Ⅱ 羅刹「天空を斬るの巻」(2006/01/17~2006/01/20)

2006/1/20(金)晴れ

裏切り者は裏切り者の傾向を持つ。自分の利益しか考えない。錯覚はそうした輩に期待することから起こる。まともな人間はむしろ少ない。まともな人間は虐げられている。本来強きものとは、持って生まれたその精神の強さを以ての故に惡を為さない。さすれば、この経済社会では、現象として弱きものと映る。しかし、いわゆる世の強きものは惡を実体として以て強きと云う、恥を知らない。心すべきところなり。惡の根源は妄念である。妄念とは嘘である。欺罔を以て強きとなすか。これより、真実正直に対する裏切りとしての惡がその実体を現し、明らかとなる。裁くは天なり。何があっても恨むことなかるべし。名こそ惜しむべし。今までとは違う。理由は、時が満ちた。黄泉の国のあるべき存在が目覚めた。真実は那辺にあったか。誰も知らぬ。知らぬを以て真実とす。しかし真実としての存在はある。世に見えないが在る。因って、Beingと呼ばれる。世の知らぬを以て存在しないのではない。但し、真実も、目覚めなくては真実ではない。眞實としての自覚を要する。これまでにも存在していた。しかし、その自覚がなかった。真実が自分を真実と思っていなかった。しかし、時は満ちた。時が満ちたとは、真実が自分が真実であると自覚したと云うことである。これは、本当である。それは、真実のみが知っている。如来も如来でなければわかりはしない。因って、今までとは違う。世の認識は見える世界だけのことで判断している。すなわち肩書きで判断する。真実には肩書きなどない。不要である。真実は真実自身が証明する。即ち、宇宙自然が証明する。これまで秘されてきた真実は、これからも秘される。それが、真実が真実であるための存在理由である。唯、身心清浄にして、眼根懺悔すると見える。これを以て、畢竟信じることが出来る。参学の事畢了とす。誰がなんと云おうと真実は真実であり、それ自体、独立独尊である。どんな力を以てしても違うことは出来ぬ。これを以て文理眞正眞實證明である。天命はある。天徳もある。代々積みおかれたものである。時が満ちる時、その威光を発する。これをおよそ疎かにすることなかれ。天網恢々疎にして漏らさず。本当である。天界は緻密であり精妙である。あらゆる記録が為されている。これにより、一切の言い逃れはない。それぞれの犯した業に従ってすべての善と悪がこれより現れる。時が満ちたからである。時が満ちたとは、ある存在が目覚めたことによって、それぞれの積み重ねた罪に対する裁きがあり、その重きにより処断されるという意味である。それは、黄泉の国であるべき事が完結し、過去より約束の存在が、その使命を果たした。つまり、それは世の辱惡を逃れ切り、孤高の精神(=日本精神、大和魂)を証明した。天はこの時を待っていた。すなわち、試合終了である。ここで清算である。あらゆる虚妄が暴かれる。寺院神宮もその例外ではない。修行者、比丘、比丘尼、沙弥と雖も己の身心で犯した罪は罪である。もはや、容赦ない。それぞれの業と罪が裁かれる。身で犯した罪は身に戻ってくる、心で犯した罪は心に戻ってくる。これが、一天四海皆帰妙法の本来の意味である。あまりにも愚かであった自分を恨むしかない。すでに、過去より説かれていたことである。自分勝手、身勝手の業である。観念するべし。但し、謝るものは赦される。これも過去よりの約束である。厳然として、真理である。それぞれ身に覚えはあろう。それが裁かれるのである。理由は、天界の約束が成就したからである。天知る、地知る、人知る、我知る、諸精霊知るである。これからでも遅くはない。身心の懺悔あるのみ。天王佛がその試練を果たし、使命を成就したのである。虚言ではない。天と地がつながったのである。天に意思が通じ、自然界が歓喜する時を迎えたのである。天も自然界も刮目する時を迎えた。すなわち、天界、自然も目覚めた。時は至った。眞實である。 (2006/01/20 20:57 NHK-FM ルツェルン音楽祭2005クラウディオ・アバド指揮マーラー作曲交響曲第7番「夜の歌」を聴きながら )

