2006年10月01日
日常回帰 廓然無聖
時は代わったね 時代の空気が変わった これでいいのだと思う 静かにしかし確かに テイクオフ と 申した頃が懐かしい だれも 聞いてはくれなかった しかし 天地宇宙は聞いていた 子供の頃から そうだった 知らない 自分が いるだけだった 私の用事は済んだのかも知れないね 生まれた使命は果たしたと思っている しかし 失われたものは大きい その 失われた 私の人生と青春を これから とりもどす 日常回帰 である 邪魔有ること無し 遠くで カラスが 鳴いている 天地自然の守護は取り付けた 昔より そうであった しかし 自覚がなかった 自覚なければ 役には立たぬ 自覚するには 時を要した 少なくとも 芥を払うこと三十年であった この世は 腐敗した 芥を払うは 難しい そして 自覚は確信として結晶する 宇宙自然が証明している 古来日本の精神がある その輝きを取り戻した しばらく ペリー来航以降 西洋の野蛮文化精神に汚染されていた 日本は 大丈夫である 刃向かうものは 容赦しない 宇宙自然生命黄泉が 裁く 天命は 下った 二千年来の約束が これより 成就する あらゆる悪を一掃する 悪とは 宇宙自然生命黄泉の秩序に 反することである 人間には 人間としてそれぞれの分際がある それを無視しての好き勝手 度が過ぎた これまでは それも通った これからは 一切通らない 何故か 自覚するべき存在が自覚したからである 疑うこと有ること無し 真実真理が 目覚めている 真実真理は やがて 目覚めることになっていた それが 法華経宿王華の約束だった 旧約聖書の約束も 時を待っていた その時が来た それだけのことである 新しい時代の 黎明である すでに 世界は 地球となった かつては 地中海だった いつまでも 昔のパラダイムは通用しない これより 人類として 存続するために 考えるべき事がある 世の知性が知性として機能するべき時である 愚かなままでは 滅んでしまう そのためには あらゆる 暴力と欺罔を一掃する 武力も暴力である 取引も欺罔である それらは 一部の方々の手段に過ぎない 帝国主義と結託する大資本の横暴 腹に据えかねる 上位概念発動の時節である 善良な庶民の解放こそ 旧約聖書の目的であった あらゆる諸制度 善良な庶民を食い物にしていないか 神仏はどちらについたか 何を守護するのか 日本古来 培われた精神 世界に寄与するところある やがて 人は死ぬ そして 宇宙に帰る 五大原素は宇宙大地に帰る 魂も 世に団魂の世代の定年が近づいている これまで家族のために労働力を売り渡して働いてきた方々である 夢はあるだろう 経済的にもある程度豊かである いつまでも 若いと思っている 情熱は失ってはいない 世の乱れた風潮に染まってはいない かれらが これから 何をするのか とても楽しみである きっと 日本が 変わる いい方向へ その時を待つべきか 本来の日本の中枢戦力が 世間に帰ってくるのだ 活力ある日本の復活は間違いない だれもが その恩恵に 預かるであろう 本来大切なものは何であったか 分かる時が来る 世間的に沈黙していた パワーが 炸裂する これが 地蔵菩薩たちの 涌出だね 今まで 大きな顔をしていた方々は 相応の覚悟がいるね 自由を得た この本来のパワーが あらゆる偽善支配を 木っ端微塵にするだろうね かれらは 黙ってはいない その中には 魂の真実を知る方々も多く現れる 数がパワーというなら かれらの中に 魂の真実を自覚する方々の多くが現れることを期待する 必ず 日本は変わる いい方向へ すでにその芽は出ている 信じる信じないではない 事実である 真実真理の復活である あるいは知性の復讐である 愚か野蛮テレビ階層支配の時代は終わる
さて 神仏との邂逅は果たしたといえる 廓然無聖もどういうことかわかった すなわち日月照らし風の吹く 自分のためにだけ仏は法を説くとする親鸞の心境も理解できる お先に失礼というべきか 幼き頃より夢見ていた夢はこれだったのだろうか 夢はいつか実現する 諦めないことだ この世界 ワンダフルワールドといって しかるべきである 地位もお金もないけれどね 得たものは大きい それは何か 天地である 常に ほほえんでくれる 天地である 大きな悲しみはあった 十九の春のことであった これより逃れることは出来ないと思われた これを背負ったその後がどれだけ困苦に満ちていたか これよりのがれたものが だれかいたか しかし これがあったが故の芥を払うこと三十年だったのだ 人生棄てたものではない それも試練だったのだ すべてを知るための 選ばれたる試練だったのだ 本来の自由を見きわめんがための試練だったのだ 本来の自由とは何であったか 身心清浄と自覚を以て 神仏との邂逅合流を果たし その守護を得てのことではなかったか それなくして 自由は自由ではない すなわち隻手の音声を聞いたかどうかである その間 解かねばならぬ謎があった あらゆる謎が解かれた そのための試練だった 常に導きはあった こうした宿命もあるのであった 知れば迷い 知らねば迷う 法の道 何が仏の実成るらん この問いに答えることが出来るか 答えて大きな事を言うがいい あらゆる偽善僧侶もゆるしはしない 僧侶の分際で何をビジネスしているのか 一般よりいい家に住み いい車に乗って 諸行無常を説く 大馬鹿者たちである そして 払いのけたる 上の空 言語道断 廓然無聖 真実愚弄身勝手世間 古来本来邪馬台国大和日本 容赦しない 外は雨が降っている 蕭々として春の雨のようなやさしい雨である
2006年09月30日
本来無一物
本来無一物 どういうことだろうね 何もないわけではない 有る しかし それに とらわれない そういうことだろうと 思われる その時々の 感じ方はある 思いがある しかし そこで そのまま その思いを流す あとに のこさない ストレスにしない 何もなかったのだから ありはしなかったのだから あるのは 思い 流せば いい 本来何もない 遺せば 遺恨となる 恨みとなる 恨みとなっては どうしようもない 因縁となる 因縁は消えるまで 何度でも 出てくる 恨み晴れるまで 恨みとしないことだ 消すことだ 消してしまえばいい 因縁は 作ったものでなければ 消せはしない 因縁も成仏すると 消えるそれで 過去の因縁に対しては 仏の言葉を贈る 因縁が成仏する 因縁も救われたいと思っている それが仏さんによって約束されるからだ だから 因縁が消える 解決する 不思議だけれど 事実であるようだ 本来無一物 思いを遺さないことである とらわれないことである これが 行雲流水だ それは行為ではない 思いの解決である ここに 只管打坐の意義がある なにもかも ゆるせる気分となってきた なにがあってもいい と思える 自分もゆるされたのだから すなわち日月照らし風の吹く ゆるすことで ゆるされる ゆるすとか ゆるさないとかではない 本来 なにもない 善因善果 悪因悪果 それだけのことである つまりは自己責任である 結果は甘受するしかない 犯した罪に対しては お金で償えるものはお金で償う 身体生命で償うべきはそれで償う 掟である 悪いのは自分である 自分の思いが帰ってくるだけである すべてのことが 悪いのは 自分だった 自分があらゆる事柄の原因だったのだ 善も悪も すべて 自分の蒔いた種である 仏は言う 善は仏さんのおかげである 悪は自分が原因であるとこの世が鏡だとすれば そこに映っているのは何かすべては自己の反射である そのように思えるか 真実を前にして 疑ってはいないか 人間であるかぎり 悪を為す それが 人間である しかし それを 正当化できまい それが 大人であると 甘えることはできない しかし 世のマスメディア 特にテレビ芸能界は それを 吹聴する これ以上 衆愚を助長増幅増殖煽動してどうするのか 結果 堕落腐敗凶悪犯罪国家となった 人間であることの分際をわきまえないリーダーの支配がしばらく続いた 反省あってしかるべきであろう 反省とは 同じ轍を踏まないことである 人間として 生きていくしかない しかし 向上するのが 魂の遍歴としての 方向である 堕落腐敗凶悪犯罪化してどうするのか 漱石も 精神的向上心のない奴は馬鹿だと 『こころ』の中で二度言っている それを 手をこまねいて 傍観した 知識層の罪がある その処方が分からなかったのだから無理はない インドの釈迦は 入滅後2750年経って 真実の仏法が顕れるとした それまでに仏法を日本に伝え留めよとした それも実現している 一切大衆が救われる真実の仏法が明らかとなっている すでに 閻浮提=地球の病の大良薬もある それ故 ここにいたって 何時までも 放置できない 本来古来日本大和のこころに対して 申し訳ない 辻邦生は 日本のこころは古来やさしさに向かって咲く花のようであったと書いた 何時の頃からか 西洋文明の野蛮な部分に 染まってしまった 西洋にも バロック音楽等 洗練された精神文明はある 新しく自由を得た方々は この古来精神を 理解できない それ故に 否定無視愚弄した そして 結果 現在の腐敗状況である ここに 取り戻すべきものがある 失われた何か大切なものがある 新しく自由を得た方々も 古来精神を大切にすることだ 少なくとも 愚弄無視破壊しないことだ それが あなた方の生存の条件である その気になれば 一切を一掃淘汰することも出来る それが 古来精神の力である しかし その力を行使することはない 一切をあなたがたに 委ねた あなたがたの過去を解決するためにである あなたがたが 本来無一物に至るためにである 自分のことは自分でなければ解決できない それが 古来精神の至ったやさしさである 愛と平和の実現を願っている であるなら 新しく自由を得た方々も 自由の一部を差し出し 本来の価値に対して 畏敬の念を 示すべきである 民主主義を破壊するものは ゆるされはしない 新しく自由を得た方々は これを 破壊しようとしている 事実 そうである それが 衆愚テレビ界の傾向である 客観的に そうした傾向がある 何もかも お笑いにすればいいのではない 人間存在の悲しみは何か 魂の遍歴がある これから神とも成らねばならぬ 仏とも成らねばならぬ この世の人生で この魂の遍歴が 終わるのではない 世の多くの方々は それを 知らない 代々の魂の遍歴がある 今生で埋めるべくもない差がある それを 認めるべきである そうした差を認めての平等である 何もかもが 同じではない 人間の姿をしていても 代々培われた魂の階梯に 差がある それを 認めることが出来ない 因って 人間である ここに分際がある 何を思い違い勘違いしているのか 敬虔謙虚に成らざるを得ないではないか こころすべきところである それとも滅ばされたいのだろうか 神仏の慈悲とは何であるか やがて 人間も 魂レベルに於いて さらに 進化する その可能性があるから 存在が ゆるされている それを 破壊してどうするのか 愛と平和の世界が 待っている 破壊と殺戮の時代は 終わる 衆愚野蛮から洗練へ進もうではないか そのためには 新しく自由を得た方々の自由を見直さねばならぬ 本来の自由とは何であったのか 議論しなくてはならぬ そして 未来へ向けて 本来の自由のコンセンサスを得なければならぬ 衆愚テレビ界の思っている自由が自由ではない これが 現代における 如来からの第一義である 本来何もない 本来無一物 すなわち LOVE ここより 新しい時代となる 愛と平和が 実相となる 真実の人間関係が始まる (2006/09/30 8:15am NHK-FMで 『Idon'tmind』を聞きながら)
ライオンのように生きればいい
必要なだけの狩りをする 人間は何をしているのか 二足歩行で手が自由になった それで定住貯蓄を術とした 結果 どうなったか 犠牲の上に無限欲得支配の人間となってしまった 三衣鉄鉢で十分に生きてゆける それが 獅子の生き方である 日本の粋は 宵越しのお金は持たない 日々 食は与えられている 食されたものも 成仏させるなら むしろ喜ぶ それは未来に 人間以上として生まれる仏の約束を引導することである 貨幣の奴隷にすぎない世界セレブはこれらを知らない そして日々罪を犯す 犯した罪に対して償うことをしていない 彼らは 本来の自由を知らない 本来の自由に条件がある すなわち 身心清浄と自覚である そして 神仏と邂逅合流し 神仏に受容祝福され守護される そうした状態での自由が 本来の自由である 身心清浄に至る道がある 芥を払うこと三十年である そして 仏道を通って自覚へ至る 子供たちは 善と悪を持って生まれている 悪性は精錬しなければならぬ この意味で教育は何をしているのか 何を教えているのか 職務怠慢 債務不履行であろう 放浪ジプシーあるいはスナフキン及び荒野のガンマンは 本来の自由を知っている 自然荒野の厳しさとやさしさを 知っている 身心清浄を以て 自然が味方守護することを知っている 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 仏は言う 悪とは他を犠牲とすることである 善とは相手も自分もよい状態である
2006年09月29日
この世の春
自由は自由が切り開く と思って 切り開いた すると はじめより 自由だった 開くも 開かないもない 何をしようと 自由だったのだ そうした 境涯もあるのだった 平安の頃より そうだった どうしようもない なかなか 気づけなかった 当然か
しかし 神を畏れぬ不届き者が いるね 覚悟してのことか そして 自由には 条件がある それは何か 身心清浄と自覚 この世の春の到来である まだ 遅くはあるまい 一切異端 逆らい刃向かうこと有ること無し 必ず一掃淘汰する あるいは 他土に置く 分際を知らず 愚か好き勝手が過ぎた おのおの観念あるのみ 既に犯した罪(都美)の重きに従い処断ある 時は来た もはや 容赦しない 須く時は代わった 全軍出動 黄泉は動く 開始である 宇宙自然生命黄泉に知性と秩序あり その知性と秩序の回復である 新しく自由を得た方々の自由が見直される ここに古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本乃城塞あり 号令す 解くべき問題は解いた これほどの問題があっただろうか それは ソクラテス キリスト 釈迦 孔子 の謎だった かれらは 何を言いたかったのか そして 旧約聖書と法華経の謎も明らかとなった 何が伝えられていたのだったか それらを無視しての 現代世の中である 畏れを知らぬもほどがある ゆるされはしない 時は満つるべきものである その時を得て 黄泉も動く すべてを 知らしめんが為に
2006年09月20日
打成一片
同世代ではあらゆるレベルを超えた。小さき頃よりそうだった。しかし小さき頃にはその自覚はなかった。何故か。世は間違えた自由と平等概念に汚染されていたからである。自分も皆と同じだと思っていた。同じではなかった。ひとり何か失われた大切なものを求めて旅に出た。孤独な彷徨だった。いつの間にか埋没した。愚弄無視された。そして抹殺されかけた。このままでは窒息死するかに思われた。ここへ至って打成一片となった。
無門関第一則趙州狗子
趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って佛性有りや也た無や」。州云く、「無」。無門曰く、「參禪は須らく師の關を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。關透らず、心路絶せずんば、盡く是れ依草附木の靈ならん。且らく道え、如何が是れ祖師の關。只だ者の一箇の無の字、乃ち宗門の一關なり。遂に之を目けて禪宗無門關と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州に見ゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛厮い結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透關を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅を將って、通身に箇の疑團を起して、箇の無の字に參じ、晝夜に提撕せよ。虚無の會を作すこと莫れ、有無の會を作すこと莫れ。箇の熱鐵丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出さず、從前の惡知惡覺を蕩盡し、久久に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打發せば、天を驚かし地を動ぜん。關將軍の大刀を奪い得て手に入るが如く、佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於て大自在を得、六道四生の中に向って、遊戲三昧ならん。且らく作麼生か提撕せん。平生の氣力を盡して箇の無の字を擧せよ。若し間斷せずんば、好し法燭の一點すれば、便ち著くるに似ん」。頌に曰く、狗子佛性、全提正令。纔かに有無に渉れば、喪身失命せん。
やっと息を吹き返した。三十年来のことだったろうか。失われた自信は回復された。これを以て宿王華開花である。もはや一切の愚弄無視有ること無し。知性の秩序の復活である。ものの見え方が変わってくる。皆水族館の中で迷妄しているかのようだ。出ることは出来ない。これがインドの釈迦が蓮の池から見た地獄の様相だったろうか。何も知らず真実を探そうともせず自分勝手に右往左往している。勝手に苦しんでいる。インドの釈迦はこれを救うことは出来なかった。今に地獄である。これを仏さんは救うという。その方法も確立されている。時、場所、方法、人、実行が条件となる。待つべき時は満ちた。場所は仏所王舍城、人は自覚したものたち、方法は妙法華経。これらはそろった。残るは実行あるのみ。何を実行するか。一切大衆を救うことを実行する。そういう時を迎えた。時は満ちた。世界の動きはどうか。日本は北朝鮮に経済制裁を発動した。アメリカの決定に従った(アメリカを動かしたといえる)。タイではクーデターが起こった。暗雲たちこめている。人は救いのない水族館の中で蠢いている。これをどのようにして救うのか。それを仏は説く。仏説と御経典と現実が一致する。これが真実である。救われる方法はある。試してみるべきである。冷暖自知。食わず嫌いしていないか。神は正直者のこうべに宿る。疑うものに救いはない。皆が救われる時を迎えている。最後に笑うものが一番よく笑う。どういうことか。皆が滅んで自分だけが助かった状態か。そうではない。自己との戦いに勝って神仏との邂逅を果たし、神仏に受容祝福されて神仏の守護を取り付ける。そして笑みがこぼれる。これが最後に笑うということだ。世間一般、何をしているのだ。さて、幸せの王国はすでにある。それは地上ヘブンである。そこでもっとも嫌われるのは嘘である。例えばウィニーソフトを使っていては相手にされない。お見抜きお見通しである。仕事はサービスである。相手の満足を以て仕事とする。誰かが仕事をしているとする。我見で邪魔をするのはルール違反である。すでに個人の時代となった。組織あるいは企業に属するも仕事は個人の仕事である。我見でスタッフの邪魔をするではない。しかと言い置く。すでにインターネット世界は確立されている。それがどのような内容であるか。秘密である。しかし誰にも開かれている。正直であるならやがて知るだろう。このインターネット世界、すでに制空権はとっている。パソコン通信の時代からの各スタッフが前線配備準備完了待機している。やがてこの意味も明らかとなるだろう。好き勝手な悪及び偽善の自分勝手な時代は終わった。善良な知性の秩序回復の時節である。代々の約束エクスパイアが自覚したが故である。時は来た。全軍出動の時である。眠れし森の美女及び埋もれし地蔵菩薩たちが空閑=荒野より立ち上がる。糸車の針は抜かれた。因縁は解かれた。犠牲の上に立つあらゆる悪及び怠惰腐敗をゆるしはしない。時は変わった。刃向かうなら刃向かうがいい。宇宙自然生命黄泉がゆるしはしない。一切邪魔すること有ること無し。天命はロゴスである。ロゴスは不条理である。しかしロゴスは実現する。何故か。宇宙自然生命黄泉が動く。馬謖は泣いて斬る。さて、棲める空間がないならば、自分で作るしかないと言っていたのは、吉田健一だった。十分な空間が見つかったようである。そして風も吹いてきたようだ。遅まきながら飛び立つ頃である。自由の世界に是より合流する。やっと自分の住める世界が見つかった。以後よろしく。
