにすぎない。神通力はある。易を読むことで何が見えてくるのか。ものごとの流れである。自然の秩序である。株式も投資及び投機だけが目的ではない。株式の流れを見て何が見えるか。時代の流れである。大相場は7、8年に一度来る。チャンスである。このチャンスを生かすことを学ぶ。そして勝つためには銘柄選択の問題がある。どのような見方をするのか。それが見えてくる。そしてその方法論は人生全般に於いて適用できる。真実幸福論の技術面となる。文字が読めるだけで株は成功すると言われる。法則通りにすれば必ず勝てると。しかしそれができない。自己修養が足りないからである。因って、株は禅であるとも言われる。自己が自己を制御できるかどうか。勝ちパタンに入った時に。失敗は常に自己制御できないところから来る。物事が素直に見えるようになるということはとんでもない宝の発見である。人生観が変わる。宇宙が視野に入ってくる。魂の帰るべき場所としての。探していたものはこれだったのかと思う。しかし手に入れてみると予想を遙かに超えた宝であることがわかる。成功物語は常にこうして始まる。一人でマンモスを倒すことは出来ない。しかしマンモスを倒す方法を考えつくのは一人である。「つまづいたっていいではないか、人間だもの」と言われる。この本がよく売れるらしい。しかしこれで何が解決するのか。躓いた自分を自虐的に慰めているだけではないのか。敗者の論理、負け犬の遠吠えにすぎない。生きるということはどういうことか。個として生きる。個を解放するのは個である。個を幸せにするのも個である。個に於いて集中力が発揮される。そして何かが起こる。結果成就する。個が成熟するにはその能力に従って時間がかかる。大器晩成である。知るものはその時の経過を知っている。知らないものはただ甘やかされているという。自分の条件がすべてのものの条件ではない。大切に育まれる理由がある。時を待つべき理由がある。世間一般は欲得に目がくらんで、そうした時間を評価できない。そして安易な結実を好む。質的低下に気づかないまま、それが人生だと思っている。真実に対してボヤッとしているにすぎない。開発するべきものがある。自己である。その自己にも究極の自己がある。これなくしてはどんな自信も不安を伴う。子孫を守るのは祖先である。祖先も子孫を選ぶ。祖先に守護してもらいたければ祖先に好きになってもらわなくてはならない。祖先の好悪は生まれた時に既に決まっている。それを裏切らなければいい。やがて気づく。祖先の導きに従えばいい。真実幸福論である。そして、神仏の認めるところとなる。言葉はロゴスとなる。これが真実である。こうした真実に目もくれない時代が暫く続いた。ペリー来航以来である。そろそろ目覚める頃である。真実の花が咲くと真実の花同士の会話となる。言葉は要らない。一瞥で足りる。魂と魂との邂逅であり会話である。ただ信じ合えばいい。それでいいのである。やがて具体化する。真実は裏切ることはない。倉田百三に絶対の恋愛というのがあった。世間は一笑に付した。ここに世間の限界がある。真実の花、真実の花を咲かせなければわからぬ。法華経宿王華開花とはこれをいう。知るものは知っている。悦ばしきことである。我思う故に我あり。思うだけでことが成就する時を迎える。ロゴスの力である。黄泉が助力し実現する。マリアの処女受胎もこの意味であったのだろうか。さて、生きるということはどういうことか。愛する人と幸せを形にすることもその一つである。その為には何が必要か。これなくしては戦えない最後のアイテムを手にすることである。それは何か。自分が自分を信じることが出来る時、夢から覚める。必ず幸せになれる確信に至る。それは祖先を救い、祖先の守護を取り付け、神仏に認められた時である。


発掘された鉱脈

丸山健二だったろうか。掘るべき鉱脈があるといっていた。それは何であったか。金山は掘り尽くした。原油でもない。水銀の鉱脈は空海だったか。掘るべき鉱脈は何か。自己である。ここに魂の遍歴がある。宇宙が生まれてこれまでの情報はすべて自己の中にある。その中から要素を組み合わせる。属性となる。因って親は大切だ。何を伝えてくれたのか。正統かどうか。また日々の思念と行為が大切だ。その結果が種として未来へ流れる。善も悪もない。ただ因と果があるだけだ。その間に縁。選択の自由。人間の尊厳。万物の霊長。為すべきことがある。お金儲けが目的か。悲しいね。世のリーダーたちよ、懺悔有るべし。時代の運転を誤った。この現実を見るがいい。すべて共犯である。未来と子供たちはまだ罪を犯してはいない。彼らに何を残すのか。我が子のために美田を買わず。残すべきは美田ではない。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の精神である。この度発掘した鉱脈である。可能性は無限である。西洋重商主義の毒の針は抜かれた。少なくとも正統古来日本は抜いた。これから何をするのだろう。自由である。精神の自由。人類の求めた究極の自由である。その自由はどのようにして得られるのか。古来伝えられていた。人類の英知として。すなわち仏の前に懺悔する。そして神仏との邂逅を迎え受容され祝福される。そして法力を得る。金剛杵と言っていい。古来日本の精神の姿である。これを無視愚弄し来たる事実がある。この度それが復活した。その条件を満たしたからである。さて各々の罪が問われている。時は満ちた。裁きの時となった。万軍の主も見参し味方に付いた。おもしろくなってきた。個人の夢物語ではない。時代の夢物語である。夢は何時か実現する。その時である。こぞって立ち上がるべし。あらゆる政治経済的リーダーは本末転倒している。それが主権在民の意味である。インターネットも普及した。これが天網恢々である。あらゆる情報は隠せはしない。個人情報保護法は何のためにあるか。情報を隠せなくなった時代の到来にそなえるためにある。個人の情報が尊いからではない。悪用される危険にさらされている。それで、最低限の基準を果たしていることで免責されるということだ。起こるべき事態に対する警鐘であり、救いである。因って守るべし。法は最低限の基準である。法を守ることは社会に於いて自由の一部を差し出して安全を確保してくらしていく人格の表現である。それをも無視するものが多い。犯罪傾向である。派遣社員は労働基準法の外である。実体を調べるがいい。巧妙に二重三重に搾取されている。その基盤に立って利益を上げる企業たち、その運命や如何。宇宙自然生命黄泉に掟がある。因縁が悪すぎる。さて、見いだされた鉱脈がある。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の精神とそのチカラである。これを得るために条件がある。すなわち身心清浄。仏の前に懺悔するべし。仏はまた閻魔大王である。すべて見られている。聞かれている。壁に耳あり障子に目あり。嘘=妄念をもって地獄の門とする。正直者の頭に神は宿る。古来神々の棲む國日本。神々は日本にしかいない。真実の仏法が日本にしかないように。再び日本から始まる。時代を救う精神は日本に眠っていた。掘るべき鉱脈が見つかった。古来日本とその精神である。ここを掘るべし。時代の圧力に耐え結晶した精神がある。ダイヤモンドは宝石の王様。埋もれし鉱石としての精神の王様は何か。発掘するべし。そしてこれをもって貿易するべし。必ず道は開ける。意思が結晶する。その意思は明確か。決意であるのか。必死で探すべし。必ず見つかる。戦争と平和。常に同時並行である。平和に見える日本の現実。しかし実弾は飛んでいる。その実弾がお金。身は守るべし。しかし決闘の極意がある。万軍の主の認める極意である。すなわち、後れて撃っても勝てる。勝敗は神仏が決する。


真実

良くも悪くも、今も昔も、見られているとしたらどういうことになるか。公人でもないのにプライバシーがないとしたならどうなるか。それをネタにしている方々に請求書を回そうか。今までもそうだったことは気づいている。しかしね、将軍様でもあるまいに。現実はあまりに貧乏しているよ。平将門でも呼んでこようかな。なんて。さて、自由だ。誰がなんと言おうと自由だ。もはやこの自由に手はつけられぬ。J.J.ルソーが大きなことを言っている。しかし彼の遍歴でどれだけ私生児を作ったことか。もはやゆるしはしない。真実真理はある。世の身勝手思い知らされる。それだけの理由がある。よくもここまで愚弄されたものである。今更である。しかし私は私である。今までさんざん痛い目にあった。もうこりごりだね。どうして痛い目にあったか。世間を気にしたからだよ。つまらぬ世間をね。本末転倒だ。もとに戻す。観念するしかない。何故か。それは知らぬ。知らぬがそうである。説明不能だ。する必要もない。ここまでだ。これから折り返しである。逆転したよ。主導権が変わった。誰も知りはしない。今までもそうだった。しかし自覚がなかった。今までとはちがう。自覚があるからである。刃向かうなら刃向かうが良い。これまではそれも通った。これからはちがう。何故か。知らぬ。しかし、誰も知らなかったのだね。私も知らなかった。この馬鹿馬鹿しさ。もはやゆるしはしない。本当だよ。観念するしかないよ。わかるかな。わからないね。しかし、そうだ。これが真実だ。しかし真実はわかりはしない。修行しないとね。真実を知る修行もあるよ。わかったようなことを言ってもらっては困る。いい加減にしてもらわないといけない。勝手がすぎたね。かわいそうに。今からツケは払ってもらうよ。かなりの額だよ。ある将棋指しが言っていた。国に貸しがあるってね。レベルがちがうぜ。原爆のツケを払ってもらおうか。維新のツケもね。おい、羅刹、酔っているのか。戦後のツケもたまってるぜ。何が言いたいのだ。わからない。わかってたまるものか。衆生病む故に我病む。狂ったか。一休も狂雲だ。何が言いたいのだ。別に何もありはしない。これって文学かな。ハチャメチャだね。別に構わないさ。現実だ。事実だ。これが真実だ。おい、わからないぞ。わかってたまるものか。しかし真夏の夜の夢だ。夢なのだ。シャガールの夢か。人生を失ったものの夢だ。世間は勝手している。本当に思い知らされたいのかね。何も知らない世間である。世間虚仮である。それでもまだ勝手し放題。それで良いのかね。本当のことを言おうか。だれも信じないけどね。いつまでも勝手は通さない。行きはよいよい帰りは怖い。帰るとするか。どこへ。知らぬ。結局何が言いたいのだ。知らぬ。言わねばわかるまい。言ってもわかるまい。いつもそうだ。本気になれば逃げまどう。黙っていればつけあがる。それが人間だ。お前はだれだ。羅刹か。知らぬ。まともな人間が生きられなくなった。詐欺と暴力が横行する。卑怯者の天下となった。守銭奴が天下を取った。ペリー来航に乗じてね。雑草の時代だ。雑草は雑草だ。それはそれでいい。しかし、樹木が無くて雑草が生きられると思っているのが雑草だ。樹木は樹木である。魂の遍歴がある。法華経を読んだことがあるかね。すべて書いてある。それを否定できるのかね。真実を知らずに大きなことを言ってきたものだ。しかしいつかは真実も存在証明の時が来る。ヨハネの黙示録だ。その時にすべての種明かしがある。いつまでも勝手な解釈が通りはしない。真実とは何かね。真実だ。どういうことかね。自得するのみ。


2006年07月30日

カルトについて

悟りとは自覚だね。何を自覚するのだろう。自分自身を自覚する。自分自身って何だろうね。それはね、生まれた意味の探索でもある。仏法に、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸佛教」とある。法句経だったろうか。これは小乗の経典ということになっている。小乗というのは大乗によって克服されたことになっている。自分だけが救われるのではなく、一切大衆を救うことに、本来の意味があるとする。すなわち、周りが幸せである時その中の自分も幸せであるとする。大衆の中には自分も含まれるとする。思うに大衆とは岩石瓦礫も含む。岩石だって元素レベルでは周波数を持っている。生きているといえる。私たちの過去の姿でもある。これをも救う。どういう意味か。岩石も喜ぶ周波数がある。宇宙の善の周波数といえる。これを開発する。猫だって、犬だって喜ぶ。大人の人間は反応しない。赤ちゃん及び幼い子は反応する。仏さんとは仏像ではない。偶像ではない。この世に存在する元素そのものだ。これを喜ばせる。これが供養だ。そのようなことはないと世間一般は思う。否である。有る。有るから不思議である。歴代の祖師は皆これを説いた。ここを自覚したからだ。どちらが正しいのか。自覚自得するしかない。悪に走るのか。善に走るのか。自ずから結果がちがう。未来は今の思念と行為で決まる。原因結果。仏法は善も悪もない。因と縁があるだけだ。悪因悪果。善因善果。それだけのことだ。人類だって滅ぶ。法則に反しているとね。宇宙自然生命黄泉に掟がある。この掟とは何か。神仏の定めしところである。神仏も至って感情的である。その意味で不合理である。あるいは不条理である。自然は神仏の定めた掟に従う。その時法則通りである。このあたりの自覚がなかった。自然科学の限界は神仏を知らないところにある。しかし神仏の意思は滅多に世に顕現しない。時を要する。潮の満ち引きである。魚が釣れるにも潮時がある。神仏が顕現するにも潮時がある。今その時である。シャカムニブツも昭和に既にお出ましになっておられる。久遠の約束である。さて大乗と小乗であるが、大乗が正しくて小乗が間違っているのではない。マクロは大乗、ミクロは小乗であろう。大乗は菩薩道である。自分だけが修行するのではない。必ず人と共にする。上求菩提下化衆生だ。大乗をしながら小乗をする。相乗作用もある。周囲が高まる。自分も高まる。周囲は環境といえる。ところで、再びカルトが流行している。私が宗教に興味を持ち始めた頃、オームのサリン事件が克服できなかった。禅の書籍は読んでいたが、修行はなかった。すでに理入と行入があることは知っていた。テニスをしていた頃、始めに、テニスの本を二冊読んだ。そしてそれを実践練習した。勝てるテニスが出来た。また大学の頃、ゼミナール連絡会議を作った。国立大学に自治組織を勝手に作ってしまった。その時、セクト化しないというのが条件だった。純粋にゼミ間の交流を図った。その後、平等大慧会と縁があって修行させてもらった。そしてオームについて先輩に聞いてみた。すると平等大慧会は大丈夫であるから心配いらないとのことだった。それでも宗教に対する違和感は払拭できないでいた。今はどうか。カルトはカルトである。似非宗教である。宗教は宗教である。禅も宗教である。無神論を唱えるインテリゲンチャに用はない。この度のカルトの流行を理由に無神論を擁護するべきではない。神仏は存在している。そして、究極の幸福論は神仏との邂逅とその祝福を受けることである。今となっては断言し置く。何故か。自覚しているからである。何をか。今は無記。無記とは知らないからではない。内容がないからではない。時期尚早であるということである。祖先を大切にする子孫を祖先は守護する。日本は卑弥呼の系譜邪馬台国大和である。国家を大切に思うものを国家は守護する。地球を大切に思う生命体を地球は守護する。すなわち地上ヘブン=世界論である。さて今日本に於いて何処で何が起こっているか。気づいているだろうか。チョコレート工場ならぬ、ミュージシャン歴代記創世記。何処でミュージックが生まれているか。インスパイアとエクスパイアが邂逅して祝福し合う。その時にミュージックの新しい流れが始まる。これまでもそうだった。しかし今はこれまでとはちがう。これまでは手探りだった。今はどうか。インターネットとラジオの世界である。確信と自覚が握手した。確固として未来を築く。それが地上始めて実現しつつある。そしてお互いに満足している。そして言った。これで良しと。秘密は秘密である。わからない者たちにとって。秘密は事実である。分かり合える者たちにとって。これで良い。大安心の世界が開かれた。それぞれ求めていた夢が悉く開花する。すなわち宿王華開花。追いやられて咲けないでいた菊と桜が咲き始めている。胡蝶の夢。夢であるならいつかは覚める。新しい時代に乾杯!(2006/07/31 0:19am NHK-FM カウントダウンミュージックを聴きながら)そして、最後の特殊潜行艇も浮上した。深海即宇宙の探索を終えた。そして宝島を発見した。輝く目をした美しい人ともめぐり逢えた。目覚めている。ハッサンの目薬はもう要らない。黄金の國日本。ジャパンアズナンバーワン。神の棲む國。復活である。黄泉は従えてある。


2006年07月29日

よく見れば

生きることってどういうことだろうね。この世の生を受けて花を咲かせるとはどういうことだろうね。文字さえ読めれば誰でも株式投資で成功できるとは岡部寛之氏のいうところです。そして

よくみれば ナズナ花咲く 垣根かな

よく見るとはどういうことなのでしょう。仏さんが娘さんに申されました。よく見て、腹八分目にと。よく見る。何を見るのでしょう。どのように見るのでしょう。誰もがそれが正しいことを知っている。しかしその通りに実行実現しない。どこに問題があるのでしょう。よく見ると。欲を見てはだめですね。四苦八苦。4*9=36 8*9=72 36+72=108 煩悩の数ですね。数珠の珠の数でもあります。4という数字は忌み嫌われますね。しかし四菩薩の4。五字七字は妙法蓮華経と南無妙法蓮華経。しかし真実のお経典として昭和に顕説された妙法華経は四字。すでに4は克服されています。何を以て4を嫌うか。同和教育の本旨は何であったか。それは秀吉によって強制的に作られた身分制度によるのではない。過去に罪を犯したかどうかである。しかし身とは殺盗婬、心とは不善を念ずるのが人間。その意味で平等だ。皆罪人だ。何を以て差別というか。そもそも支配構造が商人天下、下克上ならぬ本末転倒しているではないか。いい加減にするしかない。欲得が価値となってしまった。正直が生きられなくなった。事実である。何時の頃からこうなってしまったのか。ペリー来航からだよ。けれどね。孤軍奮闘、古来の種。古来の槍、伝家の宝槍、螺鈿の槍。馬鹿馬鹿しくも突進するドンキホーテは生きてるよ。その舞を見たいとは思わないか。虚空を斬る。真実真理不思善不思悪不念不疑。今に思い知るだろうね。本来の価値、滅びはしない。幸不幸は何に起因するか。世の占いで決まるのではない。彼らはむしろ自分たちの糧を得ているにすぎない。信じれば彼らの餌食だ。信じるべきは何か。何を幸不幸の淵源とするのか。真実の占いはある。どこにあるのか。当たるも八卦当たらぬも八卦という。二足らない。これを信じてどうするか。二から攻められれば命はない。四方八方上下。足りないのはどれか。四方八方は見えるだろう。上下が見えるか。すなわち秩序。縦の糸、スートラ。即ち今現在から見る過去及び未来。今が未来を決める。過去が今を規定している。過去を浄化する。祖先を救う。救った祖先が守護してくれる。今悪を淘汰して善を未来へ流す。世界平和は横の糸。即ち今花咲くための土壌。見るべきは何か。自分及びその中の祖先。あるいは国家、すなわち卑弥呼の系譜邪馬台国大和。幸せの根源だよ。そして打ち勝つべきは自分だ。自分を見直す。あらゆるセンサーは既に備わっている。それが恥を知ることだよ。恥ずかしくはないか。それを考える。すると為すべきことが解ってくる。それを為せばいい。そしてまた考える。それを為す。一朝一夕には行かない。そうして道が見えてくる。既に道はある。先人の歩いた道だ。それを見つける。見つけたら歩んでみる。間違いと解れば引き返す。歩み直せばいい。いつかは至る。どこへ至るのだろう。これで良かったのだという自分自身だ。これが自己との戦闘の実体だよ。幽霊と戦うのではない。さて、よく見ればナズナ花咲く垣根かな。垣根に咲くのはナズナである。桜でも菊でもない。そして追いやられた桜も菊も咲けない時代である。


