2005年12月21日

浅見帆帆さんの本

浅見帆帆子さんの、『やっぱりこれで運がよくなった!』って、面白い本ですね。ただ、「この本は、今の私が考える「見えない世界」について書いてあります。私はこれらのことを科学的に証明することはできないし、見えないものを感じてしまうような特殊能力もありません」とあります。思うに、モーツァルト、彼の音楽活動は、天才でした。ひらめくと、後は、自動的に音楽となりました。浅見さんは、似たような力を持っているのでしょうね。そして、この事を証明するのは、前世ですね。前世である程度していたことを、今生で完成させている。そうとしか説明がつかない。ところで、メダカの大群がいたとします。先頭が向きを変えると、全体が向きを変えますね。こうしたリーダーがいるのです。何時の世にもね。浅見さんも、それに忠実に反応しているのかも知れませんね。しかし、その正しさにおいては、群を抜いているかな。きっと、生まれながらに、清浄な方でしょうね。それで、鐘が鳴るように、本当のことを感じるのでしょうね。真理が風としたら、風に鳴っている。お正月の凧も、よく揚がる凧と、少ししんどい凧と有りますね。身の清浄と心の清浄とでは、どちらが先か。前者ですね。心の清浄は、なかなか得られないですね。しかし、身の清浄が有れば、足りるのかも知れません。心の清浄は、来世で良いのかも知れません。究極は、「空」ですが、これは、頭で考えないことですね。考えるときは、およそ、ロクなことを考えてない。考えなくて良いんです。気づくだけでね。気づいたら、実行すればいい。順々に満たされてきます。実行することが肝要です。良いことをね。しかしながら、歴史にしてもそうだけれど、あらゆる事象が、やはり、ある存在のリフレクションだね。知っても知らなくても。これは永遠の秘密だね。本人は知らぬ間に、サーカスのような人生を歩まされている存在もある。尤も、何時落ちても良いように周到に受け皿としての網とか病院とか用意はされていたのではあるけれど。誰も知らないところでね。しかし、茶番は茶番だ。本人が気づいたとき、とても憤慨していたよ。でもね、それでね、この上ない幸せという境涯を手に入れたらしいことは確かだ。しかし、その幸せはね、およそ、世間一般の幸せではなかった。試練に耐えたという意味では確かだから、帆帆さんの、「辛い経験をしなければ得られないことはない」という認識ははずれている。それ相応の辛い経験がないとね、進化した幸せはないね。一番はね、お手本がない。だから、コピーはコピーだね。世の本は全てコピーだよ。一番槍は、突っ込むだけだよ。これが、命懸け。だから、世の本は命懸けではない。世の説法者もそうだ。だから、確信がないし、自信もない。完全ではあり得ない。全能ではない。それでも、いい目してるよね。しかし、一番槍の突撃の醍醐味は決して味わえないね。勇気なんてものではない。狂気だ。これが特攻突撃だよ。真理に賭けたんだね。それも、大いなる力に導かれてのことではあるけれど。しかし、帆帆さんの本は良くできている。或る意味で、くやしいね。法華経にある大神通力については、知らないようだね。その意味では危険きわまりない思い上がりかも知れない。こうした傾向も様子を見るしかないのかも知れないね。単なる流行かも知れない。刹那的なものなのかも知れない。徳が切れたときが怖いよ。ご用心。運とか魂とか語るのは自由だけれど、測り知れないなら、自重した方がよいのかも知れないね。悪魔は隙を狙ってるよ。自信がないことは言わない方が良いとは思われる。新しい轍とならないことを祈ってる。要は、真理に対する無知という愚かさが、恥知らずな行為とならないことを祈ってる。清浄な鐘の音が鳴ればそれでいい。そうでなければ、どのような方法論も地獄の門、方便=嘘であり、結果、掬いはない。如来の神力のないところ、所詮方便であり、嘘であり、真実ではない。修行を通さない理論はやがてその虚実が露呈する。実行とは行であり、行入がなければ、真実の門をくぐったとは言われ得ない。やはり、自己一身の問題は、無門の法門=行を通らねばならないだろうね。行をしたかどうか、試金石だよ。ここで、決定的な差がある。大いなる力に認めて貰ってるかどうか、その祝福としての諸現象であるかどうか。単なるシンクロでは、究極の解決はない。関所を通過していない。涅槃ではない。滅ではない。結果、世の中を惑わしていないことを祈ってる。千尋の谷を通ってのことがある。千尋の谷へ落とされてのことがある。真理はそれほど甘い道程で得られるものではない。こうした傾向は、真理の存在に気づかしめただけだね。そこに本当の幸せがあることをね。新たな旅の始まりにふさわしいね。さて、誰が、本当の宝を手にできるか。