真の滅度

【2009/09/04】


  • 滅度って何でしょうね。涅槃を以て滅度と思い、それで滅度を得たと思うのは、それだけでは真の滅度ではないと法華経はいいます。亦、滅度はこの世においてあります。それを悟り=體りともいいます。ところで彼はいっていました。やはり彼こそ彼だった。どういう事でしょうね。誰も知らなかったんだって。それで良いんだって。この世は十分におもしろかったっていっていました。そしてこれから始まるといっていました。新しい時代です。その時が来たのでしょうか。そうかも知れません。何か期するところがあるのでしょうか。気まぐれな彼のすることです。あてにはなりませんね。絶対の自信=神の自覚というものはこの世にあるといっていました。それは代々の自覚を要するといいます。何を無視し、裏切り、粗末にしたのでしょうね。この日本において何を以て勝手したのですか。処したる人生がありますね。霊界の裁きはあるといいます。容赦ないといいます。その時が来たのです。霊界もこの時を待っていました。それより逃れる方法はあるのでしょうか。あるともいっていました。この世に、地獄餓鬼畜生に堕ちない約束のあるお経典が顕されているらしいのです。さて、法華経の目的は何だったのでしょうか。それは諸仏が諸仏となるためのパンセ=草稿(パスカルはある夜、啓示を受けて、一夜にして大数学者から大神秘化に変容した。その時のことは『メモリアル』という文書に自ら記録している。『パンセ』は、神が実在することを庶民にどのようにしてわかりやすく説明したら良いかについて考えた草稿だった)だったのでしょうか。即ち、
  • 皆阿耨多羅三藐三菩提に於て退転せず。皆陀羅尼を得て、楽説弁才あって、不退転の法輪を転じ、無量百千の諸佛を供養し、諸佛の所に於て衆の徳本を植え、
    • 常に諸佛に稱歎せらるることを為、慈を以て身を修め、善く佛慧に入り、大智を通達し、彼岸に至り、名稱普く無量の世界に聞えて、能く無数百千の衆生を度す。
  • そして真の滅度とは、こうしたことを知るだけでは足りず、主観的にも客観的にもそれが実現することだったのです。即ち、衆に知識せられたることです。虎は死して皮を残し、人は死して名を残すとするところです。彼にもその時が来たのでしょうか。それほどの人生があったのでしょうか。不思議なほどに。どのような経験をしているというのでしょうね。そして死して後とは、この世に於いてあるのであり、それが悟りです。すなわち、大死一番、絶後に蘇るです。そして始まるのです。生きながらにして。何をしてもよいのです。実現するのは我の力ではありません。すべて諸佛諸天善神の御功徳です。つまり佛の威力です。そうした不思議があります。これは不可思議であり、人間の計らいを超えています。その時、すべてが明らかとなります。それが仏法でした。それが真実です。この時、いつまでも臥薪嘗胆的苦行ではないのです。放てば手に満てりです。何を手放すのでしょうね。そうすれば潮が満ちてくるように物質的に豊かになって良いのです。この世で幸せになって良いんです。身も心も豊かになるとは、見えるところも見えないところも豊かになります。つまり心は美しく、分相応に物質的にも恵まれます。その姿が菩薩です。美しい姿をしています。髪は結い、身は宝石で飾っています。常に慈しみの微笑です。目は輝いています。それが本当の仏法です。だから、何時までも貧しいのではありません。どうして貧しいのだったのでしょうか。分を超えて貪ったからです。そして豊かさは大自然が与えてくれます。故に自然を壊せばどうなるのでしょうね。私たちは科学の名で何をしているのでしょうね。これが真実でした。天も地も人も一体です。自然及び宇宙と人間は一体です。魂こそ宇宙とリンクしています。無駄な努力をしても意味はありません。人間の計らいだけでは、必ず地獄に堕ちます。故に創造力と普遍の愛は反力として機能します(インド哲学)。急がば回れだったのです。それを知らなかったのです。仏法は筏です。渡れば良いのです。そして幸せな世界が待っています。それが桃源郷であり、『十牛図』の第九図、第十図の伝えるところでした。また、それが般若心経の呪であるギャーティでした。これが大乗であり、仏教東漸として日本に伝えられていました。今、それは日本にしかありません。これしか救われないとするところです。そしてこの世は決して旅の恥はかき捨てではなかったのです。野蛮及び嘘、自己利益追求の世は終わりました。そして終わりは終わりではなく、亦始まりです。それが仏の第一義であると聞いています。何が始まるのでしょうか。何を始めますか。咲くまでは解らない花があるのです。秘せられた日本の花があるのでした。敗戦の故に見失われていましたね。あるいは邪魔だったですか。日本精神骨抜き占領政策がありました。それに乗じた文化がありました。迷惑なことでした。故に彼は埋没しなければならなかったのでした。そして孤独に時を待つしかなかったのでした。探さなければならない本来日本の謎がありました。
  • 【2009/09/07】さて、真の滅度とは主観的にも客観的にも幸せになることだった。つまり、経済的にはお金が必要なときに必要なだけ有り、誰からも尊敬され、心には不安も恐怖もない。確かにそれが成仏だった。「無量の世界に聞こえて」。そしてそれは亦、如来だった。このあたりがとても微妙である。微妙とは精妙であって、粗雑でないことである。ところが往々にして粗雑な方々が蔓延る。今もそうである。そして微妙を理解しない。しばらくそうした支配があった。その中で、既に身分を得た微妙な方々は傍観した。ついに身分を得ることができない精妙な方々もいる。そうした方々は例えば請求書が書けない。それで、粗雑の餌食だった。それをも笑うか。それを奇特と笑った。しばらくどういう時代だったのか。粗雑と野蛮の時代だった。そうはいかない。本当の笑いがある。最後に笑う者が一番善く笑う。笑いを哲学としたのはベルグソンだった。悲しい目をして笑う愚かなお笑いではない。そして、何時か時が来る。何時までもおとしめられてはいない。自ら本当の力を開発する。どういう事だろうね。それが亦、アンドリュー・カーネギー氏のいう本当の成功理論だった。此処に至るは希である。それは何だったのか。何故山に登るのか。そこに山があるからである。何時か必ずその時が来る。全てを知るだろう。あなたは何者だったのか。全てをいう必要はない。知る人は知っている。成功の要件がある。それが真の滅度だった。神とは何だったのか。精神だった。新井白石に『鬼神論』がある。時代が此処に至って、鬼が出ている。日本は鬼ヶ島となった。鬼退治の頃である。それはできるだろうか。できると彼はいう。何故だろう。時は黄泉の守護の故である。彼はいう。この度は黄泉が動く。黄泉の成敗は半端ではない。黄泉もこの時を待っていた。何故だろうね。不識。