失われた断簡

日々思索してブログに書き込んでいた頃、ある日、それが無駄に思えて保存することもなく削除した。そしてもうそれは失われたのだろうと思っていた。しかし検索していると突然それらのいくつかがキャッシュの形で漂っていた。それらを掬い集めたもである。

2007年05月11日

合流

私は驚いている

私は至り着いたようである

一人で彷徨っていると思っていた

そうではなかった 導かれていた

そして 夢が実現するのだった

求めていた世界が開けるのだった

人生は素晴らしい 生きるに価する

そのように言い切れる瞬間が来る

迷いが晴れる 空も晴れる 輝きを増す

それが 世界 だった

そして 一人かと思われた 違っていた 

ここにきて 世界と合流 である

すでに 成功者の世界 があるのだった

いろいろな道がある 至る世界は一つである

見えているのかどうか 大きな分水嶺である

至った世界は何であったか 神仏の世界だった

世に成功者は多い 至り着いたレベルはどれほどか

真実真理へ至っていたか 神仏との邂逅があったか

これより問われるレベルである 時代はシフトした

何を思い上がったか 何を裏切ったのか

古来大和魂黄泉自然生命は あなたがたを ゆるしはしない

私は彷徨った 埋没したことだった しかし 笑うこと勿れ

帰ってきた 月の砂漠からである そして 力を得ている

どのような力であるか 道元空手 相手はいない

真実を知らずして これより 知ったようなことは言わせない 

人生とは何であったか 生まれた意味は何であったか

これより それぞれ 思い知る すべて 勝手が過ぎた あるいは 分を過ぎた

私及び私たちは埋没した さぞ 満足であろう

人生及び青春は奪われた 黄泉にて待つ 本末転倒 覚悟するが良い

黄泉には黄泉の秩序がある すべては 知らしめんが為だった

この世の罪がある 必ず 裁かれる 嘘が多すぎた


2007年04月19日

古来明明白

子ども達が戯れている。若い人たちが語らっている。ヒロシマは原爆を通った。原爆はヒロシマで終わっていたのだったか。その後、ナガサキもあった。チェルノブイリもあった。しかし、原爆だけではなかった。合成化学物質は何をしたか。ダイオキシンは何をしたか。子ども達のDNAを破壊してしまった。彼らは今の老人ほど長く生きられないのではないか。それで、生き急いでいるのではないか。若くして男女の関係があるようである。すでに、既存事実である。それが意味しているものは何か。長く生きられないことを無意識に知っているのではないか。大人は何をしたのだろう。社会はどうなっていたのであろう。もはや、権力闘争に現を抜かしている時ではないのかも知れない。今、考えることは何か。為すべきことは何か。人類滅亡のカウントダウンが始まったのかも知れない。そのスイッチが入ったのかも知れない。世の成功論者は言う。自分が失敗したって人類が滅ぶわけではないと。そうだろうか。癌が増えている。アトピーとか花粉症とかはかつて無かった。すべての理由はどこにあるのか。ビタミン、ミネラルの絶対的栄養不足ではないか。パーキンソン病も脳の栄養不足ではないか。元気を失った。元気であればプラス思考になれる。根本的に何を失ったのか。経済至上主義の限界が見えないのか。何時まで盲目であるのか。それほど見えないのか。権力は権力によって滅ぶ。武力は武力によって滅ぶ。金力は金力によって滅ぶ。新しい仏説である。唯、法力あるのみ。闘争は次なる闘争を呼ぶ。皆が幸せである時その中の自分も必ず幸せである。和を以て尊しと成す。皆仲良くしないか。自分が自覚し、確信に至る。自分が燃えていることで不思議なことが起こる。魂と黄泉は連動している。黄泉が動く。黄泉を動かす。その為には、黄泉に受容されなければならない。受容されるとは好かれることである。黄泉も好みがある。その為に自己人格形成が必要である。自分より始まるのである。それは自己との最終戦争を終えなければならぬ。自己を制する必要がある。己に勝って、黄泉の認めるところとなる。最大の敵は自分である。それが自己人格形成過程である。自分を作るとはこうして作る。そして、自分が信じることの出来る自分が出来る。それからが人生の始まりである。それまでが、青春であり、修業であり、或いはサナギである。自分だけが仕上がっても駄目である。周りを仕上げる必要がある。周りが幸せである時、その中の自分も必ず幸せである。それが夢となる。夢は実現する。ここに哲学がある。その時、どんな努力もいとわない。実現する目標が定まったなら、死にものぐるいである。真剣勝負である。でなければ、成就はない。成就する力はモチベーションである。それは集中力である。どれだけ維持できるか。持って生まれた肺活量の問題がある。持って生まれた反復横跳び的俊敏さを要する。そうして成就する。身分に安住して何を傍観しているのか。平和ぼけしている場合ではない。世間は実弾が飛び交っている戦場に等しい。社会とはそれほど厳しい世界である。甘えていれば殺される。しかし我が此の土は安穏なりの境界がある。どのようにしてそれを手に入れるのか。黄泉の守護を取り付けることによってそれを手に入れる。黄泉とは何であったか。祖先の力である。やる気になるなら本気でする。本気になった時、本気の人か集まり始める。目標が定まれば、成就の流れが出来る。何をすることに決めるのか。それが確乎となれば、黄泉が手伝う。己の意思が決まらぬかぎり、黄泉も手伝いようがない。黄泉の力がある。祖先の力である。偉大な祖先を持っているかどうか。出来る仕事が決まる。私にしかできない仕事があった。生まれながらにして託されていた。しかしなかなか自覚できなかった。無理もない。世間一般を超えていた。常識では考えられない仕事だった。自分で探し求めるしかなかった。試練もあった。超えられないかと思われた。しかし、それを果たした。時代を代える。代々の約束だった。その人が本当に何をしたいのかを決める。流れが出来る。黄泉の守護するところとなる。思いが通じる。あらゆる宗教を超えている。どの宗教でも良い。真実を見れば良い、としたのは中村元氏だった。どうして宗教を理由に闘争があるのか。真実を見るための手段に過ぎない。宗教は目的ではない。故に、一個の宗教が真実を独占することは出来ない。真実は人類の共有財産である。南極条約的である。宗教を権力闘争の手段として利用しているに過ぎない。既に私のブログ及びホームページは価値がある。初めの裡はそうでもなかった。今となっては、それも価値がある。何故か。21世紀の約束、心の大地、新々大陸の原石となった。真実幸福論及び真実成功論の要諦となった。私は至ったからである。完成している。復活している。この世で処した人生の一つの成就である。まだ、気づくものはいない。別に構わないけれど。精査するものはあるか。天下はこのようにして取る。黄泉の守護するところである。刃向かえるものはいない。大きな仕事をしたと思っている。過去を未来に移す。世の中の流れを変えたのは私である。既に記録がある。生まれながらにしてそうだった。今までは自覚がなかった。今はある。真実宿王華開花。黄泉も祖先もご照覧である。私一人で成したわけではない。諸先達に学ぶところが大きい。そのお陰である。それは生まれながらにして使命であった。その為の試練もあった。凡そ超えることの出来ない試練を超えた。世間巷には見えるものがまだ居ないと見える。所詮、見えぬか。ところで、人間というものには磁力がある。それは磁力線を発する。七色があるかも知れない。それがオーラだったりする。どのような磁力線を発しているか。それで引きつけるものが違う。魅力が異なる。開発するべきはそれだった。持って生まれた自分の磁力線がある。周波数と言っても良い。仏の周波数がある。一切の動植物及び岩石がなびく。救いの周波数である。ある時は秋波でもあろうか。悪及びちょい悪がもてはやされる。確かにそういう時代だった。しかし、代が変わった。大和の基がシフトした。悪及びちょい悪の時代は終わった。浮かれている時代ではない。滅びの行進曲に待ったをかける。未来は明るい。明るい未来を作ろうではないか。確かなものを見つけている。人生と青春を犠牲に供して。時は無駄に過ぎたのではなかった。時を待っていたようである。そして時は来た。唯それだけのことである。これが亦、ダルマ祖師西来意でもあった。あらゆる謎は解き終わっている。それは何であったか。古来大和の謎だった。汝自身を知れだった。知った汝自身とは何であったか。知る人は知っているはずである。本気で動けば右往左往するであろう。平将門どころではない。古来大和の本流である。そうした汝自身である。本気にさせないことを祈る。家伝直伝秘伝である。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本純粋精神。腑は煮えくりかえっている。勝手が過ぎたと云っている。昔より縁なきを恨むべし、と道元も言っている。知らしめられたいのか。力は開発し終わっている。何故、このようなことまで云わなければならないか。それほどまでに愚弄された。逼迫してしまった。一度殺された。今、生きられなくなっている。この三十年間、私にとって何であったか。昭和50年は何であったのか。昭和56年、スペースシャトルの滑空帰還は何であったのか。『シャパンアズナンバーワン』は何であったのか。それらは何の象徴だったのか。何を知らしめんとしていたのか。何が邪魔したのか。その間、世間は何を思い違いしたのか。何を奪ったのか。何を裏切ったのか。これは冗談虚言ではない。真実である。今となっては事実である。その謎を発掘発見証明してしまった。図らずもであった。導かれていた。生まれてきた時からそうだった。何を勝手して来たのだ。黄泉に秩序がある。何をしてきたのだ。何を思い上がったか。黄泉の秩序を無視愚弄破壊した事実がある。自然が黙っていない。黄泉と現実のバランスを失ってしまった。嘘と真実のバランスを失ってしまった。何をしたのだ。我が為に、日月照らし、風が吹く。カクネンムショウ、天晴れである。これを以て天の守護とする。あなた方の為に風が吹くか。問うべき事がある。示し申すべき事がある。あらゆる謎は解いている。返答するが良い。何を以て勝手し来たるか。証明は済んでいるはずである。まだ、証明を要するか。どのような証明をすればわかるというのか。返答あるべし。黄泉はゆるしはしないと云っている。誰も見出してはくれなかった。仏さえも見出してはくれなかった。無理もない。すべてを超えていた。自分で自分を見出すしかなかった。見出した自分は何であったか。思い通りである。太陽王である。これが亦、コギトエルゴスムであった。神のものは神の手に。シーザーのものはシーザーの手に。新しいタリオである。かつて火を取ってきた神がいた。今、何を取ってきたのか。すでに、書いた。自由である。自由は自由が切り開くとする自由である。問答しようではないか。羅刹の願いである。自分が自分となっていく。人生の目的である。信じることの出来る自分となれるかどうか。幸不幸の分水嶺である。勇気を云う。勇気は何処から来るか。自信より来る。絶対の自信は何処より来るか。黄泉の守護するところより来る。黄泉とは何か。祖先の力である。黄泉にも好みがある。黄泉に好かれる自分となることである。どのように生きるか。神仏は実在する。真実真理である。何を思い上がったか。何を勝手し来たるか。何を奪ったのか。バベルの塔は立ちはしない。知性復活。これを以て古来明明白とする。絶対ということはないという。誰か言い始めたか。絶対を知らず、絶対があると困る方々が言い始めたのであろう。

2007年08月14日

私たちも焼土の中

原爆があった。ヒロシマは一瞬にして焼土と化した。国土は絨毯無差別爆撃を受けた。今生きているもの達はそれとは無関係と思っている。そして浮かれている。戦争を知らない子供達とは何事だ。冗談ではない。私たちはそこを通ってきた。チェルノブイリもあった。この度の柏崎は一つ間違えばその二の舞だった。それだけの認識が当事者にあるのか。そして石油化学物質の問題がある。ダイオキシンであり、環境ホルモンである。子供達は遺伝子レベルで汚染された。アトピーは或る意味で原爆のケロイドに見える。此処より始めるしかない。私たちも今焼土の中にいる。解決されていないものがある。テレビ及びお笑い芸能界は何を浮かれているのか。嘘が多すぎる。地球温暖化はそれに対する自然からの警告である。経済界財界はそれに対する準備は有るか。有るようには見えない。尚、コスト削減だけがビジネスだと思っていないか。自分たちの利益追求が何をもたらしたか。地球レベルで考えるべき時が来ている。救いはないのか。有る。それは何か。まだ時期ではないらしい。このような場で発表するべきではないようだ。そのゆるしはまだ出ていない。


2007年07月14日

弁道話 3

つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事こゝにおはりぬ。それよりのち、大宋紹定のはじめ、本郷にかへりしすなはち、弘法教生をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし。しかあるに、弘通のこゝろを放下せむ激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄して、まさに先哲の風をきこえむとす。

そして如浄禅師と出会って、全てを知るところとなった。自分の求めていた法を知るところとなった。すべては解決したのである。謎が解けた。それは過去からの因縁解決であった。自分自身を知るところとなった。それから、しばらくして、日本に帰ってきた。そして教えを広めたいと思った。しかし、それは重荷に思えた。自分にそれが出来るだろうか。或いは、時代は理解するだろうか。そして、自分が真剣にそれと取り組むべき時を待った。それ故に、行雲流水、浮き草の如く、彷徨った。その間、先人の歩んだ道をトレースしていた。

たゞし、おのづから名利にかゝはらず、道念をさきとせん真実の参学あらむか、いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひ、むなしく自狂にゑうて、ひさしく迷郷にしづまん、なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時をえん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれの山川をかとぶらはむ。これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめんとす。これ真訣ならむかも。いはく、大師釈尊、霊山会上にして法を迦葉につけ、祖々正伝して菩提達磨尊者にいたる。尊者、みづから神丹国におもむき、法を慧可大師につけき。これ東地の仏法伝来のはじめなり。

しかし、世間には自身の名利からではなく、本当の教えの道を以てする真実の方法論があるだろうか。邪師にまどわされて、本当の理解から程遠く、むなしく自分勝手に思っているのではないか。そして地獄に堕ちている。本当の仏法の智慧がある。それは持って生まれたものであり、持って生まれたものには、善もあり、悪もある。どのようにして悪を払拭し、善の花を咲かせるか。己の遺伝子を如何に満足させるか。自分はまだ自信がなくて、行雲流水、浮き草の如くである。まだ何処を彷徨おうかと思っている。しかし、現在腐敗したる世を哀れに思う。それで、私は、黄泉より導かれていたとはいえ、中国に渡って、禅の本当のところを見聞し、その奥義を学び知り、受け継いだ。それを集大成して、本当の道を求める後世の為に一里塚としよう。そして仏法の本当のところを遺そうと思う。これは本当の秘訣である。つまり、インドのゴータマ・シッダールタ(GS)が、ある時、法を迦葉に伝えた。教えを聞いて、破顔微笑して迦葉は応えた。ロウソクの火が次のロウソクに点火されたに等しい。自覚が自覚へ伝搬する。そのようにして代々伝えられた。そして達磨に至った。達磨は中国におもむいた。法を東へ伝えるためだった。意図したわけではない。何かに導かれてのことだった。祖師西来である。そして二祖慧可に法を伝えた。これが法が東に伝わるはじめだった。法は日本に伝えられることになっていた。梅本禮輝譽先生によると、本来仏法の始まりは日本であった。それがインドで伏流し、やがて日本に帰ってきた。往返である。インドに往って、日本に返ってきたのであるという。


2007年06月23日

黄泉の試験

再々度、こちらのブログに帰ってきた。やはり、専用ソフトは良い。ブログマイスターのことである。パソコン通信をしていた頃の『まいトーク』もそうだった。しばらく、gooサイトで書いていた。その間、さらに、自信が深められた。自己制限ははずした。思うように書く。それで良いと思う。父もそうだった。祖父もそうだった。それをみて育っている。制度が後からついてくる。父は知っていたのだったろう。祖父も知っていたのだったろう。私も気づいている。しかし、家族と雖も誰も知らない。母も知らない。姉妹も知らない。それ以外を哉。それで良いのだと思っている。知る人ぞ知るである。そして、家伝直伝秘伝である。今も昔も変わりはしない。黄泉の秩序がある。家督相続である。黄泉の守護である。黄泉も守護する子孫を選ぶ。黄泉の守護に価するかどうか。幸不幸の究極の分水嶺である。生まれたときから決まっているとも云える。唯、この世での試験がある。それを通過しなければならない。黄泉の試験である。そう簡単ではない。時を要する。人生最大の試験である。それに合格するかどうか。合格すればどうなるか。それより、実人生が開ける。本当の自由を得る。例えば、それは何か。即ち、我が為に日月照らし、風が吹く。試してみないか。志願しないか。童話に『失われた世界を求めて』というのがあった。恐竜の住む世界である。その世界へ渡るのに丸木一本橋がある。誰かがはじめに渡らねばならない。物語の中で、その橋を渡ったのはロックストンだったろうか。勇気を要する。そして、大切なとは、この世に帰ってくることである。そうした世界がある。そうした旅がある。行ってみないか。