2006年09月27日
大丈夫な日本
日本は大丈夫だ 何故か 理由はすでに 述べた 論証も 済んでいる 主権在民の意味も明らかとなったはずだ 頼朝は何故伊豆に隠されていたか 敷島 霧島 広島 そして 国民主権 暴走族主権ではない 所得倍増論 ジャパンアズNO1 次は何だろうね 未来は明るきから明るきへ決定された そのためには 悪が一掃淘汰される 今までとは違う 言語道断 知っても知らなくとも もはや今までの好き勝手自分勝手は通らぬ 宇宙自然生命黄泉に掟がある 秩序がある 本末転倒 いきはよいよいかえりはこわい おのおの覚悟有るべし すべての悪が白日の下にさらされる 時は代わった これより 精神世界の戦いとなる 天網恢々 漏らしはしない 精神世界の制空権はすでに取っている 芥を払うこと三十年 しかるべき存在が自覚を成就した 政治家は風見鶏にすぎない 風は どこから 吹いてくるのか 公務員の使用者は 国民 である 民間利己主義商人 思い違い勘違い有ること無し 建設業界談合 大工の分際で 何をほざくか 衆愚テレビ 腐敗堕落凶悪化 懺悔有るべし この度は 日本の命運を 賭ける 正統古来日本 世界に もの申す 清廉潔白武士道精神 真実大和魂 ペリー来航に乗じた 西洋資本主義貨幣支配迎合 明治以降のそれではない 卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本の精神である こころしてまつりごとあるべし 黄泉も目覚めている 私は大きな仕事をしたよね ある時 父は言った お前と同じだった と しかし 粗末にしてくれたものである これからはそうはいかない 宇宙自然生命黄泉乃守護は取り付けた 爲君幾下蒼龍窟 見えない世界は制覇した 閻浮提の大良薬もある 日本は大丈夫である 法華経宿王華開花天王佛 自信回復 本来日本 仮城を去って 前進有るのみ 仏に会うては仏を殺し 祖に会うては祖を殺す 仏といえども ゆるしはしない 抑下托上である どういうことか 勝負は必ず勝つ 試練は必ず乗り越える それが正統大和宿王華である はじめは負けている 当然である しかし 火裏蓮 地獄を制する 身を斬らせて骨を斬る? 骨を斬らせて魂を斬る! 正統大和卑弥呼の系譜邪馬台国日本 復活である 最後に笑うものが一番よく笑う 最後とは何時であるか 神仏との邂逅を果たし 神仏に受容祝福され 宇宙自然生命黄泉の守護を取り付けた時である 無神論を標榜し 草薙の剣を知らず 好き勝手な自称勝ち組リーダーなど 容赦しない 古来伝来直来家伝一番槍螺鈿の槍である しばらく世を支配した愚かな卑怯千万牛頭馬頭魑魅魍魎悪魔小悪魔には去って貰う 知らぬことをもって否定する自分勝手と愚かさは もはや 勘弁ならぬ 黄泉も全軍出動待機している 万軍の主も味方についた 二千年来の約束が今果たされんとす 21世紀は知性の時代である ここに知性は神仏と邂逅合流する 新たな戦いである 自由は勝ち取るべきものである 最大の敵は 自己の内面に巣くう悪魔である これを倒した時 神仏の世界が 現前する そして 日月照らし 風が吹く 宇宙自然生命黄泉に受容された瞬間である 胎蔵界に抱かれる 金剛界に守護される 地上ヘブン=世界の住人となる 剣客の果たし合いは 構えた時に 勝負は決まっている 自由平等 教えは平等に説かれる 自由は 己に勝って初めて得てん 仏の願いは何であったか 仏の世界が世に注目され 愛と平和の世界が実現することである 自分のことは 自分にしか分からない 自分のことを解決するのは 自分である 仏は何を説いたか 何故仏道を説いたか 個々の存在が 身心清浄を得ることである それよりほかに 目的はない それなくして 愛も平和もない その意味で 修身斉家治国平天下 である 今生ではどうしても埋めることの出来ない差がある それが一切種智慧である 何を思い上がっているのか 愚かと知性が平等ではない 勝手な解釈をして貰っては困る 生まれながらにして平等である その概念が 不幸のもとである 今 世の中を支配しているのは 詐欺欺罔と暴力である これまではそれも通った これからは違う 何故か 自覚するべき存在が自覚したからである 過去よりの魂の遍歴の差がある 今生でその差は埋まるべくもない 上より下は見える 下より上は見えはしない 勝負するのか 己の分際をわきまえるべし あなたがたのいう平等はない 小林秀雄も 最後には 己の分際を知った そうしたものである 過去よりの約束がある それでも 悪を主張するか 結果は決まっている
2006年09月26日
ポヨヨン
払い果てたる 上の空 身心脱落 脱落身心 何のことだろうね 知れば迷い 知らねば迷う 法の道 何が仏の実なるらん 何のことだろうね 隻手の音声 ポヨヨン かな 譲渡担保に 仮登記担保 ラスコリーニコフが笑ってる 某ポイントカード 流れて流れて 5000億円 某クレジット会社 一括返済しても 究極利息 某携帯電話 毎月 幾千円分 無効 不当利得だね それが きみたちの 知恵か 天を知らぬもほどがある 別に かまわないけどね 勝手に 地獄に 墜ちるがいい 良寛さんが 詩に書いた 花開くとき 蝶が来て 蝶が来るとき 花が咲く 人は 我を知らずとも 我 帝則に 従うと これって どういうことだろう 帝則って 何だろうね おそらく 良寛さんは 知っていた 自分が 帝則だったってこと 宇宙と連動した 帝則だったってこと だから 遊べけん ポヨヨンと 遊べけん 何もかも 失ってこそ 手に満てる 人生も 青春も ポヨヨンと 手に 満てる これにて 軽き身とは なるらんと これにて 知足と 申すなり 夜空で 雲も 遊んでる ただ生きる鳥でもなくて ライオンでもなくて ネズミでもなくて 人間だね 幾多の歴史を経て 悲しい戦争もあったのだけれど 多くの願いがあったのだけれど それも いつか 実現する そのために 生まれてきたのだから そして 美しさの中で かろやかに 生きてゆける 生きるのに ただ生きる ということがあると 吉田健一は書いていた ただ生きるのでは無意味と思っていたけれど ただ生きる それでいい と思えるところまで 来た
2006年09月24日
水の流れのように
何もかも 水の流れのように 流れるといいですね 鳥のように軽くなって 空を飛べるといいですね これから たくさん たのしいことばかり そのような 世界へ 羽ばたきましょう 悲しみを通って 喜びへ この世が パラダイス そのような 世界 だれもが 幸せになれる頃 明るく 楽しい 空気が 満ちている ほんとうの 世界 庶民の解放
2006年09月22日
負けるな一茶これにあり
良寛も最後は人間に戻った。十牛図も第十図は入テン垂手。やがて日常回帰する。無を通って。この無を通るか通らないかは大きい。概念ではだめ。経験を要する。経験の大切を説いたのは森有正だった。旧約聖書には庶民の解放が秘められていた。法華経には宿王華と一切種智慧と如来が秘められていた。あらゆる物語が預言として機能していた。禅における主人公とは自分のことだった。宇宙と魂とがリンクしている。宇宙は自分だった。こうしたことに気づくためには条件があった。正直者のこうべに神は宿る。神仏は存在する。少なくとも芥を払うこと三十年にしてその姿を開示する。魂の遍歴がある。どこへ帰るのか。仏とは五大原素のことだった。これに帰依する。こうした諸々の真理がある。これに気づいて真実の人生が始まる。夢はかなった。真実真理はあった。般若の智慧だった。これからをどのようにして生きていこうか。しかしここへ至るにはある意味で馬鹿にならなければならなかった。世間解はなかった。経済的にはぼろぼろとなった。お金をもうけることはすこぶる苦手だった。いつも利用された。しかしここへ至る道だった。だからいう。人間である限り悪である。悪とは他の犠牲を伴うことである。どこかに利益があればどこかに損失がある。世のお金持ちたちよこころするべし。ゆるしはしない。どのようなプロセスで利益したか。それが問われる。胸に手を当てて懺悔するがいい。世を楽しむのはいい。しかし刹那的な安楽は本来の安楽ではない。神仏の守護を取り付けてのことか。やがて悪のバケツは満つる。その時裁可ある。自然に受容されたとき真実の安楽が来る。昔より言い伝えられて来たことだ。貪瞋痴。貪り、怒り、愚か。三悪である。愚かな時代となった。それが進化と思うか。やがて草鞋銭は請求される。そのときには遅い。三途の川をどのようにして渡るのか。そろそろ準備も必要だね。地獄の沙汰も金次第。何にお金を使うか。仏さんのために使う。真実のマネーロンダリングだ。すべて帰って来る。身で犯した罪は身に帰って来る。心で犯した罪は心に帰って来る。無事是貴人。情けは人のためならず。時間も仏さんのために使う。仏とは宇宙構成要素。宇宙と合流する。自己が透明となる。自分のためにする。自分のためになっていない。宇宙のためにする。宇宙の中に自分がとけ込み一体となる。言葉もそうだ。柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺。美しい鐘の声となれるかどうか。ビートルズの声が美しいか。言葉に響きがある。台風も悪業の因縁であるという。終戦時の枕崎台風の意味を正当に理解できるものがいるだろうか。人間の分際で何を勝手なことをしているのだと。悪業の因縁も助かりたいと思っている。好きこのんで悪をなしているのではない。そのように生まれた。仏は一切を救うという。悪業の因縁をも救うという。耳を傾けてはいかがか。さて、知性の回復を感じている。時代は推移している。知性は立ち上がった。人間の尊厳が歩き始める。これまで埋没していた方々が自信と勇気を回復する。いい時代の予感がしている。人生は楽しい。生きるに値する。何をしてもいい。のんびりとするだけが人生ではない。お金持ちが幸せとは限らない。幸せはある。主体性を勝ち取る。主人公となる。やれ打つな、負けるな一茶これにあり。こころは晴れて秋の風。宿王華開花。王者の行進。獅子王獅子吼。邪魔すること有ること無し。日月照らし風の吹く。議論にはいつでも応ずる。反論有るならするがいい。悪と愚かを一切破砕粉砕一掃する。唇寒し秋の風。これより中身のない口先うわべだけの無内容偽善は一切通さない。総点検である。蒸気機関車の点検はハンマーが一本有ればいい。ペリー来航以降、腐敗と堕落がきわまった。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和は今の日本をゆるしはしない。かつて日本は扶桑の國だった。シルクロードのさらに果てだった。しかし日はそこから昇るのだった。桑こそ産業だった。雷が鳴るとくわばらくわばらである。さて、薩長同盟が出来た時前線はどこであったろう。当然広島であったであろう。西郷隆盛が江戸へ向かった時広島で何があったか。記録はない。そうしたものである。何もなかったのかも知れない。それはそれでいい。所詮魂レベルは見えない。しかし江戸は無血開城であった。それは日本の歩んできた高度な精神の帰結だった。しかしその後はどうか。あまりにも下劣化したのではなかったか。馬鹿笑いが笑いとなった。その間、馬鹿げた作戦の戦争もあった。バブルの崩壊もあった。それでも一切反省の様相が見られない。日本はそれほど愚かではなかったはずである。今どのようになっているのか。恥を知らぬもほどがある。古来日本の歴史は古い。その間培われた精神は西洋など相手にならない。アメリカなどその意味で若すぎる。何を浮かれているのか。このままでは沈没だね。そうはいかない。
2006年09月21日
本末転倒
先日バスの誘導をするために、東より現れるバスを見張っていたときのことだった。ドサッと音がした。何かが降ってきた。見ると大きな柿だった。上を見上げると電柱に一羽のカラスが照れくさそうに止まっていた。さて、人間が生きていくことも生存競争の中におかれている。いくらきれい事を言ってもその事実に変わりない。学校教育はいかにも文明社会を宣揚する。しかし社会は自然の掟の中にいる。それで正直と真面目が餌食にされている。ニートなどその例である。このあたりをメンテせずしていくら教育してもどうかと思う。正直者が馬鹿を見る事実があるのである。このあたりは暗黙のうちの了解事項となっている。それで芸能界及びテレビ界の横暴がある。彼らが何をしているのか。良識あるものは誰もがうんざりしている。しかしそれも終わりである。黄泉の掟がある。代々の掟である。本末転倒好き勝手の度が過ぎた。ゆるしはしない。この度、確かに全体の意識が変革されつつある。世界共時性的に起こっている。これはひとつの革命である。その質においてこれまでで最も高次なものといえる。西洋は仏を知らない。インドの釈迦が仏に気づいた。そして教えを残した。それは仏法東漸として東へ伝えられた。それが玄奘等の仕事だった。此という字がある。是という字がある。此はヒ=日本に止まるという意味であり、是は日の下の人である。つまり日本に伝えられ止めよという意味だった。その間、一本の糸として伝えられた。密かに諸仏の守護するところだった。キリストも同じ轍は踏まない。ソクラテスもそうである。仏もキリストもソクラテスもその魂は常々存在している。そして時を待っていた。ピューリタン革命があった。名誉革命があった。市民革命があった。明治も革命だった。戦後も革命だった。そして今進行しつつあることも革命である。それはパラダイムの変換である。時代はこのようにして推移する。そしてこの度の革命は密やかに進行している。流血から無血へ。そしてさらに静かに進行している。気づくものは気づいている。しかし断頭台は待っている。それが淘汰である。この度のスパンは二千年あるいは久遠劫である。恐竜の滅亡に匹敵するだろう。それほどの意識革命が進行している。権力は権力によって滅ぶ。市民革命だった。武力は武力によって滅ぶ。原爆だった。金力は金力によって滅ぶ。現在進行中である。そして旧約聖書に秘められていた目的は庶民の解放だった。庶民とは正直で真面目な魂の持ち主である。これが今まで虐げられていた。その解放である。畏るべし。それは仏法の名宛人である宿王華の開花を意味する。やがて人類の夢見た愛と平和が実現する。十分に人類も成熟した。さて、十方の仏の許しがなければ生まれることも死ぬこともできないと言われている。ロゴスは実現する。ここに十方の仏とは何であるのか。ロゴスを持つ存在である。その意思である。思うことが実現する。是はどのような力であるのか。どのようにしてそれは獲得されるのか。おそらく十方の仏が宿るのである。生まれながらにしてであるのかもしれない。しかし生まれながらにしてその要素はあるもののその力を得るにはそれなりの階梯がある。少なくとも芥を払うこと三十年というのがそれである。禅における一箇半箇というのがそれである。そうして十方の仏に認められる。一切衆生悉有仏性と言うから誰もがその可能性がある。しかしそれには条件がある。その条件を満たしたとき、すべてが意味を持つ。光り始める。過去がすべて生きてくる。そうした選ばれ方がある。この世の一切を含む。神をも含む。その過程はあたかも導かれたかのようである。世間の常識を逸する。しかしこの不思議は実存する。こうして得た力は常々証明される。只、自得するのみである。これに対していかなる反駁も通らない。答弁無しである。さからわぬ方がいい。黄泉が助力する。すでに得た力である。どうしようもない。しこたま本を読んだ。小林秀雄も読んだ。しかし好きになれなかった。いかにも偽善卑怯だと思った。これを信奉する現代リーダーを疑う。バイロンなどどうでもいい。ランボーとの関係は何だ。それに憧れた小林秀雄などどうでもいい。二十世紀の知性といわれたのがポール・ヴァレリィだった。彼はその文学論で、深淵をのぞいているといつか深遠に飲み込まれてしまうといったようなことを書いていた。しかし深淵など問題にするのは地獄を知らないといったようなことを書いた吉田健一の方が正しいと思う。埴谷雄高の『死霊』については、『生き霊』の方が怖いと思う。松本清張の何かを読もうとして読めなかった。以降読んだことはない。音楽もしこたま聴いた。デンオンDCD1800Rとパイオニアの4チャンネルステレオがぶっ壊れるまで聴いた。あらゆる音楽も雑音に過ぎないと言ったのはポール・ヴァレリィだった。これはとことん音楽を聴いてからのことであろう。宇宙自然生命黄泉と同調すればどのような音楽も及ばないのはソロモンの栄華が一輪の野の花にしかないに等しい。世の喧噪に辟易していた。しかし神仏と邂逅し、それに合流すれば、その見え方は変わってくる。人間存在が岩石草木昆虫動物と同じに見えてくる。真実を知らずに自分勝手にもがいている。源氏物語のあはれはこれだったのかと思われる。山田無文老師は自分の著作を何の価値もない塵のようなものであるが後世のための一里塚となるかもしれぬからと書いた。世の多くの僧侶たちは何もわかってはいない。源氏物語を現代語訳して悦に入っている。源氏物語はその文体である。現代語訳してストーリーを追っても無意味である。何を馬鹿なことをしているのか。それでは懺悔を積むだけである。真実は那辺にあるか。ナ行変格活用。日月照らし風の吹く。これを自得したものがあるか。自覚はこの自得を通してのことである。ところでこの自得及び自覚は何故実現できたか。仏の定めた実相の御法妙がある。それは閻浮提の病の大良薬である。私はこの大良薬をずいぶんと贈ってもらった。そして服した。すこぶる仏所護念していたが故に。仏の力を信じる信じないではない。事実である。信を持って入ることを得。すでに私の存在自体が証明してしまった。文理真正の文字がある。宇宙自然生命黄泉に通じる。仏より頂く。頂いてみてはいかがか。何を思い煩うことがあろう。悩むことがあろう。人間である限り悪である。悪から善へ変わることができる。それが仏道である。共に仏道を成ぜん。8:47am。今、浜辺にいる。とても美しい朝である。
2006年09月20日
打成一片
同世代ではあらゆるレベルを超えた。小さき頃よりそうだった。しかし小さき頃にはその自覚はなかった。何故か。世は間違えた自由と平等概念に汚染されていたからである。自分も皆と同じだと思っていた。同じではなかった。ひとり何か失われた大切なものを求めて旅に出た。孤独な彷徨だった。いつの間にか埋没した。愚弄無視された。そして抹殺されかけた。このままでは窒息死するかに思われた。ここへ至って打成一片となった。
無門関第一則趙州狗子
趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って佛性有りや也た無や」。州云く、「無」。無門曰く、「參禪は須らく師の關を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。關透らず、心路絶せずんば、盡く是れ依草附木の靈ならん。且らく道え、如何が是れ祖師の關。只だ者の一箇の無の字、乃ち宗門の一關なり。遂に之を目けて禪宗無門關と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州に見ゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛厮い結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透關を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅を將って、通身に箇の疑團を起して、箇の無の字に參じ、晝夜に提撕せよ。虚無の會を作すこと莫れ、有無の會を作すこと莫れ。箇の熱鐵丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出さず、從前の惡知惡覺を蕩盡し、久久に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打發せば、天を驚かし地を動ぜん。關將軍の大刀を奪い得て手に入るが如く、佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於て大自在を得、六道四生の中に向って、遊戲三昧ならん。且らく作麼生か提撕せん。平生の氣力を盡して箇の無の字を擧せよ。若し間斷せずんば、好し法燭の一點すれば、便ち著くるに似ん」。頌に曰く、狗子佛性、全提正令。纔かに有無に渉れば、喪身失命せん。
