Ⅲ エピローグ(2006/1/21)

2006/01/21

何もかもが不思議であり、因縁を感じざるを得なくなった。それは、かくも、世間一般は腐敗しているという実感である。俗世間はそうであるとしか思えない。そして、純粋な人間ほど虐げられている。これでよいはずはない。身が腐敗していないなら、心が腐敗している。過去世からのこととはいえ、云っていることと行っていることの乖離は否めない。そして、理想は理想で現実とは違うとして、それを世間常識としている。それでは、どうして、理想など口にするのか。愛とか平和とか云うのか。云うだけでは嘘である。嘘であるから、実現しない。真実の言葉は本来実現するのである。心と反対のことを云うではないか。あるいは、疚しければ、逆に攻撃する。そして、力で伏せる。場合によっては、そのために、いわゆる権利行使する。どこまで、お馬鹿であろうか。そうしたことをするたびに、自らの魂レベルは墜ちる。純粋精神に対して罪する時、その魂は、平和から遠のく。さらに、救いはなくなる。そうしたものである。しかるを、自分勝手身勝手に真実に反するのが人間傾向である。これまではそれで通ったことも、通らなくなる時節がある。あはれである。裏切るものは何度でも裏切る。奪うものは何度でも奪う。利用するものは何度でも利用する。性向である。しかるをいつもそうではないと期待していた。この期待も、徹底的に砕かれた。こちらの因縁は切れた。切れたからにはこれまで通りではない。流れは変わる。そちらの因縁はそのままだ。これよりもつれるのはそちらである。小惡魔の正体が露呈した。気づかずとも、そちらの正体は、見抜かれた。それでも、惡を積む。救いはないに決まっている。そうまでして、身を守る。しかし、虫の戯言に過ぎない。ここまで云ってもわからない。因縁である。悲しいね。こちらは悲しくはない。こうしたことも、結局、わからないのだろう。問題は、俗世間の人間は、小惡魔によって、身勝手であるという事実である。見えない世界はある。その世界より、例えば、祖先が子孫を守ろうとしている。しかし、祖先が月であるとして、小惡魔が雲である。これが邪魔する。祖先は気づいている。清浄こそ宝であると。それを子孫に教え導こうとしている。しかし、子孫は見えない聞こえない。それで、欲得身勝手している。そして、墜ちていく。目先の利益しか見えない。自分の立場しか考えない。見えない世界など見える由もない。さらに、自分と同じでないものを阻害する。もとより、騙せば騙される。暴力は物理的強制力である。虐げ乃構図である。そして勝者と云うか。それで恥ずかしくはないか。心には恥じているであろう。身に覚えもあろう。ここである。なのに、自ら制御できない。悲しいね。こちらは悲しくはない。しかし、中には、我に非ず、何か大いなる力に導かれて、これに染まらずにいる人もゐる。祖先のお陰である。祖先が、すでに、克服していてくれたお陰である。しかし、それに、気づくには時間がかかる。世間が汚れすぎているからである。自分が腐敗して墜ちるのは仕方ない。しかし、純粋な周を腐敗に染める自由及び権利はない。これが、西洋民主主義の日本における弊害のひとつである。ところで、アメリカは階級制度であり、フランスは階層制度であるという。つまり、階級は上下変化する。階層は変化しない。日本は本来どちらに属していたのか。本来歴史ある国。個々の魂の遍歴が純粋に世界で一番古くから重ねられてきた國。壊したね。何時の頃からだろう。ペリーが来てからだね。罪は重い。世界で最も貴重な宝=純粋精神を壊したのだからね。しかし、そろそろ限界だ。今からそれを取り戻す。そうした方向転換の時である。しかし、かくも、祖先により、厳格に守られていたとは、驚きである。間違えば、手痛い戒めもある。されど、苦しめる相手に対しては、また、報復もある。もはや、信じざるを得ない。導きに従うのみである。・・・羅刹よ、それが云いたかったのか。敵と味方がある。前世からの因縁である。これを解決しない限り、明日はない。未来はない。次のステージはない。代々の教えであった。しかし、長い冬であった。だが、今からでも遅くはない。見えない世界からの守護がある、これがすべてであったのである。そして、常に、その指導に従うこと、ために、その指導が聞こえるようになること。そのためにはどうするか。見えない世界に認めて貰うこと。しかし、これは、また、生まれた時にすでに決まっている。運命である。これに素直であることで、約束は果たされる。こうしたことを無視すればどうなるか。それを邪魔するとどうなるか。人生でそれを知ることになる。生きながらに地獄である。餓鬼である。餓鬼というのは、いくら手柄などを横取りしても、決して自分の身に付かない。