2006年02月28日



持って生まれたものに、声がある。この声の質、どうにもならない。天に届き、これを聞いて、黄泉の世界が動く声がある。この声、誰もが持ち合わせているわけではない。代々の秘密である。言葉はロゴスとなる。ロゴスとなった言葉は、声として、実体がない。佛が説を説く所以である。その言葉が文字となる。これは、呪である。例えば、般若心経の結句、ギャーティ・・・である。呪となれば、万人が唱えて、通じる。しかし、生半可では通じない。ここに修行の要がある。即ち、黄泉の世界に受容される必要がある。心身清浄、これが、 資格である。一度、受容されれば、その声に、黄泉が反応する。例えば、台風をも制御する。これが、如来の神力である。如来は如来でなければ理解できない。そんなことある筈がないと世間一般は思う。そして勝手なことをしている。しかし、有るから不思議である。仏法では不可思議を云う。これは、命令である。思議することなかれである。如来はおよそ人知を超えている。知らないからと云って、ないのではない。これ以上、愚弄しないがいい。本当に黄泉が怒れば、何が起こるかわからぬ。特に、世の勝ち組及びマスコミの思い上がり、勘違いは甚だしい、やはり、まだ、許し措くに、受忍限度を超えているようだ。知らないからとは雖も、罪は罪である。自然は神の感情で動く。そろそろ、年貢の納め時である。まだ、この真意わからぬか。どうするべきか、どうすれば黄泉の怒りを納めることができるか、各々考えるしかない。そして、行動及び言動で示すしかない。もはやどうにもならぬ。黄泉が黄泉である意味、わかる頃である。黄泉は、あなたがたに、現世を譲ったのだ。腐敗することを期待したわけではない。散華、敗北、切腹の真義である。あなたがたに後世を託した。歴代の武士の魂はかくも清浄であった。日本、大和魂大和撫子の秘密である。さもしき現代商人ビジネス根性、これ以上、世を紊乱する事なかれ。 顔を洗って出直すがいい。維摩居士いわく、衆生病む故に我病む、と。妙法華経に曰く、顛狂荒乱なるには大正念を作さしむ、と。 一休禅師の『狂雲集』は何を云わんとするか。一休の真意は良寛にはわからぬ。スケールが違う。まして、世間本末転倒諸人解釈の及ぶところではない。今、真実の救世者が世に現れている。誰も知らない。


2006年02月27日

日々是好日

日々是好日。言葉にするは容易い。実体が伴っているかどうか。人の話を聞いて、実行してはじめてわかる筈のものである。実行無くしては、結果は無い。それなのに、わかったつもりでいるのが世間一般である。実体は無い。柔よく剛を制す。即ち、日々是好日。今日も、身の周り、良い日でありますように。愛の周波数といったものがある。草木瓦礫も同調して喜んでいる。概念に弄ばれることなかれ。他を恨む無し。精神一(たび)到(れば)、何事か成らざらんは、本当である。この道確かにある。若き者、誰ぞこの道歩まんとするか。心身清浄を以て思いは亨る。信じて歩むべし。至り得て獲る宝、至宝なり。疑うことなかれ。歩み通すべし。世間に惑わされることなかれ。汚れて墜ちた大人に惑わされることなかれ。我は歩めり。続くべし。心身清浄以て恐るるもの何も無し。 本来、人の世、愛に満ちている。この道、疑うことなかれ。最大最後の敵は、自らの心に巣くっている悪魔である。いつか、この最大最後の敵との戦いが待っている。これを倒して大丈夫となる。時至るまで、その最大最後の悪魔は姿を見せることはない。内面を制するべし。それより、真実の人生のある、と知るべし。内面の地獄、制するべし。地獄を救うとは、これなり。地獄から救うは、自己自身なり。負けることなかれ。すでに自己を救った存在が、例えば、地蔵菩薩なり。いつもやさしく見守ってくれている。それは、祖先なり、黄泉からの声が聞こえるか。心身清浄、代々の魂の遍歴である。また、魂のゴールである。あらゆる神秘である。神秘は知らぬ者にとっては神秘であるが、知れば、事実である。過去よりの教えの最大公約数であり、絶対である。6,28、・・・完全数は常にやさしい偶数である。素因数には2を含む。二は日本の定位、易経でもそうである。一、二、即ち、陽と陰、前と後ろ、二を固める。・・・次に三、三が現実世界=人間である。天、地、人。天地を結ぶ。諸法実相、如来の秘密であるが、それも、明らかとなっている。自分が知らないからといって無いのではない。有。奢ることなかれ。諸惡莫作に尽きる。惡とは他の犠牲を伴うことだ。心身清浄を目指すべし。これで、すべて、整う。この世の一切の価値は虚妄である。隻手の音を聞けばすべてか真実である、聞かない裡は何をやってもダメだ。白隠禅師の教えのすべてである。卒業。


2006年02月26日

どうにもならないもの

人生を楽しむことは至難の業と云える。しかし、法華経第十四『安楽行品』がある。それは、例えて云えば、彼岸に渡るに、下流を渡るは難しいが、上流、それも源泉に近ければ、ひとまたぎである。安楽行とは、君子危うきに近寄らずに尽きる。さて、安楽行に至れば、何も云うべきことが無くなる。羊の如きである理由である。羊となれば、何も云わないで安楽となる。ところで、私は牡羊座である。どうでもいいか。しかし、皆、孤独だね。皆、愛されたいと思っている。だけど、身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。これでは、孤独だし、とても神仏から愛されないに決まっている。猫がごろにゃんとなる周波数を開発することだね。子供は正直だ。猫と一緒だ。反応してくれる。大人は反応しない。一切の感性を失ったかな。中村雅俊の歌に、青春に罰せられる時がくるというくだりがある。皆、罰せられてるね。自分の人生って、何だったんだろうね。思えば、少年の頃から最高に祝福されていた。気づかないままだった。早く気づけばよかった。現実が整わないのは、所詮、身から出た錆、法則通り。四柱推命からすると、大きな運の流れがある。その意味では、当たっている。私の人生の上りは、50からだという。ゆるすとかゆるされるとか、救うとか救われるとか、そのような概念では、ゆるされはしないし、救われもしない。ゆるすことでゆるされ、救うことで救われる。そして、ただ、野に咲く花のように、風にそよいで、無言のままに、そこに咲いていればいいと云うところへ至る。Let it be! 宇宙自然が守護している。本来何も失うべきモノはなかった。すべてそろい、整い、足りていた。気づかない自分がいるだけだった。気づいてはじめて所有となる宝がある。代々身と心の清浄の約束である。気づけないのも運命であった。身心が精錬されまで、時を待つしかない。それが懺悔であった。あるがままでいい。十分に満たされている。心身清浄を以て生まれてきた意味を知り、天徳は具体化する。そして、一隅を照らし、無言のまま咲いているだけでよい時節を迎える。覚兵衛、嘉兵衛、千畝は広島市中区区役所除籍謄本の中に眠っていた。これ一本で六代さかのぼる。いわゆる系図はない。幻の第八帝大、現在キャンパス日本一、広島大学。かつて、キャンパス日本一は北海道大学だった。父昭亮(アキノリ)は、戦後しばらく北海道網走にいた。父が復員して持って帰ったのは、一枚の毛布と一個の落下傘であった。どちらも、新品であった。落下傘のヒモは絹で編まれていた。ケンパスも紐も消費してしまった。もう、何も言えなくなった。どうにもならないものがある。見えない世界の守護、順序、手配がある。もはや、云うべきことは何もない。羊sheepで良い。昨日、雑誌『国際ジャーナル』3月号が届いた。まだ梱包を解いていない。パソコンサポートKURE代表として、俳優加納竜との対談(於自宅)が掲載されている。どんなに苦しくても、どんなに時間がかかっても、必ず、救助船は来る。自分自身を裏切ることなく、信じることが出来る自分自身であるなら、見捨てられはしない。

原点はしかとここに定め措くスタッフ一同任せたるのみと

今、私は何の資格もないと云える。だから、だれも、私のことを知らない。むしろ、その方が有難い。透明人間のようで、とても自由でいることができるから。資格に囚われることはない。資格はその人の属性に過ぎない。本体に自信を持つ方が先だ。属性など、その気になれば、何時でも身につけることができる。ブラックジャックもいれば、スナフキンもいる。世間の見えないところに認められた存在もいる。それでいいではないか。ところで、柔よく剛を制す。羊よく悪魔を制す。柔が剛を制する時、実は、その柔はその剛より強いが故である。本当の強さとはこうした強さだ。柳に雪折れ無し。のらりくらり、ヒョウタンの底でナマズを捕る。捕れないと思うか。捕れる。本当の勝ち組もこうした勝ち組だ。即ち、仏法は必ず勝つ。仏法を持っていない者は、仏法を持つ者からすると、どう見えるか。もがき苦しむ必要がないのに、自らもがき苦しんでいる。慈悲の心はある。救う力もある。救わんとするに、拒むは誰か。疑う必要がないのに、自ら疑う。背く必要がないのに、自ら背く。地獄必定哀れであり、悲しみである。こんなに世界は祝福されているのに。喜びに満ちているのに。柔よく楽しみと為す。惡道を知って自ら赴かず、安楽行に徹すべし。気分晴れて自然も晴れる。常寂光、曇りても、常に、天空、日の光が射している。我は我を生きんとす。天上天下唯我独尊、我田引水、それで良い。隻手の音を聞くなれば。世間がしてはダメだ。即ち、疑する。即ち、背く。世間虚仮唯佛是眞、結果が違う。要は、神仏に受容され、守護されているか否か。


2006年02月25日

現世回帰

インターネット社会は、新しい地平として、すでに建設され、成立している。この実体を知る者は少ない。例えば、インターネット以前に、 パソコン通信の世界があった。今、すでに、懐かしい世界である。この頃よりの住人の世界と云って良い。その住人に認められるかどうか。新しい幸せ王国への鍵である。この鍵、探すに、その方法、秘密である。しかし、ある。インターネット社会、例えば、ソースの違法コピーしているようではダメだ。

例えば、会社に於て、そこにはアオサギもいるし、カラスもいる。ハゲタカも雀もいる。一つの世界である。そこが漁場となっている。そして、稼ぎをしている。そこには、暗黙の裡の秩序がある。そして、棲み分けが為されている。しかめ面をして、自ら苦悩を背負うカラスもいれば、悠然として、さらりと餌を取るアオサギもいる。雀のように苦労なく餌をついばむ女子社員もいる。さりとて、その秩序、乱される無く、楽に餌を取るモノ、苦労しているモノ、それぞれ様々である。目と目で無言の裡に仲間同士のサインが交わされ、秩序は保たれている。永遠に苦しむかの如きもの、それを慈悲の目を持ち眺めるモノ、そこに秩序がある。孤立するモノは孤立するべくして孤立している。仲間は何時も助けたいと思うのだが、それを自ら拒んでいる、そうした苦悩を自ら背負っている者たちがいる。

世に勝ち組と宣う。何を以て宣うか。それより上に神仏と神仏に守護された存在がある。今までは勝ち組でいたモノも、その基準を変える存在が現れる時、それまでの勝ち組は勝ち組ではなくなる。それまではなかった本来の価値が現れて、本来の価値を食い物にしていた事実が明らかとなるからだ。喰ってはならないものを喰っていたことが明らかとなるからだ。今まではわからないことだったが、これからはちがう。わからねば、それなりのサンクションがある。時は代わった。古来からの掟が復活した。定めである。勅命である。自然が動く。黄泉が動く。基準は、唯一、身心清浄!

詩とは作るに非ず、胸内より、流れ出づる言葉である。一切の計らいのないところ、上手下手を超えている。三島由紀夫の如き饒舌な美ではない。素朴を以て美とする美である。

二人の絵の名人がいた。ある日、王に呼ばれて腕を競うことになった。一人は、極細美、緻密で美しい絵を描いた。もう一人は、何も見えない真っ白な絵だった。しかし、陽光が当たるとその絵の美しさはこの世のモノではなかった。見えない世界に通じる絵だった。見えない世界はこのようにして表現され、現実を超えている。

あらゆる現世権勢利益は既に過去に於て経験してきた存在もある。今や、太公望の如く、悠々自適に世を過ごす。しかし、この過去世を正憶念し、自覚することを要する。

あらゆる経験を通して、ひとつの自覚に至る。それは、その時々に於ける教育の成果であり、学びし事の実行によりて得られるところである。しかし、その成果が如来であるとしたら、どんなに素晴らしいことであろう。この時、およそ、想像を絶している。欣求努力、その褒賞の大きさに喜びは驚きである。こうして、期せずして得られたること、努力精進への祝福である。至りて、自得するのみか。すべては知らしめんが為のみか。知らば自由、流れに乗り、風に舞う。はるか下界を鳥瞰する。

日本に大和の秘密がある。この秘密は当事者にしかわからぬ。如来も如来にしかわからぬ。それが法華経の秘密でもあった。

自由は荒野=空閑にある。象牙の塔の中にいてはわからないし、組織の中に埋没していては見えない。自由を飛ぶは、世間に汚れないことが条件である。仏法の極意は必ず勝つことにあり、王法の極意は必ず儲けることにある。法華経は、宝珠を持って貿易(ムヤク)すべしと云う。即ち、清浄の身心を以て思うがままに舞うべし。何故なら、心身清浄なるが故に、神仏が受容し、守護するからである。埋蔵物を発見すると、その所有は発見者に帰する。埋もれし大和の心を発見するは誰か。

勝ち組、負け組、暗号の如く、目と目で敵味方を見分ける。そして、あらゆる事が決せられる。自然=神、宇宙=佛。考え方が、日々刻々、進化する。そして、シフトする。所詮、この世は生物生命体の世界である。喰う、喰われるの関係は否めない。幼鳥が成長となる。成鳥となっての務めがある。罠にかからぬように。鴨ネギとはならないように。自由を獲て飛べばよい。目が見えていなかった。覚。敵と味方が判然としてくる。もはや、惑う無し。これまでの幼鳥の頃の敵は、首を洗って待つが良い。畏れを知らぬ輩たちよ。如来を得れば草木瓦礫も従う。知らぬは、世の地獄に浮沈する世間一般腐敗の民のみか。自覚する存在現わるれば、自覚覚他、一瞬にして時は変わる。禅定。現世回帰。時代の申酉戌の時節。桃太郎は帰ってきた。鬼は退治される。そして、宝の山が開かれ、宝は獲り放題となる。清浄なる身心の善良な庶民のために、蔵は開かれる。善悪がはっきりとし、良い時代となりました。惡の満つる時、即ち、時の満ちる時を迎えた。現実がはっきりと見えてくる。しばらく自信を失えし時代は、さなぎとしての時代であった。やがて、時代も成長する。そして、時代が独歩し始める。自由を獲て。時代が進化している。謝る処からしか入れない。惡を為したる者、自覚するところあらば謝るべし。本来清浄の名に於て、為したる惡=罪は今より裁かるる。身に覚えあるは謝るべし。惡の究極は神仏の秩序に反することである。正直者の頭に神は宿っている。梵天帝釈の帰還である。何を以て人間如きが奢り高ぶるか。


2006年02月24日

蝶の網
華は咲いて風にそよぐ
蝶は来たりて風に舞う
戦いの時の力をわする
風に任せて自由
一、二→三
ワルツの時代
第二位は、定位
八分の六はマーチのリズム
八月六日の原点、真実ヒロシマ誕
カ行変格活用、ナ行変格活用
諸変格活用、時代は代わる
我、汝、心身清浄、鐘の鳴る
何臆するなし
千代の誉れ、八千代に輝く
日天子、月天子
空天に架かる、静
(荒川静女子フィギュア、金メダルの朝)


