呉の歴史について

 最近になって、祖父(呉男子校で訓導、晩年は広陵高等学校で七十歳まで勤めた)の筆跡で、「永久保存、(昭和)43.4月21日」、とある、『呉市暦年表』が出てきた。昭和43年というと、私は小学6年だった。その頃の校長先生が、呉の歴史を研究されていて、自費出版もされていた。呉市は明治になって開発され、江戸の頃には、漁師の家が数軒あっただけだと聞いていた。しかし、市史編纂室調、呉相互銀行印刷室作成のこの書によると、原始時代の土器の出土及び、古墳時代の遺跡が確認されている。このギャップには驚いた。私は知らないままだった。とても象徴的である。新書版で、『正統と異端』という本、NHKブックスで『歴史を見る眼』という本があったけれど、何が言いたかったのか、今頃になって気づいている。しかし、偶然というにはあまりにもリアルな経験をし過ぎている。悲しいね、リフレクション。さて、仏を出すか鬼を出すか、自然が思案してるよ。自然も優しさの周波数に気づく頃、21世紀を明るきから明るきへ、本当の幸せへの方向付けをしたがってはいるようだ。だが、人間の愚かさがついてこない、と、嘆いているようだ。選択の自由、その意味は、極楽への道か地獄への道か、結果は必定。さて、どうするのかな、人類は。呉にあり、独座大雄峰!

大麗女島(おゝうるめじま)

【呉市暦年表】

総説 呉市の足どり

原始時代と古代

  •  呉は芸予叢島を前に眺めながら、多くの岬の曲折する長い海岸線をもって延びている都市である。背後は100m~150mの標高に一躍とびあがった台地をかゝえている。こうした複雑な地表の上に、また複雑な史実が刻み込まれ、似たような歴史が宿命のように繰り返されて来た。2,000年以上もの原始時代には、吉浦地区から弥生式の石斧が2個も出土した。弥生土器の破片も吉浦と広(ひろ)とから出た。だから既にその頃から我が呉は人類の居住地となっていたことが知られる。弥生式の次の土師器(はじき)と須恵器(すえき)とが少量だが出土していることは、古墳時代の遺物として注意される。前者は大麗女島(おゝうるめじま)、後者は横路(よころ)、立石(たていし)情島、池浜から出た。今では古墳が遺っているのは情島である。小さい島の上に横穴式石室古墳の存在することも面白い。
  •  古代に入ると、和名抄で阿賀の語源の香津(かがつ)と船木(ふなき)が現われて今の呉の中に2つも古地名が指摘される。鍋地区に平安時代の観音像があることなどから平清盛と音戸の瀬戸の伝承に多少のつながり、つまり平安朝文化のわが地方への流入が考えられる。源頼朝が京都府下の石清水(いわしみず)八幡宮のための荘園を呉保(くれほ)の名で寄進したことは古文書(こもんじょ)の上で知られているから、それやこれやで、ずい分古くから書かれた歴史の上にあらわれて来たわけである。

中世と近世

  •  足利尊氏は九州から東上の時、音戸の瀬戸を通過し、南方安親(みなみがたやすちか)は南朝へついて伊予の北朝勢を討ちに呉から出帆し、今川貞世(いまがわさだよ)の旅行記にも大内氏の法津にも呉の地名が記されている。応仁の乱には西軍につくために呉地方から出征し、更に戦国兵乱の際には呉湾上で白井氏の軍と海賊とが戦ったり、呉の末永常陸介(すえながひたちのすけ)らが厳島で陶晴賢(すえはるかた)の軍を敗走させたり、或いは石山本願寺合戦や大阪夏の陣へ呉から将士が加勢に出かけたりしている。
  •  近世、つまり江戸時代にはいると、先ず、安芸の国を領した福島正則(ふくしままさのり)によって、領内の耕作地と屋敷地が調査された。これを慶長6年の検地という。その時の検地帳が呉にものこっている。伊能忠敬(いのうただたか)が瀬戸内海の北岸に沿うて測量した時にも呉の各所が測量されている。この時、はじめて呉地方の正しい地図ができたのであった。
  •  広島藩が山間や海べりに耕地を開くように命令を出した時、はじめて呉地方では野呂山(のろさん)の頂に近いところに開墾地をつくったり、広地区その他に干拓して新開(しんかい)をつくったりして、今の市街地の基礎が出来たのであった。米、麦、綿などが沢山生産されるようになり呉市の前身を成した14の村落にも流通経済がかなり行われるようになった。
2005年12月24日