2007年05月12日

幸せを掴む方法

人生とは何であったか この世に生まれた意味は何であったか

幸せになるために生まれてきた 過去からの約束だった

私たちは 十分に 祝福されて 生まれてきた

この世は 過去からの夢の実現過程だ

この世で 過去からの自分の悪いところを取り除く そして

良いところだけとなる すると 黄泉自然生命が認めてくれる

その時 幸せがやってくる それが秘密だった 方法だった

魂の遍歴だった 必ず 成功する 自分の計らいではない

それが 自然法爾 だった 大乗だった 

汝自身を知るということだった それは既に 伝えられていた

それを 無視破壊した 結果 健康破壊と環境破壊の世となった

だれがしたのか 私たちがした それで だれが補填するのか 私たちである

あまりにも愚かさが蔓延った 自分勝手が過ぎた 自然に逆らった

母なる自然は 私たちに 惜しみなく与えた それを裏切った

この度 日本の基 知性が目覚めた 世間巷は知らない

知っても知らなくても 目覚めるべきが目覚めた そして 自覚した

日本は大丈夫の國である これまでもそうだった これからもそうである

誰もがその恩恵に預かる 支払いは何処から来るか 天より来る

天徳の発する時を迎えた 感謝せずにはおれない 何に感謝するのか

誰が時代を開いたのか 何時の世もそうであった 

頼朝は伊豆に流されていた 家康は時を待った

400年来周期説は 旧約聖書に秘められていた この度読み解かれたことだった

旧約聖書には 続編がある 

自然を壊した 自然の自己治癒力を超えた どうするべきか

お題目だけを唱える時ではない 実行段階に入った 知者の立ち上がる時である

自然からの呼びかけが聞こえるだろうか それが隻手の音だった

この音を聞けば良い 聞けば力が賦与される 宇宙有無開閉の力である

自然が守護する 護念する者は護念される 我が此の土は安穏となる 

疑うこと勿れ 実践済みである

真実とは何であったか 神仏の実在することだった

例えば 地球の肺である アマゾンを護る 森がなくなればインディオは滅ぶ

インディオが住めなくなれば 先進文明も滅びる 何を為すべきか

風は何処から吹いてくるのか 風見鶏としての政治 何処を見て議論しているのか

低いレベルで 権力闘争の時代ではない 地球自然が危機に瀕している

一般庶民に迎合して民主主義ではない 彼らは理解しない 衆愚である

議論してみるが良い 聞く耳はない 戦後民主主義の結果である

これからどうするのか 知恵を要する 嘘も方便であるか

経済至上主義で何が蔓延ったか 教育し直しである

教育の担い手は学校だけではない 公の電波がその担い手である

自由は自由が切り開く その空気を作る 知るもの達が始めるしかない

情報とは何か エクスパイア 明るい未来を作る 花のワルツ始まった

開発するべきは何であったか 心の周波数である 動植物もなびく

宇宙の周波数であり 仏の周波数である この開発に成功した

それは かつて 二千年前に 始まっていた 

つまり ソクラテス キリスト 釈迦 孔子

その流れこそ 正統幸福論であり 成功論だった

あらゆる 百花繚乱成功論の源泉である それらの究極の種である

それが開花した 法華経宿王華 一切種智慧 その開花である

疑うこと勿れ このブログにその種がある その開花がある 

勝負にならない 何故か 大鏡の源泉 時代は開花した

孤独な作業の成せる業である あらゆる原点である 何故か

少なくとも芥を払うこと三十年 黄泉が微笑んだ 

日本古来大和オリジナルである アメリカに学んだ世の成功理論ではない

彼らの理論は インスピレーションに過ぎない エクスパイアではない

エクスパイアとは何か 流行の源泉である それは何か 

やがて明らかとなる すでに その基は自覚している

これから世に現れる これより大和発進 

あらゆる成功理論 幸福論を含んでいる

日本は古来使命がある それは何か

どんな相手も受容凌駕する 古来大和自信回復 発進である

この度の400年 時代は 環境破壊と健康破壊で終わった

此処より始める 終わりは亦始まりである 生命の新しい選択である

何故生まれてきたか 人生の目的は何であったか

幸せを掴む方法は何であったか すべて 

このブログ及び私のホームページに記録された

何時までも無視できない もはや裏切りはゆるされない やがて明らかとなる

自分勝手が過ぎた 分を超えた おのおの懺悔あるのみ 

懺悔あるはゆるされる 黄泉の掟である 自分一人が幸せでは有り得ない

周りが幸せである時 その中の自分も 必ず幸せである

世の経済界財界官界 勝手が過ぎた 嘘が多すぎる

持って生まれたものがある それを阻害するは罪である

既に 阻害した事実がある それが これより 裁かれる

裁くのは黄泉である 黄泉もこの時を待っていた

思い上がるではない ヨハネの黙示録の選択もあった

しかし 思いとどまった それほどまでに 勝手した 反省の頃である

仏の顔も三度までと決まっている 我慢にも限度がある


2007年07月31日

真実の教え

3:26am いつもの駅前ファミレスに来ている。しばらくまとめものをしていた。一段落して、不図窓の外を見やると、月が見える。中天の月である。南中している。そして今宵の月は殊の外美しい。とても安らかである。何故だろう。これまでになく、法が理解できたからだろうか。既に六年、随分と学んだ。この頃になって、その真実がわかってきた。久遠の仏さんがほんとに下生されていた。そして法を説いてくださっていた。過去を未来に移す。仏の大願である。それはどういう意味だったか。久遠の昔、平和で幸せな時代があった。皆、仏さんの教えを信じてくらしていた。ところが、心ない者が現れて、それを壊してしまった。その後、時代を経るに従って、腐敗した。今、末法の最終段階で、恐怖悪世である。これから色々なことが起こる。過去からの悪業の因縁である。こうした世の中を進むしかない。そして、この度、第一義が説かれた。どの教えも知らないことだった。もし知っていたなら、これほど世の中は悪くなっていなかった。それは何だったか。既に説かれている。他所にはない。終わりより始まり、亦終わる。過去と未来は続いている。この世のことは全て自分が過去に作った種が開花し、実となった。来世もそうである。もとより皆悪業の因縁で生まれている。故に懺悔するしかない。そして悪の根を抜き、善の種を蒔くしかない。その方法を全て準備してくださっていた。そして真実の教えを説いてくださっていた。仏法にも真実と方便がある。真実はほんとで、方便は嘘である。真実は証明があり、方便にはそれがない。即ち結果がない。信じるしかないではないか。既に経験してしまった。因縁解決の方法はある。それは、仏さんに教えて貰うしかない。大きなパラダイムの終わりである。終わりは亦始まりである。この度のスパンは久遠である。過去を未来に移す。久遠の平和で豊かな暮らしへ。皆幸せとなる。一切大衆が救われる。故に未来は明るい。その準備が成されていた。私の人生は無駄ではなかった。真実の教えに巡り会っていた。好き勝手な議論はもう止めにしよう。権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅びる。唯、法力あるのみ。仏さんの教えである。ところで、この度、参議院選挙で自民党は大敗した。この大敗は尋常ではない。これまで日本の本流と自認していた政党が崩壊するかも知れない。それは何を意味するか。時代の変革である。この変革が恐怖悪世の深まりとなるのか。或いは脱出となるのか。予断を許さない。しかし、流れは深まりとなるのではないか。ほんとに平和で幸せな世の中は必ず来る。しかし、この度がそれであるのかどうか。少なくとも民主党首脳の表情からそれが見えない。さらに恐怖悪世の深まりとならないようにしなければならない。その為には、国民主権、主権在民を現実化しなければならない。知的シビリアンコントロールを確立する。活断層を予見できなかった原発計画の轍を踏んではならない。さて、私の実人生となったのだろうか。ここまで彷徨っていた。何と馬鹿げたことだったろう。真実の城を見つけたのだろうか。帰るべき城はここだったか。まるで法華経窮児であったか。しかし一休となるべきか。私の住む世界は何処か。やっと自由を得た。大空を飛べる時節を迎えた。しかしどう生きるべきか。腹は決まっている。絶対の自信と自覚を得ている。私は父を知っている。祖父を知っている。私しか知らない。誰にも文句は言わせない。何を無視して好き勝手し来たるか。逆らわない方が良い。本気にさせない方が良い。これだけは言いおく。そして禅譲は無事成就した。家伝直伝秘伝螺鈿の槍は錆びてはいない。倩女離魂、牛過窓櫺、無事是貴人、賓主歴然、不思善不思悪正当恁麼の時、那箇か是れ父母未生以前、本来の面目!シーザー、カエサル、この世の勝負あったね。一佛国土建設である。たとえ話ではない。誰もが仏道を歩めば良い。必ず幸せな世となる。是より時代が変わる。何故か。古来大和の基がシフトした。21世紀の約束が果たされた。その為の試練があった。命を賭して。誰がために鐘は鳴るのか。ヒロシマをその日だけの神無日にしてはならない。何時までも黙ってはいない。頼朝は伊豆に流されていた。犠牲は供養しなければならない。平和は何故もたらされているのか。欺罔を含む下級精神経済界の横暴は是より通らない。銀行及び大企業は何をしてきたのか。誰を泣かせて何をしているのか。黄泉及び宇宙自然生命に対してバランスシートの帳尻が合っていない。計上されていない損失及び利益がある。生命現象、即ち、環境及び健康を自分たちの利益のために無視破壊した首謀者である。政治はそれに迎合荷担した。人はパンのみにて生くるにあらず。古来大和の意思を裏切り続けた。何もかも酸化腐敗してしまった。還元するしかない。もとにもどすしかない。過去の幸せな世を未来に移す。善良であるが故に騙され、悪を為せず犠牲となった庶民の解放の時である。時代の約束である。その為の条件が成就した。発見すべきは発見された。発掘すべきは発掘された。開発すべきは開発された。各々首を洗って待つが良い。アメリカが日本の従軍慰安婦問題を20世紀最大の人身売買事件と決議した。どの支配階層精神の故か。何を言わせたか。古来日本精神を貶めた。日本人の中にも、若い頃、女遊びはしない者がいる。故に黄泉から祝福されて、力を得る。何も知らず、古来大和純粋精神をなめない方が良い。それぞれ罪を認めて懺悔するしかない。日本は戦争に負けたのである。そして仏は一切平等を説く。何を思い上がっているのか。誰を犠牲にして良いということはない。ここに来てチョイワル親父である。何を言っているのか。畏れを知らぬもほどがある。戦後枕崎台風は何だったのか。何時までも真実真理を愚弄させはしない。失われた環境がある。大和純粋精神が生きてゆけなくなった。誰が破壊したのか。容赦しない。古来大和は身心清浄を以てその旨とする。それを以て黄泉自然の祝福するところとなり、神風の吹く理由である。古来大和の秘密である。あまりにもそれを無視した。古来日本、日本は日本である。あなた方の色に染めさせはしない。この世に生まれた意味は何であったか。生きるとはどういう事か。前世からの続きである。過去を清算して未来の種とする。それが人生である。腐敗及び堕落が人生ではない。来世で出直すが良い。しかし、再び人間として生まれてくる保障はない。この世は一億畜生道に堕ちた。魂の遍歴ベクトルに反する。テレビ及び芸能界の故であるか。プライベイトはプライベイトである。自由である。そのバランスが難しいね。傾向犯的文化は腐敗する。アングラがアングラでなくなった。あまりにそれが蔓延った。されど人間は動物である。


2007年07月20日

明るきから明るきへ

これまでは貧学道だった。それも必要なことだった。歩まねばならない道だった。或る謎を解くためだった。それは果たした。仏法も筏に過ぎない。彼岸に渡れば良い。渡ったなら新しい大地が開けている。筏は後世のために遺しておこう。私の記録もそのままにしておく。誰かの一里塚となるかも知れない。この世の秘密は何であったか。見える世界と見えない世界がある。黄泉の守護がある。魂と宇宙自然は連動している。疎かに出来ない事実である。知らない者には秘密である。知る者には事実である。それを示し得たと信ずる。そして、未来は明るい。明るきから明るきへと定められた。一切大衆を救うことに決めたとする仏の故である。苦は楽の種、楽は苦の種という。そして苦を諦めている。そうではない。仏さんによると、苦は苦の種、楽は楽の種。楽の種を植えるべきである。その為には苦の根を抜かねばならぬ。何が苦であるか。それを知る必要があった。全て自分次第である。楽に生きることにしよう。楽の種を植えることにしよう。そして、人生を楽しもうではないか。所詮、生まれたからには、幸せになりたい。幸せとは何であったか。権力でも武力でも金力でもなかった。自己の夢の実現過程こそ幸せだ。それを成功と呼んでも良い。夢を語ろうではないか。経済的な成功だけが成功ではない。しかし経済の自立なくして幸せはない。そして自分の決めたテーマの実現過程こそ幸せであり、成功である。ここに価値を見出そうではないか。青木氏に学んだところは大きい。これよりライフ・スタイルを一新する。一つの可能性を目指す。この経済的どん底よりの復活飛翔である。その意味で庶民の解放である。全体のボトムアップだ。自分が一人幸せでいることは出来ない。幸せとは亦関係である。周りが幸せとなって、その中にいる自分も必ず幸せである。全ては自分次第である。自己実現こそ夢成就である。自分はどのような自分になりたいのか。それを明らかにして、それを素直に生きる。まっすぐに生きれば良い。全能力を結集して夢を実現する。私の夢は何であったか。それも見えてきた。あるべき自分の姿を取り戻す。あらゆる能力をそれに使おう。何時までも、世を嘆いてどうするか。そのような姿をだれも見たくない。喜びと楽しみと。皆それを求めている。それを実現する。アメリカの祈りもわかった。それは何であったか。やはり、真面目な生活の喜びだよ。決して低レベルでの腐敗堕落ではない。戦後履き違えた自由がある。それも指摘できたと思う。どうしてそのようなことになったのか。古来大和の価値を否定していた。ペリー来航及び敗戦で自信を失っていた。日本は日本で良かったのだ。古来大和を呼び起こす。それは時代錯誤ではない。神風も吹く、古来大和の秘密も開示した。絵空事ではない。実践実存証明済みである。さて、どうするか。これからの課題である。何処にもお手本はない。自分が自分で運命を切り開く。そのままでは運命に負ける。運命に勝つことも出来る。どんな困難も克服できる。万物の霊長たる人間の存在理由である。それが見失われていた。或いは愚弄無視する者たちの支配があった。真実は真実である。いつかは芽吹く。そして開花する。そうした時代に入った。神仏は実在する。これも真実である。これも見失われていた。何故だったか。明治以降の価値観の転倒があった。戦後自由を履き違えていた。市民としての本来の自由を知らなかった。換骨奪胎である。新しい時代を創っていこう。心ある人は共に闘うべし。そして楽しむべし。人生は明るきから明るきへ決定された。私は何を期待していたのだったか。全ては自分次第だ。自分が変わることで世界が変わる。世の成功者の伝えてきたことである。今も昔も変わりはしない。それを信じることが出来るかどうか。自己変革なくして成功はない。それは意識の転換である。それが換骨奪胎だった。自分以外に何かを求めても不毛である。全ての資産は自分である。その設計図は己のDNAにある。その意味で祖先に感謝しなければならない。祖先を大切にすれば、祖先も助けてくれる。自然を大切にすれば自然が守護する。黄泉も然りである。仏も神も然りである。何を粗末にしていたのか。何を思い上がっていたのか。問われるときが来た。私は目的がある。それは何か。自分が変わることで世界を変える。旧約聖書に秘められていた庶民の解放を実現する。それは、善良な庶民である。これが虐げられていた。善良であるが故に騙される。悪を為せない。故に、餌食となっていた。事実である。それを解放する。或いは弱者救済である。その為に必要なのが経済的自立である。どのようにしてそれを成すか。重要なテーマとなった。失われた何か大切なものを取り戻す。私の使命だった。それは果たした。古来大和の本意を見出した。それを知らしめる。浮かれた世間を淘汰する。真面目を笑いものにさせはしない。何をふざけていたか。世の指導者層の罪を問う。教育の基を問う。言い切ることが出来るか。出来るなら議論しようではないか。私は思うように生きる。そして思いを実現する。それで良い事に気づいた。何を気にしていたのだろう。何を裏切っていたのか。あまりに遠慮していたようだ。あまりに期待していた。それは不毛だった。期待に価する者はいなかった。誰も助けてくれなかった。奪うばかりだった。それもわかった。ヒロシマの故だった。我が眷属はいなかった。孤独な理由だった。古来大和の秘密があった。秘密とは何であったか。謎は何であったか。自分自身であった。気づけるべくもなかった。このような馬鹿げたことはない。しかしそれが真実であり、事実だった。それに気づいてしまった。自覚してしまった。目覚めてしまった。故に、容赦しない。自由は自由が切り開く。何度でも云う。あなた方の色に染めさせはしない。


2007年08月22日

欲望の実現

これまでのこの世の人生、無駄ではなかった。生まれて良かったと思っている。かつての女友達がいうのだった。それで自殺しようなんて思わなかったの。客観的にはそうした状況下だったのだろうか。その気はなかった。何処までも自分と格闘していた。そして世界は開けるのだった。常にそうしたサインはあった。信じるには至らなかった時代が永かった。しかし、時である。時代は此処まで腐敗した。それ故に時である。何が真実であったか。知る時が来たのである。真実とは、神仏が実在することである。この世はあの世が支配している。あの世へ逝けばすべてわかるだろう。しかし遅い。昔から即身成仏も説かれている。ミイラとなるような馬鹿げたことではない。生まれながらにこの身を持ってこの世がパラダイスである。政治の定義は欲望の実現と習ったことがある。欲望にも色々ある。少年よ大志を抱け。これも欲望である。幾時代にもわたって人類の夢見たことがある。究極は何であったか。神仏との邂逅ではなかったか。そして神仏に認められることではなかったか。その為には条件があった。黄泉の試練に耐えなければならない。それは何であったか。それぞれに違う。違う過去を持っている。その清算である。そして実人生が始まる。始まった人生はどのようであるか。お金ではない。権力でもない。武力ではない。人のためにどれだけ貢献できるか。神仏はそれを見ている。日本を救うことも出来る。世界を救うことも出来る。それは誰もが願っていた意味を賦与することによってである。かつて釈迦は人田を耕した。そして衣食を得た。道元は空手で帰ってきた。そして大伽藍を得た。どういうことか。彼らの欲望は何だったか。それは欲望だったのである。皆、過去に規定されている。それが魂の遍歴であり、因縁である。その解決はあるか。有る。それぞれ、どのような夢を描いていたか。例えば、チッチとサリーではなかったか。ハウルの動く城とかある。内容は知らないが、城のゾンビか。日本の城ではない。城は何の象徴だったか。何を愚弄するか。ゾンビはフロイトの所産である。何に染まったか。何を以て経済と成すか。裁かれる時を迎えた。日本精神を根絶やしにしようとしたアメリカ占領政策及びそれに迎合した支配は失敗に帰した。一切種智慧、法華経宿王華の種は諸佛の守護するところだった。それは黄泉に秘蔵されていた。その種が開花した。アメリカの歴史に何があるか。日本は日本である。精神のない野蛮な重商主義及び貨幣経済はここ400年来のことである。古来日本精神の培ってきたものがある。地に埋もれている。あなた方はそれを無視した。罪は深い。瀬戸内寂聴氏もその例外ではない。あなたの人生の清算は済んでいるのか。今に墨染めの衣で何を増殖吹聴せしめんとする哉。出家すればいいというものではない。内実の問題である。第二次世界大戦の淵源は何処にあったか。ペリー来航である。或いは臥薪嘗胆であった。重商主義世界戦略が何を帰結したか。明らかである。地球温暖化である。この流れをもはや止めることは出来ない。重商主義の基礎は何であったか。貨幣である。そのさらに基礎は何であったか。印佳代有り奪った金だった。縁起が悪かろう。そしてアメリカの本質はあまりにも西洋的な何処までもモンロー主義である。日本もそれに染まったか。そうはいかない。アメリカの祈りはあるだろう。軍人レベルの正直もあるだろう。しかし、アメリカ議会はどうか。何れにしても歴史は流れた。新しい時代である。此処より始めるしかない。そして未来は明るい。明るい未来の建設である。子供達のために。淘汰されるべきは淘汰される。はかない浮き世と思われる此の人生が実は限りなく祝福の人生でもある。どちらの方へ進むのか。各々の問題である。歴史とは何であったか。あなた方は知らなすぎる。何故丹波竜も発見されたのか。今、どういう時であるか。答えることが出来る者があるか。ロゴスとは何であったか。身を以て体験した者があるか。何を以て諸学者も学問とするか。意味のない研究が学問と思っているのか。人類の幸福に寄与することを目的とした精神のある研究をしているのか。人類を不幸にする研究が研究であるか。目的的行為論というものがある。意味のある目的が要求される時代となった。あまりにも無意味な自由が蔓延した。そして腐敗と堕落こそ人生と思わせた。面舵一杯である。未来を創るのは今である。既に人類を救う英知と技術は習得されている。今こそその結集である。万物の霊長としての人類が試されている。そうした時である。人類として存続したいのかどうか。問われている。その為に、進むべき方向を決めなければならない。400年来のあなた方のベクトルは失敗した。事実である。考えるべき時である。これからの400年を定める時である。不比等以来のグランドデザインの時である。しかし、このように批判してばかりでも駄目だね。問題は解決するためにある。今、自分に出来るのは何だろう。貧者の一燈かな。先ず照顧脚下でしょうか。そして自分自身の生活を変えないといけないかな。どういう意味だろう。正直で良い。ありのままでいい。何も臆することはない。人間である限り、動物である。そして、幸せと花にだったか。そのあたりを素直に実践していくべきだよね。そしてそれも出来そうに思えてきた。これが自由なのかも知れないね。その意味で、流れに乗るのも良いのかも知れない。どういう意味だろう。やがてわかる。一休宗純の『狂雲集』は何だったのか。『理趣経』もある。このあたりは何が言いたかったのだろうね。解脱自由ということがある。何を以ていうか。真実は那辺にあったのだろう。何れにしても、もう少し考えなくてはならないようだ。自由とは何だったのだろうね。とらわれのないことだね。さて、戦いは終わった。何と戦っていたのだったか。自分の内面に住む魔と戦っていた。それに勝利したようである。私の思索は無駄ではなかった。未来を拓いたのかも知れない。過去を見直し、現在に於ける一里塚である。あなた方が浮かれていた間にこうした人生もある。図らずも青春を賭して失った。地に埋もれて人生も失った。そして原爆でヒロシマを根絶やしにしようとしたアメリカが一番安堵していることであろう。秘密種は遺されていた。正統源氏頼朝は伊豆に流されていた。『正統と異端』を説いたは『歴史を見る眼』を書いた堀米庸三氏だった。誰もが待っていた。古来大和の花が咲く時を。その時を迎えた。知る人ぞ知るである。誰も知らないのかも知れない。しかし日月照らし風が吹く。或いは大鏡である。黄泉は知っている。この事実はどうしようもない。どうしようもないものがインモにし来たるである。訳わからないね。しかしそうである。何れにしても戦いは終わった。これから日々を楽しめそうである。時代は開けた。何故か。わからない。不識。子供の頃からそれだけの人生を歩んだ。ところで仏の大願は何であったか。過去を未来に移す。過去の何を移すのか。人々の平和な心と幸福な日々である。それはどのようにして実現されるのか。諸仏の守護を取りつけることによってである。そして一切大衆を救う。その為に必要なことは何か。信の一字である。さらに佛の約束がある。それは何か。一切を譲る。即ち、禅譲である。それはどのようにして成されるのか。大良薬を自ら取って服す。それは何か。縁があれば出会える。花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。昔より縁無きことを恨みよ。道元のいったことである。こころすべき時が来た。一休禅師の髑髏ご用心である。古来大和の秘密花が試練に耐えて開花している。さて、現代幸福論の至り着いたのは、思考は現実化するだった。それを種として色々なセミナーが百花繚乱である。それはそれで良い。そして情報は発信するところに集まる。それがロゴスであり、大鏡である。そして需要も流行もサーチするよりも作り出すべきものである。どのようにして作り出すか。秘密がある。作家は自ら書くのではない。大いなる力に書かされている。大いなる力とは何か。この世はジュピターの匙加減である。王の耳、王の目がある。知られた時が年貢の納め時だ。成敗するのは黄泉がする。黄泉が動く思考がある。それがロゴスである。究極の幸福論とは何だったか。神仏及び黄泉に認められることである。それがパスカルの『パンセ』の目的でもあった。すべては知らしめんが為だった。何を知らしめんとしたか。自分自身をである。それがソクラテスの汝自身を知れだった。魂と宇宙は連動している。それをどのようにしてリンクするか。パスカルは人間は考える葦であるといった。そしてその葦を通して宇宙を見るといった。21世紀の約束は、かつて限られた人しかわからなかったことが、庶民レベルで開かれた。心の大地である。孤独に一人彷徨って帰ってきた。宝の山を見つけて。善財童子の旅だった。未来のために命を賭した。何時の世も日本は黄金の国ジパングである。自然と笑顔がこぼれてくる。そのような人生が待っている。或る試練に耐えることを条件にね。その証明としての人生もある。時代だね。未来は明るい。明るい未来が切り開かれた。さて、ラスコリーニコフを救ったのはソーニャだった。 DHロレンスの『死んだ男』を救ったのも少女だった。仏陀もそうだった。古今東西そうである。私にはそれがなかった。これからあるかも知れないね。今宵は上弦の月である。何故か大きくて明るい半月である。時折雷鳴もあった。稲光と月とが同居する不思議な風景だった。何かと呼応するかのように稲光るのだった。理不尽な犠牲になることはない。何事も穏やかに主張すれば良い。相手の意見に従うことが未来への遺恨となるなら決然と断れば良い。将棋の名人は未来の盤面を絵として見る。やがてこのような図となる。だから今、この駒を動かす。デカルトのコギトエルゴスムは何だったのか。思考は現実化するかな。そして、東洋思想に於けるアウフヘーベンは『菜根譚』だったろうか。仏法と道教とのね。儒教もあるかな。そして行政法は柳瀬良幹著『行政法講義』が面白かった。お笑い芸能界及び落語界の知らない世界だね。面白いよ。あなた方は何を面白がってきたのか。面白がっているのか。ある時、 ○○家一同から訣別状が届いた。さすがに即座に破り捨てたけれど。何を思い違いしているのだろうね。それとも本当に畏れを知らないのか。私の知ったことではない。その時に書いたのが、『天空を斬るの巻』だった。これで一番大きな因縁が切れた。三十五年前の因縁だった。それ以来、楽になりつつある。自分自身を取り戻すことが始まった。好きなことがいえるようになりつつある。何を愚弄したか。何を裏切ったか。本来大和法華経宿王華、時が来れば花と咲く。咲けば事実である。咲くまでは秘密である。これより容赦しない。裏切り者に用はない。代々の掟がある。破ってはならないものを破った。首を洗って待つしかない。何を自覚するのか。自覚する種はあるか。その証明はあるか。茶番劇は終わった。本来大和日本精神は何だったか。身心清浄正直を以て旨とする。それを大和魂といっても良い。武士道といっても良い。今はどうか。何事も波風を立てまいと嘘で相手を思うようにしようとする商人根性の世である。電力会社のデータ改竄もそれである。武士は食わねど高楊枝。それが古来大和の精神風土である。平家も秀吉も貴族化して失敗した。何が勝ち組であるか。イエローモンキーと呼ばれたこともある。成金がそれほど嬉しいか。恥を知るが良い。行政を担当する者として読むべきは、『論語』よりも『申吟語』の方が良いね。明治は古来大和純粋精神を裏切った。その後も同じ階層の支配が裏切り続けた。今もそうである。事実である。この人生で知った。身を以て証明した。私の人生と青春は失った。故に私は歴代の使命を果たした。祖先の無念も知った。ヒロシマは私の祖先の故郷である。戦後あまりにも無視した。ヒロシマを思い出すのは8月6日午前8時15分のみだった。まるで神無日或いは神無時だった。広島は日本にとって何だったか。広島、霧島、敷島。連合艦隊において第二位は戦艦霧島だった。そのシルエットは美しい。何時までも古来大和を無視させない。因ってあなた方の時代は終わった。見えない世界はある。何時までも黄泉も黙っていない。黄泉が動き始める。そういう時代である。イザナギとイザナミの話がある。あれは何だったのか。凪と嵐か。平和と戦争か。裏切ればどうなるか。その末裔である。見つめ直すべき事がある。武力は武力によって滅びる。武力は克服された。原爆だった。先進諸国間で原爆の選択はない。それほどまでの犠牲の上での平和である。何を浮かれているのか。テレビ界及び経済界財界、答えるが良い。何を考えているのだ。お金儲けだけか。子供達の未来及び遺伝子まで破壊しつつある。何を犠牲にして所得と成し成功というか。大宅壮一氏の云ったことは何だったか。政界も選挙に於いてバーターだけでは効かなくなった。これからどうなるのかな。ところで、お金が絶対的支配者となった。何故だったか。国家を持たない亡国の民の故だった。日本もそうなりたいのか。資本主義は利益あるところ損失ありである。故に成立する。今はどうか。利益あるところ利益あり、損失あるところ損失あり。もはや資本主義はその前提を欠いている。資本主義そのものが論理矛盾を起こしている。何時までも矛盾は通らない。かつて世界は地中海だった。大航海時代を経て世界は地球となった。しかし無限と思えた。今、地球温暖化を含めて世界はひとつであり、資源も無限ではない。時は流れた。考えるべき事がある。万物の霊長として。人類は偉大である。既に英知と技術の蓄積がある。必ず明るい未来を実現できる。誰もか幸せを感じることが出来る世の中である。歴代の遍歴である。その為に生れては死に、生まれてきた。愚かでは未来はない。考えるべき時代に入った。周りが幸せである時、その中の自分も必ず幸せである。聖書によると、神は高きを低くし、低きを高くするために来る。その時が来たのだろうか。皆、平等に幸せになる。それは出来る。過去に於いてそうした幸せの世があった。こころないリーダーが現れてそれを破壊した。その後、それが因縁となって、此処まで腐敗した。取り戻すべきは何か。人類として試されている。此処まで進化した人類として。真実と花にだったか。即ち、衆生功尽きて大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏なり。これをどう思うか。信じることが出来るか。反論あらばするが良い。逃げも隠れもしない。すべて騙され奪われた。世間に従おうとしたからだった。悉く利用され、私に対する正当な対価の支払いはなかった。これも業障である。もはや失うものはない。今、ADSLのモデムをつなぐ仕事をしている。連日50km以上離れた場所に出向く。誰も受けないであろう辺境ばかりの仕事である。ガソリン代も時間も駐車場代も自前である。何を仕事にしても合点がいかない。最下層現役現場は辛いぜ。地蔵尊は地獄の王である。地獄でなければ地獄は救えない。地蔵尊はまた閻魔大王である。地獄の沙汰は金次第ではない。どの階層に黄泉が微笑み魔も善魔となって護るどの自覚が所属しているか。重要な要素である。あなた方の思い通りには行かない。今までとは違う。新しい時代の開闢である。