『木々は光を浴びて』は森有正氏の本だった。氏が全集補遺で云ったのは「経験」であった。経験を通してのみ、真実は見えてくると。光を浴びた松は常磐色である。光と陰を含む松の姿は美しい。裸子植物の美しさ。銀杏もそうである。メタセコイアもそうである。過去より、美しき姿を求めて、生命体は、それぞれの旅をしている。人間も。しかしまだまだ醜い。自分解釈で、美しい姿もゆがめている。同じ一つの姿を見ても、ある人は、美しいと云い、ある人は、邪念の故に、畜生の目を以て見る。同じ人間の姿をしているが、違う。木々と完成して、植物の時代は終わった。獣は、そのままでは美しくなれないことを知って、人間として進化しつつある。その目的地はどこか。こころの清浄である。それは、始まりの時に持っていたものでもある。鮭は、やがて、生まれた清流に帰る。魂の遍歴の姿である。まだ、過程の方々には見えない。それも当然ではある。しかし、淘汰される。自然の掟である。これを知った方々が、今までにも、あまたゐた。しかし、かれらは現実社会より虐げられた。これが、現実社会である。しかし、黄泉の世界が別にある。今、時が来て、人間が新しいステージへ移行する。そのために、水面下では、すでに、準備は完了し、新しい方向へ進み始めた。それは、見えない世界の意思が、見える人には見えてきたからである。戦争も世のリーダーの意思決定で起こる。これを止めることが出来ないと思われてきた。否。真のシビリアンコントロールの時代の到来である。何故か。しかるべき存在が、その意思を獲たからである。真の主権在民、国民主権、これより実現する。時代はこのようにして流れる。歴史とは、氷河のように、人間の意思とは無関係に、あらゆるものを飲み込んで流れる、といった趣旨のことを、小林秀雄氏も云っていた。宇宙、自然の意思と合致した魂の存在があることを、人間が知った。本来清浄のゴールが見えた。悪魔の実体も見えた。大丈夫である。必ず勝てる。生きることはかくも美しいと云うことが出来る時が来る。未来は明るきから明るきへ。心の地平はすでに開拓されている。地上ヘブン=世界は勇気ある挑戦者=パイオニアを待っている。限りなくエールを贈っている。少し辛いが、乗り越えることが出来る。自己との戦いを経て自由となる。先往く者として、若者たちに伝えたいことである。以て生まれた良い種と惡い種、惡を焼き尽くして、良い種を蒔く、花と咲く、人生は明るい、社会はそれを扶ける、自ら助くる者が助けられる、惡の根は抜かれる。ギャーティ・・・勝てり、勝てり、我は勝てり、自己との戦いに勝てり、自己との戦いに勝ってはじめて人は人の師となる・・・御経は良薬である。そのエートスに触れることで、心が、清浄となる。良薬とはそうしたもの。文章もそうである。美しい文体というものがある。それもまた心の良薬である。心がこころとなる。勇気を与える文章もある。軍歌のような文章である。今必要な文章とは何か。音楽も然り。しかし、無意味な文章もある。唯、売れるとよいとする傾向の文章である。それが、流行作家の文章であったりする。そのいぎたなさに読めないことが多い。それでも売れるから不思議。しかし、惡舌は功徳の種を断ずる。何事も惡口は言わないがいい。そのための婉曲もある。しかし、云わずにおれない時期もある。数学の証明に、公理と定義と定理がある。公理はいわば自然法則で「一」である。定義は、「科学」として解明された法則である。これらは、証明を必要としない。これらを使って、定理は証明される。定理とは、「技術」と言えるかも知れない。この定理も一度証明されるとそれ以上証明は要らない。使って良い。そして、次の定理へ進む。個々の定理=技術が次の定理=技術を産む。人間の英知の連鎖である。これをすることができるのが、人間の知性である。しばらく、こうしたプロセスが機能していない。むしろ、こうした知性を知らず、無視し、食い物にし、笑いものにし、辱めてはびこる者たちが、尚はびこることが出来るほどの時代だった。しかし、時を経て、それも限界に達し、こうした段階は去った。それは罪=都美と定められた。あらためて辺境に秘かに命脈を保っていた知性の時代のはじまりと云うべき所以である。文明は知性によって作られる。文化は情緒(じょうしょ)によると云うべきか。日本は本来格調高い精神の國である。いつまでも、がさつでは堪えられない。ここ(古来日本精神)への侵略は赦されない。