やっと息を吹き返した。三十年来のことだったろうか。失われた自信は回復された。これを以て宿王華開花である。もはや一切の愚弄無視有ること無し。知性の秩序の復活である。ものの見え方が変わってくる。皆水族館の中で迷妄しているかのようだ。出ることは出来ない。これがインドの釈迦が蓮の池から見た地獄の様相だったろうか。何も知らず真実を探そうともせず自分勝手に右往左往している。勝手に苦しんでいる。インドの釈迦はこれを救うことは出来なかった。今に地獄である。これを仏さんは救うという。その方法も確立されている。時、場所、方法、人、実行が条件となる。待つべき時は満ちた。場所は仏所王舍城、人は自覚したものたち、方法は妙法華経。これらはそろった。残るは実行あるのみ。何を実行するか。一切大衆を救うことを実行する。そういう時を迎えた。時は満ちた。世界の動きはどうか。日本は北朝鮮に経済制裁を発動した。アメリカの決定に従った(アメリカを動かしたといえる)。タイではクーデターが起こった。暗雲たちこめている。人は救いのない水族館の中で蠢いている。これをどのようにして救うのか。それを仏は説く。仏説と御経典と現実が一致する。これが真実である。救われる方法はある。試してみるべきである。冷暖自知。食わず嫌いしていないか。神は正直者のこうべに宿る。疑うものに救いはない。皆が救われる時を迎えている。最後に笑うものが一番よく笑う。どういうことか。皆が滅んで自分だけが助かった状態か。そうではない。自己との戦いに勝って神仏との邂逅を果たし、神仏に受容祝福されて神仏の守護を取り付ける。そして笑みがこぼれる。これが最後に笑うということだ。世間一般、何をしているのだ。さて、幸せの王国はすでにある。それは地上ヘブンである。そこでもっとも嫌われるのは嘘である。例えばウィニーソフトを使っていては相手にされない。お見抜きお見通しである。仕事はサービスである。相手の満足を以て仕事とする。誰かが仕事をしているとする。我見で邪魔をするのはルール違反である。すでに個人の時代となった。組織あるいは企業に属するも仕事は個人の仕事である。我見でスタッフの邪魔をするではない。しかと言い置く。すでにインターネット世界は確立されている。それがどのような内容であるか。秘密である。しかし誰にも開かれている。正直であるならやがて知るだろう。このインターネット世界、すでに制空権はとっている。パソコン通信の時代からの各スタッフが前線配備準備完了待機している。やがてこの意味も明らかとなるだろう。好き勝手な悪及び偽善の自分勝手な時代は終わった。善良な知性の秩序回復の時節である。代々の約束エクスパイアが自覚したが故である。時は来た。全軍出動の時である。眠れし森の美女及び埋もれし地蔵菩薩たちが空閑=荒野より立ち上がる。糸車の針は抜かれた。因縁は解かれた。犠牲の上に立つあらゆる悪及び怠惰腐敗をゆるしはしない。時は変わった。刃向かうなら刃向かうがいい。宇宙自然生命黄泉がゆるしはしない。一切邪魔すること有ること無し。天命はロゴスである。ロゴスは不条理である。しかしロゴスは実現する。何故か。宇宙自然生命黄泉が動く。馬謖は泣いて斬る。さて、棲める空間がないならば、自分で作るしかないと言っていたのは、吉田健一だった。十分な空間が見つかったようである。そして風も吹いてきたようだ。遅まきながら飛び立つ頃である。自由の世界に是より合流する。やっと自分の住める世界が見つかった。以後よろしく。
2006年09月18日
本来の価値はどこにあるか
さて、16日・17日は、仏所王舍城で杜のフェスティバルがありました。交通警備のスタッフをさせて貰いました。雨の中、大型バスの誘導です。数十台のバスを誘導しました。後続車の渋滞もあって、罵声も浴びたりでした。しかし唯あやまることで遺恨は遺りませんでした。ひとつの達成感がありました。何事も歓喜奉行することでいいと思いました。明日のことは明日思い煩えばいい。明日は明日の風が吹く。明日は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田の草を刈る。浜までは海女も蓑着る時雨かな。人格の品位が問われてくる時代となりました。それがそのまま魂の格の上昇となります。あの世へ持ってゆけるのはこれのみ。お金ではありません。お金は必要です。しかしそれを何に使うか。さらにtimeismoney. 価値はどこにあるか。問われます。さて、私たちは生まれた。DNAの選択があった。今ある自分を生きるしかない。よく生きるしかない。悪く生きたらどうなるか。地獄行きである。今ある自分をどう生きるか。何に向かって生きているのか。愛と平和とは何であるのか。自分が変わることで世界は変わる。これをどう実存するか。顔を洗って出直すしかないね。自分の顔に責任が持てるかどうか。かつてリンカーンがある人を雇ってくれるように頼まれた。いつまでも採用しない。リンカーンに何故かと尋ねた。彼は答えた。顔が悪い。この顔の悪さとはどういうことか。造作ではない。美容整形してもだめだ。輝く目をしているか。笑顔が美しいか。日々の生き様が顔に表れる。こころはやがて染み出す。この世に善悪がある。これをも超える。そこに日月照らし、風が吹く。善も悪もない。善は善を呼び、悪は悪を呼ぶ。それだけのことである。戦争を知らない子供たちという。確かにこの世での経験はない。しかし、代々のDNAは記憶している。何を馬鹿なことを言っているのか。戦争は知っている。思い出すがいい。自己の内面が戦争状態であろう。早く終戦を迎えてはいかがか。その後におだやかな自然に抱かれたパラダイスが待っている。究極は自分が信じれるかどうか。信じれる自分であるかどうか。愛と平和はこの実存を実現してからである。嘘があるかぎり自分を自分で信じれない。嘘は妄念。女は嘘をつく。弱き存在であるが故に。男も女のようになってしまった。本来日本の潔さとは何か。表も裏もない。嘘よりの脱却。資本主義経済活動は多少の欺罔を取引行為として認める。利益追求は嘘の温床である。反省するべきは此処だね。孫子の兵法の第一条も敵を欺くことである。これで刹那的な戦いは勝てる。しかし永遠の魂の平穏は遠い。生命の向かうべき目的地はどこであるのか。人間として何故生まれてきたのか。いつまでも程度の低いままでいいのかどうか。人類も進化した。そろそろ気づくべき頃だね。魂の遍歴がある。どこへ向かっているのか。今、実存はどの階梯であるのか。いつまでも何をしているのか。すでに悪を為したものたちは首を洗って待つしかない。無垢清浄な子供たちに何を残すべきか。考えるべき所である。それでいう。衆愚テレビ芸能界及び利己主義財界の罪は重い。武士は食わねど高楊枝と決まっている。下賤商人根性の知るところではない。最近の坊主はサイドビジネスに狂っている。医者も高所得のために医者になる。カルバンの罪は甚大である。さて、救われる道はある。馬を水辺まで連れて行くことは出来る。呑むか呑まないかは馬次第である。知ったことではない。道元は言う。薪は灰となる。薪と灰はちがう。薪には薪の境涯があり、灰には灰の境涯がある。薪が灰となるのではない。どういうことか。魂の問題である。生を薪、死を灰といってもいいのかも知れない。死して魂だけとなる。生きている間は魂が身体に包まれている。しかし魂はある。いわば、魂が胚珠であり、身体が子房である。生きている間に養分としての人格を培う。そしてやがて魂の飛翔となる。それが死後の世界である。生きている間にどれだけの子房を培うか。死後の魂の世界が決定される。生きながらにして魂が輝き始める人もいる。それが即身成仏であろう。ここを認めることが出来るかどうか。すでに魂となったものたちは気づいている。気づけないでいる人もやがて魂となる。魂となれば気づく。生きながらにして気づけば幸いである。諸精霊の祝福するところとなる。そこへ至る道が仏道である。仏道はどこにあるか。仏所王舍城にある。もとより道である。辿れば必ず至りつく。己の顔を見て自己を知る。新しく自由を得て勝手し放題している。宇宙自然生命黄泉によって裁かれる時が来る。必ず来る。一切種智慧。持って生まれた己の分際に限界がある。己の顔を見るがいい。己の眼を見るがいい。己を己として受容できるか。言語道断。つべこべ言わぬがいい。懺悔あるのみ。時は真実の中の真実に入っている。どういうことか。嘘は通らない。今まで嘘でお金を儲けた方々にはもう未来はない。断言しおく。これからは正直な実力者の時代である。今まで芽の出せなかった真実の能力者が正統な対価を得る時代である。新しい自由を得た方々の実践は失敗に帰した。嘘と暴力で得た地位は返還して貰う。少なくとも真実の実力者を超えた部分は通用しない。そういう時代が来たのである。格差社会の真実の意味である。この意味で、覚悟するべきである。有能なものたちを餌食にしてきた罪はここに裁かれる。本末転倒の責任は取らされる。おのおのすでに罪を犯した。償いの時の始まりである。あらゆる利益をどのようなプロセスで得たか。奪って蓄積しシステム化してその増殖を利用するだけの貨幣の横暴は終わって貰う。天命である。真実の能力と労働の対価としての報酬のみこれからは価値がある。無価値な貨幣の運用は地獄行きの切符でしかない。それはこれから世に明らかとなる。何故か。しかるべき存在がそう認識したからである。それは実現される。嘘は通らない。真実の中の真実に入っている。すべて天に記録されている。今更じたばたしても遅い。すでに天命は下った。真実の正直がやっと花咲く時代に入った。嘘の不毛が明らかとなった。新しく自由を得て好き勝手なことで勝ち組などは通らない。嘘の時代に染まらなかった方々は幸いである。未来へ伝えるべき本来の人間の品格がある。辟易するのも飽きた。これより、実践である。真実の正直者たちよ、立ち上がれ。時は来た。新しい格差社会の始まりである。これまでの利益及び蓄積は無価値となった。これから新たな価値の蓄積と増殖が始まる。真実の能力と正直さとの時代である。愚かな嘘と暴力の支配は終わった。仏とは何であったか。宇宙の構成要素としての五大原素であった。これを大切にする。大切にするものは大切にされる。愛するものは愛される。護念するものは護念される。あらゆる因縁も大切にしてくれるところへ集まる。ものも集まる。財も集まる。お金も集まる。お金も大切にする。奪ってはどうなるか。騙してはどうなるか。およそ推して知るべし。西部鉄道はどのようにしてその財の基礎を築いたか。終戦時池袋の無主土地の囲い込みではなかったか。呉でも中通りで同じ事があった。また海軍工廠の鉄屑を奪って自分の土地の海岸に埋めて財を成したものもいた。そうして戦後にのし上がった。畏れを知らぬも甚だしい。ダイエーはどのようにしてバーゲンをしていたか。ささいなことで業者を泣かせペナルティと称して商品を納入させてそれでしていたのではなかったか。それに世の主婦は群がった。それがどのような顛末となったか。ここに何を学ぶべきか。しかし同じ事が今も起こっているのだろう。それが資本主義経済である。貨幣を蓄えること自体が目的である。それで老後が安泰か。子孫が繁栄するとでも思っているのか。思い違い勘違いであろう。因縁はゆるしはしない。さて、良寛の晩年は遊べであった。しかし、そこへ至った良寛にどのような修業時代があったのか。謎であろう。皆救われたいと思っている。悪因縁もそうである。台風も悪業の因縁であるという。仏は一切大衆を救うという。その中には岩石草木を含む。自由を得て言葉が詩となる。素直に言葉をそのままに表現すればいい。短歌だってそうだ。内面より結実して実が落ちるように言葉が結晶する。あれこれと推敲して詩となるのではない。さて、その鳴き声は美しいか。自然はいつも応えてくれる。耳を澄ませばやさしくささやいてくれる。そよ風が吹いてくる。そうした境涯がある。自然との同化である。一切大衆が幸せになってほしい。それが宇宙自然生命黄泉の願いである。そのために助力しようとしている。一切が幸せとなるようにと。しかし人間のどうしようもない悪がそれを邪魔する。それがこの世の現実である。悪いのは唯人間である。しかしここに至ってその限界に達した。明らかに自然環境が変化した。ここ数十年のことである。地球温暖化がそれである。日本にはなかった大きな竜巻も起こるようになった。日本近海が温帯モンスーンから亜熱帯化しつつあるかのようだ。台風も大型化してきた。これからこの傾向が続けばどうなることか。しかしそれを無視してまだ好き勝手しているのが人間だ。淘汰がはじまるね。さて、自然は愛だ。いつも見守ってくれている。その時々にサインを出してくれている。しかし気づかない。認めようとしない。それほどまでに人間は愚かか。コルトレーンは神となろうとした。ジャパンコンサートは悲鳴だった。まるでムンクの叫びだった。ディープパープルの東京公演もそうだった。そうした時代を経てきている。警鐘だった。それを皆が現実に見ることになるのか。そのような神など見たくない。スティービーワンダーの『愛の園』は日本語で歌われた。日本に何かある。失われた何かある。それは何であったか。ペリー来航以来失われた何かであった。東洋的な何かであった。自然との共存であった。西洋概念では自然は征服するべきものである。明治以降日本もそれに染まった。その報いを今受けている。再び自然に帰れである。お金で自然が買えるとでも思っているのか。何を思い上がっているのだろう。人間存在など風の前には塵に等しい。尊厳は人間存在にあるのではない。人間存在に秘められた魂にある。魂よ輝け。ダイヤモンドのごとく。やさしく見つめてすべてをゆるすことだ。ゆるすものはゆるされる。その時に、自然の穏やかさを知る。皆をここへ引導したいね。途中に険しい戦いがある。それは自己との戦いである。しかし往々にしてそれをしないで安易に流れる。そして刹那的な快楽におぼれる。それが人生だと思う。悪と暴力と欺罔が人生だと思う。それに憧れている。憧れはやがて実現する。そして現代の世の中の様相となった。これら皆の憧れの現出である。どうしてこのようになったのか。日本古来の美徳はどこへ失われたのか。しかし皆のDNAには記録されている。忘れただけだ。ペリー来航以来ね。思い出せばいい。これを正憶念という。愚かな支配の故である。お金がすべてだと思っている。貨幣の奴隷となってしまった。日本の粋は宵越しの金は持たない。あるいはお金は狐の木の葉である。どうしてこのようなことになったのか。人工がそれほどいいか。キリストに待つまでもなくソロモンの栄華といえども美しさに於いて野に咲く一輪の花に勝てない。内面での大戦争に勝利して神仏との邂逅となる。これなくして幸せはない。皆敵前逃亡している。そして堕落した。そして堕落が人生だと思っている。言語道断。罪は罪である。神仏との邂逅を経て神仏の守護するところとなる。そして心の大地が開ける。21世紀の新大陸である。そこに幸せがある。神仏の守護がある。怖いものなどない。勇気も当然となる。自信があるからである。自信は神仏の守護を得てのことである。人間のあらゆる喧噪が蝸牛の喧嘩かと思える。ばかばかしさの中で犬死にしない方法は発見された。何時の頃からか探し求めていたことだった。探していた真実であった。真実は真実の中に入らなければ分からない。真実の中の真実に入らずしていくら議論しても駄目である。真実の中の真実に入れて貰うには方法がある。仏さんの定めた方法がある。それは文理真正の文字を頂くことである。これは見えない世界にも通じる。仏の約束である。それが仏所菩提樹御供養誓願である。真実の中の真実に入ってどうするか。自ら実相戒壇を建立する。これでこの世の身の縛が解かれる。本来の自由となる。梵天帝釈も踏み給うべき大衆のための一天の戒壇菩提樹の前で。あらゆる仏は例外なく菩提樹下で悟りを開いた。これを一切大衆が実行できる時代となった。こうして五欲を断ぜずして救われる道が開かれた。不思議である。しかし本当に救われる。仏はこうした時代となることを知っておられた。それでどうしても救われる道が必要であると思った。こうした悪業の世となってそれは開かれるのだった。それが宇宙自然生命黄泉の愛だった。すべては因縁である。はじめは小さなものもやがて大きくなる。大きくなった因縁は人間の力など相手にならない。賢いのも愚かなのも因縁である。水は高いところから低い方へ流れる。それが自然の秩序である。しかしそれを人間は無視した。学校ではさほど勉学できなかったものたちが社会に出ると皆同じだと思う。それが平等だと思う。そして物理的強制力と欺罔で財を成す。それが力だと思う。そして本来の知性を愚弄無視した。人類の培った英知をも笑いものにした。それが現代衆愚テレビ界である。身分に安住した知性はそれを傍観した。本来の価値を葬り去った。本来の知性は生きられなくなった。それでどうにもならなくなった。台風も悪業の因縁だといわれている。台風も助かりたいと思っている。悪業の因縁は仏の文字である御法妙で解決する。それに打ち勝つだけの力は功徳力である。これなくしては、いくら御法妙を贈っても聞いてもらえない。悪魔も助かりたい。仏に頼んだ。仏は受容した。悪魔も救うと約束した。一切大衆を救うと決めたといわれる。自分だけが助かろうとしても周りが救われなければその中にいる自分も助かりはしない。他を犠牲にして自分だけがよいとするを悪という。今、明らかに悪の時代である。念願力もそうである。これを聞いてもらうための修養がある。これを無視愚弄してきたのだ。そして腐敗堕落した。先ず自己の内面を制する。そうして自分の念願も聞いてもらえる。ただ念願すればいいのではない。護念するものは護念される。仏を護念する。仏より護念される。もとより仏である。嘘はない。はじめは仏の力を借りてする。だんだんと思念力ができてくる。やがて聞いてもらえる自分となる。欺罔暴力を手段とするのではない。一度や二度の成功で老後あるいは死後の平安を得たなどと思わぬことだ。すべては因縁である。いつか仕返しが来る。少なくともこの世は地獄であろう。自分が神仏の守護を勝ち取ったならどうするか。人を引導する。この仏の約束の世界へ。そして善の業を自分で出来るように導く。これが功徳力。功徳とは自分が宇宙自然生命黄泉に受容守護されるためにする。そして人にもさせてあげる。こうして善の和がひろがる。神仏との邂逅がある。それから一切大衆を救うことが始まる。愛と平和が実現していく。自己を制してからのことである。自己の悪業の因縁が解決する。そして他己の因縁の解決を助ける。こうして幸せとなる。幸せとは仕合わせである。つまりサービスし合うことである。仕え合うことである。こうして皆が幸せとなる。自分だけが助かろうとする根性が駄目である。他己は他己自身が解決しなければならない。そのための道がある。そこへ引導する。そのために自己の因縁を解決する。真実の人生はそれより始まる。自分が救われる。珠となって輝き始める。だれもが気づくところとなる。何事も冷静に処すればいい。焦っても何にもならない。その時々の課題をひとつひとつ解決するだけである。常に穏やかで足りる。人間として生まれた意味は何であったか。過去にやり残したことを実現することである。過去からの続きである。過去の悪の因縁を謝り、善だけを未来にながす。人間の境涯でなければ出来ない。祖先の悪業の因縁も解決する。その方法も明らかとなった。自分の理想へ限りなく近づく。未来へつなげる。男女関係は好きか嫌いかのどちらかである。花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。求める彼女を得るためには求める自分を完成しておくことだ。所詮一切種智慧である。持って生まれた種を発芽させ、花と咲き、実となるだけである。花が咲く時蝶は来る。蝶が来る時花が咲く。所詮縁は似たもの同士である。いつか必ずめぐり逢う。きっとどこかに咲いている。自然の営みである。堕落は堕落に群がる。価値ある花を咲かせるのは難しい。幾多の試練に耐える必要がある。しかし咲く。それが自然である。自然は愛に満ちている。唯、時を待つべきのみ。これを信じて時の来るのを待つべきのみ。エクスパイアとインスパイア。情報発信とその受信。真実の情報の淵源はどこか。知るものはいない。自己と宇宙自然生命黄泉が一致する。そうした境涯がある。その時、日月照らし風が吹く。目覚めたる自己の存在がすべての根源である。自然が反応する。すなわち法華経宿王華開花。何千年来の自覚。代々の約束。行住坐臥に禅はある。仏とは何か。宇宙の五大原素である。これに帰依する。いつも自覚を要する。それが獨座大雄峰である。宇宙が自己に従うと言ってもいい。そうした境涯がある。宇宙自然と自己の魂が渾然一体となる。自然との共生が実現する。これを忘れていた。ペリー来航以来のことである。明治はそれを拡大した。そろそろ思い出す頃である。すべては心の中に記録されている。それを読み解こう。これが真実真理。これを知るためには、真実の中の真実に入れて貰う。仏の慈悲である。黄金の國ジパング。真実は日本にある。愛と知性の秩序を回復する。
