創造化の時代の企画について

2010-02-03

企画、それは企みでした。何を企むのでしょうか。その段階で人にいってはならないのです。必ず疑います。背きます。否定するのです。そしてあなたは傷つくのでした。人は行為の結果である物質的な現象(お金、肉体)しか評価しません。しかしそれも幻影だったことを知らないのでした。心配しなくて良いのです。黄泉は知っています。黄泉とは祖先の総体です。そして実現するのは黄泉でした。さて、この世を楽しむが良いのです。それがすべてだったのです。それが生まれた意味でした。一切は、創造、存続、壊滅を繰り返します。だれの幻影だったのでしょうか。そしていつか喜びを創造する時代が来ます。神の計画はそれだったのでした。その時代に入ったのでしょうか。それを可能にしたのが情報化でした。それを実践し、実現するのが創造化でしょうか。情報化は第三の波でした。それは農業革命、産業革命に匹敵します。創造化は第四の波といわれています。それは情報化を前提としています。

さて、本当の喜びとは何だったのでしょうか。それはしばらくお金かと思われました。その時代も終わったのかも知れません。新しい時代です。その意味で、これまでの方法論は一切通らないといえるのかも知れません。創造化の波が始まりました。創造力とは何だったのでしょうか。神の性質の一つでした。既に悪に染まり、あらゆる価値を壊し、本来日本を裏切った方々は去るが良いのです。

正直者の時代となりました。嘘はもはや隠せません。内部告発の時代です。インターネットはそのように機能する力を持っています。正直者は馬鹿を見ることを竹中大臣は認めました。何を勘違いしていたのでしょうね。それはどの階級のための政策だったのでしょうか。庶民を餌食にして、自分たちだけの幸せを考えていませんでしたか。派遣切りがその例でした。幸せを求める階級があります。インド哲学ではサットワと呼ばれます。利益を求める階級があります。インド哲学ではラジャスです。どちらが本当の幸せを導くのだったのでしょうか。

しばらくラジャスの時代だったのです。見えない世界を否定していました。知らないことを以て。そしてどうなったのでしょうね。普遍の愛から遠ざかったのでした。そしてそれを民に吹聴増殖しました。時代の流れがあります。私たちは何を求めていたのだったのでしょうか。感覚器官の満足だったのでしょうか。それで本当の幸せはあるのだったでしょうか。だれもが反省の頃となりました。

この世の支配力に、権力、武力、金力があります。権力は市民革命で克服されました。武力は原爆で克服されました。これを以て日本は現代戦争は国家間の紛争解決手段として無価値であることを知りました。そして今、金力が克服されようとしています。それは本当の幸せから遠ざかる反力として機能していたのです。唯物的精神の反省の頃となりました。

私たちは幸せになるために生まれていました。本当の幸せは何だったのでしょうか。欲望の現実化が政治の定義だとされていました。それが見直されつつあるのではないでしょうか。高いレベルへ移行するのです。それが21世紀の約束でした。全体のボトムアップです。

経済は下部構造です。その行為は価値的にあまりにも低レベルだったのではないでしょうか。公害もありました。あらゆる文化的価値が見直される頃となりました。

芸術とスポーツに何故価値があるのでしょうか。精神を何に使うかです。野蛮ですか。洗練ですか。そして創造力とは何だったのでしょうか。自己表現活動だったのです。その意味で、知らないことを以て教育の失敗があったのかも知れません。教育の目的は何だったのでしょうか。ルソーのエミールは教育界ではバイブルとされています。その中で例えば、子供は勉強しなくて良い。遊ぶことが子供の領分であるといった内容があります。しかし、ルソーには私生児がありました。考えるべき時です。それで良いのかどうか。

彼はいっていました。正直者の頭に神は宿ります。聖母マリアはなぜ処女だといわれたのだったのでしょうか。マリアは自分の子供が神であることを知らなかったからだと彼はいいます。そして神は処女の子に宿ります。さて、未来を創造する頃となりました。その時です。

神とは何だったのでしょうか。創造力と愛だったのです。この世はすべて神のゲームだったと彼はいっていました。神は実在として絶対自由であり、幸せです。神の本質は喜びです。常に楽しんでいます。

人間は神の似姿として創られ、神の七つの力も賦与されていました。しかし、それに気づけないままだったのです。目に見えることだけしか信じることができなかったからです。そうした時代がしばらくありました。