新しい宝島だね。その方向が示されているのですね。ひとつの一里塚として現象しているのですね。進路よし。隻手の音を聞くとね、絶対の自信が生まれる。微塵の疑いもない。決定(けつじょう)がある。それが、この本には見られない。まだ、自分は修行中だと言う。露呈してるね。自信を持って書けるかどうか。ここに分水嶺がある。しかし、この自信、そう簡単に手に入るものではない。真理或いは魂を扱う限り、それは、自己にとって怖い。自己との大戦争に勝利できるかどうか、真の勇者は試されるのです。ここに大勝利を得れば、大歓喜とともに、自然の祝福がある。感じるだけのシンクロではない。確信としての事実がある。これが真実です。売れる売れないは関係ない。真実はむしろ衆愚の中では売れない。世間一般の理解を超えている。時代は追いつかない。以て、畏るべし。やはり、神は実在している。ここを確信できているか。疑いはないか。400年来の重商主義が裁かれている。取引行為の名でのやりとりが、詐欺・強迫となっている。これに対して、新しい価値がその芽を出している。既存の流れに乗っている限り、所詮、古い。若さとは何か。未来を信じる夢があること。新しい芽が見えているか。恐竜の時代が終わる頃のネズミに等しい。古いパラダイムでは生存できなくなってくる。新しい流れがすでに始まっている。自然はその為の準備を静かに余念なく作業している。このトンテンカンが聞こえるかな。地球は資源として無限だから、経済の外形はこのままだろう。要は、心の問題だよ。心が神の存在を希求している。今までの無神論が反省される。世の牽引車たる方々のね。嘘が多すぎる。人間の奢りとしてのね。今、換骨奪胎するのは、これだね。自然=神の認識の復活。それで、敬虔さを取り戻し、人として、謙虚さを取り戻せる。事実、諸現象がその存在証明をしている。信じざるを得なくなったけどね。信を以て入ることができる。神=自然の意思を知って、嘘はなくなる。神=自然は神の子を通してその意思を知る。神の子が自覚し、自信を得て、意思を持ったとき、自然は動く。敵対するものは排除される。淘汰としてね。因って、やはり、畏るべし。畏れるだけで足りる。ところで、F1、プロストの走りがある。ゴールを描いて走る。無理はしない。しかし、極限の走りである。彼はボディが柔らかい頃からの選手、事故の怖さを知っている。プロフェッサーと呼ばれる所以である。彼はセナとデッドヒートをくり返した。セナは天才ドライバーだった。ミッションが壊れて、1速と6速だけだったろうか、アクセルワークだけで優勝する選手だった。しかし、ボディが堅くなってからの選手だった。ミッションがオートマに代わった頃、事故を起こし帰らぬ人となった。その第1コーナーでプロストと接触したこともあった。プロストは言っていた、セナは何時か大事故を起こす、と。セナはもういない。年間所得50億を超える選手だった。セナがいなくなって、F1を見ることはなくなった。さて、また、世間一般の交通事故であるが、例えば、スポーツの試合における緊張感が有れば、ある程度、結果としての事故はそのほとんどを回避できる。スポーツをしても、選手として、入賞しているかどうか、大きな分水嶺である。すればよいと言うわけではない。勝つことは意味がある。スポーツにおいて勝つ極意、状況判断、ゲームを作る、風を呼ぶ、勝利を呼びこむ、独特のロケーション、一瞬の判断即実行、電光石火、勝てる。練習の段階で、無意識にこの状況を実現できるところまで高めておく。これが、鍛えるということ。真剣。天衣無縫。実戦。前歯の歯茎に菌が入ったことがある。膿んでいたらしい。広島鉄道病院の歯科医は女医だった。麻酔などしない。メスが入った。確かに痛かった。しかし、無表情のままだった。その後暫く、傷口にリバノールのガーゼが入っていた。いつの間にか、消えた。およそ、滅多に、痛いと言ったことはなかった。それで、どれほど苦しんでいても、周囲は気づかなかったようだ。それも、与えられた試練であったと言うべきか。しかし、試練は乗り越えることができる。解くべき課題に過ぎない。使命としての火裏蓮という試練もある。世間一般の試練を超えている。これを与えられる存在もある。苛酷な運命ではある。幾たびか下る、蒼龍の窟である。しかし、それも予科練である。これを卒業して、出世する。世間に帰還する。これもコギトエルゴスムである。古義を得て住む空間は開けると言うべきか。難問中難問。天中天。これを解かない限り、開けない人生もある。君が代である。結。千秋楽。(12:23pm 2005/12/21 Wed. fine, as litening to NHK-AM)[スティービー・ワンダー KEY of LIFE を聞きながら]