何をしても自分のもにならない。解決するまでは。人生の大きな宿題である。宿題をしなければどうなるか。推して知るべしと南無。宿題を済ますとどうなるか。春である。自由である。空を飛ぶ。あったかである。解くべき鍵は何か。正憶念である。それは、過去世の記憶である。種はすべて持って生まれたものである。それを阻害するは何事か。すべて自分のせいである?違う。環境の責任がある。人間の身勝手が環境を壊した。恨み骨髄である。自然は怒っている。人間の権力、武力、金力は歴史的に反省されている。反省とは、同じ轍を踏まないことである。同じ轍を踏むことが因縁である。解決するべし。そして、因縁はかけたものでなければ解けない。かけられた者は自ら解くことが出来ない。糸車の針である。解いて貰うには、謝るしかない。謝らない限り、知らしめんが為に因縁は度を増して何度でも起こる。見えない世界は、その存在を認められたいと思っている。犠牲となった存在として。何時までも無視できない。認められたいと思っている思いが果たされない限り不幸である。その不幸は亦無視する者の不幸である。亦、思い知るべし。聖書は報復を説く。真理である。真実である。実となって種を得る。種を得れば蒔くのみである。莫妄想。もはや、人間の身勝手は通らない。封印されていた八百万の神々の因縁は解かれた。親鸞は佛は自分のためにのみ教えを説くという。それは、あらゆる事象が古鏡であり、サインとなる。神通力である。代々のこと、およそ、おろそかなかるべし。未来へ向けての提言である。見えない世界からの守護がある。報復もある。畏るべし、且つ、安堵するべし。身こそ大事である。身さえ正しければ、何事も怖れることはない。心に思うことは実現する。やがて、身で犯した罪は身に帰る。心に犯した罪は心に帰る。過去よりの教えのすべてである。身とは殺、盗、婬。心とは不善を念ずる。ここより逃れて自由と云う。これ以上でも、これ以下でもない。これを自ら逃れることは決して出来ない。そして、純粋精神を阻害することはもう一つの罪である。これが環境破壊である。身に覚えがあろう。身に覚えがあるなら、幸いである。謝るべし。謝れば赦してもらえる。この真実を前に居直ることなかれ。居直れば他土におかれる。他土とは掬いのないところである。見えない世界の掟である。見えない世界に認められること。そして、見えない世界に約束された存在の邪魔立てしないこと。邪魔立てすれば、すなわち、自然を破壊すれば、これが本来の罪である。世の自称勝ち組及び成功者諸君の心すべきところである。人間として存在を赦された道徳規範がある。これらは、過去より、決定されていることである。見えない世界は、唯、この時の成就するのを待っていた。そして、今、その時が来た。疑うことなかれ。真実である。胸に手を当てて、正しく判断し、正しく選択をなすべし。宇宙自然には意思がある。その意思決定は、約束された存在を通して、実行される。実行されるとは、自然=神々が動く。真実である。そして、その動いた結果が、事実である。ここを知って、謙虚に、努力を要件として、花が咲く。その花が咲いて、それぞれの幸せとなる。およそ、過去よりの約束である。そして、今、その一つの過去よりの物語の二千年来の終わりを迎えた。フェルマーの最終定理も解かれた。あらゆる謎が明明白となった。これより、新たな物語が、新たな結末を秘めて、さらに流れ始める。虚妄ではない。本当に、本当に、真実である。謙虚、敬虔であれ。代々の祖先より、自分自身を知るべし。あるいは、自分自身の祖先を恨むべし。恨めども、自分の試練として、火をくぐり、さとるべし。さすれば、恨むべき祖先も喜ぶこと間違いなし。・・・羅刹よ、もういいか。純粋、清浄を以て、すべて見るべし。自然が古鏡。自分が磨かれ鏡となってはじめて古鏡を知る。汚れた鏡に用はない。それぞれに試練はある。くぐるべき試練である。試練を通して、自由を獲る。耐えられない試練はない。守られた故の試練である。途中、欲得に負けて脱落することなくんば、吉。純粋清浄の身心、護るべし。やがて、新世界が開ける。過去よりの約束である。安易な成功論に惑わされることなかれ。すべては、知らしめんが為である。試練大きければ、獲るべき自由、亦大なり。自分自身を誤魔化すことなかれ。欺罔暴力に屈することなかれ。未来はある。未来は明るきから明るきへ決定されている。信じた道を猪突猛進でいい。必ず、道は開ける。真実の心が開ける。間違いない。諸先達実践済みの道である。真実の成功への道である。(2006/01/21 4:28am RCC「走れ歌謡曲」を聞きながら)夢がある間は何時までも若い。年齢ではない。夢があるなら、真実の君が立ち上がるしかない。この世間の腐敗を清浄に戻すコスモクリーナーは若い君である。それぞれ本分尽くすべし。