人間の時代の前に恐竜の時代がありました。恐竜として幸せ(神の愛)を求めていたのです。恐竜の時代は失敗しました。チラノザウルスが現れて、テクニカルファールとなりました。そしてほ乳類として再び、神のゲームに参加する資格を与えられ、人間に至ったのです。人間も恐竜と同じ轍を踏むのでしょうか。今こそ分岐点かも知れません。私たちは人類として、神の喜びというゴールに至ることに成功することができるでしょうか。

仮定として、神の属性が与えられていました。それが、オーム(聖音、アーメン、言葉[ロゴス])であり、時間であり、空間であり、宇宙原子だったのです。先ず、これらを理解し、そしてどのように組み合わせて証明するかです。そのために、それぞれの要素の属性を調べなければならないのでした。その作業が科学であり、宗教であり、あらゆる学問でした。しかし、人類の営みはまだ、最終段階(神の愛、パスカルのいうアガペ)に至っていなかったのでした。今、それを知る頃となったのでしょうか。そういう時代であるのかも知れません。知ることこそ、大切だったのです。

そして不幸の原因を知り、これより逃れることができるのです。原因がわかれば解決があります。それが解脱であり、本当の自由だったのです。私たちが求めていたのはそれだったのでした。

それは、物質的感覚器官の喜びからの脱却でした。しかし、感覚器官の喜びを断ずるのではなかったのです。感覚器官の喜びは、本当の喜びがあることを知るための前提だったのです。感覚器官の向こうに本当の喜びがあります。それが神の喜びでした。これが神の計画だったのです。この苦しみを通らねば、至ることはできなかったのです。

西洋思想は19世紀に没落していたといわれています。それは物質的快楽におぼれていたからではなかったでしょうか。そしてアンドリュー・カーネギー氏に始まる教育としての現代西洋成功哲学はそれを克服しています。それは明確な目標とマスターマインドでした。そして成功するために必要だったのが、人格でした。特に大切なのは、感情のコントロールでした。そして成功を、ビジネスを通して確かめようとしました。

しかし、本当の幸せはお金ではなかったことは、成功して知るところとなるのです。だから、多くの大富豪は教育に投資するのでした。

自由を求めて移民したアメリカの祈りは何だったのでしょうか。それは、いくら子供の時に貧しくても、いつまでも貧しくある必要はない。そして、いくら子供の時に教育を受けられなくても、いつまでもそれを受けられないのではない。彼らの理念の奥底にあったのは、どんな悲しみにもそれと同等かあるいはそれ以上の喜びの種が宿されているという代償の法則でした。

フランス革命の頃、多くの埋もれた啓蒙家たちがいました。その代表がルソーであり、ロックであり、モンテスキューでした。時代のエートスがあります。レオナルド・ダ・ビンチの夢はことごとく実現しました。その夢は、ダ・ビンチ一人の夢ではありませんでした。その時代の多くの人たちの夢の集大成でした。私たちは今、新しい時代の本当の幸せのために、その後見つけた多くの夢を集大成する頃でしょうか。

あらゆる存在に二面性があります。神もそうでした。それが反力としての創造力であり、引力としての愛だったのです。反力とは、本当の喜びから遠ざかろうとします。引力とは本当の喜びに引き寄せる力があります。神の本質は喜びでした。

オームとは聖なる音であり、白隠禅師はこれを隻手の音声といったのでしょうか。それが祈りであり、願いだったのです。それはいつか実現します。思考は現実化するのです。すべては黄泉で決します。いつか現実にしみ出してきます。時間とは、本来変わらない目に見えない普遍的な何かを目に見える変わる形として一時的に現出する限られたその時です。何を現出するのでしょうね。神の愛でしょうか。悪魔の計画でしょうか。それとも人間の思いですか。

そして、空間とはそれを現出する限られた場だったのです。その要素は宇宙原子でした。宇宙原始は神の愛である聖霊に触れて宇宙磁化し、二極化します。その時、プラス思考とマイナス思考が生まれるのでしょうか。あるいは創造力化し、あるいは普遍の愛へ向かうのでしょうか。これらの四つの要素は仮定として私たちに与えられていたのです。先ず、これらの意味を知る必要がありました。知らなければ何もできません。

さて、神は愛だったのです。それが霊化されて精霊となります。それは目に見えません。見えないものは信じられない時代がしばらくありました。しかし、現代素粒子理論によると、ビッグバンの時に吹っ飛んだ、目に見えないクオークがあるといいます。あるいは光だったのです。光は言葉であり、神だったのです。あるいは波動でした。