2006年09月15日
新しい流れに乗る頃
今、若者たちの意識は、何が起こるか分からないと思っている。それで出来るだけ楽しんでおこうと思う。刹那的な快楽を求める。救いはないと思っている。しかし救いはある。救われる方法はある。仏さんに護ってもらうのだ。しかしこれを知らない。または疑う。信じることが出来ない。嘘があり、本当がある。これが真理である。仏さんのためにすることは寿命増益であることを知らない。仏さんのためにお金を使うことも寿命増益であることを知らない。また、代々の敵がある。諸々の縁で今生に生まれ合わせている。敵は仇を討とうとする。それで恋愛の形で近づく。当事者は知らない。因縁である。多くの恋愛が破綻する理由である。しかし今生に於いて理解し合うことも出来る。因縁解決である。しかしそのためにはお互いの理解が必要である。
商品管理は以前は銘柄で行っていた。しかしITタグの出現により、品種及び品番から個品管理へと移行した。例えば、ビールを注文するのに、「○○工場の△△さんが担当した□□ビール」と指定できる。これはどういうことか。新しい個人主義の時代といえる。個人が問題となる時代である。今までは個人は企業あるいは組織に埋没していた。これからは個人が表に出てくる。どこの企業あるいは組織に属しているかではなくなる。いつまでもぼんやりしてはいられない。大リーグのような状態となる。個人ひとりひとりが経営者のような立場となる。それ故の貧富の差が拡大する。時代の流れである。すでにその識別は始まっている。時代における淘汰だね。それ故、勉学もするべきである。新しいルール作りは始まっている。すなわちu-japan戦略だ。uはユビキタス。それはすべてがつながっていることを意味する。グローバルなレベルでつながっている。インターネットはすでにひとつの世界である。そこに識別作用が始まっている。ブログもホームページもそのひとつだ。さて、地上ヘブンがある。その住人となれるかどうか。そこに居住するためには先住者のゆるしがいる。それは先住者に認められることである。古い時代は終わろうとしている。新しい時代が始まろうとしている。魂の遍歴が全体としてシフトする。この時代を生き抜くために何が大切か。どの方向へ時代は流れているのか。あるいはいたのか。究極は何であるのか。実行することだ。試してみることだ。何が見えてくるか。楽しみは尽きない。明治維新あるいは大東亜戦争に匹敵するあるいはそれ以上の時代の変革期である。静かに時代は動いている。目覚めよ。神仏との邂逅こそ人類最大の夢である。それが実現する時代の到来である。そうした流れの中でどう生きるのか。正直者のこうべに神は宿る。正直に生きることで人生が実現する時代が始まろうとしている。ユビキタス社会への移行である。すでに始まっている。いつまでも古い時代にしがみつくべきではない。若者たちも早く気づくべきである。この意味で教育も見直すべきである。既得権にしがみついていてはタイタニックのように共に沈む。新しい流れに乗る頃である。個人の時代の到来である。組織ではない。個人がつながって出来る世界となる。その時、悪はつながらない。悪はここで淘汰される。人間であるかぎり悪がある。悪を善に変える教えがある。それが仏法である。何事にももとがある。種がある。悪の種を善の種に変える。善生院。善が生まれるという旗印である。それが御善塔である。それを建てる。その家は善が発祥する家となる。それ故に仏の守護が来る。真実の仏法である。千の塔を建てよ。仏さんは法の保てないことを知っていた。法を保つことは難しい。地球を足でけっ飛ばす方が易しい。けっ飛ばそうと思えばけっ飛ばすことも出来る。隕石の一つでも呼べばいい。ここを仏は約束する。法を保つならけっ飛ばさずにおくと。この意味、理解できるだろうか。人間の思い上がり勘違いが問われている。神仏への畏敬を忘れてしまった。バベルの塔を建ててしまった。悪を重ねてしまった。その間犠牲となったものたちがいる。かれらは恨みに思っている。因縁となって帰ってくる。彼らの恨みを解くにはどうするか。どうすれば因縁も解決するのか。かれらはもう一度人間に生まれてやり直したいと思っている。かれらに未来を与えることである。愛と平和の未来である。それを引導する。そのためには方法がある。仏さんの決めた方法がある。それは何か。探すしかないね。すでにある。閻浮提の病の良薬である。それは仏さんの決めた文字である。この文字で過去の因縁も助かる。救われる。助けてもらえると思えば因縁もやってくる。こちらがそれに準備がないと倒される。その準備とは何か。御法妙である。それはどこにあるのか。王舍城にある。仏さんはいる。昔もゐた。未来にもいる。今もいる。神仏との邂逅がある。そのためにはどうするか。仏道を歩む。そのためには仏道を見つける。それはどこにあるのだろうか。王舍城にある。明日と明後日は王舍城で杜のフェスティバルがある。今夜からスタッフに入る。明々後日は仏所で宿直である。小旅行だね。ところで今朝の朝焼けはとても美しい色だった。さて、重きを知りて恨み消ゆ。何が重いのか。自分の存在である。責任は重い。未来は自分にかかっている。汝自身を知れ。愚かではだめだ。浮かれていては滅ぶ。自分次第である。テレビ芸能界諸君及び財界諸君、年貢の納め時だ。
2006年09月14日
過去の遺恨を消す
ラジニーシは言っていました。Shouldということはないと。確かにそうです。自由の立場からするとね。しかし社会の中の自由ですね。他者に迷惑をかけてはいけない。自由は制限されているのです。さて、何事もゆるすことですね。しかし結果に対しては責任がある。ゆるすことと責任は別論です。ここを罪を憎んで人を憎まず。罪は罪です。しかし憎まない。どういうことか。客観的には責任がある。しかし主観的には憎まない。これで円満解決するのです。それぞれが遺恨を遺さない。未来のために。責任は取って貰う。しかし憎まない。身で犯した罪と心で犯す罪の清算方法です。主観的には何事もゆるす。自分の通った道です。ゆるすことでゆるされる。今自分がゆるすことで過去の自分がゆるされる。過去の遺恨を消すのです。未来のために。直接謝れる場合は謝ればいい。しかし過去の罪に対しては直接謝れない。それで仏さんに文字を貰う。それで謝る。仏さんの文字は三界(現在・過去・未来)に通じる。過去にも通じる。過去の罪に対して謝ることが出来るのです。明るく素直に屈託なく、生きてゆけるといいですね。何事にもとらわれることなく。そのような一日でありますように。
さて、大西良慶老師は、キリストも観音さんだといっておられた。どういうことか。キリストも菩薩であった。しかし彼は磔となった。何故だったか。彼の限界であった。ところで仏は宇宙の王であるという。そしてシャカムニブツのみ人間に対して真実を説くと。しかしシャカムニブツも仏の一部にすぎない。メタ仏がいる。メタ仏からするとシャカムニブツもその属性である。メタ仏こそ宇宙自然生命黄泉である。メタ仏の言葉こそロゴスである。不条理であっても実現する。さて、十界において神は第六位である。その上に声聞、縁學、菩薩、仏とあるという。仏は第十位である。しかし仏も宇宙の属性である。宇宙とは何であるか。第十一位とは何であるか。そこに大神がいる。これを自覚したのは聖徳太子であったろう。因って日出づる国の天子と名乗った。さすれば仏をも超える。仏といえどもゆるしはしない。第六位の神と第十一位の神は違う。大神は仏をも従える。スケールが違う。インドの釈迦の頃、キリストもいたし、ソクラテス、孔子もいた。そのメタ存在は何か。すなわち宇宙自然生命黄泉である。日本は大丈夫である。古来良識が復活する。聖徳太子以来の良識である。キリストをも仏をも超えるというべきか。すでに仏がキリストを超えている。仏を日本の大神は超えるのであろう。仏法も日本に伝えられた。日本は仏を受容した。すなわち、日本の大神は仏を超えている。すでに証明済みである。ある時の台風に於いて仏の念願をひとり日本の大神の念願が超えた。すなわち、大神のロゴスであり、日月照らし風の吹く。卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本である。正統日本復活である。もはや惑いはない。刃向かうは容赦ない。覚悟して刃向かうべし。日本古来の精神がある。その最終結晶形態は武士道である。ペリー来航以来失われた。それを復興する。世界究極の宝である。弓は棄てた。槍は折られた。しかし精神は遺っている。世の商人根性の与り知るところではない。
2006年09月13日
まだまだこれから
永いこと彷徨っていた。やっと存在証明は出来た。もうこれでいい。しかし後遺症というか、日常回帰が難しい。かつての自分に戻る。これも努力が必要なようだ。自分が自分となる。それが自分として咲くことだね。何故か自信を失い、自分を見失っていた。それだけのことだった。魂が遊離していたのかな。本来の自分になって自分を生きる。それで十分に生きてゆける。それを自ら脱線だ。ばかばかしいね。アホだったね。ま、いいか。まだまだこれからだよ。
おだやかさへの回帰
新しいステージに移行する頃となったのでしょうか。それは闇夜からの目覚めというべきでしょうか。新しい朝というべきでしょうか。日常回帰です。世に棄てられたのかと思っていました。しかしそうではなかったのです。試練だったのです。ただ試練だったのです。それを通らねば自分の人生は開けなかったのでした。それだけのことだったのです。これで善かったのだと思います。理解しないものは仕方ないのです。縁がないのです。ないものに求めても仕方ないのです。新しいステージに移行です。縁の糸はあります。それを探すしかないのです。遠く断ち切られた糸を。それを意図するしかないのです。どこかに住める空間はあるのです。幸せの条件はひとつ成就しました。見えない世界で。これより見える世界での成就を目指すのです。このようにして生きる生き方もあるのです。彼岸へ渡ろうとします。河口では歩いて渡れません。上流に至り、小川となれば歩いて渡れます。そうした簡単な世界もあるのです。渡ればいいのです。至ればいいのです。必ず自分の生きる空間はあります。それを目指すのです。明るい世界はあるのです。壊された日常の建設です。何故壊されたのか。もうそれは問わない。それを詮索しても日常は帰ってこない。何事も自分次第です。壊れた原因もすべて自分にあったのです。いいのです。それでいいのです。失ったものは再び作ればいいのです。失ったことを嘆いても仕方ない。何時までも脱却はない。未来も作るべきものです。作ればいいのです。黄泉はあります。黄泉の守護もあります。正直に生きていればね。それでいいのです。いつかきっと自分の世界が開けます。生きているかぎり。そして楽な境涯があるのです。それを生きればいいのです。何をあくせくすることがありましょう。日常を楽しむことに致しましょう。楽しく生きることに致しましょう。そうした日常も自分で種を蒔いて育てるのです。それでいいのです。そうした生き方があるのです。自分次第です。こころ次第です。もういいのです。楽しく生きることに決めるのです。これで重荷は下ろすのです。誰も理解してくれない。それでいいのです。神仏は理解してくれているのです。芽を出すために少し試練があったのでした。芽を出せばもうその試練は終わります。振り返らなくていいのです。これからを生きればいいですね。今を大切に生きればいいですね。傷つかないように。傷つけないように。それでいいのです。気に入らないものは気に入らない。相手にしなければいいのです。自分を生きればいいのです。自分を犠牲にしないようにして。試練は筏にすぎません。渡ればその役目は終わります。通らねばならない道があるのです。通ればいいのです。宇宙自然は鏡です。自分のこころの鏡です。いつも黄泉より見られています。それが真実でした。それを認めようとしない自分がいるのでした。しかしそれを知らしめんとするのでした。知ればひとつの解決です。ひとつの試練は終わります。これでやっと日常回帰です。あらゆる教えも学問も宗教も今を生きるためにあるのです。それぞれが生きるためにあるのです。生きるために生まれて来ました。真実は真実であるとして、それを必要としない方もいるのです。ただ、それを理由に真実を生きんとする生存を脅かされているなら、戦うことも必要ですね。それに勝利すれば、そこより生き始めればいいのです。そして、その救いの力を必要とする人があるならば、アドバイスも出来るでしょう。それを必要としないなら、ことさら波風を立てることはありません。しかし真実はあるのです。釈迦もいました。ソクラテスもキリストもいました。孔子もいました。しかし彼らは理解されなかったのでした。理解するものもいました。だから今に伝えられているのです。それでいいのです。楽に生きることに致しましょう。その方法論を確立したのであれば。世は勝手な方々の支配となりました。今も昔も。悲しむものは悲しめばいいのです。楽しむものは楽しむがいいのです。唯、仮の楽しみがあります。本当の楽しみがあります。それはそれでいいのです。本当の楽しみへの日常回帰です。神仏と共の散歩です。涼しき風の中を。
「透得過する者は、但だ親しく趙州に見ゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛厮い結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透關を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅を將って、通身に箇の疑團を起して、箇の無の字に參じ、晝夜に提撕せよ。虚無の會を作すこと莫れ、有無の會を作すこと莫れ。箇の熱鐵丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出さず、從前の惡知惡覺を蕩盡し、久久に純熟して自然に内外打成一片す。唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打發せば、天を驚かし地を動じて、關將軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於て大自在を得、六道四生の中に向って、遊戲三昧ならん。且らく作麼生か提撕せん。平生の氣力を盡して箇の無の字を擧せよ。若し間斷せずんば、好し法燭の一點すれば便ち著くるに似ん」。(無門関第一則)
かつてより夢は何であったでしょうか。真実を知ることでした。神仏との邂逅でした。おそらく生まれる前からの夢だったのでしょう。それも果たしました。夢は実現しました。その間熾烈な自己との戦いもありました。他を恨んだこともありました。それも終息へ向かう頃です。さて、これから何をしましょう。品格を伴うおだやかさと日常への回帰です。これより始まるのです。もはや失うものはありません。経験は失われることはありません。これ以上求めるべきものもありません。すでに十分に足りていることを知るのでした。これからの日々を大切に過ごすだけです。慫慂と。仏道を求めるのはいいのです。しかし仏縛ということもあるのです。仏は縛ろうとはしていません。ほどこうとしているのです。仏を求めて仏で自分を縛る方もいます。本来自由を得るために仏道はあるのです。宗教というと受け付けない方も仏道というと抵抗がないのかも知れませんね。宗教は否定しても仏は否定できません。宗教の中には邪教もあるからでしょうか。さて、おだやかさへの回帰です。失われた何か大切なものとしてのおだやかさへ。それが楽であり、幸せです。こうして至るおだやかさがあるのです。火の鳥の飛翔です。毅然としてしかもおだやかです。このまま神仏を知らず、滅亡するのも仕方ない。形を変えて魂は遍歴するでしょう。やがて帰るところへ向けて。自分を救うのは自分です。自分を滅ぼすのも自分です。救いはあります。救われる方法はあります。自分次第です。さて、心身清浄、眼根懺悔、正直素直、明るく元気に笑顔で正しく、今日の一日を過ごしましょう。皆様、いい日でありますように。
2006年09月12日
十九の春
