選択の自由

2009年10月1日

  • 乗り越えなければならなかった。そうしないと、彼の人生はなかった。そして乗り越えたのであろう。佛と佛との約束がある。それは何か。あやまるが良い。あやまり尽くして何かある。何があるのか。如来が手で頭をなでるという。あるいは、限りない福を授けるという。どういう意味か。世の中の見え方がまるで違ってくる。『まるでだめお』の時代があった。それが幸せかと思われた。その時代が克服された。どういうことか。『選択の自由』ということがある。何を選択するのか。彼は選択したことがなかった。常に時代に流された。「流れに棹を差す」のではない。選択は決定だった。彼がしなければならなかった。その理由は既に示した。そして時代が変わる。世界は待っていた。黄泉も喜んでいる。知っても識らなくても、それが宿命だったのである。そしてそれはある意味で『時計仕掛けのオレンジ』だった。あの映画の仇を討つ。オレンジはオレンジ公ウィリアムだった。あるいは紀州である。あるいは静岡、広島だった。そういうこととは知らなかった。しかしそういうことだった。時代は選択された。時が熟したからだった。精査が始まった。何を精査するのであるか。この世で各々これまで処したる人生である。そして始まる。歴史はこのようにして流れると彼はいった。代々の務めでもあるという。花が咲くまで解らない。花が咲いて、その花を知る。その花は何か。結果は何か。幸せはある。喜びもある。美しい風景が待っている。心地よい風が吹く。好ましい人間関係が訪れる。

体験的に学ぶしかない

2009/10/01-02

  • かつて『古事記』があった。『日本書紀』、『平家物語』、『大日本史』があった。そして今、『日本史』である。それらは編纂された。それぞれ、それに対応する戦乱があった。『神武正統記』もあった。その頃、庶民はそれを知っていただろうか。例えば、戦国時代に、庶民は当事者であったかどうか。関ヶ原も明治維新もである。庶民の知らないところで何かがあった。そしていつの間にか、それまでの支配者が没落し、新しい支配となった。戦後はどうであるか。何に乗じてのことだったのか。常に歴史は知らないところで変革される。そして気づいた時には、既に新しい体制ができている。その中で、たくましく生きてきた。今もそうである。明治維新あるいは市民革命に等しい。知らないところでそれは動いている。それがこの世の見えない世界だった。つまり見える世界の中に、見える動きと見えない動きがある。それが重層構造になっている。その時、天下を取るとはどういう事だったのだろう。そのメカニズムが明らかとなったのではないか。究極の力は何だったのか。エートスといって良い。そのアンテナはあるか。周波数は何だったのか。こうしたことを知っていたか。体験的に学ぶしかない。これは今に始まったことではなかったのである。今も昔もこれからもそうであると彼はいう。それでは今、見える世界の見えない世界で何が起こっているのだろう。見える人には見える。見えない人には見えない。これが成功と失敗の分水嶺だった。そしてこれより、これまでの方法論が一切通用しなくなる。その準備は調った。それがe-Japan及びu-Japam国家戦略だった。善いとか悪いとかのレベルでの話ではない。故に今、最大級のチャンスである。これまで埋没していた知性達にとって。気づく頃だよ。時は来たんだよ。立ち上がれ。善良だったあなた方の時代がやっと始まろうとしている。2011年には見える形で何もかもが新しい始まりとなる。一夜城のごとくそれは出現するだろう。その時、明らかな一線が画される。新しい秩序の樹立となる。その時、何処より始めるか。常に正しい情報がある。間違った情報もある。あなたはどれを選ぶのか。悪い情報に乗ればあなたは失敗する。選んだのはあなただった。何度も失敗する。あなたが変わることで選ぶ情報が変わる。結果が変わる。考えるべきは何だったのか。それが分析であり、反省だった。少子化の今、すべての子供達が日本の宝である。知る人は知っている。考える人は考えている。そして選択する。どのレベルでの選択であるか。各々の問題だった。お金であるか。権力であるか。武力であるか。それよりほかに何かあるのか。それに気づくまでの人生がある。気づいてからの人生がある。それぞれ方法がある。まず探すべきはそれだった。そしてAction !  これより必要な考え方は何か。アイテムは何か。輝く未来は近い。その時までに、どれだけの準備をしているかだね。何処かで逢おうね。彼は微笑んだ。その微笑みは自然だった。愛であり平和だった。即ち、顔の筋肉を鍛えるとか、演技としてのそれではなかった。喜びの中にある人がいる。悲しみの中にいる人がある。何が本当だったのかわからなくなっている人がいる。これまで悪だった方々がどうなるか。既にマークされている。第三の波は成就した。第四の波が来ている。善良だったあなた方の時代が開かれた。二十一世紀の約束だった。愚かさと野蛮は滅びる。何時の世もそうだった。しかし初めに蔓延るのはそれだった。戦後もそうだった。耐え抜いたね。船は来たよ。救助船だよ。長い漂流、お疲れ様でした。彼はいつもマークされていた。きっと何かする。それはないのかと思われた。忘れ去られていた。しかし彼こそ彼だった。苦難の道があった。それもいつか報われる。必ず報われる。それは花と咲いた時だった。何の花を咲かせるのだったか。本来日本、滅し給わず。種は遺されていた。何の種だったのだろうね。彼はいう。法華経宿王華、一切種智慧。聖徳太子は知っていた。道元も最期に読んでいたのは法華経だった。日蓮だけが法華経ではない。平家納経も法華経だった。一休は師匠からの印可状を破り捨てた。何故だったのだろう。その頃、寺は腐敗していたからだった。
  • 「そして、正直、誠実、勇気、正義、自由のために戦うことの重要性がわかってきたのだった。… …We become what we think about. … …夢を実現しようと努力した人が、世界の勝利者となる。すなわち、人生の成功者とは、しっかりとした将来の設計を行い、この目標や願望のためにあらゆる努力を惜しまなかった人たちのことなのである。」(きこ書房刊アール・ナイチンゲール著田中考顕訳『人間は自分が考えているような人間になる!!』p23,25,29)
  • 国家間に於いても同じである。あの世に於いても同じである。知らなかったね。そして勝手した。そしてどうなったか。自由である。何をしても良い。何をいっても良い。イギリスに於いては善の芽も悪の芽も同じように生育に任せる。しかし『悪の花』は摘み取る。道元はいう。「花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる」。各々自由である。しかし結果には責任を伴う。何を選択しますか。そして花が咲く。何事も原因がある。本来人間は善だった。いつの間にか悪に染まる。そして結果悪となる。犯罪もはじめから犯罪ではない。結果が起きて犯罪となる。引き戻すべき黄金の橋は常に架かっている。敢えて実行するか。その時、犯罪となる。これも自然の法則である。故に刑法であった。何を懼れているのですか。己の脛に傷があるからですか。本来日本天晴れ也無不安。これが日本である。卑弥呼の系譜邪馬台国正統日本。何が蔓延ったか。御成敗である。始まったね。