彼は人間関係は同レベルで触発するといいます。さて、私たちも含めてあらゆる存在を構成する要素としての宇宙原子は、精霊に接して、二極化します。その時、反力として働くのでしょうか、あるいは引力として働くのでしょうか。重大な選択があるのです。ここに、善と悪が生ずるのだったでしょうか。もとはひとつ=神の性質でした。私たちはどちらに赴くのでしょうか。失敗すれば滅びます。それが淘汰です。成功すれば、神の至福の喜びに至るでしょう。あらゆる存在に二面性があるのでした。

ところで何故、不幸があるのだったのでしょうか。真実を知らなかったからでしょうか。不幸へ赴く原因を知らなかったのです。それがマーヤ=無知の仕業でした。あるいは魔の仕業でした。

この世はマーヤの創ったものでした。マーヤはその存続を願っていたのです。そして私たち人間も、マーヤの幻惑を現実だと思っていたのでした。人間よりもマーヤの方が力があります。そのままでは気づくことはできません。それで真実を認めたくない自分がありました。本当の幸せはないと思っていたのです。

しかし、いつか時が来ます。だれかが気づいて、それを証明すれば、それは定理としてだれもが使うことができます。物質的喜びを喜びと思っていたのでした。それが五官の満足だったのです。それは反力として作用したものでした。物質世界にとどまる限り、不幸となるのでした。本当の幸せにどのようにして至るのだったのでしょうか。引力としての普遍の愛に従うのです。

しかし、どうして不幸があるのだったのでしょうか。神が愛であり、仏が慈悲である限り、だれもが幸せになるべきではなかったのでしょうか。この理由がわからなかったのでした。しかしこの度、気づいたのです。それが神のゲームだったのです。ここを通るしか至れないのでした。そしてだれもがいつか必ず至るのです。この世で至ることもできるのです。

私たちは本来、何だったのでしょうか。白隠禅師は、衆生本来仏なりといいます。どうしてこの世は困苦に満ちているのだったのでしょうか。過去からの因縁だったのです。どうして自信を失い、優柔不断となっていたのでしょうか。それは私たちが過去の失敗の記憶に縛られていたからです。それでいつまでも迷っているのでした。

これより自由となりましょう。失敗しても良いのです。迷っても良いのです。失敗からしか学ぶことはできません。迷うから真実が明らかになります。だから、これを知っている人は、失敗にも迷いにも寛大です。寛大でないのは自己利益追求主義者たちです。

善とか悪とか思います。神にとっては善も悪もないのです。故に六祖は不思善不思悪を問題にしています。ヴァガバッド・ギーターは、戦場で戦う意味を説いています。日本には、武士道は死ぬことと見つけたりということもありました。私たちは本来、本源のエネルギーだったのです。死んで再び、私たちはそれに帰ります。その時、魂は不滅です。私たちの本質は魂でした。何を憂えることがあったでしょう。ありはしないのです。

この世で処したる人生の経験と記憶は魂に刻まれます。来世はそれより始まります。そしてゴールを目指すのです。ゴールとは何だったのでしょうか。神の愛でした。パスカルはいいました。人間は考える葦である。その葦を通して宇宙を見る。パスカルもそれを指摘していたのではなかったでしょうか。

私たちはゲームに参加していたのです。試合に勝つことを考えればいいのです。そのための練習をすればいいのです。勝てば、褒美もあります。これはゲームだったのです。

だから負けることもあるのです。ゲームである限り、ルールがあります。それを知らなかったのでした。ルールを知らなかったので、勝手してきたのです。テクニカルファールもあるのです。

すべて二面性があります。心より仏を出すのでしょうか、魔を出すのでしょうか。自分次第です。当然の帰結としての結果があります。

世間が評価するのは目に見える結果です。しかし、プロセスとしての失敗があり、迷いがあります。故に、教育はプロセスを大切にします。それが唯一の正しい道であることを知っているからです。

思うだけでは実現しません。実行するためには自信と勇気を要します。幸せになるのですか。不幸せのままとどまるのですか。方法があります。学ぶしかないのです。

そして実践です。馬鹿になることが幸せではあり得ません。これを無視していたのです。創造化の時代となりました。新しいルールが見えてきたのでしょうか。

そして彼はいっていました。本当の幸せとは、黄泉の受容祝福守護でした。黄泉にも好みがあります。それが道元のいう、花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。どういうことでしょうね。わからないですね。あるいは認めたくないのです。

そしていつか思い知るのでした。その時が来ます。それは自覚を要すると彼はいっていました。