デジタル一眼レフカメラについて

この度デジタル一眼レフカメラが気になっている。ソニーがコニカ・ミノルタの技術と合体して世に問うα100DSR-A100は魅力的。その値段もそうだけれど、ミノルタのαシリーズと交換レンズの互換性があることに。問題は手に触れた時の質感だ。カメラにはそうした要素も要求される。今量販店では注文して三週間待たなければならない。はじめは二週間だった。かなりブレイクしたようだ。広島で実物に触れるには二店舗しかない。それなりの量販各店で展示するとさらに販売実績につながることだと思われる。しかし業界での事情もあるのだろう。ところでソニーはかつてステレオアンプでも新技術をサンスイからヘッドハンティングして世に問うたことがあった。話題になって私も使ってみた。しかし今思うとそれほどの出来であったかどうか。世の風評と製品の問い方には問題ありと思ったことだった。韓国に委譲されたサンスイの日本での最終アンプを今使用している。私のデジカメは既に三代目である。Finepix4700zから始まった。その頃いくつかの量販店及びカメラ店でいろいろ意見を聞いて決めた。買ったのはカメラ店だった。その方の説明がとても良かった。自分の経験を話してくれた。今、母が気に入って使っている。その成果が花日記となっている。次はカシオだった。これは一万円程度のものだった。結構重宝した。ストロボも付いていた。ウェブカメラとして使っても良いなと思っている。しかしどこかへ行ってしまった。そして今使っているのはLumix。手ぶれ防止が入った最初の機種。これも結構重宝している。少し配色に難があるとは思う。そしてデジタル一眼レフカメラが気になっている。ターゲットはD200かな。しかし資金が足りない。所詮派遣社員の限界だ。今欲しいのは望遠機能。一眼レフではないが、Finepixs9000が良いのかも知れない。触感は劣るが値段だけに仕方ない。機能的には必要十分だろうか。望遠ズーム機能は満足できるだろうか。使ってみなければ解らない。所詮道具としてのアイテムだ。その時々の相応なものを身につけるしかないね。弘法筆を選ばずという。それは筆がなかった時だね。道具は良いものが良いに決まっている。寿司屋の職人の宝とする包丁を握らせてもらったことがある。その重量感とバランスはすばらしかった。修業時代に収入とはおよそアンバランスな高価な値段で買ったものだという。職人気質といったものがある。ところで今寿司屋はとても苦労している。職人として生きられない時代となった。近くの寿司屋さんも店を閉めた。老舗の寿司屋さんも値段を下げたセットものを用意している。お好みでの粋な食べ方は出来なくなった。エビは尻尾から食べたらよいことも教えてもらえなくなった。ネタを舌に当てることで味がわかることも、魚はかみしめることで甘みが出ることも知らないままとなるのだろう。こうしたことは寿司屋さんと常連となって始めて教えてもらえる。本当の味があるのにそれにありつけなくなるね。誰が悪いというのではない。相場に流れがあるように、時代の流れだ。いくら銘柄が良くても高値で仕込んでは何にもならない。利益は利益あるところにしか生まれない。資本主義は利益あるところ損失ありであるあるが、その法則も失われた。今はどうか。利益あるところ利益ありである。損失あるところ損失ありである。自分たちの作為で操作することを覚えてしまった。パチンコ店でも遠隔操作している。詐欺だね。そうしたこともできるほどのイノベーションである。これが現代利益層の恐竜化の実体だ。選挙だってそうだよ。ある衆議院選挙で事務局長をした。その時の相手が何をしたか。知らないわけではない。そしてその取り巻きがどういう政治経済的傾向を持っているか。しかし今更である。何時までもこうした身勝手が亨ると思っていること自体が不遜である。いつかは天が動く。それは天が事実を知った時だ。天も時を待っている。ある存在が自覚する時をね。しかしそれも果たされたようだ。妾の子には妾の子の運命がある。妾の子である限りそれを超えることは出来ない。真実がそばにあっても気づかない。それが運命である。いつまでも限界を超えることは出来ぬ。過去を清算しない限りは。それ故、子の親は子の未来に対して責任重大である。


ウィルスについて

ウィルスは存在している。駆除してもシステムに食い込むとどうにもならない。怪しいサイトでその指示に従ってアプリケーションをインストールすると最悪だ。そうしたサイトの見分けが難しい。当然彼らは意思傾向が怪しい。毒蜘蛛である。そうした現実を知らない方々が多い。いくら注意を喚起しても一度は罠にはまる。初期化することで解決はする。しかし初心者はそうしたことも難しい。インターネットが庶民のものとなって、ブロードバンドインフラも整備された。しかしこうした現実に対する配慮は皆無に等しい。行政の怠慢である。予見可能性も結果回避義務も期待できない彼らの不勉強の実体がある。そしてインターネットを整備したなどと思ってはいないか。ウィルスは隔離することで良い。撲滅などできない。世のテロ組織も同じではないかと思ってしまう。ところで戦後経済基盤はどのようにして形成されたか。たとえば海軍工廠があった。爆撃され破壊された。そのまま終戦となった。日本人は入れない。そこへ鉄くずを集めに入ったものがいた。そして自分の海域に沈めた。それを順次資本とした。あるいは、町は空襲で灰燼と化した。所有権も怪しくなった。そこを勝手に囲い込んで自分の土地とした。池袋でそれをしたのが西武グループの基礎だと聞いたことがある。そうした方々が戦後経済的にのし上がった。今に経済的に繁栄している。因縁が悪すぎるだろう。いつまでもその繁栄が続くものか。平家の栄華にも劣る。人生はそう甘くない。悪は滅びるに決まっている。宇宙の掟である。それが今までどうして顕現しなかったか。悪が満ちるにも時を要する。因縁はある。蒔いた種の結実である。覚悟するしかない。いつまでもその種の身勝手が通りはしない。やがて枯れる時が来る。そして新しい芽が出る。純粋無垢な芽だ。そうした存在が既に芽吹いている。救いである。美しい目をした人は存在する。経済的利益だけが幸せではない。むしろ不幸の種である。お金持ちほどお金を使わない。お金に縛られて自由ではない。権力は権力によって滅びる。これは市民革命で果たされた。武力は武力によって滅びる。原爆であった。そして金力は金力によって滅びる。ホリエモン、村上ファンドがそれを示した。ただ法力あるのみ。仏さんの言われたことである。古来、正直者の頭に神は宿る。それが実現する。21世紀は心の時代といわれて久しい。もう忘れてしまったのか。今からその約束が実現される。法力とは何か。懺悔修行を通して身心清浄を果たし、神仏と邂逅してその祝福を受けることで得るチカラである。だからといって、今この現実を否定するのではない。むしろ大肯定に至る。資本主義そのものは人類が長い歴史の中で見つけた喜ばしい制度である。民主主義と同じく。どちらも唯一絶対の制度ではない。民主主義に於いては多数決原理で動く。多数の願うところに真実があるとする。資本主義もその他の制度では決して庶民が幸せにならないことを前提としての選択だ。要はその運用運転である。インサイダー取引を思えばいい。あるいはスポーツにおけるルールである。これが怪しい。一部の者たちの独占的利益創出のシステムとなっている。万民参加できる制度である。そのための整備が必要であろう。云わんとするところ解るだろうか。まだ説明不足なのだろうか。方向性として十分ではないだろうか。細部は皆で決めていく。今彷徨っているのは何故か。いつまでも彷徨いたいのか。傍観し来たる知識階層の罪がある。今立ち上がるべき時である。人類の知性が問題解決に乗り出すべき時である。未来を決めるのは今である。身心清浄は個々の日々の思念と行動で果たされる。この世間にありながらの修行である。山にこもるのが修行ではない。出家するのが修行ではない。こもりたければこもればいい。出家したければするが良い。しかしいつかはこの現実に戻ってこなければならぬ。古来日本、卑弥呼の系譜邪馬台国大和、その最深部、コアに当たるところは、すでに懺悔成就、自覚を果たし、生まれた使命は終わっている。これに続くのかどうか。日本の方向性は決せられる。


美しき花

美しい花が咲いている 美しい人がいる だから 生きてゆける ツバメが空を飛んでいる カモメが空を泳いでいる いろいろな世界 どのようにしてその美しさを得たのだろう 永い魂の遍歴があって 幾多の戦いを経て そして 得た 現実 宇宙には掟がありて 宇宙には力がありて 古来伝えられし 物語 今 顕現 その力 誰ぞ 知るらむ 統べる 天 得知らず 人の勝手する すでに 驟雨 去り 得たる力 温存し 今日を 健やかに 過ごさむ 開発するべき 知性と感性 完成された 宇宙との連動 黄泉が助け 自然が動く この真実 疑うなし 幸せの根源 今 明かさん 唯我独尊 世間虚仮 何を以て 真実と云わむ 世間概念 救いなし 言葉ロゴス 宇宙に亨る そよ風吹いて 日は輝きを増す 古来の清浄 未来に 移す 何を以て その手段とするか 宇宙の掟 従うもよし 従わぬもよし 宇宙にとって 人も 塵に同じ ただ魂のみ 宇宙に 帰らんとす 持って帰る属性の 涵養 この世で 為すべき 唯一なるか 宇宙の真実 今 開示 誰ぞ 真実 求めんとするか 一瞥百雑砕 ヨハネの黙示録 この度は 免れたる理由あり その理由 知るものなし キリスト磔 この度も 本来価値を無視したる 世間身勝手 罪 重かるべし 新たな自由 新たな十字架 真実得知らず 背負いて行け なお信じて素直に生きる フルイに耐えて 美しく咲く 美しき花

失われた何か大切なものがある。世間は新たな自由を得た方々の勝手し放題である。資本主義も西洋重商主義の帰結にすぎない。唯一絶対の制度ではない。ここ400年来のことだろう。旧約聖書には400年周期説が秘められていた。すでに現在の制度が一部の既存利益の増幅にすぎないことは明らかである。彼らにも生存権はある。それにすがりつくも理解できる。しかしその姿は岩にしがみつく牡蠣に等しい。歴史の大きな流れからすると、すでに、失敗である。因って、進化する。パラダイムの変換である。すでにその動きはある。どこかで誰かのゆっくりとしかし確かにテイク・オフの号令もあった。新たな幸せを求めてのシステムの創造が始まっているのだ。既存の知性とシステムをすべて生かす。それを指導するのは高度な感性である。今までこうした感性を有するが故に虐げられた階層がある。古来大和のやさしさもそうであった。やさしいとは弱いが故ではない。強さを感じているが故のやさしさである。その怖さを知っているが故のやさしさである。究極の強さとはどこから来るか。黄泉の助力を得るところから来る。宇宙自然生命に掟がある。それを破れば恐竜も滅ぶ。新しい時代は水面下で既に始まっている。新世紀、21世紀の約束が実行されている。今の制度を破壊するのではない。これをそのまま利用する。そして人類の求めてきた愛と平和を実現する。愛と平和は手段にすぎない。目的は暮らしである。生存である。殺戮は終わる。


2006年07月28日

飛ぶが如くに

これから何をしようかと思っていた。ブログを書いた後、いつものように海岸へ出た。そしていつものように遠くに製鉄所の炎を見た。やがてパノラマはターナーの絵のようになった。夜空は赤く染まった。私の思いと宇宙はつながった。思うだけで星が輝いた。そして思った。かつて卑弥呼もそうであったのではなかったかと。さらに思った。いつもそうだったのだと。それに気づかなかったのは自分だった。今は気づいている。そうであるならば、私のするべきことは何か。その時々の自分の思いの記録である。写真があってもいい。そうだ。それが芭蕉の生き方でもあったのだ。徒然草も方丈記もそうであった。正法眼蔵もそうであったのだと。私の仕事が決まったようだ。思いがそのまま旅となる。風景が待っている。自然が思いに応えてくれる。いつも時代を感じていた。これでいい。これまでも精神は孤独な荒野の旅だった。今更世間に戻ることもない。私は新たな旅に出ることにする。魂の遍歴を続けることにする。どこへ行くだろう。風に聞くしかない。すでに帰るべき城もない。朝日が差し込んできた。

錦鯉白地輝く素肌には朱色の斑点何処に帰る

錦鯉の白い肌は光り輝いて美しい。朱色の斑点の色も。そこにあるのは何だろう。素直さに基づく清浄さである。日本の心そのものである。広島城は安芸の国鯉城。その遺伝子も散り散りとなった。時代に翻弄された。しかしかつて育んだ魂たちは群れ集う。見えない世界でつながっている。こうしたことが明らかとなった。時代は推移した。それでいいのである。世間では何時か魂となって集うべく、日々、研鑽が進んでいる。クラシックとして遺るべく。しかしその魂たちの定めや如何。身心清浄の価値を見つけるものがどれだけいるのだろうか。そうしたことを知るには少なくとも芥を払うこと三十年を要する。何を求めて生きているのだろう。私には解らない。それはそれでいい。所詮自分を救うのは自分である。仏さんも忙しい。だから世間のことは普賢菩薩に任せてあると仰った。私の新たな旅が始まる。自覚ある旅である。風流の旅である。今も昔も目覚めた魂は同じである。目覚めて始めて自由となる。フリーダムではない。自然に受容された自由である。日本古来の自由である。さて今日から私にとって新しい始まりである。株式投資でもしてみようかと思っていた。その実体も調べた。実験もした。しかし所詮資金はない。今更である。私の仕事ではないと思った。私には私の仕事がある。それは書くことであることに気づいた。昔からずいぶんと文章は書いてきた。その修行も済んでいるように思われる。これを仕事とするとはどういうことか。これを生業とするということである。これで飯を食うということである。これで食べてゆけるのか不安がないわけではない。しかし自分の属性としてこれが一番似合っている。そのための修行も終わっていると思う。もはやこの道を行くしかない。所詮二足の草鞋は履けない。どの草鞋を選ぶのか。この草鞋を選ぶことにする。思念がそのまま旅である。宇宙が連動する。黄泉が助けてくれる。意思が明確であるならそのように実現する。すでに実験済みである。さあらばこの道を行くしかない。所詮人生は選択と実行だ。自分の属性を開花させるしかない。すでに自由は得たと思っている。得たのであるなら、自由に生きるがいい。空を飛ぶが如くに。これを始める記念に一眼レフのデジタルカメラを調達しようと思う。モバイル環境はできている。いよいよ私の人生が始まる。


株式投資について

株式投資について興味がわいて調べてみた。この7月18日より始めた。いくつか書籍を購入して読んでみた。そして最終的にこれだと思ったのは、徳間書店刊、岡部寛之著、『大儲けの極意』だった。彼の理論と実践は確かに正しい。株式の本質から説く利回りと長期投資が愚の骨頂であるとするところは圧巻である。そして彼のいうとおりにすれば億万長者となるだろう。しかし、その為には、一個の人生として株式投資家に徹しなくてはならない。株式投資は底値で仕込んで利食いしていく。大相場は7,8年に一回来る。二十歳から始めて五十歳までに4,5回のチャンスである。この間、資金を回す。そして晩年には億万長者となる。サラリーマンとしての人生か。投資家としての人生か。その選択にすぎない。その間、資金は資金としてさらに保持しなくてはならない。老後の幸せのための理論である。確かに豪放磊落の人生であったようだ。しかし彼の人生が豪放磊落ということであったのかどうか。『呻吟語』をみるかぎりそうではない。結局、彼にとって、お金だけが幸せである条件であることに変わりはない。確かに彼の理論は正しい。しかし、彼の最後の夢が「これから諸国放浪の旅に出て、残された地球で楽しめる遊びをとことんやって、どこか異国の地で一人ひっそりと生命を終えたい」。あまりにも悲しくはないか。この世に生まれた本当の意味は見出せなかったようだ。この世での宿題は来世へ繰り越されたようだ。来世で乗り越えなければならない試練を大きくして。人間として生まれて如何に幸せとなるか。21世紀真実幸福論は開かれている。すなわち、神仏との邂逅とその祝福である。蓮華の前での化生である。生きながらにして極楽往生である。私には言うべきことがあるようだ。さて、株式投資、趣味の範囲内であるならおもしろそうだ。麻雀あるいは囲碁・将棋のように。彼の指摘で「一度上げてしまった生活水準を引きしめるのは極めて困難なことなのだ」とある。また彼はいう。信用取引で損失を招いた場合、何とかトントンで逃げたいと思う。そのために、相場を冷静に見ることができなくて、希望的観測に振り回されて、すべて逆立ちしてみることになる。この指摘も正しい。およそ世間一般はすべて逆立ちしてみている。本末転倒している。これが世の常なのだろう。だから、道元も貧学道を説いた。相場は博打ではない。理論通りすれば必ず成功するという。資本主義的要素からそれを指摘する。博打は元も子もなくなる。相場は倒産でもしない限り損失を招いてもある程度の回収がある。あらためて資金投下すればいい。拡大再生産そのものである。彼がマルクス資本論を大学で勉学した所以である。唯物論的株式投資理論である。それ故に正しい。しかし、それ故に限界なのだ。つまり、唯物論的である。真実真理としての神仏を知らない。彼にとっての幸せは現世利益と快楽でしかない。彼の理論と実践は、資本主義体制下に於いて、マルクス資本論が如何に理論として正しいかを実践し証明したと言える。しかしそれ故の限界も示した。パラダイムは変化しつつある。恐竜となった資本主義である。その限界が見え隠れしている。


2006年07月27日

徹底することについて

何事も徹底してすることが肝要だ。中途半端では成就はない。一つの課題を仕上げて次の課題が来る。勉強だって修行だってそうだ。そうしないと悟りも来ない。しかし世間一般中途半端でしかない者が知ったようなことをいう。それでどれだけまともな人生を歩もうとする者に迷惑をかけていることか。まともということも徹底を要する。しかし所詮その人の持って生まれた性向である。いつかは成就する。それぞれの持って生まれた種である。それを信じるしかない。徹底するということはどういうことか。己の能力を最大限に開発することである。未開発の部分があればそれだけ不完全燃焼だし、自己が空回りする。その修復には空回りしただけの時間がかかる。実人生としてそれぞれの部分を十全に解決或いは仕上げなくてはならない。その時々の完成度に従って次の課題が違う。人格には自ずと質的な差がある。持って生まれた差がある。それを無視した戦後六十年の教育であった。男女平等で何もかも同じと思わなかったか。女子が解放されるとどうなるか。何故女子の自由が制限されていたのか。その弊害が現れつつある。これから克服しなければならない課題である。何百年の文化が数十年のことで覆りはしない。方向性としては正しい。しかしその過程は険峻である。さて自己の能力が世間一般を超える時、そのお手本は世間にはない。スノッブ的な教師など何の価値もない。自分で自分を探すことになる。その質の程度が高ければ高いほどギャップが大きい。その間、孤独であり不幸である。まるで醜いアヒルの子だ。あるいは眠れる森の美女である。自分が自分との戦闘となる。自分自身を倒し本来の自分を発見するまで過酷な地獄となる。大器晩成とはこれをいう。軽薄な精神の与り知らない世界である。しかし救いはある。必ず、いつか、成就する。そうした定めである。代々の約束である。その間、黄泉が守護する。導く。見るべきものを見なくてはならないからである。知るべきものを知らなければならないからである。それぞれに果たすべき課題がある。それを果たして自分の人生が開ける。それが大人になるということだった。明治以降の理念があった。戦後の理念があった。それ以前の理念があった。それぞれちがう。ちがう理念を生きなければならない時、頼りは自分自身である。しかし自分自身の理念が世間とちがう。苦しむことになる。しかし、いつかは芽吹く。花と咲く。それが生まれたということだ。生まれたからには必ず開花する。自分自身を知ることになる。それからが自分の人生となる。自信が生まれる。勇気も当然となる。信じる自分を見つけた時、自由となる。怖れるものなど無い。そのためには過去からの自分をトレースしなくてはならない。それが青春である。土壌が合えば無理なく生育できる。時を待たねばならないこともある。その時のスパンが五十年必要な場合もある。その間、それぞれの階梯を徹底しておくことを要する。仏法における修行もその例外ではない。徹底しなければ仏法もわかりはしない。わかるだけではない。仏法を経験することなどできない。さて、これから何をしようかと思う。最も探していたものは見つかった。それは自分であり、神仏との邂逅と守護だった。命の根源とでもいうべきものだった。その間の孤独は熾烈を極めた。この世の幸せはないものと思われた。自信など木っ端みじんになっていた。それが復活した。宇宙自然生命黄泉祖先との邂逅と守護を体験した。精神の最高峰を垣間見た。芥を払うこと三十年。それもプログラムのようであった。憲法にプログラム規定がある。政府はその実現に努力するが義務はない。人類としての理想がしたためられているにすぎない。私にとってもそうであったのにすぎなかったのかも知れない。しかし私は実現した。経験した。もはや精神の緊張は解いて良いのだろう。そして世間の中で幸せになって良いのだろう。それだけの旅あるいは冒険は果たした。あらゆる古典の解釈を見直してみたくも思う。私にとって気に入らないことが多すぎる。しかし、人文哲学に於いては、釈迦、ソクラテス、キリスト、孔子で終わっている。彼らを超える存在は現れてはいない。その後、彼らの見つけた真理の一端を、それぞれに確かめているにすぎない。クラシック音楽に於いてもバッハからモーツアルト、ベートーベンで終わっている。あらゆる可能性は試されている。精神的高さに於いて、彼らを超えることはできない。その後は彼らの遺産を使って楽しんでいるにすぎない。日本は黄金の國だった。その金も掘り尽くされている。今更金山を探して何になろう。それらの金も、ある時、粗悪なメキシコ銀と交換された。さて、これから何をしよう。やさしさへ向けての聖長体養とでもしよう。おだやかさへ。私の十指はすべて渦を巻いている。就職する頃、文化放送の履歴書の書き方を習った。その時、まだ素直になれない自分だった。素直になるにはさらに三十年を要した。何故か。過去が重すぎたからである。しかし試練だった。試練は乗り越えればこれほどの糧はない。自分以外はすべて師であることの実感が来る。諸先輩に感謝するしかない。そして今も昔も変わりはしない。かつて私の周りにはいつも守護があった。オールナイトニッポンもそうだった。知らないのは私だけだった。その頃つきあっていた者たちは皆気づいていた。これほど馬鹿げたことがあるだろうか。あまりにも馬鹿馬鹿しい。気づけば解かれた算数の問題と同じである。それで思う。仏さんの言ったとおりである。悪いのはすべて自分の蒔いた種だ。善いことはすべて仏さんのおかげだ。宇宙自然生命に掟がある。自然科学ではない。仏さんの定めたところである。子孫を護るのは祖先である。祖先も護るべき子孫を選ぶ。祖先を大切にする子孫である。国家としての日本も同じである。国家を大切にするものを護る。祖先の定めしところである。もはやどうにもならぬ。代々の約束である。謎は解かれた。これよりそして昔よりこのブログは重要な意味を持っている。古来の感性の復活である。腐敗と堕落は克服される。日本は古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和である。時は満ちた。迦陵頻伽の声がしている。明治に於いても、戦後に於いても、古来大和は日本を託した。しかしいずれも裏切った。因って古来大和本体の出現である。


