恐怖からの自由

2013年12月22日


  • 人間にとって最も恐怖であるのは死ぬことである。死んでどうなるのであるかわからないからである。知ればすべて解決する。知らないことを以て否定しても事実は事実である。そして不安からのがれることはできない。この恐怖からどのようにして自由になるのだったのか。本来日本はそれを知っていたはずである。いつの間にか見失われている。どういうことだろうね。死んで死なない。魂は永遠不滅であるからである。ギリシア哲学において最大のテーマはプシケーの問題だった。すなわち、輪廻だった。だから、この世での旅は決して旅の恥は書き捨てではない。あの世に帰ってこの世での草履銭がきっちり請求されるだろう。それが地獄の意味するところである。煉獄で魂が鍛え直されるのである。そして再び、この世に戻って修行する。いつかゴールとしての神仏に至るまで。宇宙はそのようにできている壮大なゲームである。あの世に持って行けるのが何であるのか、想起するがいい。お金を持って行けるだろうか。目に見えるものが持って行けるだろうか。この世で修行している。何を修行しているのだろうね。日本は本来、すこぶる精神を尊重してきた。それがどうだろう。いつの間にか物質的な価値しか価値として評価できなくなっている。あの世へ精神を持って帰る。あの世において評価されるのは精神である。知性である。感性である。目に見えないものである。これを知ってこの世での恐怖より逃れるのだった。なぜ死が怖いのか。そのように造られているのであるか。死んだらそれでこの世での修行ができなくなるからだった。だから、自殺など以ての外である。経済的理由で自殺なんかしなくていい。白旗を揚げてバンザイすればいい。命まで取られはしない。家康も三方原では命からがら逃げている。死んでも死なない自分がある。死ぬまでがこの世である。どうして生まれてきたのだったのか。この世で何をするべきだったのか。何を探すのだったか。お金ではなかったのは確かである。お金を通して探していたものがあった。大富豪もあらゆる苦難および屈辱の後、大富豪となって初めて、求めていたものは金銭ではなかったことに気づく。求めていたものは愛だったとする。愛に三段階あることを説いたのはパスカルだった。最高の愛はアガペだった。それは神の愛だった。仏においては慈悲である。だれに愛されたいのだったか。彼女であるか。伴侶、子供達であるか。本当に愛されたかったのは神仏によってではなかったか。神仏に受容され、祝福されることではなかったのか。ニーチェ以降、神は死んだと思っていないか。その方が都合がいいからだった。キリストをも処刑した論理である。私たちは今度こそ、幸せになるために生まれている。その要件は何だったのだろうか。だれもが幸せであるとき、その中の自分も必ず幸せである。自分だけが幸せであってもそれは本当の幸せではない。ならば、派遣切りなどするべきではなかった。その報いはある。権力ではなかった。それは市民革命によって克服されている。武力でもない。それはヒロシマによって無価値となっている。それでも戦争の準備をするのであるか。金力でもなかった。金力で何をしようとしているのであるか。お金自体に善悪はない。サミュエルソンの教科書に書いてあった。お金で作るのは大砲であるか。それとも、バターであるか。税金はどこに流れるのであるか。大企業である。庶民に流れてくるのはどれほどであるか。現代支配階層の巧妙な支配が見抜かれている。それは、金銭を媒体とする庶民としての労働者支配だった。封建制においては、土地を媒体とする農民支配であったように。庶民の解放の時代となっている。それは市民解放、奴隷解放、女性解放の次に来る約束だった。時節因縁が満ちたのである。何を以て解放するのであるか。精神である。時代はそれ故、混沌としている。嘘と暴力の野蛮を前に打つ手がないかに見える。子供達がそうである。だが、やがてそれも収束する。満ち潮と引き潮である。さて大切だったのは、精神だった。新井白石は『鬼神論』において、神とは精神であるとしている。自由になろうね。なれるよ。生命体は進化している。あらゆる存在の自由および平等の方へ。第三次生物多様性国家戦略もそうである。その概念は、戦争に負けて学んだ。大きな代償を支払って。そしてそれらの個人の尊厳に基づく諸理念が日本において根付き、開花結実している。世界において今、最も自由で平等な国であると言えるだろう。それが戦後、日本に託されていたのだった。日本は見事にその約束を果たした。使命を果たしたのである。ここに日本国の存在理由がある。本来日本は神国だった。それ故、コルト・レーンは日本にあこがれ、日本に来て神になりたいと思っていたのだった。マルコ・ポーロの東方見聞録もそうだった。いつまでも物質文明の中で浮沈する必要はない。とりもどすべき精神がある。本来日本がある。そしてそれを以て世界において重要な地位を占める。発信すべきはそれである。日本とはそういう国であったのである。そのために安全と安心をとりもどさねばならない。場合によっては、司法も積極的にならねばならない。一部支配階層のために国および国民があるのではない。国民のために国がある。日本に生まれてよかったですね。善くも悪くも未来は既に人間の責任段階となっています。本来私達人間には神の七つの力が賦与されていました。開発確認するべきはそれだったのです。しかしその力は封印されています。それで何をするのだったか明らかではなかったからです。それで何をするのだったのでしょうか。だれもが楽に易易と暮らしてゆける社会を実現するのでした。生命体は限りなく自由と平等を目指していたのです。それが生命体としての進化傾向です。これが第四の波としての創造化の意味するところです。それは庶民の解放だったのです。庶民とは善良な市民です。いつまでも大本営発表、朝三暮四ではありません。時は至ったのです。そうした概念が日本に伝えられ、それが実現するのです。仏法も東漸したように。そして未来は明るいのです。新しい時代です。準備は調いました。始まりです。みんな違っていていいのです。それが多様性の概念の意味するところです。そしてそれぞれが個性を十全に発揮するのです。それが自己実現であり、幸せの形です。悪はなさない。新たな困苦の原因となるからです。問題行動および非行は無価値です。何か勘違いしていませんか。おもしろければいいとするお笑いがテレビを席巻した結果です。何をおもしろがっていたのでしょうね。いじめと下半身を露出することですか。子供達は惑わされています。大反省を要します。世界は軽薄を好みません。私達は幸せになるために生まれています。馬鹿になることが幸せではありません。政治学の常識として民主主義は衆愚化します。修正すべきはそれです。馬鹿になることで私達は支配されていました。それは恐怖を以てする支配でもありました。知性を以てあらゆる恐怖の実体を分析し、理解することで恐怖から自由となるのです。そして新しい時代が始まりです。


信を以て入ることを得たり

2013年12月22日


  • 何を信じるのだったろうか。それで人生が決まるのだった。悪はなさない。その結果を甘受しなければならなくならからである。条件が調えば思いが現実化する。それが縁によって生ずるということだった。思いが原因であり、現実が結果である。「諸悪莫作・衆善奉行」の意味するところである。ところで中村元氏は言っておられた。「宗教は何でもいい。真実を見ればいい」。そうであるならどうして宗教を理由に戦争などするのだろうか。宗教を権力闘争の手段として使っているに過ぎない。剣を以てする宗教はあまりにも野蛮である。また、自分の宗教が最も優れているとして、他の宗教を誹謗するのはどうなのか。争いとなる。真実は一つである。それぞれ己の至った段階があるのは当然である。それを以て他の宗教を一般的に貶める理由にはならない。一実の道とは仏は滅し給わずということである。真実は神仏が実在するということである。人間にかかるとどうしても自分達の利益のためにバイアスがかかる。それが原因となってどのような結果となるのか。あな恐ろし。