神よりの赦しを返し新たなる十字架背負う身の悲しき

万軍の主は来たりて笛を吹く諸人こぞりてむかう未来へ

さて、キリストが思うことも罰せられるとした意味だが、思うことが天に通じる段階がある。霊界より常に見られてるというのは、本当のようだ。つまり、思うことが、時をおいて、現実世界に反射する。思いが天に届いている。ある意味で怖いことである。しかし、ここまで守護されていると云うことである。すると、間違えた時はどうなるか。手痛い戒めが待っている。いずれにしても、知らしめんが為である。何を知らそうとしているのか。霊界の存在、すなわち、見えない世界が、事実としてあることである。人為的な配慮だけでなく、現象として、起こる。その度に、因縁を感じざるを得ない。襟を正さざるを得ない。他者に対しては慈悲するしかない。自分については、謝るしかない。ところで、この謝ることは、勝手にしても通じない。行としての、謝る方法がある。

生まれた自分は、祖先の限りないDNAからの組み合わせとしての産物である。ある程度決定されて生まれてきて、それが性格であり、一つの傾向を持っている。それで、同じ親から生まれてきて、兄弟姉妹、皆違う。姿形も違うし、能力も違う。さて、決定論的に生まれてきたが、それぞれ、代々すべての遺伝子を持っている。その時々の思考と行為によって、自分が自分を変えていく。いわば、自分が遺伝子の組み合わせを実行している。その時々がチャンスであると言える。性格は持って生まれたものがあるが、時々の選択の自由が自分の性格を思う方へ微調整しながらの人生である。忙しければ、それを意識することもないし、自覚することもない。因って、生まれたままである。しかし、行をする、あるいは自覚しながら生きることで、性格を変えていくことが出来る。時が経つことで、性格も変わっていく。マイナスへ変わる人もいるかも知れない。それで、『二十年後』という小説もある。日々、反省の必要なところであり、勉学の必要なところである。これを以て、「経験」ということになる。天に徳を積むということになる。結局、自分次第である。しかし、持って生まれたDNAからの組み合わせであり、その進化である。出来るなら、最高の組み合わせの自分を作りたい。祖先の中から。それで、出来た自分について、祖先への感謝ともなる。しかし、自分を作るのはそれだけでは足りない。素質と環境ということが云われる。環境の中で、食べたものの存在が大きい。これに感謝する。さらに、環境の中で、諸先達のお陰がある。これが、実は、最も大きい。師である。師への感謝が大切となる。これらが、すべて、ルールであり、運命の中と云える。この下での人格形成である。さて、この環境、良いばかりではない。惡もある。自分の中にも惡がある。これらとの戦闘を要する。そのための勇気が要る。そして、これらのそれぞれの要素において程度の差がある。さて、自分をどの程度の自分として形成するか。或いは出来るか。勝負のしどころだ。どこで、自分を自分として諦めるか。その時点から、大人と言える。本来は。しかし、今、この戦いをしていない者が多い。昔は、当然だった。今、安易に生きてゆける時代となった。それで、子供も大きな事を言っている。厳しい時代には、彼らはすぐに淘汰された筈である。さらに、安易な人格がはびこって、基準のレベルが下がった。それで、本来能力を持った人格の形成が思うように進捗しなくなった。モデルがいないからである。しかし、不幸は、自分の潜在能力が開花しないことにある。そうした高い精神はむしろ、現代社会にとっては迷惑だ。自分たちの生存が脅かされるからである。それで、彼らは、無意識とはいえ、潜在能力を否定した。あるいは排斥した。芽を摘んだ。あらゆる悲劇はここより始まった。安易な精神がはびこった。努力しなくても、すでにある諸閥で社会を支配した。愚か人及び惡人の文化となった。利益至上主義がそれに拍車をかけた。取引(多少の嘘が是認される)行為としての経済行為が本来不得手の善良な人は負け組とされた。例えば大型商店が来れば小さなお店はすべて吹っ飛んだ。善良な人は弱き者として、いわば強制的に社会の最下層部に組み込まれた。そして、ささやかな預金利息も銀行に食われた。そして、社会は二進も三進もいかなくなった。それでも、社会はそれを自覚できなかった。何とか自分たちの価値観での脱却を計った。しかし、所詮ベクトルとしての方向を誤っていた。自ら出づることはできない。現代社会の腐敗のメカニズムである。亦、人格を得た者が、ゆるすつもりでいても、それを拒絶する者もいる。よほど業が深いのだと憐れむしかない。あらゆる自分の中の妄念が焼き尽くされると、その後は、淡々と生きてゆける。