2005年12月18日

ある二十歳の女子

2.26事件が何故起きたか。青年将校たちが何故暴挙をしたか。東北における飢饉だった。妹たちが年期奉公に出された。その運命たるや悲惨を極めた。それは、明治の製糸工場にも等しかった。あるいは、精神的苦痛はそれ以下であった。今も、同じことが起こっている。父親が失業した。その父親は某国立大学卒であった。しかし、家計を支えるために、その子はキャバレーに勤めた。そして、今、二十歳である。この社会のギャップは何だ。世の知識人たちよ、よくも、浮かれた勝ち組とのさばっていれるものである。見る目を持っていない、としか言いようがない。それで、知識人とよく思えるものだ。同じ時代に生きていて、この日本の底辺で何が起こっているのか。オオバカ知識人たちよ。来世はあなた方の子がその目に遭う。メビウスの輪である。堕ちた彼女たちを努力しなかったと責めることができるだろうか。ニートたちを、あなた方は、責めることができるだろうか。彼女たちの因縁は、あなた方の因縁である。万物同根。何のために、勉学しているのか。単なるエゴとしか思われぬ。努力したくてもできない女子がいるではないか。西洋個人主義インテリゲンチャ及び経済至上主義の弊害だね。医学上の病だけが病気ではない。貧しさも病気である。思いとのギャップはすべて病気である。肉体上の疾患だけが病気ではない。問題は、この因縁が、来世に遺恨として残る。あなた方の子孫が、その報いを受ける。もっと、視野を広げては如何か。こうした、因縁というものに。自分とは関係ない、と思っていないか。宇宙は全て連動している。鳥ウィルス?渡り鳥は制御できない。貿易風に国境はない。「苦悩の迫害に打ちひしがれた者たちを済度されよ。人々に悦びを味わわしたまえ。教えを聴いて、かれらは「さとり」を得る者となれ。また、神々しい場所に行け。すべての者はアスラの身体を捨てて、平静で、温和で、安楽であれ。」(岩波文庫『法華経(中)化城喩品p39-41)』)今日は平成17年12月18日。12月としては、異例な大寒波である。呉の町も粉雪が舞い、あたかも、北の雪国であるかのようである。<冬将軍、顕現せしは、過去からの、しるしなるかな、何か生まれむ。>(奴隷解放、西郷隆盛銅像建立、東京駅命名の日[NHK-AM 2005/12/18 Sun. windy&snowy 5:31am] 広島において観測を始めてから最も多い雪の日)存在するべきbeingは、自らの意思を自然によって矯め直される、敵対する者は、自然が排除する、そして、やがて、白鳥の如く、身心の清浄となり、自らの存在に気づく。たとえば、ダイヤモンドは、始めよりダイヤモンドではないが、だれもが、ダイヤモンドに成るのではない。自然の環境が、ダイヤモンドを造る。自然は、長い時を待って、慈しみを以て、育む。そして、ダイヤモンドがダイヤモンドと成った時、自然は、自らの威光・威厳を証明する。自然の業がある。私の父の頃、中流社会と言われた。今、下流社会と言われている。何故か。「甚深」とは、海よりも深く、山よりも高い、父母の愛と言われているが、自然を親とする存在がある。仏が父、如来が母と言うべきか。見える世界が父、見えない世界が母と言うべきか。金剛界が父、胎蔵界が母と言うべきか。自然=神・・・宇宙・・・魂。はるかな時の流れを観ずれば、悠然として、この世の一切を靜慮する、その時、一切の煩わしさから解放され、苦悩はない、ここへ至るは、唯、身心の清浄あるのみであり、そのプロセスは、往々にして、人間は脱落する、至りつけるは、唯、祖先の導きあるのみか、一つ間違えば、至りはしない、間違えたとき、治癒すべき軽微な瑕疵であったかどうか、少々の傷はある、所詮、人生は、孤独な航海である、私たる身体を舟として、やがて、帰りつくは、故郷であり、港である、赤子の心でなければ悟れないとする禅の意味するところであり、人は、往生する頃に至る、この帰りなむ、いざ、を何時果たすことができるか、壮年にして至るを「さとり」とする、前世からの積み重ねを要する所以であり、至れば、その後は、極楽であり、三楽であり、余慶なる、三藐三菩提成就哉。(2005/12/18 6:12am)さて、ある禅僧に老婆が尋ねた。憐れみを以て、我に教えを給え、と。禅僧はその老婆と傍らの夫の頭と頭をぶつけた。思わず、「痛い」と老婆は叫んだ。禅僧は言った、「そこから始めるが良い」。修身斉家治国平天下。修身とは何か。家庭の基礎は何か。夫婦喧嘩は犬も食わぬ、本来は。しかし、身の勝手が過ぎている。仲良くしては如何か。互いに、信頼しては如何か。その為の一夫一婦制度であろう。家庭は王国、王は誰か。信頼の基礎が崩れる所以は何か。姦淫。芸能界及テレビ界或いはセレブ諸氏要猛反省!新しき世代、若者たち或いは庶民を惑わせし罪は重い。身の清浄なき者、これ諸悪の根元、公に出ることなかれ。悪しき周波数を発することなかれ。本来、古来、日本は大和。明治以降の本末転倒は、神が許さぬ。しかしながら、如何なる場合も、現実に対する因縁は、悪いことは全て自分に責任があり、善いことは仏さまのお陰である。これも、新しい仏説である。それで、謝るところからしか入ることはできない。「衆生自ら出ること能わず」、「唯、善業の因縁より出たり」。謝るためには、仏さまの因縁を頂くしかない。つまり、仏子となって、法を聞いて、よくわかり、実行することで、修行するしかない。成功は、すべて、努力の結果である。地蔵尊は地獄から掬う。地獄界がわかれば、仏界がわかる。地蔵尊は、また、閻魔大王である。アカシックレコードはある。それは、閻魔帳である。閻魔帳より、過去の悪を消して貰える。仏の説を聞いて、実行して、謝るならば。これが、人間の特権。仏所(仏の住所)破壊、仏説破壊、悪の根元である。原罪である。 