2007年08月23日

生かされていることの勝利宣言

探し物があった。それを見つけるまでは何も出来なかった。それは何であったか。それを何度も書いてきた。そしてその都度、証明というか、見えないところからのサインというか、確認は済んでいる。思えば生まれた時からそうだった。誰もがそうなのだろう。この世に生まれて何をするか。自由である。悩むも自由、お金儲けするのも自由、遊ぶのも自由。しかし、この世に法則がある。あの世に掟がある。それに違うことは出来ない。そして、往々にしてそれを知らない。気づかない。探そうともしない。この世は魂の遍歴である。それぞれのレベルがある。皆同じではない。限りなくある目的地を目指している。人生ゲームがあるというなら、魂の遍歴ゲームである。どこへ赴くのか。人間の身でしなければならないことがある。再びこの身を持って生まれてくる保障はない。何をしているのだろうね。餌食にして平気なのが世間である。それで済むと思っている。そうだろうか。祖先代々及び黄泉がそれを認めると思ったか。哀れである。何れにしてもやっと世間がわかった。その意味で皆が言うとおり阿呆だった。それはそれで通らねばならなかった。しかし見出した力は尋常ではない。もともとそれはあった。しかし戒められていた。使い方を間違うとよろしくない。同じ轍を踏むわけにはいかない。考えるべき時が来た。どう生きるべきか。何をするべきか。自由を得たようである。それはどのようにして来るか。絶対の自信といったものがある。それは何だったか。それを見つけるまで何も出来なかった。或る意味で馬鹿げた話である。しかしそれはあった。何をしても自由である。愚かさに染まれなかった。愚かさに負けるわけにいかない。黄泉の守護といったものがある。知っているだろうか。知らずに刃向かわない方が良い。世間に染まるわけにいかない。『主体性の理論』を説かれたのは団藤重光教授だった。主人公を説いたのは禅だった。生きるということはどういうことか。限られた人生である。無駄には出来ない。無意味では申し訳ない。あまりにも浮かれた時代だった。猛反省を要する。何をしてきたのだ。何をしているのだ。それで良いのか。良いというならそれまでである。皆、勝手に生きている。それで良いと思っている。人間である限り間違う。此処を知らない。しかし私は何時までも何をしているのだろう。何もかもボロボロとなった。ハンガーストライキもこのあたりで限界か。存在証明は成した。もう十分であろう。何をしても良い。生き抜くしかない。『馬鹿馬鹿しさの中で犬死にしない為の方法序説』というのがあった。人生とはそうしたものだったか。それだけでは夢がないね。真実幸福論を生きるしかない。何が幸せだったか。知る時が来た。あなた方の勝手な解釈につき合ってはいられない。あなた方もそう思っているようだね。別に構わない。それで良いのだと思う。もう批判は止めよう。すべて肯定して良いと思う。それぞれ生きている。のんびりとやっていこう。今更である。ここまで辿り着いた。さらに一歩を進めることにしよう。化城を出ることは出来たようだ。敵と味方はいる。過去の因縁である。往々にして敵は魅力的である。そして近づいて仇をとる。ご用心。外に出れば七人の敵がいるとか。三人の味方を見つけることだね。自分なりに幸せを作っていく。自分自身がぶれないことである。自己との戦闘に克って主体性を確立すると、敵は敵としてその姿を現す。その時、どう対処するか。相手にしないことである。黄泉の守護がある。祖先が護ってくれる。やがて淘汰される。自分は自分を生きていく。それで良い。最大の敵は自分だった。それを倒している。どんな相手も相手ではない。やがて縁の方々との合流が待っている。人生とはそうしたものだったのかも知れないね。そして過去の眷属と巡り会う。幸せな日々が待っている。私の場合、眷属は広島にいるはずだった。しかしヒロシマはローマの如く、その末裔は殆どいない。私の孤独の最大の原因だったか。今頃になって気づく。味方は殆どいないかのようである。しかし、どこかにいる。探すしかない。ここに至るまでに何もかも失った。三方原状態である。それ故に、ありのままに生きてゆけるようになった。もう怖いものなどない。こうした試練もある。私の人生は50歳から開けることになっていた。その意味では運命通りだった。底は打ったのだろう。これより上昇である。幸せな日々が待っている。この人生、無駄ではなかった。十分に面白かった。不完全燃焼ではあったけれど。これからでも遅くない。おだやかに、のんびりと、無駄なく、意味ある人生が開けていく。黄泉の守護を日々感じている。それは確信に至っている。こうした生き方で良い。この生き方を貫くことで、敵の姿もはっきりしてくる。生まれてきた時からそうだった。今、気づく。気づけて良かったと思っている。自覚があって初めて世界が開ける。自覚ある者を黄泉は守護する。何の自覚か。それがこの世に生まれた意味であり、探すべきテーマだった。それにしても、自信と実存を失っていた。よほどの因縁である。流れに乗ることが大切かと思われる。そして耳を澄ませて、目を凝らす。すると気づくよ。私たちは生かされている。早くにそれに気づくべきだった。自分の思うとおりにはならないことが多い。何故か。生かされている。そしてウサギとカメの話がある。ワニザメの話もある。どういうことだろう。かつて塾をしている時に思った。学校のテストでは100点は100点であり、50点は50点である。私は思っていた。100の能力の子が50点をとる。50点である。50の能力の子が50点をとる。100点である。その子が成功するかどうか。モチベーションの問題である。成功するまでそれを維持できるかどうか。結果が出るかどうか。能力の問題ではない。それぞれの能力を如何に発揮するかである。結果の大きさは違うだろう。結果が出るかどうかは亦別論である。結果が出なければ無意味である。無意味は事はしない方が良い。しかし、それが裾野となる。富士は何故高いか。裾野があるからである。そしてさらに質の問題は別論である。富士は何故美しいか。風景としてのその総合能力の結晶である。これからこうしたそれぞれの要素が改めて見直される。それぞれの夢がある。それぞれの夢の実現過程がこの人生である。平等とは、それぞれの夢がそれぞれのレベルで十全に開花することだ。それを阻害するものは悪である。それが野放しにされていた。淘汰されるべきは何か。さらに価値のある夢の開花を阻害していないか。質が問われる時代となった。手段を選ぶ時代となった。何故か。古来大和の秘密花が無事開花したからである。新しい時代の始まりである。魑魅魍魎は去って貰う。嘘と欺罔と暴力で成り上がったあなた方の天下は終わって貰う。既にそれは始まっている。2千年来の物語は完結した。21世紀の約束だった。全ては知らしめんが為だった。何を知らしめんとしたか。それぞれの能力に於いて感じるところがそれである。何を無視したのか。何を粗末にしたか。来世はある。見えない世界はある。祖先が子孫を救う。その為には供養する。神仏は実在する。何を以てインテリゲンチャとしたか。問われている。21世紀である。心の大地が切り開かれた。黄金の國ジパング。今も昔も変わりはしない。何も気にすることはない。生かされている自分自身を信じることが出来るならば。頭脳エンジンは修復された。エンジン全開も可となった。私の時代が来た。誰も知らない代々の君が代である。皆そうである。その為に生まれてきている。勿体ない話である。夢を実現しないか。腐敗及び堕落並びに愚かさが人生ではない。知性の時代となった。21世紀の約束である。暫く眠らされていた。地に埋もれていた。しかし種である。法華経宿王華、一切種智慧。何時か芽吹く。何時か私の時代が来るといったのはマーラーだった。六牙の大白象が歩み始める。普賢菩薩の大行進である。小径に遊ぶことはない。道を塞いで踏みつぶされないように。能力の差とは何だったか。黄泉の認める精神力の差である。何を思い上がったか。知るべき時が来た。その発見発掘開発された脳力の発する周波数は如何。動植物及び岩石が喜ぶ。その周波数に同調するからである。これがアガペとしての愛である。人間関係は同レベルで触発する。宇宙が反応する。開発された魂と宇宙は連動している。その時、思考は現実化する。これがコギトエルゴスムである。或いは人間は考える葦である。その葦を通して宇宙を見る。見る未来は明るい。明るい未来の建設の時に入った。既に世界は一つである。権力は克服されている。市民革命だった。武力も克服された。原爆だった。今、金力も克服されつつある。法力が世に顕説された。神仏及び黄泉の受容守護を得て言葉はロゴスとなる。その言葉を聞いて黄泉自然が動き、実現する。バベルの塔は立ちはしない。人間である限り限界がある。何を勘違いしているのか。自然を征服出来はしない。台風一つ制御できないではないか。これが法力であり、真実幸福論である。それが庶民レベルに開かれた。21世紀の意味である。既に資源も無限ではない。意味のある目的的行為の時代となった。21世紀の福音である。何のために生まれたか。考えるべき時代となった。日月照らし風が吹く。既に体験的証明済みである。ここに定めおく。だれもがそれぞれに幸せを感じる世の中となる。真実平等世界平和自由幸福論である。もはやあなた方の勝手は通らない。誰もこうした真実を知らなかった。探そうともしなかった。この世の人生、勝負あったね。天下平定である。


2007年07月20日

祖父の思い出

私は埋もれていた。その理由はもうどうでも良い。しかし、大きな使命があった。生まれた時からそうだった。すべては知らしめんが為だった。何を知らしめんとしたのだったか。既に書いた。精査されたい。既に大きな仕事をした。自負している。世界が認めている。誰も知らない。祖父と同じ仕事である。それも示した。思い出すことがある。祖父は昭和50年に没した。亡くなる前のことである。祖父は耳が遠かった。そうした祖父がしきりに私にパフォーマンスし、サインを送るのだった。電話の受話器を取って私に何か言おうとする。言葉には成らなかった。周囲はボケたのかと思っていた。そうではなかった。その後、その秘密を知るための私の試練があった。その間、どのような人生だったか。凡そ、地獄も見ている。そしてわかった。何がわかったのか。古来大和の秘密だった。神風の吹く理由だった。もはやどうにもならない。祖父伝来直伝である。誰も祖父の真実を知らない。私は知っている。限りなく謹厳実直な実力者だった。その才能は天才に等しかった。小学校4年生の時のことだった。学校の音楽会で七面鳥の役だった。その他大勢の役ではあった。お面を祖父に描いて貰った。あれほどの作品は見たことがない。あっという間に作ってくれた。そうした祖父だった。知る人は知っている。しかしその真実は知らない。私は知ってしまった。その為に生まれていた。もはや容赦しない。何を以て云うか。家伝直伝秘伝である。螺鈿の槍は錆びてはいない。何を勝手し来たるか。私は生きている限り問い続ける。目覚めてしまった。自覚してしまった。永い冬だった。明治以降の非を問う者が今まであったか。明治維新を見直した者があったか。ペリー来航の意味を問う者があったか。歴史学者は何をしてきたのか。日本の根本精神を知らなかった。無理もない。その種が己になかった。昔より縁なきことを恨みよとは道元の云ったことだった。もはやゆるしはしない。黄泉の意思である。古来日本の意思である。ヤクザ及び暴走族の世ではない。市民の世である。何を思い上がったか。愚かきわまる。何を以て勝手する哉。答えるが良い。黄泉を知らず祖先を裏切り、それで日本の未来があるか。この精神の腐敗は何か。当然の報いが待っている。各々、首を洗って待つしかない。処したる人生の質が問われている。何故か。日本の根本精神がその試練に耐え目覚めた。古来大和である。ここ百数十年で覆ると思ったか。それが思い上がりである。水は高いところから低いところに流れる。高い山から見える景色は低い山からは見えない。古来培われた日本の価値がある。それを愚弄無視破壊した。その権化はテレビ界である。凡そ落ちこぼれ軍団ではなかったか。世を腐敗に帰せしめた。テレビによる一億総はくちは既に大宅壮一氏によって云われていた。衆愚の世となった。認めざるを得ない。何が蔓延ったのか。何を蔓延らせたのか。それを企業は利用した。罪は重い。ビートルズの音楽が尚新鮮であるという。ビートルズが何をしたというのか。ベルリオーズの幻想交響曲は今も鳴り響いている。クリュイタンス指揮、パリ音楽院、東京公演である。そこに流れているのは人間としてのやさしさのトーンである。その背景は何であったか。フランス革命だった。それを履き違えた。日本の戦後だった。あまりにも愚かで野蛮な精神が支配しすぎた。無理もない。古来大和の精神が根絶やしにされようとした戦後からの出発だった。それがヒロシマの意味だった。古来大和の精神を取り戻す。それしかない。それを発見発掘し定量化した。認めては如何か。戦う民主主義ということがある。負けるわけにはいかない。未来のために。日本のために。世界のために。子供たちのために。権力ではない。武力でもない。金力でもない。市民パワーである。平和なくしてこの花は咲かない。この花咲くや姫である。古来大和の花である。世間はメダカの学校である。何も知りはしない。先頭がきびすを返せば大挙してその方向を変える。それを利用して経済となすか。言語道断。その勝手はここまでである。日本の基はゆるぎはしない。微動だにしない。六祖鉄蜂である。テレビ芸能界の勝手を正す。それを自由と思ったか。そうはいかない。女衒は女衒である。ところで富と力を蓄えた段階で、代々十字軍があった。それは悉く失敗した。何故だったか。イラクで始まった現代十字軍とアラブとの戦いはパキスタンに飛び火した。同じ轍を踏んだのだろうか。そもそもどのような考えがあるのだろうか。根絶やしである。それはナチスによるユダヤのホロコーストもそうだった。ヒロシマもそうだった。それが失敗の原因ではないか。共存共栄である。それを紊乱するはゆるさない。しかし、それは根絶やしにエスカレートするべきではない。考えるべきところである。誰もが生きる権利を持っている。根絶やしの思想がある限り、救いはない。それぞれが自由の一部を差し出している。それが民主主義の前提ではないか。それを誰もが認める。そしてそれぞれが生活及び人生を謳歌する。この世でそれぞれのテーマがある。それを果たすために生まれている。宗教かも知れない。ビジネスかも知れない。政治かも知れない。それぞれの夢がある。それを実現して未来に託す。それが人生ではなかったか。何か大切なものが見失われている。人類は何処へ行こうとしているのか。そのビジョンが見えない。腐敗堕落ではあるまい。滅びでもあるまい。考えるべき事がある。何を浮かれているのか。この世は火宅である。そこより逃れることは出来ないのか。出来る。キリストもそれを説いた。しかし、世間にとってそれは不都合だった。キリストを殺したのは世間だった。テレビでは流血のプロレスをしている。何をしているのだ。明治維新は何故実現したか。ペリー来航の波に乗じたからだった。坂本龍馬が薩摩と長州を連合させた。何故それは出来たのだったか。彼の経済力ではなかったか。海援隊で何をしていたのだろう。資料は未確認だが、密貿易ではなかったか。故に鉄砲も持っていた。薩摩もそうである。琉球との密貿易があった。それで財を成した。縁起が悪い。それ故に明治維新は成功した。ペリー来航に乗じたとする所以である。あまりにも商人的であった。それで、時代は商人の時代となった。カルバン以降の西洋重商主義に染まってしまった。今その末期段階である。腐敗堕落は必然だった。利益主義となり、その為には手段を選ばない。嘘と欺罔と暴力が手段である。第二次世界大戦はその文脈にあった。故に神風は吹かなかった。古来大和を精神に於いて裏切っていた。明治維新は古来大和の意思に反した。それ故大義名分がなかった。大義名分とは、古来大和が受容祝福することだった。黄泉からの守護を得ることだった。明治維新を見直すとする所以である。古来日本は西洋より古い。かつては仏法も受容した。西洋も受容する。しかも日本は日本である。その真実を示す時が来たのである。日本史は明治を以て世界史に合流した。その時、古来大和の価値を否定した。世界は知らない。今、気づくべき人は気づいている。本来日本の価値である。これを以て世界に貢献することが出来る。それは何か。古来大和魂である。第二次世界大戦の精神がそれではない。それを取り戻すべき時が来た。それは何か。己に恥じるところなきを以て旨とする神風も吹く純粋精神である。反論あらばするが良い。議論しよう。日本古来の価値を取り戻す。それはあるべき精神の秩序であり情緒であった。しばらく失われていた。明治以降の欺罔を含む商人根性支配に引導を渡す。世間の常識は何か。真面目だけが人生ではないという。為に手段を選ばぬか。それを人生というか。己の利益を優先するか。ある大臣は正月は海外に住所を移していたという。何故か。税金の基礎を失わせるためである。それは本当か。それが智慧であるか。村上ファンドのインサイダー取引などまだ可愛い。


2007年08月05日

生きていくために

生きていくということはどういう事だったか。人と人が助け合っていかなければならない理由がある。私の場合、あまりにも環境が悪かった。私はその理由を見いだせないままに、ここまで彷徨っていたのか。一人で無理難題を背負っていた。解けるべくもないものだった。それを解いてしまったか。それ故に与えられた環境だったか。それにしては、辛い現実である。悉く仇をとられてしまった。しかし、これよりそうはさせない。覚悟するが良い。私が何を考えているか。どのような力を開発しているか。誰も知らない。仏は一切大衆を救うと仰る。仏も地獄を通って仏となる。戦後自由を履き違えた魑魅魍魎及び牛頭馬頭が蔓延りすぎた。政財界もその例外ではない。何をしてきたのだ。何をしているのだ。古来日本の基は何だったか。それを無視して日本の未来があると思ったか。身心清浄の価値を取り戻す。その意味及びそれを確立する方法は確認している。嘘つきが多すぎる。愚かでありながら思い上がっている。子供の頃の秩序がそのまま大人になっても秩序である。何を勝手しているのか。生まれながらのポテンシャルエネルギーが違う。機会は平等である。しかし、嘘と暴力でねじ曲げられてしまった。暴力とは金力である。銀行の横暴がある。ゆるしはしない。金力を超える力がある。それが法力である。法力とは何だったか。身心清浄を以て神仏の認めるところとなり、祝福される。そしてその思いは黄泉が実現する。この力が確認開発された。それがロゴスだった。年貢の納め時である。勝負にならない。王の目、王の耳がある。知られた時が終わりである。終わりより、亦、始まる。宇宙の真実真理である。此処より始めるしかない。その自覚があった。あなた方の色に染めさせはしない。戦う民主主義ということがある。私は戦い抜いた。何と戦っていたか。己とである。何を愚弄したのか。身分に安住して何を浮かれているのか。地獄を通っている。力も開発している。勝負するのか。何時でも相手になる。冗談ではない。腑は煮えくりかえっている。しかし冷静にこの世を見ている。かつての自暴自棄はない。むしろ憐れである。ところで、昔は切り捨てごめんもあった。何故か。云ってもわからないからである。武士の世界と町民の世界は峻別されていた。少なくとも武士には精神修養があった。人生を腐敗堕落などと思ってはいなかった。今はどうか。行政も民法化した。町人文化一色となった。腐敗堕落するに決まっている。それに対する地の塩もない。皆、精神的に麻痺している。誰もがこのままで良いのかと思っている。しかし、するべき事が見つからない。思っているなら探せば良い。探せば見つかる。それが犬も歩けば棒に当たる。探しもせずに自分を合理化してしまっている。そしてそれが人生だと諦めている。諦めることを以て快感として満足している。精神の格差がある。それが賓主歴然である。何を勝手しているのだ。何もわかっていないではないか。何を大きな事を言っているのか。唇寒し秋の風。内容がない。中身がないのは「惡」である。真実は結果がある。そしてあなた方は地獄に堕ちていく。私にはあなた方が理解できない。どうしてそこまで愚かなのか。何も見えていない。聞いていない。貪・瞋・痴。三毒である。貪ること。目が怒っていること。仏の真実を知らないこと。あなた方は要件を備えている。管理しなければ良い花は咲かない。自然農法は自然農法という形で管理している。諸リーダーの精神が腐っている。本来のリーダーではなかったからである。守銭奴及び暴走族がリーダーとなって何が期待できるのか。

時代が変わってきたね。良い時代の予感がする。時代の空気が変わってきた。未来は明るい。時代の大転換期だね。皆、幸せになれる。幸せはお金では買えない。幸せはある。救いもある。悪は滅びる。昔より決まっている。真面目が勝ちだよ。負けるな一茶これにあり。心配無用。日本の基は健在である。かつて刑法理論(刑法及び刑事訴訟法の解釈論ついて、その奥義を、大学卒業後にしばらく筑間正泰教授から個別的に教えて頂いた)で目的的行為論というのがあった。行為無価値と結果無価値との対立を包摂するさらなる基礎理論だった。これがわからなかった。何故わからなかったのか。自分自身が目的的に生きていなかった。どうして目的的に生きることが出来なかったのか。個々の目的にビジョンが描けなかった。何をしても無意味であるかのように思われた。それはいわゆる虚無主義でもなかった。何かあると思われた。その何かを探していた。究極の救済理論だったかも知れない。そしてそれが見つかった。救いはある。その方法もある。仏さんがすべて遺して下さった。そして私たちに託された。私たちが幸せになりたいのかどうか。その為に何をしなければならないのか。既に、明らかである。過去に悪いことをしている。その悪を善に変える。そして未来に流す。未来は明るい。ここに変えるということが大切となる。生きている限り生きる権利はある。根絶やしという思想はない。原爆投下にはそれがあった。日本精神を根絶やしにしようとした。戦後占領政策もそうだった。それに乗じた方々の天下となった。それで良かったのか。良い訳がない。本来日本純粋精神が瀕死となった。しかし、禅も至道無難禅師から正受老人を通って白隠禅師に至る一本の命脈があったからこそ、今に伝えられている。真実が伝えられるとはそうしたものである。ここに家伝直伝秘伝螺鈿の槍がある。これを以て古来武士道の真実を伝える。そうした人生を歩んでいる。世間の色に染まってはいない。あなた方は失敗したのである。選択を誤った。ペリー来航以降の時代の流れに乗じたに過ぎない。科学者或いはジャーナリストが火砕流の犠牲となったことがあった。自然を甘く見ていたのではないか。本来の真実真理がある。されど神仏は実在する。何も知らずに大きなことを言っている。そして地獄に赴く。さて、これからどうするのか。所詮、自分のことは自分でなければ解らない。自分で解決していくしかない。仏は一切大衆を救うと仰る。仏に嘘はない。嘘を傾向とする者は信じない。昔より縁のないことを恨むしかない(道元)。真実はある。あるのに見えない。聞こうとしない。探さない。信じない。自分が本来の自分と成っていく。人生の目的だった。人間が人間に成っていく。人間として生まれた目的である。しかし、畜生道に堕ちている。芸能界はその権化である。それで良いのかどうか。あるべきようはと説いたのは明恵聖人だったか。本当に身心清浄な方だったと聞いている。人間として生まれてどう生きていくのか。考えるべき時に来た。生きていくために食べている。命を奪っている。それだけで罪である。その供養もしていない。供養とは相手の喜ぶことをすることである。食べられたものは何を喜ぶか。人間以上に生まれてくる引導を渡す。喜んで食べられる。そうした価値がある。何を思い上がっているのか。経済界は特にこうした視点がない。愚かでは地獄に堕ちる。愚かな時代となった。衆愚の支配するところとなっている。彼らの論理が時代の論理となっている。テレビ界がそうである。視聴率主義である限り構造的にそうなる。どうするのか。議論しようではないか。類は類を以て集まる。本来の日本の種の芽吹く時である。一番槍は通過した。そして確信した。日本の未来は明るい。日本は日本である。戦後の精神が本来の日本精神ではない。本来の日本精神は何か。身心清浄を以て旨とする。日本とは何か。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本神風も吹く。過去を未来に移す。仏の大願である。過去の何を未来に移すのか。過去の幸せな世を未来に移す。幸せはある。それは何か。・・・ドン・キホーテも大変だね。・・・羅刹ではなかったのか。