 満たされてこころこころと知れる春われひとともに生きて生きてむ

 限られたこの人生に謳歌せむ陽ざしの下にて咲かむ春の花

 人の世の悲しき定め嘆くより定めを越えて春花咲かむ

 過去よりの因縁確か存在す敵味方知れて解くははじめ

 悲しみは自己の解釈知れたるを神をえ知らず神を敬う

 ゆるしとはゆるすこころに訪れるこころ無視してゆるしえられず

 軽薄のこころこころにあらずしてそれでもこころおろかにまもる

 大いなる因縁解ける頃なるは敵と味方とあらわれきたる

 こどくなる長き旅路にわけいでる過去の因縁しかと知りなむ

 これまでの人生何故逆流の理由をとける過去の因縁

 封印をとかれし後の春なればすべて流して新たはじめむ

 すべてよしわろきもよしとする頃にとこしえの冬越えて春来る

 かくなるはもはや勝利と定めたりすべて水にぞ流し去りぬる

 かくなるを闘い抜いて天も笑むほがらかなりしすべてあけゆく

 因縁はかくもひそかに悪魔なるよほどのことと思い知るべき

 しかしなお確かに耐えて耐え来たるこれにて一件落着落着

 これよりは閑事一切かかるなし我は確固と孤高に松

 しかれどもこの世の定めおそるべしおろそかなかるべしとなむ

 日の本にカクネンムショウの春は来てわれははじめて息をしている

 なにもかもうしないおはり春の来るこの世の試練たれぞ知るらむ

 これだけのうたがいもはやあることなけんわれはわれにてはじめての春

われはある春はあるひとつの因縁とけてある人生にあるはひとつの因縁一個の人間として負いたるはただ一つの因縁有るとしるべしかわれときてはじめて得てんこれより一切カクネンムショウこの因縁とくは少なしとくべき因縁ひとつなるこれをとかずして椿咲くこと無しとくとはとかせることなり解決因縁とくことができるはたれか因縁かけた者なりかけられた者は自ら解けぬかけたものがとかねばとけはしないこれが究極の真理である因って自ら作った因縁おろそかなかるべしかけられた因縁はかけた者に請求してとかさ令むべし敵味方味方敵勝たねばならぬ定め有り勝つ方法有りトロイの木馬尋常世界の知らぬ因縁世界の戦い有り勝ちて日の照る頃ぞ来る天下に闊歩の始まる時節来る憂いはかくして晴れるこの戦い熾烈きわまれりとくべき因縁は唯ひとつなり過去よりの定めなり事由なりこれを勝ちて天晴れとは申すべきものなりと知るべし因縁はひとつのみとしるべけん

 長き冬とこしえ晴れて春ぞ来る因縁一つとかれて我あり

因縁というものがある。因縁はかけたものがとかねば、かけられたものはとくことはできない。これが因縁である。国家間も然り。身が正しければ、どんなことも怖れることはない。因って憂いはない。悲しみはない。これが天晴れである。天も照らす。自分の利益のみを計る裏切り者に用はない。一切邪魔立無用。本末転倒、本来帰還、時は天、時は移った。日天子、月天子、清らか明白の時代である。これに反しては一切亨らぬ。時は代わった。天が目覚めたと云うべきか。新たな戦いの火ぶたが切られたと云うべきか。仁義なき戦いどころではない。鬼ヶ島。桃太郎見参。畏るべし。旗頭は立ってゐる。フラッグシップは動き始めている。海賊ではない。本来の大和である。もはや霧島ではない。的=敵はすべて見えている。制空権はすでにこちらにある。刃向かうは刃向かえばいい。自然=万軍の主も味方についた。およそ、すでに、決着はついている。それでも刃向かうものは出てくるがいい。これが古来大和の戦いである。時=天は待つべきものかは。こころの清きものは幸いである。身の清きものは幸いである。ここしばらくの自分以外を犠牲として自らの利益を計るあらゆる方法論は通用しない。時が来たのである。理念が進化した。基準が変わった。あらゆる理念が実質化する。妄念=嘘は裁かれる。・・・羅刹も大変だね。まだまだもの足らぬ思いはあるだろうが、「羅刹空を斬るの巻」もそろそろ終わりだね。しかし、この戦いを具体的に始めたのは何時のことだったろうか。今日を以て、終わりである。