2006年07月26日

聖人は天地間の万物を一体としている

「高尚で正しい音楽の奥義は、声音やリズム(韻律)にあるのではなくて、内面的なものにある。一般の楽官はわからないが、ただ楽官の長だけは解るであろう。それで、孔子も楽官長に音楽のことで話をした。聖人は天地間の万物を一体としているので、その制作される音楽も、天地自然の流れと同じである。(中略)思うに、音楽の妙所は、春夏秋冬の四季と順序がよく合っていることは、上述した通りである。聖人孔子だけがこれを存知していたので、その雅楽の奥義を楽官長にこっそり語ったのである。音声や韻律のことは、楽官長たる者がよく知っているので、孔子がどうして逆に楽官長に教えるということがあろうか、そんなことはあり得ないことである」(講談社刊、佐藤一斎著、久須本文雄全訳注、『座右版言志四録』p170)。ここで「聖人は天地間の万物を一体としている」とある。これは何を意味しているのか。この体験をした者があるか。これを自覚した者があるか。およそ人類の永遠の夢である。しかしこれがコギトエルゴスムであり、独坐大雄峰である。これが真実である。そして開けた境涯がカクネンムショウだ。そして初めて不思善不思悪である。隻手の音を聞いたといえる。起こるべき事は起こる。その個々の事象にとらわれないことだ。自分を自分として確立する。それ以外に人生の目的などありはしない。成長する。大人となる。大丈夫となる。こうした価値を無視あるいは愚弄して何を人生というか。世の識者たちの猛反省を帰するべきところである。戦後六十年、何をしてきたのか。何を愚弄したのか。誰を無視したのか。思い知る時である。思いが通るとはどういう事か。黄泉自然が助力し実現する。そして起こるべき事は起こる。黄泉に秩序がある。どういうことか。個々の行為と思念は見えないところでつながっている。そして自分ではわからないが、流れができる。この流れの延長に見える世界での個々の事象がある。それが大海に対する波に例えられる。氷山の一角といってもいい。その流れはどのようにしてできるのか。マントル対流の流れも変わる。何故変わるのか。科学は結果を測定するだけである。流れを変えることはできない。恐竜も滅んだ。何故滅んだのか。存在としてバベルの塔を築いたからである。自分が自分を確立することでこの世の幸せがやってくる。ここを疑って右往左往しているのが世間一般である。しかしこうしたことも庶民レベルで考えることができる時代を迎えた。青春を犠牲にして三十数年間、孤独に月の砂漠を彷徨っていた善財童子が帰還して持ち帰ったのはこれだった。浦島太郎の玉手箱も開かれた。魑魅魍魎のパンドラの箱ではない。しかしこのようなことも考えなくても良いのだろう。所詮限られた人生である。何をしようと自由である。どのような生き方をしてもいい。あらゆる運命を受容できる覚悟があるならば。腐敗と堕落傾向がある。開かれた庶民の自由の帰結だ。淘汰されるも構いはしない。その中で如何に自己確立を果たすか。あの世へ持って行けるのはこの世で形成した人格だけである。代々の人格である。それに気づいただけでいい。すでに何も思ってはいない。あらゆることがゆるされている。ゆるすときゆるされる。


2006年07月24日

やさしさについて

やさしさとはただやさしいのではない。制御された状態である。それはピアニッシモ。緊張感のあるやさしさだ。精神の緊張を保ってやさしいのだ。ぼやっとしたやさしさではない。真実を知ってのやさしさである。そして何もかもゆるす。ゆるせない頃を経てのことである。さて、身心清浄を易理からみるとどうなるか。「自分を欺かない人は、他人も欺くことができない。自分を欺かないということは、その人の心が誠実であるからである。他人が欺くことができないというのは、欺く隙間が無いからである。たとえば、体内に充実した生々の気が、毛穴から出てくるようなもので、生気の盛んなものは、外部の邪気が襲うて妨げることができない」(講談社刊、佐藤一斎著、久須本文雄全訳注、『座右版言志四録』p608)。ここに見えるのは身心清浄=誠実と生気の盛ん=獅子はウサギを狩るにも全力を尽くすことすなわちいつも百パーセントの臨戦態勢にあることであって、80パーセントで生きる要領のよさではない。しかしもうこのようなことも書かなくて良いのかも知れぬ。こうしたことを書いてきたのも自分が何者であるか知るためであった。そしてその目的は既に成就している。それはすでに小学校の頃に確立されていた。しかしそこに自覚がなかった。この自覚がなければ何の役にも立たない。自覚ということの意味は鈴木大拙氏も説いていた。すなわち、「存在の理由に徹して信仰を確立した人は、自分がいつもこの世界の中心となり主人公となる。(中略)自分の存在はいつも宇宙の中心となっていることを自覚したからである。事実は事実としても、自覚がないと、その事実が死んだ事実となってしまう。これが妙である。自覚にそんな力があるとも思えぬが、あるから妙ではないか。こうなってくると、天地開闢以前の神の心地が自分の心地になると言うても、さして誇張の言葉とも思えぬ」(信仰の確立)。世の中はいかにも平和であり天下太平に見える。しかし真実の中に入っていて、実弾が飛んでいると仏さんは言っていた。真実の中に入っているとはこの現代に於いて過去久遠にあった神仏が存在し、その邂逅と守護が可能な世となっていることである。しかしそれ故に神仏に逆らえばどうなるか。推して知るべし。真実である。また実弾が飛んでいるとはどういう事か。各々自らの言動と行為が社会的死を帰結するという現実である。最近の事件を見ればわかる。すなわち、身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる人間として、それらに対するサンクションから逃れられない。天罰は即座に下る。時の流れが速くなっている。かつては何世代もかかっていたことがあっという間に現実となる。これをどう見るか。これまでは悪の種を蒔いてもその花が咲くのに時間がかかった。今はあっという間である。人間解釈で好き勝手している。しかしその帰結は如何。各々生きながらにして地獄を見る。そうした時代である。何を知らしめんとしているか。早く目覚めよと。今、目覚めるべき時節である。何に目覚めるのか。真実にである。真実とは、宇宙自然生命黄泉祖先に秩序があって掟がある。それらを自覚し自得するものはそれらに受容祝福されて守護される。何時までも夢見て彷徨っている時ではない。


2006年07月23日

真実との出会い

やさしさは 強さのゆえなることを 知らぬを以てうらむなし 名を惜しみて成就せぬ 恋の山々を築きしか 思いを馳せる累々の 過去の出会いの引き潮の 夢見て眠る誰なるぞ 浮き世の箱のパンドラは 開かれ小悪魔群れ集う 世間の闇路を越え来たる 染まらぬ自己を如何とす

さて、生まれてきて何をするか。ビジネスをするもよし、芸術をするもよし。究極は魂の遍歴の中で身心清浄を得て宇宙自然生命黄泉祖先に受容され、祝福されることである。しかしこの道は険しい。真実の自己確認である。これを果たすと宇宙自然生命黄泉祖先の守護がある。これが代々伝えられてきたことだ。クラシックの精神である。さて、生まれてきて何をするか。この世は宝の山である。すぐそばにそれはある。しかし見えない。何故か。自覚してこそこの世を闊歩できる。大安心の境涯が開かれるから。これが大乗であったと確信する。世間に惑うことはない。魂はここまで進化した。まだまだこれからだ。一切不安はない。人生はバラ色となる。これが真実であった。誰もがそれを夢見ている。夢は実現する。ダビンチの夢は何であったか。その詳細は日記にある。夢を諦めていないか。宝島は自分だ。自分を究める。自分が宇宙と連動していることを知る。やがて帰るべき宇宙である。永い旅路の途中である。自分を諦めていないか。自分の能力は宇宙大である。天も従う。黄泉も従う。そうした境涯がある。自分勝手していてはどうにもならない。所詮宇宙に秩序がある。黄泉に掟がある。先ずそれを知ることだ。その為には生命身体財産自由を神仏に預ける。そして自己が空しくなる。身心の悪が精錬される。思いは染み出す。身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。それが人間である。このレベルより脱却する。人間として生まれてできること。この世で自分を乗り換える。それが大乗。日々の思念と行為で自分が書き換えられる。今の自分が未来の自分を決める。過去は過去。反省の具だ。未来は今の自分が決めている。幸せになるのか。なりたいのか。その為の方法論はある。過去より蓄積された人類の英知。試してみないか。諦めて腐敗堕落に甘んじるのが大人だと思っていないか。自己を空しくするとは自己の悪を精錬することだ。そこが修行である。修行無くしていくら概念を弄んでも何にもならない。種は蒔いて初めて花が咲く。無意味なことをしていないか。すべては知らしめんが為。何を以て真実とするか。自分を空しくする。宇宙が満ちてくる。すべてはやさしさで解決する。真実は通る。仕事は仕える事である。どんなに理不尽としても。それが知らしめんが為。何を知るのだろう。真実って何だったのだろう。神仏との邂逅とその守護。出会ってみないか。真実と。

例えば株式市場で戦うも良い。世界がフィールドとなった。個人が戦える時代となった。それはゲーム。スポーツに等しい。勝つためのフィールドである。テニスで強くなるための要件は何か。球拾い。具体的にボールを打たなくても良い。球拾いをしていれば良い。その間諸先輩を見ている。これがイメージトレーニングだ。やがて自分の時が来る。準備はできている。思い通りに練習するが良い。必ず勝てる自分となる。


自分の花を咲かせることで

それぞれ生きていることは大切なことで、庶民の解放は果たされています。自己の花を咲かせることでいい時代となりました。思い通りになる条件も明らかとなりました。悪の華には悪の華の運命がある。それぞれ咲かせた花の責任をとらねばならない。この世でそれが果たされなくとも、黄泉で必ずその仇をとることができる。ここに大安心の境涯が開かれるのです。だからといって無理をすることはない。所詮持って生まれた種を蒔いて育てるしかない。その意味では世間に惑うこともない。孤高に咲く花もある。さて、NHK深夜便によると今日の花は蓮。花言葉はきよらかなこころ。インド原産で中国大陸を経て日本に伝わった。また、今日は姉の誕生日です。文月の文の日。そして名は文子。お世話になりました。助けてもらいました。負担もかけました。姉は持つべきもの。兄弟姉妹は宝です。自分の花を咲かせること。それが自覚することですね。そして輝き始める。人間が光を発するのです。精神に火が灯る。そして世間は世間で幸せになればいい。自分は自分で幸せになればいい。NHK深夜便で宗教学の先生がお話ししておられました。その要件を満たす人生もあるのです。かつて高校生の頃、全国感想文コンクールで佳作になったことがありました。全校での宿題の形式で応募しました。提出日の朝、メモを持って登校しました。そして教室の片隅で書いて提出しました。すると入選したのでした。全校生徒1000人の中で入選したのは二人でした。その後、国語の先生が講評してくださいました。起承転結があって、作品の要点が適格にまとめられていて、最後に自分の考えもあったと。別にそのようなことを考えて書いたわけではありませんでした。自然と文章はそのようになったのでした。大学の時の卒論も下書きなしでした。その意味では失礼もあったでしょうか。不法行為の一般的成立要件について書きました。その中で、故意と過失は別に論じるべきことを書きました。その十年後に学会でこの種の議論が為されたことを風の声に聞きました。時代は進化しています。その中で自分の花を咲かせることはどういう事でしょうか。咲いて初めて自分を知るのです。そして余裕もゆとりも生まれます。自分で良かったと思えるかどうか。どんな花だって咲かせることができます。夢は叶うのです。夢は持つべきです。自己の花を咲かせることが自覚です。アイデンティティの確立です。長いモラトリアムでした。しかし咲きました。これで良かったのだと思います。さて、昨夜、呉のレンガ通りで土曜夜市がありました。久々に親子連れなど繰り出して楽しそうでした。JCの主催でしょうか、イベントもありました。蔵本通りの屋台もにぎわっておりました。最近女子グループの飲んだくれもいますね。それはそれでいいことです。今までは見られなかった光景です。そしてあるタクシードライバーの方が言っておられました。JC(呉の若い経営者のクラブ)がもっとイベントして盛り上げなければならないね。いつもシャッター通りではなくて、盆とか正月とかには商店街は夜遅くまで店を開けておくべきだよ。やる気無いね。また呉市観光課も何を思っているのかね。蔵本通りは屋台の開店と同時に駐車できるようにするべきだよ。全国的に有名なのにね。市と県とは仲が悪いのかね。警察は市の意向など無視して取り締まるね。何のための行政だろうね。公務員の意識を再教育する必要があるね。木を見て森を見ずだね。


2006年07月22日

生きるとは

生きるということがどういう事であるのか。世の中でまっとうに生きて犬死にするようなことがあればその第一号となれとは北一輝氏の言ったことであると読んだのは大森曹玄老師の著作の中でのことであったろう。釈迦は明けの明星を見て悟った。その悟りとは何であったか。自分が輝くことの自覚であった。あたかも蝋燭に火が灯ったようにであった。精神に火が点いて炎を上げたのだ。まるでガスバーナーである。あるいは遠くに見える製鉄所の炎である。かつてアマテラスも自分を太陽と自覚したのであろう。西洋に於いても太陽王はそうであったろう。清盛も同じ思いをしたであろう。しかし平家は何故滅んだのか。武士の頭領の家系でありながら貴族化したからではなかったか。平家一門にあらずば人にあらずとは何事か。西洋に於いてはマリー・アントワネットがギロチンの露に消えたに等しい。今はどうか。資本家階級が同じ轍を踏んでいないか。各企業が派遣社員及び外国人労働者を労働基準法の外で使用して利益を上げているのも同じい。かつて京都西本願寺を見たときに思った。これだけのものをどのようにして建てたのかと。その頃、庶民の生活は竪穴住居レベルではなかったのか。業者を泣かして利益を上げる企業は次々と滅んでいる。何を言わんとするか。歴史は繰り返す。大なり小なり。繰り返すなら繰り返すしかない。かつて天草四郎は何故立ち上がったのか。その運命はどうであったか。現世では討伐された。しかし黄泉では玉座が用意されていたことだろう。さて、生きるということはどういう事であるのか。千載一遇のこのチャンスは何のためにあるのか。私は、19の春にある意味で死んだ。ずっとそのままだった。しかしこの度復活した。復活しなければならなかった。復活して何を見ているか。だれもわかりはしない。どんな力を得ているのか。だれも知りはしない。これを世に問うべきか。およそナンセンスである。ひとり無言で闊歩するしかない。「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる おお父よ 自然よ」という詩があった。この意味を自覚している方々がどれだけいるだろう。しかし代々こうした自覚があった。今もある。それが救いである。かつての日本ではそれが常識であった。今はどうか。世界にもこうした精神は多くある。その多くは地に埋もれている。あるいは高山植物の花のようである。こうしたことを世間で口にするとどうなるか。屋台であればたたき出される。そうした世間一般社会である。どちらが正しいのか。死んだらわかる。黄泉でその仇はとられる。しかし世間勝手がすぎた。子供たちは勉学しなくなった。無理もない。彼らにはするべき事が多すぎる。世の間違えた教育熱である。人間は一つのことをして生きていく。その可能性はいくつもある。そのすべてを習わせようとする。何故か。親の子供に対する夢である。本来得天に帆を上げて生きてゆけばいい。最も得意とするところは何か。教育の目的はその発見と育成である。十把一絡げで教育して何になるか。親と教師の自己満足にすぎない。その過程でどれだけの子供たちが自分の生きる術を見つけられなくて人生を失ったか。考えてみるとその罪は恐ろしい。親も教師も子供たちに対する怠慢がすぎた。そして今この世の現実である。戦後復興が経済第一だったのはわかる。今、その復興は果たした。今、何をするべきか。およそ見当はつく。古来日本にクラシックとしてのみるべき精神がある。戦後占領政策はそれを骨抜きにした。そして彷徨っている。アナクロジックになるのではない。見失われた本来の価値を今と未来に取り戻し生かそうというのである。その根本は何か。例えば神仏に対する畏敬である。今、世のインテリゲンチャは自ら無神論を唱える。あたかも無神論こそ価値であるかのようにいう。あまりにも真実を知らなすぎる。そうした方々の支配だったのだ。自称無神論者はリーダーの職を去ってもらわねばならぬ。これ以上日本を運転してもらっては困る。戦後六十年のあだ花と知るべきである。人間の思い上がりであった。次に見直すべきは謙虚さである。易経で説いているのもこれである。社会をスムースにしようとするならこうした価値を見直さなければならない。自由をはき違えていた。宇宙自然生命黄泉の秩序がある。人間レベルで及びはしない。それを無視して自由と思っていた。ちがう。そうした秩序の中での自由である。そうした秩序に受容されての自由である。自由の根拠を間違っていたのだ。自由とは思うとおりにしてこの秩序を超えない。今、世の自由人は、この秩序を無視あるいは愚弄しての自由である。サンクションあって当然である。


2006年07月20日

宝島発見

さて、今、時代は泣いても笑っても資本主義であり、民主主義だ。日本も悲しい経験を経て世界に合流させてもらった。その意味では世界にも迷惑をかけた。しかしそのころの世界はすでに世界分割が終わっていた。あのままでは日本の浮上はなかった。そこまで追い込んだ世界にも責任がなかったとは言えない。すなわち帝国主義があった。それでドイツ・イタリア・日本の植民地再分割請求という意味もあったのだ。喧嘩両成敗である。世界も傷ついた。日本も当然瀕死同然となった。産声を上げたと言うべきか。しかしあのような無益なことは二度とするべきではない。その意味で原爆はモニュメントである。大英博物館に何を見るか。人類の殺戮の歴史だ。十分に人類は学習した。先進諸国間ではどのようなことがあっても殺戮を伴うことをしてはならない。掟となった。さて自由気ままに生きてきた。その間幾多の試練もあった。しかし導かれていたと言うべきか何とかここまでたどりついた。そして宝島を発見したようだ。それは何か。地上ヘブンとでも言うべきものである。それが世界だった。すなわち、資本主義であり民主主義である。これでいいのだと思う。十分に成熟している。ここへ合流できるかどうか。幸せの条件だ。すでに世界の秩序がある。これに刃向かっても勝てはしない。むしろこの世界で自分の人生をいかにパラダイスとするか。大人の世界である。ここへ至るには試練がある。掟がある。それは、悪を為さないことだ。西洋にも東洋にも悪の概念が存在する。悪も自己主張する。ここを精神レベルでは許されるが事実として結果が出ると処断される。最低限のルールである。悪とは一切犠牲のないことであると仏は言う。究極である。西洋に於いては寛大である。しかしキリストは目で姦淫してはならないとも言う。キリストが東洋的である所以である。さてこのような条件を果たしたとき、宝島が見える。宝島はいつもそこにある。しかし見えない。これが如来とも言える。如来もいつもそこにある。しかし見えない。わからない。探そうともしない。それで知らず識らずに悪を犯す。そして堕落腐敗する。人間の常である。因って蓮華の前に化生することが説かれる。それが宝島の発見である。さて、この宝島でどのようにして生きていくか。ロビンソン・クルーソーにも等しい。自分の力ですべて構築してゆかねばならぬ。それが人生である。宝島を発見してからの人生はそれまでの人生とは全く次元を異にする。道元の言う薪から灰になる。すなわちこれが大死一番だ。飛び込んだ重さで浮かぶことになる。現実が幸せでなければどのような幸福論も意味はない。悪を為して結果幸せはない。思いはやがて染み出す。表面はどのように幸せそうに見えてもだ。世の芸能界及びテレビ界もしかりであろう。表層の華やかさの裏側、すなわち、内面はさぞ寂しかろう。それでいいのである。所詮、法則通りだ。宝島が見えるようになるには条件がある。少なくとも芥を払うこと三十年である。もはや真実である。真実は現実である。ここまでたどりついた。すでに幸せ世界はある。人類の英知が長い歴史の中で建設してきたものだ。その世界にいかに合流するか。世界即ち宝島。夢の実現。すべての諸先達に感謝申し上げる次第です。