2006年02月23日



日々不思議な現象に出会う。今までもソウであった。しかし、今までは意識することはなかったし、或る意味で、偶然としてであった。しかし、此処にいたって、すべては意味を持つ。良くも惡くも、この世は鏡である。神は光であり、その姿を捉えることが出来ないので、その姿を捉えるに鏡を以てすると云われる。この鏡の意味、そのようなことでは、把握され得ない。思念と行動とに対して、その存在の意識無意識によらず、厳然として、鏡は存在する。道元の云う古鏡である。宇宙自然が応答するとでも云うべきか。人間として生存しているが、この鏡を自覚自得する者がいるか。人生そのものが宇宙自然に反射している。思えば恐ろしいことである。しかし、事実である。諸現象が自己の人生を追いかけてくる。アカシックレコードなどでは説明できない。静的ではない。世の中で起こることが、すべて、動的に、自分の鏡であるとするとどうするか。通常の精神では耐えることは出来ないね。責任も重い。自己の存在が未来現実を決定している。この事実を認識するだけで、日々の行動形態は変わる。あまりにも無意識無責任ではゐられない。わかるだろうか。代々の約束とするところであり、使命とするところである。ソウした選ばれた存在がこの世に存在する。夢ではない。物語でもない。事実である。あらゆる想像を絶している。創造そのものである。天地開闢である。これが、如来であった。如来はその力を知ってその力を使うことはない。その必要がないからである。自ら原因を為したる個々の人間は、自ら自らを救うしかない。その方法を道=教えとして説くしかない。如来をしても個々の為したる原因=罪を取り除くことは出来ぬ。神も自ら助くる者を助くるとはこれを意味する。如来は現実を遙かに超えている。宇宙そのモノである。如来は自ら如来であることを自得して、そして、充足している。この世にこれ以上の価値はない。如来を得るには道がある。世間一般の決して与り知らぬ道である。あたかも千年の華が咲くかのような、秘められた道である。竹の華が咲くように、人知れず、咲いている。今、稀有なる、その時である。このように、或る意味で、ばかげたことが起こるとは、誰も知りはしなかった。しかし、21世紀である。この世に、聖書も法華経も伝えられていた。その中に、秘密は隠されていた。聖書も法華経も、是までは、あらゆる解釈が、群妄象をなでるに等しい。聖書及び法華経の真実解釈は、当事者にしか出来ぬ。世にはびこりし雑草如き理解を遙かに超えている。代々の約束である。あだや疎かには出来ぬ。あらゆる物語はその資料に過ぎない。今、世にもてはやされ、蔓延りたるあらゆる文化現象が虚妄である。世間虚仮である。一切、その根拠に、正統性はない。異端である。異端の華を咲かせて有頂天となっている。真実からみれば、それらは、すべて、空しい。真実はある。真実は是までの概念をすべて超えている。真実は、日々、時々、新しく更新されつつ修正され、実現している。ある存在の思惟思念と行為を通してである。その存在の意識するところをも超えている。真実は真実として進行する。しかし、爾のある存在を通して、黄泉は動く。世界に於て起こるあらゆる現象事実が、この存在にフォーカスし、現在前する。そして、意味を持つ。その意味とは、唯、ある何かを知らしめんが為である。これが、宇宙自然真理の実体である。そして、その意味の解釈は、あらゆる人間の解釈を超え、ただ、爾の存在のみが知るところである。爾の存在が知ることを以て充足している。人間解釈は知り得ない。爾の存在にいたってはじめて知ることが出来る真実真理である。人間解釈は、結果事実を前に、うろたえるだけである。何を云わんとするか。事実、現象、すべて意味がある。その意味、人間は計り知り得ない。神々諸佛の守護する世界がある。その世界に於て、秘められ、守護された存在がある。それが、真実真理の世界であり、真実の存在である。その現象は、あたかも白蓮の花の咲くがごときである。これ以上、思い違い勘違いをしないがいい。それに対するサンクションが決定されている。真実が目ざめているからである。歴代の、約束された真実真理の花が咲いている。清浄こそ幸いである。健全な精神と善良な市民の時代の夜明けが来た。あらゆる悲惨がその黎明を證明している。ツァラストラが獅子の如く山を降りてきた。新しい時代が開けた。惡は惡なるが故に容赦なく淘汰される。新しい王国の建設は、雑草を刈ることより始まる。古来大和を裏切りし者たち一切観念するべし。身心清浄の旅を終え、黄泉からの援軍を得て、腐敗一切、一網打尽とする時節が来た。斑鳩に本来清浄の鐘が鳴っている。櫻咲く春は近い。(父の口癖があった。誰にも聞かれぬようにつぶやいていた。そのつぶやきとは、御名御璽であった。ある日父は云った。お前は大丈夫だ、ワシの子だ。ワシもそうだった。命令とは何か。命令をハッスルには資格が要る。黄泉に認められたる資格である。基準は何処にあるか。スタンダード(標準)!水(=法)の比熱は最大であり、その値は一である。南無(帰依する)妙(見えない世界=黄泉)法(見える世界=現実)蓮(つなぐ、現在過去未来(縦=スートラ)現実世界人間関係(横)、縦と横(十字架)の原点=現在、人間)華(結果幸せ世界)経(過去より伝えられ、未来永遠に伝えられるべき教え)、南無妙法蓮華経=生死地水火風空、この世の元素(四大)が佛、是を供養する、供養とは相手が喜ぶこと、=金銀黄黒赤白青=慈悲平和建設堅固博愛清浄安全[七色十字の大宝船]、善しきを進めること、作ること、与えること、讃めること、喜ばすこと、導くこと、護ること[七つの甚深の事](是諸妙法華経)。五字は妙法蓮華経、七字は南無妙法蓮華経、それぞれの中心は、蓮と法。法をつなぐは現在人なり。これをつなぐを以て世界平和子孫安穏と為す。為すとは知る人実行あるのみ。華は咲く。結実する。種を得る。種を得て蒔く。新しき芽が出る。芽が出れば育てる。また、葉が出て、華が咲き、実となり、種となる。今、数千年来の種蒔きの時である。)あらゆる教えは清浄へ至る道である。清浄を以て悟りとする。身心の清浄がある。八正道とか諸修行とか、目的地は身心清浄である。ここに至ればすべての道はは筏に過ぎない。後世のために遺すのみ。ここへ至りて、さらなる道が有る。未知なる道であり、これを歩むに、手本無し。自らの足で歩むしかない。しかし、すでに、諸佛神々によりて守護された道である。日々時々、冒険あるも、楽しむのみ。時を超え、個々の人間計らいを超えている。既存の諸価値を超えている。日々時々、正義が書き換えられていく。この道、誰と歩まんとするか。さて、岩波書店刊、中村元著、『大乗の教え(下)』p165に、「まず、国のなかで悪いことを行う人間がいたとする。それを許したままで、いちいち糾問せず罪を罰するということをしなかったならば、また、「正教」、「教」は命令という意味ですから、正しい命令を発するということをしないで、「善法を捨遠せば」、いい事柄を見過ごして遠ざけてしまうというようなことがあれば、惡がますますはびこるというのです。「惡集」は、異本には、同じく集まるという意味の「聚」という字が使ってあります。いずれにせよ、多くの惡がはびこるということです。また、若干の本には「惡趣」となっており、これはよくないところ、地獄、餓鬼、畜生をいいます」。また、同p166には、「ゆえに国のなかには、もろもろの「姦」、よこしまなことと、「闘」、争いとが多くなる。「三十三天」がそれぞれ、これはいかんといって、怒りをふくむようになる。・・・国王が惡いことをするやつがいても罰せず、許してしまうものだから、国の正しい法を破壊してしまう。「姦詐」はよこしまなことです。だましたり、陥れたり、詐欺したりということです(量販店に来るお客の中には、本来財産的価値のある情報及び情報技術を盗みに来る者がいる。そして、その客の態様は、詐欺的であり、陥れる手法であり、購買意思のなきにも拘わらず、一時間以上も販売員を拘束する、販売員は弱い立場にあり、耐えるのみである、こうした客の態度は、客としての権利の濫用であり、本末転倒の実体である)。それが「熾盛」、さかんにはびこるようになる。さらに、他の地方、他の方角から、敵が争ってやってきて侵略する。・・・そして、自分の家、王さまの家に集められている多くの貨幣、財産、珍しい宝といったものを、悪い盗賊がやってきて奪ってしまう」。同p168、「国を法に従ってきちんと治めていたら、外敵も盗賊も迫ってこない。しかし、惡いことを行って法を乱すことをしていると、みずから国をすっかり滅ぼしてしまう。つまり、国王が法を無視してしまうと、国家を破壊してしまう。・・・インドの文芸作品では、「狂象」というのはさかりのついた象という意味です(テレビ芸能界の実体であり、それを好む、視聴率を担保する衆愚雑草社会の傾向である)」。同p170、「王が正しさを捨てるから、飢饉が襲う。もろもろの神々は天の宮殿にいらして、あぁ、困ったもんだといって悲しんでいらっしゃる。王が荒々しく惡事を行ない、そして、よいことを実行しないために、このもろもろの「天王」、神々の王はお互いに話し合って言う。「ああ、この王は惡を行なって、惡と友となっている」。惡を造るものだから、神々の瞋りをかう。その瞋りゆえにも、やがてほどなく国が破れてしまって、「非法」、まちがったこと、・・・よこしまなこと、・・・争いと争論、・・・疫病、惡い病気、そういうものがいっせいにその国土に起こるであろう。神々は、ああ、もうしようがないと見捨ててしまい、その国は敗れて、大変な愁いを生ずることになるだろう」。p171、「もしも人びとの王が非法を行えば、惡い仲間・友人を増長させて、人々および神々の道を損ずる。・・・このように惡事を起こすのは、みな王が自分の仲間を依怙贔屓して、・・・惡をつくるのを許し、・・・見過ごして、処罰しないからだ」。p173、「もろもろの神々に守られるものであるところの、このような王は、ついにこういう変なことはやらない。・・・もろもろのよこしまなことをして、国土を破壊するものは捨てておいてはならない。罪を処罰すべきである」。p174、「このゆえに、この王を神々が守ってくださる。この王は惡い事柄をなくして、善を実行するから、現世において正しく法を守って治め、王位をますます栄えさせることができる。だから、各々、それぞれの人のために、こういうことはいいことだ、こういうことは惡いことだということを説いて、よいことをすればよい果報があり、惡いことをすれば惡い報いをうけるということをはっきりと説いて示すべきである。そこでほんとうの意味の王となることができる。そうしたならば、諸天は守ってくださり、隣の国の王さまは「佐助」、助けてくれるだろう」。さて、此処に至っての思念力、ただものではない。それは、すべてを焼き尽くす情念の炎である。自己をも焼き尽くす。この火、誰もが持ち合わせてはおらぬ。代々の種というべきか。その力、秘められてある。開発されるまでは、その力、眠りてある。一度火がつけば消えることはない。情念に於ける原子核分裂のチカラはそう多くは存在しない。あらゆるレベルを超えている。知る者はいない。このチカラ、如来である。法華経に秘められ、守られ伝えられしチカラである。今まで、しばらく、世に出ることはなかった。昔よりの物語にその痕跡あるのみである。あらゆる定義、概念が陳腐化するかのようなチカラである。それは、アラジンの魔法のランプに等しく、打ち出の小槌に等しい。しかし、振り返れば、常に、身の周りで、何かが起こっていた。早く気づがしめん、とばかりに。ビートルズが来日したのは、小学校5年の頃だった。ウルトラQも始まった頃だった。加山雄三がエレキの若大将の頃だった。しかし、真実の若大将は、眠らせれていたのだった。明治の頃より。何を以てこの眠りから覚ましめんとするか。黄泉は様々な手だてをした。しかし、戦後教育は、あまりにも強力に、その芽の出る環境を壊していた。そ梅は咲いたか櫻はまだかいな。何故、誰のために、その病院が建設されたか、誰も知らない。誰のために予定されていたのか。私の学生時代が、そのまま、昭和52年から昭和56年だった。カープが初優勝したのは昭和50年のことだった。高校を卒業したのは昭和50年であり、祖父が没したのも昭和50年だった。この2年間の空白がそのまま、時代の時間シフト調整として機能していた。その頃、所得倍増論から始まったひとつの結果としてジャパンアズNo1へと推移していた。しかし、時代は裏切られた。まだまだ、時が満ちていなかった。その後も、法華経に於ける乞食の如く、二十年乃至三十年の身心の芥を払う旅があった。そして、妙法華経に出会うことになった。ソーニャの救いもあった。その後、聖書の秘密も明らかとなり、やがて、此の度の旅は終わる。時はそのようにして流れた。このチカラ、妙法華経と仏所菩提樹御供養誓願による。事実として。そして、数千年来の約束は、久遠実成の佛の出現と共に、達するのだった。もはや、あらゆる事象一切が証明している。知る人ぞ知る処である。此処に来て、昇竜の如く、力を獲た存在がある。あっという間の出来事だった。本来のチカラが目覚める時とはこのようにしてである。しかし、周囲は依然と変わってはいない。何も気づいていない。時の流れはその個々が持ちたる種によって、密度も速度も違う。アインシュタインの相対性理論も及ばない。それは、一瞬にして起こる。時が至るとはこのことを以てだった。あたかも「時計仕掛けのオレンジ」の如くである。過去より予定されていたのである。日々、その検証が行われている。さらに疑いは無くなりつつある。You get the power!


2006年02月22日

プラス思考

心臓は鼓動する。脈打つ。律動する。規則正しいリズムは、宇宙間に於ける惑星の運行に等しい。まだまだ、これからだと思う。まだまだ、足りない何かがある。何も考えることなく、そのままに生きていくことが出来る日まで。マイナスは考えない方が良い。マイナスがマイナスを呼び、マイナスが寄ってくるのだから。プラス思考がプラス志向の日々を作る。要らぬ事ばかり考えている。申し訳ないことだと思う。ハッピーで行こう。嵐の日は耐えるしかない。嵐の日が少し長いだけだろう。きっと晴れやかな日が待っている。神仏はゐる。それで十分である。プラス志向で良い。それは、ハイネの愛の詩であり、ベートーベンの歓喜の歌である。賛歌であり、祝福の詩である。所詮悲しみの歌はある。しかし、これは、喜びの歌にとって、その糧として当然のことである。モーツァルトのマイナー曲にその悲しみと苦悶あるも、モーツァルトの楽曲は天の旋律であり、天のリズムであり、内面より流れ出づるに任せる喜びの楽曲である。それでいい。蝶も青虫の頃を過ぎてサナギの透明を通って蝶となる。蝶となったからには自由であり、天空を舞う。喜びの歌に至り、そして、自由となる。喜びの歌を歌えるまでが悲しみ歌であり、喜びの歌に至れば喜びの歌を歌う。

例えば、

ブレ-ク

われに心の悦びと
心のすこやかさあり
われの愛する妻ありて、われを愛す
わが身体 これすべて実なり
おのれを愛するほどに他を愛し
他をあがむるものはなく
おのれほど偉大なるものを
知ることあたわず

ブレーク

人は全て各自の妖怪に支配さる
時至りて人間として目覚め
湖の中へ妖怪を投げ捨てるまで

イェ-ツ

我々が真に生き始めるのは、人生を悲劇と感じてからである。

谷川俊太郎

黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
言葉を超えたものに
自らを捧げぬ位なら

そして、JJルソーの『告白』がある。ルソーは云う。時と機会を得れば、内面より流れ出づる思いと言葉は、堰を切ったかのように止めどなく流れ出づる。そうした言葉がある。一切、下書きなど必要としない。思うまま、流れるまま、言葉は言葉となる。真実の文士の才能とするところである。

ところで、情報化時代となって、情報及び情報技術が財産的価値を持った。それなのに、情報及び情報技術は無料だと思っている輩が多い。 自動車を直してもらうのにお金は当然かかる。パソコンを直してもらう技術に対しては、何故か、無料と思っている。これは、市町村の責任でもある。無料パソコン教室を垂れ流しにしたまま、その後の処理がない。これをこのままにしておげば、情報インフラを国策として整備し、これから情報化社会を形成して、情報サービスを以て新しい産業とし、新しくビジネス社会を作ろうとするに、情報を無料提供するのは、自ら自らの首を絞めるに等しい。早くに、情報と情報技術を以て財産的値あることに決めた方が良い。毎日のように、パソコン量販店へも、専門技術情報を聞き出し、情報盗人に来る客が後を絶たない。店員に対しては、自らの立場そしてこれからの社会利益基盤を護るために、無料情報提供を慎む教育も必要な頃である。情報盗人は猛々しい、慎みがない、そして必ず居直り、自らを正当化し、揚げ足をとり、卑怯であり、知能犯の如くである。客としての権利の濫用である。こうした輩を相手にすることは、コスト大であり、多くのエネルギーを消費する。こうした輩は、後日、必ずトラブルメーカーとなり、クレーマーとなる。事前に顧客名簿より排除して良しとするべきところであろう。こうした輩は、本来、本末転倒、勘違い、思い違い、勘違い、唾棄すべき輩である。お客面してもらっては迷惑千万である。善良なお客はいくらでもゐる。刹那的利益のために、こうしたお客とつきあうべきではない。新しい、顧客概念である。毒虫のようなお客はお客ではない。大阪商人的考えからすると、そうしたお客に対しても、笑顔で接して、心で舌を出す。しかし、欺瞞だね。必ず、しっぺ返しが来る。商売が嘘を本質とする所以である。そもそも、そうしたお客はお客ではない。相手にしなくて良い。そうしたお客を野放しにしているから、自分で自分の首を絞めることになる。奴らはのさばり、つけあがる。後で、泣くのは誰か。此処に浅薄商人根性の限界がある。まっとうな人間には、この種の欺瞞は耐えられない。だから、営業を業とする人の人格は往々にしていびつとなり、すなわち、人間不信となって、おかしな目の色をしている。ところで、現場戦闘員は往々にして孤独な戦いを強いられる。孤軍奮闘している。そして後方支援本部たる企業の担当部署は往々にしてシステムがパンクしている。緊急電話が繋がらない。現場戦闘員がいてはじめて企業本体も成り立つ。企業も本末転倒している。