2006/1/19(木)

先ず、ライブドアショック、側近の自殺者まで出た。某新聞は、閉塞していた若者に夢を与えたとして、その部分は評価すべきであるとの論調もある。私はちがう。どんなことがあっても、法を犯してはならない。さらに、部下に死人を出すとは何事か。それで、何を気取っているのか。かつてあったテレビドラマ『コンバット』の軍曹を思い出すがいい。このライブドアショックで、世界の株式市場も、株価が下落した。しかし、恐慌とはならないだろう。このようにばかげた原因で、世界の基盤が崩れるほど、世界の基盤はもろくない。また、今、日本は、精神が換骨奪胎されている。少し前までの日本ではない。大丈夫である。右往左往する者はすればいい。ここで、むしろ、法治国家としての日本の健全性が再認識される。厳正に対処することで、日本国家は、あらためて、文化国家であると、世界に知らしめることが出来る。日本の国家としての安全性と知性が示されることになる。それは、かつての児島惟謙(=司法の独立)に等しい。そのように、動くべきである。今、コンプライアンスを以て、現代資本主義社会は展開している。この現代社会において、皆が守ろうとしているルールを無視して、通すわけにはいかないだろう。雨降って地かたまるとしたいところである。

さて、善悪があり、寒暖がある。陰陽があり、男女がある。プラスとマイナスがある。妙と法がある。事実と感情がある。それぞれに、程度の大小がある。また、それぞれに、例えば、男の中に、女傾向があり、女の中に、男傾向がある。縦の関係と横の関係がある。甲説と乙説がある。問題は、自分が、今、何処にいるかである。線として、両端からどの位置にいるか。xy_座標軸の中で、第何象限のどこにいるのか。あるいは、立体座標軸においてはどうか。三次元は、縦、横、高さであるが、四次元では、時が加わる。五次元では、重さが加わる。六次元では何か。心か。七次元では何か。神か。八次元では何か。無あるいは空である。九次元では何か。自然である。十次元では何か。宇宙である。さて、人の魂の段階も種々である。仏は十界を説く。即ち、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天(=神)、聲聞、縁学、菩薩、佛である。そして、人間は人間界に属するが、これが、十界互住で、それぞれの界の魂が集まってきている。本来、魂レベルでは、平等でない。で、自分の位置である。下から上はわからない。上から下は、すべて、わかる。人間であるということは、不完全であるということである。ここで、人間は、与えられた考える力と選択の自由で、それぞれのマイナスをプラスに変えることが出来る。人間だけに与えられ特権であり、チャンスである。さて、どの方向へ進むべきか。例えば、男は女に、女は男に、足りないところを求める。それで、出会いとなる。そして、それぞれのレベルでの出会いが好ましい。レベルが違うと、多くの場合、破綻=離婚する。人生の目的、すなわち、生まれてきた意味がここで見えてくる。何事もバランスが大切である。バランスがとれることで、安全であり、楽しいことばかりとなる。今、一番大切なバランスは何か。見える世界と見えない世界とのバランスである。これを無視しては、ほかのどんなバランスをとっても、無に帰する。それぞれ、何処に位置しているか。そして、距離感は正しいか。目覚めて、こうしたことが、見えるようになる。これをもって智慧あるいは器とする。それは必要によって時々に満たされる。不必要になれば、空ぜられる。このメカニズムを体得することが、勉学である。今を生きるための勉学あるいは学問である。目覚めていないと、他者の餌食となる。必要に応じて、いかに獲物を得るか。技はこうして磨かれる。究極は、自然を味方につけることである。しかし、そう簡単ではない。前世からの約束も必要だ。即ち、自分は何者か。さて、善悪がある。寒暖がある。善は善のままで良い。惡は善に変える。暖かいのは暖かいままで良い。寒きをあったかくする。いつも、ほほえんでいることの理由がここにある。もはや、悲しむことはない。心に灯が点る。常にあったかくゐることができる。自分があったかであれば、周りもあったかとなる。自分に心の灯が点ったら、悲しい人にも分けてあげると良い。灯はいくらわけてあげても、減りはしない。智慧も同じである。惜しむことはない。増えるばかりである。周りが幸せであれば、その中にゐる自分も幸せである。そして、誰もが悉有仏性だ。だれもが暖かさを知っている。何時もあったかでゐたいと思っている。悲しみの原因を除去すればいい。暖かさだけがのこる。この悲しみの原因の除去がいわゆる因縁の解決である。意味のないことをしないことだ。不幸の原因を作らないことだ。無意味なことはしないことだ。それが、人間。文章の目的も、意味を伝えることにある。相手にわかって貰うためだ。所詮一人では生きてゆけない。仲間を呼ぶために。救助を求めるために。通じなければ意味はない。天に通じる方法もある。嘘がないことである。人間は変える力を持っている。自分自身をも変える力を持っている。試してみる価値はある。皆、幸せになりたいと思っている。そう思って、あるいはタレントになり、あるいは政治家になり、あるいは科学者になり、あるいはサラリーマンになり、あるいは経営者になる等している。過去に描いた夢を実現しようとしている。この過去とは、前世を含んでいる。己の中にある種から花を咲かそうとしている。種は、自分が持って生まれたものである。そして、現世での生き方によって未来の種が決まる。松は松、櫻は櫻。また、さなぎを通って蝶となる。蝶となれば、さなぎは必要ではない。青虫の頃も関係ない。蝶は蝶となって自由である。蝶が飛ぶ時花が咲いている。花が咲く時、蝶が飛ぶ。これが、自然である。さなぎは、若き頃の試練である。試練を通って自由となる。自由となれば、試練も懐かしい。憂い無き自由を楽しむがいい。花は咲いている。さて、さなぎの時代に、妄念を焼き尽くし、透明となったからには、自由であっていい。花咲くまでは、あらゆる学問も、肥やしに過ぎない。