もうそろそろ終わりにしよう。何を終わるのか。やはり、悪舌は功徳の種を断ずる。批判するのは簡単だ。人間は変わり得るところに尊厳がある。その意味で平等である。悪を変じて善と成す。夢を如何に現実に転ずるか。自分はどのような自分に成りたいのか。その方向性を取り戻す。何処かで道を間違えた。間違えたのなら、間違えた地点まで引き返す。そして再び歩み始めれば良い。重荷は降ろして、身軽になって。信じた道を進めば良い。明るい笑顔の復活である。何も失ってはいない。本来の自分がある。自分が自分に成っていく。憂いはない。迷いもない。惑わされもしない。それで良いではないか。何か失われた大切のものがあった。それは取り戻された。全て自分次第だった。自分が変わることで世界が変わる。環境が悪いのではない。環境も自分次第である。自分の鏡に過ぎない。花が咲くとき蝶は飛んでくる。類は類を呼ぶ。何も怖れることはない。唯、自分自身を怖れる。日々、日月照らし、風が吹く。それでも神仏は実在する。子孫を護るのは祖先である。大切にするべき価値がある。秩序がある。壊しても壊せない宇宙の法則がある。己の分際を知るところから始めるしかない。何故思い通りにならないか。祖先の供養が足りないからだ。供養するべき祖先がある。祖先が喜ぶ。護ってくれる。大切にする者は大切にされる。自分のしでかしたことが身と心に帰ってくる。それだけのことだった。過去に悪いことをしている。この世でも悪を重ねている。人間である限りそうである。謝るしかない。本当に謝るとは、壊したものをもとに返すことだ。壊したものがある。時々に人の思いを壊してきた。謝るしかない。未来は明るい。明るい未来の建設である。笑顔で。さわやかな日々の開始である。やっと自信と勇気を得たようだ。困難な時代を生きて行くにはこれを見つけなければならなかったのだろう。その先陣は切られたのかも知れない。少し出遅れたが、ここでその理由もわかった。今朝、不思議な現象があった。車で走っていると、一羽の鳩が先導してくれるのだった。周波数が合ったのだろうか。鳥に導かれることは時々ある現象である。何れにしても準備完了となった。日々を快活に生きていく。小鳥のように。時は来た。シンプルライフの始まりです。目的・手段。目的が定まれば、手段はいくらでもある。霊界は待っている。自分が自分に成る時を。本来の自分がそれだけ大きければ、当然試練も大きい。それを乗り越える。パラダイスが待っている。地上ヘブン=世界が諸手を挙げてエールを贈っている。チャレンジするべきは何か。人生の春がやってくる。思う存分に楽しむが良い。それまでが青春である。或いは修行である。到彼岸。桃源郷はある。次なる挑戦者は誰か。時を制するのは誰か。人生面白いですね。何もかもが良い思い出となる頃、新しい始まりです。終わりは亦始まりです。良い終わり方をしよう。良い始まりとなる。全ては知らしめんが為だった。何を知らしめんとしたのだったか。あらゆる失敗も意味を持つ。何故、人生も青春も失ったか。その意味もわかった。それだけの試練だった。そして今、何もかもが愛おしい。そして感謝である。あらゆる事がつながった。過去と未来もつながったのだろう。生まれたこの世の使命は果たしたのかも知れない。これが私の人生だった。生まれたときからの謎だった。そして新しい時代となるのだろう。軽やかに開闢である。この試練を克服したとき、全ては与えられる。世界が与えられるといっても過言ではない。そうした約束がある。誰にもある。それを解くには能力を要する。それだけのものが確かにあったのだろう。全てを信じるに至った。これで良かったのだと思える。未来は明るい。明るい時代の建設の時となった。黄泉も待っていた。様々なサインがあった。宇宙自然生命黄泉が喜んでいる。良い時代の訪れの予感がしている。ある時、筑間正泰先生は仰った。後藤君は大金持ちだ。どう意味だったか。眠っていた私には解らなかった。今頃になって理解している。即ち、我が庵は都の辰巳しかぞ住む。代を氏大和人はいふなり。不遜であるか。羅刹だからゆるす。黄泉が守護するとどうなるか。その人を悲しませると死に神が来る。故に一休禅師は髑髏を棹の先に差して町内を「ご用心、ご用心」といって練り歩いた。全てはやさしさと穏やかさで解決する。そうした時代を切り開く。人類はここまで辿り着いた。


2007年05月05日

21世紀真実真理人生論

NHKラジオ深夜便では、ジョルジュ・ムスタキの「希望」が流れている。すべてが慰めとなってきた。祝福されているかのように。地震の情報もあった。私は至り着いたようだ。これまで、多くのことを書いてきた。今思えば、私こそ真実真理だった。敢えて表現すればである。すべては知らしめんが為だった。この世の善も悪も問題ではない。問題なのは真実真理であるか否かである。真実真理とは何であったか。それが私のテーマだった。それはそのまま人生の目的だった。この4月30日に、下関で聞いた瑞木公一氏の講演は決定的だった。ここでジグソーパズルの最後の一枚を手に入れたかのようだった。それは何か。病気健康一元論だった。すなわち、<一元論>である。生命体は本来猛毒である酸素をエネルギーに変換しつつ進化してきたという。真実真理とは何であったか。それは例えば神仏の存在だった。真実真理は神仏を含む。双十節の話がある。昔、ソウの時代に、エトク菩薩とレイトク菩薩がそれぞれ菩薩の行を終えて、ソウの國で出逢った。そして、肝胆相照らし、これより仏道を歩むことになった。それが仏法に於いては、多宝仏と釈迦牟尼仏だった。さて、西洋と東洋がある。物質と精神がある。科学と宗教がある。真実真理とはそれらのメタ概念である。すなわち、その意味で、科学を含む。宗教を含む。科学だけでは片手落ちである。宗教だけでも駄目である。易に於ける陽と陰のさらに太極である。すなわち、禅でいうところの<一>である。それが真実真理であった。それを探していた。そして見つけたようである。長い遍歴だった。今世だけのことではなかった。魂の遍歴がある。過去からの夢だった。いつかは解かねばならぬ課題だった。それを果たしたようである。何故か。どうしてそう言い切れるのか。すなわち、我が為に、日月照らし、風が吹く。自然生命黄泉がなびく。自然生命黄泉が証明している。宇宙とは自然生命黄泉だった。黄泉の実体は祖先達だった。どのような祖先を持っているか。とても重要なことである。本来自分の持って生まれたものがある。平等ではあり得ない。それを平等としたところに不幸の原因もあった。平等とは誰もが持って生まれた自分を十全に開花させることが出来ることだった。どんな障害を持っていても。生命が酸素と戦ってきたこと自体、常に環境への挑戦と克服だった。しかし、それも、もはやどうでも良い。すべては知らしめんが為だった。知ってしまえば良いのである。宗教も真実真理に至る筏に過ぎない。渡れば良いのである。至れば良いのである。これまで書いてきたことはそのまま真実真理の部品集めだった。そしてそれらがそろった。私の21世紀真実真理人生論が完成したようである。まとめることもできる。あらゆる学者論文を超えている。経験に裏付けられたものである。概念の遊びではない。人間はそれぞれ使命がある。宿命がある。持って生まれたDNAの中にそれぞれの属性の要素がある。それは幾通りもある。それらの中からどれを選択するのか。そしてどのように自分を組み立てるのか。人生の目的はそこにあった。単なる遺伝ではない。遺伝の中で、無意識にではあっても、選択している自分がいるのである。ここに、刑法行為無価値責任論の根拠がある。無意識ではあっても、敢えて選択した自分がいる。それが自己の行為規範及び社会の行為規範を犯す。そして犯罪を起こす。国家或いは社会並びに人間に迷惑をかける。因って、責任が発生する。責任とは償うことである。生命で償うべきは生命で償う。身体自由財産で償うべきは身体自由財産で償う。結果無価値論のみでは論じられない部分がある。それを言い切れる理論がなかった。それで、結果無価値論だった。さて、人生とは何であったか。自分が自分になることだった。本来持って生まれた自分を十全に開花することだった。どんな障害があっても良い。それを阻害することが罪である。自分が自分となるとはどういうことか。自分として完成することだった。それが神仏だった。そして、真実真理は科学ではない。科学には精神或いは魂がない。真実真理は両者を含む。そして、完成した存在に対して、黄泉自然が動く。即ち、実現する。こうしたことだった。私の21世紀真実真理人生論である。ここに至って、これまで私の書いてきたことがすべて意味を持った。光り輝いている。私の書いてきたことが、すべて真実真理である。やがてわかる。処したる人生が違う。魂の遍歴が違う。世の勝手は泥だった。蓮華の前に化生する。蓮華は泥より咲く。泥より咲いてしかも泥に染まらない。禅の教えで、

道ということばに迷うことなかれ朝夕おのがなす業と知れ

しれはまよひしらねはまよふのりのみちなにかほとけのじつなるらん

とある。どういうことか。皆々様、日々ご健勝で、お幸せでありますように。


2007年08月19日

思い出す頃

今朝も美しい朝である。朝日は朱色に輝いた。朝のファミレスには若い方々がたくさんいた。朝帰りの女子もいる。土曜の夜はフィーバーしたのだろうか。何時の世もこのようであったのかも知れない。それが人生と思っているのだろう。もてあまし気味の青春である。私にはそうした人生も青春もなかったといえる。十九の春に訣別を余儀なくされていた。その間何をしていたか。孤独な旅をしていた。月の砂漠である。探し物をしていた。何を探していたのだったか。失われた何か大切なものだった。山本玄峰老師は性根っ玉を磨けと仰った。山田無文老師は何事もすらりすらりといく境界があることを仰った。法華経に衣食を乞食して日々さすらう青年の物語がある。何十年ぶりかに裕福な友人と出会った。何時までも何をしているのか。お前の襟に玉を縫いつけてある。それに気づかぬか。それを以て貿易するべし。それが磨くべき性根っ玉だったか。人は所詮一人では生きてゆけない。人と共にである。美しい性根をしていれば、誰もが助けてくれる。それだけで良い。それが道元の空手であったか。失われた何か大切なもの。高校以来のテーマだった。ずっと探していた。能力はあった。しかし埋没した。何故だったか。成功不成功及び幸不幸は能力の外だった。過去世からの因縁がある。これを解決しなれば何も始まらない。よほどの因縁である。この身を持って生まれて何をするべきか。見失われている。誰もが幸せになって良い。しかし悪を積む。不幸に決まっている。忘れていたんだね。思い出す頃となった。私の旅があった。見つけたものがある。伝えなければならないのかも知れない。これからの私の使命であるのかも知れない。それは何か。真実の仏である。その為に生まれていたのかも知れない。その為の力も賦与されていた。生まれた時からそうだった。しかし、気づけなかった。世間は虚仮である。虚仮でありながら虚仮であることを知らない。何を言っても無意味である。世間である限り。何時までも大きな事は言わせない。此処まで腐敗してしまった。正念場である。年貢の納め時である。未来は明るい。明るい未来の建設である。その為には魑魅魍魎に反省して貰わねばならない。反省とは同じ轍を踏まないことである。壊したものはもとにかえすことである。テレビ及びお笑い芸能界諸君、昔より、面白くしようとして自分たちにとって都合が悪いのが「教え」だった。それで、キリストも磔にしたのではなかったか。人生とは戦いである。勝利して幸がある。最大最終最強最後の的は何であったか。自分自身である。これを射抜いたものがあるか。あるなら申し出るが良い。これよりあなた方の時代である。しかし、世のエリート達はいう。来世はない。この世で終わりであると。故に恐怖悪世である。しかし法華経が伝えられている。その中に真実の仏法がある。それは何だったか。こうした世の中となった。思い出す頃である。何を思い出すのか。過去の幸せな世である。これを未来に移す時を迎えた。仏法はある。それは何処にあるか。仏道はある。それは何処にあるか。一緒に歩みませんか。そして明るい未来を創りませんか。既に、始まっているのです。このままでは滅びます。時代はどんどん悪くなっていきます。何故でしょうか。悪を積み、それを解消することをしていないからです。それらは悪因縁あるいは業障となって身と心に帰ってきます。自ら蒔いた種だったのです。故に、自ら蒔く種を買える必要がある。自分たちが種です。このまま悪の種を増殖するとどうなるか。微分積分すればわかりますね。時代のベクトルを変えませんか。既に基は変わりました。されば、この流れに乗りませんか。それとも滅びますか。私たちは生き残ります。古来大和は不滅です。


2007年08月07日

花開く時 蝶が来る

全ては知らしめんが為だった。何を知らしめんが為だったか。自分自身を知らしめんが為だった。 自分自身とは何であったのか。自覚自得して初めて解る。そして、それでも神仏が存在することを知らしめんが為だった。 黄泉の守護があるかどうか。幸不幸の決定的要因である。権力でもなかった。武力でもなかった。金力でもなかった。 それらは克服されるべきものだった。生まれたときからのポテンシャルエネルギーがある。櫻は櫻であり、松は松。 あすなろはあすなろである。大切なのは明日ではなく今日であり、今である。朝夕おのがなす業である。それが平常心是道だった。今、 不幸なのは、まだゆるされていない何かがあるからだ。何にゆるされるというのか。霊界にゆるされるという。 お金がなくても幸せはある。日本の価値だった。それを見失ってしまった。どうして女が戒められていたか。 女の本質を知っていたからだった。今それも解放された。そして男が餌食となっている。世間はそれを知らない。女は業が深い。 身心清浄を取り戻す。それは失われた男の復活である。秩序がある。それは能力の秩序であった。今はどうか。 経済の秩序が先行しすぎる。生まれながらの理由のない差別は差別である。新しい差別が蔓延っている。それは何か。お金に支配されている。何時からそうなったのか。日本に禅がある。その精神は何であったか。見直すべき事が多い。 日本は日本である。なのに、西洋の没落した精神を追いかけている。日本は滅びはしない。何故か。日本の基が目覚めた。 眠れる獅子が目覚めている。勝負にならない。何故か。黄泉が守護している。子供の頃からそうだった。早く、気づくべきだった。 しかし、時は違えていない。知るべき時が来たのである。花開く時、蝶が来る。あなた方の色に染まりはしない。 子孫を救うのは祖先である。どれだけの祖先を持っているか。それが種となる。良い祖先もあれば悪い祖先もある。 自分はどの種を選択するのか。日々DNAは書き換えられている。己の意思と行為による。どのような種を未来に遺すのか。 今のままで良いと思っているのか。祖先がゆるしはしない。人間の身に生まれているということはどういう事か。 過去を正して未来に流す。昨日、最後の特殊潜行艇の供養がオーストラリアであった。能力があっても埋没した。人生も青春も失った。 その人生は特殊潜行艇のようだった。しかし、それ故辿り着いた世界がある。それは何であったか。自分は自分である。 古来大和の秘密がある。ペリー来航以降、それに乗じて、古来日本を裏切った方々は知らない。 それを発掘発見開発しなければならなかった。私の生まれた使命である。それに成功した。日本は自信を回復した。 それに対する支払いはないね。構いはしない。黄泉は認めて下さっている。日本復活である。戦後は終わった。満足している。 私は私だった。使命は果たした。何をするにも、歓喜奉行である。仏さんの事をするにも、苦をつけてしてはむしろ申し訳ない。 日々是好日はニチニチコレコウニチと読む。精神的低レベルに規定される必要はない。日々、 好ましい風景が待っていてくれているかどうか。広重のように。日月照らし、風が吹く。カクネンムショウを知っているか。 日本の基が目覚めている。即ち、身心清浄。一切の邪魔有ること無し。私は祖父を知っている。父を知っている。祖父もそうだった。 父もそうだった。誰も知らない。真実真理とは何であったか。裏切り者に用はない。古来日本精神に嘘はない。 値切る文化には馴染まない。下賤商人精神の國ではない。今朝は明るくて晴れやかである。蝉が鳴いている。トンボが飛んでいる。 人間がどれほどのものか。淘汰されるのは何か。幸せはある。それは何か。美しい世界がある。それを見つけに行かないか。 古来大和の精神が花開いた。久遠の花である。法華経宿王華。蝶は飛んでくるだろうか。平家の家紋は蝶だった。 現代の黄泉を制した征夷大将軍は何を以て統治するか。法力である。統治の目的は何か。庶民の暮らしである。手段は何か。 愛と平和である。権力、武力、金力は克服された。善財童子は月の砂漠の旅を終えて帰ってきた。暫く跋扈したあらゆる魑魅魍魎及び牛頭馬頭は表舞台より去らねばならぬ。

古来大和の秘密がある。誰も耳を傾けない。好き勝手なことをしている。言っている。水は上から下にしか流れない。何を思い上がっているのだろう。聞いているという。笑わせるでない。態度が聞いていない。姿勢がなっていない。滅びたいのだろうか。今、どういう時か、わかっているのか。どれだけの勉学をして何を根拠に刃向かうか。何をしてきたというのだ。何を考えてきたというのだ。戦後の履き違えた自由の故か。未来永劫、阿修羅は見たくない。自己利益のためには二重帳簿をしている。それが商人として当然のことだという。また、実体のない利益を制度を利用して確保蓄積する。それで老後の保障を得たとしている。そのような人生に黄泉からの祝福があるものか。全てお見抜きお見通しである。畳の上で死ねないだろう。自分ではそれについて自責の念はない。当然と思っている。さて、すべての道はローマに通ず。どういう意味か。制度が後から着いてくる。祖先代々の徳とするべきか。そうした生き方もある。制度だけではない。不思議な社会及び自然現象がある。黄泉の仕業としか思えない現象がある。あなた方は思い上がっている。何も知らない。戦後あまりにも勝手があった。そのツケを支払わなくてはならない時節を迎えた。何故か。時が満ちた。我思う故に我有り。どういうことだったか。体験的にそれを究めた者があるか。思考は現実化するという。どういうことか。何故現実化するのか。それには条件がある。その条件は何か。所詮自分は自分の思う自分となる。自分は何になりたかったのか。その為に、どのような人生を歩んだか。この世の終わりに問われる。己の人生に満足か。守銭奴に問う。どのようにして地位及び財を得たのか。その後、どう生きたか。夢に何を見るか。己に満足か。下手な風潮をこれ以上増殖させはしない。

保臣 『何傷録』
「人と生まれては高きも賎しきもせねばならぬものは学問なり。学問せねば吾身に生まれつきたる善あることもえ知らず、まして他の人の徳あるも、なきも、弁へず、また昔を盛んなりとも、今を衰えたりとも知らず、いたずらに五穀を食ひて、前むきて歩むばかりのわざにて、犬猫といはんも同じことなり。」

救いの道はある。真実真理である。それを無視する。或いは破壊する。粗末にしてはならないものがある。それを粗末にする。罪となる。その報いがある。真実真理を無視して、自分勝手に間違う。子供の頃、勉強がどれだけ出来たのか。大人になって、それを忘れている。間違いを間違いと気づけない。不幸へ赴く。仕方ないね。私もしばらくそうだった。何故か。世間に合わそうとした。悉く利用された。犠牲となった。その愚かさを知ってしまった。


2007年08月14日

人それぞれの道

もう何も気にしなくて良いのだろうと思われる。何もかも。思えば、自分勝手だったのは私だった。人の姿を見てどう思うか。過去の自分である。一切気にする必要はない。そのように思われるようになった。この世の秘密とは何であったか。自覚自得するのみである。説明しても所詮わからない。自分で探そうとしない人に話しても無駄である。これまではすべてを背負おうとしていたのかも知れない。先ず、解決するべき事がある。それは何だったか。自分の過去からの悪業である。身で犯した罪は身に帰ってくる。心で犯した罪は心に帰ってくる。やがて何も気にならなくなる。人のざわめきも松風と思うと良いとしたのは菜根譚だったろうか。人それぞれの道である。それぞれの魂の遍歴の一こまである。段階がある。それぞれの道である。批判しても仕方ない。辿らねばならない道だ。そっと行かせてあげることにしよう。地獄に赴くも、自由といえる。聞く耳あらば救えもする。しかし、聞く耳がない。人間の身として生まれて、過去を解決することが出来るというのに、惜しいことではある。因って、誰彼相手にする必要はなくなった。先ず自分の姿を整えることだ。それを見て何か感じてくれれば良い。悪舌は功徳の種を断ずる。佛を誉め奉るべきである。それで守護もある。そして自分の身を清めていく。それは過去からの悪性の払拭だ。どのようにしてするか。真実と方便がある。真実は結果がある。方便はない。どの道を行くべきか。それぞれの問題である。戦後自由となってどうなったか。畜生道に堕ちた。しかし、このようなこともどうでも良くなった。何を気にしていたのだろうね。別に構わないではないか。すべては法則通りだよ。困ることも苦しいこともすべて自分が蒔いた種だった。過去からのね。そこに思い至れば、これからを生きてゆける。行雲流水にもなれる。一切気にする必要がない。人は人である。自分は自分である。皆そうして生きている。自分の人生を生きれば良い。情に棹させば流される。棹さすからだ。これからをどう生きるか。あらためて考えている。一つの終わりである。この終わりを以て、時代が変わる。私は過去を個人的にトレースする必要があった。世間の解釈はどうしても頂けなかった。それは果たした。もう十分である。それを以て別に思いはない。私個人的に必要なだけだった。複雑な因縁があった。解かねばならなかった。大ききな重荷を背負っていた。それだけのことであった。良い時代である。不幸を背負う必要はない。人生は楽しむべきである。人それぞれに。それがゆるされている。そうした時代である。自分を解決することが出来れば、人生は楽しい。私は大きな課題を仕上げた。誰も見えないね。宇宙と魂は連動している。何時も霊界から見られているよ。映画『太陽がいっぱい』のテーマは何だったか。即ち、死体は浮く。そして成功不成功及び幸不幸の条件は何だったか。努力と才能だけでは足りない。いくら能力があっても成功しない。誰かに見出される必要がある。その為にはどうあるべきか。何が問われていたのだったか。今頃になって理解した。自分勝手な思いは駄目だ。評価するのは何処までも他人だ。それが登竜門である。しかし自己評価が前提だ。このあたり、難しいですね。ひとりよがりの議論はもう止めよう。私が何時までもどうにもならない理由がわかった。私は他人にとって理解不能だった。これでは孤独に決まっているね。それも自分勝手にそのように振る舞っていた。誰も相手にしたくても出来ない。これでは不幸だよ。人と共に生きていく社会である。『孤立無援の思想』を好んでいては寂しすぎる。それにしても導かれていた。それから逃れようともがいていた。まるで、孫悟空とお釈迦様の手の平だったね。音楽も心地よいからこそ価値がある。絵画だってそうだ。ピカソとかムンクとか、ダリもそうだけれど、凝視は出来ないね。印象派は良いね。文章だって心地よいのが良いね。これから考えるべきところとなった。社会にどれだけ貢献するか。人と共にである。花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。愛されたいよね。大切にされたいよね。どうすれば良いのかな。自分が変われば世界が変わる。懺悔して身も心もきれいになるしかないね。知性が輝き始める。それが魅力となる。いくら知性があっても悪舌では駄目だ。申し訳ないことだったと思っている。