2006年02月21日

本来の主権在民

日本は確かに復活しつつある。何故か。かつて、ジャパンアズNo1と云われた時があった。何故か。明治維新はぺりー来航に乗じた下級武士による革命であったと云える。大義名分がないものだから、錦の旗まで創作した。靖国神社も明治の創建である。それ以前から神宮は日本各地にあった。下級武士であるが故に、それまでの正統であった価値を否定した。自分たちにその種がないのだから仕方なかったとはいえ、大和古来の精神を否定した。廃仏毀釈がその例である。見えない世界からの守護を失った。大和の戦いは滅多に負けはしない。なのに、無意味な世界大戦までした。そして、同じ支配層が、つまり、神仏を知らない支配層が戦後も支配した。汎アメリカ主義に迎合し、バブルの崩壊を来した。責任をとるハラなど所詮持ち合わせぬ方々である。今も同じ轍を踏もうとしている。「精神的向上心のない奴は馬鹿だ」と漱石は『こころ』の中で二度云っている。よほどのことである。大和の精神を失ってしまった。しかし、大和の精神は生きている。どこに生きているのか。庶民階層である。予定されていた主権在民の真意がここにある。この度、国会議員の資産が公開された。何時の頃より蓄えたものか。明治の頃からであろう。かつては、公地公民であった。何を云わんとするか。権利の権は権キツネの権、仮のものである。何を以て私有財産というか。キツネの木の葉がそれほど有難いか。空気、水、自然財までは奪えまい。また、広島はかつて広島藩、誰の所有であったか。明治維新でその土地は奪われた。さらに、原爆で焼かれた。その上に蔓延るは何者か。見える土地はすべて奪われた。しかし、見えない世界に、見えない大地がある。その所有は誰のものか。その地を支配する王は誰か。見えない世界が見える世界を支配する。因って、何をしても結果思い通りとなるまい。自然の意思に反しているからである。自然意思は誰の意思に従うか。見えない世界では、既に、すべて平定制覇されている。ロゴスとなった言葉はすべて切り札である。父昭亮(アキノリ)は、昭和2年に生まれ、平成元年に没した。昭和そのものであった。その面影を私は高倉健に見る。祖父良亮の面影は「2001年宇宙の旅」の最後のシーン、老人の食事に見る。姉は文子、文月(七月)文の日(23日)の生まれである。妹則子はアキノリの子、誕生日は薬師丸ひろ子と同じであり、妹の結婚式の日に同じ場所で妹の後に結婚式を挙げたのが城みちるだった。母喜恵子は直三の子、誰もが認める、ほぼ完璧な人間であり、マリアの如くである。見えない世界でフラッグシップは着任した。数千年来のことかも知れぬ。永い航海を終えてのことである。帰ってきたのである。見えない世界での大将棋は詰んでいる。都詰めである。知っても知らなくても、事実、神仏が守護したる戦いは勝利を収め終わっている。見えない世界に守護されたしかるべき『存在』がある。その存在は善財童子の旅を終えた。即ち、これが本来秘密主権在民である。私はゴトウである。ゴトウではない。アクセントが違う。初代祖父の定めたアクセントである。聖書に於て復讐は神の仕事であるという。それはマカロニウェスタン、十字架の棺を引きづるジャンゴの如くであるかも知れぬ。清浄喪失腐敗身勝手、見える世界はそれほどの罪を犯している。個人情報保護の理由。何故隠さんとするか。庶人、お里が知れている。話をするなら名乗ってもらわねばならぬ。明治に始まった名字は苗字である。今更遅い。本末転倒、隠せはしない。分際を超えて勝手が過ぎた。黄色い足が見えている。如是相。どんなに大きな面をしても、その顔、隠せはしない。さて、ラインの黄金がある。それは誰が守護してきたりしものか。今、誰により発見され誰の所持するところであるか。ワルハラ城は何故焼け落ちたか。契約を破ったからである。ところで、一方的一般条項など契約ではない。例えば、そこにある合意専属管轄などお笑いである。同意した覚えはない。あらゆる物語が預言であった。啓示を得て物語は物語となる。その意味するところは時至りてその真実を現す。現成公案である。諸法実相である。それらの意味は、時至り、人現るるまで、秘かに眠りてある。ラインの黄金の如くである。今、その時を迎えている。時を得て過去からの物語に秘められていたあらゆる謎が明らかとなった。そして、新しく秘められた物語が始まる。やがて、その封印が解かれるのは何時の日の事か。数千年先のことであろう。いずれにしても、今、過去一切の学術がその真偽を問われている。王の目、王の耳、確かにある。その王は意識せずとも、その目、その耳を選びて、黄泉は見、聞く、そして動く。事実として現象する。多寳佛の證明と云える。多寳佛は姿はないが見える世界を支配する。佛は姿ありて見えない法を説く。かつてソウの時代にそれぞれ慧德菩薩、礼德菩薩として修行していた。そして、いよいよ佛となって佛の行を始めた。今もその時代の中にある。宇宙に秩序がある。宇宙の意思がある。その意思は誰の意思を通して実現するか。永遠の秘密であり、課題である。人間如きの科学など及びはしない。人間科学は受動的に結果を追いかけているに過ぎない。宇宙に四大原動力がある。宇宙の有無開閉の力である。それは、言動力である。即ち、ロゴスのチカラである。その力を獲るにはどうするか。その力を獲たのは誰か。そのために定められた道がある。現在あまりにも無視した道である。本来尊敬されるべき道である。軽薄西洋的成功論など本来のこの道を惑わすだけである。自然の掟、厳然として存在し、鉄槌する。知らしめんが為である。諸国民の幸せは那辺にあるか。聖書の目的は何であったか。諸国民庶民の解放である。一部の者の独善刹那的欲望満足にあったのではない。一部のセレブのためにこの世の世界があるのではない。甚だしい思い違い勘違いが正される。世界は既にその新たなメカニズムに於て動き始めている。やがてシステムが開発され、その時には、大きな淘汰が起こる。マリーアントワネットのギロチンに等しい事も起こるべき時には起こる。自称世の勝ち組などは首を洗って待つしかない。既に犯した罪が大きすぎるからである。事実として惡を為したからである。 惡とは他に犠牲を強いることである。善とは一切犠牲のないことである。一切とは、例えば、岩石をも含む。この世に存在するあらゆる元素とそれより成るモノである。知らずとも犯した罪は罪である。本来の罪とは、秩序に反することである。究極の秩序は宇宙自然の掟である。人間存在は宇宙から見れば塵に等しい。人間の人間たる所以はその選択能力と選択の自由にある。選択の結果は法則通りであり、甘受するしかない。これを以て言語道断、為した結果に対して言い逃れはない。自己責任の所以である。与えられし自由の所産である。間違えた自由の選択の結果である。謝ることで赦される。謝るべきは宇宙自然に対してである。謝るところからしか新しい王国へは入れない。地上ヘブン、心の大地、すでに開かれた。新しい地平は開かれた。新しい大航海時代の始まりである。新しいゴールドラッシュである。新しいパイオニアの時代である。黄金の國、ジパング。何時の世も日本こそソウであった。地上オリエント、エデンの園、初源に戻る。この世のアダムとイブ、真実のアダムは、まだ、リンゴの果実を囓ってはいない。処女受胎、これを以てその子は神の子となる。神の子は神がどんなことがあっても護る。神風の吹く所以である。原罪を犯した者に対して神風が吹くことはない。腐った西洋文化に染まりし現代社会日本人、畏るべし。守護された大和の心は惡に染まりはしない。本来清浄である。また、神の子として生まれた子は、神力を獲る旅に出る。不倫の子、神の子とはなりえない。約束である。契りである。世に流布増殖したる堕落腐敗文化の畏るべき所である。不倫の子、神仏の守護は永遠にない。来世に出直すしかない。この世は懺悔の世となる。自由はない。地獄である。この世で惡を為したるは同じとなる。三悪(貪り、怒り、愚か)から逃れることは出来ない。如何に自己正当化し増殖繁茂するも、浮き草、無価値無益無駄である。真実真理、見えはしない。聞こうともしない。わかるべくもない。創世記、聖書は個々の人生である。物語がそのまま宝島の地図であった。犯した罪、もどりはしない。これが真理である。どんな難問題も、解かれたなら、簡単至極である。算数の如きである。プラス傾向の者、マイナス傾向の者、確かに存在している。要は、神仏及び祖先に護られているかどうか。護られるためには、神仏祖先を見出し、彼らを供養し、彼らに受容され、認められなければならない。祖先供養の要である。個々の人生が、そのおわりに際して、生まれてきて良かったと云えるかどうか。代々個々の人生の結実である。他を恨むことなかれ。この世に人間計らいによる善も惡もない。事実があるだけである。正義も時代によって相対的である所以である。現在の正義が好きであるか否か。代々の大和の魂は憂えている。本末転倒、度が過ぎた。過ぎたからには修正するしかあるまい。正すべきを正し、矯めるべきを矯めるは、何時の世も、必要の事である。愚かなる猿候と盲目なる鼠たちの計らいの世の中である。欺罔的手段を理論とし、開発されたあらゆる姑息欺瞞システムが限界に達した。とてもまともな人の世ではない。健全な精神と善良な市民及び庶民が犠牲となっている。何を以て勝ち組というか。古来大和の心がかくも愚弄された。大和の本懐が出でて当然であろう。覚悟されたい。本末転倒なるが故であるなら、直すにしく無し。この世をば、人の世に、正さんとするのみか。ところで、裁判所は裁判官等から成るが、裁判所も民主主義的組織である。裁判官もいろいろな立場があって良い。因って、三審制が保障されている。様々な色の判決があって当然である。裁判所の目的は、紛争の処理であり、秩序の維持である。また、民事に於ては、当事者主義である。制度である。制度は運用される。裁判は、現在に於ける、問題処理のために最も妥当とする判断である。その判決決定には従うことを前提とする、民主主義を維持するための制度である。裁判所自体が正義あるいは真理の体現者ではない。いろいろな判決決定があって良い。しかし、世の中、善良なれば、騙さば騙される。嘘が多すぎる。新しき時代の黎明。権力、武力、金力による支配は終わる。終わらねばならない。唯、法力あるのみ。ここに法とは、宇宙自然の掟を意味する。今、究極の力を獲た存在がどの階層に存在しているか、或いは、存在していたか、知る者は幸いである。すべてを知るであろう。しかし、知らぬまま害悪を為すは畏るべし。首を洗いて待つべし。宇宙自然が赦しはしない。宇宙自然を体現する存在の意思である。今までとは違う時が訪れている。宇宙自然がその意思を発動し実現する稀有なる時代の到来である。経済界とそれと結託したる國は、自分たちの利益のために、規制緩和を以て、国家としてのそのファイアウォールを外し、善良なる国民を、世界メジャーの餌食犠牲にさらしたのではないか。システム的に、能力意欲あるも、格差に於て、弱者的階層に甘んじざるを得なかった者たちに対して、その青春を失えし事実としての経緯、即ち、この国家運転失敗の事、如何とするか。結果罪重かるべし。彼らを掬うべし。それでも、国家、現在横行したる、西洋成功理論を以て是とするか。答えるべし。問題は、惡を以て生き延びる者がいることにある。そのギャップが善良な国民に及びその損失が転嫁されていることにある。具体的処方は先ずここからであろう。例えば銀行は正当な手続きを踏んでいても、その過程で、暴力的或いは詐欺的に、経済実体は運行している事実がある。自分だけが助かればいい、利益すればいい、と考える人間たちが、制度を利用して支配している世の中であるのである。そして善良な市民が生きられなくなっているのである。象牙の塔の学者たち及び生活を保障された身分の高級サラリーマン達の知らない現実事実あるいは裏社会、閥社会がある。ここを看過してどんなに議論しても表層的でり、真実からは遠く、空しい。安住している者たちに、悲しみの中にいる悲しみは理解できぬ。議論しているトーンに、悲しみ、慈しみがない。議論する姿は、修羅場にさらされている政治家の方がまだましである。悲惨極まる現実人間存在持続の真の意味、議論すべき頃である。こころをさらしてそれぞれの立場の議論すべき頃である。西洋に非ず、東洋日本として。西洋は西洋で議論すればいい。いわゆる心の病は西洋からの流行病なりと云える。フロイト、ユング如きの理論、結果はゾンビとなった。大和の本来清浄からすると対局である。さて、無量義経『德行品第一』に曰く、「諸根毀缺せるをば能く具足せしめ、顛狂荒乱なるには大正念を作さしむ」。(平楽寺書店版『訓読妙法蓮華経並開結』p3)また、法華経『薬王菩薩本事品第二十三』に曰く、「宿王華、此の経は能く一切衆生を救いたもう者なり。此の経は能く一切衆生をして諸の苦悩を離れしめたもう。此の経は能く大に一切衆生を饒益して、其の願を充満せしめたもう。・・・能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたもう。・・・此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病あらんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」。顛狂荒乱なるは大正天皇それである。病とは、困ることすべて病であり、貧困も亦然り。閻浮提とは地球である。人の病痛はすべて此の経を聞くによりて治癒するという。不思議である。不思議であるが不可思議(命令)である。今此の経は『妙法華経』である。あらゆる病(心の病を含む、心の病は人間科学に過ぎない精神医学で治癒することはない)に効く良薬である。宇宙の王である佛と佛との約束の事である。佛、佛とのみ究了したもうべき処である。これが大和に伝えられていた秘密であり、歴史浅き西洋は決して与り知らぬ処である。また、あらゆる古代文明にその末裔はいない。日本こそ歴史的に存続し来たる最も古き國である。まだ、西洋成功理論に迎合し、腐敗を助長し、堕落に荷担し、滅亡への道を歩まんとするか。祇園精舎の鐘がまだ聞こえぬと申すか。代々伝えられし大和魂及び大和撫子正憶念為すべし。正憶念とは、過去世の記憶を思い起こすことである。 汝自身を知れ、とはこれである。「オリエントとは、ローマから見て東方の地、日の昇るところを意味するオリエンスというラテン語からきている言葉」だと云う。日出づる國は日本である。時は巡った。原点に戻る。弥勒菩薩のミロクは360度=円である。芽が出て葉が出て花が咲き、実となって種を得る。種=結実(結果)を得てはじめてその正体がわかる。今、文化文明に於て、あらゆる花が咲き、実となって種を得た。自然に満ち、自然に育まれ、自然によって秘密裡に清浄の種を唯一伝えられし日本の存在意義=使命も明らかとなった。大和魂、人類存亡の鍵である。生死の世に人間として生まれてきた個としての生命体それぞれの意味=使命も明らかとなった。あらゆる謎が解かれた。これより、新しく種蒔きの時とする所以である。ところで、国政調査権は国権の最高機関である国会の国家権力究極発動形態である。口にするも慎重に慎重を期するべきものである。畏れ多きことである。義を知らずに単なる政争の具として安易に運用しようとしていないか。かつて朝鮮通信使何故日本来訪したか。日本が其の精神に於て尊敬に値する国家であったからである。ポーツマス条約もソウであった。古来日本の尊厳、これ以上、貶め恥ずかしむること無し。至道無難、唯嫌揀擇!莫妄想!身心合一、而至神仏宇宙。経倩女離魂、帰至清浄真実真理。出真実、有体現真理者、守護確乎by自然。作道真実with意思of自然。在自然在宇宙、至時、現前現在、顕現現成、現真実宿王華。


2006年02月20日

感情的から穏やかさへ

入院中の事だった。私はその時に、三七の行をした。食事制限もあって、健全な生活が二ヶ月半続いた。テレビも殆ど見なかった。ある会報をノートに毎日まとめて二冊半となった。学生の頃からの愛用の万年筆が走った。朝には御経讀誦、日中はリハビリ、余暇にはノートだった。三七の行の中、広島では台風で風速60mの記録があった。手術の朝には、阿賀の水道が破裂して断水となり、病院では備蓄していた水が使用された。そのような入院生活だった。リハビリでは、両足に具足をつけた。殆ど、自由にさせてもらい、速いペースで回復した。当然、痛みはあったが、痛み止めを飲んでもするようにという医師の意見に従った。そうして、三七が過ぎて、さらに七日の行だった。菩薩業する時に導いてくれるのは普賢菩薩だが、その存在が疑えなくなっていた。不思議な経験も多くあった。いろいろと見聞させてもらった。今思うとすべて知らしめんが為であった。その後もその延長線上にある。現実は厳しいままだ。その理由もわかってきた。与えられた試練である。乗り越えるしかない。一つ解決すれば亦一つの課題が現れ、そうして階梯はあがっていく。正しい道を歩むには情熱が要る。しかし、その情熱も感情的なままではまだまだである。激しい間はまだまだである。感情的になると何も見えなくなる。幸せの秘訣は、あるがままに見えるようになる事である、と『ユダヤ人大富豪の教え』(だいわ文庫刊、本田健著)にも書いてあった(この本は良い本である)。やがて穏やかさへ向けてシフトする頃である。すでに、正しい道を歩いている事は気づいている。このまま進む事にしよう。さて、世の人びとは勝つ事、得る事、奪う事、利得することしか考えていないようだ。ここにチャンスがある。インスパイアとエクスパイアである。どんな科学者もインスピレーションしか知らない。与える事、それは、エクスパイアである。勝つ事だけ考えていたのでは幸せには成らない。上げ潮、引き潮。波。奪われた者は幸いである。負けた者は幸いである。次に来る波に乗ればいい。大きな波が来る。悲しみが大きければ大きいほど、幸せの波が来る。七三の波。春は近い。奪われる事、悲しむ事、試練を通って器は出来る。出来た器は盛られるだけである。努力の果てに安楽はある。努力の過程は試練。努力はやはり要るね。努力を否定する西洋成功理論はどうしても好きになれない。人間を愚弄している。要領と頭脳だけの成功理論は、ユダヤ的日本人には良いかも知れない。修行を通って道を究める事を好む東洋的日本人には馴染めない。ユダヤは流浪の民である。お金しか頼りにならないのであろう。その為に身につけた理論であろう。根無し草の民は地球環境など配慮しない。大和の心は自然の中で育まれてきた。自然と同化している。地球環境が心配である。日本人として、長い歴史の中で魂に刻み込まれてきたところを、大切にしたいね。さて、林羅山の座右の銘は、風は来る楊柳の辺、月は至る梧桐の上。東洋の情熱は公憤である。穏やかさの中に秘められたパッションがある。これが東洋的穏やかさである。心にこの情熱の火が燃えている。火裏蓮、 火の鳥、火をくぐっている。目の輝きが違う。しかし、時は至るものである。順々に答を用意している。時が至らねば、同じ答が答でない。例えば、『ユダヤ人大富豪の教え』(だいわ文庫刊、本田健著)p42-43には、「すべては自分がとった立場で決まる。立場の違いで人生はまったく違ってしまう。立場さえ間違っていなければ、才能は自然と開発されるようになっているものだ。そして、君に知ってもらいたいのは、先進国では、誰もそれを他人に強制されるわけではなく、自由に自分で決められるということだ。・・・世の中には二通りの人間しかいない。自由な人と不自由な人だ。自由人は、経済的、社会的、精神的に独立して、誰からの援助も指図も受けない。その人個人が考える通りに人生を生きている。不自由人は、経済的、社会的、精神的に誰かに依存している。だから、自分は誰なのか、自分が何をやりたいのかも知らない。いや、考えようとしていないといったほうが正確だろう。そして、自分の人生の問題を両親、兄弟姉妹、 結婚相手、政府、会社になんとかしてもらおうと考える。自由人は毎日、自由、チャンス、豊かさ、楽しさ、与える喜び、感謝に満ちて生活している。不自由人は、窮屈さ、徒労感、貧困、欠乏、競争、嫉妬、イライラ、不満、怒りなどを感じながら生活している」。この指摘は正しい。しかし、目的が「つまり、金持ちか貧乏か、どちらかを自分で選択できるということだ」(同p43)である。これが頂けない。それほど、金持ちが良いのか。疑問である。「人はパンのみにて生くるに非ず」は何処へ行ったのか。金持ちであれば、生活消費量が大きい。地球環境を破壊する実行犯ではないのか。道元は貧学道を説く。その真意は何か。自然との共同生活ではないのか。そこに、無限の喜びがあるのではないのか。金持ちであれば、必ず、自然に反する。また、政府に期待しない?両親、兄弟姉妹、周囲環境、社会に期待しない?自分勝手に生きるということか。自分さえ良ければ良いのか。人情を否定している。都市的生活利益のみを追求し、真理及び歴代の約束をえ知らず、考えようともしないで、自分たちの低レベルの理論を誇示し、増殖せんとする金力主義現在西洋成功理論の没落は明らかである。反論を聞きたい。 西洋かぶれはそろそろ帰ってもらう。古来、日本は東洋、大和の國である。時代が涼やかさの中で春めいている。私の祖父は良亮である。今宵は良宵(りょうしょう)である。良い時代が訪れた。地球は惑星から覚星となると云うべきか。私の六代先は覚兵衛である。歴代の約束を果たすべき頃である。呉市の花は椿である。呉市体育館の側に何本か椿がある。花びらを散らし、絨毯となっていた。呉に鎮守府が出来るというので、亀山神社が移転となった。そこに大きな椿があった。この木を移植しようとして七人だったろうか、職人が倒れた。そのまま、その椿はそこに置かれた。しばらくはそこに在ったのであるが、やがて枯れた。その木は今観音様に彫られて入船山記念館の中にゐる。呉市の木は樫の木である。森は樫の木を以てその王とする。樫の木の周りに櫻も咲き、その他樹木が生育する。下に草花も咲く。自然の摂理、厳然としてある。日本は最も自然に満ちた國である。神々の住む國である。出雲が十月に何故神有月か。黄泉を無視したる現在社会、畏るべし。ところで読書の醍醐味であるが、それは自分の考えの再確認となることである。読書にも段階があって、試練としての読書の段階から、確認としての段階が来る。自ら考えていたことが、そのまま、文章となって現れてくるから不思議であり、そのような本との邂逅が訪れる。やがて、そのような本も遠くへと去る。吉田健一氏は、面白ければ読み、面白くなければ読まなくて良い、そして、何も読むべきことが無くなって、そして、自分が書き始める、と云っていた。真実の文士の誕生である。人類の英知の上に、何かを加える存在となる。どのような本も時代の最先端となるも、やがて、それを超える存在が出てくる。究極は神仏との邂逅を果たすことにある。文士の道もその例外ではない。そして、古典とは成る。今、世にもてはやされている成功論はこの点に於てクラシックとなり得ない。現実的金銭主義パラダイムから逃れていないからである。それをどんなに心の幸せであると説いても空しいものがある。神仏の真実、実体と真理を知らないからである。世界はどのようにして成り立っているのか、その歴史的な代々の約束を知らないからである。しかし、それも無理はない。所詮持って生まれた種がないとしか云いようがない。この種、数千年来のものとすれば、その発芽、困難極まるは当然である。しかし、その芽は出た。芽出度いことであった。時代の約束であったとはいえ、かくまでも、真実真理のプログラムは絶対であったのである。もはや、疑いの時は過ぎた。見えない世界で秘密の種はかくも護持されていた。