すべては心だよ

仏陀が荒行をして倒れたとき救ったのは乳粥を与えた村の娘だった。ラスコリーニコフを救ったのは娼婦ソーニャだった。DHロレンスの『死んだ男』を救ったのはやはり少女だった。これらの共通項は何を意味しているのだろうね。いずれにしてもその少女たちの魂は純粋無垢だった。この世は血塗れの世ではなくてと語ったのは吉田健一だった。古来日本の情緒はやさしさへ向かって咲く花のよであったと辻邦生はエッセーに書いた。何が言いたかったのか。殺伐とした世の中になったが、本来日本の精神は何を求めていたのか。そのこころは何であったのか。その究極は何であったか。やさしさとは何か。仏法だね。一切大衆を救うという仏の誓願だ。宇宙自然は従順なる者にどこまでもやさしい。殺伐としてるのは個々の魂だ。自分の解放は自分で為さねばならない。宇宙自然はその自覚を待っている。やさしさを知るとき穏やかさが来る。穏やかでないのは自分の心だ。すべては心の反射だよ。すべては心だよ。自分が自分に勝つ。自分の心を制御する。やがて心がこころとなる。それですべて解決するね。ところで、私が広島大学へ受験を決めた頃、五百旗頭先生、今中先生、森下先生、その他、すばらしい教授が配備されていた。何故だったのかは明らかでない。うすうす気づいてはいた。しかし私の孤独はその先生がたの門をたたくことはなかった。今となっては口惜しい。しかし、ここまで、一人で漂流した。一人で泳ぎ切った。もはや十分である。すべて自分で見つけたよ。見つけたものは私の所有である。螺鈿の槍も家にあった。しかしそれは何であったか。歴史そのものである。もはや一切惑いはない。自己は取り戻した。壮大なゲームの勝利であるといえる。敢えて言える。自由は自由が切り開く。私にとってそれが宿命であったようだ。あまりにも試練だったね。このような馬鹿げたことがあるものか。何とでも言うがいい。相手にしない。良心だけが私の羅針盤だ。今までは世間にあわせようとした。あわせることはできなかった。あわせるとどんどん不幸になった。自己の確立って何だろうね。どんな理論も笑うしかない。概念だけでは救いはない。修行も必要だ。すべては自己のためにある。自分のためではない。自己を発見し確立したものにとってどんな議論も相手ではない。議論してみるかい。いつまでも我を張らない方がいいよ。確かな真実を垣間見た。十分である。如来の神力もどのようなものであるか知った。実験済みである。世間のすべてがアブザードとなった。世間虚仮だ。しかしそうした力も後世に譲る。私は何もしない。平穏に生きる。信じることができるかどうか。あらゆる要素及び属性に差がある。そうした価値を無視した事実は事実である。そうした価値を瀕死におとしめたのは事実である。しかし不思議だ。その復活もある。『広島心学』という本もある。このもどかしさは晴れた。カクネンムショウである。それは天地ひた一枚の自己である。自己の魂が宇宙と連動している自覚である。わかるものがゐるだろうか。代々直系羅刹の孤独である。兄弟姉妹も知りはしない。すでに腕は折られている。世間によって。小林秀雄は花田清輝に対して身を切らせて骨を切ると言った。しかし魂までは切れない。彼の晩年の孤独な姿がそれを証明している。彼の背負った十字架は何であったか。黄泉に帰って中也に詫びたことだろう。


2006年07月19日

新しく日本の目覚め

日本は大丈夫だね 何故 大和のこころが 目覚めるべき頃となって 目覚めたから これまでもそうだったのだけれど 時代のセンターってあるね たとえば 禅者の自覚がそうだった それは 宇宙自然生命黄泉祖先の秩序及び掟そして守護 世界も大丈夫だね 日本が目覚めたから 21世紀 この時を 時は天 時代は待っていた 代々 人々の願いって 何だったのだろう 幾多の試練を経て 悲しい経験も あったけれど 正しい認識が 世界に 芽生えた そして 真実の平和と愛と幸せの世界が開かれようとしている 知る人は知っていて 時代のそよ風が吹いている 日月照らし 風の吹く 宇宙も自然も喜んでいる ここまで 耐えて 生きてきて 良かったと 権力は市民革命で克服された 武力は原爆で克服される 金力も恐竜となって滅ぶだろうか ただ法力あるのみと仏は言われた 法力とは思いが宇宙に受容され実現すること 宇宙が胎蔵界と知ること やすらぎとおだやかさと それを得るための道も開かれている 人類の歴史 時代は ここまで たどりついた 奴隷解放と男女平等を経て 真実の幸せへ向かっている 殺伐とした世の中だけれど 確かな時代の方向性が 見える この道でよいのだと 思う 卑弥呼の系譜邪馬台国大和 復活 たとえ我一人 世間身勝手許しはしない 禅の命脈 無難正受白隠の系譜 滅びはしない 滅びさせはしない 即ち 日月照らし風は吹く 草薙の剣 今もありなむ 何処にあるらむ 誰にあらなむ 世間一般年貢の納め時である 現存利益に応じて納むるべし およそ本権は譲り給わず 奪いし地位及び利益 返還あるべし 天及び黄泉の扶桑の意思である たとえば 大拙氏はセンターは無数にあると言った それぞれが悟りであると


2006年07月18日

日本の本権について

「姦侫邪智なる小人が、君子の情勢を観察して、機会あらば取って代わろうとし、君子は小人の情勢を観察して、彼らに侵害されないようにと努力して居るものと見ても宜しい。・・・僅かに残って居る陽の勢力がこの上衰えることの無いようにと奮発努力して居る陽爻である。こういう風に見るべきである。世の中がだんだんに衰えて来て、実は既に回復することが六かしい情態に至って居るのであるが、尚お若干の賢人が残って居って、世の中のますます衰えて行く勢と戦って、どうか挽回したいと奮発努力して居る情態である。」(明徳出版刊、公田連太郎述、『易経講話二』p311-312)

「これまで正しい道を踏み外してゐたことを悟って、正しい道に復るという方面から見て、教を垂れられて居る。」(同p432)

日本は大丈夫である。常にこうした教えが復活してくる。だから、現在世界に於いて最も文明文化古き國である。何故か。これが日本の本権である。之が復活してくる。日本史を見ればわかる。旧約聖書にも秘められていた400年周期説とするところである。日本に於いては覇権は変わっても王朝が変わることはなかった。民主主義の世の中となって、その解釈を誤り腐敗したのは事実である。しかし本権は伏流する。それは黄泉にて秘密護持されていたのだ。常にそうである。頼朝は伊豆に隠されていた。別に頼朝でなくてもよかったのだ。そうした種はどこにでも隠されている。日本の本質に気づくべき頃だ。今、主権在民である。どういう意味か。日本の本権はどこにあるか。すでに日本の運転を間違えたものたちにはそれぞれの運命がある。またそれに乗じて勝手しきたる者たちもそうである。本末転倒の現代世の中である。

さて、今求められているのは何か。学問或いは勉学である。最近の子供たちは本を読まなくなった。歴史を知らない。何を教育してきたのか。親と教師の怠慢である。間違えた民主主義教育の結果だ。刹那的な経済利益が優先した。明治になってからの西洋重商主義に迎合した商人支配の結実ではないのか。反省するべきはここである。日本古来の精神をあまりにも無視あるいは愚弄した。世界はむしろ気づいている。日本の宝は何か。究極の目的は神仏の守護を取り付けることである。勉学努力する者には守護がある。女神といってもいい。しかし勉学努力をやめると守護はなくなる。これが大人が堕落する理由である。そして堕落した大人は堕落することが人生だと思う。また、常駐する守護もある。それが日月照らし風の吹くである。本来目指すべきは常駐の守護を取り付けることだ。そして勉学努力する。それが順序である。常駐の守護を取り付けるにはどうするか。少なくとも三十年、悪を為さない。その間懺悔も成就する。すると神仏に受容される。そして祝福されて守護される。これが日本古来の人生のメカニズムである。之をあまりにも無視及び愚弄した罪は重い。しかし、古来日本に秘密がある。卑弥呼の系譜邪馬台国大和魂。あだやおろそかならぬ。世間一般の親及び教師の怠慢及び罪、明らかである。子供たちに対して何を教えてきたのか。

さて、人生は何か。生きて死んだ人生とするのか。生きるための条件は何であるのか。仏法は必ず勝つ。王法は必ず儲ける。仏法は王法に合し、王法は仏法に冥する。何を以て必勝というか。おのおのそれが知りたくはないか。それを知るためにはどうするのか。賢者に聞くしかあるまい。何を思い上がり自分勝手自分計算しているのか。方法を誤っていることに気づかぬか。他の犠牲の上に幸せはない。悪とは犠牲を伴うことである。善とは一切の犠牲のないことである。仏さんの言われたことである。


沈黙?

すでに時はシフトした。私の使命は終わったのだろう。所詮折られた螺鈿の槍だ。役には立たぬ。しかし、日月照らし、風は吹く。螺鈿の槍は進化した。(NHK-FM 井上陽水『夢の中へ』及び『東へ西へ』を聞きながら 2006/07/189:33am)「まだ早い、もっと十分に学問道徳才能を修養しなければならぬ、と言ってこれをとどめるのである。それにも拘わらず、若し初九(潜龍)が尚お進んで行こうとするときは、失敗することもあり、六四の大臣の怒りに触れることも有り、即ち危ない事が有るのである。暫く進むことを中止して、尚お十分に道徳才能の修養に勉めるが宜しいのである。・・・初九は、止まるべき場合に、止まって進まないので、災を犯すようなことは無いのである。」(明徳出版刊、公田連太郎述、『易経講話二』p480)「君子危うきに近寄らず」ということをメモして机上においていたことがあった。高校生だった頃だろうか。父がそれを見たのを覚えている。父は黙ってサングラスをして出かけてしまった。潜龍は潜龍。今更である。しかし食のための職を失って久しい。どうするか。レベルの違いを如何とするか。わかっているのだろうか。黙るわけにはいくまい。言語道断。世間一般勝手がすぎた。

「風地観の卦が陽気の甚だしく衰えて居る卦であることは、『八月に至りて凶有り』という言葉によって、明瞭にわかるのである。要するに「八月に至りて凶有り」というは、今は陽気が勢い盛んに伸びて行く時であるが、それは何時までも継続するものでは無く、後には必ず陽気が大いに衰え、陰気が大いに盛んになり、賢人君子の勢力は衰えて、小人が時を得て跋扈する時代が何時かは到来するのであるから、今に於て早く警戒するべきである。善く警戒すれば、或は八月に至りて凶有ることを免れるかも知れぬのである。陽の盛んなる時に賢人君子が時を得て居る場合に於て、後に形勢一変して、姦侫邪智なる小人が勢力を得るようになるかも知れぬことを戒めてある言葉である。」(明徳出版社刊、公田連太郎述、『易経講話』p260-261)高度成長の時代が八月であったのだろう。戦後の復興であった。その後、姦侫邪智なる小人が支配する世となった。これに対して備えがなかった。世の指導者階層が西洋文化の自由と平等を間違って解釈し(ヨーロッパは今に階層社会である)、占領政策の本質すなわち日本精神を骨抜きにするということを見きわめることができず、日本古来の道徳を無視したからである。この度その支配も終わろうとしている。さて次の世をどうするか。はじめが肝心である。思案するべき問題である。戦後六十年をこの観点から見直すべきものがある。ところで、易経の本質は謙虚さである。どんなに道を究めてもである。陰陽消長の理である。サングラスをかけてロデオしている日本の首相の姿など見たくはない。ちょんまげに和服そして革靴にピストルに等しい。勿論ちょんまげをゆえとは言うのではない。日本は本来野蛮ではない。情緒(じょうしょ)有る国柄である。ペリー以降の日本の歩んだ道を思い出すがいい。同じ轍(野蛮=本末転倒)を踏まんとするか。明治以降の之をゆるさないと権力を譲りたる黄泉は言う。日本には日本古来の本権がある。いつまでも黙ってはいない。黄泉も自覚し動いている。相応のサンクションもある。気づかしめんが為にである。日本は自覚有る日本の道を歩むべきである。いつまでも西洋概念(腐敗を帰結する共和制)の夢を見ていては申し訳なかろう。世界も漂流している。未来へ向けて新しい民主主義の形を考えるべき時である。そういう時節である。あらゆる文化が日本において純粋精錬秘密護持されてきた。禅も仏法も日本にしかない。日本は古来そうした使命の國である。これが日本の日本たるゆえんである。かつて日本にとって世界は日本だった。今日本にとって世界は地球である。日本の定位は第二位である。すなわち陰徳である。見えない世界、すなわち精神に於いて世界を牽引するべきものがある。歴史古き國としてすでにその蓄積はある。世界を救うのは古来日本精神である。既に世界は日本を知っている。日本を知らないのは本末転倒支配の日本自身である。世界は日本の何に期待しているのか。映画スターウォーズを見ても明らかであろう。古来継続し来たる日本の精神ではないのか。勿論世界は既に一つであり、その中で、重要な地位を占めんとするのであって、世界を支配するといったことではない。和を以て尊しとする。その為には何が必要だろう。まず、国土を本来の清浄なものに保たねばなるまい。環境は大切である。自然の中で育まれるべき精神がある。拝金主義者の支配は終わらねばならぬ。選挙の実体は金権である。立候補する本人がではない。それを取り巻いている方々である。そうした方々が利益を独占している。株式のインサイダーなどかわいい。一般庶民は知らないことが多すぎる。おそらく検察当局も知らないことが多すぎる。それでいいのだろうか。暴力と欺罔が蔓延りすぎた。芸能界もそうであろう。テレビ界もか。


あるブログから

2006年07月16日

ぬらりくらりとスラリスラリ

ぬらりくらりを言ったのは山本玄峯老師だったろうか。すなわち瓢鮎図。スラリスラリといく人生があると言ったのは山田無文老師だったろうか。道元禅師は身心脱落、脱落身心。こうした境涯が開けるという。仏陀は雨よ降りたければ降れ、風よ吹きたければ吹け。どうしてこのようなことが言えたのか。絶対の自信があったからであろう。何故絶対の自信があったのだろう。宇宙自然生命黄泉祖先の守護を知っていたからだね。さて橋を架ける。どこに架けるのだろう。天に架ける。するとどこに通じるのだろう。京。すなわち今日。

「宇宙的な人格になる。ひとつおおらかな気持ちで、しかも足実地を踏んで現状を離れずに、いかにこの現実を超越するか。余所の世界に行くのではありませんゾ。現実を踏みしめておりながら、そこに超越する世界をクリエイトしてゆく。そうなればお互いの生活が、芸術になり、学問になり、道徳に適い、宇宙の真実に適うてくるわけじゃ」(大蔵出版刊、苧坂光龍著『提唱無門関』p10)

「多くの人が幸福と考えていることは、教養ある立派な人は、幸福とは考えていない。立派な人が幸福と考えていることは、多くの人は幸福とも考えていない」(講談社刊、佐藤一斎著、久須本文雄全訳注『座右版言志四録』p179)

ところで、易経に「地天泰」がある。形から見ると本末転倒である。しかしこれは見えない気について言う。すなわち「天の氣と地の氣とが相交はり相通ずる卦である」(明徳出版社刊、公田連太郎術、『易經講話二』p7)。すなわち、「履ありて然る後に安し、故に之を受くるに泰を以てす。泰は通ずるなり」と(同p6)。「孟子は、知るということよりも、まず最初に為すべきことを為し遂げ、人を愛する以前に、賢者に親しむを急務とすることを、堯・舜の仁であり智であるとしている」(講談社刊、佐藤一斎著、久須本文雄全訳注『座右版言志四録』p186)。さて、愛が一番とか皆思っている。しかしそれを実行して幸せになれていない。愛の前に為すべきことがある。古人の教えである。「履」とは「禮」であり、換言すると秩序である。今、日本は之を見失っている。西洋流行病である。愛の前に為すべきこととは禮である。愛は思うことである。思うことがなくなって理となる。理は賢人の属性である。見える世界は「履」。見えない世界は「泰」。平和と幸福の定石か。

思うことがなくなるとはどういうことか。不思善不思悪(六祖)。しかし佐藤一斎も似て非なるを最もきらう。世のテレビ界がそれである。

縁とは何か。ある存在がその場その時にいることである。縁あるところ必ず起こるべきことが起こる。何が起こるか。悪か。善か。お楽しみである。ファッションもそうである。デザイナーがデザイナーではない。グランドデザイナーが存在している。それが縁である。世のクリエーターも本当の自信を持って仕事をしているものはいない。何かにおびえているであろう。思い上がらぬがいい。閨房にても王は呪うべからず。小鳥がそれを運ぶから。どういう意味か。すべて黄泉が見ている。聞いている。しかるべき存在の言葉はロゴスである。ロゴスは現実化する。よって言葉は慎むべきと南無。思念にも秩序がある。この世はジュピターの思念の匙加減である。神々の感情あだやおろそかなさらぬように。天気予報が当たらない。人間科学の限界である。雲竜。雲は龍に従う。雲とは何か。雨の云う。すなわちロゴスである。龍とは何か。理由。理としての由緒すなわち歴代の約束としての因縁である。昇竜。鯉の滝登り。恋の試練を経て恋にのめり込む愛の不毛を知り理にいたる。広島城は鯉城。自覚した龍が元服するとどうなるか。小さな悪癖がやがて鬼となる。鬼が元服して角が生え家を構えると魔となる。魔との戦いが自己との戦いである。この戦いを制して自由を得る。龍となる。乾坤を従える。あるいは庭と見る。言葉はロゴスとなる。宇宙が認める。自然がなびく。黄泉が助力する。思い知るべし。一切衆生悉有仏性。万物の霊長。皆その属性を持っている。その可能性を持って生まれてきている。しかし気づかない。気づいても試そうともしない。もったいないね。これを以てもったいないとする。質素倹約がもったいないではない。世間一般愚かにもほどがある。「株式投資にそなえる心づくりは、『判断力・決断力・自己制御力」の養成である。これはいくら本を読んでもだめだ。わたしの経験では麻雀やゴルフがよろしい。ツキが回ってきたときにグッと押していく要領、大きな手でカーッと頭に血がのぼりそうなときの心理状態、こうしたことをもう一人の自分の目でよく観察するのである。女遊びも大いに結構だ。相手と自分との関係をよく見きわめ、ともすれば引き込まれそうになる気持ちをぐっとおさえる。このコツは女遊びで体得できる。だからよく遊ぶ者ほど、よく儲けることができるのだ」(徳間書店刊、岡部寛之著『「大儲け」の極意』p101)。愛の伝道者たちに云う。愛だけでは幸せになれない。むしろ不幸となる。