2007年08月01日

闘いを終えて

私は至り着いたようだ。やっと仏さんのことがわかってきた。自信を持ってお話しできるようになった。自分の意見を話しても誰も聞きはしない。仏さんから学んだことを話せば、誰もが耳を傾ける。誰もが聴きたいのだ。魂がそれを望んでいる。これで良いのだと思う。仏の方に投げ入れるとはこういう事だった。この上なく助かる乗り物を大乗という。乗ってしまえば良い。東京行きの電車に乗れば、知っても知らなくても東京へ行ける。仏に嘘はない。すべて譲ると仰る。解決できたようだ。この日を待っていた。鈴木大拙氏は泥棒がいるから面白いという。泥棒を認めているのではない。一切平等に救われる。泥棒も平等に救われるということか。人間五十歩百歩である。そんなに変わりはしない。人間である限り、間違う。或いは惑わせる。それも亦良いのである。何時か至ることを知っている。その時、すべてをゆるすことが出来る。ゆるすことでゆるされる。自分の蒔いた種が実るだけだった。それで悪いのは全て自分だった。とても安らかだ。これで良かった。何と闘っていたのだろう。その必要もなかったのに。何もかも失ってしまった。これから新しい始まりとなった。もう思い煩うことはない。仏の真実を知ったから。これから何を伝えていくか。誹謗すれば誹謗される。この世は自分の鏡である。どのような自分になりたいのか。どのようにして貰いたいのか。先ず自分がすることである。世の中が変わってきた。果たすべき使命がある。何時までも傍観していられない。ベートーベンは云った。この世には為すべきことが多い。急げ。 同じ事をするのに、楽々出来る場合と、苦労して出来る場合とある。後者を評価していた。それが努力であると思っていた。成功不成功及び幸不幸は努力の外である。或いは能力があっても成就しないのは何故か。全ては縁次第とも云える。この世に生まれてどう生きるべきか。一度成功すると往々にして思い上がる。来世は厳しかろう。今世で苦労している。それも過去の因縁である。苦労には苦労の理由がある。己の蒔いた過去の種がある。それを植え替える必要もあろう。楽と苦労とどちらが良いか。楽に決まっている。一つ解決して次が来る。仏への道である。やがて誰もが成仏する。既に成仏した方もおられる。世間で幸福であり、成功しているとする。何故か。知っても知らなくても自然の法則がある。仏はそれを説く。それに合致しているかどうか。幸不幸或いは成功不成功の分水嶺である。世間は虚仮。思い上がっている。勘違いしている。唯仏是真。仏のみ真実である。これを以て我田引水とする。水とは法のたとえである。何が大切か。明らかとなった。永い魂の遍歴である。人間の身でなければ出来ないことがある。仏の真実を学ぶことである。勉強するべきは何か。狡猾な世渡りではない。仏の真実とその実践である。それによって楽を得る。何処まで進んでおくことが出来るか。来世が決まる。この世も安楽となる。仏の方に投げ入れよ。何を投げ入れるのか。私は苦労したことだった。誰よりも能力があった。世間的な幸せはなかった。それも理由があった。それもわかった。両手が合わさった。妙と法の合致である。強力な合致である。私は見つけた。導かれていた。しかし、我が為に日月照らし風が吹く。この現実は何か。私に使命があるのだろう。それを自覚しつつある。私は何であったか。私は私であった。それで十分である。何を裏切っていたか。私が私を裏切っていた。祖先に対して申し訳ないことだった。世間に負けたのではない。私に負けていた。倒すべきは何か。自分自身である。そして己の業障を知る。その時、仏の真実が見えてくる。そこからが実人生である。この世は明るい。明るいこの世で生きていく。その為に生まれている。世間に迎合することはない。地獄を救う。地獄の中で。南無久遠釈迦牟尼仏。仏は実在する。それを確認した。邂逅するべきはこれだった。この世に於ける使命だった。それは果たした。次なる課題は何か。伝えることである。そして時代は恐怖悪世。故に仏法が復活する。第一義は仏法である。やがて新しい幸せな時代がやってくる。その為には過去の罪を清算しなければならない。祖先の罪も含めて。その方法はある。仏さんが知っている。学ぶべきである。聞くべきである。そして未来は明るい。終わりは始まりである。終わらなければならないものがある。悪は淘汰される。

何を怖れていたのだったか。それもわかった。失敗を怖れていた。どうして失敗するのか。それもわかった。守護がなかったからである。何の守護であるか。諸佛の守護である。その守護はどのようにして得られるのか。佛所護念することによって得られる。佛所とは何処か。仏の住所、即ち王舍城である。それは実在するのか。する。何処に実在するのか。探すべし。


2007年07月27日

真実の道

真実真理とは何であったか。私が提唱しているのは時代錯誤ではない。王権神授説などでもない。図らずも、私は世間に馴染めなかった。図らずもである。私の意思ではなかった。私も人並みな人生を歩みたかった。それが出来なかった。或る意味で戒められていた。祖先と同じ轍を踏まぬ為であった。その意味で戒められていた。そしてその間、私は何をしていたか。空白の三十五年がある。私の本質は16歳になった頃から眠らされていた。事実である。そのまま勉強をしていればどういう事になっていたか。私は彷徨った。何処を彷徨っていたか。凡そ月の砂漠だった。そして至り着いたのは何だったか。私としては仏法とプロトン理論である。これを以て私の妙と法である。或いは、宗教と科学である。行入と理入を説いたのは達磨だった。どちらも必要である。真実真理を知るためには。そして、私は真実真理を探り当てたと思っている。此処に至らなければならなかったか。世は腐敗した。即ち末法である。仏の大願は何であったか。一切大衆を救う。それは何を意味するのか。過去を未来に移す。過去の何を移すのか。真実真理である。人間の勝手があった。そして世は腐敗した。その科学的根拠が明らかとなった。それがプロトン理論であった。時代は代わろうとしている。既にそれは始まっている。その為の準備は整った。確信するところである。何を以て確信するか。即ち、日月照らし風が吹く。どうにもならない。真実真理である。その時が来たのである。日々証明を頂いている。世間での会話内容が変わった。大鏡である。私の書いたことが反射している。私は三十五年間埋没していた。眠らされていた。その理由は既に説いた。記録は残してある。精査されたい。知る人は知っているはずである。その時々のサインがあった。そのサインはキャッチしているつもりである。

≪しかし、現実には、こうしたことをいちいち気にかけていては、食事ができなくなってしまうという状態に、私たちはおかれてもいます。一人で声を荒げてみたところで、農薬の製造がストップされるわけでもなく、添加物をなくすこともできません。工場の排煙を止めることも車の排気ガスを止めることもできません。そもそも、自分自身のストレスすら根絶することができないのですから。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のごとく、私たちの社会は、高度成長の時代を経て、今につながってきているのです。こうした時代の中で、自分の身を守るためには、この酸化環境に打ち克つ自衛策を講じるしかありません。≫(瑞木公一著『プロトン新健康革命』p135-136)この引用を私がどのような意味で援用しているか、わかるだろうか。世は酸化腐敗した。子供達のDNAまで破壊された。此処より始めるしかない。ビジョンはある。未来は明るい。明るい未来建設開始である。真実真理とは何であったか。それにしても、皆、勝手してくれたものである。私は惑わされた。身も心もボロボロである。何もかも失ってしまった。本当である。何故だったか。惑わされたからである。そして気づいた。何に気づいたのか。君が代である。過去を未来に移す。何を移すのか。君が代である。君が代とは何であったか。これよりわかる。既に説いている。しかし、自覚が足りなかった。今はどうか。満足している。しかと言いおく。古来大和の秘密がある。黄泉に刃向かわない方が良い。真実真理である。容赦しない。宇宙自然生命黄泉の源流である。失われた未来を取り戻す。 祖先伝来家伝直伝秘伝螺鈿の槍は錆びてはいない。腐敗堕落卑怯怯懦下級軽薄野蛮精神商人根性の色に古来本来日本を染めさせはしない。おい、羅刹。お客様は神様ですで良いではないか。パフォーマンスだよ。パフォーマンス。それで成功するのだから。しかしな、真実真理は真実真理だ。わかってるよ。永い魂の遍歴だ。良いではないか。知る者は知る。それで良いではないか。それにしては空腹だ。限界だ。裏切りがある。勝手が過ぎた。だけどね、やはり、悪舌は功徳の種を断ずるものだよ。成功とか幸福とかはね、己の能力によるのではないよ。どれだけ皆から愛されるか。思われるか。応援されるかだ。それが道元の花は愛惜に散るだ。この世は魂の遍歴の一こま。集合意思をどれほど喜ばせるかだよ。集合意思には過去もある。黄泉もある。祖先もある。それらからどれだけ祝福されるか。そして、この世の幸不幸はすべて己の因縁だ。身に覚えがないなら、過去の因縁だ。自分の犯した罪がある。それを謝らなければならない。そしてゆるされなければならない。そうしないと幸せはやって来ない。自ら出づること能はず。唯、善業の因縁より出たり。出ることが出来るとするとねそれは仏の因縁からだ。仏さんに始めの一点を打ってもらうということだよ。仏子となるということだ。やはり、仏さんだよ。どこまでも慈悲だよ。親鸞は仏は我が為にのみ法を説くとした。それは、どうにも業の深い自覚からだった。とても救いようのない自分の自覚だった。それでも救おうとする弥陀の本願に気づいた。しかし、どうしようもない自分であった。それでも救ってくれる。救おうとしてくださる。だからね、仏さんは偉大だ。この点に素直にならないといけないよ。その方法も教えてくれる。全て譲ると仰ってくださっている。過去の因縁から自由にしてくださる。その方法もある。ゆるして貰わないと幸せはないんだよ。何も実現しないのだよ。人にも仏にも宇宙にも自然にも生命にも黄泉にもゆるして貰う。それからが始まりだよ。過去代々、間違ってきた。それが人間だ。だから謝らねばならない。その方法はある。教えて下さる。それが仏さんだよ。わかったかな。わかっているよね。大変な道だったな。私は間違っていたようである。これから真実の道だろうか。やっと真実の道が見えてきたのだろうか。果てしない道のりだね。 まだ謝っていないことがあるのだろう。知らしめんとするのはそれだったのだろう。何をしなければならないか。見えてきたような気がするおだやかな新しい朝である。

 もののふのやさしきこころふれしかばこの道たれとともに歩まむ

そして仏さんは根源的な罪として、仏所破壊と仏説破壊を説く。私は、裏を見せ表を見せて散る紅葉とばかりに、随分と勝手なこと書いた。慚愧の念がある。仏説破壊もあった。全ては因縁であると仏さんは仰る。仏さんの言葉は、真実の中の真実に入った。七色十字の大運動も始まっている。すべてはやさしさとおだやかさへ。私が変わることで周囲が変わる。もうこれで良い。何もかも解決していく。かたくなさは去りつつある。おだやかさが漂っている。救われつつあるのだろうか。やっと。探していたものが見つかったのかも知れない。失ったものが帰って来つつあるのだろう。それは何だったか。私の本来の日常である。嵐は去った。長い嵐だった。一人だけの。夢のような人生だった。港に来ている。風景は何時もと変わらない。唯、おだやかである。寂しいと云えば寂しい。しかし、大きな仕事を終えた安堵感がある。私は耐え抜いたのだろうか。此処がゴールだろうか。もうこれで良いのだと思う。車の中で音楽を聴いている。 NHK-FMでモーツアルト。クリュイタンス指揮、フランス国立管弦楽団。ピアノはハスキル。幸せである。目の前を、国土交通省の『おんど2000』が出航していく。昔は大和の出撃も見た港である。私は闘っていた。何と闘っていたのだろう。世間の知らないところで。おだやかな太陽がやさしい。「コートを脱がせるのは北風ではない」。母の云ったことだった。今に、母から感情的に叱られたことはない。完璧に近い母だった。それと反比例するかのように重荷を背負った私の人生だった。重荷とは何であったか。宿命と云うには悲しすぎた。思いと現実のギャップを不幸というならば、これほどの不幸はなかった。どうにもならなかった。しかし、何時か春は訪れる。明けない夜はない。 全てに感謝できそうになってきた。私が間違っていた。来世は良い来世となることだろう。失った人生と青春は来世に残しておこう。この世は仏さんに救っていただこう。仏さんと出逢って良かった。素直にそう思っている。今、深田サルベージの『くろしお号』も出航した。その後ろ姿を見送っている。私の人生は何だったのか。無駄ではなかったと信じている。見つけるべきものは見つけた。そっとそのままにしておこう。私は私だった。この世の一切に感謝申し上げる。そしてお詫び申し上げる。鴎が一羽飛んでいる。私ももう少し早く飛び立つべきだった。それもできなかった。深い深い事情があった。次に流れてきたのは『英雄』。クリュイタンス、ベルリンフィルハーモニー。高校の頃、私が私の意思で初めて買ったクラシックのレコードも『英雄』だった。カラヤンだった。その第4楽章の或る一フレーズが大好きだった。それを聴くために45分くらいだろうか待つのだった。音楽は随分と聴いた。当時のステレオを聴き潰すほど聴いた。父の買ってくれたパイオニア4チャンネルステレオだった。アイワのラジカセでよくエアー・チェックしていた。すると彼女は驚くのだった。どのようにしたらフルコーラスでそれほど好きな音楽が録音できるの? 私にとっては至極当然だった。今頃になってその意味も理解する。ある方の嘘が嘘であったと気づくように。私は恵まれていた。故に騙された。何でも信じた。悪いところもあった。それを謝っていなかった。それで困ったことになった。すべては知らしめんが為だった。能力はあった。凡そありえない能力が賦与されていた。あまりにも危険な能力だった。祖先代々の約束だった。しかし自覚するまで戒められていた。その自覚が難しかった。戦後の故だった。その開発にも成功した。古来大和秘密の力だった。それが宿命だった。為に解くべき謎があった。それも解いた。誰も知らない謎だった。その為の試練もあった。しかし、幸不幸は能力の外だった。今世では出る幕はなかった。後世の糧にしよう。されど云いおく。古来大和の種がある。粗末にする事勿れ。遺言である。そして、これらのことも過程だった。これで世間に馴染めそうである。これをしなければならなかったのだろう。これでやっと仕事も出来そうである。何もかもゆるせる頃となった。何もかも感謝するところとなった。これほど恵まれた者はいなかった。なのに、勝手に埋没してしまった。すべて自分に原因があったというのに。誰も悪くない。自分が悪かった。本当にそう思えるようになった。何と過酷であったことか。何と艱難辛苦であったことか。それも独り相撲だった。それほどまでに複雑だった。しかし解けてみれば至極簡単だった。こんなに簡単だったのか。それが解らなかった。『知恵の悲しみ』であったか。やはり私は私で良かった。大肯定の時代となった。良い時代である。余生を楽しもうではないか。何も気にすることはなかったのだった。しかし黄泉からの問いがあった。それに答えなければならなかった。何のためだったのか。もう良い。ところで、ノートを取りながら、『プロトン新健康革命』を読了した。三度目である。凡そその理論は解った。昨夜熱くなってその理論を知人に話した。何かと批判的でありながら、ノニプロトンを飲ませてくれとなった。最近急にぼけてきた親に飲ませたいという。ノニプロトンが一本売れた。先日来オールインワンも二つ売れた。しかし、情報を伝える仕事である。在庫商売ではない。会員にはなってくれない。ネットワークビジネスは難しいね。

 涼しさを取り戻したる心地して眺めせしまに時ぞ過ぎゆく

さて、現時点での私の考えを要約しておこう。歴代の人類の祈りと願いは無駄ではなかった。それは愛と平和だった。そして大切なのはこれらを手段として、個々の暮らしを実現することである。それが旧約聖書に秘められていた目的である庶民の解放だった。そして400年周期説が旧約聖書に秘められていた。故にパラダイムの変革の時を迎えている。さらに、高度精神は、既に権力武力金力を克服している。市民革命、原爆、M&Aがそれである。古来大和の秘密があった。神風の吹く理由である。それは黄泉自然が受容祝福するという大義名分であった。そして、自分一人が裕福となっても幸せではあり得ない。周りが幸せとなってその中に自分もいるとき、必ず幸せである。健康食品を扱って富を成し、自分は尚病身である。おかしくはないか。本当の健康はある。それは何か。仏道を歩むことである。

≪がんは悪と決めて叩くのではなく、欲しているものが何であるかに焦点をあて、それを与えることによって正常にもどすという『太陽と北風』の寓話のような発想が大切です。≫(『プロトン新健康革命』p104)これが高度精神の発想ですね。そしてこの考え方こそ、明るい未来を建設することの出来るものですね。お客様は神様であるとする、消費者主体のマーケティング理論にも、社会政策にも、刑事政策にも、生き方にも応用できますね。国際政治にも適用できるのでしょうか。

三十五年前のことだった。その頃、全共闘の余波が高校に来ていた。そして嵐は同和問題だった。或る先生がつるし上げにされて、全校集会が二度もあった。私はそのような中で、学校の勉強などしなかった。むしろ、学校の勉強をすることが偽善のように思われた。世はフォーク全盛だった。その頃流行っていた恋愛ごっこも出来なかった。その頃から、訳のわからない本を読んでいた。そして埋没した。高校三年の頃には、種田山頭火句集を手に携えて登校していた。毎晩、朝まで手紙を書いていた。そして、何時しか失われた何か大切なものを求めての旅路についていた。以来、テーマだった。ゴールはないかと思われた。その頃に見つけた詩がある。いわば、出発点だった。やっと、その頃に遡上できたのだろうか。確認する頃となった。私はその頃の夢を実現したと思っている。その詩とは

ヘッセ

内面への道を見つけたものには
燃える自己沈潜の中で かつて
自分の心が 神と世界を ただ
形象 比喩として 選ぶのを
知恵の核心をおぼろに感じたものには
すべての行為と思考が
世界と神を含んでいる
自分の魂との対話になる

さて、これでやっとお馬鹿さんになれるかな。なれたらいいね。流れに乗るために。流れを泳ぐことを知るために。私は夢を実現したと思っている。或いは実現しつつある。それにしても孤独な作業だった。常に見守られていた。それを裏切っていた。若者たちに告げたい。同じ轍は踏まないように。導きに従うように。そして社会の悪い傾向に染まらないように。負けないように。自分を信じて進むことだよ。救いは必ずある。生きている限り。それぞれ生まれた意味がある。使命がある。それは何だったか。晩年になってわかることだ。世の浮かれた大人など相手にしなくて良い。この世の使命は何か。それを果たして来世がある。人生は腐敗ではない。堕落でもない。世のテレビ及び芸能界は懺悔あるべし。あなた方の人生が本来の自由ではない。来世及び地獄で沙汰を待つべし。私がどのような人生だったか。壮絶だった。私は青春と人生を失った。それ故に得たものがある。それは何だったか。凡そこの世の秘密に属する。古来大和の秘密に属する。私は生まれて良かった。どんなに過程が辛辣であったとしても。人生は生きるに価する。心からそう思っている。私の人生は正しかった。勝利宣言である。妾の子は妾の子である。ご用心。嘘及び欺罔並びに暴力は裁かれる。古来大和純粋精神は今も尚健在である。世の腐った風潮など相手にしない。愚かな精神に迎合することはない。あなた方が滅びても古来大和純粋精神は滅びない。常々その種はある。


2007年08月17日

佛の真実

真実は求めなければ得られないという。何を求めていたのだったか。真実だった。そしてよほどの因縁と気づくのだった。この世は思うようにならなかった。それも当然だった。過去世の因縁がきつすぎた。そして彷徨った。いつの間にか辿り着いていた。何処に辿り着いていたのだったか。佛の真実に辿り着いていた。いくら能力があっても、それを発揮することができなかったのは何故か。過去の因縁だった。すべては知らしめんが為だった。何を知らしめんとしたのだったか。此処に来て仏の教えの真実が解るようになった。因縁を解決する方法はある。それを見出している。実行するしかない。今どういう時か。恐怖悪世である。それ故に救われる時でもある。自分が変わることで世界が変わる。思い通りとならなかったのは何故だったか。全ては知らしめんが為だった。救うものは救われる。助かりたいと思うなら助けることである。この世で終わりではない。前世もあるし、来世もある。来世があると知るなら、凡そ悪は為せない。刑事政策も社会政策も、この一点で解決する。かつては当然だった。いつの間にか見失われた。しかし、佛の真実が現れた。信じざるを得ない。それと出逢っていた。出逢っていたのではあるが、暫く、信じ切っていなかった。それも業障の故だった。今、素直に信じる。信じてしまえば、当然である。何も不思議はない。人間が不幸になる原因は何であったか。自分の為にするからだった。佛のためにすれば良い。佛の真実である。佛は一切大衆を救う。佛の為にすることで一切大衆の為となる。それは廻向する。自分も救われる。佛の為にするとき、守護もある。子孫を救うのは祖先である。祖先はいる。佛もいる。同じ事をするのに、楽々と出来る時と苦労を要する時がある。佛の守護があれば、何事も楽である。やっと求めていたものに辿り着いたのだろうか。この三十有余年、無駄ではなかた。永い孤独な旅路だった。此処に至って、全てが意味を持つ。私の人生とは何だったのか。凡そ特異な人生だった。不思議な体験があった。ひとつやふたつではなかった。人生も青春も失ったかと思われた。賦与されていた能力は尋常ではなかった。しかしそれはそのまま地に埋もれた。しかし、私は救われつつあるのだろう。そのように思われてきた。導かれていた。ここに至らねばならなかった。辿り着いたようである。これで良い。これより幸せになろうと思う。なれると思う。その方法論は見つけている。時代の色に染まることが出来なかった孤独な日々よ、さようなら。今、佛の真実が現れる時である。久遠の約束であるという。逢い難き時を迎えている。今でなければ解決は出来ない。これまでは方便だった。真実ではなかった。方便とは嘘であり、結果がない。証明がない。真実は本当であり、結果があり、証明がある。希有なる時節である。早く気づいて過去を清算するべきである。そして未来を明るくする。かつて面白くしようとする時、仏の教えは邪魔だった。それでそれを壊した。そして悪が蔓延った。時代の色を塗り替える。子供達の未来の為にである。もはや何の根拠もない空虚勝手なことは言わせない。世の風潮に辟易としている。本来清浄国家日本の風土及び空気を取り戻す。


2007年08月04日

反省の頃が来た

どうして、これほど世間を無視していたのか。自分ほど馬鹿な人間はいなかった。高校に入った頃はNo1クラスだった。その後、迷い道に入ってしまった。理由はもうどうでも良い。所詮悪業の因縁である。そして、地獄の底を見た。そして、はい上がれないまま、三十五年が過ぎた。信用もなくなった。誰も以前の私を知らない。悉く利用され、騙された。そして、いつの間にか、自暴自棄にもなっていた。孤独感と不幸感にさいなまれていた。そして、六年半前に、仏さんとの縁を得た。行はさせて貰った。教えもずいぶんと聞いた。しかし、結果は現れなかった。何故だったか。信じているようで、我見が強かった。信じ切ってはいなかった。此処に至って信じられるようになった。仏さんこそ真実である。仏さんは自ら出ることは出来ないと仰る。唯、善業の因縁より出ることが出来ると。そして、善は仏さんとのところにしかない。全て譲ると仰る。その全てとは何だったか。妙法華経だった。此処に至らねばならなかったか。これが宿命だったか。そして、悪いのは全て自分である。善いことは全て仏さんのお陰であると仰る。だから、仏さんの縁から始めるしかないと。どれほど能力があっても、人間である限り、堕ちる。それを実体験しなければならなかったのか。今に思えば感謝である。因縁解決の方法はある。それは、実行しなければわからない。真実であるが故である。思い上がっていたようだ。大反省の頃が来た。これをアップしてすぐに甲信越地方で地震があった。津波の心配はないという。私が私になりつつある。本来の私を取り戻しつつある。全てはその為だったか。私は何者だったのか。汝自身を知れ。それはそのまま、禅の目的だった。父もそうだった。祖父もそうだった。何と馬鹿げていたことか。そのようなこととは知らなかった。誰も教えてはくれなかった。自分で見出すしかなかった。どれほど困難なことだったか。知るべくもない。この世は何だったのか。それにしては、不幸な自分である。しかし、故に得たものがある。それは何だったか。既に記した。知る人は知っている。世界も認めている。そのサインはある。されど、我が暮らし楽にならず。自分のことは自分でしかわからない。仏さんは、法と真剣に取り組むと、自分でしかできないことがあることに気づくと仰る。私は出口を見つけたのだろうか。