いつか皆因縁に倒される時が来る。仏さんはそれを心配した。知っても識らなくても因縁はある。食べられたものたちは恨みに思っている。牛も殺される時には命乞いするという。そしていつか仕返しに来る。食べなくては生きてゆけない。しかし食べたものの供養をしたことはなかった。その方法も分からなかった。供養とは成仏させることである。成仏させるとは食べたものに対して人間以上に生まれてくる引導を渡すことである。そうであるならば、食べられたものたちも喜ぶ。未来を約束されるからである。しかしそのままにしておけば、いつか因縁となって帰って来る。因果応報である。昔よりこれは伝えられていた。しかしどうにもならなかった。それでいつか因縁に倒される。今その時かも知れない。誰も因縁に勝てはしない。仏のほかには。因縁も助かりたいと思っている。仏は因縁をも救う。すなわち未来を約束する。それが成仏させることである。それが供養である。食べられたものたちもいつかは人間になりたいと思っている。魂は同じである。仏所護念することで護念される。因縁が吹くのを待ってもらえる。その間、因縁の解決をするのである。すなわち、供養する。この供養は妙法華経でなければできない。他の御教典には仏の約束がないからである。すなわち地獄餓鬼畜生に堕ちない約束がない。妙法華経にはこの約束がある。十方の仏のゆるしがなければ生まれることも死ぬことも出来ない。十方の仏様の御名が記されているのは妙法華経だけである。何故この世に人間の身として生まれてきたか。過去の清算をするためである。過去に於いて悪を為してきている。それを謝るためである。償うためである。懺悔の身である。人間となって過去を謝り一切大衆を救うことをさせて頂きますと約束して生まれてきた。しかし生まれた瞬間にそれを忘れる。しかしいつかは思い出さなければならない。今生で思い出せなかったなら、さらに悪を積む。今度何時人間として生まれてくることが出来るか分からない。せっかくのチャンスを生かせない。自分勝手して罪をさらに増幅する。悪の拡大再生産である。だんだんと恐ろしい世の中となる。そしていつかは因縁に倒される。ここにバケツがある。悪の滴りが一滴ずつ滴る。いつまでも悪の結果は出ない。しかしいつかはそのバケツも満つる。その時にはもう遅い。悪の結果である。この世は悪と善としかない。善は仏さんの所属である。この世に見えるものと見えないものとがある。見えるものはすべて多宝仏の所属である。見えないものはすべてシャカムニブツの所属である。この世のものはすべて仏の所属である。因って一切のものを仏様だと思って大切にする。大切にするものは大切にされる。愛するものは愛される。これが仁。作用反作用の法則である。過去に食べてきた。食べたものの供養はしていない。供養すればいい。しかしその方法が分からなかった。今その方法が分かった。すなわち妙法華経で供養すればいい。仏の約束である。いつか因縁に倒される時が来る。そこから救われる方法がなかった。しかしあるのであった。因縁の解決には御法妙を贈る。仏の決めた文字である。これが大良薬である。過去に祖先がある。これらの祖先の思いがすべて子孫に流れてきている。祖先は食べたものの供養をしていない。自分の持った魂の過去がある。悪いことをしてきている。それが帰ってくる。心でしたことは心に帰ってくる。身でしたことは身に帰ってくる。困ることが過去にあった。だから今も困る。この困る原因を除去すればいい。それが出来るなら困ったことから解放される。因縁の解決をすれば因縁に倒されることはない。悪魔も善魔になる教えである。祖先たちも救われたいと思っている。因縁も救われたいと思っている。仏は一切大衆を救うという。皆救われるのである。仏の故にである。であるなら、仏さんと縁結びするしかないではないか。これが仏縁である。しかし世間は信じようとしない。聞く耳もない。探そうともしない。むしろ真実を愚弄破壊する。因って腐敗堕落した。腐敗堕落が人生だと思っている。むしろそれを吹聴する。愚かきわまりなし。しかし真実への道はある。仏道である。道であるからには進んでゆけば必ずたどり着く。仏の道である。嘘はない。世間はすべて嘘であるといえる。この道を進む意味に於いて平等である。今生で至りつくものもある。今生では間に合わないものもある。しかしいつかは至る。今世は過去より歩んできた道の続きである。何を思い上がっているのか。勘違いしているのか。わからないことを以て正当化する。貪る。瞋る。本来の目的は何であったか。心身清浄、眼根懺悔。だれも求めようとしない。だれも探そうとしない。しかしいるのだよ。求めようとするものが。探そうとするものが。すでに日本には絶えたかと思われた。トキもコウノトリも失われたかと思われた。そうはいかない。卑弥呼の系譜邪馬台国大和である。日本は不滅である。この意味どこまで理解できるか。出来るものがあるなら挙手するがいい。冗談ではない。これまで人の言いなりになってきた。そして愚弄された。これからはそうはいかない。正統日本の復活である。刃向かうなら刃向かうがいい。黄泉が成敗する。すべては文字に支配される。であるならそれを利用する。文字で心を制御する。これにて一件落着である。この意味分かるか。真実に至るに道がある。それを仏道という。仏道を通ってどこへ行くのか。真実へ行く。真実の中に入れて貰う方法がある。仏の定めた方法である。それが仏所菩提樹御供養誓願である。真実の中に入らねば真実は分からない。次にどうするのか。自分を解き放つ。この世で自分を解き放つ方法がある。それが実相戒壇建立である。仏は誰もが困る時を迎えることを知っていた。それに対して助かる方法を知らないことをあわれに思われた。それでその方法を遺してくださった。救われる方法は一つしかない。真実真理である所以である。嘘の時代が久しく続いた。食べたものの供養をすることはなかった。その方法を知らなかった。他の命のために犠牲となった命がある。供養しなければなるまい。供養すればいいのである。正しい方法で。いつまでも因縁も黙ってはいない。いつか仕返しに来る。今がその時である。男女平等となった。四民平等もあった。皆平等だと思った。錯覚であった。過去が違う。平等であるはずがない。人間として平等に懺悔の身である。この意味で平等である。平等に救われる教えがある。この意味で平等である。しかし古来平等即差別である。これを無視愚弄した。そして愚かさが蔓延った。時代は腐敗堕落した。真面目が生きられない時代となった。どうしてくれよう。真面目が目覚めた。そして自覚した。十分な力を得てでのことである。救いはある。くしくも私の人生が証明してしまった。勝手なことはもはや通らない。黄泉の決定である。さて仏道を通ってどうするのか。大良薬を知見する。すでに大良薬はある。それを知見するのである。あることを見て知るのである。解釈ではない。どこにあるのか。王舍城にある。まだまだ私の人生はこれからである。やっと十九の春とつながった。どういう意味か。しかしやはり私は一切をゆるさない。愚行がすぎた。私を理解するものはいなかった。そして勝手した。私は自分で自分を解かねばならなかった。それが私の運命であり、仕事であった。代々の掟であった。仏さんに解いて貰ったよ。仏は一切を救うという。仏さんに救って貰うがいい。永遠のスタンダード復活である。まだ疑うか。人間とはどういう存在であるか。身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。殺は病となって帰ってくる。盗は貧となって帰ってくる。婬は断。女は婬である。過去に於いて好色だった。それで女として生まれてくる。しかしそれ故生命を持続する。女には男にはない業がある。それでオナゴである。男は功がある。しかし女も男もそれを忘れてしまった。戦後教育の帰結である。男もそれに迎合した。テレビ芸能界がそれを職とした。女の業はどのようであるか。出産育児がそれである。さらに共稼ぎで働かねばならない。女は男の知らない業を背負っている。過去の因縁である。業はワザとも読む。それで男の知らないワザを使って生きる。それが嘘である。虚妄である。それを男は知らない。むしろそれに甘えた。愚かな男たちが自由を得た。そして世の支配階層となった。これをもって言語道断。それ故女は可愛い。愛おしい。それが女が行為能力を制限されていた意味であった。むしろ保護されていた。今はそれも過去のこととなった。女は自由を得た。しかし世のほとんどの女はどのような現状であるか。大和撫子はいるか。どこかにいると信じている。常に仏はいる。過去にもいた。恐竜の時代にもいた。これからもいる。今もいる。ただ仏として姿を現すことは希である。それがインドの時代にはシャカムニブツだった。今仏の住所はどこであるか。王舍城である。ここに大良薬がある。閻浮提(地球)の病の良薬である。あらゆる病に効く。貧窮も病である。あらゆる困苦が病である。取って服すべしということになっている。疑うのも自由である。インドの釈迦の時代にも疑うものはいた。信を以て入ることを得。疑うものは救われない。救えない。勝手にするがいい。この世は善が悪かである。正が邪である。信か疑である。本当か嘘である。これが真理である。しばらくは悪邪疑嘘の時代であった。しかしいつまでも愚かな時代ではない。本末転倒。畏るべし。さて、どちらに進むのか。自分次第である。選択の自由である。唯、時は代わった。真実が目覚めた。勝敗はすでに決している。黄泉が味方したは何れであるか。これまで好き勝手してきたものたちは覚悟するべし。黄泉がゆるさぬ。四民平等があった。男女平等がある。教育はそれを教えた。果たしてそうだったか。醜いアヒルの子の物語は何であるか。真実が目覚めることはもはやないかと思われた。このまま滅亡するのかと思われた。しかし真実である。よくぞ耐えた。生来真実であった。この世に於いて処したる人生試練が違う。過去における魂の遍歴が違う。これを平等で同じと思った世間だった。愚か極まった。何を教育してきたのか。奪われた真実は取り戻す。それだけの理由がある。もはや容赦ない。いつのまにか欺罔と暴力の魑魅魍魎支配となった。誰がしたのか。真面目が生きられなくなった。悪は一掃する。目的は定まった。手段方法はいくらでもある。黄泉が助力実現する。そのための試練は経ている。力も得ている。思い知らされたいのだろうか。そこまで愚かか。正直者のこうべに神は宿る。不正直の与り知らぬ所である。我見を以て疑うものに真実は姿を現すことはない。香風、時に来って萎める華を吹き去りて、更に新しき者を雨す。新しい時代である。和をもって尊しとなす。和を保とうとしないものに対してはどうするか。放っておく。仏法は必ず勝つ。王法は必ず勝つ。真実を知らず、神仏との邂逅も果たさずして、我見を以て真実を否定する。真実の中に入らねば真実はわかりはしない。自分を解き放たねば本来の自由は分からない。分からぬのに否定する。どうかしていないか。何時までもそうしてぼんやりしているがいい。放たれた矢はとっくの昔に新羅を越えた。ベートーベンは言った。この世には為すべきことが多い。急げ。真実を見ていたのであろう。・・・おお、羅刹よ。お前か。お前の気持ちはわかる。さぞ千尋の谷は深かったのであろう。その試練は永すぎたと言うべきか。しかし這い上がらねばならぬ。それがお前の宿命であったのだ。這い上がったではないか。見える風景が違うであろう。それでいいではないか。それで・・・。嘘の世界はそのまま通過するがいい。真実の世界に入ったからには。お前の歩んだ道はさぞ辛かったであろう。孤独であったであろう。しかしよくぞ歩み通した。これで自分が何であったかわかったであろう。しかし申し訳ないことをしたと思っている。だが、この道のほかにはなかったのだ。お前に知らしめることが出来なかったのだ。真実を。一切大衆が救われる道があることを。仏法の神髄を。ゆるせ。そしてお前のつかんだ真実は正しい。常々宇宙自然が証明する。・・・しかし失ったものが大きすぎるぜ。解かねばならぬ謎が深すぎた。誰も教えてはくれなかった。試練と言うには酷であった。すべて人の言いなりになってきたよ。そしてすべて奪われた。それ故に得た自由だ。絶対の自由だ。もはや誰にも指一本触れさせはしない。真実は真実が護る。何を教えてきたのだ。真面目が馬鹿を見た。世間は要領のいい不真面目が天下である。これからは違う。時は代わった。真面目が日の目を見る。財界の勝手もゆるしはしない。黄泉の決定である。何時までもマイナス思考では埒はあかない。目前の為すべきことを歓喜奉行することだ。それに尽きる。元気を出してね。さて、これからどうするのだ。一切大衆を救う。どのようにして救うのか。真実の中へ入れる。真実の中に入らねば真実は分からない。そしてどうするのか。この世における縛を解かせる。どのようにして解かせるのか。実相戒壇建立である。そして何をするのか。共に仏道を歩む。仏道を歩んで何をするのか。大良薬を知見する。大良薬はあらゆる病に効く。人間の計らいの及ぶところではない。貧しさも病である。愚かさも病である。それはどこにあるのか。王舎城にある。皆が幸せとなる。王舎城は魂の大病院である。昭和52年に建立が始まり、昭和56年に還成した。私が広島大学に在籍した期間である。この病院は私のために建てられていたと言うべきか。いつかは帰り着かねばならなかった。そして救われた。法華経に書いてあるとおりのことが起こった。その他あらゆる因縁秘密を解いている。一つの時代は終わった。そして一つの時代が始まる。21世紀は心の時代である。開闢である。時代の流れである。棹させばどうなるか。橋=人為は流れて川=宇宙自然生命黄泉は流れず。私の人生は何であったのか。無駄ではなかった。復活である。新しい時代の発進である。悪を淘汰する。「権力は権力によって滅びる。武力は武力によって滅びる。金力は金力によって滅びる。唯、法力あるのみ」。
原点はしかとここに定めおく スタッフ一同任せたるのみと
真実を前につべこべ言わぬがいい。そのつべこべが世を乱す。特に女はつべこべ言う。これより清浄の國日本を取り戻す。獅子吼脳裂百雑砕。重要な事実がある。世にクラシックの大作曲家に女はいない。クララも作曲家というよりピアニストである。女の限界である。女が出しゃばりすぎた。クラシックの大指揮者にも女はいない。女の文化になって女のような男が蔓延った。丁寧な言葉の裏に見え隠れする心があまりに醜い。邪悪な眼でおしゃべりにすぎない会話の低き内容でお里が知れる。ウィットもペーソスもない。そうした方々の支配であった。もうそれも終わる。真実法華経宿王華開花である。テレビ界の視聴率主義は何であるのか。衆愚に迎合しそれを助長した。衆愚文化となってしまった。愚かにも程がある。自分たちだけよければそれでよいか。滅びの道を引き返すべき頃である。ここでひとまず悪の大掃除である。それから善の種を蒔く。すなわち善塔を建てる。善塔は善生院である。善塔を建てた家は善の発祥地となる。仁義礼智信。一族因縁成仏。起菩提心。すべては譲られた。志すものに対して。青年よ大志を抱け。抱くべきは何か。その対象は何か。明るい未来である。自分を解決して明るい未来は開ける。神仏の守護がある。護念するものは護念される。真実である。すなわち、日月照らし、風が吹く。
もののふのやさしきこころふれしかば この道たれとともに歩まむ
2006年09月11日
善の方へ
真実を求めていたのであろう。何もかも失った。人生と青春を失った。それでも真実を求めていた。まるでヨブ記であった。やがて真実は来るのであった。それは確かにあるのであった。真実を知った時、疑いはない。すべては知らしめんが為だった。朝に教えを聞かば夕べに死すとも可なり。確かにそうである。それは宿王華開花であった。一切種智慧であった。如来であった。しばらく正直が生きられない時代だった。これは西洋資本主義思想の帰結であった。その始まりからして欺罔と暴力であった。その後も欺罔と暴力が暗黙の裡に財を増殖した。そして今に至った。恐るべし。悪の拡大再生産であった。その結果が今である。公園には鳩がたくさんいる。人間を怖れることはない。よく観察してみればいい。足に奇形が多い。鳩もそうである。人間だってそうである。どうしてそうなったのか。推して知るべし。悪の拡大再生産の結果である。そろそろ限界である。此処に至って真実も現れた。真実が現れるためにはその条件が必要であった。時が満ちることが必要であった。時は満ちた。芽が出て葉が出て花が咲き実となってそれが何だったか分かる。今、人間がどういうものか分かった。これまでは分からなかった。分かったからには為すべきことがある。悪の種を蒔かぬ事である。善い種を蒔く事である。仏法がある。過去よりあった。妙法華経がある。昔よりその名だけは伝えられていた。インドの釈迦の時代に、2750年後に真実の教えが顕れると伝えられた。共に行をしてきたものたちを哀れに思われてその名だけは伝えた。それでその名だけを大切に拝んできた。その内容は分からないままだった。途中で日蓮がそれに気づいた。しかし日蓮も知ってはいたが言ってはならない掟に従った。そして戒壇建立の地があることを伝えていた。時が満ちていなかったので実現はなかった。今、実相の戒壇が大衆のために建立された。梵天帝釈も踏み給う一天の戒壇である。これを御供養することで、食べて犠牲にしてきた一切のものの供養となる。諸精霊も成仏する。かれらの恨みもなくなる。かれらを供養するとは、かれらに対して、人間以上に生まれる引導を渡すことが出来るからである。それで因縁もゆるしてくれる。仏の故である。仏の約束である。妙法華経は昭和に顕説された。そしてその内容が明らかとなった。それは供養することだった。この供養が明らかとなったのは人類史上はじめてのことである。信じる信じないではない。事実である。久遠実成である。供養するしかない。供養することであらゆる因縁が解決する。すなわち成仏する。妙法華経でなければ成仏しない。はじめは私も疑っていた。そのような馬鹿なことがあるものかと思っていた。しかしすべては知らしめんが為に起こる。あまりに不思議な体験をした。妙法華経を業ずるに従ってである。そして日月照らし風の吹く境涯が開けた。歩々清風である。これまでの物語がすべて意味を持った。真実が開花したのである。そして確かに救われつつある。真実を日々確認している。世間虚仮が日々証明される。仏とは何であるか知ることとなる。どうしようもない。こんな馬鹿げた話はない。それほどまでに真実である。どうしようもない。どうしようもないことを以て信を以て入ることを得。それが王舍城にある。私の人生が証明してしまった。知る人ぞ知るである。もはや観念するしかない。真実が開花した。悪が滅びる時を迎えた。容赦ない。真実が自覚したからである。これまでの悪の天下は終わる。おのおの首を洗って待つしかない。すでに成した悪がある。それについて処断ある。ただ、謝るものはゆるされる。謝るには方法がある。仏の定めた方法である。やがて真実が成就する。いつまでも我見を張るべきではない。真実の前に畏れるべきである。身勝手人間の及ぶところではない。さて、私は自分を自覚した。自分を取り戻した。失われていた自信を回復した。それは運命通りであった。何時までも勝手は通らない。仏には勝てない。神にも勝てない。どこまで思い上がるのか。地獄で騒いでいるのか。魑魅魍魎牛頭馬頭もそろそろ帰る頃である。黄泉はゆるさないと言っている。それぞれ身と心で成した悪がある。悪とは自分だけよければよいとすることであると教えて貰った。善とは自分も相手もよいことであると聞いた。今それが実現する。神もそれを自覚したからである。神は存在している。諸精霊も存在している。祖先も存在している。それらは魂である。魂に階梯がある。魂も六道輪廻している。仏はそれを証明した。そしてそれは譲られた。しかるべき存在にである。だが常に奪うものはいる。壊すものがいる。本人はそれと気づかずに奪う。壊す。そうしたものである。すなわち魑魅魍魎牛頭馬頭である。だがね、それも見抜かれたのだよ。だから観念するしかない。見えないから信じられないね。ないと思うね。しかし、有る。そしてしかるべき存在を通して黄泉は見る。聞く。そしてしかるべき存在を通して黄泉は動く。黄泉が動けば自然が動く。自然の行為が神の業だ。このメカニズムを理解できるだろうか。そのような馬鹿げたことはないと思うね。有ってはならないと思うね。そこが人間の浅はかさである。これも知る人ぞ知る。神にも階梯がある。梵天帝釈もいる。そろそろ気づくべき頃だよ。今まで何故そのようなことが現実化しなかったのか。ただ時が来ていなかったからだ。時は天。その時を迎えた。知っても知らなくてもその時を迎えた。過去にもあったことである。昔物語が何故今に伝えられていたか。真実であるからである。そのようにして真実は伝えられていた。やがて真実が花咲くために。真実は真実でなければ分からない。仏は仏とのみ究了する。未来のために伝えられていたのである。これまでは謎であった。真実が顕れるまでは謎であった。真実が顕れて謎が解かれる。それが解かれた。真実開花である。宇宙自然が証明している。そして宇宙自然が喜んでいる。時違わず咲いたからである。因って悪は観念するべし。善の時代の到来である。このようにして時は代わるのである。仕方あるまい。宇宙自然黄泉の掟である。神仏の定めた掟である。人間の及ぶところではない。今にわかる。すでにそういう時に入った。謝るものはゆるされる。誰に謝るのか。素直になれない自分を恨むしかないね。何に対して素直になれないのか。自分のことは自分でなければ解決できない。その方法はある。探さないか。実践しないか。救いはある。正しい方法がある。嘘とは結果がない。真実とは結果がある。いつまでも愚かでいられない。拝金衆愚は地獄である。地獄の沙汰も金次第である。真実のためにお金を使わないか。お金は寿、すなわち寿命である。長生きしたくはないか。長生きして何をするのか。供養することをする。そのために寿命増益である。そのためにお金は使うべきものである。お金は命を削った対価である。お金持ちほど懺悔は大きい。それをせずしてあの世へ逝く。当然、あの世で草鞋銭を請求されるよ。しかしあの世へはこの世のお金は持ってゆけない。何を持っていくのか。魂である。魂はこの世では人格である。人格を磨かなくてはいけないね。今世間で大きな顔をしている方々に人格があるか。人格があるものは大きな顔が出来ない時代である。かつて武士は精神修養があった。今お金持ちに精神修養があるか。学者貧乏と決まっている。まともに生きていてはお金持ちになれない。暴力と欺罔がなければお金持ちになれない。そういう時代である。インカの金が基礎だものね。奪ったんだよね。因縁が悪すぎる。その延長線上のこの世の地獄である。反省してみないか。反省とはただ反省するのではない。同じ轍を踏まないことである。そろそろ真実を分かる頃だよ。人類も齢を重ねた。地球もそうである。いつまでも争ってどうするのか。本当の幸せをつかまないか。