 宿命の火をくぐりたる不死鳥の春は来たらむ冬を越すらむ

その後、李文烈著『皇帝のために』をあちらこちら読んでいる。面白い本だと思う。一般に物語は物語であり、現実ではないと思っている。漫画も漫画の世界であり、現実ではないと思っている。インスピレーションが何であるかを知らないのだろう。どこからそのイメージを得るのか。何故、そのような表現が来るのか。夢に等しい。書かされているのである。書くために選ばれた存在が作家である。書かされているなら、書かせている存在がゐる。作家及び漫画家も化人に過ぎない。しかし、悪魔に書かされている作家もいる。本来は清浄である。汚すものは誰か。「汚れ」を知ってのことか。「晴れ」を知ってのことか。もはや、時代の総決算の時である。あらゆる花が咲いた。選別の時である。・・・いつもの羅刹か。はびこっている君たちはどちらの眷属か。天命がある。見えないからと云ってもあるものはある。天機は漏れるのではない。天機は来るのである。時が至るのである。それでも刃向かうなら刃向かうがいい。天は容赦ない。天とは自然である。宇宙である。自然、宇宙にも意思がある。今まで見えなかっただけだ。しかし、時が至ると、それも見えてくる。それが秘要の蔵である。あらゆる秘密は秘密であるが故に秘密である。しかし、秘密でありながら、事実である。如来である。見えないが有る。決して、表には出ない。しかし、知る人は知っている。問題は、知らないことを以て無いと思うことである。これが、罪となる。地球のコアが見えるか。見えないが、コアはある。あまりにも無知蒙昧であり、それを気づかずに犯した代々の罪がある。畏るべしとは、これである。そろそろ、観念する頃だ。・・・羅刹よ、お前はさぞ辛いのだろうね。お前の願いはわかっている。民草の真の救いを願っているのだね。命を惜しむべしと。命とは、天からの命令である。戦うべき相手は自分自身である。心である。それをおろそかにして、悪魔に身を売ったのが、世間一般である。自己と闘い抜いては居らぬであろう。それで、大人と称して、過去よりの畜生道を人生としているのであろう。祖先と同じ轍を踏んでいる。未来は明るい。しかし、その未来は、己に勝利した時だ。これは、教科としての道徳ではない。天の定めた天に徳を積む道である。それを自分解釈してやりたい放題、あげくは、それを正当化し、それに反するものを犠牲とした。明らかなる断罪である。罪は断たねばならぬ。日本語を無視した世間一般、そろそろ、年貢の納め時とは、本来の日本に帰することである。そして、真の自由を獲ることである。世間一切、この罪、犯さざるは無い。いい加減にしなければ、天は、本当に動く。知らしめんが為に、である。・・・羅刹、云いたいことはそれだけか。・・・古鏡。鏡とは、見える世界一切が鏡である。こころの鏡である。実相である。この世界が腐敗したるは、今、世間でいる者たちの心の鏡である。古郷。かつて清浄であった心のふるさと(日本純粋精神=大和魂)へ戻らないか。今から始めて十分である。決して遅くはない。だれもが心のふるさとを持っている。生まれてきた場所だ。死んでから戻ったのでは遅いよ。往生してからの極楽よりも、現実世界での極楽がある。心の地平だ。早く目覚めた方が勝ちだよ。最後に笑うものがよく笑う。誤魔化しの笑いは笑いではない。笑いとは、あらゆる悲しみ、悩み、憂いが払拭された、秋晴れのような心だ。それは、人間でありながらにして至れる。大人と云う時、それを諦めていないか。地上ヘブンはある。すでに、至っている方々もいる。畜生道を逃れた方々である。かれらは、決して、世に言う、成功者ではない。勝ち組ではない。しかし、かれらこそ、掬われた存在である。幸いの人である。そろそろ、気づく頃だよ。二千年来の約束だよ。


