新しい時代

2009年9月30日

  • 最近、JR呉線をよく利用する。ここ2,3日、とみに呉駅の風景が変わったように思われた。とても静かで、礼儀多正しく整列して、電車の入線を待っている。何か事件でも起こったのかと思われるくらいに。時が止まったかのようである。あるいは魔法がかけられたのだろうか。家に帰ってテレビをつけてみた。別にいつもと変わらない(その後、南洋の海で大きな地震があった)。不思議だね。何が起こったのだろうね。彼はいっていた。彼の仕事は終わった。長い戦いだった。勝利したのだろうか。何に勝利したのだろうね。誰も知らない。本来日本を取り戻すとかいっていた。認められたのだろうか。そうかも知れない。彼の実力を誰も知らなかった。仕方ないよね。彼はそれを示せなかったのだから。それほどまでに自信を失っていた。辛かったらしいよ。知ったことではないね。取り戻したのだろうか。そうかも知れない。彼は今、何をしているのだろうね。彼はいっていた。e-Japan戦略があった。2005年までにブロードバンドと携帯電話の普及がそれだった。インフラは調った。そして今、u-Japan戦略の中にある。2010年までの工程表は着実に整備された。ここよりユビキタスという概念もある。すべてつながるという意味である。何がつながったのだろうね。あらゆる行政及び取引が電子化される。しかし電子は+とーの二官である。我々は五官で生きている。情報は0,1の二進法である。しかし我々は十進法で生きている。この両者をつなぐ人を、ECマスターという。さて、ホームページがある。これは情報の公開が目的である。何事にもターゲットがある。どのレベルへの情報発信であるか。その目的は何か。その時、ホームページは技術ではない。何処までも内容とデザインである。それが知性と感性である。情報は開示すればいいというのではない。情報開示の目的が失われた信頼の回復である場合もある。技術的なことを追求していると、それだけではその発信者は何をしているのかということにもなりかねない。システムに負けてはならない。私達は人間である。幸せになるために生まれた。幸福追求権は憲法13条の保障するところであり、一般条項的意味を持っている。しかし公共の福祉という制限がある。テレビ界諸君の勘違いしていたところである。何をしても良いというのではない。それが自由ではない。それは全共闘的自由だった。それでは世界が認めない。思うところをして而も法を超えないというのは既に孔子が見つけていたところだと彼はいっていた。世界もこの基準を知る頃となった。新しい時代である。夢は実現する。私達人間はここまで進化した。万物の霊長として。未来の夢も定まった。即ち、殺戮なくして平和を勝ち取る。世界が動き始めた。本来日本に秩序がある。今も昔もこれからも。無視したのはそれだった。破壊したのもそれだった。本来日本の本懐がある。宇宙にとって精神も物質も同じだった。故に無から有を生む。何か価値のあることを生むことを以て意味があると成す。本来日本の本懐がある。それは何だったのか。もういいね。彼の悲しいまでの人生があった。しかし代償の法則が働く。それがアンドリュー・カーネギー氏の最大の遺産としての教育だった。三十有余年の見捨てられた苦難の中、彼は探していた。そして見つけたのだろうか。それが彼の使命だったという。そして浙江は潮であるという。何事もないという。さて、彼の使命は終わったという。次は私達の番だね。国家戦略であるからには超党派である。第三次生物多様性国家戦略というのもある。水面下で着実に進められている。知っても識らなくても。私達はその中でどのようにして生きていくのか。明るく、楽しく、健やかに生きてゆこうね。彼はいう。日本は大丈夫だよ。未来は明るい。その根拠は示せただろうか。わかる人はわかる。誰もがわかる。いつかわかる。必ずわかる。良い時代となりました。良い時代にしましょうね。世界は認めている。世間も識る頃となった。呉駅の空気が変わった。とても清浄である。嘘よ、さようなら。バイオレンスもさようなら。愚かさも要らない。本来日本が復活する。骨抜き政策は見破られた。これまでのそれに乗じた繁栄は終りを告げる時を迎えた。いよいよ新しい時代が始まろうとしている。否、既に始まっている。BGMは『花のワルツ』。