Ⅳ 新しい始まり(2006/1/22)
2006/01/22 新しい始まり
昨日、昨年11月26日より始めた一連の作業のエピローグとした。自分でも思いの外、成果を得た。長年、ある意味で、棘のような何かにさいなまれていたのだが、期せずして、その棘がとれた。やはり、何事も、勇気を出して、試みてみるべきであると知った。そして、自分とは何者であったのか、およその見当もついた。およそ、それも、ここまでとは思わないものだった。ライブ的な作業であったので、知る方々は知ると信じる。さて、私の得たものは何であったか、もはや、秘密とする。その方が、現代においては、穏やかと信じるからである。さて、この戦いは、何時始まったのであるか。おそらく、生まれた時から、運命づけられていた。そして、その試練あるいは使命は果たし得たと思っている。今更、表現しても詮無い。しかし、この価値、世間の知るべくはない。永遠の秘密である。知る人ぞ知るのみと。ところで、昨日までの一連の作業は、確認的作業であった。それが何であったか、何故必要であったか、これも知る人は知っていると信じる。また、この意味、殆ど理解しているつもりである。故に、一切は秘密無銘に帰すべきと信じるところである。さて、このようなこと(過程としての自己の確認作業)も、これで終わりとする。これより何をするか、思案している。使命としての何かあると知っている。それも、さらに探さねばならないことも。願わくば、二度とまどわしの手に落ちること無きことを。落ちることはない。これより探すべきものも、およその見当はついている。やまとの未来のためである。所詮特殊潜行艇である。あるいは深海2001である。もはや己の使命は了解している。あらゆる既存の謎は解いている。既存のことはもはや発表するつもりはない。相手は黄泉と知っている。隠されたあるいは秘された歴史をすでにその謎解きおはり知っているつもりである。以上、報告である。しかし、現実の救助船を待っていることも確かである。しかしまだ漂流せよ、と云うことか。ならば、する。しかし、あだやおろそかなることなかるべし。なかるべし。すでに、謎は解きおはりてあり。あらゆる試練は導きにより通りおはりてある。畏るべしとは告げおかむ。すでに自己は解決せし故のことなり。あらゆる迷わしをすでに撃退している。妙法華経の故なり。すべては妙なり。見えぬ世界での出来事なり。見える世界の欲望には非ず。見えぬ世界でのことなり。見える世界の浦なり。余はすでに知っている。違うというなら、余は余の力を示す。その力とは、如来の神力なり。自然の力なり。あらゆる秘密の力なり。現実世界の決して与り知らぬところなり。文学の精髄なり。表現せよと申すならする。如何とするか。断罪せよと申すか。自然の力なり。如来の力なり。佛の力なり。余に何をせよと申すか。悉く暴くべしと申すか。さすれば、人の世は終わる。いい加減にするべし。すでにそれだけの力は得ている。真実である。おい、羅刹、大丈夫か。 これまでとは違う。その理由は、縷々説いてきた。さて、今まで犠牲となった中に、宝がある。竜もいる。宝が明らかとなり、竜が自覚した。この力は、万軍の主を味方につけた力である。敵の姿も見えている。今までは見えていなかった。現実事実として、敵は敵である。ここまではこの力が自覚する時を迎えず、敵が見えなかった故、それを無視し、配慮することなく、勝手が通った。しかし、これからは違う。刃向かえば手痛い懲らしめがあることを肝に銘じ置くべし。天の力である。自然の力である。如来秘密の力である。天及び自然が原動力を得た。その内燃機関に火が入った。すでに、あるべき姿は提示されている。自己の内面に正直であることによって、天及び自然の意思に合致する。天及び自然の意思に反すれば、サンクションがある。その重きによって処断される。情報制空権はすでに獲られている。これまでは、見逃された意思と行為も、これからは、天及び自然に知られた限りにおいてではあるが、もはや、容赦しない。天及び自然の目及び耳の前に於て、少なくとも、愚行あることなし。今、サンクションなきを以ての故に、その横暴、しばらくあれど、やがて、それらのこと、現実に現れる、その時は観念すべし。理由、天及び自然は、その清浄の意味、その象徴を通して、知り、証明し、その力を獲、成就したる故なり。あだやおろそかなかるべしと南無。羅刹よ。羅刹よ。いづら。いづら。基準は、天及び自然に受容されるか否か、この一点にある。諸惡、天及び自然に知られたる時が、時が満ちたる時、すなわち、惡が満つる時と知るべし。すでに、天及び神は未知に非ず。人は人の道を歩むべし。戦後の愚かな畜生道を去るべし。進化の道筋を引き返すべし。知性を持って、勇気ある議論を為すべし。その後、誠意ある対話を以て、平和的に、具体的執行を為すべし。これ、人類英知の総意なり。世間の横暴、戦後、その基準を失えしことの故なり。戦後、大和の自信喪失なるが故なり。大和は沈んではいない。その精神は生きている。そして、目覚めた。芽が出た。目覚め芽が出たからには、大和の意思が実現する。これまでの、勝手な自由はその尻尾を巻くべし。平等とは、大和の意思の下での平等と知るべし。自分勝手の平等なかるべし。自分計算の利益追求は本来の主体性に非ず。真の主体性、明らかに為さしむべし。自己との戦いを通して獲られるものなり。自己との戦いに勝利するを以て、天及び自然の意思に合致する。この時、主体性を獲たと云うべきか。大和の意思と云うべきか。旧約聖書の目的は、民草に、神の存在を知らしむること及び時満つる時神の威光が現れ相応の裁きのあること並びに庶民の解放を通して神の意志を実現すること即ち愛と平和を理念とした社会の建設により民草が本当の幸せを獲ることにある。これは真理なるが故に必ず実行され実現する。唯、時の満つる時を待っていた。今、その時が満ちた。あらゆる犠牲が成仏する時を迎えた。あらゆる存在が歓喜する時代に入った。今、この時を得てこれをなさなければ人類の存続はない。神及び自然の意思である。人間がかくも愚かであることは古来明白である。ここに道を切り替える。天及び自然の意思である。聞くものは聞くべし。聞かぬものは淘汰される。他土におかれる。よくよく議論すべきところである。人間がバベルの塔を建てても無意味である。どちらへ進むのか。人間の運命、選択の自由有り。知性の時代である。どう舵を切るのか。羅刹、よくぞ云った。貴様も、少し前の貴様とは違うようだ。本当に、最後の敵を倒したと見える。強くなったな。透明な心を得て、清浄の鐘の音が鳴り始めたか。天空に同調したか。ところで、故意理論に、概括的故意というのがあるね。さて、目的は庶民の安全で平和的共存である。その為に不必要であれば、諸悪の中のいくつかは、目をつぶらざるを得ない。何もかも暴けばよいというものではない。しかし、明らかなる惡は裁かれる。そのための議論である。そして、これまでのように、庶民との対話を安全弁とすることは出来ない。相応の敬意を払うべきことである。少なくとも、自己の利益のみ計り、そこに、見えざる神の手が働くと思うは奢りである。国民主権、主権在民の真の意味、まだ、庶民はわかってはいない。この意味に於ては、まだ、わからせる必要もない。しかし、やがて、わかる。ずっと先のことである。日が差してきた。今日も穏やかである。日々、時々の気づきがある。それで、十分である。空気は涼やかである。目は冴えている。古い引き出しから面白い本が見つかった。祖母が読んでいた本である。百華苑刊、稲城選恵著『人間のほんとうの生き方』である。