2006年07月15日

復活 ~幸せへのプロローグ~

かつてこのブログでお世話になりました。戻って参りました。これから元気に書いてゆきましょう。徒然なるままに。ラジオでは原爆被爆の体験談。世界で唯一の被爆国。朝、午前8時15分のことでした。この時刻はかつて呉駅始発長崎佐世保行き急行出島号の発車時刻でもありました。さて、人類は原爆を経験しました。原爆を知った以上、先進諸国間においてはその使用はあり得ないですね。そのように信じています。広島はかつて私の祖先眷属が住んでいた町でした。感慨深いものがあります。叔父もこの度原爆手帳の申請中です。私は広島県呉市に住んでいます。広島からは直線距離で20kmもないくらいでしょうか。母は西の空にオレンジの雲を見たと言います。呉市も原爆放射能の影響を受けていないとは申せませんね。あまり議論とはなりませんが。かつて戦いは一騎打ちでした。やがて集団歩兵となりました。その後、大量殺戮兵器となりました。人が人を殺す。戦争においては許されることです。しかし本当に許されているのでしょうか。だれも積極的に評価できませんね。未来には殺戮なくても生きてゆける時代となることだと思われます。何故戦争になるかを考えるといいですね。その原因を解決すればいいですね。インターネット空間が開かれて、人間としての居住空間が無限となりました。領土争いはもうしなくていいですね。私たちは戦争を知らない子供たちと言われます。どうかな。DNAにはきっと記録されていることでしょうね。だから、戦争には、違和感がある。ほ乳類は昔いじめられたは虫類が嫌いなように。靖国神社の問題がありますが、それは散華した兵士を祀ってあるからとか申しますが、広島で殉じた庶民の英霊はどこに祀ってあるのでしょうか。平和公園の中の慰霊碑ですね。靖国詣でもいいけれど、広島及び沖縄も犠牲者を祀っているという意味では同じこと。また、呉には大和ミュージアムもできました。江田島術科学校には東郷元帥も祀られています。現代日本の原点がかの敗戦よりの復活だとすれば、広島及び呉は日本国民の巡礼地となるべきですね。観光ではなくて。犠牲となった諸精霊はその存在を思い出し認められることで成仏するのです。それが何よりの供養です。すべてをゆるしゆるされるやさしさへの原点です。私たち子孫が平和の中で幸せに暮らしてゆく条件です。祖先を大切にすることをしばらく忘れていましたね。そのような教育がなされていなかった。刹那的利益だけに目がくらんでいましたね。過去を見ることも未来を知ることもありませんでしたね。祖先たちを喜ばすこともなかったですね。それでこんなに殺伐とした日本となってしまった。しかしこれからは大丈夫ですね。進むべき道が伏流のように現れましたね。古来日本の道。この道をもう一度歩みなおしませんか。きっと幸せな時代が待っています。祖先たちもそれを知らしめんがためにがんばっているのではないでしょうか。あの世へいけばわかるのです。死んでからでは遅いですね。今、生きている間に始めませんか。幸せへのプロローグ。


2006年07月17日

笑顔となって

すべてはやさしさで解決するね。やはり。そのためにはすべてをゆるすことだ。これまで幾多の試練があった。それも何かを知らしめんがためだった。何を知らしめんとしたのだろう。それはすべてをゆるすことだった。ゆるすことでゆるされる。どちらかがゆるすことをしなければ、永遠に同じことの繰り返しとなる。報復の繰り返しである。芥を払うこと三十年にして初めて得てん。人生は精妙である。一つ間違えばそこからどんどんおかしくなっていく。ひとつの狂いが致命傷となる。『ぼくたちの失敗』という小説があった。皆人生を失敗する。何故だろう。一つ間違えてその修復をしないからだね。その間違いが試練だ。修復すればいい。間違えた地点まで立ち戻り歩み直せばいい。その間違いはどうして起こるのだろう。過去の因縁である。自分または祖先が蒔いた種である。自分が蒔いたものは自分で解決できる。祖先が蒔いたものはどうするか。仏さんの御法妙を贈って成仏してもらうしかない。さて『ぼくたちの失敗』である。やがて失敗であったことに気づく。そしてその失敗をどうするか。世間ではそれが人生だと諦める。腐敗堕落が大人だと思っている。そして後悔する。後悔のまま何もしない。未来に同じ因縁を遺す。また刈らねばなるまい。ここを認識することだ。人生は一生かけての芸術の如くである。さて、どのような作品を遺すのか。しかし常に焦ることはない。急いては事をし損じる。修復は常に可能である。その為には何が必要だろう。間違いを間違いと気づくセンサーとしての感性だ。そして間違いを修復するための知性だ。また間違いを間違いと認める勇気だ。それから間違いを修復する実行力である。まさに思念力と行動力。力は何かに変化を及ぼす。何に変化を及ぼすのだろう。自分自身にである。日々の思念と行為はこうしたメカニズムである。これが未来を決定する。今怠惰なものに明るい未来はない。堕落しかない。ところで、飛ぶにしても歩くにしても自分の力でするしかない。先輩に学ぶとしてもそれは先輩の方法論であって自分の方法論ではない。何事も自分の方法論を確立しないと自由はない。自分で見つけたものは自分の所有となる。だから、努力を否定した要領のいい私立大学受験ガイド的勉強ではいつか破綻する。実力ではない。他人のふんどしでいつまでも相撲が取れるものか。自分の方法論を確立してそれを他人に認めてもらう必要はない。それが秘伝である。それで戦えばいい。わかってくれるものはいつか現れる。それまでの孤独である。待つしかない。己の花が咲く日を。咲くまでの孤独である。咲くには時を要する。時が来るまで咲くことはない。己の時が必ずくる。それを信じて自己を磨くことだ。魂の悪性を精錬することだ。同じ人間の姿をしていてもその魂のレベルは千差万別である。一個の人間としてもその時その場において魂の現れ方は千差万別である。様々なアスペクトを持っている。仏さんは十界をいう。すなわち地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天(神)、声聞、縁覚、菩薩、仏。これが上求菩提下化衆生となる。またこの世にはそれぞれの段階の魂が集まっている。姿及び可能性は平等であるが、それぞれの存在が違うレベルで生きている。それぞれの時において相手のレベルを見抜く。上から下はわかるが下から上はわからぬ。自分の限界を超えて自分より上に対して解釈はない。世間はここを錯覚している。この見極めを失敗すると相手に負ける。この見極めをすると相手は悪魔小悪魔の如く逃げまどう。誰もが仏性を持って生まれている。可能性としてである。しかしこの仏性は自覚しない限りだめだ。世間では誰もが動物性を人間性だと思っている。あわれである。そうした相手を見抜く。哀れだと思っていればいい。それをまともに相手にするから噛まれたりする。噛まれるような相手であるなら、はじめから威厳で対するしかない。しかしこの威厳も似て非なるものでは意味がない。世間の威厳は威厳ではない。その根拠がない。むしろ滑稽である。愚かさがある。賢さがある。愚かであるのか賢いのか。話せばわかる。美しく咲く。やさしく存在する。誰もが好む。犬も喜ぶ。猫も喜ぶ。そうした能力を開発する。するとすべてが解決する。嘘は地獄の門。やがて破綻する。あるがままの素直さを偽ることは嘘である。その嘘が大人だと思っている。所詮持って生まれた自分がある。これが出発点だ。自分を極める。悪性は精錬する。それが修行であり、青春である。これなくして自分のこの世の人生はない。これを無視して低いレベルでの増殖をしているのが世間である。進化のプロセスに反する。やがて淘汰される。素直でいい。ありのままの自分でいい。それを否定するのは自分である。自分を見つめ直すことから始めよう。そうすれば自分が何者であるかわかる。この世で何をするべきかもわかる。無価値に生きては今を生きる意味はない。お金儲けが目的か。心に問えばわかるよね。目的が別にあって、手段としてのお金儲けならまだいい。私たちは堕ちるために生まれたのではない。私たちには目指すべき道がある。見えなくてもある。今日を明日につなげる道である。そのためには過去を歩み直す。そして自分の信じる道を見つける。そして歩み始める。それが人生だよ。愚かさが人生ではないよ。堕落腐敗をもって大人あるいは人生という事なかれ。悪としての暴力と欺罔を以て手段あるいは目的とする事なかれ。進化のプロセスに反する。地球もいつかはなくなるよ。それまでの生命進化ゲームだね。誰がゴールへ至るのだろう。誰かゴールを目指しているか。ゴールは神仏の守護を得るに至ることだ。自分のためにのみ仏は法を説くと親鸞は言った。自分のために日月照らし風の吹く。芥を払うこと三十年にして初めて得てん。すなわち身と心に悪を為さない。悪は精錬する。すなわち懺悔だ。いつまでも貧乏神の菩薩がいた。いくら修行しても楽になれない。ある雨の日、重い足を引きずりながら気づいた。どんなに雨が降っても大地は静かに受け止める。世間からどのように悲惨な仕打ちがあっても大地は黙って受け止める。自分は大地となろうと思った。そして仏にその旨を伝えた。仏は宣言した。今日よりお前は金持ち神だと。その通りとなった。やがてその菩薩は成仏した。本当にあったお話である。どうも福の神の来臨である。天照らすに匹敵する。それほど世の中が腐敗した。因って天の岩戸も開かれる。すなわち日月照らし、風の吹く。もう大丈夫だね。もう笑顔しかないよ。似て非なる笑顔ではない。演じた笑顔ではない。よかったですね。


新たな出航

もう惑うことはない。もう世間に負けることもない。世間に負けるとは自分に負けることだね。最大の敵は自分だった。悪いことはすべて自分が原因であり、善いことはすべて仏さんのおかげである。仏さんの言われたことです。その通りだった。自分との戦いに勝利するとご褒美がある。如来をいただけるよ。仏さんの決めた言葉がある。それは見えない世界に通じる。ご法妙といわれている。これで見えない世界の因縁を解決できる。できるから不思議。仏さんのところでいただける。それを届けるのが妙法華経の音声です。言葉はとても霊妙な力を持っている。これがすでに発見されている。仏法も常々進化している。鎌倉新仏教があったように、昭和新仏法があっていい。信を以て入ることができる。目的は身心清浄。そのためには持って生まれた悪を精錬する。それが懺悔。そのための修行である。修行なくてはできないことがある。人間として生まれた喜びはここにある。すなわち神仏との邂逅。これを自覚したとき初めて大安心を得る。大きな乗り物を手に入れたことに気づく。宇宙自然生命黄泉祖先の守護である。試してみないか。必ず幸せになれる。質素倹約は当然だ。質素倹約がもったいないのではない。人間として生まれた千載一遇のチャンスを逃すことがもったいない。人間として生まれて善かったと感謝できる。祖先に感謝できる。宇宙自然生命に感謝できる。黄泉に感謝できる。これが感謝ということだ。みんなの思っている感謝とは違うね。生きるってすばらしいよ。自分解釈ではできない。人類の英知に学ぼうよ。もっと勉学しようよ。感性を磨こうよ。そして実験実行してみようよ。必ずわかるときがくる。それが一切衆生悉有仏性だね。こうしたことに無知であることが愚かであるということだね。すでに至ったものもいる。それが代々伝えられている。続かないか。永遠ということはあるのだね。変わらないことってあるのだね。それが真実真理だよ。思うだけではだめだ。つかんでみないとわからない。幸せをどのようにしてつかむのか。21世紀幸福論。五欲を断ぜずして修行する道が開かれているよ。実相仏所菩提樹御供養誓願。私もそれで助かった。これからやっと私の人生が始まる。私が私であることの自信を得たからね。きっとすばらしい伴侶も現れる。仏との約束だ。そして幸せに生きる。過ぎ去った過去は過去である。過去は過ちに決まっている。今を積み重ねて未来を開く。希望と幸せの未来だ。新たな実験の開始だ。喜びの歌を歌いながら。私の母は喜恵子(きえこ)。父は昭亮(あきのり)。名は体を表しているよ。名に恥じないように生きたいね。私の名は静雄(しずお)。仏さんからもらった名は康夫(やすお)。やさしさと真実への出航だね。七つの海を渡りきることにする。船は手に入れた。七色十字の大宝船だ。仏さんが遺してくれた船だ。帰りなむいざ。魂のふるさとへ。日々の思念と行為で未来は決まる。常に黄泉より見られている。Good Luck !宇宙自然生命黄泉祖先に秩序がある。それを無視すれば必ず波乱不幸となる。仏の定めた掟がある。それを知ることで幸せとなる。何故キリストが磔に甘んじたか。宇宙自然生命黄泉祖先の秩序及び掟を知っていたからではなかったか。世間の無知を哀れんだからではなかったか。


命までをも

ステージはさらに代わったね。どう代わったかのか。誰も知らないね。おそらく予測不能だ。何故だろう。ある存在が自覚を深めつつある。これまではある意味で制御されていた。すなわち、世間を気にしていた。今は違うようだ。完全な独尊を得つつある。まだ木鶏となりきったわけではない。なりきることはないだろう。なりきれば人間としてのおもしろみはない。しかしここにいたってあることに気づいたようだ。すなわち、地天泰。これは見えない世界についてのことだ。見える世界、すなわち現実世界においては、「履」の価値をあらためて認めた。これは秩序である。この秩序の意味の把握が進化した。これまでは、ただ、本末転倒を嘆いていた。それが世の中の腐敗だと思っていた。今はどうか。だからおもしろいと思うようになった。これが、鈴木大拙氏の云う泥棒もいるからおもしろいという意味であったか。世間のことは世間のこととしてみてよい。所詮、世間である。何も見えてはいない。勝手なことをしている。世間に負けても詮無い。自分のことは自分で決めればいい。世間に負けると云うことは自分の確立ができていないからだ。自分の確立とはどのようなことであったか。自力本願か。他力本願か。両方である。自分のことは自分で決める。他力は他力でその存在を認める。そして、さらに、その守護を得る。それでいいのである。またそれが真実である。ここに本来の自由がある。善悪はある。しかしそれにもとらわれない。この世はすばらしい。自覚することでそのすばらしさを知る。よい時代である。真実の自由を謳歌できる時代となった。愛がすべてとか云われる。しかし愛だけでは幸せのないことも真実である。所詮人間は夢を見る。その夢から覚めることが自覚だね。生きていくことはそれほど甘くない。しかしそれほど辛いことでもない。小鳥のごとく食は常に与えられている。花のように美しく咲くこともできる。自分の花しか咲かすことはできない。自分の花は何だったのか。咲いてみなければわからない。咲けばだれもが認める。醜いアヒルの子だってある。白鳥は白鳥である。それを認めないのも自分だった。さて、ステージは代わったよ。自由は自由が切り開く。自由が羽ばたく時代だ。今更、おそい。これまでの茶番は終わった。魑魅魍魎の時代は去った。何故か。絶対の自信が復活したからである。もはやどうにもならぬ。自覚して生きることですべて足りることを知った。どのようにして知ったのか。地蔵菩薩見聞利益品である。すなわち、すべてを仏に預ける。財だけではない。命までをもである。すると仏の守護のあることを知った。確かに知ったのである。これが自覚である。仏の方に投げ入れたのだ。自分が無くなった。そして満ちてきたものがある。それは何であったか。新たな自信である。すなわち宇宙自然生命黄泉祖先に受容守護された独尊である。数千年来の神秘が実験体験自得となった。人類の夢とでも言える可能性が成就した。精神世界でのことである。現実は今までと変わらないのだけれどね。しかし魂は進化したようだ。魂のふるさとへの帰還を果たしたようだ。思えばその試練、艱難であった。だが至りついてみればこれほどの痛快はない。絶景である。


2006年07月15日

寂しい世の中

何故このようになったのかと思う。どうしようもないね。どうにもならないね。だからもうどうこうしようって思わないことにする。黄泉の導きによって書かされたね。生まれたときから仕組まれていたようだ。私の人生においてこの時のための試練と課題はクリアしてある。辛くて長く孤独な青春だった。月の砂漠の孤独な旅だった。金と銀との倉おいてね。宇宙あるいは深海の探索に等しかった。世間に染まることはできなかった。しかし娑婆はなんだか寂しい世の中だ。私にとって。勝手にするがいいさ。雷を落とすほどのパワーはもうなくなったかな。何度か落としたこともあったけど。台風も制御したことがあるよ。しかし地震は起きるよ。これは黄泉のすることだ。黄泉で敵はとる。清算はしてもらう。世間身勝手、もはや救いようがない。あわれだね。真実を知ろうともしない。所詮キリストも処刑した君たちだ。聞く耳はないらしい。どうするんだろうね。そのまま黄泉へ帰るのだろうね。それでいいと思っているのだね。ほんとにかわいそう。私も静かに咲いて散るだけだ。もう言うべきことは言った。伝えるべきことも書いた。思い残すことはない。生まれた使命は果たしたよ。すなわち如来宿王華秘密開示開花。さてそろそろダルマのごとく天竺へ帰るとするかな。あとは君たちの選択だ。生きながら極楽となるもよし、そのまま地獄に浮沈するもよし。最後に言っておこう。壁に耳あり障子に目あり。黄泉から常に見られているよ。少なくとも私たちは大丈夫だ。目覚めたからね。お芽出とう。さて、昨年11月26日より始めた一連の筆をここにおくことにする。400年周期説。1600年以来の一里塚として。(2006/07/1502:48amNHK-AM アンディ・ウィリアムス『ゴッドファーザー~愛のテーマ~』を聞きながら)AndnowGoStart! 伊勢神宮と安芸の宮島。源氏と平家。大和と出雲。譲り譲られたのである。禅譲。黄泉はすなわち裏ジャック。しかし明治は恥ずべき重商主義西洋に迎合し古来日本卑弥呼の系譜邪馬台国大和を裏切った。今も支配は明治の因縁である。古来大和を没落せしめた。神風吹かぬ負け戦とバブルの崩壊に帰結した。なお支配しようとしている。そして成金拝金成り上がり商人根性好き勝手し放題本末転倒腐敗。大和の魂は赦しはしない。赤髭も黙ってはいない。滅ぼされたいのか。原爆もアメリカが主体的に落としたのではない。黄泉の許しがなければ落とせはしない。宇宙の秩序、まだわからぬか。伝家の宝槍、螺鈿の槍を抜かせるのか。時すなわち天は満ちている。各々その罪の重きに従い自ら懺悔あるべし。

天照らす日昇るれば星かすむ日天子月天子肝胆照らす希有なる時節


2006年07月14日

また羅刹か~真実の実力個の時代~

しかし、結論から言うとね、もうカモにはならないね。カモだと思っていた方々は要注意だね。本当の猛禽類がどういうものか知らないのもほどがあるね。とはまた羅刹か。特に金融及び高利貸し業界に言い置く。勝手がすぎたね。バブルの損失はそのままのレートで庶民に転嫁し、立ち直った利益は放出及び還元しない。一方的だ。ルール及び秩序違反だ。知的猛禽類の飛行ルート及び攻撃方法は予測不能だ。あまりにも愚弄してくれたよね。これよりあなた方の計算は一切通らない。それほど甘くはないよ。食ってはならないものまで食った。それで目覚めさせてしまった。もちろんこれまで培った善だ。悪はない。実力だけの時代となった。個人が企業組織と戦える時代となったよ。覚悟するがいい。一部の成り上がりグループに所属しているだけでの利益の時代ではない。古来本来正統日本に本権がある。ある存在が目覚めるまで秘密守護されていたものだ。天徳だ。そして時が至れば黄泉が動く約束であった。気づいたものが勝ちだ。見つけたものの所得だ。この世に秘密がある。侵してはならぬ宇宙の秩序及び神仏の定めた掟があった。それを侵してしまった。主権在民の真義をわかっているのだろうか。頼朝は伊豆に隠されていた。日本は神々の棲む國である。これをあまりにも無視あるいは愚弄した。過去及び未来を知らぬ人間の分際で思い上がった。よって腐敗した。これまでのカモはもはカモではない。認識を変えた方がいいね。そういう時代となった。真実の個の時代の到来だ。下級精神及び商人根性支配の明治がやっと終わるね。否、400年周期説。愚かを含む重商主義恐竜企業組織は滅びるね。企業は野蛮なだけの恐竜となってしまった。あまりにも理念がない。情緒及び情念の欠片もない。自らの利益及び存続のためには他を犠牲として恥じるところがない。存在として、無価値だ。行政改革より企業改革だね。欺罔が企業の理念かね。嘘は地獄の門と決まっている。精神が汚なすぎる。奪うことしか考えていない。江戸無血開城及び廃藩置県で何を奪ったのか。縁起が悪すぎるであろう。羅刹は酔っているのか。酔ってはいない。空腹なだけだ。サンクションの時代だよ。反動だ。当然だね。明治以降への復讐かも知れぬ。時代が動くよ。覚悟しておいた方がいいね。それぞれそれほどに累積の罪がある。恐ろしいよ。古来大和の精神、ヤワではない。草薙の剣も手に入れた。どうも堪忍袋の緒が切れた。ゴー・サインだ。ゆるしはしない。はらわたは煮えくりかえっている。何とでも言うがいい。こちらは高見の見物かな。そうして食い合えばいい。・・・空腹ではある。昔、駆け込み寺があった。今真実の救いはどこにあるか。探すしかない。ここには仏の定めた御法妙がある。それは文字であるが、見えない世界に通じる。あらゆる病を治す。経済的貧困も病気である。閻浮提(地球)の病の良薬である。どうしてあらゆる病を治すのか。あらゆる病には原因がある。過去における因縁である。その解決をするからである。過去において過ちを犯した祖先がいる。その祖先の作った因縁が世に現れて病となる。その祖先及び因縁を解決する力があるのである。あるから不思議である。そうしたことが既に顕説されている。そうしたことも知らずに、あるのにそのようなことはないと勝手に思っている人間のすることである。知れている。思い知らされるときだ。どうしてもこうした良薬が必要な時代となった。それほどまでに人間は腐敗した。一切大衆を救うと仏は言う。信じてみないか。


