本当の実力の時代

2012年04月30日

  • 大学は出たけれどとかいわれた時代があった。全共闘による破壊の時代もあった。サリン事件もあった。反対すれば良いというのではなかった。創る人と壊す人をテーマにした小説もあった。それらは一つの力の両面だった。そうしたものであったのである。力とは何だったのだろうか。それを知らずにしばらく時代は過ぎ去った。そして今、本当の実力が必要となった。そうした方々は今、埋もれている。何故だろうね。それが不思議である。これからいよいよ、彼らの活躍の時代となった。本当だよ。地位ではない。名誉でもない。お金でもない。資格などでもない。まるで、西郷隆盛である。経済はグローバル化して安価な商品が流通し、デフレの世、普通の人では就職はない。モノ余り、豊穣の故である。有能な人しか生き残れない。力があれば良いというのではなかった。それで力ある人は、世の中での実践を畏れた。力を発揮して、罪となすこともあるからだった。かの戦争がそうだった。無謀な試みだった。盾となったのは庶民だった。世のため人のために力を尽くすとして、何をすれば良いのであるか。それがわからない時代だった。それが、戦後だった。そして戦後も失敗したのである。新しい時代を迎えた。新しい時代のパラダイムの形成を必要としている。それは何だったのか。津波があった。日本人の心が変わった。お金ではなかった。しかし、お金は大切である。何だったのか。お金の支配ではなかった。お金を支配しなければならない。デフレは続く。その中で、何を以て幸せとするか。古い人にはわからない。わからずに支配している。不退転ということがある。そこに至って自信を回復する。仏も仏の修行があって仏となった。仏とは人格の完成だった。仏となって自ら神の七つの力が賦与されていたことに気づく。それまではわからない。腐敗堕落が人生ではなかった。ばかになることがしあわせではない。それなのにテレビは尚、大衆レベルに迎合して不安をテーマとしている。そしてますます大衆が惑わされる。さまよえる民となった。あるいはソドムの市である。お笑い芸能人の姿は何であるか。まるで悪魔である。悪魔の役は何だったのか。仏道修行を妨げることだった。あるいは、神を試す。モーゼも現れる頃だろうか。彼らを救うために。ロトは何故石となったのだったのか。助言に従わなかったからだった。優れた人を貶めてはならない。死神が来る。また優れた人から声をかけられたなら素直に従うことである。嘘はない。しかしそれができない。そして自ら苦しい運命を辿る。人間とはかくも憐れだった。不退転に至るには試練を要する。それは難業に属する。そして不退転に至ればどうなるか。易業あるいは安楽行となる。それが大乗だった。同じ目的地に至るのに、陸地を歩けば辛い。おだやかな海を大きな船に乗れば楽に渡ることが出来る。さて、声聞・縁覚では何故駄目なのか。自分一人しか幸せではないからだった。それは、仏の思いに反する。仏は一切大衆を救おうと思っている。そのためには、自分一人が悟っても意味がない。自分もして、人にもさせてあげるという菩薩業を要する。それが仏道だった。仏の縁を伝えるのだった。その時、一切大衆が救われるのである。彼らは知らない。仏は実在する。今も昔もこれからも。釈迦牟尼の前には七仏がいた。仏はどの仏も同じ思いである。私たちは何をしてきたのだろうか。何をしているのだろうか。問われている。幸せはあるか。救いはあるか。ある。声聞・縁覚では不退転に至れない。持てない。