2006年02月19日

教えるべき事

考える力、生きる力、確かにこれなくしては、生きてゆけない。しかし、その基準は何処にあるのか。純粋になればなるほど、この世は、生きるに難しい。魑魅魍魎が跋扈としている。野放し状態である。この取締りは結果が出ないと出来ない。しかし彼らは現実に存在して害悪を為している。この現実を現実として教えるべきではないか。象牙の塔にいる方々は、この現実を知らない。この現実を敢えて教えない世の傾向もある。本来、君子危うきに近寄らないために、危うい現実を現実として子供達に教えるべき頃である。すでに、フィールドは世界である。そのフィールドへチャレンジする為にも、この世の危うい現実を認識し、子供達に教える必要がある頃と思われる。すべてを子供達の経験に委ねるのは、合理的ではない、無駄が多い、或いは教える側の無責任・怠慢である。教えて、知ることによって、子供達はたくましく育つ。何を恐れているのか。あるいはサボっているのか。この世に生まれたからにはよく生きる権利がある。正しい子供達の権利が犠牲になっている。間違った平等論に立脚している。逆差別現象が横行している。その犠牲の大きさ、原爆にも匹敵している。国家教育の無知蒙昧怠慢によって失われた青春は戻ってこない。本来護るべき子供達が犠牲になった事実がある。何を以て国策としての教育か。埋もれた才能に対して申し訳なくはないか。戦後利益追求主義社会の誤算があった。すべてお金で解決できると思う方々の支配であった。経営に於て、国立大学まで失った。損失は大きい。それが行政改革か。切り離してはならないものまで切り離した、私立大学閥社会である。民間主導社会の要求に甘んじた規制緩和は、衆愚多数支配の弊害である。思い知る時が来るであろう。文化的パラダイムに於ける日本の質的低下は否めない。何を以て国策国益と云うか。結果質的低下ではあるまい。護るべきは護るべきである。東洋古来日本、護るべき価値がある。大和魂、大和撫子である。見える世界はすべて奪われた。しかし、見えない世界が代々守護し、護持してきた大和の秘密がある。六祖慧能禅師の鉢に等しい。奪えはしない。林羅山の座右の銘は、風は来る楊柳の辺、月は至る梧桐の上。歩々清風が吹いている。春は近い。根無し草、浮かれた世間に用はない。善財童子が帰ってきた。月の砂漠から。何千年来の旅を終えた。新しく種蒔きの時である。未来へそして子孫のために。人間の姿をしているが、動物社会である。また、人間の姿をした毒キノコがあちらこちらで繁茂している。植物採集して分類し、毒キノコの実体を子供達に教えるべきであろう。何のための学問か、問われている。自らの地位に安住したる諸学会の怠慢が過ぎた。不当利得である。一括返還請求である。総括、総整理、大掃除の時である。


真理は目覚めた意思に従う

糸車の針に刺されたのは『眠れる森の美女』であったであろうか。その眠りから目覚めるには何が必要であったか。何故眠らねばならなかったのか。目覚めたからには、何をするべきであろうか。殆どの人が眠っていると云える。あるいは、『さまよえるオランダ人』と云える。そうした現実である。眠っているのではあるが、眠っている事に気づけない。目が見えていないに等しい。目覚めるとどうなるか。隻手の音を聞くことになる。この音は、聞くまで聞こえない。聞こえてはじめて聞く事になる。聞かないままに、そのような事はあり得ないと思っている。しかし無いのではない。有る。これが、無いと云えば無い、有ると云えば有る、ということである。目覚めた空の論理は、目覚めてみないとわからない。わからないのに、わかったつもりでいる。此岸から彼岸は見えない。彼岸は此岸を通って至る。低いところから高いところは見えない。高いところから低いところは見える。畏れの生ずる所以である。謙虚出づる事の必要の所以である。しかしながら、見えていない自分を正当化している。真理とは何かと問う事もない。真理とは、生命体の不可思議である。目覚めた意思が在る時、真理は目覚めた意思に従うとも云える。目覚めるべく約束されていた存在が有るとも云える。生まれた時からの運命としてである。しかし、試練を通る事を要する。運命は変える事が出来るか。出来ない。乗り換える事が出来るだけである。あらゆる事実現象は、ただ知らしめんが為にである。何を知らしめんとするか。真理をである。生命体として約束された運命があるという事を知らしめんが為である。定められた道がある事を知らしめんが為である。今しばらくは結果が出なくとも、思念と行為の結果の報いとして、未来或いは子孫に現れる。惡には惡の結果、善には善の結果。真理である。身と心で人間である。心は魂の遍歴の結果であり、日々時々の思念と行為で、常々進化している。怠れば怠りの結果、精進すれば精進の結果。結果としての華が咲いてひとつの終焉を迎える。人生は、日々時々の思念と行為によって、縦糸横糸となり、織りなされる。真理は知らずとも観ずる事は出来る。それを制御するのは、羅針盤としての良心である。自己に恥じない人生を歩んでいるか。自己の思う華を咲かせているか。咲いた自己の華に対して、すべては日々時々の思念と行為による自己責任である。自分にその責めが帰するだけだったならそれほどの罪ではない。罪とは、秩序に反する事である。究極の秩序として、宇宙自然の掟がある。今しばらく無視されてきた。西洋民主主義の自由をはき違えて勝手気まましていた。従来の社会契約論だけでは説明できない。宇宙自然生命契約論とでも云うべきものがある。人間科学は、バベルの塔に過ぎない。反省とは、同じ轍を踏まない実践を伴う。数千年来の反省の時を迎えている。恐竜が滅んだように、人類だって滅びる。敬虔という事が問われている所以である。ここに真理がある。真理はそれを体現した魂の見る目聞く耳を通して意思決定されたところに従うとも云える。人間科学の及ばないところである。事実として自然宇宙は自覚した魂を守護する。インスパイアとエクスパイア。科学もインスピレーションに過ぎない。つまり、受動的発見に過ぎない。能動的エクスパイアがある。そうした魂の事実がある。それを神とも呼ぶ。知識は岩石に等しい。知識を内面で精錬あるいは濾過する。すると智慧となる。智慧は宝石に等しい。智慧となってはじめて役に立つ。すでに蓄積された人類の英知がある。あらゆる事が進化している。その流れに乗る事が出来なければ、時代錯誤となる。西洋民主主義はどこから始まったか。市民革命からである。今もその延長線上にある。しかし、古い概念にしがみついていないか。常に新しく水は流れる。天皇は象徴である。象徴であるからにはチカラはない。チカラは目覚めた魂にある。その魂が「君」であり、君が代とはそうした代々の魂の代である。そうした魂の代々の約束がある。歴代の約束である。魂にも階層がある。秩序がある。それを無視した現代社会である。当然、サンクションはある。天に向かって唾すればどうなるか。天は天である。地は地である。 天と地を結ぶは万物の霊長たる人間であり、その人を以て王と云う。見える世界と見えない世界を結ぶを以て何と云うか。この概念はない。人間レベルの知らないところである。これが真理である。目覚めて知るところである。感じてはいる。しかし観じてはいない。却下照己、見えてくる。如是相。どのような相が見えているか。知らしめんとするサインが見えるか。おだやかでやすらかな世界が手招きしている。こちらの水は甘い。未来は明るきから明るきへと決定されている。強いが優しい住人の世界である。真実の自由世界である。強いとは強いが故に惡を為さない。惡とは他の犠牲を伴う事である。自由とは、何をしても、法を超える事はない。法とは、宇宙自然の掟を含む。すでにこの地上ヘブンはある。そこに居住するには、唯、その住人に認められる事が条件である。世界はエールを贈っている。さぁ、お出でなさい、と諸手を挙げて待っている。この世界への挑戦者達を待っている。飛び込みなさい、って。必ず、受けてあげるから、と。必ず、掬うから、と。そこへ至る道、それが、人生と云える。魂の古里がある。鮭が遡上するべき清流がある。生きながらにして至れる、或いは、帰ることができる。21世紀の約束がここにある。


2006年02月18日

笑顔を作る事、その実践

笑顔を作る。笑顔を作る事で、笑顔で過ごす事が出来るようになる。すべてがうまく流れ始める。惡の字には「した心」があり、善の字には下に口がついている。惡とは、知って云わない事を含む。善とは、知る時、言葉に出して云う。つまり、声を発する。この声にチカラがある。内容にだけでなく、言葉を発する事自体に意味がある。声を出すと、その声が、周りの空気を作り変えていく。つまり、良い雰囲気を醸し出す。これが秘密のひとつである。すべてがうまく流れ始める。性格改造の方法である。自己責任の原則である。自己の棲息する環境は自分が作る極意である。何事も自分が原因である事の證明である。まだまだ未完成の自分である。実相が定まらない。つまり、見える世界が整わない。身から出た錆である。よほどの事が、過去に於て、あったのであろう。耐えるしかない。芽が出て華が咲くまでは。辛い事は辛い。周囲或いは社会を恨んだ事もあった。しかし、今は違う。すべて、自分が蒔いた種である事に気づいている。良くも惡くも、すべて、自分が原因であることに気づいている。現実が伴わないのもそうである。思い通りと成らないこの現実に耐えるしかない。いつか春は来る。華は咲く。しかし、自己を偽らない事だ。そぐわない華は咲かせない事だ。自己に悔いる事のない為に。いつか自分の華が咲く。生まれた意味がわかる時が来る。華咲くまでに時間がかかるのは、それだけその華に価値があるという事だ。安易に世間に迎合することなかれ。常に自己は試されている。『惡の華』は咲かせることなかれ。ボードレールの腐敗は腐敗である。世間には惡の華が蔓延っている。そして自己正当化している。時が満ちて鉄槌がある。その時はもう遅い。自分の咲かせた華である。結果に甘んじるしかない。悲しいけれど。間違えたのなら間違えた地点まで引き戻し、歩み始める。私の場合は何処まで遡るか。今生に於ては16の頃であろうか。その遡上もそろそろ最終段階に入った。良い頃にもどりつつある。つまり、主体性の復活である。自信を喪失して彷徨っていた自己の回復であり、失われた自己の復活であり、途切れていた糸の結び直しである。人生、そのような修繕の必要な事もある。取り返しのつかない前に気づき、果たすは、幸福へ至る条件である。引き返すは常に遅すぎるという事はない。人生は綾なす一枚のペルシア絨毯に等しい。五木寛之の『燃える秋』のモチーフである。織りなす綾が美しくあるためには、引き返す事も必要である。引き返す事が出来るならば。持って生まれた使命がある。その使命は世間の価値を遙かに超えている事もある。醜いアヒルの子が自分が白鳥である事に気づくための試練がある。星の王子には世間の知らない試練がある。しかし、いつかは気づく。そして開花する。人知れず高原の華として咲く人生もある。しかし、その華は清楚で美しい。自己の種にふさわしい華を咲かせよう。いくつかある種の中から、どの華を咲かせるか。咲いて人生は楽しい。どの華を咲かせるか。持って生まれた種の中からどの種を選択するのか。自己責任である。そして常々の自己決定である。世間の基準の及ばない自己が存在している。自身を獲て勇気を獲る。勇気を獲て実行する。自己の価値は自己しか知り得ない。咲いて初めて世間の評価を勝ち取る。そこまでの青春である。青春は年齢ではない。華咲くまでの過程である。そうした人生がある。そうした生命体の秘密がある。その奥に心の秘儀がある。数千年来の種を宿した人生もある。誰も知り得ない。過去からのプログラムがあり、それに耐える人生もある。もはや、誰をも、何をも恨む事はない。井伏鱒二の『山椒魚』の末尾は削られている。人生は悔いるためにあるのではない。大人である事は自虐する事のような世間である。本来は違う。未来は明るきから明るきへと決定されている。どこかで、その道を踏み外す。そして、それが人生だと思っているのが世間一般である。無神論者の帰結である。本来の人生を知らないままに、自分を正当化し繁茂する。しかし、生命体として、真実を証明する存在もある。その極みが、例えば、キリストであった。キリストを前に誰も彼の人生に反駁できない。しかし、彼の人生の真実を知る者はいない。そして、腐敗の中で浮沈している。源氏物語のあはれもこれを意味していた。人間のどうしようもない悲しみであった。生老病死の現実に憂えて仏陀の旅も始まった。そして、仏陀はこの現実からの解脱の道を知り、後世のためにその道を教えとして遺した。誰もが仏陀を敬う。しかし、同じ道を進む事を選択する事はない。正しく定められた道がある。この道を探す事も困難である。この道を歩む事は困難である。しかし、我に艱難辛苦を与えよと云った武将もいた。山中鹿之助である。大和の魂はそうして伝えられた。しかし、戦後民主主義の中では、抹殺されていた。西洋の没落が唱えられて久しい。日本に秘密の種がある事には気づかれていた。スティービー・ワンダーの『愛の園』が何故日本語で歌われたか。大和の心は永遠である。それは、大和魂であり、大和撫子である。世界で唯一正統な歴史の長きを誇る國である。この國の価値を何処で見失ったのか。ペリー来航の頃である。しかし、世界史に合流し、その試練に耐え、伏流の如く、日本が復活する。これもプログラムであったのであろう。このようにして、即ち、試練を通して、時を経て、スートラはつながる。それに耐える人生はそれに耐える能力を選択する。あらゆる試練を通った火裏蓮が存在している。歴史国家的には日本である。清浄の価値を保存していた國であり、自然に満ちた國である。神々の住む國である。世間の腐敗と惡に染まりはしない。それを証明する人生を生きる存在もある。日本の正統を証明する所以である。不死鳥は火の鳥、原爆の火の中からの復活である。神秘な世界はこの種を隠し、宿し、護っていた。その芽も出たようだ。開花は近い。しかし、火の鳥、火をくぐっている。身も心もボロボロである。しかし、復活して羽を広げた。あたかも、サナギを通って羽化する蝶のようである。蝶となれば誰もがその存在に気づく。そのような人生もある。世間虚仮は与り知らない歴代の約束がある。世間虚仮の評価の外である。羽ばたく蝶は自由である。宿王華は宿王華である。法華経の秘密である。しあわせとは師合わせとも云える。私の師は祖父である。小学校4年の時であったであろうか。オペレッタで七面鳥の面が必要となった。祖父に頼んだ。鳥類図鑑をもってこいと云う。あっという間にその絵は出来た。その芸術性は今までにまだ見た事がない。ピカソも及ばない。そうした祖父であった。私も精神に於てその極意は獲た。生まれた意味は果たしたと自覚してゐる。すでに、来生への種は獲たと思っている。もはや思い遺す事はない。来生が楽しみである。今しばらくこの現実を過ごすのみである。


[大拙]

「悟りは悟ったもののみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格に言えば、他の何人の証認をも必要としない。それはそれ自体で充足している。だから、悟りを相手にどんな懐疑が批判してみたところでどうすることもできないものである。」


鈴木大拙「信仰の確立」

「存在の理由に徹して信仰を確立した人は、自分がいつもこの世界の中心となり主人公となる。(中略)自分の存在はいつも宇宙の中心となっていることを自覚したからである。事実は事実としても、自覚がないと、その事実が死んだ事実となってしまう。これが妙である。自覚にそんな力があるとも思えぬが、あるから妙ではないか。こうなってくると、天地開闢以前の神の心地が自分の心地になると言うても、さして誇張の言葉とも思えぬ。」