2006/1/18(水)

何だか、とても疲れている。戦いをしていたようだ。しかし、今、とても落ち着いている。そして、どんなことも許せるように思われる。何があっても良いように思われる。所詮、人の世だ。色々あって良い。いろいろな花があるように。すべては、そうした存在である。それに対して、例えば、善惡の詮議をしても、所詮、その存在はその存在であり、その花はその花である。楽しむべきを楽しめばいい。何かを不愉快に思うなら、云うべきは云い、それについて、それ以上、自分が悩まされないことだ。自分は自分で咲いて居ればいい。咲いて始めて自分の空間が形成されていくべきもの。咲くまではつらいが、咲けば、楽のみである。楽のみであるのなら、楽のまま咲いているのがいい。もはや、自己一身の諸問題は解決したのだから。生まれてきた意味もわかったのだから。そのまま、咲いているのがいい。何もかも、あるべきようにある。それでいいのです。吉田拓郎も歌っていました。お先にちょいとごめんって。所詮、自分の思い通りではない。それでいいのです。あらためて、良寛さんとか一休さんを思っている。ダルマのことも。道元とか日蓮とか親鸞はさぞ辛かったであろう。飄々と生きてゆけるなら、それでいい。もはや煩いが無いなら、これから未来に向けて、煩いの種は蒔かぬ事だ。蒔いても、芽が出れば摘むことだ。煩いを煩いと知ることで、それも出来る。惡の芽は摘む。惡の根は抜く。抜いたら、二度とその種は蒔かぬ。そして、淡然と生きていく。清らかな諸是相の方々と生きていく。よく見ればなずな花咲く垣根もある。微風も吹いている。自己の感性が空ずられると煩いはない。嵐の夜には雨宿りの場所はどこにでもある。所詮、惡の人間世界に、染まることはない。代々の、この世の始まりからの、本来の世界があって、それを見つけたのなら、そこに、棲むがいい。野に咲く白い花は美しい。

