人格形成責任(国家論)

2011年12月09日

  • 犯罪の要因は、素質と環境であると言われていた。さらに今、人格が加わっている。同じ素質と環境下であっても、人格形成に成功した子どもは犯罪を犯すことはない。たとえ少年期特有の一過性の非行があるとしても。若い頃、体制及び権威性に対して反抗を試みるのはだれもが経験するところである。大人はそれを受けとめなければならない。そして毅然と対処して、本来の規範意識の醸成に寄与しなければならない。そして次世代を担う男子を育成する必要がある。いつしか大人がそれを失っている。特にテレビ界の罪がある。あらゆる本来の価値観をお笑いにしてしまった。子どもたちは彼らの価値観に染められた。それはまた、本来の価値観の有用性を知る者たちの傍観による怠惰でもあった。また、40歳を過ぎても社会に対して反抗的であるなら、これは単なる馬鹿である。リンカーン大統領にある人が紹介された。しかし何時までもその人を採用しようとしないので、その理由を問うと、40歳を過ぎれば自分の顔に責任を持つべきであると答えた。現代学校教育は、生きる力の育成から、人格の形成を希求する子どもの育成へと変遷している。人格形成責任を説かれたのは団藤重光教授だった。学校に今、問われているのは学校としての品位であり、各教師の人格と品格ではないだろうか。確かに家庭及び地域の社会的規範力及び子どもの育成能力が低下している。それは偏に、価値観の多様化に伴う自信の喪失であろう。ここに、テレビ界の罪があったのである。個々の大人がそれぞれに確乎とした自信を取り戻す必要がある。失われていたのは人格形成責任だった。企業が自己利益追求のために何か大切なものを見失っているのは、その例外ではない。本来の価値観を取り戻して日本は再生する。日本は滅びはしない。日本男子がこれでよいはずがない。テレビ界に惑わされないことである。一人ではない。神仏が導く。眞實とは神仏の実在だった。