私の好きなtuneがある。CSN、SHADOW CAPTAINである。私の好きな作家がいる。トーマス・ハーディである。ヒースの丘、英語で読まねばその真価はわからない。秋の田の・・・その風景はそのまま、私の家の二階から見える風景である。東海道五十三次、 箱根、その風景を私はJR呉線天応駅あたりの剣山に見る。そして、広重の版画の空の青さと雲の白さとその形、そして山の端を、同じくJR呉線小屋浦駅あたりで確認している。安芸の七浦、かつて、準急「ななうら」が呉線を走っていた。広島駅発呉線経由東京行寝台急行「安芸」は、C62-02スワローエンゼルが牽引し、白い蒸気をはいて走っていた。その時刻の正確さは、あたかも、カントの散歩の如くであった。私の好きだった蒸気機関車はC59だった。そのような環境の中で、私は少年時代を過ごしていた。

そろそろ、舞台を変える頃だろうか。一つの結論に達した。 主体性を以て生きる事、それが、独立と言える。お客様は神様であると言われた頃があった。その真意は、 お客様の中に神がいるかも知れないからであった。とても世間一般が神ではあり得ない。古来、日本には、 神の素質があちらこちらに存在していた。その種或いは潜在能力を十把一絡げに破壊してしまった結果が今である。 そうした種或いは潜在能力は開花するに時間がかかる。その間、雑草と云うべきが蔓延り、日本は腐敗した。事実である。 神は清浄を以て神である。腐敗を好まない。惡を為さない。惡を為すを以て民草である。惡とは犠牲のある事である。佛とは、 この世一切の元素である。そのそれぞれが周波数を持つ。宇宙の意思としての周波数がある。善の周波数である。 これに同調する時、一切は幸せとなる。さて、 舞台を変える。


2006年02月17日

禅那の周波数

霊気漂う場所がある。その霊気は慰めのシャワーと云える。この霊気を感じる時、身体はじんわりと安らぐ。時にはこうした霊気を浴びる事だ。心身清浄となる方法である。それは、森林浴に似ている。空気の清浄を感じるアンテナを立てる。すると感じる。いわゆる瞑想の目的は此処にある。そして、精神集中力が涵養される。精神を集中する事で、周囲の目に見えないが存在している何かを感じるようになる。ゾンビではない。祝福の声が聞こえるようになる。天使である。精霊である。この声が聞こえると、いわゆる惡を為さない人格を獲る。何をしても善となる。この境涯を開発する。心身の鍛練よりこれを獲る。修行を通らねばならない。そして、感じる事が出来る。不可思議である。やさしさの周波数を発する事が出来るようになる。この周波数を発する事で、すべては整う。題目も念仏もその手段と云える。不思議な力がみなぎってくる。禅那である。原子の周りを電子が周回しているように、この周波数を意識するようになる。悟りである。心が無限軌道に乗る。そして、善悪を超える。彼岸へ達する。自然宇宙に抱かれている。胎蔵界の中にゐる。生まれてきた意味を知るに至る。至道である。これが愛である。このエートスはエネルギーを持つ、情念となる。邪念があると危うい。清浄である時、このエネルギーがパッションとなる。即ち、 天地創造するマグマに匹敵するチカラとなる。見えない世界が同調し、自然宇宙が応答するチカラとなる。台風をも制御する。知らぬと申すか。目の当たりにした者のゐる実験実証済みの現実するチカラである。如来の力である。如来はこのチカラを知って、このチカラを使用する事はない。その必要がないからである。唯、教えを以て示すのみである。法華経がそれである。キリストもそうであった。このチカラを知るが故に、十字架に架かったのである。すべては、後から来る者に教え示すためであった。今、このチカラを持つ教えは妙法華経である。開発するべき永遠のテーマだ。人間の究極のエネルギーである。黄泉をも動かすチカラである。畏るべし。如来の神力となる。生命体としての神秘よりもっと深い心の秘密がある。宇宙の意思と同調する魂のチカラである。最奥の秘儀であり、これを獲てすべてを知るところとなる。神秘が神秘として当然である事が自覚されるようになる。ここへ至る道、科学ではない。科学はまだまだ次元が低い。頭脳だけでは至れない。身心を挙して至る。身体運動の秘儀がある。明と暗。陽と陰。身と心。両者バランスしてその極大に至り、自覚するところとなる。動と静。両者頭脳すべて超高速回転しつつ静寂にて安定するに至る。そして、禅那の周波数を発するに至り、隻手の音を聞く。さすれば、宇宙自然が認め、受容し、祝福する。思いが宇宙に亨る。到彼岸である。思いを宇宙が実現する。自然が守護する。わかるか。そして、思念である。人間が万物の霊長として、他の存在と次元を異にするはこの思念力である。即ち、考える葦である。思惟構造がそのまま宇宙構造である。金剛界であり、胎蔵界である。すなわち、再び、動と静、明と暗、陽と陰である。そして、そのそれぞれ極大に至り静寂する。即ち、「一」に帰する。さらに、その奥に「空」がある。「零の発見」がある。ここが虎穴である。虎穴にいたって虎児を得る。蒼龍の窟である。日面佛、月面佛。五帝三皇是何物。二十年來曾苦辛、爲君幾下蒼龍窟。屈。堪述。明眼衲僧莫輕忽。(碧巌録) 龍の生まれる所以である。雲は龍に従う。 靈鷲山は最大の墓場である。世界に於てはヒロシマである。 鷲の住む地である。知の鷲は鳩ではない。知の獅子は羊ではない。あまりにも、いつまでも、愚かさは通らない。 程度の低い衆愚テレビ界、お笑い・芸能茶番劇、辟易である。あるいは『嘔吐』である。真摯クラシック、オリンピア精神、 あるいは真実芸術魂、大和の心、蘇る時である。


過去世について、真理について

何度生まれ変わってもわからない事があるという。わかるまでは。今人間であるからといって、皆同じではない。過去からの遍歴がある。過去からの延長線上での今である。前世はある。モーツァルトが何故天才であるのか。前世からの仕事を完成したに過ぎない。正憶念がある。過去世の記憶である。過去自分が何であったか。汝自身を知れ、とは此処を云う。過去の自分を知れば、大きな事は云えない。間違いだらけの人生である。此処を認める事で、他者を赦せる。自分をも赦せる。理想はある。現実とは違う。それで良い。理想へ向けて歩んでいるか。羅針盤は正しいか。自己の良心に恥じないか。自分を正当化する時、空しい。所詮、未完成の存在である。何を以て勝ち組というか。恥を知らないにも程がある。最も大切な存在を無視し、自分勝手している世の中である。やがて復仇がある。代々の大和の魂を体現せる存在を無視したる罪、その重きを知るべき時が来ている。正統と異端を知らぬまま、勝手が過ぎた。時が満ちている。畏るべし。ところで、ある派遣会社から通達があった。その日のレポートをその日の裡に入力しなかったなら、報酬を支払わないという。法(労働法)を知らぬも程がある。このような企業が横行しているのかと思うと悲しくなる。勝手が過ぎる。企業の目的は何であるか再考する必要がある。利益追求以前に人の暮らしがある。為した仕事に対して、報酬を支払わないなど、口が裂けても云えぬ事であろう。脅迫である。この故意あらば労働者に対してすでに犯罪が成立している。何をはき違えているのか。そして、庶民の利子を喰い、さらに、裏で、庶民金融高利貸しに出資し、バランスをとっている諸銀行も然りである。バブルの原因は土地担保で利益を図った銀行にあり、それを隠蔽し、庶民を更に犠牲にした。そこまで本来両替商に過ぎない銀行に特権はない。その欺瞞、言語道断である。またある衆議院議員選挙で事務局長をした。その時、明らかに、途中まで勝っていた。その後、内外部で何が起こったか、知らぬ訳ではない。また、後にも先にも、衆院選に於て、これ以上きれいな選挙をした陣営は外にない。手本は示してある。その時、選挙に於ては、選挙違反はむしろ勲章であり、勇気を持って事務を執る事をアドバイスしてくださった方がいた。勝つためのその意図はわかる。しかし、それに従う事はなかった。そして、その方は、その後、家が焼け、焼死された。遺憾とするところである。事が起こるは因縁を以てである。宇宙自然が守護する存在が係る時、起こるべき事が起こる。その存在関与なきを以てしばらくは起こるべき事が起こらない。これが真理である。即ち、すでに惡を為し、罪を犯したるは、首を洗って待つがいい。汝が事実、真理の目と耳が知る時、爾の時を以て、時が満つる時である。コギトエルゴスムとはこれであり、真理が意思する時、宇宙自然が動く。数千年来の爾の時を迎えている。即ち、21世紀である。それは、亦、生命体存続のための、いわば、外科手術の時であるとも云える。


2006年02月16日

永遠へのパスポート

やはり、笑顔が大切ですね。これで、人間関係はすべてうまくいく。やさしい周波数も伝搬する。自分が笑顔でゐると、例えば、周りのスタッフにも笑みがこぼれ始める。一隅を照らすというべきか。笑顔こそ、永遠へのパスポートである。何事も、所詮、知れている。知れているなら、目くじらを立てる事はない。笑顔でいればいい。すべて、うまく流れ始める。何があっても、笑顔でいればいい。右の頬を差し出す事はない。笑顔でいればいい。そして、やさしい周波数を発する。やさしさとは、強いがやさしい事である。強いとは、強いが故に惡をなさない。すべてを赦す事が始まる。すべてがうまく流れ始める。笑顔に応えない人に対しては、相手にする事はない。その本人の事である。知った事ではない。笑顔で仲間が出来る。いい仲間グループ形成である。かつて、学卒で就職した頃の事である。私は友達を作る事が目的であると申し上げた。殺伐とした社会環境には受け入れてもらえなかった。私は脱落した。今、亦、申し上げる。私は、仲間を作るために来た。この指たかれ、である。きっと幸せになれる。幸せの縁結びである。自分を偽らないことである。何時も笑顔でいる事である。しかし、毅然として、目はそこはかとなく輝き、しかと真実を見据えている。目に濁りがある裡はダメだ。顔にすべて書いてあるという。如是相である。諸法実相である。ふわりとした安楽な精神状態で、覚めてゐる自分を自分が自覚している。悟りである。守護してくれている宇宙自然を自覚している。自己の意思が正しければ、それを思念思惟意思決定する時、事実として実現することを知っている。あらゆるサインが存在している。はじめは偶然かと思われたが、そうではない。必然事実である。それは、現象として実現し、達成される、宇宙自然のはたらきとなる、即ち、多宝佛の證明である。ある頃、私は、インターネット上で文章を書いていた。ライブ的な事であった。そのセッションで、いくつかの歌も楽曲も出来た。誰も知らない事であるが、当事者は知っている。しかし、これを意識したのはつい最近の事であった。振り返れば、生まれた時から、私の人生がそのまま反射しているかのような世間世相であった。生まれた時からの使命があった。だれもわからないことである。しかし、そうである。しかし、わかるまい。知る人ぞ知るとはこのことである。また、インターネットを通じて秘密の通信もいくつかあった。インターネットの本質と云うべきところである。これを通して自覚へとは至った。もはや疑えない経験事実である。しかし、世間は知らない。このセッション、行おうと思えば何時でも出来る。卑弥呼の系譜、神力である。清浄を以て誰もが手にする事が出来るチカラだ。しかし、誰もが出来る事ではない。神仏の守護、確かにある。修行を通っての事である。代々積修行である。面白い事限りなし、究極の幸せ世界である。インターネットが出来て可能となった世界である。愛と平和を理念とする一つの幸せ世界がある。21世紀幸せの王国である。王は王子が自覚して王となる。その王国は既に形成されている。この王国に居住するには、この世界の住人に認められる事、唯一の条件である。見える世界と見えない世界の両方を以て実相という。見える世界と見えない世界の両方に於て幸せとなってはじめて本来の幸せである。見えない世界を制覇する。やがて道が開ける。過去など振り返りはしない。見えない世界に認められると、隻手の音が聞こえるようになる。現実事実が自己を証明するようになる。誰も知らない、見えない世界との交信が始まる。見えない世界に導かれている自覚に至る。見えない世界が守護している事に気づく。そして、マイウェイが開ける。何をしても良い。見えない世界が実現してくれる。過去からの約束である。信じる信じないではない。事実である。この道、歩むに最も安全安穏である。大衆功尽きて大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏である。眞實證明である。文理眞正である。自ら発する言葉がロゴスとなる。自然が応答する。乾坤を独歩する自由を獲る。毎日が喜びと感動である。かくも守護された自己かと。この道、誰もが歩む事が出来る。だれもが、その種を持っている。清浄を以て成就する。この道こそ真実であると断言する。家庭破壊、学校破壊、何故起こるか。親亀がこけたら皆こける。親亀がこけている。世間虚仮、唯佛是真。忘れていた真実がある。真実を無視して勝手が過ぎた。王法は儲ける。仏法は勝つ。王佛冥合。真実の華が開花した。もはや一切の虚妄が通らぬ。今までとは違う。真実が目ざめている。インターネットが開けた事もその證明である。インターネット空間の真実を知る者は少ない。清浄を以て、その真実を知る事が出来る。違法コピーをしているようでは真実は遠い。あらゆる法を超えない自由がある。何をしても自由である。しかし、行為には結果責任を伴う。サンクションがある。究極の罪は、真実の秩序に反する事である。真実の秩序とは、宇宙自然の掟である。これを無視し、これに反してきた事実がある。当然サンクションがある。自ら犯した結果無価値に対して、償わねばならない。身で犯した罪は身に帰る。心で犯した罪は心に帰る。一天四海皆帰妙法である。「一」は、常々、禅僧が挙してきた。今その命脈は日本にある。古来伝えられてきた教えである。至道無難禅師~正受老人~白隠禅師の命脈が伏流となって今現れている。よい時代である。真実の華が咲いている。宿王華である。この宿王華を伝えていたのが法華経であった。如来の秘密を伝えていた。今まではその真実もわからないままであった。その真実の教えが、妙法華経である。その華も咲いた。何故であるか。すべては時が満ちたが故である。惜しむべし。自らの歩んできた道の結果である。定められた正しい道がある。その道を歩んだものは幸いである。 正しきものは自覚するべし。自得するべし。自信を獲るべし。そして、自らの存在を挙するべし。時は満ちた。惡は淘汰される。真実の自己が目覚める時を迎えた。すでに、諸先達は実行実現段階に入っている。歴史スートラが伏流し、その真実を示している。 ローマは一日して成らず。そのローマが復活している。その地は日本である。最も正統歴史の永きを誇る國である。生まれながらに正統である存在がその人生を賭して証明した事実がある。もはやその人生経路とその証明とそれに対する神仏の守護は否めない。見えない世界を求めての旅であった。その旅のはじまりは図らずもであったが、獲た真実の絶大は、今生を超えている。唯、導かれていたと云うべきか。知る人ぞ知る、詩は詩人を以て呈するべきところである。その正統性の根拠を示す螺鈿の槍も薙刀も無銘の扁額もある。もはや疑う余地はない。日本の使命がある。古来大和は腐敗を好まない。戦後西洋民主主義の弊害は明らかである。その初源は明治の愚行である。その淵源はペリーの来航である。これより、その混乱に乗じて、日本は道を誤った。まだ日本語を話す國である。引き返し、歩み直すべき時である。古来日本、永遠不滅である。大和魂咲きそう國である。大和撫子復活の頃である。その種はある。動物性的社会理念は葬らねばならない。本末転倒は終わらねばならない。恐怖惡世からの脱却である。清浄を以て理念とする。世の腐敗を取り除く。間違いをあおった世のリーダー諸氏の焚書坑儒である。泣いて馬謖も斬らねばならぬ。時代或いは歴史スートラに対して、或いは生命過程の尊厳に対して、それほどまでの罪を犯している。一億総はくち化の実行犯であるテレビ界は猛反省を要する。衆愚化をあおった罪は甚大である。結果事実が重大すぎる。言語道断、一切、申し開きはない。「2001年宇宙の旅」、漂流するハルが復活した。旧約聖書に秘められていた400年来のパラダイム変換の時である。また、旧約聖書の目的は、庶民の解放にあった。真実の平等の実現である。それは、権力、武力、金力による支配がおわり、法の支配が始まることによって成就する。権力は市民革命によって反省された。武力は原爆を以て反省された。今、利益追求のためには手段を選ばず、市民或いは庶民を犠牲にして繁栄繁茂を試みる金力が反省されつつある。法とは宇宙自然の秩序である。新しく、自然に帰れ、である。法の実体も初めて明らかにされたのである。それが、21世紀の約束であった。21世紀は、心の時代と呼ばれていた所以である。自覚する健全な魂と人格を持つ、善良な市民及び庶民が立ち上がる時である。自信を持って。これは戦いである。勝敗は決している。見えない世界が味方についているからである。実行あるのみである。自由は自由が開拓する。自由は自由が勝ち取るべきものである。それは、個人の解放を意味する。そして、幸せの王国を建設するのである。