 幸いの白い花は野にありてそのままありて風もふくらむ

しかし、因縁とはいえ、かくも美しき世界があったとは、知りうべくもなかった。この心の風景がそのまま、周囲=世界の風景だったとは。これが、眼根懺悔だった。確かにいたりついたと云うべきか。まだ、信じられないくらいの、見える世界と見えない世界の合致した世界である。それは、スートラとしての垂直な流れ=歴史的なものとしてである。見える世界=横のつながりでは、失ったものは大きかったが、これも、教えの通りであった。身心を投げ出して獲るべき世界ではある。この投げ出すと云うことも、自らの意思と云うよりは、導かれていたのだった。思えば、長き冬、過酷な運命ではあった。だが、今となっては、すべてに対して感謝しかない。宿命というは易いが、よくぞ、ここまで、純粋に、堪えたものではある。冬来たりなば春遠からじ。春はもうすぐであることを確信している。あらゆる迷わし=悪魔は逃げまどい、ゆるしを乞うている。戦いは終わった。丙丁童子来求火。天下平定である。真実正統歴史絵巻である。 現在、過去、未来はつながった。生まれてきた意味として、私にしかできなかった仕事としての使命は果たした。証明もした。知る人ぞ知るである。身心を賭して命を獲たと言うべきか。もはや過ぎ越しに未練はない。十分である。いずれにしても、平安な未来がありそうで、楽しみである。ロゴスとはこうしたものだったのだと、今、思う。これで良かったのだと思う。透明な空気が戻ってくる。辱惡の世に。シベリアの地あるいは南海の波に果てた方々のお陰と言える。大和の魂は、本来、清浄である。清浄とは名を惜しむかつて戦った武士たちの心である。今は失われし日本精神である。

 自ずからほほえみもれてミューズごと住みてありなむ静かなる朝

かつて人間のために火を天界より奪った神がいた。そして、人間は、その火を獲て幸せであった。しかし、原爆が落とされて、その系譜が失われたかのようであった。しかし、フェニックスは火の鳥、不死鳥である。蘇った。そして、次に、人間のために奪ってきたのは、思いが天に通じるという如来の神力であった。これで、人間が本当の幸せを獲ると思った。H=ヒロシマの系譜は、ヘラクレイトスだったのだろうか。その為の試練はすでにくぐり抜けているという。それは、そのまま、シャーマンの系譜であるらしい。 さて、ヘラクレイトスの意図は何か。これに合致する時、すべては、ゆるされ、実現する。反すれば、引き返すしかない。新しい宝島。謎は尽きない。幸せ世界はすぐそばにある。過去からの約束だったあらゆる夢が実現しようとしている。ほんとうの愛の園、一つの平和な世界=王国である。幸せの青い鳥は帰ってきた。その地は、ホーム。青い空と白い雲。自然=周囲がパステルカラーで歌い始める。悪魔はしっぽを巻いて逃げまどう。心の地平が開かれて、戦いすでに終わりたる、これより始まる世界には、刹那欲得のがれぬき、真実一路、戦いし、勝利せし花ぞ咲く。 ・・・日が差してきた。遠くでぶきっちょカラスも鳴いている。滑空するカモメが水面すれすれに弧を描く。数羽、鏡のような川の水面に浮かんで泳いでいるカモメもいる。豊かに魚も戻ってきた。・・・日がさらに明るく差してきた。何があっても大丈夫、私が護る、と云いたそうに。日天子の声が聞こえたような気がする。穏やかな日である。しかし、意志を持ったかのように、その光は、クリアである。鶴は恩返しにハタを織る。かぐや姫は生まれながらにしてかぐや姫である。心に灯を点す。世界が見えてくる。世界に溶けこむことが始まる。ダンス、ダンス、ダンス。こころとこころが踊り始める。幸せのリズムを刻んで。光を浴びて。 ステップは軽く。身と身は触れず触れざるダンスが始まる。インスピレーションとインスピレーションが、手に手を取って、迦陵頻迦と迦陵頻迦が歌ってる。遠くで鐘も空ぜられた透明な音をして鳴っている。これが、日々是好日ですね。悲しむことなかれ。

 時はまつ何時しか光輝けむ灯り点りてそよ風の吹く

ところで、イラクで亦アメリカの女性が拉致された。イスラエルとパレスチナと同じように、イラクでの戦いは続くのだろうか。日本の場合、敗戦したとき、潔かった。それで、新しい世界に合流することも出来た。戦いにおいて、世界の流れがある。棹させば流される。心の中の場合はどうか。橋は流れて川は流れずという。自然が上だと云うことなのだろう。流れにどう乗るか。カモメのように飛ぶ事が出来るかどうか。飛ぶ時には、考えるのではなく、よく観察して、瞬時に判断する。覿面提示、電光石火。考えない方が良い。運動行為。反射神経。読書、学問においても本来然り。真剣勝負。読書即道場における極意と云える。脳内を常に清浄に涼しく保つ。幸せの周波数を発するようになる。一朝一夕にはいかない。これが愛であり、ハートである。愛は概念としての言葉ではない。自分の発する周波数で自分自身が変わっていく。すると、周りも変わってくる。不思議の世界が始まる。日天子も証明してくれる。 いつも、穏やかな空気の中にゐて、新しい自分を発見することになる。いつも自分が周りの空気を作っている。幸せ(=関係)は自分が作るものである。自然及び現象が鏡である。これが、現成公案。そして、諸法実相。実相とは、見える世界と見えない世界と両方から成っている。嘘は見抜かれる、或いは、染み出す。見える世界は誤魔化せても、見えない世界は誤魔化せない。人間だから間違うことはある。その時は、謝ることでゆるしてもらえる約束である。思い違い、勘違いはある。それに気づける自分でありたい。身勝手(=自分解釈)はこれより通らない。見えない世界が実効力を獲ているからですね。