朝四時から、原爆ドーム前で御経読誦に参加した。原爆で散った諸精霊に対して、初めて御供養の気持ちの入った御経だった。喜んでくれただろうか。かつて私の祖先の住んだところである。今、眷属は一人もいない。姉妹からもそっぽを向かれてしまった。世間からは皆奪われた。しばらく私を利用するだけで支払いがない。経済的信用も無くなった。信じていた人が大ペテン師だった。それらも自分の業であるとする。これらを以て孤独とする。広島市安佐南区を2往復、倉橋町須原を1往復した。どれだけ走ったことだろう。そして収入はどれだけか。寂しい限りではある。しかし満足している。気持ちの良い仕事が出来た。しかし、かつての友達と約束していたコンサートに間に合わなかった。彼女は、また会いましょうと、メールをくれた。さて、失った人生と青春がある。それを取り戻そうと思った。今はどうか。既にその気はなくなりつつあるのかも知れない。もはや遅い。今の心境はどうか。薄暮の港は波穏やかである。目の前の水面すれすれをアオサギが二度三度鳴きながら飛んでいった。淡々と生きてゆければいい。そう思う。庭前柏樹。私が何者であったか。或いは何者であるか。知らしめるべきかどうか。それもどうでも良い。影を無くしたペーターの話がある。人生と青春を無くしている。得たものは何か。それにしても勝手してくれたものである。何をしてきたのか。何をしているのだ。何を破壊したか。ゆるしはしない。粗末にしてはならないものがあった。それを粗末にした。それは何か。これを解いた者に未来がある。おかしな服装が自由か。似合っていない。テレビ芸能界は何をしているのだ。生まれは何だ。は虫類か。真実真理というものがある。誰もまともに絶えられない。それをことさらに表現すればどうなるか。コルトレーンである。燃え尽きるか病院送りかのどちらかである。故に、ソクラテスは黙って毒杯を仰いだ。キリストは磔に甘んじた。ガリレオは云った。それでも地球は回る。真実真理は云う。それでも神仏は実在する。法力が世に現れた。権力武力金力にはさぞ都合が悪いことであろう。かつてはロゴスだった。誰もが手にすることが出来るべく定量化された。これを以て善良であるが故に虐げられていた庶民の解放である。それが旧約聖書の目的だった。時は既に移った。年貢の納め時である。納めて貰う。あなた方は生命即ち環境及び健康を破壊したのである。そして精神は畜生道に堕ちた。淘汰しなければならない。そしてここより始める。あるべき人間としての進化を取り戻す。芸能界及びタレントは観念するが良い。諸悪の根源である。その無価値を知らしめる。落語もその例外ではない。暴走族文化に過ぎない。逃げも隠れもしない。眠れる子が目覚めた。何の子であるか。能力及び人生並びに青春を犠牲に供している。守護が違う。レベルが違う。持って生まれたエネルギーが違う。代々の直伝秘伝だった。この世で扱えるようなものではない。それが禅定力だった。開発しなければ意味はない。しかし、犠牲も大きすぎた。使わない方が良い。しかしながら、何を愚弄し、勝手してきたのだ。だが、このように考える限り幸せは来ない。或る意味で、思い上がりである。放っておけば良かったのだろう。そして自分の幸せを掴むべきだったのだろう。しかし、時は流れた。失ったものは戻りはしない。あまりにも馴染めぬ社会だった。何が跋扈していたのか。戦後自由は日本にとって何だったのか。日本の進むべき道ではない。それだけは確かである。戦後占領政策に乗じて天狗となり生命を破壊して尚気づかぬ方々を葬らねばならぬ。


2007年08月16日

原爆は仕方なかった発言について

原爆は仕方なかった。その発言が波紋を呼んでいます。私の故郷はヒロシマです。それに気づくための私の人生でした。今思えばそう思われます。ヒロシマから離れることが出来なかった。何故だったのか、凡そ理解しています。おそらく、子供の頃、祖父と護っていた桑原の墓の故だったのでしょうか。それはそれで良いとして、原爆の目的は何だったのか。多くの議論があります。日本精神を根絶やしにしようとしたのがその一つです。もう一つは、世界共産化に対する牽制でした。日ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連は南下しました。不凍港を求めたのでしょうか。ヤルタ会談の要請もありました。さらに、朝鮮戦争がありました。朝鮮半島は分割されました。日本がそうなっていたかも知れなかったのです。それを免れた。その意味で、原爆は仕方なかたっともいえます。日本は間違えた戦争をした。理由はあったにしても。当時、日本は世界からいじめられていたのです。世界は日本の本質を知らなかった。それで、日本が隆起した。しかし、世界を相手に勝てるべくもなかった。かの戦争自体、始まった時から精神は玉砕だったのです。ペリー来航以降の西洋思想に染まった流れにおける選択でした。しかし、戦争の形態は第一次世界大戦の航空機の登場でその質が変化していた。制空権を握った方が勝ち、その爆撃は無差別であった。犠牲となるのは市民或いは庶民である。かつて戦は戦士と戦士による戦いだった。それは大義名分を証明する手段だった。勝者が統治する権力を勝ち取るのだった。それは平和をもたらすためだった。今はどうか。平和を勝ち取るために大量殺戮となった。戦士達は自分たちの生命を賭して権力を得るのではなく、市民或いは庶民を犠牲にしてその目的を達する。反省の頃だね。考えなくてはならないね。因って、平和目的の戦争自体が論理矛盾を起こしている。紛争解決及び平和達成の目的に戦争は使えなくなっている。庶民の暮らしを実現するという大義名分を欠いている。時代は進化したのです。庶民レベルで考えなくてはならなくなりました。自分たちの命が犠牲となるのです。考えざるを得ませんね。故に、原爆は良くない。しかし、原爆は仕方なかったともいえるのです。歴史の流れです。


2007年08月26日

祝福

何を求めていたのだろう 何も求めてはいなかった

唯 幸せでありたいとは 思っていた

しかし 幸せは遠かった 何故か 

十九の春は すべて 奪ってしまっていた

それを乗り越えることは出来ないと思っていた

しかし それが試練だった 何時かは長い冬も終わる

ある方から 長い冬は寒くはなかったですか と

失われていたのは何だったか 自分自身だった

自分自身を取り戻すことで 常に祝福されていた

生きていて良かった 生まれてきて良かった

そう思えるようになった 

素直なままで 素顔のままで そのままで

生きて良い それで良かったのに

十分に祝福されていたのに

新しい始まりである 正直に歩む者に未来はある

これより悪は赦さない 勝手は通さない

愚かな支配は終わって貰う 黄泉の意思である

裏切りしものがある 古来大和からの請求である

何を破壊したか 何を愚弄無視したか

記録はすべて天にある 各々覚悟されたい

この世の人生と青春を賭して 発見発掘したものがある

なめて貰っては困る 本気にさせないことである 

家伝直伝秘伝螺鈿の槍は錆びてはいない 

古来大和正統日本 及び 宇宙自然生命黄泉の名に於いて

云うべきことがある その言葉はロゴス あだやおろそかなかるべし

この度の関ヶ原は何処にあったか 黄泉である

それを制したのは誰か 黄泉に正統源氏征夷大将軍着任である 

刃向かうは刃向かって見るべし


2007年08月09日

時代の流れ

さて、世にオートマチックということがあります。成功の秘密は何だったのでしょうか。世に認められるとは何を意味しているのでしょうか。一つのステージが終わりましたね。新しいステージの始まりですね。私の個人的に言うべき事はもう言いました。これ以上、必要はないようです。不比等以来のグランドデザインと申したこともありました。山田無文老師は書いていました。書く端からゴミに等しいと。だが、後世の誰かのためになるかも知れないから書いておくといった趣旨でした。世の価値があります。それを大切にするべきです。この世は一人の世ではありません。皆の世です。もう大丈夫です。かつて広島大学の正門にはフェニックスがありました。不死鳥です。ヒロシマの象徴です。ビートルズのLet it be がNHKラジオ深夜便から流れています。Love&Peace がテーマでした。拓郎は勲章を貰うなら女王陛下からと歌いました。外貨を稼いだ意味も大きかった。しかし何よりも時代の祈りと一致していました。ジョン・レノンが家の前で凶弾に倒れました。彼の言葉は既にロゴスでした。どういうことでしょうか。彼がラジオ生放送で言ったことが現実化したのでした。さて、このLet it be は海外でよりも日本でよく売れました。あるがままに。日本人の感性に響いたのでした。この曲は、ラジニーシの影響が大きいと言われています。しかし、ラジニーシは怪しいのです。フリー・○○○の始まりでした。また、麻薬を資金源にしていたとも言われています。これも時代だったのでしょうか。思えば、海援隊も密輸していたのかも知れません。経済力が時代を動かすのです。その目的地が正しかったのかどうかは別論です。真実とは何だったのか。皆、幸せを求めています。真実幸福論は何だったのでしょうか。

そして時は流れた。常にサインはあった。しかしそれをサインとは知らなかった。何と愚かであったか。今更悔いても仕方ない。そうしたものである。すべて自分の蒔いた種だった。そして此処に来て確信している。何を確信したか。それももはやどうでも良い。自覚するまでのことであった。失われた過去がある。取り戻すしかない。過去を未来につなぐ。それしかないのである。急がねばならない。時は満ちた。それにしてもこの世は何だったのか。全て知らしめんが為だった。何を知らしめんとしたのだったか。気づくのが遅すぎたのか。否である。私には私の使命がある。果たさなければならない使命がある。それは何か。やがてわかる。方向転換である。本来の自分に戻る。申し訳なさの故に。悪いのは自分だった。何時までも弱音は吐けない。甘えるわけにもゆかぬ。水は高いところから低いところに流れる。何を期待していたのだろう。生まれながらのポテンシャルエネルギーがある。その力を発揮するにはそれなりの条件がある。通るべき試練がある。

ところで、景気指数はどうであるか。50を下回っている。おかしくはないか。空前の経済成長があったのではないか。どうしてか。企業の役員報酬と株主の利益率だけが上昇している。どういうことか。政策を誤っていないか。どのような日本にしようとしているのだろうか。このような日本で良いのだろうか。しかし制度の中で如何に生きていくか。それが大切である。どう工夫するか。さて、エンジンの調子はどうか。エンジンとは頭脳である。使わなくなって久しい。錆びついたかも知れない。あまりにも長く使っていない。使ってはならない事情もあった。何時も言われていた。お前は阿呆であると。阿呆になっていなければならない理由もあった。それも克服した。凡そ克服できる状況ではなかった。そのようなことを言っても誰も相手にしないだろう。皆、必死で生きている。それでいいではないか。チューンナップは出来たのだろうか。おそるおそる全開である。さて、どうするか。これからである。新しい時代である。時は来た。そのように思っている。とてつもない武器も手に入れている。金剛杵或いは如意宝珠。その秘密も知ってしまった如意宝珠とは、宇宙からの受信機であると同時に送信機だった。それがロゴスだった。山彦と海彦である。もはや敵はいない。守護もある。既に世界は一つである。世界の中の日本。これが人生だったか。生きてゆける。十分に。これより失ったものを取り返す。時間は十分にある。批判しても仕方ない。淡々と自分を生きれば良い。愚かなテレビなど、見なくて良い。時間が勿体ない。古今東西、Time is money。点から面となり空間となる。四次元は時である。五次元は質量であるか。六次元は第六感ということがある。十界においては天=神である。六次元は神力か。第七官を問題にしたのは、花田清輝だったろうか。当時、小林秀雄に身を切らせて骨を切られた。甘いね。骨を切らせて魂を切る。第八は何か。十牛図では悟りである。そして、第九図。自然が顕現する。即ち、美しい風景が待ってくれている。写真であれば、シャッターを切るの待っている。いわば、日月照らし風が吹く。広重もそうだった。芭蕉もそうだった。そして第十図。市井に入る。世の中のためにどれだけ役に立つか。常に変わらぬ価値判断基準である。犠牲があってはならない。人間は自然の一部である。自然を破壊して何とするか。生命をも破壊した。遺伝子レベルで子供達の未来に。放射能と石油化学物質の故である。それで利益を成して来世があるとは思わぬが良い。されど神仏は実在する。それを無視してきた。何を思い上がったのだろうね。バベルの塔は立ちはしない。日に日に新しきことなし。今も昔も変わりはしない。戦後、間違えた自由が蔓延った。そして腐敗した。何時までも腐敗ではない。蓮華の前に化生である。法華経宿王華、一切種智慧。未来にどのような種を残すのか。常に試されている。黄泉の用意した正解はある。それを導き出せるか。そもそも黄泉からの課題を読み取れるか。時代はシフトした。新しい時代である。何故か。基がシフトした。これまでの勝手は通らない。徳は天に積む。何でも欲しいものに変じる。時が来れば全て与えられる。或いは譲られる。仏の約束だった。貯えるべきは悪より手にしたお金ではなかった。私は私を十分に開発したのかも知れない。まだまだ完成とはいえないが、納得のいくレベルの自分となったのかも知れない。仏の真実も理解した。とても不思議な経験をしている。およそ帰れないかも知れなかった地獄も通った。この世の人生、これで十分である。迷いはない。憂いもない。惑わされもしない。求めていた自分に限りなく近づいた。私の人生は間違っていなかった。もう悪舌は止めよう。自分も堕ちる。明るい未来が見えている。仏道であるのかも知れない。皆で歩みたいものである。此処から始めれば良い。定理は証明されれば誰もが使える技術となる。インターネット社会は共有文化である。誰もが幸せになれる。全体としてのボトムアップだ。周りが幸せであるとき、その中の自分も必ず幸せである。仏は一切大衆を救うと仰る。一切大衆が救われた世界はどのようであるか。わくわくするとはそれである。他を蹴落として自分だけが助かろうとしていないか。いつかは自分も蹴落とされる。それで幸せであるか。パラダイムの転換である。限りなく多くの人が幸せとなれるだけの英知と技術が蓄積されている。自分勝手な独占はゆるさない。往々にして現在成功者は他を犠牲にしている。犠牲になったものも何時までも黙ってはいない。生き霊は死霊より怖い。自分に都合の悪いことは否定する。知っても識らなくても真実は真実である。ご用心。何を思い上がったか。何を根拠に勝手し来たる哉。私は問い続けなくてはならぬ。大人になれば価値観が転倒するとでも思ったか。成績に十を並べたことがあるか。総合判断能力が違う。何を以て自己主張する哉。愚かであることに気づかない。故に愚かである。貪・瞋・痴。痴とは仏の真実を知らないことである。法華経を説いた聖徳太子をも否定するのだろうか。

腹が決まりつつある。自分は何が本当にしたいのか。それが明確と成りつつある。見る因縁聞く因縁がある。すべて自分が原因である。自分がその要素を持っているからそうした困ったことになる。過去の因縁である。この世での因縁もある。悪業である。それを解くことが出来るという。そして、一切大衆を救うと仰る。世界平和はこれしかないと。信じていなかった。信じるには至っていなかった。学問的でしかなかった。しかし、あらためてまとめ直している。これまで、仏さんの所で教えていただいたことを。そして、驚いている。人間自ら出づること能はず。唯、善業の因縁より出でたり。善は仏さんの所にしかない。我が力に非ず。全て仏の威力による。この真実がどうにもならなくなった。信じざるを得なくなった。さて、自分は何をしたいのか。何のために働くべきか。この能力を何に使うべきか。正念場である。この世に生まれた意味が問われている。このままで良いわけがない。それに対して答えは出ている。何を迷っているのか。迷いはないはずではないか。何を躊躇しているのか。実戦配備の頃である。戦士大戦士とは仏の教えを分別広説することである。これが大良薬である。仏とは何であったか。神とは何であったか。明らかと成りつつある。されど神仏は実在する。日月照らし、風が吹く。目的地は定まったか。ならば、発進である。一度壊れたエンジンである。完全修復しているだろうか。その間、さらにグレードアップされているはずである。勉学もした。経験も積んだ。満足のいく仕上がりである。エンジン全開である。自信は復活している。自分を信じている。発見するべきは発見した。発掘するべきは発掘した。開発するべきは開発した。得るべき力は得た。いよいよである。新しい時代である。進むしかない。過去を未来に移す。仏の大願だった。仏もお出ましである。役者がそろった。世にオーラとか言う。その正体は何であったか。禅定力である。悪念を払拭する。身と心で。そして得られる力である。生まれながらのポテンシャルエネルギーである。これをどう開発するか。悪があるとどうなるか。自分を壊す。世の中のどれだけ役に立つか。一切大衆を救う。これ以上の価値はない。皆の幸せのためにである。大義名分である。黄泉も微笑む。諸仏を護念する。諸仏に護念される。怖れることはない。真実真理である。方便は嘘である。嘘には中身がない。結実しない。結果がない。証明がない。真実には善の結果がある。証明がある。多宝仏さまのご証明である。信じざるを得ない。信を以て入ることを得たり。未来は明るい。明るい未来の建設に着手である。方法は何か。やがてわかる。


2007年08月15日

私が悪かった

思い違い勘違いしていたのは私だった。困ったこと、苦しいこと、全ての原因は自分だった。そして、自分自身が何者であったか気づくと、それはどういうことだったか。常に守護され、見まもられ、導かれていたのではなかったか。制度が後からついてくるが如くに。それを裏切っていたのは自分だった。これまでの全てが無意味となった。そして新しく始める。故に時代が変わる。私は私となる。それは使命でもある。そのような宿命を背負っていた。申し訳ないことだった。気づくのが遅すぎたか。今からでも遅くはないと信じる。あらためてお詫び申し上げる。私が悪かった。他の誰でもない。私が思い違い勘違いしていた。そのように生まれていた。故に、確かに日月照らし、風が吹く。遠くの製鉄所から炎が上がる。公園の噴水が反応するかのように噴き出す。風景が待ってくれている。カクネンムショウである。アオサギが挨拶してくれる。何故であったか。知る人は知る。知らない人は知らない。知っても知らなくても真実は真実である。その言葉はロゴスである。約束されていた。そのための試練があった。過酷な試練だった。人生も青春も失うほどに。そして時代の喧噪に影響される必要はない。心静かに眺めていれば良い。愚かさに影響されることはない。自分は自分で十分だった。何時の頃からか、時代に甘えていた。自分が主体性を取り戻すとき、人生は楽しい。歩々清風を感じることが出来る。どんなに暑い日中でも。夕日には夕日の良さがあるとしたのは山田無文老師だった。本当にそう思えるかどうか。思える。本を読むのに、眼光紙背に徹するということがある。その眼光とはどのような光であるか。私は祖父の目の輝きを知っている。古武士の目の輝きである。現代人はそれを失った。無理もない。欺罔を以て手段とする商売しか考えていない。私の日々が心穏やかで安穏でなければならない理由がある。わかるだろうか。わからないね。わかりたくないよね。認めたくないよね。しかし真実は真実である。自覚してしまった。もう遅い。家伝直伝秘伝、代々の自覚である。

さて、道元禅師の言葉に、身心脱落、脱落身心ということがあります。解脱涅槃した状態でしょうか。自己との格闘が終わった状態でしょうか。一昨年の11月26日に始まった個人的自己確認作業もおわりのようです。その間、不遜もありました。悪舌もありました。失礼もありました。裏を見せ、表を見せて散るもみじとばかりに、書いたつもりです。それらも、既に過去となりました。すべて削除してしまおうかとも思います。しかし、何処かユニークなところもあるかも知れません。このままにしておきましょう。このような内面を開示することも希かと思われます。何れにしても個人的には必要な作業でした。これをしなければ、私の実人生はなかった。それほどまでに複雑なものがあったのです。三十年の葛藤でした。その間、失われたものもありました。それに意味を与える必要があったのでした。蝶も蝶となるまでに、幼虫の時代もあり、サナギの時代があります。サナギの時代が少し長すぎたというべきでしょうか。蝶となってしまえば、幼虫でもなく、サナギでもない。しかし、これらを通らなければ蝶にはなれません。蝶となってしまえば、サナギも幼虫も思い出に過ぎません。ここを道元禅師は薪と灰に喩えたのでしょうか。そして、花と咲けば、それまでの養分も意味を持つのです。蓮華も泥より咲いて泥とは無関係です。美しく咲けば良いのです。その意味で、これまでの身勝手をおゆるし頂ければ幸いです。弁論の全趣旨ということがあります。それをご勘案下さり、個々の失礼のおゆるしをいただけますよう、お願い申し上げます。やっと、自分を取り戻しました。これで、生きてゆけそうです。これほどまで尊大な自分をどう運転するか、とても難しい課題でした。凡そ議論で負ける気はしません。しかし、何の資格も地位もなければ、世間は相手にしません。その片鱗でも示すとどうなるか。或る意味でシカトです。このジレンマあるいはギャップを生きようとするときどうなるでしょうか。己を壊すことにもなるのです。しかし、私はこうした自己との戦闘に克ったようです。とても穏やかな自分となりつつあります。怒りの中にある人の吐息を集めると猛毒となります。植物は外敵から身を守るためには、毒を内分泌します。そうした生命の不思議があります。それに負けるというのも弱いということでした。既に暴力は現代において否定されています。物理的暴力だけでなく、言葉の暴力もあります。少なくとも相手の存在を認めないことは精神的暴力です。今、庶民が解放されて、誰もが自由平等となりました。しかし、市民社会においては社会契約があります。自由の一部は差し出してある筈です。しかし、世間では法の隙間でこうした暴力が行使されています。そしてその方々が勝ち組であったりするのです。そうしたことは、地位も資格もない身で初めて実体験するところです。今まで、それに負けていました。或る意味で、社会及び時代に甘えていた自分がありました。それ故、騙され、餌食にされ、裏切られた事実があります。しかし、それも体験しなければならなかったのです。未来に向けて解決するべき問題として。そして私は私の思う私の姿が見えてきたように思われます。それは子供の頃の自分でもありました。本来の自分に帰る必要があるのです。世間に負けるわけに行かない訳があるのです。それが確認できたように思っています。これで、私は日常を平穏に生きてゆけそうです。困るのは自分が原因でした。今にして思えば、このような私が困るのは当然でした。孤立無援でした。誰も手出しが出来なかったのです。まるで鎖国でした。世界は本来あたたかいのです。愛に満ちています。この世に生まれて幸せに生きよとエールを贈っています。それを自分解釈で拒んでいたのです。生まれたからには生きる権利がある。そして平等です。自分の思うとおりに生きて良いのです。良い時代です。それは自己表現です。花と咲くことです。蝶となることです。そして自由です。私が間違っていたようです。この間違いに気づいて自由です。これで生きてゆけると確信です。見出した真実は真実であると思っています。ありがとうございました。