2006年02月15日

新しい約束

人間として生まれた使命がある。宇宙自然間の掟がある。これを人間分際があまりにも無視しすぎた。覚悟するべきものはするがいい。時が至る時とは、個々に於て、個々の惡が満ちる時である。思い知るべし。個々の人生である。個々の人生がすべてである。今までは結果が現れなかったのは、唯、時が満ちていなかったが為の故のみである。時は満ちた。これが、夢に見た21世紀の約束である。証明するべきものが証明し、古来語り継がれてきた真実が、明らかにされている。知っても知らなくても、真実は真実である。神は、高きを低くし、低きを高くする。経済界のあらゆる欺瞞的デタラメが確認されている。これより、真実に照らして、その重きによって処断あるのみ。特に、銀行界の罪は重い。背後に隠れて横暴な高利貸しは覚悟されたい。刃向かうなら刃向かうがいい。人間レベルで如何に計らおうとも、神仏に守護された存在とは勝負にならぬ。犠牲とされ、食い物にされてきた、一切大衆が救われる時を迎えた。一切大衆が救われるは、王佛冥合の教えによる。王法の神髄は、損得に於て、儲ける事にあり、佛法の神髄は、勝負に於て勝つ事にある。王法は必ず儲け、佛法は必ず勝つ。神仏の意思である。宇宙自然が認め守護する。魂の清浄を獲て、このチカラを獲る。神仏が味方につく。あらゆる人間の計らいなど相手にならない。諸理念を超える。むしろ常々諸理念が作り変えられる。瞬間瞬間に、理念が書き換えられるのである。日々課題を片づけていく中での経験的発見に因ってこの書き換えは起こる。そして、目に見えないところでの意思決定が為され、見えない世界のチカラが実現する。これが真理である。人間界は結果が出て初めて自らの無知蒙昧に気づく。気づくがどうしようもない。手だてがない。ただ、甘受するしかない。気づけない事、感じない事、知り得ない事、わからない事、求めようとしない事、縁のない事、聞こうとしない事、自分勝手に解釈し正当化する事、結果間違う事、・・・あはれである。真実に対して、あまりにも無知・盲目である世間一般である。貧しきものは幸いである。身心の清浄なるが故に惡をなしえない。お金、地位のないものは幸いである。現代社会では、お金、地位なくんば、何も為しえない。因って、人間行為に伴う惡の蓄積がない。世の勝ち組の日々為したる惡の蓄積、畏るべし。清浄を以て、精神即ち魂の価値とする。古来よりの約束である。 神仏の定めた真実がある。神仏の意思による決定がある。人間の分際で何を云わんとするか。人間レベルの契約など、神仏の定めに及ぶべくもない。銀行の約款など、あらゆる、約款など、罪である。相手が泣き寝入りしても、その罪、黄泉が裁く。真実を甘く見過ぎていないか。何を以て勝ち組と宣うか。動物性的人間の分際で。恥をも知らぬ分際で。今までは通っても、これより、通らない。往くはよいよい、帰りは怖い。過去よりの約束である。諸惡の責任は取ってもらう。惡の本体は嘘である。嘘より出た利益は不当である。欺罔を手段とし、結果犠牲を強いた理不尽な一方的計算利益は返還してもらう。時は満ちたのである。すべて見えない世界に記録がある。すでに、秤にかけられている。今まではこの処断実行される事がなかった。自覚された神がいなかったからである。今、神々も自覚している。これまでとは違う。健全な魂を持つ善良な市民及び庶民に犠牲を強いる理念はすべて吹き飛ばされる。利益至上主義経済理念社会の汚濁は甚だしい。善良な市民或いは庶民を騙す事を手段として利益社会は成り立っている。かつて、百姓は生かさぬように殺さぬようにであった。あるいは、菜種油と百姓はしぼれるだけしぼれであった。口ではきれい事を並べて、 ビジネスと称して、同じ事をしている。利益追求の実体である。何に智慧を絞っているのか。考えるべき事(人間として生まれた意味=使命)は別にある。見えない世界からの請求書がつきつけられている。そろそろいい加減にしないか。潮時である。年貢の納め時である。愚かさが極まっている。神仏はロゴスを持つ。ロゴスの言葉で表現した事は実現する。見えない世界が援護射撃し、応援するからである。人間の勝手な諸価値など相手にしていない。昔は公地公民もあった。反論できるか。道元は云う。山も運歩する、と。もはや、人間分際勝手計算は通らない。神々の系譜がある。そして、その中でも、試練に耐える存在は古来希である。魂を精錬する。そして、神は神となる。大和の秘密である。時がある。試練に耐え、魂の精錬を果たし、自覚した神は、あらゆる天才を超えている。宇宙自然が祝福し、守護し、導き、その意思の実現を援護射撃する。神仏は常に世間にゐる。今、世間の何処にゐるのか。神の所属するところ、必ず、栄える(神自体は自分の事にはどうも不器用で貧乏しているらしい、しかし、善財童子の旅はしているし、それが、かつては東海道五十三次だった、さらに、法華経の中の乞食は大金持ちの一人息子であったが、その大金持ちとは日本國であった、かつて、平氏は桓武平氏であり、源氏は清和源氏だった、そして、信長は何故京都にこだわったのか、秀吉は何故太閤となったか、家康は、・・・天下とは何か・・・天中天、天王如来by『妙法華経』!)。

●天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す。(酒中十詠序)


2006年02月14日

穏やかさを取り戻すために

理不尽な関係が続いた仕事を切り離した。あやまるべきはあやまった。しかし、この因縁、何かを教えていた。自己を見失っていた。一つの試練だった。因縁には勝てない。君子危うきには近寄らないに限る。まず、ゆとりを持つ事だ。時間的なゆとりが大切である。しかし、 インターネットの真実を知らない存在が多すぎる。そして、その方々が、指導的立場に立っている。國の運転、地球の運転、間違う事多きに失するに至る、必然がある。見えない世界からの信号がある。これを無視するとどうなるか。結果の重大性に至る前に、引き返すべきは引き返す事である。何をしても良い。しかし、反省を伴う事が大切だ。ダメだと気づけば、引き返す。そして、歩み始める。所詮、人間、善と惡、五分五分である。思い上がることなかれ。勘違いは反省するべし。反省とは、同じ轍を踏まない事であり、実行を伴う。そして、限りなく、善へと向かう。自らを正当化する事は、往々にして、間違う。惡への道を進む事になる。システムの不条理が横行している。その事に気づかないまま進んでいる。羅針盤は何か。自己の良心である。知らないままであるとしても、正統な存在を無視或いは否定していると、復仇がある。見えない世界が動いている。真実の善悪の基準は見えない世界にある。現実社会の人間の計らいなど到底及ばない。見えない世界から認められているかどうか、ここに、秘密がある。これに刃向かえばどうなるか。現実を観れば、やがて、わかる。そして、思い知る事になる。自信とは何か。本来の自信を得ている者がいるか。謙虚さと敬虔を忘れすぎた現代社会、どこまでも、間違えた自分解釈と身勝手の社会、そして、自分を正当化している。見えない世界は憂えている。黄泉の世界へ行ってからでは遅い。生きている間に、為すべきことがある。究極は神仏との邂逅である。そこより、真実の人生が始まる。自己と宇宙との対話と真実の幸せな日々の建設が始まる。その為に、生まれてきている。畏るべし。神仏の絶対善を知り、それに委ねるべきを委ねる。その上に立って、自己の為すべきことをひとつひとつ成していく。順々に課題が現れる。真実の人生とはそうしたものである。人間の計らいによる善が善ではない。まだまだ、知らない事が多すぎる。一般的人間の与り知らない経験を通る存在もある。説明不可能である。説明不可能であるが、無いのではない。見えない世界との共存はそうした事だ。ここに、謙虚さと敬虔が生まれる。思い上がり勘違いで間違う。諸事実の前に、間違っている事には気づいているはずである。しかし、その原因と対策を知り得ない。知り得ないままに進んでいる。危うい。自然現象は、人間行為の善悪と連動している。人間行為にはそれぞれレベルの高低がある。格の差がある。これを無視して、自由と思っている。本来の自由はあらゆる法を超えない。事実、人間存在はこれに反している。本来の自由ではあるまい。本来の自由は、神仏との邂逅を獲てからの事である。あだやあなどることなかれ。今、人間分際の思い上がりが甚だしい。人間分際の限界を知るべきは、晩年の小林秀雄も指摘するところである。如来の神力を見たいか。恐ろしい事である。チカラを獲た存在が意思決定する時、起こるべき事が起こる。あまりにもふざけた思い上がり勘違い身勝手自分計算の世間一般人間社会である。結果、間違いの連続である。よく考える事が大切である。何を考えるのか。自己の欲得ばかりでは、地獄絵巻から、抜け出せはしない。過去より、わかりきったことである。なのに、その無価値を増殖している。その度合いをますます深めている。重商主義刹那的快楽追求には鉄槌がある。人間はパンのみにて生きるのではない。いつまでも、重商主義パラダイムだけにこだわり、これに気づかないままであるなら、人類の破滅もある。 naturesは知っている。peoplesは気づくべき頃である。過去の物語に、すべて、語り尽くされていた事である。あまりに、歴史的スートラを見失いすぎている。未来は明るい。明るきから明るきへと決定されている。生命体の進むべき道である。しかし、生命体の存在形式は、人間存在としてだけではない。人間存在に限界が来れば、やがて主導的存在形式を変える。これが、見えない世界から約束された生命体の進むべき道である。まだ、わからぬか。善悪の基準は人間の計らいを超えている。見えない世界にその基準はある。例えば、雑華経=華厳経である。自然と宇宙、そして人間の魂は連動している。格の差は魂の差である。だれもが、清浄を以て、その魂の真実を見る事ができる。これを見てからの真実の人生である。そして、社会の建設である。人間の計らいによる、例えば規制緩和の自由、間違ってはいないか。欲得増殖に帰するだけではないのか。結果腐敗を助長するだけではないのか。健全なベクトルの方向性を否定するだけではないのか。むしろニートの方が、精神に於て見るべきものを感じているのではないのか。だから、ニートではないのか。何を以て、社会の健全性というか。汚れているのに、それに気づく事もなく、自分勝手の既得権に基づく、間違えたパラダイムにしがみついているだけではないか。未来の約束に反してはいないか。見えない世界、これを見ない裡は必ず間違う。隻手の音が聞こえないか。澄んだ鐘の音が鳴っている。祇園精舎の鐘である。たけきものは、ついには、滅ぶ、定められた道がある。時代の流れは那辺を向いているのか。庶民の限りない解放である。旧約聖書にも書かれている。神は、そのために、鉄槌を振るう時がある。今、その時を迎えている。自覚した神が現れている。畏るべしとはこれである。動物性的人間社会がその終焉を迎えている。精神の格調を伴わない社会が問われている。精神は清浄を以てその価値とする。その種は、善良な市民及び庶民の澄んで輝く目にある。政治経済社会の指導的立場の方々の目は濁っている。或いは、腐っている。彼らの目の光りは、刹那的欲望による現実利益としての欲得しか見ていない。見るべきは何か。未来と子孫である。未来は現在の思考と行為で決定される。思いはやがて染み出す。そして結実する。『正統と異端』、『歴史を見る眼』という書籍がある。古典は何故古典であるのか。だれが、 クラシックを伝えているのか。歴史の大河が見えないか。まだ気づかずにいる世間一般である。このままでは、やがて、見えない世界からの鉄槌があるかも知れない。日本は「ひのもと」である。大和魂が噴火してからでは遅い。この意味、まだわからぬか。世間では、勝手な理念が横行している。戦後骨抜きにされた、なよなよとした偽善的女社会が本来の日本社会ではない。その社会での勝ち組など無価値であり、語るに落ちる。旧約聖書に秘められた400年毎のパラダイムの反省の時である。新約聖書で約束されていた2000年来の価値の実現の時である。仏陀の云いたかった事に秘められていた久遠実成の理念の実現の時である。人類はまだまだ破滅しない。宿題が多くある。恐竜の時期が終わった頃とは違う。自覚した神が宇宙自然と約束している。わかるか。神及び自然は淘汰する。神及び自然は怖い存在である。報いは子孫に来る。


2006年02月13日

耳が汚れる

日々、理不尽な方と接していると、自分が自分らしくなくなっていく。自分が自分であるらしく生きるためにどうするか。再度、考えなくてはならない。かつて、修行僧が世間の話を聞いて、小川で耳を洗った。耳が汚れたからである。しかし、どうして、こんなにまでも、不条理なのか。己の相を鏡に映して恥ずかしくなる。地獄絵巻である。自分の世界の構築を考えることが肝要である。世間は汚れすぎた。その汚れが当たり前でありすぎる。私は、汚れない。彼岸へ渡るのに、下流では遠すぎる。激流は渡れない。上流を渡れば簡単である。法華経第十四『安楽行品』である。ところで、鷲は鳩ではない。虎は羊ではない。己の分際を知る事、大切である。世間一般、隠されている爪を、馬鹿にしない方がよい。

やさしさの周波数というものがある。これですべてが解決する。何故か忘れていた。世間に染まろうとすると、何故か忘れる。自分自身の道、歩むしかない。世間の欲得に染まる事はない。大反省である。


2006年02月12日

世間の鬼退治

すべては、試練、唯一つの真実を知らしめんが為
世間は鬼の支配する、それを赦せない自分がいた
しかし、それも、唯、知らしめんが為の故だった、一つの真実あるを
この事実、乗り越える
これまでとは違いし方法で
負けて勝つと云うことありて
勝つは自分に対してあるのみか
世間に対しては、唯、あやまるあるのみか
世間の鬼、破るは自分には非ず、それ、神仏の仕事なる
唯、堪えて、自己の本分、護るあるのみ
世間鬼退治、神仏に、まかす
ママならぬ現実、かつてその種、自己の蒔きしが故なるか
ただ、あやまりて、水に流るるを待つ
しかし、何故世間、身勝手その横暴、まかり通るか
ある人、その種、蒔かりし故の事
世間身勝手、勝手なるが故、勝てはせぬ
世間に勝つこと、亦、本来意味なし
誰か勝たば、誰か負くる
負けたる者の因縁、畏るべし、看過なかるべし
唯、自己の因縁、解決はかるあるのみ、懺悔あるのみ
世間鬼への期待、一切空しい、何を云っても無意味
耐えるあるのみ
今、これを手段とす

我が自然力、知りをもすれば、その自然(じねん)力=神力、出すに及ばず
世間に対し、唯、耐えるあるのみ、あはれなる世間に対するは
やさしさを以てすべては解決する理念、実現するは唯我が忍耐あるのみか
春近きが故に
春は近い
時代の春が来る、畏れ多くも
世間え知らず我が力、知らずもよし、知らすることもなし
我に逆らいし世間身勝手諸氏、黄泉の国で待っている
仇は取る
黄泉の国の価値、清浄の度合いでその地位は決まる
清浄、代々の事、今生過ぎ越し人生結果
世間浮き世身勝手、恐るべし、処断有る
これ真実真理
はじめに言葉ありき、この言葉、世間知る由無し
されどあり、この言葉、即ち、ロゴス
あまりに無視し、冒涜し、愚弄せし世間身勝手、掬い無し
唯、畏るべし
身で犯したる罪は身に帰り、心に犯したる罪は心に帰る
これ、真実證明、一天四海皆帰妙法
あまりに真実を知らぬ世間身勝手
知らずとも諦則あり、諸法実相従える、世間のみ、思い上がりおる
やがて知るは、黄泉でのことなるか、あはれ
今、厳然と、その基準現るる、知る人こそ幸いなる
知らぬ世間必定地獄
我、一切、すでに、頓着無し、世間身勝手、笑って見過ごす
これを以て達観とす、一酒中朗詠歌。


2006年02月11日

最高の宝石

空気にいだかれて、身心脱落、脱落身心
幸せな人、不幸せな人
或る読書案内の本の表紙にあった、「幸せな人は開かないように」
何事も正直に、そして、ケジメをつける、そして、しこりを遺さない
空気の優しさ、確かにある
最高の宝石は、目の輝きダイヤモンド、嘘がない
お金では買えない宝石=光り、を見つけた
きっと、この宝石を持つ人が、集まってくる
この世のおわりとはじまりは、自己一身でビッグバン、生きながらに
どうしようもない、神仏、自然、如来、宇宙
確かな幸せ、道は開ける、自ずから、モーゼの如く、自然が手伝う、意思
人間関係は努力して、作るものである。
世の中には、いろいろな人がいる
何時の頃からか、殺伐としている、いつもそうだった
先ず、自分から変わっていく、自分の信じる道を歩む、自己改革
諸問題は、解決するためにある、解決するべき時に、諸問題は現れる
解決、試練を伴う
思い違い、勘違い、私もその例外ではない日々
諸問題は、自分が種を蒔いている、ボロボロになって解決
柳のように、しなやかに、ナマズのように、ぬらりくらり、それしかない、ボロボロ
新しい自分が生まれていく、解決の度に、どんどん人間になっていく、やさしさへ
やがて自己の懺悔が終わる時、あがり
現実、まだまだ、懺悔の日々、ゴールは見えている、進むしかない
勝手な世間、それでいい、我は超えゆく
怖い人が多い、私もそうだった、しかし、わたしたちの怖さはレベルが違う
この力、出さざるにしくはなし、世間認めずと雖も