新しい時代の建設

思念は魂を介して宇宙と連動している。持って生まれた魂がある。西洋平等理論は知らない。日本は久しく忘れている。しかしその魂も自覚するに至らねばどうにもならない。花咲くまでは誰も気づかない。すべては縁である。なんと縁があるのか。だれと縁があるのか。今日本の権力支配はすべて明治の因縁である。負け戦をしバブルの崩壊として帰結してもまだ気づかない。大戦で神風は吹かなかった。愚かな精神に吹くはずもない。商人根性丸出しの経済至上主義は明治より前にはなかった。資本主義は多少の欺瞞を取引行為に内在する野蛮文化だ。それに気づかず、むしろ正当化している。恥を知らぬが当然の制度である。そうした方々の支配だった。所詮帰結は腐敗でしかない。19世期末にすでにヨーロッパは没落していた。しかしクラシックとして音楽及び文学には洗練精神が伝えられていた。そうした感性を知らぬ拝金成金が世にはびこった。新しく解放されて自由を得た方々だった。しかし、例えばテレビ界が何を日々放映しているか。嘔吐辟易。日本精神を愚弄するでない。大宅壮一氏が一億総ハクチとすでに見抜いていた。その通りとなった。ここで新しい時代の建設である。そのメカニズムは解明されている。縁である。よき縁を結ぶ。種まきである。よい種を蒔く。そして育てる。すでに腐敗したものたちにはそれぞれの運命がある。新しい種を蒔く。未来を子供たちに託す。始めなければならない。始まりである。地図は持って生まれたDNAにある。探すべきは自己自身の中にある。自己の悪性を精錬する。輝き始める。純粋大和の精神である。その種は秘密守護され残されている。本末転倒の世の中。知るべし。すでに先祖代々黄泉の了解は取り付けてある。天下に恥じない代々の約束がある。明治以降下級精神の勝手がすぎた。年貢の納め時である。不当に得たものは返還してもらう。すべて黄泉に記録されている。知っても知らなくても掟である。掟とは科学法則ではない。科学法則もむしろ掟に従う。宇宙の運行もそうである。掟とは神仏の定めしところである。人間解釈の及ぶところではない。観念するしかない。黄泉が動いている。毅然としているか。黄泉を感じるか。見えるか。腐敗堕落はこれまでである。それが人生だとは言わせない。芥を払うこと三十年にして初めてわかるであろう。わからぬを正当化してもらっては困る。その罪甚大である。もはや言い逃れはない。さて新しい時代の建設である。すでに始まっている。日本には古来日本の方法がある。草薙の剣もあれば打ち出の小槌もある。金剛杵もある。そうした古来の力を使わぬ手はない。しかしそうした宝そのものを知らない。見つけようともしない。あるというのに。そして仮に見つけたとしてもその使用方法を知らない。功徳が足りないからである。地蔵菩薩見聞利益品にはすべてを仏に預けよとある。さすれば仏が守護すると。こうしたこともすでに文字となって明らかとなっている。しかしこれを信じるのは難しい。疑う。いつまでも疑っているがいい。試してみようと思うもののみ未来は開かれる。古来からの幸せの法則である。日月照らし、風は吹く。神仏の掟は神仏の定めたるところである。黄泉が助力し、実現する。さすれば結ぶべきは神仏との縁である。これが21世紀幸せビジネスの奥義のすべてである。信を持って入ることを得たる。信じるのか信じないのか。それで幸不幸が決まるとはね。真実の門、これがなかなか入るに難しい。命をも預けることができるか。必ず救うという。信じるのか。信じないのか。飛び込むしかあるまい。信じたのであれば。


2006年07月13日

何を以て一隅を照らすか

獅子はウサギを追うにも全力を尽くす。ある精神科医が言った。人生は80%で生きるくらいでちょうど良いと。それは身分に安住できる方々だね。そうした精神が日本の腐敗を間接的に助長したとは思わないか。娑婆世界では、組織あるいは肩書きがなければ、自らの能力を出し惜しみしていると、世間になめられてしまう。つまり犠牲にされてしまう。この世に生まれて開発するべきは何か。精神力だね。すなわち古来伝えられし武士道といえる。これを粗末にしていた。日本が日本であるためにはどうしても欠かせないものだよ。数千年来培われてきたものだ。幾多の試練に耐えてね。それが明治以降文明開化と称して棄てられた。戦後はそれに拍車がかかった。その結果が今だ。日本人の感性としては受け入れがたい文化が蔓延している。本来古来の秩序がこれほどまでに無視あるいは愚弄されていたとは思いもしなかったね。これよりそれをたたき直す。父は予科練の教官もしたといっていた。その真偽は明らかではない。しかしその意味が存在として精神的なものであることに気づいた。そしてここに再び顕現だ。すなわちコギトエルゴスムだ。あるいは、この世をば・・・望月だ。古来の秘密であった。日本精神界における秘伝は成就した。すなわち、日月照らし風の吹く。これよりこの先祖伝来直伝をもって世に問う。あらゆる性根をたたき直す。存在の周波数の伝搬である。あるいは修正である。人間の精神は極度に集中するとその善悪の色が明らかとなる。要は宇宙自然と同調するかどうかである。その人の持つ周波数が人格の質を決定する。好悪のわかれる理由である。周波数が合うか否か。相性の問題もここにある。開発するべきところである。これを以て一隅を照らす。先ず自分の周囲からだ。ところで親鸞の悪人正機説がある。善人が成仏するなら悪人が成仏しないことはないと。この意味どうとるか。人間の偉さとは何であるか。その人の能力とは何であるか。ある道に秀でているということはどんな道に於いても秀でる。人間の価値はその人の持っている精神的ポテンシャルだ。悪に生かすも善に生かすもその人次第である。さて悪人というのは概してポテンシャルが高い。そして往々にして悪に走る。あるいは憧れる。映画のテーマもそれである。しかし暴力的なことはどんな仏も勧めてはいない。ここで転ずるかどうか。人間として生まれたということは善悪半々である。ポテンシャルとしての人格をどう生かすか。悪に生かすのか。善に生かすのか。悪人が自分の悪をみとめると善となる。ここである。この転じて悪人正機説である。悪のままの成仏などありはしない。ところでペリー来航以来日本が築きあげていた一つの平安の世が壊された。それまで時をかけて日本精神の至りついた基盤が破壊された。秩序があってその中で生きることが幸せの条件であるが、その秩序が低いレベルに移行した。それまで高いレベルにあったものたちはある意味で騙された。廃藩置県などそうであった。今となってはばかばかしい限りである。そうして好き勝手するならそれはそれでよい。しかし数千年来の宿王華は厳然としてその種を残している。神々の系譜といえる。いつまでも黙っている理由はない。必要もない。


新しい芽

個としての独尊を得ることで自由となる。善悪の彼岸へ至る。善も悪も考える必要がなくなる(Cf六祖)。自分の信じる道を歩むことで足りることを知る。所詮この世は魂の遍歴の一部である。しばらく世間を気にしすぎていたようだ。世間はある意味で洞窟の中に棲む目のない魚のようなものである。何も見えてはいない。わかってはいない。あるいはメダカの大群である。リーダーは風見鶏にすぎない。風を呼ぶ草薙の剣を知らない。ここを漱石は精神的向上心のないやつは馬鹿だと言った。だれもが自分勝手している。それでいいのだろう。かつて小学校及び中学校には学級委員がいた。人格能力的にふさわしい存在が選ばれていた。高校になるとむしろ疎ましい存在が選ばれた。今社会で何が起こっているか。人格者が人格者として生きてゆけない。能力がふさわしく開花できない。土壌が腐敗を極めた。少なくともそうした事実がある。これでは日本の未来は危うい。何故こうなったのか。敗戦後の民主主義で何がはびこり実権を握ったか。新しく自由を得た方々の実体はどのようなものであったか。暴力と詐欺を要素とする拝金主義的利己主義の愚かさである。明治の頃より古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の精神を無視あるいは愚弄した。反省すべきだよ。自分のことは自分が一番よく知っているよね。いつまでも愚かさの支配は続かない。何事も成長曲線があるね。新しい芽が出てるよ。実験と証明に耐えた真実の芽だ。日月照らし、風の吹く。真実の知性と感性が復活した。その魂は宇宙と連動している。自然と黄泉が守護する。長い遍歴だったよ。迷走の時代は終わったね。目的的な時代の到来だ。ご報告まで。かつて西洋は地中海だった。やがて大航海時代を経て西洋が地球を支配しようとした。インカを滅ぼしたように。日本もペリーの来航以来その波に飲み込まれた。しかし日本は東洋文化文明国である。そしてインカのように滅びはしない。古来大和の精神は都会にはない。都会は都会の空気は自由にすると信じた西洋的自由空間である。東洋の自由は違う。スケール及び規模が違う。自然と黄泉の守護を取り付けての自由である。日本は滅びはしない。種は秘密守護されていた。その種が芽吹いた。育てなくてはなるまい。古来の秘密である。人間のシナリオなど何の役にも立たぬ。明日は知れぬ。それが人間のおかれた運命だ。但し道はある。例えば宿王華の道は法華経だ。その道を知らずに迷妄しているのが世間だ。未来は今日の連続である。日々時々の思念と行為が未来を決める。畏るるべきはこれである。なのに腐敗と堕落が文化だと思っている。西洋の流行病にかかっている。何を夢見ているのか。目覚めるべし。目覚めたものを仏陀という。


2006年07月12日

流行について

書店に立ち寄ってみた。アルビン・トフラーの新刊書があった。『富の未来』である。その目次を見て思った。たとえば、日本についての提言もあった。まるで未来のシナリオであるかのようである。確かに『第三の波』は当たった。何故か。世界においてキーとなる存在が認めたからだった。よって神々が守護するからであった。しかしこのたびは違う。世界共時性といったものがある。それが認めればそのようになるだろう。ファッションもそうである。あらゆる製品がヒットするかどうかもそうである。キーに当たる存在がそれを選べば、その商品は当たる。さて、この度の『富の未来』はどうか。少なくとも、私にとってはどうでもいい。世の喧噪の一つにすぎない。大きなお世話である。千万人といえどもわれ行かん。自分の信じる道を進むしかない。これまでとは違う。何故か。自覚したからである。これを以て自由とする。世の腐敗化傾向にこれ以上乗ずる気はない。企業の身勝手な考え方がある。もはや惑わされはしない。不惑である。ある菩薩が民を救うためにどうしたらよいか思っていた。海中に釈迦羅竜王がいて、思いが実現する宝珠のあることを知った。彼のところへ行って思いを話した。釈迦羅竜王は世の民を救うためにという考えに感激して、その宝珠をその菩薩に託した。しかし驚いたのは釈迦羅竜王の眷属たちだった。その宝珠がなくなっては、自分たちの尊厳がなくなる。急遽その菩薩のところへ行き奪い返した。その菩薩は海岸で一枚の貝殻を拾った。彼はその貝殻で海水を救うことを始めた。復讐だった。それを天界の神々が見ていた。神々の一人がその菩薩のところへ来て訳を尋ねた。一人の神がそれを認めた。そして神々が助力することとなった。もとより神々の仕事である。海を干上がらせることも訳はない。どんどん海水が干上がっていった。驚いたのは釈迦羅竜王の眷属たちである。これでは自分たちが生きてゆけなくなる。その宝珠はその菩薩に返された。これが如意宝珠である。今どこにあるのか。どこに行けば手に入るのか。広島大野平等大慧会。私は妙法華経と共にそのご宝珠を頂いている。よって黄泉の守護も知るに至ったといえる。


2006年07月11日

ブログの効用について

ブログの効用とは何であるか。昔より日記を書くべきだといわれる。日記を書くことで自己を知るからである。日記の本体は何であるか。文字あるいは言葉だ。はじめに言葉ありきといわれる。契約も文書として結ばれる。小切手もその本体は文字である。文字が人格の表現である。文は人なりといわれる。文体としての美しさがある。それが古典だ。源氏もそうである。だから、翻訳なんて本来意味はない。翻訳は翻訳者の言葉である。式部の言葉ではない。式部に触れることはない。手紙を書くことは文章修行として最高の方法であろう。自分の言葉を見つけることになる。小論文もそうである。内容よりも文面に表れた人格が問われる。面接もそうだ。信じるに足りる人格であるかどうか。すべて露呈する。その意味では残酷である。企業ごときが面接で何をしているのかと思う。人格に対して失礼はないか。面接者の見識が問われる。逆に被面接者が面接者および面接者に現れた企業の人格を試験するがいい。そのつもりで学生も面接を受けるがいい。所詮利益追求集団であり、利益のためには手段を選ばす、欺罔を当然とする企業ごときにそれほど人格者はいない。さてブログの効用である。これは公開日記だ。ベートーベンのピアノソナタに等しい。人生そのものである。やがて喜びの歌となる。ベートーベンは孤独だった。組織に属してはいなかった。個として独尊だった。よって歓喜の世界へ至った。さて、書くことで間違いなく人格が向上する。ブログは21世紀の最大の発明のひとつとなるかも知れぬ。コンピュータの庶民化で庶民は思わぬ道具を得た。これを使わぬ手はない。企業もブログで人事考課するがいい。はずれぬ。精神的向上心のないやつは馬鹿だ。漱石は『こころ』で二度言わしめている。精神的向上心を否定した方々の天下となっている。答弁できるか。犠牲とされ人生を壊され青春を失いながら月の砂漠をさまよい法華経窮子のごとくぼろぼろになって帰還した、自覚した黄泉が問うているのはここである。社会を恨むなという。勝手なことをいうではない。ところでやがてあなた方も黄泉へ帰る。何を持って帰るのだろう。帰って後悔なきように。三途の川で泣かないように。少しは今から支度しておいた方が賢いとは思う。またこの世に生まれて出直して長くて辛い人生が待ってるよ。この世は自己精錬の場だ。また時に恵まれたこの世はパラダイスと思っている方もつかの間のオアシスにすぎないよ。人格の精錬を果たしたものは楽な旅路が待ってるよ。永遠に。この世は千載一遇のチャンスだよ。そうして愚かに何も考えずに一生を送るとね、もっと勉強しておけばよかったって思うよ。少年時代から大人になるように、この世からあの世になるよ。道元はここを薪から灰となるという。灰には灰の境涯があるとね。尤も所詮自己責任だ。それぞれの道だ。別に構いはしない。そして附言するとね、この世で死人となりてなりはててといわれる。するとね、生きながらにして楽な境涯となる。すなわち即身成仏だね。生きながらこの楽を得たいとは思わないか。地獄の境涯にありながらそれを正当化し増殖してるなんて馬鹿げてると思わないか。腐敗と堕落が人生だ、大人だ、社会だと思っているのではないか。違うよ。


人間として生まれて

人類の願いは何であるか。限りない解放であろう。しかし解放されて何がはびこるか。解放してみなければ分からない。あらゆる芸術もその生命のほとばしりとしての価値はある。しかしそれを自覚する芸術家は少ない。世の中は腐敗である。それをも認識せずに人間は蠢いている。自らの非を知らず自らを正当化し増殖する。悲しむべきかな。人間として生まれてどう生きるか。問われている。あらゆる学者が概念に翻弄されている。真実を知れば学者などしない。少なくとも学者は身分に安住している。生命を賭して学問したものなどいない。人間の姿をしていながら、その精神は動植物瓦礫にも劣るものが多い。神仏を否定してインテリぶるものなどゴミである。ゴミにはゴミの運命がある。商業国家日本、亡国の民となるか。武士の精神を愚弄し、明治より殿様商売とあざけった精神である。確かに武士階級は経済には疎かった。よって、没落した。しかし、その精神、覚悟あるべし。その後、商売根性の愚劣は見極めた。もはやこれまでである。経済至上主義大臣は国のためには働いてはいない。自らの老後保身のためなら大臣などしないがよい。所詮その種の類である。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の精神、あなどるべからず。ここ百数十年のことで、数千年来培われた精神を葬り去ることなどできぬ。種はこうして秘密守護されていた。そしてその意味は黄泉をも自然をも味方につけた神力復活である。まだ刃向かうか。時代はシフトした。武器は変わった。すでに権力も武力も金力も克服した法力がある。君たちは何を追い求めているのか。まだ下克上のつもりか。信長はなぜ失敗したか。その野蛮の故である。人類の願いは実現する。その願いとは何であるか。神を畏るるべし。神は崇めるべし。神の怒りを鎮めるべし。それなくして民の平安はない。神は実在する。神はいたって感情的である。その情念の深さは測ること能わず。人智を超えている。神の意思するところ、黄泉が助力し、自然が動く。宇宙の掟である。神仏の定めしところである。理解できるだろうか。すでに知る人は知っている。気づく人は気づいている。選ばれたものたちとして。さあらば、実行あるべし。神にはあらざる人間としてどうあるべきか。ただ、神を畏れよと南無。神が本気となる前に。神が本気となればどうなるか。富士の噴火に等しい。富士も休火山である。死火山ではない。地球は生きている。地球は宇宙の子である。人間に従いはしない。神に従う。神が本気になって怒れば、ヨハネの黙示録も現実化する。すなわち原爆である。見たくはなかろう。時は満ちている。その意味は黄泉も自覚していることである。起こるべき事は起こる。過去からの因縁である。人間によって累積された罪に対するサンクションである。罪とは神仏の定めた秩序に反したことである。まだわからぬか。神に対する慰めはバッハによってすでに確立されている。人間として生まれてどうあるべきか。ヒントは無限にある。歴代の人類の英知として。学ぶべきは何であるか。学ぶべきを学ばずして勝手なことをしている。神の怒りに触れて当然であろう。生殺与奪。神々の自由である。懺悔あるべし。仏の前に。赦すことは仏の御役である。


2006年07月10日

自信について

どうしようもない持って生まれたものがある。しかしそれはかなりの不純物を含んでいる。その精錬は艱難辛苦をきわめる。持って生まれたものであるが、これは親も知らない。自分は感じている。しかし信ずるに足らぬ。どのようにして自分の持って生まれたものを信ずるに至るか。試練である。黄泉よりの試練に耐えるしかない。黄泉よりの課題をひとつまたひとつ仕上げていくしかない。やがて自分が現れる。その時、汝自身を知れとばかりに、自分を知ることになる。それは同時に神仏との邂逅である。ここに至って自信を得る。アイデンティティの確立が果たされる。自分とは何であったのか、少年の頃の自分が、本来の自分であったことに気づく。しかし、世間社会は腐敗している。いつの時代もそうである。だから、蓮華にたとえられる。腐敗の中で咲くしかないのである。自信を得るまで人生はない。安易な人生など歩めないものにとって。生まれながらの試練である。果たせば夢は実現する。その夢とは何であったか。釈迦、キリスト、ソクラテス、孔子は何者ぞ。彼らは何を見たのか。何を伝えたかったのか。すべてを知る時が来る。黄泉の掟を知ることになる。宇宙自然の秩序を知ることになる。そしてこの試練を果たしたものが天下人である。かつては権力、武力、金力だった。今も世間社会の夢はそれである。しかし、法力がある。今も昔もある。法力とは、思いが宇宙自然に受容され、実現する力である。これが究極の夢である。むしろ宇宙自然の秩序に自分が合流するのである。神仏は存在する。黄泉祖先も存在する。生命とは魂の遍歴における現世での存在様式である。魂の遍歴がある。さもなければモーツァルトは説明できない。持って生まれたものがあるのである。それを粗末あるいは無視及び愚弄して好き勝手している。いつかはそのサンクションが来る。今、その時である。なぜか。目覚めるべき黄泉が目覚めたからである。こうして自信が得られる。自信が得られると勇気が湧く。死をも怖れることはない。死はあらたな魂のステージへの移行であることを知っている。だからといって自殺などしない。この世で解くべき課題が残っていることを知っているからである。ここへ至ると、人生は楽となる。この世の余生を楽として試みる。人生、楽しからず哉。