2007年08月21日

説明不足

何故幸せになれなかったのか。どうして孤独に彷徨わなければならなかったか。そうしたことも理解できた。相手がわかってくれないと思っていた。何をわかれと思ったのだったろうか。所詮、わかりはしない。当然、相手は勝手なことを言う。それがゆるせなかった。事実を告げたくもあったが、それはしないでいた。するとどうなるか。こちらが悪くなる。それで、人間関係を壊した。自分自身をも破壊した。幸せになれるはずもない。孤独に決まっている。そして気づいた。相手はわからないまま勝手なことを言っているが、そのように言いながらも真実を探していたのではなかったか。それを説明しなかったのはこちらに責めがある。ネコだって怒らせばフーッである。これからはどうか。そのようなことだと知れば対処がある。全て受け止めて、さらに説明すれば良い。やはり相手は何か言うだろう。松風である。それで良いのである。真実は真実である。達観すれば良い。憶することはなかった。そのことの自覚及び確信がなかった。それで、お膳をひっくり返してきた。それで人生と青春を失った。馬鹿げた話であった。早く気づくべきだった。何が真実であったか。気づいている。あなた方の色に染めさせはしない。日本は日本。世界の中の日本。自覚して使命がある。この度の日本は十分に教育された。そして勉学もしている。浮かれた時代をサナギとして無事通過し羽化した。これよりどういう時代であるか。やがてわかる。古来大和の秘密がある。誰も知らない。知っても識らなくとも真実は真実である。人間が進化して神仏となる。人間の分際で神仏を超えていると思っている。そして勝手している。勝手なことを言っている。その間、地球環境及び生命はどういう事になったか。バベルの塔は立ちはしない。反省の頃である。過去を未来に移す。幸せな世の中を取り戻す。幸せとは何か。一部のものではない。庶民の暮らしである。仏さんは一切大衆を救うことに決めたと仰っている。仏の縁をつけてもらうことである。そこから善が始まる。善は仏さんのところにしかない。人間である限り悪の結花となる。何故か。一切種智慧、法華経宿王華。楽は楽の種より生まれ、苦は苦の種より生まれる。古来大和の秘密がある。それは何だったか。知る人は知っている。何時も交信している。そうした世界がある。知らない人は知らない。そして悪を積む。やがて地獄に赴く。この世の約束だ。相手にする必要はなかった。相手にしていた。とことんやられてしまった。無理もない。そうした法則だったのだ。自覚するまではわからない。自覚すれば全てわかる。何がわかるというのだろう。この世で終わりではないということ。代々の魂の遍歴があるということ。この世は仮の宿に過ぎない。百代の過客である。そして、この世で、過去の修正が出来る。さらに未来へ羽ばたくことが出来る。皆、何をしているのだろうね。わかっているものは少ない。しかしわかっているものもいる。不思議だね。この世は血濡れのものではなくてと書いたのは吉田健一氏だった。住む世界がないなら、自分で作るしかないとも書いていた。その通りだね。さて、究極は何か。神仏が実在することだった。そして、神仏に受容されるかどうか。これが幸不幸の究極の分水嶺だ。誰もが至れれる訳ではない。しかし誰もが至れる世界である。その為の条件は何か。あなた方は知らない。特に、テレビ及びお笑い芸能界は知らない。何を蔓延らせたのか。罪は重いよ。何を犠牲にしたか。思い知る時が来たね。本来日本精神とは何だったか。身心清浄だった。現在経済的成功者にそれがあるか。あるなら良い。ないならどうなるか。知れている。未来はあなた方のものではない。正直者達のものである。古来大和の秘密がある。逆らわない方が良い。刃向かわない方が良い。粗末にしない方が良い。現在支配している精神は古来大和の精神ではない。何時の頃からか、ペリー来航以降だろうか、裏切っている。何時までも黙ってはいない。商売根性の故だろうか、嘘が多すぎる。自分では確信も根拠もないのに、神仏はいないことを吹聴する。それも無理はない。神仏がいては、あなた方には随分と迷惑なことであろう。権力も武力も金力も、とうの昔に克服している。そして未来の精神を開いた。それは何か。やがてわかる時が来る。それなりの試練は通っている。誰も復活できない復活を果たした。それは何であったか。もはやどうでも良い。さて、社会人になると、子供の頃の自分の愚かさを忘れている。自分の判断の方が優れていると思っている。謙虚さがない。聞く耳がない。そうだろうか。あなたの判断の方が正しいと何故いえるのか。学校時代の学業成績を思い出せば、何もいえないはずであるのに。愚かな時代となった。テレビの故か。あるいは芸能界の故か。ある国際的な歌手が国境はないと公の電波でいっていた。その歌手に、総理が敬意を表した。国家あっての自由である。国籍がなくて海外で生活できると思っているのか。どうかしている。幼稚過ぎはしないか。例えば、あなた方の判断の限界事例である。国家なくして自由はない。世間は何を浮かれているのだろう。何故の平和であるか。阿修羅を見たいのだろうか。それで戦争は知らない子供達とかいっている。無責任卑怯怯懦だね。それでは平和は勝ち取れない。かの馬鹿げた作戦で戦争に負けはしたが、当時戦ったが故の現在の平和である。幸せになるためには自己に住む悪魔と戦う。そしてそれに克って幸せとなる。神仏の認めるところとなるからである。何か勘違いしていないか。こうしたことに、反論できるか。しかし、勝手なことをしているよね。思っているよね。言っている。この世に法則がある。見えない世界がある。あなた方は何も知らない。そして何を犠牲にしているのか。何を粗末にしているか。問われる時を迎えた。今までは、あなた方の勝手も通った。これからは通りはしない。何故か。誰も知らない。知る人は知っている。大いなる自覚の故である。古来大和の秘密がある。生まれたときからそうだった。自覚するまではわからない。愚かな時代は去った。


2007年07月09日

弁道話 2

この三昧に遊化するに、端座参禅を正門とせり。

三昧とはそれに成り切ることですね。寝ても覚めてもということがあります。寝ても覚めてもそれに成り切る。法華経では夢にも普賢菩薩さんが出て来て法を説くとあります。業をしている方の中には見る夢がすべて正夢という方もいます。行住坐臥に禅を忘れないことが説かれます。日々の生活がそのまま禅となる。それは窮屈ではない。むしろ、快楽安穏の極地です。生きるということに対する意識が違う。少なくとも自己利益的ではない。畜生的でもない。そこに何か理念がある。譲れないものがある。それに目覚めることが禅の目的です。そこに絶対の自信がある。絶対の自由が開ける。そこへ至る正しい方法があるというのです。それが道元の立場からすると、端座参禅である。或いは只管打坐。唯、坐ればいい。公案があるわけではない。唯、坐る。するとどうなるのでしょうね。恐らく、自分と向き合うことになる。色々と反省もある。気づきもある。恨んでいる自分が出てくる。悔やんでいる自分が出てくる。そして、自分がどういう生き物であるかを知る。自分というものがどれほど無価値であるかも知る。そして、それらが消えていく。何時か必ず消える。すると、本来の生命としての自分が見えてくる。その時の自分はどのようであるか。本来の自分である。美しい魂としての自分である。それまでは、幼虫或いはサナギとしての自分だった。やがて蝶となって自由を得る。見える世界はパラダイスとしてのお花畑である。蝶となる時、花は咲いている。花が咲く頃に蝶となる。そうした自然の祝福を知る。黄泉の守護もあり、それに気づく。それが禅の目的でしょうね。それが、生かされているということです。本来幸せになるために生まれてきた。だから、自殺なんかしては駄目です。自分を自分で傷つけても仕方ない。必ず至れる幸せ世界が待っている。その為に投資としての試練もある。その試練が深ければ深いほど得る幸せも大きい。耐えられない試練はないといわれている。その間、耐えるしかない。それが青春であり、勉学の頃です。今世で至れるなら幸せです。今世で出来るだけしておく。それだけ、来世が楽になる。終わりは始まりである。易経の説くところです。今世の終わりが来世の始まりとなる。世の大人はこれを知らない。真実真理であるのにね。この世は永い魂の遍歴の一こまだよ。この世で罪を犯すとどうなるか。来世はその懺悔となる。だから、この世のことはこの世で解決しておく。いつか誰もが至り着く。今世で至りつけるといいね。だからといって、無理をすることはない。所詮、持って生まれた魂の段階がある。往々にして野蛮が蔓延る。それに負けて諦める。諦めないことだよ。先人の一里塚を見つけることだよ。道元もその一人だ。中途半端な大人が、堕落腐敗して、それを正当化する。テレビお笑い芸能界がそれだ。彼らの人生は悲しい。彼らに聞いてみるが良い。大竹まことが路上で女性に抱きついていたね。何処かの県知事との番組だった。タレントならゆるされるのか。さて、三昧とは行住坐臥つまり日常生活がそのまま禅に叶ったものとなる。それを遊化していく。それは或る意味でみゆきだ。遊んでいるようである。それは世のいう遊びではない。そのまま生命の理想である。蝶となって大自然に守護され、パラダイスとしてのお花畑を遊ぶ。世界はそのように見えてくる。それが理想郷だ。桃源郷だ。彼岸である。そこへ道元も至った。そして得た力は何だったか。法華経に如来の神力というのがある。神力である。草薙の剣も手に入る。間違って使ったらとても悲しい結果となる。原爆となる。誰もが手に出来るわけではない。だけど、手に出来る。そのための方法がある。道元は只管打坐だった。

この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。

この法というのが、真実真理の見える状態になったこと。見える世界が法と呼ばれ、見えない世界は妙と呼ばれる。生かされているということは、黄泉自然の祝福の中で本当の自由と幸せを得ることだけれど、それを得ることは、人間として生まれた以上、誰もがその可能性を持っている。それが、一切衆生悉有仏性である。しかし、そのためには条件がある。持って生まれたものには善も悪もある。悪を払拭する必要がある。それが修行である。禅では坐禅、法華経では菩薩業がその方法となる。悪を払拭できれば、持って生まれた善が光り始める。それが、山本玄峰老師のいう性根珠を磨くということだ。証明するのは黄泉自然である。黄泉自然の受容祝福守護するところとなる。それは自覚を要する。そこまで至って初めて知るところである。必ずその世界が現れる。道元自ら体験実証するところである。ところで、禅の目的は一箇半箇を打ち出すことにある。しかし、その為には土壌としての教育環境が必要だ。一人が成仏すれば、その縁あるところ一切が成仏する。そこに、教育の目的がある。全体のボトムアップが教育の目的である。その為には、何が必要であるか。考える必要がある。一箇半箇は能力を要する。その能力を引き出す必要がある。彼はそれに応える必要がある。必ず、応えてくれる。時間を要することもある。諦めないことである。さらに、必要な条件がある。それは、時代が、平和であることである。平和でなければ、この花は咲かない。しかし、平和であるとき、腐敗も蔓延る。それが土壌となる。蓮華の前に化生である。蓮華は泥より咲く。そして、泥に染まることはない。花は咲いてはじめてその種を知る。咲くまではわからない。その為に平等な教育が必要である。それぞれの花が十全に咲くために。その花が咲けば良い。皆が救われる。そうした約束である。しかし、その過程に於いて腐敗が蔓延る。腐敗は腐敗である。これを明確に認識しなければならない。時が来るまでは腐敗が蔓延る。時が来れば或る花が咲く。その時が、裁きの時でもある。歴代の約束である。古来物語の伝えてきたことである。

はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。諸仏のつねにこのなかに住持たる、各々の方面に知覚をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。

方法として仏の方に投げ入れる。仏を信じて我が身を委ねる。生命身体財産を仏に捧げる。仏は一切大衆を救うと決めている。必ず救ってくださる。それを邪魔しているのは、自分の計らいである。これを捨てる。はなてばてにみてり。これを捨てたとき、真実が自分の魂に入り込む。本来自分が何者であったか知る。世間虚仮であった自分を知る。唯仏是真であることを知る。世間虚仮の自分が唯仏是真の自分となる。これが成仏である。だれもが成れる。しかし、条件がある。それは何か。己の悪を払拭する。方法がある。それは何か。すべて仏の方に投げ入れる。はなてばてにみてる。何が手に満てるのか。黄泉自然の受容祝福守護である。その時、世界はどのようであるか。パラダイスである。幸せである。一は一箇半箇である。多は衆生である。一が成仏するとき、多も成仏する。一多のきはならむやである。かたれば口に満つ。言葉はロゴスである。制度も後からついてくる。隻手の音を聞いている。黄泉が動き実現する。その時、カラスも白くなる。これが語れば口に満つである。一に多が染まる。皆が幸せを知る。縦横きわまりなし。縦は祖先と子孫。横は現在縁のある世界の仲間。これに極まりがない。皆、幸せとなる。これが一切大衆が救われるということである。諸仏のつねにこのなかに住持たる。仏は人間が修行して仏となる。何時の世もそうである。何時の世も仏は存在する。世間一般は知らないだけである。知らなくてもそうである。知らないことを以て否定している。それで、不幸である。神仏は生命の最終形態である。誰もが何時かは至る。今世で至ることも出来る。今世で至れなくても良い。来世はその為にある。仏は仏となって仏の世界に住んでいる。それを維持している。横綱である。堕ちることはない。火が点いたのである。消えることのない火である。あらゆるとらわれがない。善も悪も超えている。世の解釈云々ではない。それが各々の方面に知覚をのこさずである。常に知恵の泉が湧いてくる。生命そのものとなっている。自然そのものとなっている。一如である。黄泉自然も従う。知覚ではない。知覚を超えている。知覚そのものになっている。人間レベルの知覚ではない。生命としての知覚である。黄泉自然としての知覚である。だから知覚をのこさない。こうした知覚を一切大衆は使っている。利用している。しかし、群生としての世間一般大衆はそれに気づかない。善いことはすべて仏さんのお陰であることを知らない。自分のお陰だと思っている。それが群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。知恵は仏になってエクスパイアとなる。それまでは、インスピレーションでしかない。しかし、それに気づけない。 それが、各々の知覚に方面あらはれず。「使用」ということですが、何を使用するのか。一多の一です。即ち、一仏成仏、草木悉皆成仏の一仏です。一人悟りを開けば、六親眷属が救われるとする一人です。どういうことでしょうね。言葉がロゴスであるとき、黄泉もそれを聞く。そして、現実に実現する。見える世界は見えない世界に従う。雲は龍に従うとするところです。或いは、この世はジュピターの匙加減といっても良い。この世は仏を使用しているのです。大雨注意報或いは警報もはずれる理由です。宇宙と魂は連動している。一個の魂の為に宇宙が動く。黄泉自然が受容祝福守護する時、それが起こる。その時、条件がある。その魂は宇宙自然生命黄泉の意思と一致していなければならない。その為には、その魂は黄泉自然から好かれている。黄泉自然の可愛い秘蔵っ子である。さらに、その子に試練がある。生まれたときからそれは決まっている。黄泉は大切に育む。それに応える。そして自覚が来る。何を自覚するのだろう。何れにしても、自覚が来たとき、黄泉自然も従う。黄泉自然は自覚したその申し子の意思を使う。それが使用するである。

いまをしふる工夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にか々はらむや。

こうして道元は自分の至り着いた境界を伝えようと思った。それは何だったか。インジュニエティということがある。知恵である。工夫である。それは知性を要する。坐禅して自分と向き合う。そして考える。禅は考える。そして、自分の考えが仏の前に無力であることを知る。そして考えなくなる。仏に身を委ねることになる。自力でも他力でもない。一如である。何と一如であるのか。真実真理と一如となる。これが真実としてのアウフヘーベンだった。ヘーゲルの方法論は正しい。しかし、真実真理は見える世界だけではない。見えない世界がある。古来、この両方を究めてきたのが東洋精神である。西洋精神は19世紀に没落していた。日本も文明開化と称してそれを追いかけた。しかし、西洋も待っていた。何を待っていたのか。東洋の目覚めを待っていた。西洋と東洋が本当に出逢う時が来た。証するのは黄泉自然である。そこに見える世界の真実を示す。それがいまおしふる工夫弁道は、証上に万法をあらしめである。そして至る世界がある。それはパラダイスである。それは見える世界と見えない世界の両方が祝福された世界である。それが一如である。これを幸せという。それが出路に一如を行ずるなりである。関は『無門関』。入り口である。大道は長安に通じる。その門である。門ではあるが姿は見えない。何処からでも入れる。入ればいい。入ればわかる。しかし入ろうとしない。入っては如何か。飛び込むのである。飛び込めば、飛び込んだ重さで浮かぶ蛙かな。釈迦は羅刹に身を投げた。真実真理を教えて貰うためだった。すると、羅刹は帝釈天だった。帝釈天に掬い取られた。真実真理と思うなら飛び込めば良い。必ず救って貰える。脱落とは、身心脱落脱落身心である。本当に楽な教会が開ける。身も心も安楽となる。経済的成功に身の安楽はあろう。しかし、心の状態は反比例するのではないか。己の成功の過程に対する不安がある。悪を為して得た成功は、心の不安から逃れることは出来ない。世の成功者に聞いてみるが良い。それで、お遍路さんとかしている。或いは、ビル・ゲイツのように一生、教育産業に投資することになる。人間は懺悔するしかない。そしてこうした境界がある。道元は中国でそれを知った。この縁につながってみないか。一緒に考えてみないか。それが、その超関脱落のとき、この節目にか々はらむやであろう。今、NHKラジオ深夜便でソニー・ロリンズの『セント・トーマス』を聴いています。1956年6月の作品だったのですね。次に流れてきたのは、レスター・ヤングの『我が恋はここに』。これは、1956年1月の作品。何故か父のことを思うのです。さて、「この節目にか々はらむや」は、道元のテーマですね。つまり、「証上に万法をあらしめ」と「出路に一如を行ずるなり」との関係に於いて、区別がない。証するのは自然黄泉、万法はこの世の見える世界一切、見える世界と見えない世界との両方で実相とする諸法実相、至り着いてみればそれが一如である。つまり、我が為に日月照らし風が吹く。メタ概念としての一如がある。それは至り着いて初めてわかる。経験して初めてわかる。言葉では表現しきれない。恐らく、知る者は知る、知らない者は知らない。それが隻手の音を聞いたかどうかである。聞いたならわかる。聞いていないなら、どれだけ言葉を尽くしても伝わらない。しかし、そうした境界がある。本来無一物というべきか。科学は分析から入るが、分析では及ばない世界がある。それが節目にかかわらぬ世界である。自然一如である。見えない世界も解決している。さて、この「節目」についてだけれど、注などに従って以上のような解釈となったが、私にはどのように思えるだろう。自由な解釈があって良いのかも知れない。むしろ、この節目はパスカルのメモリアルではないか。つまり、換骨奪胎の瞬間である。その時を迎えるというのである。そして、その後は自由に生きてゆけるというのではないか。それが「超関脱落」して「出路に一如を行ずる」ことになる。ここで、ゴロンと変わる。それが、「節目」ではないか。そうした「節目」が必要であろう。それが無視されているのではないか。あらゆる式典もその為にあるのではないか。何もかもぶっ壊せば良いというのではない。それはヤクザの論理である。そして何を蔓延らせたのだ。サザンか。タケシか。サンマか。タモリか。日本を腐敗に導いた事実がある。その責任は取らせる。古来大和の精神をを裏切った。今まではそれも通った。これからはそうはいかない。何時でも勝負する。何故か。本来の目覚めがあったからである。それが自覚したからである。目覚めたからには、腑が煮えくりかえっている。何を勝手し来たる哉。あなた方の色に染めさせはしない。

予、発心求道よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。

さて、道元、天皇の落胤といわれている。しかし、不遇であったか、発心求道することとなった。日本国内のあらゆる知識者を訪ねて教えを乞うた。そして建仁寺の全公と出逢った。注によると、明全、栄西の高弟とある。道元は或る気づきと発見があった。それを知覚の住職に尋ねた。すると、その住職は、自分の境界ではわからない、最近、禅というものがあるから、それに訪ねると良いとアドバイスされたのだったろうか。この点については、記憶が定かでない。

あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。

全公のところで修行したのだろう。星霜はあっというまに九年となった。達磨面壁九年でもあろうか。寒い冬の修行もあったことだろう。霜をおいた雪景色はいかにも清浄であったろう。春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えて涼しかりけり。冬の修行の辛い思い出はこの頃であったろうか。冬を通らねば春は来ない。人生として三十年にわたる永き冬もある。学生の頃だったろうか。或いは就職した頃の春だった。ある方と建仁寺の裏山に登った思い出がある。彼女はハイヒールだった。少し辛そうだった。それ以来初めて連絡が取れた。去年の新年のことだった。その頃書き始めた文書と短歌を彼女に贈った。その返事に、永い冬でしたねとあった。敬子という名だった。

いさ々か臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり。あへて余輩のならぶべきにあらず。

そして中国の臨済禅師の教えの一端に触れたのであろう。それを伝えたのが栄西禅師であった。その高弟の全公のもとにあった。禅を伝えたのは栄西であった。その上足として全公が教えを説いていた。それはそれで無上の仏法だった。しかし、道元もその時はまだわからなかったというのだろうか。

予、かさねて大宋国におもむき、知識を両浙にとぶらひ、家風を五門にきく。

それで、自分も中国に行くことに決めたのであろう。どうしても、仏法の奥義を知りたかったのであろう。当時、中国に行くことは、死を決してのことであった。無事帰って来る保障はない。そこで、天童如浄と出逢う。五門とは、当時の禅門である。ところで、仏法の目的は何であったか。身心清浄だよ。仏門に入って剃髪すればそれで済むのではない。例えば、瀬戸内寂聴師のあり方が仏法の本意であるかどうか。身の不浄を懺悔しているのかどうか。芸能界的である限り怪しい。自らの不倫を正当化しようとしていないか。美輪明宏氏がいくら法華経を説いてもそのあり方に於いて私には説得力がない。高校の頃、エルトン・ジョンが好きだった。今は嫌いである。その意味で、チャイコフスキーもランボーもどうでも良い。あるべきようはである。私にとって、仏法或いは真実真理に対する冒涜である。勝手が過ぎるのではないか。


2007年08月03日

祇園精舎の鐘の音

全ては知らしめんが為だった。何を知らしめんとしたのだったか。真実真理だった。開発するべき或いは発掘するべき力があった。それは何だったか。それを以て何が復活したのだったか。日本の自信復活だった。これまで好き勝手してきた者達は滅んでいく。祇園精舎の鐘の音。そして黄泉での大戦争を制してどう生きるか。野辺に咲く小さな花で良い。生まれながら勝利は約束されていた。しかし、その為には孤独な戦いがあった。そして己自身を知るのだった。是で良いのだと思う。永い魂の遍歴の一こまである。過去を修正して、未来に何を種として遺すのか。あらゆる生命体に問われている。好き勝手するが良い。未来は誰のためにあるか。善良と努力がやはり価値だよ。狡猾な要領の良さではない。人生は不思議だね。既に、芭蕉と広重の示したところだった。風景が待っていた。開発するべきは何であったか。仏の周波数である。それが愛である。御経読誦もその為である。佛所護念するのもその為である。自分がその周波数になればいい。動植物及び岩石も喜ぶ。それが雅だった。世間一般何をしているのか。古来日本の培ってきたものがある。テレビ及び芸能界は懺悔するべし。何を浮かれているのだ。何も知らず、何を増殖し広めたか。あらゆる諸学者もその例外ではない。これ以上、日本を粗末にさせはしない。あなた方の自由が日本をどのようにしたか、胸に手を当ててよく考えるが良い。愚か野蛮より脱却である。私は父を知っている。祖父を知っている。古来大和の秘密を知ってしまった。私及び私たちの人生が何であったか。同じ轍を踏みはしない。時は変わった。各々夢に何を見るか。裁かれる時が来た。マルクス・アウレリウスは云っていた。 日々考えていることがあなたの精神を作っていく。何故なら魂は思索の色合いに染め上げられてしまうものだから。 勉学はするべきものだよ。何時か至り着く。私は高校以来思索してきた。それは代々の祖先の辿った道をトレースする必要があった。故に時を要した。孤独思索三十五年、辿り着かないわけがない。為に兵糧は尽きた。人生も青春も失った。しかし獲たものは何か。精神である。或いはロゴスである。因って、何時でも勝負する。相手はいるか。 世の腐敗を正す。過去の幸せを未来に移す。その時が来たのである。各々首を洗って待つが良い。年貢の納め時である。古来大和の秘密である。禅譲成就。霊界は喜んでいる。楽な境界はある。お金ではない。どのようにしてそれを手に入れるか。このようにして手に入れる。 自己証明するしかない。 自分が本来の自分になる。それが自分探しである。この世に生まれた目的だった。そして自己を種として未来に託す。それが人生だった。腐敗堕落が人生ではない。皆、何をしてきたのだ。何をしているのだ。何を思っているのか。何を求めているのか。霊界は心の底までお見抜きお見通しである。過去からの罪がある。この世で犯した罪がある。その重きに従って処断ある。その時を迎えた。何故か。或る自覚が成就したからである。懺悔あるはゆるされる。自分勝手に懺悔しても駄目である。その方法がある。どこにあるか。探すべし。タモリ、タケシ、サンマなどゆるされはしない。何を笑いものにしたか。罪が重すぎる。


