愛と自由そして平和への序章

2010.02.11

この世は如何なる代だったのでしょうか。R・ナイチンゲール氏はいっています。自分は成りたい自分に成っている。彼は何に成りたかったのでしょうか。何を探していたのでしょうか。それは成就したのでしょうか。過酷な人生があったといいます。あらゆる希望を失うに十分でした。それは十九の春のことでした。

さて、仏は何を説いていたのだったでしょうか。それは何のためだったのでしょうか。有限である言葉では永遠を表現することは出来ません。この度、彼は気づいたのでした。仏法は仏法でない。故に仏法である。まるで、鈴木大拙氏の即非の論理です。

これを理解する者がどれだけいるでしょうか。仏法は仏法を否定していたのです。真実は真実を否定し、故に真実だったのです。それがわかっていなかったのです。これを確認することが、この度の生を受けた意味だったのでしょうか。それはまた、21世紀の約束だったのです。

今、これをしなければならなかったと彼はいっていました。そして彼は救われたのでしょうか。何も気にならなくなったといいます。どんなに現実が悲しく、辛いものであったとしても、明日を信じることが出来るのです。

善因善果、悪因悪果。それは良いとか悪いとかということではありませんでした。正しい方法であれば、正しい結果が得られ、間違った方法であれば、困った結果となるだけです。是非ではなく、どこまでも困ったことにならないようにしようということだったのです。

困っているとすれば、過去に間違いがあったのです。それを見つけて修正すればいいのです。それだけのことでした。

仏とは、限りない知性と、大威神力でした。仏から見れば、当然困ることになることを正しいと思っているのが人間です。憐れで仕方ないのです。

優しい風の慰めを素直に感じることが出来るようになりました。仏法、それは自分のためにしないということでした。そしてそれぞれ自分の本分を尽くすことでした。平等即差別といわれます。それで良いのです。

そして皆が幸せになればいいのです。それが桃源郷でした。自分一人セレブになっても意味がないのです。既に、過去の王侯貴族が証明しています。ギロチンがありました。祇園精舎の鐘の声です。秀吉などもってのほかです。

こうしたことを理解することが、隻手の音を聞くということだったのです。白隠禅師は、衆生本来仏なりといいます。仏法は一切衆生悉有仏性といいます。私達は本来、それぞれ仏性を持っていました。そして十人十色です。みんな違います。それぞれの違いを認めて、和行すればいいのです。聖徳太子が既に、和を以て尊しと成すといっています。

故に裁判官も良心に従って、裁判所として判断します。良心こそが仏性でした。それに随えばいいのでした。これに反して、自分のためにすることが、自己利益追求だったのです。そのメカニズムがどうにもならなくなったとき、戦争もありました。あまりにも野蛮ですね。

あらゆる心理学者及び著作家が反省を余儀なくされています。精神科医などもその例外ではありません。知らなかったのです。一切の怠惰が諸悪の根源だったのでした。

だからといって出来ないことはしなくて良いのです。平等でありながら差別がありました。それぞれの本分を持ち寄って、働き=徳分とするのです。その時、それぞれの達成感があります。

その時、幸せを感じるでしょう。個々の幸せの総体が平和といえるのではないでしょうか。それが本当の幸せではないでしょうか。

しかし往々にして嘘と暴力で一元化しようとします。それは今、お金こそ力です。何か勘違いしていましたね。パワーがシフトします。お金から愛へ。あるいは良心へ。

反省する頃となりました。衆生本来仏なり。あるいは、一切衆生悉有仏性。それぞれ具足していたのです。あるのにないと思っていませんでしたか。そうであるのに、他人の赤烏帽子だったのでした。

松は松であり、櫻は櫻です。椿は椿です。檜もあれば翌檜もあります。それで良いのです。千差万別、十人十色。平等即差別。そしてそれぞれの本分を尽くす。

本分は既に自己に内在していました。仏法が仏法を否定していました。仏法は真実というのは、どこまでも衆生を導いて悟りを得させるためでした。

仏法からすれば、仏法もまた夢でした。そして仏法です。ここに永遠の幸せがあります。それが例えば、廓然無聖でした。天晴れ天の証明です。

是非はないのです。何をしても良いのです。しかし、制限がある。このあたりを見直しませんか。それが出来る時代となりました。

何を勘違いしていたのでしょうか。自己利益追求の時代は終わりました。これより、時代はシフトします。新しい物語の始まりです。それぞれの本分を尽くす。それが仏法だったのです。

彼は驚きました。何を驚いたのでしょうか。仏法が仏法を否定していたのです。即ち、仏法は仏法でない。故に仏法である。これが即非の論理だったのでしょうか。

ペリー来航以降、それに乗じて勝手が過ぎましたね。本来日本が培っていたものがあります。それは自分のためにする思想ではありませんでした。

武士道は死ぬことと見つけたり。この本意をいえる人がありますか。故に、君が代斉唱、国旗掲揚です。何を粗末にしていたのだったのでしょうか。黄泉の受忍限度を超えたようです。黄泉とは祖先の総体でした。

いわばテクニカルファールです。真実とは何だったのでしょうか。前世があります。来世があります。無神論者の支配がしばらくありました。全共闘の自由を自由と思った時代がありました。そろそろ年貢の納め時です。誤魔化せはしません。

あらゆる知識階層及び経済的支配者は反省する頃となりました。同族企業大手の方々は、株式を公開することなく、社会制度にただ乗りしていませんでしたか。

代々真実とは何だったのでしょうか。本来神国日本、神風も吹きます。風神雷神です。神仏は実在します。知らないことを以て否定していました。そして勝手していたのです。

何時か時が来ます。今、その時です。まだ汚れていない方々は幸いです。あなた方は真実を知るでしょう。ここまでこなければわからなかったのでした。今、わかったのです。トヨタ方式もおかしなことになりました。何故でしょうね。それぞれ、反省する頃です。

そして始めましょう。未来は明るいのです。無欲、無心、身心清浄。無一物中、無尽蔵。

この世は如何なる代だったのでしょうか。これより明らかとなります。何を貶めたのだったでしょうか。あるいは裏切ったのでしょうね。

この謎を解くために生まれ、埋もれた人生もあります。彼を粗末にするべきではなかったのでしょうね。故に彼は至ったのでしょうか。何処へ至ったのでしょう。黄泉に好みがあります。トラトラトラ。情報は発信したところに集まります。何時の代もそうでした。