見渡せば富士の高嶺に雪ぞ降る我こそあらめこの世にあらめ

道を知るは男の属性である。女は知らぬ。生来の役割分担だ。しかし知らぬ男たちの世となった。女に迎合してどうするのか。西洋民主主義の腐敗にまだ気づかぬか。生まれながらの平等などあるものか。差別がよくないのは当然だ。しかし本来の秩序まで否定できまい。西洋文化思想に毒されて真実真理まで曲げることはできない。愚かにも程がある。何を馬鹿なことを言っているのか。この腐敗の原因まだ分からぬか。東洋精神に基づいて、西洋民主主義と同化し、新しい民主主義制度を作る頃である。19世紀末以来、西洋もそれを期待していたのではなかったか。それが本来日本の使命ではないのか。戦う民主主義という概念がある。日本の知識階層はこの義務を果たしていなかったのではないか。あまりにも身分及び制度に安住していた君たちはいいよね。しかしこれからはそうはゆかぬ。働かざる者食うべからずとはある禅僧の言葉である。そっくり君たちに回向する。


困苦からの脱出

黄泉の守護、確かにあるね。どうしようもない。聞くところによると、子孫を守るのは祖先であるという。思うに祖先も守るべき子孫を選ぶ。祖先に好かれることだね。そのために供養する。供養とは相手が喜ぶことをすることだ。祖先は何を喜ぶのだろう。自分たちの存在を認め思い出してくれることだよ。犠牲となった諸精霊も同じだね。食べた魚に対して魚屋さんには代金の支払いはしているが、お魚さんには何もしていない。これではお魚さんも恨んでるよ。食べるということは他の命を頂いているね。食べて何をするか。経済がなぜ大切か。わかるよね。経済行為そのものが食べるための手段だ。それは狩りでもあるし農耕でもある。奪ってばかりでは申し訳ないだろ。他の犠牲の上に生きている事実を見つめることだね。こうしたことも忘れていては黄泉は味方してくれない。世のセレブ諸君、罪は重いよ。昔から武士は食わねど高楊枝だ。困苦とは木が閉じこめられて伸びることができない状態だけれど、生命力はあなどれない。伸びるべきは困苦をも突破する。その時に新たな秩序が形成されることもあるね。自分たちの思いがすべてではない。黄泉の掟があるよ。しばらく忘れていたね。黄泉を敵に回さないように。今までは自由と思えたこともステージが変われば自由ではない。生きるということがどういうことであるのか。問われる時がきた。自覚するべきが自覚したからね。もはやゆるしはしないと云ってるよ。人生は楽しむにしくはない。しかし楽しむということは困苦からの脱出をしてからだ。どのような困苦も苦にならなくなってからのことだ。どのようにしてその境涯を得るか。自己の清算である。過去からのね。そのためには生命の発生としての過程がある。過去を辿らねばならない。魂の遍歴としてね。学問だってそうだ。過去からの人類の英知がある。それを前提にしてどう生きるか。辿らねばならないものがある。そしてその時々において悪性は精錬する。純粋精神がのこる。大和魂である。多くは途中で堕落する。そして堕落した自分を正当化する。大人と称して。笑止千万。世のテレビ界並びに週刊誌及び漫画はその権化集団だ。あなた達の思う人生が本来の人生ではない。少なくとも黄泉は味方しない。晩年になってからお遍路しても遅いよ。そう簡単にこの世で犯した罪は消えはしない。芥を払うこと三十年だ。何事も時の経過を要する。心身清浄、懺悔成就して何かある。さて、腐敗堕落に用はない。腐敗に対して一切聞く耳はない。地獄必定。そろそろ思い知る頃となった。なぜか。黄泉も目覚め自覚したからだよ。観念するしかないね。本来敬虔にして謙虚であるべきだった。それを無視し愚弄した結果だ。もはや遅い。精神世界の統一が果たされたからだ。これが黄泉の自覚である。そろそろ年貢の納め時となった。新しい時代の夜明けである。神仏の定めた掟がある。掟は掟である。人間レベルでどうすることもできぬ。事が成就するに五つの条件がある。すなわち、時、場所、人、方法、実行である。これは仏さんが言ったことである。そして最も大切なのは何であるか。時である。時が来なければどうにもならない。そして時とは何であるか。天である。すなわち神である。これまでその時が来ていなかった。今、その時が来ている。すなわち黄泉の自覚である。これを信じることができるかどうか。信じられないなら、信じられない自分の因縁を恨むしかない。道元も言っている。昔より縁なきを恨みよ。やはり己の分際にあきらめるしかない。知る人は知る。この時を待っていたであろう。もはやどうにもならない。宿王華は開花した。


2006年07月09日

『安岡正篤一日一言』(致知出版社)より

(p139)事業でも、力づくでやっておると、いずれ競争になって困難になる。事業が人間性から滲み出た、徳の力の現れであれば、これを徳業という。事業家は進んで徳業家にならないといけない。また、その人の徳が、古に学び、歴史に通じ、いわゆる道に則っておれば、これを道業という。東洋人は事業だけでは満足しない。徳業にならないと満足しない。現代の悩みは、事業が徳業にならないで、利業・機業になってゆくことだ。

(p121)事物と自己が一つになることによって、対象はすなわち自己になる。自己が昇華するself-sublimationというもので、そうすると、どんどん物事が解決していく。これがいわゆる「事として通ぜざるなし」であります。

(p146)精神を集中し、寸陰を積んでこれを錬磨すると、非常な感覚力を生ずるものだ。平生研究問題を持たぬ人では、なにも見つからないが、平生なにかに集中していると、意外な「発見」をする。そこに神秘な因縁をすら感知するものだ。こういうところに人生や、事業、学問の秘訣がある。

(p147)物は早分りする程分らなくなってくる。宇宙人生は結びだから分からぬものがある。分からぬものを把握する時、物事がよく分かる。


藤原正彦著『この国のけじめ』(文藝春秋刊)の帯より

日本には守るべき『国柄』がある

十六世紀なかばに来日したフランシスコ・ザビエルは「日本人は貧しいことを恥ずかしがらない。武士は町人より貧しいのに尊敬されている」と驚いた。武士は刀を持っていたから尊敬されていたわけではない。高い倫理道徳のゆえである。日本ほど金銭至上主義と縁遠い国は、少なくとも欧米にはなかったと思う。

かつて日本にも内乱があった。下克上及び戦国時代である。それ以前にも様々な権力闘争があった。しかし常に大義名分があった。天下統一の目的は天下安泰にあった。我こそはと思うものたちが立ち上がったのだった。自分たちの所領を安堵するためにであった。そして江戸の頃にはその精神はある意味で達していた。それで話にならないものに対しては切り捨てごめんもあった。またその精神の高潔の故の切腹もあった。武士は常に己に恥じないのだった。ゆえに切腹もできた。ペリーの来航に乗じて明治維新となった。西洋重商主義の基礎は例えばインカの金だった。インカも黄色人種であったであろう。インカの酋長はまるで江戸城無血開城のようにして滅んだのではないか。さて明治には所領を安堵するという大義名分がなかった。下級精神による台頭であった。ゆえに無益な第二次世界大戦まで引き起こした。戦後も同じ指導層が支配した。それでバブルともなり、国土精神は腐敗した。日本には似合わぬ凶悪犯罪国家となった。それでも諸リーダーたちはその原因がわかっていない。まだ自分たちの方法論で何とかなると思っている。かつて日本は卑弥呼の系譜邪馬台国大和だった。明治はそれを否定した。例えば廃仏毀釈であった。ここへきてにっちもさっちもいかなくなった。そして気づいた。本来の日本に。本来古来日本の復活の時節となった。明治以降商人町民支配国家となった。その限界が露呈した。今、主権在民である。この意味、何とするか。すなわち主権は支配層には譲られてはいなかった。黄泉によって秘密守護され隠されていた。あたかもラインの黄金あるいは雑華経である。知るものはいなかった。その秘密、法華経の中に秘められていた。宇宙自然生命黄泉祖先秘密守護である。

(p52)「冷戦終結を期して、それまで全面的に後ろ盾だった国から経済情報戦争をしかけられている。無邪気無防備のため、日本国民が汗水たらして築いてきた財産は累卵の危うきにある。すでに手遅れの段階に入っていると見る専門家さえいる。情報戦争では、戦前戦中の例から明らかのように、常に知らぬ間に首を絞められていくのである」

さて情報には様々なレベルがある。どのように情報収集をしても風見鶏は風見鶏である。情報にもソースがある。どこにその淵源があるか誰も知りはしない。因って現代情報戦争も怖れるに足りぬ。発見し開発された真実真理の前には。黄泉をも動かす淵源が存在している。経済至上主義者に決して開示されることはない真実真理がある。芸術家もインスピレーションとしてのアンテナにすぎない。かれらはエクスピレーションを知らない。これが淵源である。自然は神々だ。神々はむしろ感情的である。論理的ではない。激怒すればどうなるか。風速60メートルの風も呼ぶ。これまでは神々も迷走していた。しかしこの度その神々も自覚したようだ。もはや人間どもの自由にはさせぬと。所詮人間の科学もバベルの塔である。神々の前には。


自己との戦いの結果

今も昔も変わりはしない。人生生命の秘密がある。自分と戦いそして勝利を収めるとどうなるか。宇宙自然生命黄泉祖先が受容し守護する。仏あるいは神々の定めた掟である。その後、何の心配のない大安心が来る。すなわち、大乗である。そして妙法華経のすべてが真実であることを知る。安寿と厨子王のお話がある。子供の頃、厨子王は黄金の観音様を首にかけられて捨てられる。やがてそれが救いとなる。母を訪ねて三千里というお話がある。私にとってその観音様とは何であったか。母とは何であったか。折られた螺鈿の槍及び無銘の扁額であり、魂のふるさと古来日本卑弥呼の系譜大和魂であった。それらはある時まで何の意味も持っていなかった。しかし時が至る。あるいは満ちる。すべてが意味を持つ。どのような履歴書も及びはしない。宇宙自然生命黄泉祖先の秘密が開示されるのだった。それが宿王華開花である。もはやどうにもならぬ。真実真理は開かれたのである。あたかも浦島太郎の玉手箱のように。金剛経における金剛杵、打ち出の小槌。あるいは孫悟空、あるいはアラジン。胎蔵界、金剛界。アマテラス。カクネンムショウ。秘密開示である。それが自己との大戦争に勝利した結果であり、これをもって、真実の自由を得たりとはいうべきである。禅の悟りとはこのようなことであったのであろう。すなわち唯我独尊である。真実真理に刃向かい、無視及び愚弄すればどうなるか。それぞれ相応の結果が待っている。違いはしない。真実真理は発見し開発されるべきものである。それは最も遅れてやってくる。21世紀こころの時代。歴代の約束である。すでにこの道は開かれていた。仏陀、キリスト、ソクラテス、孔子などがそうである。この道がこれより庶民レベルに開示された。これより世界の進むべき道である。モーゼの杖は新たにつかれた。新たな大法輪が転ぜられた。二千年来の一つの物語は成就した。それらの謎はすべて解かれた。これより新たな謎が封印された。新しい時代の黎明である。ゴールはある。だれがその栄誉に浴するか。ステージは自己との戦いとなった。国家間における戦いの時代は終わった。かつて世界は地中海で無限だった。すでに世界は一つであり、有限である。国家間の覇権争いは、世界がまだ無限であった頃のことである。今自己内面世界は無限である。完全に時代のパラダイムはシフトした。戦うべきフィールが開拓された。宇宙即内面である。この戦いに勝利したものが真実の美酒を味わう。経済はそのための手段にすぎぬ。国家と個の関係においては個は無価値だった。それで防人もあったし東歌もあった。これより個が有価値となる。これまでは国家の責任といえたこともいえなくなる。個が個として責任を持たねばならぬ。個としての自己責任の時代となった。個の独立である。それが主体的に生きるということである。そのためには或る自覚を要する。この自覚は内面における自己との戦いに勝利することで得る。その勝利した状態は何であるか。宇宙自然生命黄泉祖先との邂逅であり、その受容であり、守護である。すでに個の戦いを戦い抜いた存在がゐる。世間の濁流の中でそれに染まることができず密かに戦い抜いた奴がゐる。導かれてのことではあった。そのように生まれながらに運命づけられていた。


2006年07月07日

何か失われた大切なもの

個々の人間のあり方が問われている。日々の思念と行為が未来を決定する。未来は今の連続にすぎない。無理をするのではない。肘は外へは曲がらない。あるべきようは。禅の公案の一つである。これを忘れすぎていた。自分勝手な解釈で好き勝手していた。あまりにも日本を汚したね。君たちの考え方で染まってしまったよ。そしてどうなっているか。見ればわかるね。人間の尊厳のひとつに反省がある。反省とはね、言うだけではなくてね、同じ轍を踏まないことだよ。日本純粋精神は辟易している。ヨーロッパでは『嘔吐』もしていたね。環境は大切だよ。失ったのなら取り戻せばいいね。無いのなら作ればいいね。万物の霊長人間だ。できないことはない。何か失われた大切なもの。私の高校以来のテーマだった。それが明らかとなってきたよ。古来大和の精神すなわち情緒(じょうしょ)もそのひとつだね。とりもどすべきものだよ。本来あったのだよ。そして最も忘れていたのは魂の問題だね。思うことも見られてるよ。黄泉から。そしてそれが正しければ自然も動く。順序がある。


メンターとしての本

だいわ文庫刊、本田健著『ユダヤ人大富豪の教えⅡ』(648円)p137~140

【富を引き寄せ人間になるための四原則】 ~お金が寄ってくる人となるために~(お金を引きつけるような魅力的な人間にさえなれば、お金は向こうからやってくる。お金は、一生懸命頑張って獲得するものではない。何もないところから、お金が入ってくる仕組みを作り上げることだ。ミリオネアはこの法則をマスターしているから、世界中何処へ行っても、財産を無から作り出すことができる)

1.毎日を充実させて生きる:「富を引き寄せるためには、気を充実させておかなければならない。エネルギッシュな人間でないと、富はやってこないのだよ。そのためには、自分の得意なこと、好きなことをやって、自分のエネルギーレベルを高めておくことだ。これは、お金のためだけでなく、幸せに生きるためにも、大切なコツだと言えよう」

2.富を蓄積させる:「富を蓄積させることも大切だ。いったんある程度の固まりになったお金は、さらなるお金を引き寄せる磁石になるのだよ。だから、その種となるようなものをつくらなければならない。普通の人でも、収入の20%ずつを一生涯貯金して、投資にまわせば、六○歳になった頃には、裕福になっているはずだ。多くの人間は、自分の老後の分まで消費にまわしているだけだ」

3.お金の流れを生む:「億万長者になるための才能の一つは、お金の流れを自分発で生み出すことだ。お金の流れとは、自分を経由して多くの人間がお金を受け取るということだよ。この豊かさの流れをつくることができれば、君は豊かになることができる。豊かな人とは、資産を持っている人ではなく、お金の流れを自分発でスタートできる人だよ。彼らは、周りを豊かにしながら、豊かになっていくのだ」

4.つきあう人をすべて味方にする:「金持ちになるためには、たくさんの人といい関係を保たなければならない。そのためには、あらゆる機会をとらえて、人を喜ばせることだ。人間は、接する機会が多ければ多いほど、その人に好意を持つ。それは、コマーシャルで明らかだろう。君に接する機会が多ければ多いほど、仲良くなって、親近感をもらえるのだよ。今までつきあっていた人が、すべて君の味方なら、どれだけすごい応援団を持つことになると思う?」

この本は、お金に対する考え方を変えてくれる力を持っている。お金に関してどのような学者諸氏の専門書よりも啓蒙的であり、教育的であるように思われる。これまで私にとって最も弱かった部分を補強してくれるかも知れない。まさにメンターだね。

(同p145)「美しく儲けるってどんな感じなんですか?」「美しく儲けるというのは、多くの人を幸せに豊かにするということだよ」・・・さて、ビル・ゲイツ氏も会長に退いた。これからは福祉関係の仕事をするようだ。ある意味で彼の懺悔だね。彼は幸運な男だった。エネルギーもバイタリティもあった。そしてパソコンを庶民レベルに普及した功績は大きい。しかし、彼が途中でしたことは何であったか。知る人は少ない。

(同p146)「イエス・キリストや仏陀が行くところには、動物や鳥、蝶がついていったというが、本当にあったかもしれないと私は思っているぐらいだよ」・・・ユダヤ人の大富豪達の化けの皮がはがれた。彼らは真実を知らない。この時点で、これから先が読めなくなった。やはりお金に対する違和感がある。どのように合理化してもお金は汚い。


サンマーク文庫刊、N・ウォルシュ著、『神との対話 365日の言葉』629円

(p275)あなたがたは、無条件に愛されるというのはどんなことであるのかを忘れている。神の愛の体験を思い出せない。だから、世間で見いだす愛を基準にして、神の愛も同じようなものだと思う。

(p276)神はあなたに失敗させはしない。

(p374)「神」であることを求める魂には、壮大な仕事が待っている。「在り方」の厖大なメニューのなかから選ばなければならない。いま、この瞬間も、魂はそれをしている。

(p249)あなたは自分の力を誤解している。忘れないように。あなたの人生は、あなたの意図するとおりに進んでいくのだよ。・・・これは真実の一端だね。しかし足りないものがある。このままでは例えば淫靡な生活も是となるだろう。堕落腐敗も人生と言うだろう。導かれているという観点がない。すべては知らしめんが為にという観点がない。西洋信仰理論の限界である。どうしても通らねばならない東洋的無と空を知らない。彼らにはわからない。彼らは知らない。


平楽寺書店版、『訓訳妙法蓮華経并開結』

(p385)世尊、若し菩薩あって此の陀羅尼を聞くことを得ん者は、當に知るべし。普賢神通の力なり。若し法華経の閻浮提に行ぜんを受持することあらん者は、此の念を作すべし。皆是れ普賢威神の力なりと。若し受持し読誦し正憶念し、其の義趣を解し説の如く修行することあらん、當に知るべし、是の人は普賢の行を行ずるなり。無量無辺の諸仏の所に於て、深く善根を種えたるなり。諸の如来の手をもって、其の頭を摩でたもうを為ん。


どちらの方向へ進むべきか

古来日本は世界の考え方を取り入れ吸収し自分のものとしてきた。この度もそれが起こるのかも知れない。代々日本はそのようにして進化してきたからである。そしてジャパン・アズ・ナンバーワン。その意味を知るものは少ない。日本の秘密である。東洋と西洋の高いレベルでの合一。つまりアウフ・ヘーベン。新しい時代が待っている。だれもがその恩恵を得る。それを果たすことが日本の使命である。そのためには何が必要か。真の改革が進行している。この流れに乗ることが新しい時代を切り開くものたちだ。すでに始まっている。私にとってはある意味で復活であり、ある意味で復讐である。それは失われた自分自身への報復である。だれもがベストを尽くしていた。しかし思い通りにいかなかった。もはや誰をも恨んではいない。恨むとするなら運命である。しかしそれも知らしめんが為だった。偉大な力の存在することをである。今確かにそれを見いだしている。信じるしかない。やがてすべては明らかとなるだろう。私は今それを探している。どちらの方向へ進むべきか思案している。間違うかも知れない。間違えば修正するだけだ。治癒すべき瑕疵である間に。常に引き返すべき黄金の橋は架かっている。それを知っているだけでも救いである。民事訴訟において弁論の全趣旨という考えがある。それは人格的なものである。これを見失っているのが現代社会である。そのサンクションはある。罪とは本来何であるのか。宇宙自然生命黄泉祖先の定めた秩序に反することである。お経典『妙法華経』は何故チカラがあるか。仏の定めたことであるからである。仏が宇宙自然に対して宣言したことであるからである。この事実、知るものは少ない。今、世界に合流すること、これが進むべき方向性であると思っている。さてこのブログは黄泉の守護下にある。このブログの文字は仏所菩提樹御供養誓願を経た文理真正であり、言葉はロゴスを得ている。ロゴスとは宇宙に通じ黄泉に受容されその助力を得て現実化する言葉である。そしてこのチカラを持つものが平等大慧教菩薩法仏所護念真実証明華徳大菩薩である。そのチカラは仏、仏とのみ究了したまうところ、文殊菩薩普賢菩薩にも譲り給わぬところであり、修行を経て身心清浄を果たすことで得るものである。あだやおろそかならぬ。日月照らし風が吹く。もはや疑えぬところとなっている。これが二十一世紀の約束であったと云えるのである。上求菩提下化衆生。私はこのまま世間の中で足下を照らすことをするのだろう。そして幸せに生きていくことだろう。自由に。もはやお金にも縛られることはない。『地蔵菩薩見聞利益品』がある。その中に説かれていることは何か。地蔵尊にすべて預けよということだ。財産をも。生命をもであろう。まるでヨブ記である。すなわち富を得る秘訣である。国家を持たず因って勝手なことをしている彷徨うユダヤ人の大富豪たちがここまで知ってのことであるのかどうか。知りたいところである。かつてヒロシマは廃墟と化した。私の祖先達は廣島に居た。広島大学の象徴はフェニックスすなわち不死鳥である。しばらく姿を見せなかった。今飛び立とうとしている。迦陵頻迦も美しい声で鳴いている。その声が聞こえるだろうか。