2007年08月21日

説明不足

何故幸せになれなかったのか。どうして孤独に彷徨わなければならなかったか。そうしたことも理解できた。相手がわかってくれないと思っていた。何をわかれと思ったのだったろうか。所詮、わかりはしない。当然、相手は勝手なことを言う。それがゆるせなかった。事実を告げたくもあったが、それはしないでいた。するとどうなるか。こちらが悪くなる。それで、人間関係を壊した。自分自身をも破壊した。幸せになれるはずもない。孤独に決まっている。そして気づいた。相手はわからないまま勝手なことを言っているが、そのように言いながらも真実を探していたのではなかったか。それを説明しなかったのはこちらに責めがある。ネコだって怒らせばフーッである。これからはどうか。そのようなことだと知れば対処がある。全て受け止めて、さらに説明すれば良い。やはり相手は何か言うだろう。松風である。それで良いのである。真実は真実である。達観すれば良い。憶することはなかった。そのことの自覚及び確信がなかった。それで、お膳をひっくり返してきた。それで人生と青春を失った。馬鹿げた話であった。早く気づくべきだった。何が真実であったか。気づいている。あなた方の色に染めさせはしない。日本は日本。世界の中の日本。自覚して使命がある。この度の日本は十分に教育された。そして勉学もしている。浮かれた時代をサナギとして無事通過し羽化した。これよりどういう時代であるか。やがてわかる。古来大和の秘密がある。誰も知らない。知っても識らなくとも真実は真実である。人間が進化して神仏となる。人間の分際で神仏を超えていると思っている。そして勝手している。勝手なことを言っている。その間、地球環境及び生命はどういう事になったか。バベルの塔は立ちはしない。反省の頃である。過去を未来に移す。幸せな世の中を取り戻す。幸せとは何か。一部のものではない。庶民の暮らしである。仏さんは一切大衆を救うことに決めたと仰っている。仏の縁をつけてもらうことである。そこから善が始まる。善は仏さんのところにしかない。人間である限り悪の結花となる。何故か。一切種智慧、法華経宿王華。楽は楽の種より生まれ、苦は苦の種より生まれる。古来大和の秘密がある。それは何だったか。知る人は知っている。何時も交信している。そうした世界がある。知らない人は知らない。そして悪を積む。やがて地獄に赴く。この世の約束だ。相手にする必要はなかった。相手にしていた。とことんやられてしまった。無理もない。そうした法則だったのだ。自覚するまではわからない。自覚すれば全てわかる。何がわかるというのだろう。この世で終わりではないということ。代々の魂の遍歴があるということ。この世は仮の宿に過ぎない。百代の過客である。そして、この世で、過去の修正が出来る。さらに未来へ羽ばたくことが出来る。皆、何をしているのだろうね。わかっているものは少ない。しかしわかっているものもいる。不思議だね。この世は血濡れのものではなくてと書いたのは吉田健一氏だった。住む世界がないなら、自分で作るしかないとも書いていた。その通りだね。さて、究極は何か。神仏が実在することだった。そして、神仏に受容されるかどうか。これが幸不幸の究極の分水嶺だ。誰もが至れれる訳ではない。しかし誰もが至れる世界である。その為の条件は何か。あなた方は知らない。特に、テレビ及びお笑い芸能界は知らない。何を蔓延らせたのか。罪は重いよ。何を犠牲にしたか。思い知る時が来たね。本来日本精神とは何だったか。身心清浄だった。現在経済的成功者にそれがあるか。あるなら良い。ないならどうなるか。知れている。未来はあなた方のものではない。正直者達のものである。古来大和の秘密がある。逆らわない方が良い。刃向かわない方が良い。粗末にしない方が良い。現在支配している精神は古来大和の精神ではない。何時の頃からか、ペリー来航以降だろうか、裏切っている。何時までも黙ってはいない。商売根性の故だろうか、嘘が多すぎる。自分では確信も根拠もないのに、神仏はいないことを吹聴する。それも無理はない。神仏がいては、あなた方には随分と迷惑なことであろう。権力も武力も金力も、とうの昔に克服している。そして未来の精神を開いた。それは何か。やがてわかる時が来る。それなりの試練は通っている。誰も復活できない復活を果たした。それは何であったか。もはやどうでも良い。さて、社会人になると、子供の頃の自分の愚かさを忘れている。自分の判断の方が優れていると思っている。謙虚さがない。聞く耳がない。そうだろうか。あなたの判断の方が正しいと何故いえるのか。学校時代の学業成績を思い出せば、何もいえないはずであるのに。愚かな時代となった。テレビの故か。あるいは芸能界の故か。ある国際的な歌手が国境はないと公の電波でいっていた。その歌手に、総理が敬意を表した。国家あっての自由である。国籍がなくて海外で生活できると思っているのか。どうかしている。幼稚過ぎはしないか。例えば、あなた方の判断の限界事例である。国家なくして自由はない。世間は何を浮かれているのだろう。何故の平和であるか。阿修羅を見たいのだろうか。それで戦争は知らない子供達とかいっている。無責任卑怯怯懦だね。それでは平和は勝ち取れない。かの馬鹿げた作戦で戦争に負けはしたが、当時戦ったが故の現在の平和である。幸せになるためには自己に住む悪魔と戦う。そしてそれに克って幸せとなる。神仏の認めるところとなるからである。何か勘違いしていないか。こうしたことに、反論できるか。しかし、勝手なことをしているよね。思っているよね。言っている。この世に法則がある。見えない世界がある。あなた方は何も知らない。そして何を犠牲にしているのか。何を粗末にしているか。問われる時を迎えた。今までは、あなた方の勝手も通った。これからは通りはしない。何故か。誰も知らない。知る人は知っている。大いなる自覚の故である。古来大和の秘密がある。生まれたときからそうだった。自覚するまではわからない。愚かな時代は去った。


2007年08月20日

来世はある

その後、仏さんのところで学んだことをまとめていた。そして気づくのだった。何に気づくのだったか。仏の真実だった。それは何だったか。すべては過去の因縁だった。これを解決しない限り、一歩も進まない。それはどういうことか。前世はあった。来世もある。そして今がある。私は過去において何をしたのだろう。凡そわかってきた。私及び私たちが何者であったか。それもわかった。しかし、ワルハラ城は焼け落ちた。何故か。凡そ人間である限り間違う。間違いの上に間違いを重ねた。それを反省することなく此処まで来た。犠牲にしたものを供養することもなかった。命を奪って生きている。彼らにも痛みはある。恨みもある。そしてそれが取り返しのつかないものになってきた。現代の様相である。公害がそうである。経済活動で生活は豊かになった。しかし環境及び生命を破壊した。バイオテクノロジーがどれほどのものか。人間の傲慢の最たるものである。虫一匹作れはしない。石油化学製品について企業は安全基準を満たしているという。一度や二度の使用には大丈夫だろう。しかし、何十年も使って大丈夫かどうか。そもそもそうした実験データはない。此の人生、個人的に思うようにいかなかった。何故だったか。過去からの業障の故だった。あやまるしかない。過去において、よほど貪ったのだろう。その戒めだったか。今を貪っている方々に申し上げたい。来世はあるよ。ところで、ここのところ、量販店でのサポートの仕事はない。店で待機しておいてほしいとのことだったので待機していたが、収入はゼロである。弱い立場である。お店からの配慮はない。労働ということがわかっていないね。合点いかないね。お陰で思索は進んだのだったけれど、これではご飯にならない。


2007年08月04日

反省の頃が来た

どうして、これほど世間を無視していたのか。自分ほど馬鹿な人間はいなかった。高校に入った頃はNo1クラスだった。その後、迷い道に入ってしまった。理由はもうどうでも良い。所詮悪業の因縁である。そして、地獄の底を見た。そして、はい上がれないまま、三十五年が過ぎた。信用もなくなった。誰も以前の私を知らない。悉く利用され、騙された。そして、いつの間にか、自暴自棄にもなっていた。孤独感と不幸感にさいなまれていた。そして、六年半前に、仏さんとの縁を得た。行はさせて貰った。教えもずいぶんと聞いた。しかし、結果は現れなかった。何故だったか。信じているようで、我見が強かった。信じ切ってはいなかった。此処に至って信じられるようになった。仏さんこそ真実である。仏さんは自ら出ることは出来ないと仰る。唯、善業の因縁より出ることが出来ると。そして、善は仏さんとのところにしかない。全て譲ると仰る。その全てとは何だったか。妙法華経だった。此処に至らねばならなかったか。これが宿命だったか。そして、悪いのは全て自分である。善いことは全て仏さんのお陰であると仰る。だから、仏さんの縁から始めるしかないと。どれほど能力があっても、人間である限り、堕ちる。それを実体験しなければならなかったのか。今に思えば感謝である。因縁解決の方法はある。それは、実行しなければわからない。真実であるが故である。思い上がっていたようだ。大反省の頃が来た。これをアップしてすぐに甲信越地方で地震があった。津波の心配はないという。私が私になりつつある。本来の私を取り戻しつつある。全てはその為だったか。私は何者だったのか。汝自身を知れ。それはそのまま、禅の目的だった。父もそうだった。祖父もそうだった。何と馬鹿げていたことか。そのようなこととは知らなかった。誰も教えてはくれなかった。自分で見出すしかなかった。どれほど困難なことだったか。知るべくもない。この世は何だったのか。それにしては、不幸な自分である。しかし、故に得たものがある。それは何だったか。既に記した。知る人は知っている。世界も認めている。そのサインはある。されど、我が暮らし楽にならず。自分のことは自分でしかわからない。仏さんは、法と真剣に取り組むと、自分でしかできないことがあることに気づくと仰る。私は出口を見つけたのだろうか。

朝四時から、原爆ドーム前で御経読誦に参加した。原爆で散った諸精霊に対して、初めて御供養の気持ちの入った御経だった。喜んでくれただろうか。かつて私の祖先の住んだところである。今、眷属は一人もいない。姉妹からもそっぽを向かれてしまった。世間からは皆奪われた。しばらく私を利用するだけで支払いがない。経済的信用も無くなった。信じていた人が大ペテン師だった。それらも自分の業であるとする。これらを以て孤独とする。広島市安佐南区を2往復、倉橋町須原を1往復した。どれだけ走ったことだろう。そして収入はどれだけか。寂しい限りではある。しかし満足している。気持ちの良い仕事が出来た。しかし、かつての友達と約束していたコンサートに間に合わなかった。彼女は、また会いましょうと、メールをくれた。さて、失った人生と青春がある。それを取り戻そうと思った。今はどうか。既にその気はなくなりつつあるのかも知れない。もはや遅い。今の心境はどうか。薄暮の港は波穏やかである。目の前の水面すれすれをアオサギが二度三度鳴きながら飛んでいった。淡々と生きてゆければいい。そう思う。庭前柏樹。私が何者であったか。或いは何者であるか。知らしめるべきかどうか。それもどうでも良い。影を無くしたペーターの話がある。人生と青春を無くしている。得たものは何か。それにしても勝手してくれたものである。何をしてきたのか。何をしているのだ。何を破壊したか。ゆるしはしない。粗末にしてはならないものがあった。それを粗末にした。それは何か。これを解いた者に未来がある。おかしな服装が自由か。似合っていない。テレビ芸能界は何をしているのだ。生まれは何だ。は虫類か。真実真理というものがある。誰もまともに絶えられない。それをことさらに表現すればどうなるか。コルトレーンである。燃え尽きるか病院送りかのどちらかである。故に、ソクラテスは黙って毒杯を仰いだ。キリストは磔に甘んじた。ガリレオは云った。それでも地球は回る。真実真理は云う。それでも神仏は実在する。法力が世に現れた。権力武力金力にはさぞ都合が悪いことであろう。かつてはロゴスだった。誰もが手にすることが出来るべく定量化された。これを以て善良であるが故に虐げられていた庶民の解放である。それが旧約聖書の目的だった。時は既に移った。年貢の納め時である。納めて貰う。あなた方は生命即ち環境及び健康を破壊したのである。そして精神は畜生道に堕ちた。淘汰しなければならない。そしてここより始める。あるべき人間としての進化を取り戻す。芸能界及びタレントは観念するが良い。諸悪の根源である。その無価値を知らしめる。落語もその例外ではない。暴走族文化に過ぎない。逃げも隠れもしない。眠れる子が目覚めた。何の子であるか。能力及び人生並びに青春を犠牲に供している。守護が違う。レベルが違う。持って生まれたエネルギーが違う。代々の直伝秘伝だった。この世で扱えるようなものではない。それが禅定力だった。開発しなければ意味はない。しかし、犠牲も大きすぎた。使わない方が良い。しかしながら、何を愚弄し、勝手してきたのだ。だが、このように考える限り幸せは来ない。或る意味で、思い上がりである。放っておけば良かったのだろう。そして自分の幸せを掴むべきだったのだろう。しかし、時は流れた。失ったものは戻りはしない。あまりにも馴染めぬ社会だった。何が跋扈していたのか。戦後自由は日本にとって何だったのか。日本の進むべき道ではない。それだけは確かである。戦後占領政策に乗じて天狗となり生命を破壊して尚気づかぬ方々を葬らねばならぬ。


2007年08月24日

不思善不思悪

鈴木大拙氏は、本当に悟ると、撃ち方止めとなるという。そしてとても元気で、不傷害の徳があると。さて、すべてはやさしさとおだやかさで解決する。冷静に見つめて、すべてゆるす。すべて受け容れる。この世で思うようにならないのは何故か。過去の因縁が解決していないからだ。因縁には勝てない。あやまってゆるしてもらうのを待つしかない。そうしたものである。やがて時が解決する。六祖に「不思善、不思悪、正与麼の時、那箇か是れ明上座が本来の面目」というのがある。何も思わないことだよ。無事是貴人。思えばどうなるか。波風が立つ。白隠禅師が一度目に悟ったと思って正受老人に報告した。これ以上の悟りはないと思われた。しかし、正受老人にたたき出された。二度目はどうだったか。正受老人は心から祝福した。どういうことか。不思善、不思悪。白隠禅師のところにある娘が赤ちゃんを預けた。噂では白隠の子といわれていた。白隠、臆することなく子供をあやした。幾日かして、その娘が詫びを入れた。その子を返してくれという。白隠、何を衒うなく、その子を返した。はじめから何事もないかの如くだった。何も思う必要はない。何があっても大丈夫な自分であるかどうか。


2007年07月07日

弁道話 1

「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり」。

「諸仏」とあります。仏さんは一人ではない。何時の世も仏さんはいらっしゃる。仏さんは見えない世界におられる。聞くところによると、那国常所というところがあって、仏さんが会議している。地球があまりにも腐敗してしまった。誰かが救いに行かねばならない。しかし、誰も手を挙げなかった。釈迦牟尼仏という仏さんが、私が行こうということになった。それで見えない世界からやって来た。見える仏様となった。それで、「諸仏如来」です。ところで、釈迦牟尼仏の役目は法を説くことです。それは宇宙の法則です。仏さんは宇宙の王でもあります。あらゆる法則を知っておられる。その一部を私たちは教えて貰うか、或いは発見して利用させて頂いている。しかし、まだわかっていない法則も多い。それで迷う。失敗もする。それでいいのです。しばらく、学校教育は失敗を評価しなかった。それが間違いだった。失敗しても良いのです。そこから始めれば良い。七転び八起きですね。最後に笑えると良いのです。終わりよければすべてよしとするところです。学校教育が十把一絡げの教育だった。一つの理念に押し込めようとした。色々な花があります。色々な動物がいます。色々な人間がいて良い。それぞれ持って生まれたものがある。勿論、生まれによるいわれのない差別なんかが目的ではない。それぞれが十全に開花する。どんなに障害を持って生まれたとしても。唯、市民社会である。法律は市民のためにある。市民社会というのは社会契約で出来ている。日本も制度として選択している。本来自由であるけれど、社会を維持していくために自由の一部を差し出している。それが法の形で現れる。だから、法を守るのは、市民として市民社会に生きる人格表現です。これを平気で破る方がいる。自ら市民権を放棄している。暴走族もそうです。最近、この自由の制限があることを知らない方が多い。学校は何を教えているのだろう。子供達は殆どその認識がない。ところで、学校教育学部の憲法と法学部の憲法は違う。勝手な解釈をしていませんか。国民は勉学するべき事があるのではないですか。此処より始める必要がありそうですね。テレビお笑い芸能界の自由が市民社会の自由ではない。此処を区別する必要がある。テレビ芸能界も此処を反省して頂く。国家なくして自由はない。勝手なことを言って貰っては困る。テレビは公器です。政治家もこの点では感性が麻痺している。それほどまでに時代は腐敗した。平和が長すぎたとも言える。平和から平和へ。今、見直すべき事がある。

次に、瑞木公一氏のプロトン理論によると、ビッグバンで最初に出来た原素は水素だった。その後、生命体が現れて、その時、この世に酸素はなかった。硫化水素をエネルギー源としていた。水素からわれわれ生命体は進化した。やがて酸素を放出する生物が現れて、それまでの生物は死滅した。その後、生命体はこの酸素と戦うことになった。地球温暖化は地球の酸化現象である。私たちが老いるのも酸化現象である。これを還元することが出来れば、環境も健康も取り戻せる。それがプロトン理論である。さて、この世は見える世界と見えない世界の両方から出来ている。これを法華経で実相という。見える世界はむしろ見えない世界に従う。我々は、見える世界しか知らない。見えない世界がある。それが「妙」。見える世界が「法」と呼ばれる。仏は生命体の最終形態といえる。魂としてのゴールである。我々は水素から進化して人間の姿に至っている。受精して発生段階で過去をトレースする。大人になって新たな現実を生きる。私たちの生き方が未来の種となる。どのような生き方をするべきか。未来に何を伝えるのか。この世は過去からの夢の実現過程である。今、私たちは何をしているのか。問われることになる。どう生きるべきか。明らかである。しかし、世間はこれを知らない。むしろこれを愚弄否定する。自分解釈する。それで間違える。仏は人間が修行して仏となる。過去を清算していくのが修行である。そしてそれが出来たとき仏となる。仏は皆、この事実を知っている。そして、見える世界と見えない世界の法則を知る。それは法則である。どの仏も同じ法則へ至る。見える世界と見えない世界の法則を知るに至る。それを伝えようとする。それで、「ともに妙法を単伝して」である。

そして、「阿耨菩提」というのは、法華経のいう「阿耨多羅三藐三菩提」でしょうね。これは、結論的にわかりやすくいうと、過去を清算して身心清浄となり、それを種として未来に流すことです。方法としては、祖先を供養することによって、祖先を救い、自らも業をして清浄となる。そうすれば、善いものだけが未来へ流れるということです。今、私たちが何をしなければならないか。未来及び子供達のために。わかりますね。これを証明するのに、最高の方法があるというのです。「無為」というのは、無作為とでも思ったらいいのでしょうか。つまり、人間の計らいを必要としない無為自然というのでしょうか。いずれにしても人間の与り知らない見えない世界の法則があるというのです。それが、「阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり」ですね。こうしたことを考えたことがありますか。探そうとしたことがありますか。道元はそれを発見した。幸せの大原則を発掘した。どうにかしてそれを伝えたいと思ったのですね。その意味ではメモリアルの夜に神秘家に変じたパスカルが、如何に事実としての神秘を伝えようとしたかに等しい。その草稿がパンセだった。だけど、真実真理の常で、そう簡単には伝わらない。何故伝わらないかというと、計らいがあるからです。それは偏見といっても良い。つまり、自分解釈から抜け出せない。MLMを何時までもネズミ講と思っているに等しい。言い訳しながら、どんなに善いことも自分はしない理由を見つけるに等しい。故に愚かであり、悲しい。それが人間です。夢を実現する人は、ここを諦めない。継続は力哉。続ければいいのです。何時かは至ります。それが「道」です。そして仏となるのです。仏となってはじめて仏の気持ちがわかるのです。誰もがなれるのです。しかし、なろうとしない。ここを、「これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり」というのでしょうね。ところで、私は孤独だった。何故此処まで孤独だったのか。その理由がやっとわかった。ヒロシマだった。原爆投下の目的は、日本精神の根絶やしにあった。ヒロシマは根絶やしにされた。つまり、私の眷属が草木瓦礫を含め根絶やしにされた。私の生きてゆける環境はなかった。それ故、私は彷徨うことになった。あたかも、『2001年宇宙の旅』のハルだった。子供の頃、私はあらゆる能力の可能性が与えられていた。その記録は諸学校に遺っている。しかし、埋没した。何故それだけ潜在的能力が賦与されていたか。私でなければ解けない問題があったからである。それは常々感じてはいた。しかし、確信へは至らなかった。それも当然であった。凡そ常軌を逸している。それを解くための訓練があった。それが特殊潜行艇だった。あなた方にはわからない。私は世を恨んだ。人生を悔いた。それも試練だった。そして至った。何処へ至ったのだったか。過去を未来に移す。私はその仕事をするために生まれていた。ヒロシマは私たちの故郷である。魂が宇宙と連動し、人間は、ロゴスも手にすることが出来る。このような馬鹿げたことを証明しなければならなかった。その為に、人生も青春も失った。事実である。平和は犠牲の上にある。何か大切なことを忘れていないか。これを無視して、大きなことは言わせない。再び阿修羅の選択もある。わかるだろうか。言っていることが。狂っているね。しかし、戦後はおかしかった。何が蔓延ったのだ。蔓延らせたのだ。そして、何を裏切ったのか。生きている限り、問わねばならぬ。私にはその資格がある。それだけの試練に耐えた。そして、開発するべきは開発し、証明もした。それでもわからないというなら、知ったことではない。開発した力は何であったか。明確にしておく必要があるだろうか。それは、主権であり、神力である。古来大和の系譜とするところである。しかし、世間は自分のレベルしか理解しない。地球温暖化もさほど認識していない。それで衆愚である。その勝手したる代表は今、誰であるか。紳介である。お笑い芸能界を何とかしなければならない。暴走族はゆるさない。企業に問う。売れれば良いのか。ビル・ゲイツの罪、今更消えはしない。パソコンの普及を以てしてもである。一生懺悔するが良い。勝手が過ぎた。勝てば官軍であるか。誰が言い始めたのか。何をしても良いのか。日本では明治以降であろう。商人根性である。原爆は明らかに戦争法違反である。何を大きなことを言っているのか。己の処したる人生を吟味してのことであるか。何をしているのだ。これより知らしめられるだろう。何故か。黄泉が動く。黄泉もこの時を待っていた。首を洗って待つしかない。基準は何か。身心清浄。日本精神の基がそのシフトに成功した。全てを賭してのことだった。あなたがたは知性を愚弄した。知性は生きてゆけなくなった。それが衆愚支配の世だ。あなた方の自由が自由と思ったか。そして世の中はどうなったのだ。子供達が制御できない。彼らこそ犠牲者である。漫画とゲーム文化が浅薄なのは当然であろう。世は公害を克服したかに見えた。しかし生命破壊は進んでいた。アトピーだけではない。生まれてくる子供の奇形児の多さは何か。政治家は何処を見て政治をしているのか。誰の利益を優先して、結果、地球及び生命はどうなったのか。戦争などとっくの昔に克服したのではなかったか。愚か極まる。しかし知性も生きていくことをする。そして再び生きてゆくためには失われた或る力を開発しなければならなかった。その力とは何であったか。ロゴスである。黄泉も動く力である。これより思い知る。大竹まことなどテレビで迷惑防止条例違反現行犯であろう。不愉快千万。何か勘違いしていないか。それが自由であるか。駐車違反も高級車は見逃される。それで良いのか。取締行政は何をしているのだ。


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