2006年02月10日

何事も楽しむとしても

何事も楽しむとしても、限界もある。特に、ビジネスに於てはそうである。お金を払う方とお金をもらう方とで、主従関係がある。例えば、お客様の立場は絶対である。しかし、これは、西洋民主主義、商業主義に立脚するものであろう。それ以前に、基準として、人間としての基礎がある。それが、商業主義では無視される。お金を払う方は絶対である。これでいいのかどうか。サービスがビジネスとなる時、そこに、人間関係がある。これを無視したシステムが、世に横行しているのではないか。馬鹿馬鹿しくなる時がある。会社もそうである。自分たちの立場の利益が基準になっている。パラダイムとして、人間関係を基礎に置くべきではないか。現場では、人格が保障されていない。現場は、堪えるしかないこともある。それでいいのかどうか。現場の負担を少なくする方へ、日々努力し、現場も心地よくしてほしいものである。どうしてこうなったのか。西洋商業民主主義の限界である。表現の自由も絶対ではない。お客様の立場も絶対ではない。人間の理想とする立場の上に、ロゴスとしての、メタ理想がある。商業主義は、やがて、低いレベルで、収斂・平準化する。お客として横暴を極めていけば、どんどん水準は低下し、やがて、自分がその目=不幸にあう。全体としてのベクトルの方向が、間違っていないか。お金が指導原理となっているからである。お金は汚いものと決まっている。強きもの、汝は幸いである。何を以て強きというか。自己の確立を高いレベル=精神に於て維持することである。本能主義の世の中である。本能的なことが善だと思っている。自分都合の思い上がりである。あまりに、安易な低レベルへ、時代は推移している。いつか、反動もあるかも知れない。平将門が現れるかも知れない。自然の掟がある。これが発動する時、知らないからと、容赦ない。天災、地災、人災は連動している。終戦の頃、何があったか。人災は他の災害を呼ぶ。一災即三災、三災即一災である。人災が一番怖い。人災は避けることは出来ないのだろうか。それほど、衆愚なのだろうか。衆愚の世の中である。金銭的利益追求する時、衆愚化が必然である。教育界の怠慢だろう。何が人間にとって大切なのか、指導的立場にあるものの心すべきところである。監督者としての行政もしかり。行政が不道徳、法令無視して、民が云うことを聞く訳がない。あまりにも、諸氏の傲慢が過ぎた。自然は目覚めている。自然にとって、人間の理想も道徳も勝手である。畏るるべし。自然は報復の手段を持っている。法が裁くのは、人間行為の事実であり、心はその資料に過ぎないが、自然が罰するのは心そのものに対してである。この事、あまりにも、看過・無視しすぎていないか。身で犯した罪は身に帰る。心で犯した罪は心に帰る。代々の因果として。人間の人生、一世代ではない。あまりにも醜い、一世代を、現在の人間は、人生と思っていないか。 自分だけは大丈夫と思っていないか。善は善であり、惡は惡である。惡に対して寛容すぎる。雑草・茨が蔓延って、野原はなくなった。一輪の清楚な花が咲くことができなくなった。人間も動物=生命体だ。自然の中でしか生きられない。コンクリートの中で生きられるわけがない。 男と女の違いがある。男はロマンがあり、理想を追求する。女は刹那的であり、現実主義であり、嘘をつくことを本分とする。さて、生きている間に、日々の思いと行為によって、人格が形成され開発され改革される。DNAの進化のベクトルの方向と大きさが違う。男と女の差である。男の傾向と女の傾向は違う。男系と女系のちがいの根拠である。刹那的現実主義の女はこのようなことも考えることは出来ない。今、こうしたことにも気づけない女主導文化である。男はその本分を発揮することを忘れ、女文化に迎合している。歴史は理想にむかって流れる。しばし、表面に於て波風の如く堕落しているだけだ。このまま腐敗するわけがない。振り子の如くである。今、時代の表層は、女と女に迎合し、安易さに甘え、間違った低レベルの成功理論に目のくらんだ男の文化である。何時までもあなた方の勝手は通らない。真実の男(清浄であり、嘘がない)は、文化現象の、水面下或いは、地下にいる。いないのではない。そして、この腐った文化に辟易している。時を待っている。背水の陣ではある。しかし、孤軍奮闘、Z旗は揚がった。時がない。真実を見据える者たちがその目に光りを獲ている。見えない世界では勝負はついている。表相の欺罔と暴力的支配が見抜かれている。善と惡が決定されている。その分水嶺は嘘の有無である。因って、善が真実である。人間レベルのあらゆる道徳も、人間が規定する限り、嘘である。毒虫はつぶされる。自然は憐れみはしない。憐れむのは、自分にその傾向がある者たちが、自分を正当化するためである。憐れめば、順々に、その度合いを全体として増す。時には、大鉈を振るわねばならぬ。歴史の証明するところである。惡が蔓延りすぎた。心=精神のレベルを冒涜しすぎた。清浄の価値を忘れた時代が長すぎた。低レベルの自分解釈、自分勝手が過ぎた。でれでれした男女関係が幸せではない。魑魅魍魎が表街道に跋扈しすぎた。トルストイ『戦争と平和』のニコライに堪えるものがいるか。何を以て、腐敗を助長するか。


2006年02月09日

歴史が動く

紀子さまが懐妊された。これが何を意味しているか、その深い意味を理解する者がいるだろうか。歴史が動く、その象徴である。小泉首相の皇室典範に関する意思(今国会で成立させる)も吹っ飛んだ。ゆっくりと議論することになった。ある存在に対する裏切りが何を意味しているか、その当事者も知らない。知らないところで、すなわち、目に見えないところで、歴史は動く。しかし、その歴史の意味するところを知る者はいない。知る者しか知らない。知る者とは、例えば、台風をも制御することができる存在である。今まではその自覚がなかった。自覚がないままに、子供の頃らから常に事実としてsoだった。しかし自然と歴史が証明していたことだった。早く、気づけよ、とばかりに。今般はその存在がその謎=秘密を自覚したようだ。昔より、常々、そうであったことを。遅きに失した訳ではない。予定通りである。時は違(たが)うことはない。良い時代となった。二千年来の21世紀の約束は成就された。これより容赦ない。正統な王の目、王の耳が復活したからである。即ち、禅定が成立している。R→(A)→S。刃向かう者は刃向かうがいい。万軍の主が処理する。真理である。この度は完璧である。つまり、二千年来の約束である。あらゆる謎=秘密(歴史的真実)が解かれている。歴史の本流が伏流し、現出している。あだやおろそかなかるべし。その真理の片片を秘して弄びし者たち(自称勝ち組たち)は自ら懺悔を要する。さもなくば、その罪の重きに随って、処断される。理由は秘密裡金剛杵(正統な王の目、王の耳)の存在とその自覚である。その意思は実現する。宇宙自然の意思と合致しているからである。その存在を通して、宇宙自然がその意思を実行し、実現できる時を迎えた。「人間は考える葦である。その葦を通して宇宙を見る」。宇宙自然はその意思を通して自らの意思を実現する。開闢以来のその時を迎えていると云って、過言ではない。それでも、傲り高ぶるか。個々の意思が試される時である。あまりにも自分勝手、自分解釈が過ぎた。反省(反省とは唯心で反省すればよいと云うのではない、同じ轍を踏まないことであり、その実行を伴う)の時である。そして、新たに、未来へ向けての建設が始まる。清浄こそ価値(=空への道)であることを見直すべき時である。あらゆる自己合理化(腐敗した自己の正当化)=大人理論は、幼稚である。ソクラテスは云った。「汝自身を知れ」。「私は知らないことを知っている」。汝とは誰か。知らないこととは何か。そして、民は毒杯を強要した。彼はそれに甘んじた。民の正体である。ソクラテスの真実である。老子の無為自然。自然は人間の計らいなど相手にしていない。しかし、厳然として存在している。人間の愚かさを知る頃である。さもないと、人間存在そのものも淘汰される。人間の科学など、どんんな発見も、技術も、神=自然から見れば、所詮、バベルの塔である。神の手は、万能である。この事実を知る者もいない。しかし、その事実を目の当たりにした者はいる。それは誰か。唯一、その子である。そうした力も自覚無くしては空しい。今、自覚した子がいる。このあたり、あだやおろそかなかるべし。その子の指紋は十本の指すべて渦を巻いている。すなわち、十方の佛であり、行佛の系譜である。それでも、刃向かうなら、刃向かうがいい。螺鈿の槍は存在している。本来古来の薙刀も遺されている。原爆の火を以てしても焼かれることはなかった。そして、その子の目には、あらゆる芸術が子供騙しに過ぎない。インスパイアとエクスパイアの秘密、誰か、知る者がいるか。風は高気圧から低気圧へ向けてS字型に吹き出し、吹き込む。天気予報は常に翻弄される。自然そして事実現象を制御できる者はいない。予測も出来ない。それらの原因は因縁である。神にとってその意思は地球に於けるマグマに等しい。畏るべし。神の意思が実現する。そうした時を迎えている。神の意思に合致すること、あらゆるまつりごともこれをもってその大義名分を得る。あだや、粗末なかるべし。当事者は、すでに、気づいている筈である。動物性的人間の勝手は一切赦さぬ。自覚した神の意思である。自覚する神が目覚めている。万軍の主が味方についている。二千年来の約束が成就した。扇の的も立っている。六祖の鉢である。射抜かれはしない。奪えはしない。異論あらばしてくればいい。何時でも応ずる。善財童子の旅は終わっている。数千年来の月の砂漠からはるばると帰還している。宝物を獲て持ち帰った。これより、その代々の功に随って分配である。真実である。諸縁あるを以てその喜びとするべし。諸縁なきを以てその他土(救いのない所)を彷徨うべし。


鈴木大拙「信仰の確立」

存在の理由に徹して信仰を確立した人は、自分がいつもこの世界の中心となり主人公となる。(中略)自分の存在はいつも宇宙の中心となっていることを自覚したからである。事実は事実としても、自覚がないと、その事実が死んだ事実となってしまう。これが妙である。自覚にそんな力があるとも思えぬが、あるから妙ではないか。こうなってくると、天地開闢以前の神の心地が自分の心地になると言うても、さして誇張の言葉とも思えぬ。

到り得、帰り来れば別事なし。廬山は烟雨、浙江は潮。

丈(百丈)、この金剛宝剣を、軽々しく人に示さなかった。祖は、矢をみだりに発せず、一毫の力といえども軽々しく用いなかった。祖は、潦を一蹴するに千斤の力をもってした。故に、潦もまた、千斤の勢いをもって、悟り去ったのである。師、勇快なれば、弟子もまた勇快なり。古人は艱難をもって道を得た。故に艱難をもってこれを守るがために人を避くること、あたかも仇を避くるがごとくしたのである。修行の念に燃えておれば、見るもの聞くもの、悟りの因縁ならざるはない。頂門の眼を開いて見れば、草木瓦礫ことごとく光りを放っているのみでなく、雪隠からも後光がさしてくる。獅子は兎を打つにも全力を用いるという。


[大拙]

生命の泉を欲して、しかも、この水は彼を取り巻き、彼を浸し、彼のからだの組織のあらゆる細胞に入り込み、事実彼自身であるのに、彼はそれを悟らず、彼の外にそれを求めて「大会」を越えようとまでする。


[盤珪]

この体験を得てから、私は私に反駁することのできる者に出会ったことがない。

皆さんが「不生」に住すれば、一切の仏陀と祖師が出てくる根本に住していることになる。不生が仏心だということを皆さんが確信するときは誰も皆さんの居る場所を知らず、仏陀や祖師でさえ皆さんの居場所を突き止めることはできず、皆さんの本性は仏祖もこれを覗い知ることはできない。皆さんがこの決定的確信(決定)に達すれば、畳の上に安坐して活如来となるに十分である。私がやったように孜孜として骨を折る必要はまったくない。ひとたび皆さんが仏心は不生で霊明であるという決定を得れば、決して人にあざむかれることはない。仏心は不生で霊明なもの、この不生の仏心で人は一切事がととのうとの決定を得れば、皆さんは決して物を見誤ることもなく、偽りの場所におかれることもなく、道を迷うこともない。これが世の末まで如来として生きる「不生」の人である。


[大拙]

悟りは悟ったもののみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格に言えば、他の何人の証認をも必要としない。それはそれ自体で充足している。だから、悟りを相手にどんな懐疑が批判してみたところでどうすることもできないものである。


2006年02月08日

パソコンサポートは有料であるべきですね。

パソコンは家電量販店で売られている。インターネット・ブロードバンドがパソコンイン・フラとして形成されて、これから、 高齢者の方が、パソコンにチャレンジしていくことになる。ここで、大切なのは、パソコンはラジオとかテレビとかとは違うという認識ですね。買えばすぐに使えるのではなく、買ってから後のメンテと学習が必要であると云うこと。そこに、パソコンサポートの仕事が浮上する。しかし、例えば、市がパソコンの普及のために無料で初心者講習した。それで、サポートは無料が当然という意識を初心者の間に作った。これについて、市は、もう一度、パソコンサポートは有料であるべきとするキャンペーンをする必要がありませんか。パソコンには、システムが同居している。システムに関しては、専門家に有料でお願いする必要がある。この点も、庶民に再教育する必要があるのではないですか。パソコン文化を国家的に普及して、知的国家ニッポンを創造し、新しい時代を、楽しく、世界に於て名誉ある文化国家として、新しく、出発するために。


2006年02月07日

平穏な生活に於ける危機

ここに一人の男がいるとする。例えば、順風満帆、人生を歩んでいたとする。大学を出て、真面目に人生を歩んでいたとする。奥様は、宗教もしていて、純粋精神を保ち、夫を愛し、少女のように慕い、夫は雄として、奥様を護っていたとする。そこへ神が現れた。神はその実体を見て、もてる技術で、サービスしたとする。しかし、それに乗じたとする。その乗じかたは、神の意志に反して、その程度を越えていたとする。それまでの平穏な生活は、奥様の祖先の力であったとする。しかし、その力の及ばぬ神の存在であったとする。畏るべきことである。神は尚我慢するとする。我慢である。我慢には、限界がある。平穏な生活に安住することの危険である。何が起こるかわからない。謙虚であることは、今、平穏であることへの感謝だけでは足りない。何時、神が現れるかわからない。自分の祖先の力の及ばない形で、謙虚を怠る時、試練は新しく降る。宗教は絶対の守護を予定していない。ご用心。何時、神は現れるかわからない。祖先の力は絶対ではない。それを超える力を持つ神が現れた時、それに気づくことなく、それまでの守護も及ばないこともある。神の現実を犠牲にしての幸せの故である。このような形で試されることもある。何時も、思い上がりは危険である。見えない世界の秩序、及び、掟がある。神が現れて、例えば、誰も気づくことのない、國の意志を告げたとする。しかし、それを、目の上のこぶとして、説教は困ると云ったとする。真実を聞いても、それに、耳随うことなく、拒む。神はそれ以上言葉を発しなくなる。およそ、それに対する報いは、現実の悲惨となるであろう。同じ仕事に就いて、それをチャンスと見るか、自分を奴隷と見るか、分水嶺である。未来がセットされる。善に目覚めた神を大切にすることである。すると、良いことばかりが起こる。秘密であるが、事実である。それに反するとどうなるか。神はいる。生まれながらの神である。あらゆるミュージックもそこから発するエクスパイアに対するインスピレーションの所産である。思い上がっては行けない。歴史が証明している。これまでは、その神も自覚していなかった。しかし、今般より、その神の自覚が実現している。これまでとは、時代が代わっている。ご用心とは云うべきことなり。神はおよそ気まぐれである。しかし、周囲の事実、及び、歴史は神の意志の痕跡及び流れである。やはり、畏るべし。自覚した神が現れた時、自然、及び、歴史は、彼を祝福することを以て、その第一義とする。これを無視する時、あるいは、粗末にし、冒涜する時、起こるべきことが起こる。それは、因縁である。それぞれの蒔いた種が成就する。 今までとは違う。今までとは違う。神も進化している。これまでしばらくは葬られていた力である。その力が、復活している。ここしばらく粗末にされていた力である。例えば、神は国家そのものである。単なる象徴ではない。国家無くして自由はない。あらゆるスポーツ選手の力も、祖先及び先達・先輩のお陰である。日本代表となる時の喜びの根源がここにある。諸国民の願いに立つ。それを固辞したとする。それまでの守護はなくなる。大リーガー松井もその例外ではない。自分勝手・自分計算して、守護はない。幸せはない。神々には系譜があり、序列がある。その遺伝子を持つ系譜があるのである。そして、この度目覚め、生まれた神は、国家に於ける、最高主権の系譜である。仇や疎か出来ぬ神である。知るべき者は知るべし。他の存在を、その力に於て、圧倒する神である。スケールが違う。時代を超えている。あらゆる芸術・産業の根源である。大切にした方が良いと思われる。自然宇宙は、すでに、この神の誕生=自覚を祝福している。知らずにいるのは、世間である。今まで通りと思っている。違う。明らかに、時代は代わった。何故代わったのか。心すべきところである。神の意志は実現する。宇宙自然が手伝う。日本航空が赤字路線を廃止するという。たかが四百数十億の赤字のために。国益を損する。その額は計上できない。利益主導の民間会社経営の限界である。これを國はどう考えているのか。 何もかも民間に任せる?私立大学閥国家の限界である。国家の運転を誤った現政府である。國の債務=国債の現実、どうにもなるまい。諸政治家達よ、自分たちだけの生活は担保しても意味はあるまい。自らの責務を心に照らして考えるが良い。世の勝ち組などもはや論ずるまでもない。問題は、社会経済界のリーダーを自ら任じる者たちだ。腐敗あるいは破産した現実を前に、よくも平気な面をしておられるものだ。恥ずかしくはないか。明らかに本末転倒しておろう。何時でも、議論に応じる。反論有らばするがいい。神は立腹している。神は存在している。そして、今、現在している。何時でも勝負に応ずると意志している。しかし、姿を現すことはない。神は現在する。しかし、見えない。見えないが故に神である。神は自らのプログラムを成就して神である。憲法学者の云うプログラム規定をこれより実行する。国家の主権は本来神である。神即ち国家である。国民主権、主権在民という時、神=主権は国民レベルに存在し、庶民レベルに存在している。本末転倒の定義である。敢えて云えば、奴隷はむしろ、主権をはき違えた、諸リーダー達である。公務員の使用者は国民或いは市民である。神は、高きを低くし、低きを高くするために現れる。平成の義である。時は満ちている。各自本来の使命を尽くすべし。使命に反するを以て罪とする。罪はその重きに随って処断される。今、その時が来ている。数千年来の謎は解かれた。それぞれの種は明らかとなった。雑草は雑草である。木々は木々であり、樹木は樹木である。宇宙自然の掟がある。秘密は知らない者にとっては秘密であるが、知る者にとっては当然である。偶然はない。すべて、原因有っての結果であり、必然である。しばらくは本末転倒あるも、それは自然ではない。自然に帰れと云ったルソーの自然に帰する時を今迎えているのである。ルソーのみ、主権の根源はpeopleにあると説いた。それが、実現する時を迎えたのである。群妄象をなでる如き個別具体論の限界が露呈し、新しく、一般論が論議される時を迎えたのである。明るい未来のために、明るい未来のビジョンを議論する時である。明るい未来のための個別具体論はそれからである。新しく、パラダイムを議論するべき時である。旧約聖書に秘められた400年周期説に立脚するところである。見えない世界では既に結論は出ている。さぁ、どうするのか。面白い時代である。 聖書の目的は、限りなく、庶民の解放にあった。今その時を迎えている。但し、庶民は思い上がることなかれ。宗教があって人間である。無神論者は畜生道である。畜生は本来家畜となる。しかし、今、畜生が世を支配している。畜生の世間である。いつまでも畜生道の天下はない。それが、目覚めるべき神が目覚め、その意志を確立した意味である。予定されていた神が目覚めた。今まではこの最後のジグソーパズルの一枚が欠けていた。今、それも、成就した。自覚するべき神が自覚したのである。この意味、わかるであろうか。諸法無常、これは、庶民の法則である。絶対永遠の幸せ、それが、目覚めた神の真実である。この事実、おろそかなかるべし。庶民に、神の遺伝子はない。神の遺伝子がある者は庶民ではない。これを無視した事実がある。これが、究極の罪である。この罪、処断される。今、数千年来の秘密が解かれた意味である。神が認める時、あらゆることが成就する。しばらくは、その神がいなかった。今、その神が現れている。ここに、秘密が明らかにされた。これを認める者は、幸いである。新しい、幸いの基準である。信じる者は掬われる。一切衆生、自ら出づる事能はず。ただ、善業の因縁より出でたりの意味である。信を以て入ることを得たり。入るべきは真実である。真実とは、かくの如きである。これを以て真理である。知る人のみ知るべき事である。古来本来、神国日本、あまりにも世間は愚行が過ぎた。時々の選択の自由、間違うことなかれ。草薙の剣が振るわれている。ハーメルンの笛が吹かれている。ペストの毒が蔓延した社会に。