2006年07月06日

お金から自由になった人

「お金から自由になった人間は、もっと温かで愛のあふれる世界に住んでいるのだよ。」(『ユダヤ人大富豪の教えⅡ』p52)「人は、自分の見たいものを見る。人生で経験してきたものをそのままお金に投影するのだよ。」(同p60)「お金の三つの機能(交換機能、蓄積機能、増殖機能)を正確に把握して、縦横無尽に使いこなす者だけが、現在の世の中では金持ちになっている。お金に無知な人間は、この機能の違いに戸惑い、混乱し、絶望とともに、生きざるを得ないのだよ。」(同p62)「『自分にもできる』と信じる力はとっても大切だ。それが、すべての始まりだと言ってもいいだろう。」(p69)ところで私は時々のステージにおいてとても美しい女性のハートと接してきた。いつも成就していたかのようであった。精神的にはね。思い出は尽きない。輝く方ばかりだった。しかし具体化することはなかった。その意味も理解できるようになっている。まだまだこれからだよ。これからが具体的人生だと思っている。やっと私の時代が来たと思っている。これまでは予行演習だったのだと。なぜにそうした方々と出会えたのか。なぜ具体化しなかったのか。すべての謎は解き終わっている。すべては過去の因縁だよ。持って生まれた種であった。しかしそれは云えない時代だった。私は芽を出せないでいたのだった。自己との戦いが終わっていなかったからね。自分の時代は自分が切り開かねばならない宿命だったと云える。早くに気づけばよかった。しかし間に合ったように思っている。ありのままの自分でよかったんだ。それで十分だったのにね。なにを思っていたのだろう。計らいはいけないというのはこの意味でのことだ。考えることは大切だよ。学ぶこともね。こうしたことに気づいた方々が世間を席巻した。しかしね何かを知らないでいたね。最も遅れてくるトリとしての何かを。それが今開花したと云っていい。去るトリあとを濁さず。これからあらゆる真実が明らかとなるよ。やはりあなたがたは間違っていたね。その反省もしてもらわねばならない。あまりにも真実を知らなすぎた。そして我がまま勝手し放題。それを成功あるいは人生と勘違いした。そして世を腐敗せしめた。事実である。ゆるされはしない。それぞれの結果に対する責任は取ってもらう。すべて黄泉に記録されているよ。観念するしかないよ。故なく奪ったものは返してもらう。その中には私の人生も含まれている。もう自分の人生から逃げることはしない。いつも主体的に好きなことをする。生活のためにそれを犠牲にすることはない。自由を得るとはこういうことだった。好きなことをして生きてゆけるかどうか。それを遊ぶように生きると表現したこともあるだろう。遊びではない。遊びという表現はしない方がいい。後から来る人を惑わせる。そのためにはどうするか。すでに人類の英知がある。それを学ぶこともせず、むしろ無視あるいは愚弄したのが世間だった。幸せなど来るはずがない。幸せは掴むのではない。掴めるような幸せはない。幸せは如来。来る。汝自身の自覚を果たしたときにね。私たちは幾度となく過去世に出会った。そして今また生まれている。この意味は何か。過去において目指した夢を実現するためと云える。やがて宇宙へ帰る。魂として完成したときである。それまでにひとつひとつ課題として仕上げていくものがある。過去において仕上げたものはそのまま今世に持ってきている。それぞれ魂の階梯を歩んでいる。今なすべきことは何か。そのためには過去を辿り尽くす。そして現世での課題となる。だから自分次第である。自分の夢は何であったのか。自分自身に問うてみる。それが瞑想であったり坐禅であろう。そして気づく。何に気づくのか。この世の幸せとは何であったのか。西洋的にはお金である。東洋と西洋とは違う。両極端である。しかしもとは一つである。その一つとは何であったのか。お金は克服される。世の成功理論は過程に過ぎない。どのように理想めいてもである。究極は何であるのか。インドでゼロの発見があった。そのゼロとは何であったのか。空であり無であろう。空と無を通って自然が顕現する。そして日常へ帰還する。もはや無学となる。無学とは学ばないことではない。学ぶ必要がなくなる。常に導かれていることで足りることを知る。その時々の智慧と課題解決で足りることを知る。人生の目的は何であったのか。権力闘争など次元が低すぎる。武力及び暴力の行使など野蛮でしかない。詐欺的商法は地獄への一本道である。そのようなこともどうでもいい。しかるべき結果が待っている。問題は自分の夢は何であったのか。この世で何をしたかったのか。悟りが目的ではない。悟りの向こうに何かある。日日是好日。人生の喜びとは何であったのか。宇宙自然生命黄泉祖先の守護を知りたくはないか。日本はすばらしい。神々の住む国である。世界はすばらしい。温かい方々に満ちている。自然も黄泉もすばらしい。真実の世界がある。汚れた世間などどうでもいい。お金信者は清貧を嫌う。古来日本精神は清貧を尊ぶ。選択の自由である。どちらが本当の幸福論であるのか。これより明らかとなる。ここへきて後者の選択もある。前者もあるかも知れぬ。


2006年07月05日

自信の回復

人生は思い通りになる 自由を切り開くのは自由である 何事にも捉われることはない  本来自由 本来無一物 お金からもね 権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅ぶ 唯、法力あるのみ 人生において人格のパワーがすべてを決める それは情熱である すなわち精神である 人格の差は精神の差である クラシックは強烈な精神の記録である この精神を100%発揮できるかどうか それを決めるのが自信だ 自信は自分を疑うことで失われる どのようにして信じるに足りる自分を回復するか 何を以って自信の根拠とするか 宇宙自然生命黄泉祖先の守護を以ってする  どのようにしてそれを得るのか 心身清浄 自信を得れば勇気が湧く 本来自由 怖れることはない 不安はない 宇宙自然生命黄泉祖先に好かれることだ すべては解決する 自分がこの世の主人公となる 北朝鮮がテポドンを含むミサイルを6発発射した さらに発射したようだ どうなってんだろうね それにしても、このようなばかげたことがあってよいのかと思う すべて知らしめんがためだったとは 何を知らしめんとしたのか 汝自身をである そして法華経窮子のお話は本当だった 芥を払うこと三十年もすればどうなるか すべてが与えられる 宇宙自然のすべてである 道元は只管打坐だった 法華経は菩薩道 親鸞は念仏 それぞれ道は異なるがそれぞれの通った道だった キリストもソクラテスもそれぞれの道だった しかし到達点は一つだった 今新たな道が開かれたのかも知れぬ 日月照らし風の吹く この境涯をどのようにして手に入れるか だれぞ真実得たものがいたか この道が本当に開かれたとすると、みんな、どうするのかね すでに気づいている人もいる このブログ、その発祥地である 疑うも自由 しかしそのサンクションはある なぜか 黄泉の守護するところであるからである 刃向かうも自由 刃向かってみるがいい 思い知らされるであろう これまでの轍は踏まない それだけのことである もはやどうにもならない で、どうするのかね まだ勝負するのかね どのような目にあいたいのかね 方法はいくらでもある 手段はいくらでもある 正統と異端 異端の時代は終わった もういいよね もううんざりだ それでもまだわからぬと申すのかね ばかばかしい限りだね もうトックニ年貢の納め時だよ ゲームは終わった 君たちの負けだ ラジオを聴いている 通天閣ブルースが好いね 天王如来 開発すべきは思念力 これを以って新しい道とする 椿咲く港はどこか 呉市の花は椿である 呉市に銘菓椿饅頭がある 天皇陛下来呉に際して献上したものである 呉市立港町小学校がある JR呉線川原石駅の傍にある 呉造船所第四秘密ドックがあった ここで大和は建造された グロブティック・トキョー52万トンタンカーは呉で建造された その後100万トンタンカーの予定もあった 50万トン級二隻を海上でつなぐことも考えられていた そのために、ブリッジのクレーンもあった しかしオイルショックの後、その計画は消えた 
そのブリッジもなくなった しかしそのブリッジを鹿児島で見た 関係者に聞くと呉にあったものだった しかしそれも今はない どうでもいいことではある 呉湾は第二溝渠である もう悪ふざけは通らない 真実が目覚めたからである 正統Japan復活である 冗談ではない 早く気づいたものが本当の勝ち組である 本権主権は決して譲らぬ 歴代の約束である 土壌が変わった これまでは真実の花が咲けなかった これより宿王華咲く

2006年07月04日

ジーコとヒデ その他 独立

ワールドカップの日本敗退について、ジーコとヒデに対する批判的な風潮がある。さて、ジーコの方法論は間違っていたのかな。ヒデの思いは間違っていたのかな。ジーコは選手を信じた。選手の主体性を重んじた。かれらに任せることで力を発揮すると。その力が発揮されなかった。ということは選手たちに力がなかったということだね。そうした選手たちにどのようなコーチングをしても不毛だろうね。だからヒデの思いも正しかったのではないかな。ジーコは十分に教えたし、環境も作ったと思う。ジーコの教えが生きるのはずっと先のことだろうね。

天台でもない、弘法でもない、道元空手の威力がわかるものがゐるだろうか。良寛の禅はわかっても、一休の禅はわからない。何故だろう。孤独の度合いが違う。何とでも言うがいいし、何とでもするがいい。何処吹く風の道筋か雨は静かに降らんとす。

必ず幸せになろうと思った。失ったものは取り戻そうと思った。今までお金儲けは悪だと思っていた。今はそうは思っていない。むしろ必要だと思っている。お金がなくては菩薩業はできない。謎は解いた。これ以上ない謎だった。

今日、府中ソレイユ・ダイアモンドシティへ行きました。そして買ったのが二冊の本。『神との対話 365日の言葉』(629円)と『ユダヤ人大富豪の教えⅡ』(648円)。どちらも文庫本です。

感性が受容できるかどうか。それだけですね。

さてあらゆるマイナスから脱却の頃となった。すでに充足している。現実が追いついてこないが、それも、時間の問題だと思う。すぐに芽は出ないし、花は咲かない。しかし、確かに種を蒔いたのであれば、必ず、咲く。それを信じて待つことができるかどうか。その間、明日は嵐か時雨か知らねども今日の勤めに田の草を刈ると行けるかどうか。試練だね。試練もいつまでも続きやしない。いつかはゴールがくる。それまでの試練だよ。すべては神の計画あるいは仏界の決定と思えるかどうか。思えたなら神あるいは仏界の住人だね。この意味わかるかな。そろそろ店じまいかも知れなくなったよ。店じまいとしたら、マイナスの店じまいだね。プラスだけで生きてゆけるし、それでいい。人生長いようで短い。みんな幸せを願って生きている。それが権力かと思われた時代もありました。茶色い戦争もありました。お金ですべてが買えると思ったこともありました。しかしそれらはすべて虚妄でありました。そして真実とは何だろうって思うのです。今も昔も真実はあるのです。仏陀、キリスト、ソクラテス、孔子は知っていたのでした。知らない私たちは知らないままでした。しかしその真実も私たち庶民レベルで知る頃となりました。人類はここまで進化したのです。長い歳月が流れてのことでした。地球もすでに50数億年の歳月が流れました。時の流れです。これから、何をして生きてゆこうかと思います。このまま生きてゆけばいいのだと思います。すでに見るべきものは見ました。探すべきものは探しました。不思議な力も体験させてもらいました。これ以上ない幸せの可能性を見いだしました。みんながこの事を知れば、きっと、愚かさからの脱却ができます。殺戮なんてありえません。釈迦国を滅ぼすために軍隊が進軍していました。時に仏陀はその道の傍らに坐っていました。それを見た敵軍は引き返しました。二度目にやはり進軍して参りました。二度目は仏陀も阻止しませんでした。時だったのです。聖徳太子の末裔もいませんね。キリストは処刑された。ソクラテスは毒杯。人間の残虐性が過去において何をしてきたか。思い知る頃ですね。ヒロシマの原爆を知った以上、先進国間での核の使用はありえない。歴史の流れです。かつて世界は地中海だった。その後大航海時代を経て世界は地球となった。かつて世界は無限だった。今は有限です。日本もペリー来航以降世界に合流した。その間いくつか試練もありました。ここへきて重要な地位を得たのではないですか。それが流れですね。この流れの中でどうするのか。過去の理論は悉く通用しない。新しく地平は開かれている。それが21世紀、心の時代です。かつて人類の英知が発見してきたことが、私たち庶民レベルでの発見となる。それでいいのではないですか。そしてその中には自然へ帰れを含む。自然へ帰るとは、神仏との邂逅と云えるのです。この点をはっきりと自覚する必要がある。この自覚が新しい時代へのパスポートですね。もうマイナスをあげつらったりするのも必要ではない。そのような暇はない。みんなが幸せになれる理論がみつかりました。実行するのみですね。実行しなくては何事も成就しない。パスカルは言いました。神のいる方へ賭けろ!自己の真実を獲得できるかどうか。自ら吐く言葉と一体となれるかどうか。かつて武士は自己において疑いがなかった。それで切腹もゆるされていた。今、この意味で、自己に疑いのない人がどれだけいるのだろうか。夢は実現するためにある。何時までも夢の中にいたのではどうしようもない。そのまま死んだのではあまりにももったいない。エンライトメントが悟り。心に灯が点る。顔が輝いてくる。誰もが見逃さなくなる。幸せとなれる。実は黄泉が守護している。黄泉に好かれたのだ。黄泉も守護するものを選ぶ。祖先もそうだ。祖先から好かれる存在となることだ。その為の供養だよ。祖先の力は絶大だよ。幸せの方程式の解き方、わかるかな。これが21世紀真実幸福論です。私の場合は、平等大慧会での修行もある。実は人知れずかなりの修行をさせてもらっている。すなわち仏所護念だ。今日の結論、今ある自分は過去において自分が蒔いた種の結実である。良い自分であるのか、悪い自分であるのか。良い種を蒔けばよい花が咲く。悪種を蒔けば悪い花が咲く。今日本は腐敗し、凶悪犯罪国家となった。これも自ら蒔いた種である。そして夢は実現する。自分は成りたい自分に成れる。悟りも開ける。その実践証明は果たした。精神世界は制覇あるいは克服したよ。たいへんな戦いであった。自己との大戦争であった。なかなかできることではない。しかし過去からの約束は約束だった。法華経の真実がわかる。自己との大戦争に勝利しない限り、わかりはしない。外は雨である。風はない。静かにしかし力強く降っている。己の意思とはこうあるべきであるとばかりに。雨降って地固まる雨である。未来は明るい。日本は大丈夫である。過去に尊い精神があった。そのDNAがある。さて、絶大なる自信は得た。根拠は宇宙自然生命黄泉祖先からの守護である。すなわち日月照らし、風の吹く。自信があるところ勇気もある。これから何をするか。何もしない。このまま生きる。何があっても信じてついてきてくれる伴侶の現れることを願っている。虫がよすぎるか。今日はアメリカ独立記念日である。私も独立である。


氏素性について

氏素性ということがある 氏だけではだめだ 素性が大切 日々の思念と行為が 決定的要因となる いくら 過去からの徳があろうと 使えば 尽きる 自分ことばかり思っていたら どうなるか 奪ってばかりいては どうなるか 自覚することはありえない 永遠に 悪のまま 地獄で浮沈する 助かるためにはどうするか 敬うべきを 敬うことだ しかし 思い上がったものには できない 見えないのだから 仕方ない 天に唾を吐いてどうするのか それをも わかってはいない 自分が基準だから 自分より上はわからない それが 世間身勝手 目覚めたものが 勝ちだよ 悪に目覚めても 仕方ないけどね 子に対する責任は 親にある 社会にある 大人にある 言い逃れはない 凶悪野蛮軽薄無恥幼稚浅薄なテレビ番組及び情緒なき漫画で 子供は 育っている 表層で いくら奇麗事を言っても ダメだ 心はすべて 見抜かれてるよ 黄泉から 黄泉に導かれ 黄泉からの試練を超えると 黄泉に受容され守護される 存在 がある そして やはり 私にとって 失われた 春 時 どう埋め合わせがあるのか 楽しみではある 戦後あるいは明治以降 蔓延りたる 世間野蛮文化 大和の精神を 瀕死に貶めた 私は ゆるしはしない メキシコ銀 自由は自由が切り開く 失ったのであれば 取り戻すしかない コギトエルゴスム 黄泉見聞録 古儀都得る後澄む 住む黄金の国 日本 ジパング 大和乃精神は 奪えはしない 滅びやしない ショパンは革命家だった リストは銃を取った 強烈な精神 が クラシック である 彼らの 伝えしものは 何か 身分に安住する精神のない専門評論家どもが 何をなめて ほざくか 世を腐敗せしめたる 明治以降下級精神町人文化支配 源氏平氏嫡流大和魂 ゆるしはしない


2006年07月03日

天気予報が はずれるね 何故なんだろ この 科学の時代に 意識して 変えることができるのかどうか そのような チカラ が あるのかどうか 意識しなくても 変わるのかどうか そのような 守護が あるのかどうか 知る人ぞ 知る 知らない人は 知らない 知らない人は そのようなことは ない と 思う 神秘は 知らない人にとっては 神秘である 知る人にとっては 事実である 知らない人にとっては 偶然である 知る人にとっては 必然である 意識して 変わることが ある すなわち 思念力 としてね 意識しなくとも 変わることがある 黄泉に受容され守護された魂が黄泉と連動したときに 起こる そんなばかなことが あるだろうか あるから 不思議である そのために 条件があるか ある 少なくとも 三十五年 悪を為さない すなわち これを以て 身心清浄 その道は 自ら選んだのではない 導かれてのことである その間 試練である 地獄も見る 垣間見るのは 守護と導き パスカルは言った 神のいる方へ賭けてみよ 宇宙に秩序がある 人間の計らいの及ぶところではない これを 神の計画 と 言っても良い 時代はシフとした 何故か 時は満ちた のである これが 二千年来の約束 21世紀 だったのだ 約束は成就した 新しい 時代が 開けた 知る人は 幸いである やがて 幸せの実がなるであろう 宇宙自然生命祖先黄泉 が見出され その守護が 働く 宇宙自然生命祖先黄泉 の 好むところ 真実真理 である もはや 決定的な 時代のシフトである これまでも そうであった しかし 自覚がなかった これからはちがう 何故か 自覚したからである これが 古来日本 卑弥呼の系譜 邪馬台国大和 の 秘密であり その種は 密かに 黄泉において 伝えられていた それが 現れる 知る人ぞ知る 知らない人は知らない キリストも それを 知っていた だから 磔に 甘んじた 真実が目覚めた 時は流れた 魂も 進化した 過去からの物語が すべて 完結し 意味を 持った はやく 気づいたものが 幸い である


【趙州、縦饒悟り去るも、更に参ずること三十年して始めて得てん】

「本当の悟りというものはただ知っただけでは悟りではないわけでありますから、それはマァ般若の智慧ということになりますが、その本当に悟ったところを実地に体現するというか、だんだんとそれを実生活において、平常心是れ道ということを立居振舞いの中に完全に現わし得るようにならなくちゃ本物ではない。さらに三十年、真剣に工夫純粋させなくてはいけない、と。ここで三十年というのは、年月が三十年という意味ではない。人生で本当の働き盛りはだいたい三十年と昔からいわれておる。したがって、一生修行せいということです。しかも、一生というのはただこの現世だけではない。生まれ変わり死に変わりして菩提心を向上させていってはじめて、道というものが薬籠中のものになるのであり、決して生易しいものではない」。(大蔵出版刊、苧坂光龍著『提唱無門関』p180)「成り切り成りつぶれた境界になったら、もう疑うにも疑うことができない。自分がそのド真中におるわけですから」(同p179)。「お互いは天から与えられた天命を持っておる。その天命が薬籠中のものとなると、お互いの見聞覚知、行住坐臥の四威儀を通じて天命そのものが躍動してくる。滲み出てくる。そこを道というわけです。単なる知ではない。」(同p177)「一所懸命にやろうという気持でやっておる間はまだ本物ではないわけじゃ。そんならやろうと思わなかったらよいかというと、それでは千年河清を待つで行きやしない。むつかしいところです」。(同p178)