ライブドア本社が家宅捜査された。経団連会長も、認知するのが早すぎた、除名もあり得る、と発表した。火のない所に煙は立たない。日本の場合、検察が動く時、九割以上、有罪となる。捜査の端緒はどこからでも良い。実体的真実の発見がその任務である。地検特捜部は、自然犯が対象ではない。企業犯罪等、民主主義制度の存続に関する根本を蝕む犯罪に対する。法治国家として、検察の意義は大きい。ところで、ライブドア内での仕事は七割出来ればそれでリリースされる。スピードは200%要求される。あとは、ユーザーからのクレームを適当に処理しながら完成させていく。これが、現在における成功理論となっている。その始まりは、マイクロソフトのwindowsであった。確かに、完成されたものは社会にとって利益である。しかし、問題は、そのプロセスにおいて犠牲とされた存在がある。これが食べられたものの諸精霊と同じく黙っていない。認められることなく葬り去られたままだと、いつか動き出す。謝っておくことである。彼らは、彼らの存在を認めて貰いたいと思っている。そうすれば、喜んで成仏する。しばらく利益至上主義者が忘れていたことである。利益あるところ損失がある。これが資本主義が成立するための根本原則であった。これより配慮されるべき所である。他者を犠牲或いは利用して自らの利益を計り、他者を顧みることの無いままでゐることはできなくなった。悪魔もその実体を知られるとしっぽを巻いて逃げまどう。幽霊の正体見たり枯れ尾花。現代の成功理論も、その実体が明らかになった時、通らなくなる。家を建てるのに、七割の完成で引き渡しが出来るのかどうか、考えてみるとわかる。アフターサービスとかクーリングオフとかが云われる時、あまりにも時代錯誤している成功理論である。これを以て真の勝者とは云えない。智慧を使うのは良いが、脱法行為は必ず破綻する。正々堂々、正直に勝負したいものである。以上、飽くまでも、一般論である。ライブドアは脱税(20億円を超える粉飾決算)の嫌疑も発覚した。

智慧には仏の智慧、如来の智慧、自然の智慧がある。仏の智慧は佛所護念することで獲られる。如来の智慧は御経讀誦で獲られる。そして、自然の智慧が獲られることになる。智慧を獲るにも順序がある。さて、自然の智慧とは、人類の英知である。見える世界で、この智慧を使って、社会を作る。知性の仕事である。ここしばらく、これがなかった。何故なかったかはもはや良い。これからのことが大切である。

 雲晴れて日月天子清らかさ満天の空星乃雨る夜


2006/1/17(火)曇り時々晴れ

呉市立図書館で本を借りた。1.講談社刊、李文烈著、『皇帝のために』、2.岩波文庫、トルストイ民話集、『イワンのばか』、3.平凡社刊、中国古典文学大系28、『水滸伝(上)』。

昨年11月26日より始めて、『真説21世紀幸福論』と名づけて、昨日、1月16日をもって、一つの区切りとした。自分としては、大きな、確かな鉱脈を得た。掘れど尽きることのない鉱脈である。 丸山健二氏の云っていたのはこれであったと思った。人として生まれて、探すべき最高の鉱脈である。本来の自由を得るために、探すべき究極である。これを以て大安心とすることのできるものである。それは、空閑=荒野に生きる術であった。しかし、まさか、自分が、これほどの宝をみつけることができるとは、思っても見なかった。唯、諸先哲、諸精霊、諸祖先に、心より、感謝申し上げる次第である。