そのための技術も知恵も十分に習得しているのではないのか。日本は歴史が古い。当然培ったものがある。愛と平和の真実を知っているのは日本だよ。和の國だよ。もういいのではないか。真実を実現しようよ。仏の真実がある。それを学んでみないか。もう自分勝手な我見を卒業しようよ。和合ということがある。大事を成すには和合が必要だ。易経にもある。人はすべて異なる。異なることによって新たな進展がある。雨が降るのもそうである。異なっていていい。しかしそれぞれ素直になって和合する。疑心暗鬼では何事も進まない。メタ概念としての国民統合である。意思疎通はそのためにする。我見がよくない。自分勝手がよくない。自分もよければ相手もよい方法はある。そのためには異なる相手を受容する。仏もゆるすという。悪人をもである。人間であるかぎり悪がある。一切大衆を救うという。ただし条件がある。その条件とは何か。自分の悪を認める。それを謝る。謝るところからしか入れない。男女平等である。それはいい。しかし何もかも平等ではない。男は男としてあるべきようは。女は女としてあるべきようは。大人は大人としてあるべきようは。子供は子供としてあるべきようは。それを持ち寄る。そして新たな時代となる。今それがない。女は男の地位を脅かした。男はそれに甘えた。男は陽。女は陰。合して何かが生まれる。大和魂と大和撫子である。家が治まらないのは女が出しゃばるからである。かかあ天下であれば必ず家は乱れる。その中で子供も乱れる。この事実を研究するべきではないか。だからといって男尊女卑ではない。それぞれをあるべきようはで尊重するのである。新しく自由を得た女性である。新しいが故にその自由の行使を誤った。そう言える。社会の安定を望むなら此処を見直すべきである。女は嘘をつく。事実である。女の内面は表に見えない。隠れている。女のような男が多くなった。社会は乱れて当然である。嘘をなくする。正直に生きることが出来るようにする。大掃除が必要なのだろう。意思疎通を図る必要がある。それがソクラテスの対話の意味する処である。話せばわかる。わからないから疑う。信より入ることを得。先ず自分を自分が信じる。そこより始める。すなわち、自信の回復である。自分を信じるためには自分はどうあるべきか。自分が自分で信じることが出来る自分であるかどうか。嘘のない素直さがあってはじめて自分を自分が信じることが出来る。天地に恥じない自分となってはじめて自分を信じることが出来る。天地の守護も来る。そのためには善を成す。善とは自分も相手もよいことである。自分だけがよくて相手が悪けれ悪である。悪であるなら悪の結果となる。今社会は悪である。どうすればいいのだろう。すでに答えは出ている。一億総懺悔である。自分勝手を一掃する。そして善を持ち寄る。いい社会となる。仏は悪もゆるすという。しかし条件がある。何か。自分が変われば世界が変わる。世界を変えようではないか。善の方へ。あるべきようはを失っていた。自信を失っていた。親は親としてあるべきようは。これで子供を教育する。それぞれ占めるべき地位がある。それをお金の力でねじ曲げた。選挙もそうである。財界支配もそうである。しかしそれをお金の力でねじ曲げた。それで時代が腐敗した。堕落が蔓延った。それ故に腐敗を土壌としての真実開花の時節である。未来は明るい。法に隙間はある。しかし抜け穴はない。抜け穴があると思っているのが人間である。天網恢々。畏るべし。善は勝つ。宇宙の掟である。善は仏さんの所にしかない。善悪のメタ概念として仏性がある。男女のメタ概念として人格がある。かつて日本にはそれがあった。いつの間にか失われてしまった。取り戻せばいい。思い出せばいい。DNAには記録がある。真実の愛と平和はこころより始まる。新しく修身斉家治国平天下である。公務員が腐っている。此処より改める。財界人も経済主導であるかぎりエゴである。指導するべき立場にあるものが不正をして子供たちに何を教えることが出来るのか。テレビで暴力と愚かさを助長して子供たちに何を教えることが出来るのか。社会としてあまりにも無責任な時代だった。経済界も反省しなければならない。社会の一部である。自分勝手が自由ではない。社会に対して自由の一部は差し出している。それを忘れて自分勝手した財界の事実がある。ひとまずは清算である。そして新たな種を蒔く。新しい時代の始まりである。争いを克服して、穏やかさの中で幸せに生きてゆける時代の開闢である。それは相手をゆるすことから始まる。相手をゆるす。自分もゆるされる。究極は自分が自分をゆるせるかどうかである。自由とは自分からの自由である。自分を縛っているのは自分である。それを解き放つ。そのためには相手をゆるす。自分をゆるすためである。そして自信が生まれる。自信が生まれると勇気が生まれる。これらが失われていた何か大切なものである。そうして自分を生きればいい。世迷いごとに迷うことなく。惑わされることなく。やがて神仏の守護を知る。宇宙に受容される。黄泉に帰る。男は女に受容される。女は男に受容される。互いに尊重し合う。新しい愛と自由である。幸せの形である。所詮男と女である。ここへ至る。愛するものは愛される。普遍の愛がある。絶対の愛がある。人間が神仏の世界へ合流する。それが真実の世界である。あらゆることは知らしめんが為に起こる。何を知らしめんとするか。人は死すべき存在である。生きて死ぬ。大死一番。現実に死ぬのではない。自殺は御法度である。生きて耐えるべき試練がある。どのような状況に於いても。そこより始まる世界がある。善は亨る。悪は滅びる。復活するべき道徳がある。学校教育の道徳ではない。「古代人はまづ天の無限なる偉大さに感じた。やがて、その測ることもできない創造変化の作用を見た。そしてだんだんその造化の中に複雑微妙な関係(数)があること、それは違ふことのできない厳しいもの(法則・命令)であり、これに率ひ、これに服してゆかねば、生きてゆけないもの(道・理)であることを知った。・・・偉大にして神秘な天地に対する驚異と、敬虔な感情、所謂thecelestialpassionから発達して、天地から離れ、天地に背いて、人間独自の世界を開く、従って人は自然を征服するのだといふやうな矛盾闘争的な考へ方ではなく、どこまでも天地自然を諦観し、これに順応して、その中に厳正な法則を発見し、人間自身を反省して、人間社会の存在・法則を天地自然と一致させて、天人一体になって渾然と生きてゆかうといふのが易の根本精神である。『易は天地と準ずる。故に能く天地の道を弥綸する』。『天地と相似たり。故に違わず』。『天を楽しみ、命を知る。故に憂へず』(繋辞上)・・・。海・濶くして魚の踊るに委せ、天・空しうして鳥の飛ぶに任す__これ大丈夫の度量である。衣を振ふ千仞の丘。足を濯ふ万里の流__これ大丈夫の気節ではないか。珠・沢に蔵れて自ら媚しく、玉・山に韜まれて輝を含む__これ大丈夫の蘊藉(含蓄)でなければならぬ。月は到る梧桐の上。風は来る楊柳の辺__これ大丈夫の襟懐であろう(林羅山の座右の銘)。・・・黄帝・天下を有し、號して自然と曰ふは、獨宏大なる道徳なるなり(白虎通・號)。[明徳出版社刊安岡正篤著『易學入門』p18-20]
「人と人との仲が悪く、和合しないのは、多くは、お互の情態がよく分からず、意思が疎通しないところから起こるのである。近く相接して、十分に談し合ひをすれば、大抵は互に善く諒解して、和合し得られるやうになるべきである。同じいけれども異なって居るところがあり、又、異なって居るけれども同じいところがある。異なりて同じく、又、同じくして異なることを善く見定めて、適當に處置することが、・・・・・・」。(明徳出版社刊公田連太郎術『易経講話三』p234-235)
2006年09月10日
真実とは何か
「無門云大凡参禅学道云々。禅者の立場を指したのじゃ切に忌む声に従い色を逐ふ事を。苟も衆生無辺誓願度じゃ。向ふに転ぜられては出来ない仕事じゃ。向ふを呑む大度量がなければならぬ。ついて廻るなと云ふ事じゃ。・・・どこ迄も自信を促すのじゃ。・・・心は花になさばなりなん。若し夫れ此漢ならば。天下の声は我声じゃ世界の色像は我色じゃ何物が来ても乗り廻す。」(p98-100飯田とういん著『無門関鑽燧』東京森江書店)
飯田とういん老師の弟子はいただろう。しかしその法は今どこにあるのだろうか。盤珪禅師も同じである。聖徳太子も同じといえる。直接の子孫はいない。しかし、文字によってその法は伝えられている。その時々には時期尚早だったというべきか。周囲に直接理解するものはいなかったと云うべきか。しかし真実は真実である。真実になってみなければわからない。だれが彼らを否定できよう。
ところで、真実は真実であるが、真実でないものが真実を真実であるかのように奪う。つまりのさばる。人間ってどうしようもないね。本気で淘汰されたいのかな。どうなってんだろうね。しかし何時の世もそうだったのだ。気づいたものが勝ちである。ここを依法不依人という。我が道を行くしかない。
NHK深夜便で「椰子の実」がストリングスで流れている。日本にとって椰子の実は何だろうね。伊豆半島かも知れないね。
昨日は9月9日。つまり重陽の節句。クリの実もなっているようです。クリは苦離とか云われる。苦を離れる。楽となる。奇数月の奇数日が六斎日。「諸の境内に勅して、力の及ぶ所の処に不殺を行ぜしめ、此の如き法を修する」(法華経)日。梵天帝釈も踏み給う一天の戒壇菩提樹で一切の犠牲にしたものたちを弔う日。王舍城へ行ってきました。無線を使っての参道の交通整理の善業を朝の5:30からさせてもらいました。宝殿の善業にも再び来るようにと仏道の処で復活した係の方から誘って頂きました。ずいぶんと懐かしくありました。一昨日は花壇の草取りと新館4Fの紅白の幕張などさせて貰いました。たまがけでしょうか。幕の止め方も習いました。皆幸せを求めて業をしています。正しく行ずる必要がありそうです。要はこころです。持って生まれた種です。大切にしましょう。世間に負けないように。さて交通整理で、途中に狭い道がある。大型バスを止めて待機していた。それを追い越してつっこんでくる車があった。対向車の寸前で止めることが出来た。人間身勝手の例である。これが自分勝手な人間の現実である。テレビ界及び芸能界の暴走もよく似ている。
「会する則んば事同一家。会せざるときんば萬別千差。悟って見れば四海一家じゃ。どうして相犯す事が出来ようか。盗人を捉えて見れば我子なり。自己を忘する時全自己ならぬはない。茲が世界インモに広闊たりじゃ。会せざれば萬別千差。分からぬ者程悲しきはない。自國他國黄人黒人白人乃至貧富貴賤と。千差萬別切れ切れじゃ。黨して和せずじゃ。門を出れば七人の敵ありといふて居る。疑心暗鬼を生ずるじゃ。業平が貞妻を疑ふて縁の下にひそむだも可笑し。我国を好戦国などと妄想する國もある。只是れ会せざる故のみ。会せざるは責我にあり。洩らさず会せしめでやは」。(同p101-102)祖先をさかのぼればどこに行き着くか。五大原素。因って地水火風空を仏とは云う。これに帰依するべきである。これを供養する。弔う。守護がある。仏の守護である。怖いものなどない。万物同根。地水火風空及び因縁たち。かれらも成仏したいからである。真実の仏の教えがある。それを伝える必要がある。すべては譲られた。それはどういう意味か。自分たちが実践する時となった。再び大法輪は転ぜられた。人類が生きるか死ぬか。そういう時に入った。我々次第となった。救われる道はある。故に滅びの道も現れた。そうしたものである。ここは人類の英知に訴えるしかない。人類史上、最大の選択の自由を迫られている。愛と平和へ進むのか。殺戮と滅亡へ進むのか。救われる道はある。滅びの道もある。どちらへ進むのか。好戦国家日本は明治下級精神の末裔である。かつて武士には精神があった。それ故の己の命を賭けた戦だった。現在のリーダーには精神がない。他を犠牲利用して自分たちだけ生き残ろうとする戦である。古来大和の心はやさしさへ向かって咲く花だった。しばらくのさばった暴力と欺罔がある。本来日本にはなかったものだ。ペリー来航以来汚染されてしまった。取り戻すべきは何か。もともとあったものだ。思い出す頃である。世界は何を求めているのか。本末転倒の世の中。要猛反省。子供の教育がなっていない。自信を失った大人の故である。犬の教育のないのに等しい。子供が勘違いしている。道元の法は貧学道である。どういうことか。身は貧にして心はどうか。よくよく考えるべき処だ。お金ですべてが解決すると思っている。それはない。世のセレブ諸君、地獄は見ているだろ。救われたくはないか。世の芸能界は腐っている。それに群がるテレビ界の罪は甚大である。世を惑わすにも程がある。経済界諸君、そろそろお金の実体を知る頃ではないか。ニ-ベルングの指輪は手に入ったかな。この世に一つしかないよ。誰の手にそれはあるのだろう。あまりに愚かと知るべき頃ではないか。財界諸君、言語道断。西洋重商資本主義の基礎はインカの金である。インカの因縁が黙ってはいない。かれらは騙されたと思っている。さて、私も救って貰ったらしい。そうであるなら、この救われた事実を伝えるしかない。
2006年09月08日
夢の実現
何の物語かは忘れた。日暮れまでに出来るだけ広く四方を歩いて囲えという。それをあなたの領地にしようと。人天を耕すといったのは釈迦だった。耕すべきは耕した。確保すべきは確保した。これからですね。探していた失われた何か大切なものは見つかった。すなわち、日月照らし風の吹くだった。まるで孫悟空のようだね。己のなすべきことをなしていればいい。やがて夢は成就する。人のことは人のこと。自分でなければ解けない謎がある。代わることは出来ない。しかるべき種を蒔く。そして時を待つ。あたかも太公望のように。また、行雲流水かと思う。嵐は去った。楽しみはつきない。
2006年09月07日
あの世の祖先は
昨夜は功徳推進会というのがあって、法の基礎について教えてもらった。祖先はあの世へ逝くとリセットされると思っていた。救われつつある段階でそう思ったのだろう。しかしそうではないらしい。この世で悪をなしたが故に戒められて苦しいところに堕ちているという。それで戒名がつく。戒められている。妙法華経は地獄餓鬼畜生に堕ちない約束がある。これで供養するしかないそうだ。妙法華経が顕説されるまで誰も三悪(地獄餓鬼畜生)から逃れたものはないという。この約束があるから様々な因縁もゆるすという。因縁も供養することで成仏するからである。因縁も救われたいからである。今救われる時代となった。人類史上初めてのことである。それ故に悪も数倍になって帰って来るという。悪が拡大再生産されたからである。悪を善に変えることができるという。不思議だがそういうことであるようだ。行をすることで教えてもらえる。救われた事実から推測していたが、真実に対する認識が間違っていたようだ。ここに訂正する。しかし私が救われつつあることは間違いない。日月照らし、風の吹く事実はある。求めれば与えられる真実である。楽な境涯に入りつつあることは確かだ。身のある間にするべきことがある。仏さんは方法を教えてくれる。祖先は子孫を助ける。祖先を救うのは今身のある自分たちである。これは間違いない。子供たちが通学している。明るい声があたりを明るくしている。明るい日差しが美しく差し込んでいる。いい一日となりそうだ。皆さんもいい日でありますように。今日も元気に頑張ることに致します。
自分が変わることで世界が変わる。また、女は業障な身である。何故か。何故女に生まれたか。婬という字がある。過去に於いてみだらであったが故に女として生まれた。今、みだらな男が多い。彼らの来世は決まっている。女と生まれたからには業を背負う。男女平等である。しかしこの業を背負った事実は変わらない。この世で変わるべく機会が与えられているという意味での平等である。背負った過去が違う。申し訳ないがそうである。しかし女人といえども成仏できる時代が来ている。時代は進化している。気づくべきはここである。目覚めるべきはここである。皆幸せになれる時である。それ故に腐敗した。腐敗の次は新たな復活である。心身清浄。迷いのない時代の到来である。悩みのない時代の到来である。供養すればいい。正しい方法で。皆幸せになれる。ところで五欲を断ずる必要はない。みだらもそうである。唯、公然とみだらであるのは困る。一夫一婦制は人類が獲得したものである。みだらということについて考えてみる必要がありそうだ。芸能界とテレビ界は公然とみだらではないか。自由を勘違いしているのではないか。戦う民主主義という概念がある。民主主義を破壊するものに対してである。本来の自由は何か。本来の平等とは何か。本来の自由と平等を破壊している事実がある。これに対して戦う自由主義がある。戦う平等主義がある。武器を持って戦うのではない。すでに暴力は克服されている。文字を以て戦う。男子は男であるだけで功がある。女子は女としての業がある。功は清い音である。業は濁った音である。男子は男子としてあるべきようはである。女子は女子としてあるべきようはである。これを無視愚弄錯覚癒着破壊していた。潔き男子諸君、男子たるを放棄することなかれ。テレビ界諸氏、これを愚弄及び破壊して世を惑わすことなかれ。
2006年09月06日
真実の幸せへの道
さて、幸せの基はわかった。穏やかに生きてゆけることも。これからをどうするか。自分なりに生きるだけですね。やがて実が成るように、すべてが成就する。我にあらず。人生は数学の証明だね。ひとつひとつ証明しながら進んでいく。これもおもしろい。昨年の11月26日に意を決してはじめた。思わぬ展開だった。これほどの効用があるとは知らなかった。すでに一つの仕事はしたように思っている。時代は代わった。新しい時代である。英知の時を迎えた。知る人は知っている。十分に祝福されている。次なるステージに進むことにしよう。宗教は筏にすぎない。自分のあくを取るための装置でしかない。あくが取れたら何をするか。新しい時代である。生きていくしかないね。宝は見つけたよ。迷いはない。宇宙無敵大戦艦だ。エンジン全開、全速力前進と参りましょうか。発進!ところで笑いは社会の潤滑油とかいうけれど、彼らの目は泣いてるね。心底笑ってるのかな。笑えない自分を誤魔化していないか。心から笑うのはそう簡単ではない。嘘はないか。こうした事実を無視して笑いというか。本当の笑いはどこにあるか。仏さんの目を見るとわかる。笑いの概念を見つけたのはベルグソンだったろうか。概念は笑いではない。現代の笑いは概念を越えていないのではないか。本当の笑いはどこにあるのか。如是我聞、歓喜奉行してはじめて本当の笑いはある。神仏の祝福があって初めて真実の笑いがある。宝石としての笑いである。低いレベルでの刹那的な笑いが笑いではない。自分の糧を獲る笑いを強制的に笑わされて笑いと思っていないか。真実の笑いは無償で自由な笑いではないのか。笑いの概念を区別する必要があるのではないのか。笑いで十把一絡げにしていないか。笑いにいくつかある。潤滑剤として笑いを越えているのが感激である。長唄あるいは浄瑠璃を聞いて泣いたものがあるか。自分あるいは自分たちだったのだと。何を以て笑いを潤滑剤というか。私にはわからない。現代の愚かな笑いに私は笑えない。むしろ悲しい。それは誤魔化しにすぎずそこに救いのないことを知っているからだろうか。現代のお笑いは心の傷に対する絆創膏にもならない。笑わされて自由な笑いか。自ら笑うのである。どうしたら自ら笑えるのだろうか。悲しみを通って笑うのである。悲しい目をして悲しい自己を慰め合う演技としての笑いが笑いではない。真実の笑いはある。どこにあるか。人生はだんだんと思うようにならなくなっていく。そしていい加減がモットーとなる。それでよしとする。人生を諦めたのかな。もったいないね。救いはあるよ。笑いはあるよ。迷いはなくなるよ。自信が生まれるよ。試そうとは思いませんか。若さは年齢ではない。下手な大人概念に染まったら終わりだ。ルビン・シュタインもカール・ベームもいつになっても若さを失わなかった。情熱を失わなかった。それでもいい加減さが大人というのかな。自分を正当化するのはいい。しかし、社会的影響力のある地位にある方々が社会を堕落方向へ助長する発言は大罪である。衆愚はそれに群がる。それで利得するとは何事だ。マスコミ関係者及び芸能人のこころすべきところである。