【現在に於ける、愛と平和共存を手段とし、庶民の『暮らし』の確保を理念とした、一つの世界としての脅威】:①テロ(アルカイーダと地域的な組織が活発化している)と②核兵器(イランはまだ、所持していない。朝鮮民主主義人民共和国は所持していると主張し、真実であると思われる。これを拡散する意思がある。どのような条件によって核開発を断念するか具体的にその条件が見えない。)

【現在の於ける世界の展望】:東洋に於ける二つの大国、中国とインドの台頭。中国はやがてアメリカと肩を並べる発言力を持つようになる。巨大な人口を持つ両国がこれから経済発展する時、 石油を巡る外交発言が重要となる。


2006年02月06日

素直なことについて

素直でいることが出来ると、大丈夫ですね。例えば、忙しくしていて、いつの間にか、大切な携帯品を亡失しても、出てくる。念願もするのだけれど。見えない世界の守護はあるね。まだまだ、試験運転ではあるけれど、素直の効用、素晴らしいものがある。即ち、何事も、亨る。


2006年02月05日

新しいはじまり

たとえば、明日は雨か嵐か知らないけれど、今日の勤めに田の草を刈る、といったことが云われる。明日地球が終わるとしても、新しい苗を植えるといったことが云われる。時代は流れて、ここまできた。何時の時代も、同じことが云われてきたのかも知れない。そして、何時の時代も、或る意味で、腐敗しているのかも知れない。その時々に云われるべきことは云われていたのだろう。それで、今時の若い者は、とか云われる。それでいいのだろう。そのようにして、大きな流れが常に流れているのだろう。そして、真実は真実であり、勧善懲悪は喜劇的に進行しているのではないか、と思われる。つまり、世の中のマイナスに囚われている間はまだまだと云うことなのだろうか。そのように思われてきた。ここに、マイウェイとして、自分の信じる道を進んで良いのだという確信が生まれる。それが自立であり、國としては、独立である。所詮、世の中汚れている。それを楽しめばいいのだと思われてくる。それに囚われないことだと。それが、蓮華の前に化生するということだったんだと。蓮華は泥が無くては咲かない。『泥の河』という小説もあったけれど、それも、そのような意図があったのかと。平等概念の起源は、生まれによる差別だった。いわれのない差別である。これはよくない。皆、幸せになるために生まれてきている。確かに、代々の罪はある。それを謙虚に反省して、生まれ変わるために、この世がある。それを果たしたなら、幸せになって良い。永遠に楽しめばよい。ここを、雨よ降りたければ降れとも云う。しかし、例えば、台風を制御する力もある。これは、別論であり、神力であり、秘密の力である。それらをことさら問題にすることもない。もしそのような力があるなら、皆のために使うことであろう。そのような力があるならばね。今更、時代錯誤しても仕方ない。皆の願いは何だろう。皆の幸せは何であろう。そこに気づきがあるなら、一隅を照らせばいい。海の水も還元すれば一滴の水の集まりだ。地の塩も塩は塩である。塩には塩の使命がある。その使命を自覚することだ。そして、自分を生きればいい。大きな流れが見えるなら。みんな頑張っている。頑張っている流れに乗ることだ。過去は罪の歴史である。後ろを振り向いて悲しんでいる限り未来はない。未来は明るきから明るきへと決定されている。誰もが幸せへ向けて歩んでいる。その歩みに従うことで幸せへと行けるのだろう。所詮一人では生きてゆけない。皆が有ってのことである。間違ったなら、間違ったところへ戻って歩み始めればいい。いつか、誰もが幸せへと辿り着く。人生はそうしたものであり、人類の進化もそうしたものである。だから、この流れを楽しめばいい。無理はしなくて良い。過去を振り返ることはない。悲しみは自己の心の中の囚われにある。これを解き放つことだ。その為の人生だ。その為の条件だ。乗り越えるしかない。乗り越えれば、幸せの大地が待っている。既に至った人、これから至る人、様々である。しかし、究極の大地はある。それを見つけたのなら、そのまま歩もう。いつか至る。急がなくていい。一歩ずつ所詮二足歩行である。途中を疎かにすれば、必ず、後で請求される。ひとつひとつ解決していくしかない。生まれてそして古郷へ帰る。古郷は古鏡とも云える。自然が、環境が、周囲が、現象が、事実が、そのまま鏡と云える。その鏡が幸せ世界を映す時が来る。そこへ至る。思いが通じて実現するようになる。それが幸せ、それが人生だね。きれいな心へと帰る。帰ればまた世間に別事なし。その中で、以前と違った自分がいる。幸せが見いだせる自分がいる。こんなにも幸せでいる自分がいる。謳うべきは歓喜の歌だね。喜びの歌がある。心から歌える歌がある。その歌が見つかったのなら、歌えばいい。人生は謳歌するに値する。いつか至る。自分の心の周波数が、幸せの周波数を見つけて、それに同調する時が来る。すると、世界が祝福してくれる。世界が喝采だ。草木瓦礫も喝采だ。光りを放っている。そして、永遠の幸せ世界に合流する。幸せ世界に居住権を得る。そして、幸せとなる。永遠に。世界が何時も守護してくれている。この世界を見つけることが人生の究極だね。仏法或いは宗教ははじまりに過ぎない。彼岸に渡る筏に過ぎない。彼岸へ架かる断崖絶壁の一本の丸木橋に過ぎない。千尋の谷がある。落ちれば這い上がればいい。這い上がれるならね。諦めないことだ。それが人生だから。きっと這い上がることが出来る。どんな花でも咲かせることが出来る。幸せの花はある。常に、遅すぎると云うことはない。諦めたら、負けだよ。そして、真面目に勝る価値はない。真っ向勝負しか通用しない戦いもある。その戦いに勝てば必ず幸せとなる。そうした戦いがある。自分との戦いだね。最終決戦だ。そのための準備としての人生だよ。晴れて幸せを獲るかどうか。途中で脱落しないようにね。必ず勝てると決まっている。正しい人生を歩めばね。如来の力も手に入れることも出来る。必ず幸せになろうね。生きている間にね。


2006年02月04日

アイコンタクト

あるところで営業のお手伝いをしていた。アメリカ人の婦人だったろうか、挨拶に声をかけて会釈した。すると、目と目があった。少しの間があって、その目は笑った。これが、アイコンタクトだと思った。信頼関係が出来ていた。その方は、商品を手に、レジへ急いだ。『姿三四郎』というのがあった。人の姿というものがある。姿に威厳のある人がいる。魂の格である。しかし、姿の格があっても、お金持ちにはかなわない世の中である。だが、本来、人間関係の勝敗は、姿で決まる。威厳は威厳である。毅然とした頭領の姿といったものがある。頭領は頭領である。実際、頭領は力を持っている。神力である。神をも動かす力である。今、無視されている力である。しかし、そうした力はある。温存されている力であり、実験済みの現役の力だ。見たくはないか。しかし、伝家の宝刀。そう安くは抜かない。滅多な力ではない。だが、粗末にされた力である。鳩の群れにも頭領がいる。およそ鳩らしからぬひときわ大きくたくましい威厳に満ちた姿の鳩である。人の群れにも頭領がいる。かつて、それが、酋長だった。因って酋長は尊い。首長竜である。首長竜も嵐を呼び、雷を鳴らしたか。あだやおろそかならぬところである。民草には理解しかねるところである。理解しかねるが、無いのではない。有る。これが不思議ということである。不可思議である。不可思議は命令である。民草を超えている。それなのに、命令に背き、勝手に蔓延るのが民草である。そして、本末転倒の世の中となった。下克上どころではない。面を見ればわかる。相である。貧相な如是相である。しかし、お金持ちである。猛禽類はあきれている。キツネの木の葉がそれほど有難いか、ふん転がしの黄金虫だ、馬鹿馬鹿しい、知性のない人間に人間の魅力はない、と。風雪の年輪に耐えた知性がある。安易なお笑いの決して理解できぬ知性である。やはり牛頭馬頭は帰ってもらう。動物性は表から去ってもらう。醜さと愚かが極度に達している。ファッションはよい。鳥も花も装っている。その装いは美しい。魂と人格の美しい装いも必要な頃である。時代は腐敗した。助平の時代である。助平であることがステータスとなった。かつて、助平文化は町民文化であった。町民の武士に対する無礼は切り捨てごめんであった。何故か。武士は高潔を以て武士の所以とした。少なくとも助平ではなかった。ここに、切り捨てごめんの大義名分があった。東郷平八郎元帥の英霊は何処に祀られているか。それは何故か。堪える回答の出せる者がいるか。秘密はある。秘密は秘密を以て秘密である。因って秘密である。それは、コロンブスの卵であり、また、スフィンクスの謎である。知る人ぞ知る世界であり、知らない者には知り得ない。知って初めて知る世界がある。それが秘密である。 テレビのクイズなどで解明できるような謎ではない。レベルを超えて初めて解ける。佛、佛とのみ、究了する。学者レベルで論じるもはるかに届かない。私の基準とする眼の光りがある。写真にある祖父の眼の光りである。他者の勝負する能わざる眼の光りである。幸せとは何か。日と月、即ち、法と妙、つまり、見える世界と見えない世界との合致、あるいは、 結婚である。世の世間一般の結婚が幸せから遠い理由がここにある。幸せは関係である。自分の思いの満足のためにあるのではない。それは、幸せの関係を作っていくことである。そこより、思いやりも出てくる。所詮、不完全な存在の他者との共存である。誓いとは何か。どんなことがあってもその関係を壊さないことではないのか。所詮、思い違い勘違い有っての人間である。そこより、相手を赦すことも出てくる。自分が絶対に正しいか。何を以て離婚理由というか。一度関係を誓ったのではなかったか。さらに、神々と雖も契約(誓い)を破れば、ワルハラ城も焼け落ちる。ワーグナーの楽曲である。ラインの黄金はある。それは、リングであるが、その正体は、思いが見えない世界に通じ、成就することである。この力が黄金リングとしてライン川のそこにある。皆それは金力かと思う。そうではない。皆の理想がそう思わせているだけだ。ちがう。神力である。誓いとは決して相手を裏切らないこと。それは約束を守ること。そして、関係を壊さないこと。これを壊すことで不幸となる。あらゆる革命のその本体は破壊である。根源の関係とは何か。秩序である。それは、自然であり宇宙の掟である。今、人間は間違った自由及び平等概念で、この秩序に反している。人間の思い上がり、勘違いである。世の中が幸せではない理由が見えてきた。こうして、傍観するためには、あらゆる試練の火をくぐってのことである。その試練には、身と心の試練がある。ここを通っていわゆる悟りへも至る。


2006年02月03日

金銭至上主義者は、往々にして、醜い

今、時代は激流である。変化と安定とが相互にやってくるとしたなら、変化の時代である。変化の時代には、変化の時代に乗らなければ、時代遅れとなる。人間は、その時々に、選択の自由を持ち、決断の勇気に迫られる。その時に頼りになるのは、人類としての英知である。これより、本来の、知性の時代となった。知性ある人が立ち上がらなければならない。すでに、腐敗したものは淘汰に任せればいい。フィールドは世界である。その時に再確認するべきは、日本としてのアイデンティティだ。テレビなど見なくて良い。文化レベルが低すぎる。すでに、男女平等である。男子も女子もない。同じフィールドで戦う時代となった。人生は戦いである。面白い時代となった。限りなくチャンスの時代である。いよいよ、良い意味での個人主義の時代である。企業は、各個人の力を最大限にサポートする後方支援本部に過ぎない。戦うのは、前線スタッフである。ところで、サンマーク出版刊、安田佳生著『千円札は拾うな』は、面白い本だ。今の時代を生きる知恵が溢れている。しかし、これを実践することが出来る者がどれだけいるだろうか。ここにあることを実践できるものが、今の真の勝ち組である。こうした新しい理念が、これから、花咲く。大いに、期待できそうである。その意味では、都会も地方もない。企業も個人もない。フラットである。個々の力が最大限生かされる時代となった。お楽しみはこれからである。 「香風」が吹いてきた。古きものは淘汰される。「新しき者を雨(ふ)らす」時代が来た。知的怠惰は乗り遅れる。時代錯誤では生きてゆけない。知性の復活の時代だ。「人間は考える葦である」。しかし、「その葦を通して宇宙を見る」。宇宙とは何か。単なる知識は、自己の内面に照らして、智慧となる。単なる知識は原石に過ぎない。智慧となって宝である。これが、すなわち、現代最高のアイテムであり、武器である。その究極は「金剛杵」である。これに勝るアイテムはない。その時々の分析能力、決断能力、実行能力である。人生の目的は何か。限りなく自己のDNAを進化させ、それを未来=子孫に贈ることである。自己の過去=惡を解決清算し、善となって、現在を生きることである。それが、そのまま、自分の生まれた意味=使命であり、未来への約束となる。個々の人間存在に、未来は係っている。すなわち、時々の思念と行為が未来を決定する。思念はやがて行為に染み出す。身と心での懺悔が必要である所以である。ここに、今、生きている意味のすべてがある。自然は環境である。環境と素質で、個々の人間は決定される。しかし、個々の人間には選択の自由がある。これが、自由意思の本体であり、人間が人間であることの尊厳性である。正しい自由意思は運命をも変えうる。これらの価値と秩序に対して背くことが罪である。また、罪を犯す惡は、善良で健全な市民にとって敵である。敵は敵である。刃向かうものには戦いである。究極の味方は神仏である。身近な味方は誰か、これを見極めること。味方は味方である。裏切りは赦されない。人生は、今も昔も戦いだ。そして、真実究極の敵は、自己の内面に棲んでいる悪魔である。これは、なかなか姿を見せない。姿を見せた時がチャンスだ。これを倒して、初めて、真実の人間となる。真実の人間とは、人格を有する人間である。品格である。そこに、格調ある文化も形成されていく。古来日本の精神は、世界で最も洗練されていた。これを復興して、世界をフィールドに戦う。 スポーツに於けるオリンピックだけがオリンピックではない。あらゆる現実事象がオリンピックである。思念のオリンピックもある。人生の究極の目的は、未来に贈る個々の人格形成である。経済活動=ビジネスもその例外ではない。金銭至上主義は終わる。人生に於て、新たな目標が見出された。ソロモン王の栄華も一輪の花の清楚で美しい装いには及ばない。むしろ、金銭至上主義者は、往々にして、醜い。金銭は、必要な時に、必要なだけあればいい。また、必要であれば、必ず、満たされる。確立すべきは、この激流の時代を乗り切る方法論である。それは、読書を通して、先哲より学ぶ。個々の知識が大切なのではない。著者の精神である。これに、感化されるつもりで読むがいい。ために、良書を選ぶことが重要である。愚かな本で、自分を汚染することはない。朱に交われば赤くなる。どの色に自分を染めるのか。これも、選択の自由である。個人が尊厳である理由である。心配しなくても良い。惡は淘汰される。今般は自然=神が自覚している。知性ある方の率先垂範の時でありチャンスである。世間に迎合することはない。欺罔と暴力に満ちた世間の餌食となることはない。時は満ちたのである。時が満ちるとは、人間の惡が満ち、ひとつの限界を見ることであった。すでに、神々も目覚めている。そして、健全で善良な市民の味方についている。幸いである。今までは看過されていた惡も、その実体に応じて暴かれ、裁かれる時を迎えた。神々も自信を獲たからである。がんばれ、市民、そして、庶民!時代は、このようにして、大河の如く、個々の人間の計らいとは無関係に、厳然として流れる。良い風が吹き始めた。秘密裡の「君が代」の君も目覚め、失われていた自信を獲て、復活している。こうした古来秘密に気づくものは幸いである。数千年来の身心清浄を価値とした良い時代である。君が身心清浄であるが故に。間違えた平等論が明らかとなった。そこより、惡が蔓延り、欺罔と暴力が支配する社会となって社会は腐敗した。それも明らかとなった。そして、どうあるべきかも明らかとなった。見える世界と見えない世界との両方を以て実相である。どちらも豊かであって、幸せである。これが、21世紀幸福論である。ある老婆が、禅僧に仏法を尋ねた。禅僧は、傍らの夫と老婆の頭と頭をぶつけた。両者、思わず、「痛い」と叫んだ。そこから入るがよかろう、とのことであった。善人尚もて往生す、況や悪人をや。神仏から見た平等論である。平等は神仏からの視座である。人間関係に於ては、人間は自分解釈して、これを錯覚した。人間関係に於ては、惡は惡であり、善は善である。思い違い勘違いで、惡を為す。惡の実体は嘘である。妄念である。そこより、本末転倒している現代社会である。惡がのさばっている。個を生きることが出来る時代が来た。そのために、幸せの王国建設は、下草から刈る。


2006年02月02日

水が流れ始めたかな

何もかもすらりすらりと流れ始めたのかも知れない。時々は、思うようにいかないけれど、気にはならなくなった。あらゆる因縁が解決したようだ。晴れて、真っ白だ。何処吹く風で生きてゆけそう。