「指導者に会うのは、まことに得がたいことである。よくぞ来られた、生活の汚れを滅ぼす方よ。あなたは、今日、この世に久しぶりに現れられたのだ。百劫を満了して、われわれは、いま、ようやくあなたの姿が見られる。渇きはてた人間をうるおしたまえ、世間の主よ。いずれにせよ、未だかつて見たことのないあなたの姿が見られた。ウドゥンパラの花のように見ることのむつかしあなたの姿が、いずれにせよ、見られたのだ。」(岩波文庫『法華経(中)』p43-45 「化城喩品」)「幾千万・幾百万の衆生たちを、苦悩より解放したまえ。」「かの世尊は無言のままでマハー=ブラフマンたちの言葉を受諾した。」(岩波文庫『法華経(中)』p47 「化城喩品」)「あるいは、殊勝な業を具えた、ある天子がこの世に生まれたのであろうか。・・・それとも、遂に仏がこの世に現れたのか。」(岩波文庫『法華経(中)』p49 「化城喩品」)「有難いことに、あなたは確かにこの上ない仏の智慧に到達された。われらは、神もともに住む世間もまた、あなたを歓迎する。・・・われらも、すべての衆生も、最高の「さとり」に到達せんことを。」(岩波文庫『法華経(中)』p53 「化城喩品」)「世尊はこの世に平安の境地を示したまえ、・・・神も悪魔もブラフマンもともに住み、沙門と婆羅門のいずれを問わず、人間の住むこの世に教えを示したまえ、・・・幾千万劫のあいだに得た、耳に快き妙なる音声を放て。」(岩波文庫『法華経(中)』p53-55 「化城喩品」)