無責任きわまりない。人間の弱いところにつけ込んで公に衆愚を助長しすでに侵害した部分については社会的損害賠償請求である。衆愚も極まった。人間個々の身勝手がすぎた。今、この社会はどうなっているのだ。魂の遍歴がある。この世だけが人生ではない。自分が困るのはいい。守銭奴は精神的に救われることはない。ラスコリーニコフは己の内面にいる。しかし社会をこれ以上壊してどうするのか。確かな救いはある。どこにあるのか。代々伝えられてきた。それを何時までも無視できない。ペリー来航以来の愚行を反省する時である。古来日本の精神の復活である。復古ではない。新しい時代へ向けてである。真実の笑いがある。それを探してみないか。私のブログ及びホームページはとても重要かつ貴重である。ベートーベンのピアノソナタのごとくである。日々証明が重ねられてきた。そして確かな価値を見出した。人間レベルを超えたどうしようもないものの記録である。そのプロセスの記録である。この価値を認めることが出来るか。すでに宇宙自然生命黄泉が受容祝福している。マーラーは言った。いつか私の時代が来る。私もそれを援用する。未来の方向はここにある。人間は堕落するために生まれたのではない。すでに日本は精神の洗練があった。しかしペリー来航で世界に合流することで濁った。本来清浄への道=仏道に帰るだけだ。そして再び本来の道を歩む。悩みのない道である。迷いのない道である。万民に開かれた幸せへの道である。それだけのことである。ところで、靖国の英霊たちの問題がある。明治の国事に殉じた魂の問題がある。それらについて私たちはいろいろ思う。かれらはどう思っているか。かれらはただのこされたあるいはのこした子孫の幸せを願っている。かれらも時を得て再び人間として生まれやりのこしたことをしたいと思っている。私たちはかれらに対してかれらのことをあれこれ可愛そうに思っている。しかしそれは私たちの我見でしかない。勝手に思い煩っているだけである。死ねばふりだしである。処してきた思念と行為は事実として残る。しかしかれらの思いはリセットされている。私たちが思っているのは妄想である。かれらは自分たちのことで思い悩んでほしいとは思っていない。唯子孫を救いたいばかりである。子孫の幸せを願っている。同じ間違いはしないでほしいと思っている。ここに気づく。そして本当の幸せを考える。私たちが幸せになることがかれらに対する最高の供養である。そのためにはかれらの存在を認めなければならない。いつも思う必要がある。そうすることでかれらの遺恨も消える(この遺恨は私たちの勝手な妄想にすぎない)。そしてかれらは私たちを守護する。こうして真実の幸せへの道を歩み始めることが出来る。勝手な妄想からの脱却である。かれらの思いはどうなのか。自分たちの間違った思いがかれらをも縛っているのではないのか。自分をも。真実の幸せへの道が見つかった。一歩を踏み出そう。今幸せになることが、これから始まる。間違った思いを思い直す。そして本当の幸せの時代が始まる。新しい時代です。私は解かねばならない問題を背負って生まれたのだろう。いつかは解かねばならなかったのだろう。私の人生はその為に経過した。子供の頃にはあらゆる役職を経験していた。その後この問題を感じ始めた。十九の春にはその重さに耐えきれず失墜した。その後は世間から乖離した。そして時代に翻弄され虐げられた。しかし地下水のごとくそのプロセスは私の内面で進行した。そして伏流のごとく復活した。それも時が来たからだった。時が満ちたからだった。あたかもプログラムされていたかのようだ。それに耐えたというべきか。準備され導かれていたのだった。いつも日月照らし、黄泉からの救いの風は吹いていたのだった。それに気づかない自分がいただけだった。反論があるならすればいい。聞く耳はある。修正するべきは修正する用意はある。皆それぞれに生きればいい。しかし意識無意識に他の邪魔しないことだ。自分勝手して気づかないところで邪魔していることもある。そして勝ったつもりでいる。相手にしていなかっただけである。そこに思いいたすべきである。往々にして低レベルの意識は高レベルの意識を知らない。知らないことを以て否定する。それは勘弁願いたい。今までは黙っていたところがある。しかし限界を超えた。また高レベルの意識にも罪がある。カラスと白鳥は違う。違うことを以て自明とし、黙して好き勝手してはいなかったか。現在財閥等のこの罪も問われる。何故か、さらに高い意識が目覚めたからである。
2006年09月05日
皆が幸せになるために
仏さんのことをさせてもらうということはどういうことだろう。お供養することで過去の因縁は解決できるという。お供養だけしていればいいという。ただし、そのお供養に正しい方法がある。それは何か。探すしかない。教えてもらうしかない。何事も自分がどう決心するかだ。心が決まれば見えない世界がそれを実現に向けて助力する。時々にサイン及びチャンスがある。それを逃さずキャッチする。そして実行する。そうすることで、次の段階へ至る。やがて導かれて真実に至る。自分次第である。仏さんのことを思っていれば、悪をなさない。悪をなさないことで自分の運命が変わる。やがて、神仏との邂逅となる。そしてすべてを知ることになる。すべてを知るとは根本の一を知ることである。一を知れば空も無もわかる。所詮この世は因と縁。善因は前縁を得て善果となる。悪果も同じである。真実はむしろ単純明快である。これを複雑にしているのは自分である。事故は故意でない限り過失から起こる。過失とは不注意である。結果予見できないこと及び結果回避できないことでそれは起こる。同じ状況でもそれを避けることができることもある。これは神仏及び祖先の導きによる。大難が中難となる。中難が小難となる。こうした守護を得るためには、自分がある程度の行を必要とする。ある意味で、神仏及び祖先に認められる必要がある。つまり、好かれておく。そのための行である。前提として、神仏及び祖先の存在を認めなければならない。これが宗教心である。困った時の神頼みではない。平生往生である。魂が本体である。魂も六道輪廻している。これを知らなければならない。知らずして勝手なことを思う。勝手な行為をする。当然思うようにならない。霊界の守護がない。あるいは宇宙自然生命黄泉祖先の意志に反する。事は成就しない。むしろ地獄必定である。すべてのことは知らしめんがために起こる。何を知らしめんとするか。宇宙自然生命黄泉の秩序である。これを無視するのが人間である。いつまでも戦争をしている。そろそろ気づく頃である。かつて世界は地中海で無限だった。今はどうか。すでに地球としての限界が見えている。いつまでも古いパラダイムでいてどうするのか。やがて皆たどりつく。すでに至った方々もいる。仏陀、ソクラテス、キリスト、孔子がそうだった。二千数百年前のことだった。その頃より人間はある意味で進化していない。物質文明は進んだ。しかし魂のレベルは変わっていない。いつかは魂のレベルに至る。おそかれはやかれである。いつまでも地球もありはしない。太陽だってそうだ。そろそろ気づくべき頃である。皆とはいわない。少なくとも心ある人はである。それが地の塩となる。時は待ってくれない。自分が助かるからではない。周りが助かるからでもない。宇宙の時の流れである。理念のない行為はだめだ。理念だけで実行がないのもだめだ。身と心がある。両者の健全な育成が大切だ。いつのまにか日本も凶悪犯罪国家となった。これを傍観した罪がある。古来日本精神に反するものがある。昔武士は貧しかった。しかし尊敬された。何故か。精神修養があったからだ。武士は野蛮ではない。野蛮は尊敬されない。ここに失われた何か大切なものがある。どうしてこのようなことになったのか。物質文明化の故である。精神修養が見直されなければならない。神仏の守護を味わいたくはないか。悪の結果が出てからでは遅い。今自分のしていることが、自分の良心に照らして恥ずかしくはないか。だれもが仏性を持って生まれてきている。わすれているだけである。思い出さないか。古来日本の精神が歩んできた道を。ペリー来航以来忘れていた道を。ここ百数十年で過去数千年来の道がくつがえるわけがない。どちらが本当の道であるか明らかである。見直さないか。そして自分が相手に勝ったと思ってにんまりとする。冗談ではない。その思い上がりが命取りとなる。宇宙に秩序がある。それに反すれば当然の報いがある。どういう意味か。結果は客観的である。自分の思ったようにはならない。やがて真実は事実を以て証明する。それでも危害を加えるなら死に神が来る。それでも自分勝手に思う。自分勝手している。それが人間である。あはれである。すでに少年も凶悪犯罪化した。違法性の意識も問えない事例が多くなった。しかし人間である限り道義的責任は感じる。その程度が低くなった。結果責任だけで考えなければならない事例も出てきた。そして犯罪人は生まれながらにしてその傾向を持つという決定論もある。これも正しい。しかし一切衆生悉有仏性である。これを育てなかった怠惰が社会にある。傍観した罪がある。人間のこのどうしようもない傾向を認めて、教育はするべきである。そうした冷静な目が、今、必要である。愛と平和は当然である。しかしそれを実現するためには冷徹な意志が必要である。戦後、社会は女性化した。それで何もかもうやむやとなった。ここで本来の男子が現れる。男子待望論である。男子とは何か。女性の中にもその本質は男性である存在もいる。男性の中にもその本質は女性であるものもいる。外見からはわからない。あるべきようはと禅語にもある。このあるべきようはが失われた。子供は子供としてあるべきようはである。それを無視し破壊した。世のテレビ界の下劣な横暴がそれである。テレビは公然と見せ物小屋となった。密かな小屋に帰ってはいかがか。社会は迷惑である。民謡は明るい。演歌は暗い。だめな人間を正当化している。そしてだめな人間が慰め合う。これでは社会はよくならない。だめな方向に染まってしまう。だめな社会となってしまった。衆愚社会となってしまった。そろそろ見直さないか。この世に秩序がある。見えない世界がある。それを無視愚弄破壊した事実を。皆が幸せになれる。そのための方法がある。考えてみないか。良識ある自由人がお金はなくとも闊歩できる社会を取り戻さないか。ところで、宗教一般を理解できないのもわかる。そこを道元はどういっているか。昔より縁なきことをうらみよ。しかし今生が縁だよ。しばらく縁なき方々の時代だった。そしてこのようになった。宗教一般を否定するのはいい。しかし仏さんとか聖徳太子とか否定できますか。自分が自分を鍛えるのは正しい。しかし間違った方法で鍛えても仕方ない。むしろ害する。人間である限り間違う。人間の上に神がいる。神の上に仏がいる。姿は同じ。しかし内容が違う。自分より上はわからない。それで否定する。しかし上には上がある。ここを素直になれるかどうか。処してきた人生の差がある。代々の差がある。それが一切種智慧。泥の中から蓮華は咲く。しかし蓮華の種を要する。誰もがその種を持って生まれている。一切衆生悉有仏性。しかし、その他の種もある。どれを選択するのか。それが選択の自由。そして自ら咲かせた花は何か。問われている。仏はいう。他土におくと。どういうことか。否定するのは自由である。しかし他土におかれる。つまり、仏の守護はない。なくてもいいと思う。それが人間。そして地獄に堕ちる。地獄とはエゴの世界。思うようにならない。思うようにならないから悩む。悩みのない世界が彼岸。それが仏の世界。つまり、理想の世界。人間はそれを否定する。仏はそれを肯定する。どちらが真実か。真実の味は自ら服さねばわからない。だからといって差別ではない。差別というのは生まれによるいわれのない差別。いわれのある差別は差別ではない。過ぎ越し魂の遍歴が違う。地獄より出ている。地獄は見ている。地獄より脱却している。すなわち天地自然が証明する。すなわち、日月照らし、風が吹く。どうしようもない事実である。見るべきものは見ている。
自分の花を咲かせるということはどういうことでしょうか。咲くまでが青春です。咲いてからが大人です。自立です。それぞれが花を咲かせているのです。それぞれがお互いに咲いているのです。少なくとも社会においては他に迷惑をかけないことです。そして自分の糧は自分で獲る。会社はその狩り場です。しかし社会です。社会には秩序があります。法の目的は社会の維持です。そのための紛争解決であり秩序維持です。それを無視あるいは破壊するのは言語道断です。言い逃れはない。処分あるのみです。救いは別論です。このあたりが曖昧だったのではないでしょうか。救いなど要らないというのも自由です。それほど自由なのです。仏の顔も三度まで。地獄の沙汰も金次第。いろいろと言われます。しかし真実は真実ですね。真実を信じるのも自由ですね。所詮、それでいいのです。わかるものはわかる。わからないものはわからない。影響されないことです。惑わされないことです。宗教が惑わすというならそれもいい。しかし真実は真実です。それだけは申し述べさせていただきます。これまでは惑わされていた。これからは惑わされない。それでいいのだと思います。自分の花が咲いたなら、咲き続ければいいのです。幸せは幸せを呼びます。花が咲くとき、蝶は来ます。蝶が来るとき、花が咲きます。誰も知らなくともいいのです。咲けばいいのです。宇宙自然の法則があります。人は知らなくていいのです。知る人にだけ知ってもらえばいいのです。花の心です。花は充足して咲くのです。誰もが花咲く機会は平等です。自由と平等は対立概念ではありません。両立概念です。自由と平等を享受できる時代となりました。いい時代となりました。今日も元気に参りましょう。
何事も楽しむにしくはない。笑みがこぼれてくるのをまつだけである。今までは世を恨んでいたところもあった。何故というに、私の人生はすでに十九の春に終わっていたともいえる。その後は何であったか。およそ無意味な人生であった。何もかも失われていた。それがどういう意味か。誰も知りはしない。しかしこれからはちがう。そうした私の人生が意味を持った。これも試練だったのだと知った。この試練を乗り越えるものはいない。使命だったのだ。そして全肯定が始まる。すべてが愛おしい。あらゆる悪も含めてである。あらゆる一切が輝き始める。見えるのはすべて自分の姿だったのだ。どういう意味か。善も悪もみえるのはその時々の自分である。自分が悪を呼ぶ。自分が善を呼ぶ。悪も善も自分の心が呼ぶのであった。この意味でやっと悪人正機説である。仏を見るのは自分が仏の心の時である。仏のところへ行けば自分の心が仏の心に染まる。地獄を見るのは自分の心が地獄の時である。心が地獄を呼ぶのである。すべて心次第とはこういうことだった。気持ちが仏となればいい。すると周りはすべて仏の世界となる。仏の世界を知らないのは自分の気持ちが仏の気持ちを知らないからだ。地獄の世界を知っているのは、自分の気持ちが地獄の気持ちだからだ。こうしたことだったのだ。朱に交われば赤くなる。仏に交われば仏となる。悪魔に交われば悪魔となる。地獄に交われば地獄となる。それで修行である。君子危うきに近寄らずである。仏の世界を知るためである。知れば仏の気持ちになれる。仏の気持ちになれば仏の世界がやってくる。仏の世界となれば安穏である。楽しむばかりである。そしてすべてが愛おしい。悪も善もない。善悪の彼岸である。これが無であり空である。よいも悪いも無い。あるのはただダルマばかりとなる。であるならば、自分を謝るしかないではないか。すべて自分だったと合点するではないか。幸も不幸も自分次第であったのである。お金があっても不幸である。お金が無くても幸せである。幸不幸はお金ではない。それを知らしめんが為の試練であったか。十九の春も復活である。もはや惑いはしない。自分を縛っているのは自分だ。自分をほどくのも自分だ。この自分が最大の要である。その意味で自分を鍛える。どういう意味で自分を鍛えているのか。自分勝手はだめだ。人間であるかぎりだめだ。神仏を認めることが出来ない自分を諦めるしかない。自分を解かねばならない。そのためには自分を縛ることをやめることだ。況や他人を縛ってどうするか。一切をほどく。自分をほどく。すると自分の縛りがほどける。楽になれる。自分を縛るのは自分だ。自分をほどくのも自分だ。これを謝ると言ってもいい。ゆるすと言ってもいい。しかし真実はこういうことだったのである。
ほどければ 青空澄みて 風の吹く 日月照らす 秋ぞゆかしき
これで幸せになれますね。
今日、美しい人に出会いました。仕事は介護士をしておられました。とても素直で従順で明るいのでした。疑うことを知らないようでありました。
守護がないわけではなかった。個々人から愛されること、思ってもらえること、それが守護だったのです。親の愛、異性からの愛、友人からの愛、諸先輩からの愛、後輩からの愛、そして神仏の愛。宇宙自然生命黄泉祖先の愛。それがすべて守護となるのでした。思うことと思われること。それが愛。そしてそれが守護です。それで十分であるはずでした。しかしそれを受容できない自我があるのです。思うようにならないのは、素直でないから。何に対して素直でなかったか。愛に対してですね。すでに十分に救われていたのです。それに気づかない自分がいるだけでした。それを認めようとしない自分がいるだけでした。こんなに愛されていたのに。勝手に拒絶していたのは自分でした。花は愛惜に散る。それでいいのです。これで十分だったのです。愛とはこうしたものだったのです。過去がどうであろうと、未来がどうなろうと、構わない。大切なのは、今花咲くことです。諦めてはいませんか。過去は反省のためにある。明日は明日の風が吹く。思い煩う事なかれです。しかし思い煩う自分がいる。ここです。未来は今が決める。過去は今花咲くためにある。今をどのように咲くか。それぞれが愛の花を咲かせればいいのです。咲けば命を賭けることもわかります。ここに生死を越えるのです。越えなくては咲けない花なのです。それを怯懦に咲こうとしていませんか。潔く咲くことを怖れていませんか。飛び込むのです。飛び込んだ重さで浮かぶ蛙かなです。そうして咲く花があるのです。死んで花咲く火裏蓮です。そして世界は十分に救われているのです。ここに至れば。朝に教えを聞かば夕べに死すとも可なりとはこのことだったのです。これですべては解決するのです。現実に死するのではないです。自我が死するのです。今を咲いた事実は永遠に天に記録されます。そして魂は解き放たれるのです。これが喜びの詩です。ゆるすゆるされるではないのです。ゆるすしかないのです。ゆるされるためには。ところで、男子諸君に言っておこう。お金ではない。本気で信じて心に決めてその人を幸せにすると約束するなら必ず女子はついてきます。女子は男子より生命に近い。お金の大切なことは知っているがそれ以上に大切な生命を知っている。それを護る男子がそばにいれば直観する。女子にとって真実の強さとは何であるか。すでに権力ではない。武力でも金力でもない。生命を護る力です。生命は生きるか死ぬかです。トータルorナッシングです。絶対です。女子は本能的に生命を知っている。その残酷さも。さもなければ愛し合うことなど無い。それをもてあそんだ事実がある。罪でなくして何であろう。愛は絶対です。愛とは過去からの約束。魂と魂との邂逅です。本来はね。今生ではわからなくてもやがてわかる時が来ます。魂の遍歴です。やがて帰るべき宇宙への。この世でなすべきは魂を磨くことです。やがて神仏に受容され祝福されます。すなわち、日月照らし、風が吹くとはこのことだったのです。彼岸=理想の世界へ渡ることだったのです。命を賭けて。やがていつかはだれもが至ります。諦めないでくださいね。
2006年09月04日
勘違い
