素直な心で

2009/09/28

  • あなたは何を求めていますか。何になりたいですか。そして、何を思っていますか。私達の本体は魂でした。この世は魂の遍歴の一こまです。この世に生まれて実現するべきは何だったのでしょうか。戦いですか。殺戮ですか。欺罔ですか。裏切りですか。それとも愛ですか。やさしさですか。おだやかさですか。あなたの求めているモノは何だったのでしょうか。心静かに、心と対話してみると、やはり求めていたモノは、愛でした。やさしい関係でした。それはあるのでしょうか。世の統計によると、夫婦のほとんどは伴侶に不満とか。それで夫婦は所詮無関係だなんていいます。そうだったのでしょうか。本当の願いは何だったのでしょうね。ぼやくことが人生ですか。いかにも寂しい。それは山頭火より寂しいですね。やさしさはあります。おだやかさもあります。神仏がいると信じることができますか。できませんね。何故でしょうね。知らないからですね。しかし彼は、神仏は実在するといいます。そして確かに如来が手で頭を撫でるといいます。どういうことでしょうね。おだやかなやさしい風の慰めでしょうか。あるいは清らかな夜空に響く秋の虫の音でしょうか。美しい風景が待っている。やさしい人間関係が訪れると彼はいいました。それはあるのです。やさしさに出会いたいですね。おだやかに暮らしたいですね。それもあるのです。心の静けさと共に。あなたは何を求めていますか。愛ですか。やさしさですか。男は女に何を求め、女は男に何を求めているのでしょうね。例えば磁石にNとSがあります。NとNでは反発します。SとSとでもそうですね。NとSは引き合います。本来男と女は引き合うのです。しかし何故か反発しますね。何故でしょうか。それはレベルの問題でした。求めているモノは愛ですね。やさしさですね。しかし相手にそれがないと思う。それで反発が起きる。それでは何故そのようなことになるのでしょうか。自分の心が求めているモノがある。それが満たされない。それが原因です。しかし完全な人間なんていませんね。所詮、この世では心は満たされないのでしょうか。割れ鍋に綴じ蓋ともいわれます。心の求めるモノは理想です。しかし現実にそれはない。あるとすれば神仏です。しかし神仏はないと思っている。こうして不信と不満のスパイラルに陥っている。さて、どうすればいいのでしょうか。何故茲に満足が得られないのでしょうね。それは偏に己にあったと思いませんか。もしも己の状態が理想であれば、理想の相手を得ると思いませんか。己の現実と己の理想のギャップが原因であるのに、それを相手に転嫁しているのではないですか。菩薩には菩薩の伴侶があるといいます。佛には佛の伴侶があるのでしょうね。であるなら、この不満の解消は、例えば己が佛になるしかないのです。如来に出会うためには、己が如来のレベルに行くしかない。そして大切なことは、この世に身を受けた今こそ、それも実現できるということだったのです。やさしさが欲しいですね。愛が欲しいですね。どうすればいいのでしょうか。己がやさしくなる。己が愛となる。それしか方法はありません。しかしそうではないと思っています。ダビンチの夢は悉く実現しました。無より有となります。宇宙とはそういうふうにできています。思考が現実化するのです。それでは、何を思うのですか。やさしさです。愛です。宇宙にとって、物質も精神も同じです。どちらも存在します。しかし私達人間は、有るモノは有ると思い、ないモノはないと思う。ないモノもあるのです。茲に気づくことが21世紀の約束でした。そして幸せになるための方程式が解かれたのです。わかりますか。わかる人はわかります。わからない人はわからないのです。しかし今、誰もがわかる時を迎えたと彼はいいます。因って、殺戮の時代が終わります。第二次世界大戦は通らねばならなかったのです。原爆の火もくぐらなければならなかった。経験しなければわからない。失敗しなければ気づけない。悲しいですね。そして今、新しい時代となりました。私達はこれから何処へ進むのでしょうか。常に未知なる世界です。その中で、知恵を働かせて生きて来たのです。今もそうです。これからもそうです。それが生命体としての進化傾向でした。馬鹿にもどるのですか。そうはいかない。心に素直になって、自分は何を求めているのか見つめませんか。何になりたいのでしょうね。どのような人生を歩みたいのでしょうね。問い直すべき時です。そして未来を描くのです。描いたなら、邁進ですね。それで良いのです。そして不具合も出てきます。亦、考えればいいですね。男と女。本来、引き合います。しかしレベルの問題がある。それは相手に対してではなかった。自分の心の理想と自分の現実の姿のギャップだった。それが相手に投影されていた。それが実体だと思った。問題点が明らかとなりましたね。相手を責めるわけにいかなくなりました。国家間においてもそうです。己を己の理想に近づけるしかないですね。そしてその時々にふさわしい相手が来る。腐敗と堕落が人生ではないとするところです。さて、どう生きますか。だからといって、理想ではない自分を否定する必要はありません。夢の実現過程とするところです。いつか至ります。必ず至ります。誰もが至ります。何処まで至れるでしょうか。楽しみとなりましたね。そして時代を開くのです。きっと良い時代となります。時代は開かれました。知性一番槍の仕事でした。 さて、生老病死の不安があります。これが煩悩の根本原因です。これよりあらゆる不安と悩みがあります。これより解脱して自由を得ることを求めたのがインドの釈迦でした。そして釈迦は気づいたのです。菩提樹下端座すること、六年のことでした。その間、苦行もありました。そして中道を説きました。どうすれば解脱自由を得られるのでしょうか。それはね、生死に対する考え方にあるのです。つまりこの生死が本来ないのです。しかし我々人間はこれに囚われていた。生死を越えよ。これが仏法のすべてです。これがわかればすべて解決します。どういう事でしょうね。それが私達の本体は魂であったとするところです。これを知る事です。私達は知らなかったのです。だから迷う。信じられない。どういう事でしょうね。修行するしかないのかも知れませんね。亦、一切衆生悉有仏性といわれます。このあたりを合点するしかないですね。魂は不滅です。質量保存の法則がありますね。魂保存の法則もあります。こうした事もまとめておくべきかも知れないですね。その必要もないのかも知れません。何故その必要はないのでしょうか。それは概念ではないからです。そして知る人は知るからです。知らない人は知らない。佛となるにはどうするか。法華経に書いてあります。即ち、菩薩を集めて教化する。それだけでは足りません。何が足りないのでしょうか。前世の功徳を要するのです。即ち、前世に於いてどれだけ佛を供養していたか。これが重要な要件です。亦、例えばデカルトのコギトエルゴスムがあります。この意味もどのレベルで理解されているのでしょうね。哲学は宗教ではないと一刀両断していませんか。哲学も宗教で、知ればいいのです。真実を。宗教もその意味で哲学だったのです。何故でしょうね。佛とは完成した智慧と大威神力でした。およそ法華経自ら止みなんとするところです。一実の道を説くべきを三乗と説く。ところです。相手の魂のレベルに応じてしか説けません。それが宜しきに従うとするところでした。しかし私達人間は、わかっていると思っている。この思うところで不可議に落ちている。わかってはいない。わかっているなら、このような世の中になっていない。彼はいうのです。わかる時代となった。そしてどうすればいいのだろうね。それが問題だね。略開近顕遠。広開三顕一。