何か勘違いしている方が多い。勘違いしているのだから、勘違いしていることに気づかない。何かにしがみついている人が多い。一度手にしたら手放そうとしない。一度手に入れた地位などそれだ。後輩に譲る気持ちが見られない。あるいは見守る気持ちもない。これが現在の状況である。放てば手にみてりなのにね。賓主歴然。お見抜きお見通しである。なすべきことをなさずして地位のみにしがみついていないか。事務所はレベルの低い社交場ではない。それを安楽と勘違いしていないか。地獄へ真っ逆さまだよ。なすべきことをなしていないとね。なすべきことって何だろうね。それはすでに教えてもらったはずだよ。それをなしたのだろうか。なしてその程度なら相手にしない。自分は自分の道を進む。依法不依人だ。仏と自分と一対一だ。この修行は生きているかぎり続く。今もし安穏に見えても化城にすぎない。第三者から見てサボっているとしか見えない。それでは誰もついて来ない。真実の救いはそのようなものではない。やはり勘違いしているね。嘘はないか。自分自身を偽ってはいないか。やっと手に入れた地位に何時までもしがみついているのはみっともないぜ。中身が見えない。実が成ってない。何をしてきたか、実が成ってはじめてわかるとするところであるね。放たれた矢は新羅を越えた。相手にならない。怠惰だったね。今からでも遅くない。出発してはいかがですか。理想の地=彼岸はあります。すなわち、日月照らし、風の吹く。勘違いしていませんか。本当の安楽を味わってみたいと思いませんか。本当に安楽となるとね、何もかもが慰めとなる。苦しいこととか思い通りにならないことがあったら、それが何を意味しているか考える。そしてその解決を図る。すると解決がある。過去の因縁は御供養することですべて解決すると言われている。簡単なことだったのだ。知らないから難しかっただけだ。どのような難しい算数の問題でも解けばなんだこんなものかって思う。しかし解けなければ地獄だね。算数の問題も解けなかった自分を思い出してはいかがか。学校を卒業して社会に出ると皆平等だと思う。ちがう。問題処理能力がちがう。それが勘違いである。あるいは思い上がりである。仏とはほどくことだとも言われる。何を以てほどくのか。文字を以てだよ。しかしね、自分勝手にしては、究極がわからないね。やはり、教えてもらうしかないね。世に流布している漢字ブームだけれど、仏の定めた如来の余の深法というのがあってね、それを知らないかぎり、究極はわからないよ。当たるも八卦当たらぬも八卦で満足している。究極を知らずに世を惑わしているのが世の占いだ。しかし世間はそれに群がる。テレビ界はいかにも知ったように吹聴する。何をしているのだ。いい加減にしないか。これ以上世を惑わしてもらっては困る。だれが困るのか。世が困る。恥とするべきところではないのか。これよりその責任はとってもらう。世を惑わすことによって得た利益は世に返還してもらう。テレビ界及び芸能界は覚悟するべし。勝手がすぎた。究極がわかるとすべてわかるのにね。だからブームはブームで泡のように消える。真実は消えない。さて、真実はどこにあるのでしょう。探すしかないね。必ず見つかるよ。探していればね。勘違いの夢の中より醒めるよ。世間虚仮だ。世間は皆間違っていると思っていい。修行者も世間だ。その中から宝石のような人格を磨き上げることが出来るかどうか。自己の中に宝石がある。持って生まれている。それをdigit!ところで、ロシアから銃撃された事件だけれど、問題は、北方領土とは関係ないね。というのは、仮に北方領土が返還されても、カニ漁のための領海侵犯をするものがいるだろうから。本人たちは生活のためだとか思うだろう。それほど違法性の意識はないだろう。しかし国際関係を知らなすぎる。無知より来る悲劇だね。瀬戸内海でもサザエの密漁は絶えない。かれらは知恵をもって密漁する。見つからなければいいと思っている。それが人間だね。教育が足りないのかな。自分だけよければいいとする自分勝手な人間が多すぎる。ホリエモンもそうだね。事実に従って裁かねばなるまい。彼を支持した高名な方々(竹村健一、細木数子)は今どう思っているのだろうね。聞きたいところだね。呉市では市長逮捕の後、市議会議長も家宅捜査した。広島地検が動いた。地検の仕事は民主主義制度そのものに対する犯罪を取り扱う。これまでは好き勝手も通った。これからは違う。時は代わった。選挙もそうである。私は衆議院議員選挙の事務局長をしたことがある。お金がなかったことが幸いした。きれいな選挙であった。しかし相手が何をしたか、知らないわけではない。また、選挙民がどのように動くか見聞している。これも見ておけということであったのであろう。いずれにしてもペリー来航以来の西洋化で解放された低いレベルの精神が野放しとなった。そして好き勝手している。大東亜戦争もそうである。あのような馬鹿げた作戦は下級精神の故である。バブル崩壊もそうである。銀行は何をしてきたか。仮登記担保及び譲渡担保の罪は消えていない。現代軽薄テレビ界もそうである。本来の価値及び知性を無視愚弄破壊した。それでこの凶悪犯罪国家となった。子供たちもそれに習った。何時までもこのままでは日本及び祖先に対して申し訳ない。そう思わないか。本来の価値とは何であったか。古来知性は本来の価値として何を見つけていたのか。本来清浄庶民。
2006年09月03日
庶民の解放
旧約聖書に秘められていた400年周期説。家康、アマルダ海戦。頼朝。古墳時代。キリスト。パラダイムは代わる。重商資本主義はインカの金より始まった。その終焉。自然財及び南極条約。新しい時代である。恐竜の時代は何故終わったのか。ほ乳類の中に何かが自覚し目覚めてのことであろう。それが隕石を呼んだ。そしてその力は封印された。その力が400年ごとに伏流するのであろう。その時々にその力を知るものが現れた。空海もそうであった。道元も日蓮も親鸞もそうであった。代々の祖師方もそうであった。現代に於いては誰か。その力を自覚したものに未来は託される。愚か人間に対して処断ある。宇宙自然生命黄泉が助力する。それが例えば英雄の生涯である。何を以て根拠とするか。実存を以てする。己の感性を以てする。呼吸に従って自然がやまびこのように応える。それぞれの過去よりの因縁が吹き出す。もはや疑いようがない。自覚の力である。世間一般は知らない。知らなくとも実在する。今、誰の手に金剛杵は渡ったか。もはや自然が証明する。どうにもなるまい。一切言語道断。低位の神々など相手ではない。諸宗教も勝手なことを言わないがいい。天地従うは誰か。ただゆるしあるのみ。それでも勝手するなら、運命通りとしるべし。かつてモーゼはバビロンを解放した。その後、奴隷、女性が解放された。そして旧約聖書の目的は何であったか。庶民の解放である。その時が来た。今、好き勝手しているものたちは宇宙自然生命黄泉の意思に反する。因って、淘汰される。自分解釈がすぎた。人間の愚かが極まった。時は来た。庶民とは誰か。正直の故に虐げられている方々である。人間の計らいなどしれている。世の好き勝手な方々は観念するべし。もはや逃れることは出来ない。ここに宣言する。悪=阿苦を一掃する。
2006年09月02日
耳なし芳一
耳なし芳一の話がある。平家の亡霊だっただろうか。お経で身を護った。しかし耳だけはお経が書いていなかった。そこで亡霊に見えたのである。そして・・・・・・。今は違う。霊界に見えることが救いである。仏さんからもらった文字は霊界から見えるという。それで救ってくれるのである。耳があって聞こえていなかった。どうしてだったか。それはもういい。今は聞こえている。聞こえると何を聞いているか。聞くものの自由である。あらゆる一切が祝福である。どうしてこのようなことになったのか。明治への復讐だった。そして明治は倒した。どこで倒したのか。内面においてである。大東亜戦争も明治の故と結論づけた。そうでもしないかぎり合理化できない。原爆も。広島は私の故郷である。私の使命だったのだった。おかげで人生も青春も失ってしまった。しかし後悔はない。本望である。およそ知らない理由がある。あまりにも複雑すぎた。しかし謎は解いた。これでよかったのだと思っている。世間の浮かれた自由など自由ではない。あの世へ逝ってわかる。仇はとる。あるいはとられる。世間虚仮。唯仏是真。そうしたものである。世の浮かれた解釈はすべて間違っている。救いはある。方法は仏さんから教えてもらう。試すあるいは実行するのは自分である。自分でしなければ解決はない。解決はある。それが救いである。そしてその結果はおよそ想像を絶する。神仏との邂逅であり、宇宙との交信となる。疑うのは当然である。しかし真実である。私は十分に救われている。しかし何時までもそうして浮かれていいのかどうか。時は待ってくれない。すでに真実の時代は始まっている。世間身勝手、あまりにもあはれである。その運命、法則通りである。源氏物語に何を読んでいるのか。愚かも甚だしい。魂も六道輪廻している。どこへ堕ちるのか必定である。しかし救いはある。二十一世紀である。人類文化も進化した。文字が仏となった。すなわちロゴスである。ロゴスが動き出したのである。あらゆる悪が解き放たれた。あらゆる善も解き放たれた。悪が善に勝てると思っているのか。宇宙自然生命黄泉が守護するのは善である。やはり世間の低いレベルの精神及び身勝手ゆるせはしない。もはやこれまでである。あまりにも本来の価値を愚弄破壊した。言語道断。黄泉が目覚め自覚している。何千年来のことである。黄泉の意思である。嘘は通らない時代に入った。
天国と地獄
さて、生きていくということはどういうことでしょう。自分の世界はわかるけれど、他の世界はわかりません。つらい境涯にいると、安穏な世界はわかりません。楽で安穏な世界はあるのです。自分にはわからなくとも。それで、安穏な世界へ行きたいものです。どのようにして行けばいいでしょうか。安穏な世界の人に出会うことです。スウェデン・ボルグが天国と地獄について書いていますね。この世で、天国の住人と地獄の住人がいるのです。一般は地獄です。天国の門をたたいたものは天国に入れます。自分次第ですね。そして地獄にいると天国はわからないのです。天国へ行くと地獄もわかります。通ってきた道ですから。天国はあります。安穏な世界です。天国の中でもお金持ちとそうでないものとがいます。地獄の中にもお金持ちとそうでないものとがいます。お金ではなかったのです。お金はあってもなくても天国は天国です。自分の心が解放されて自由であると天国です。天国へ行きませんか。天国から見ると地獄で苦しんでいるのが見えます。手をさしのべるのですが、地獄の方は、疑います。自ら助くるもを助くと言われていますね。自分を救うのは自分です。自分が救われると他の方を救うことが出来ます。すべて心の持ち方次第です。しかしこの心の持ち方が難しいのです。それぞれ持って生まれた習性があるからです。これを変えないと天国も見えないし行けないのです。どのように変えたらいいのか、それもわからないのです。それで教えてもらうのです。教えてもらっても何もしなかったら変わらないのです。実行することで結果が出るのです。つまり変わるのです。この実行は自分でするのです。だれも代わることは出来ません。自分で飲んでみないと天国の味はわからないのです。天国はあります。地獄にいると、心が鬱となります。ニートになります。仕方ないですね。自分がこの世は地獄だと思っているのですから、現実もその通りの地獄です。だから、パスカルは言います。神のいる方へ賭けてみなさいと。天国へ行くにはそれなりの条件があります。それはまず天国のあることを信じることです。そして一定の行いをすることです。何事も種を蒔いてそれを育てるのです。赤ちゃんも急に大人には成りませんね。しかし必ず大人になりますね。悲しいかなこの世には悪いものを持って生まれてくるのです。生まれてからもいろいろと悪いことをするのです。そうした習性があるのです。それで地獄のままです。さらに地獄の度合いが増すのです。そして地獄であることを正当化するのです。しかし天国はあるのです。しかし疑います。わからないからです。わかるためにはどうするのでしょうか。一定の行いが要るのです。その行いとは何でしょう。それは先ず信じてはじめの一歩を歩み始めることです。だんだんとわかってきます。はじめの一歩を歩み出さないかぎり何もわからないのです。はじめの一歩とは何でしょうか。善の種をいただくことです。そして善の種を蒔くことです。仏さんは子孫を護るのは祖先だと仰います。祖先は戒名で縛られています。それをほどくのです。そして祖先は自由を得て子孫を護るのです。どのようにしてほどくのでしょうか。妙法華経で供養してほどくのです。善の種とはお善塔さんのことです。これはその家を善の発祥地とします。祖先を供養して成仏させるのです。すると悪いものは流れてきません。いいものだけが流れてきます。そして私たちはこの世で善を為すのです。するといいことばかりがやってくるようになります。これが縁ですね。縁次第だったのです。不思議ですね。しかしこれが真実だったのです。祖先が護るということはどういうことでしょうか。やがて体験します。このようにして天国の住人となれるのです。天国はあります。安穏な日々があります。それを探しませんか。安穏な世界へ移行しませんか。いつまでも苦しんだり悲しんだりしなくていいのです。楽な世界があるのです。自分で流れを変えることが出来るのです。自分で自分を変えるのです。それには方法があります。正しい方法があるのです。間違えた方法では思い通りの結果は出ません。人間であるかぎり悪いことをするのです。そうした傾向があるのです。善は仏さんの所にしかないといわれています。仏さんの所へ行きませんか。安穏な世界が待っています。今まではその方法はあることはわかっていました。しかしその中身はわからないままだったのです。それがわかったのです。それが本当であることを証明するために御経典どおりに多宝仏塔の涌現もあるのです。信じてみませんか。仏さんのことを。仏さんは一切大衆を救うと仰っています。そう決めたんやと。そして仏さんの心は親の愛より深い慈悲です。一切を救うというのです。本当に救われるのです。これが真実です。真実には結果があります。嘘には結果がありません。天国はあるのです。無いと思っていませんか。有ります。
謎
すべての謎は解き 解き終わっている 今私を規定しているイメージは祖父の晩年の姿である 祖父が何をしていたか 誰も知りはしない 正統直伝代々の掟がある 試練というには大きすぎた 父は言った 自分も同じであったと どういう意味か やっとわかった次第である 妹は 六月九日生まれである この世はジュピテルのさじ加減である わかるだろうか そして 日本は復活した 時たがわずである 時は代わった これより 本来日本の復興である わからぬものは 仕方ない いつか わかる 上を敬うべし 古鏡 大鏡 浄瑠璃 長唄 これらの真義 知るものあるか 知らずして 何を大口たたき 愚行を重ねるか 一天四海皆帰妙法 どういう意味か 天王は見える世界と見えない世界に通じた 希有なる時代である この度は どうしても これを成就しなければならなかった これが明治及び戦後の意味であった すなわち明治は洋流の変 その帰結が世界大戦 重商資本帝国主義であるかぎり 戦争に帰結する 天が自信と自覚を獲るには 時の満つるを要した そして 時は満ちた もはや これまでである 天は黄泉を従えた 伊耶那岐と伊耶那美は和解した 正統日本復興である ペリー来航及び原爆の火を以てしても滅び能わぬ古来日本である 「有子曰、其為人也、孝弟而好犯上者、鮮矣、不好犯上而好作亂者、未之有也、君子務本、本立而道生、孝弟也者、其為仁之本與、」(論語)
2006年09月01日
自由の詩
ここへきて あらたな 出発となった もう 迷いはない 幸せはある 迷いがなければ幸せだ どのようにして 迷いをとるか それぞれの 問題だ 迷いは 憂い 同じだ 喜びは 幸せ 同じだ この世に生まれてどうするか どのようにしたら 幸せか 迷いをとればいい それだけのことだ それが 自己確立だ だれもが 迷う それを乗り越える しかしね 自由をはきちがえちゃあいけないよ 低レベルの自由が 高レベルの自由を 破壊した 高いレベルの自由は ここで 主張しなければならなくなった 本来の自由が 存続するために 野蛮な自由は 自由でない 象牙の塔の知的傍観安住者たちは 腐敗堕落を助長した その責任はとってもらう ニートを作ったのは あなたたちだ かれらが何故ニートとなったのか この世の拝金主義と堕落のばかばかしさに 彼らの夢実現可能性が 見出せないからだ 衆愚物欲悪魔よ 去れ 為せば成る 精神一到何事か成らざらん この時代の到来である のさばる腐敗堕落は私が斬る 自由は自由が切り開く 善良素直な笑顔が花咲く時節を迎えた 悪徳の栄えは終わった すでに悪徳欺罔暴力及び制度を利用し およそ不似合いの財を成したるものたちに対しては 本権より不当利得返還一括請求である これより 実行される おのおのの思念と行為は すべて天に記録されている おのれの相貌を鏡に映すがいい 言い逃れはない 事実に従って処断する 首を洗って 待つがいい 時は至った ジャンゴの復讐である 本来古来日本を裏切った 裏切り者には裏切り者の運命がある 黄泉は全軍出動待機している さて 自由とは本来どのような自由であるのか それは 神仏に受容祝福され 宇宙自然黄泉祖先から守護された状態である すなわち 日月照らし 風の吹く 宇宙自然生命身体森羅万象同化する 解き放たれた魂の自由である 幸せでないはずがない 正直者のこうべに神は宿る 新しく開かれた心の地平 古来夢見た 21世紀真実幸福論である もはや 衆愚人間分際での身勝手 容赦ない 本来価値を無視愚弄破壊した 罪は重い 追って 黄泉からの沙汰がある 仏は一切大衆を救うという 謝るところからしか入れないという どういう意味か 上は敬うべし 何を以て上というか 縦の糸と横の糸で織り上げる 縦の糸とは何か 祖先子孫 横の糸とは何か 現在世界 衆愚の及ぶところではない 何を以て勝手するか 戦争と平和 だれが 戦争を始めるのか あるいは 始めたのか 西洋列強重商資本帝国主義 日本も染まったか 自由は自由が切り開く 主権在民国民主権 時代も進化した 真実法華経宿王華開花 一切種智慧 伏流のごとく咲く 古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和復活 黄泉の守護する草薙の剣螺鈿の槍 それでも刃向かうか すでに 古来本来直来伝家の宝刀は抜かれた 抜かせたのは誰だ 卑怯怯懦偽善衆愚利己主義拝金商人根性 ゆるしはしない
●林羅山の座右の銘: 風は来る楊柳の辺(洋流の変)。月は至る梧桐の上。
●天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す。(酒中十詠序)
卒業
世界を壊すことも出来た しかし 壊さなかった 自分を壊した これが 仏の慈悲である 今まで 人の言うことを 聞いてきた これからは 自分の言うことを 聞く 今までもそうだった しかし 成就しなかった 何故か 自分が迷っていたからである これからは どうか 確信がある 確信はあるのだが 現実は 技術が足りない 仕事が 成就しない しからば これを 仕事に出来ず これより 何して 生きんとするか しばし 悩む 悩んではいるのだが これといって 妙案はない どうして このようなことに なったのか これも 導きであるのか 過酷は 過酷である ひとり とりのこされている 私の人生である 恨むことは もう ないのだけれど 寂しさは 波の音のように 押し寄せる もはや 自分を 裏切りたくはない 脱輪 事故 この仕事は もう 卒業である すでに 救いは 見たのだが この 現実を 如何せん われ この現実に 生きるあたわぬか 信じた道を 進む それより ほかに 道のなく そは わが道なりと 思えど しばし 如何せん こころは すでに 救われたのではあるが 大いなる 宇宙に 受容されたのではあるが 現実を どこかに 失っている 待つしかないか 確かな 救いは あったのだから 詩人となって 生きん とするか カキクケコ 鐘のなるなり 道成寺 もはや 己に反して 生きるは やめる あまりにも 己を 粗末にしすぎた もう いいではないか 確かなものは 手に入ったではないか これ以上の宝はない 金剛杵 刃向かうものは始末される まだわからぬか 黄泉は従えてある 自然の中で 旅をする それで いいではないか 真実を前に 知ったようなことは いわぬがいい 好き勝手しないがいい 時は代わった 目覚めるべき 最後の切り札ジュピテルが目覚めた もはや 観念する時である 我慢にも 限界がある