何があってもである。善悪を越えている。彼岸に至っている。世間一般は見えるところにしか基準がない。人格を得て知るのは見えない世界である。ここが隠し味となって潤いも出る。余裕も出て来る。格調となる。精神を得ている。ダブルスタンダードであるが、この威力がただものではない。現実に追われて緊張することもない。何があっても赦せるのである。すべての存在に対する感謝もある。憐れみもある。智慧もある。佛の如き慈悲もある。父母に対する敬愛もある。大師としての学問もある。自覚することでそれらがすべて生きてくる。ここに灯が点ると消えることはない。怖れるものなど無い。命も知って惜しむこともない。浜までは尼もみのきる術を知っている。さて、世間一般はこれを評価する目がない。彼らには見えないのである。不幸はここより来る。どう生きるか。自ら手を下さずとも、自然及び宇宙に認められた者は、自然及び宇宙が自分たちのために守護することを知っている。この守護の中には、いわゆる報復も含まれている。聖書の保障するところである。これを以て大安心となす。人間として定められた掟としての清浄への道、邪魔立無用である。この道を歩む時、未来は明るい。そして、明るきから明るきへ決定されている。方法を誤ったなら、誤った時点まで引き返し、あらためて正しい選択をして進むことである。これが、知性の道だ。誤っていることに気づくならである。気づけないでそのまま進めばどうなるか。惡が満ちるとどうなるか。引き換えすべき黄金の橋は常に架かっている。知性があり、正しい判断も出来る。引き返す勇気があるかどうか。しかしわかっていても出来ないのが人間である。惡が満ちてからでは遅い。しかし、惡が満ちるところまでいく。人間社会は人間が作る。だが、何もかも自由ではない。当然、宇宙自然のルールがある。しばらく見えなかったのは仕方ない。大切なのは、今とこれからだ。過去は反省するべきものである。これより明るい時代を建設することが出来るかどうか。本来清浄正直な者が餌食となることなく、安心して生きてゆける時代となるかどうか。人間の知性が試されている。そして今、自覚する知性が立ち上がるしかない時である。小さな安住に満足して傍観しているとその付けが回って来る。それぞれ本分を尽くすことを以て人生の使命とする。知性が地位に安住傍観することは本来怠惰である。知性は知性を以て本分を尽くさねばならない。感性あるべき者がその感性を更に磨かないのも怠惰である。消極的に腐敗を助長或いはあおっている。あらゆる能力を結集して乗り越えなければならない時だ。はびこった悪の根を断たねばならぬ。開拓するに、雑草より刈り、根を抜くことから始めるに等しい。悪の根は社会にもあるし自分の心の中にもある。今、そうした時である。明るい未来とまだ汚れていない子供たちの保全のためだ。新しい時代を迎えている。時は満ちている。未来は明るい。すでに、あるべき理念もある。方向は示されている。実行して実現していくのみである。人類の願いであった愛と平和を理念とした一つの世界が見えている。進むしかない。腐敗堕落していく者たちは仕方ない。仏の顔も三度までと相場は決まっている。世間の腐敗に染まることを逃れている自覚ある知性が勇気を以て立ち上がるしかない。未来は明るい。腐敗し堕落した者たちの運命は決まっている。それを助長する者も同じである。振り向く必要はない。ところで、水滸伝、泥棒を賛美したとして、その著者は地獄で苦しんでゐるとも聞いた。公の電波で、堕落傾向を助長する、自らの判断でそれも良いかと思う、見えない世界は、今、どう思っているか。腐敗化傾向微分係数=ベクトルの方向性の問題である。まだまだ自分解釈していないか。表現とフォローが微妙に必要とされている。今、表現は婉曲方法を採らざるを得ない。しかし、その根本傾向は常に見えない世界から見られている。さて、説くべきことは、ひとつしかない。本来清浄である。この度の旅はそろそろ終着駅まで来たようだ。先日、1月20日に、最後の因縁もわかった。それの解決も出来た。この最初で最後の敵の発見こそ、この戦いの究極の目的だった。最後までわからなかった。まさかと思ったことだったが、発見した瞬間、すべてわかった。こうして因縁は解決される。この最後の敵を発見し、倒さない限り、次のステージはない。ここへ至るための30年戦争であった。長いと云えば長かった。しかし、今生で解決して何よりであった。運命に勝ったのである。しかし、あらゆる問題がそうであるが、解けてみると、至極簡単である。しかし簡単であればあるほど、難しい。ピアノソナタも「月光」は難しい。さて、この度の戦いの戦利品は何であったか。旧約聖書、如来、法華経、妙法華経、如来の神力、須彌山、空王佛、情報制空権、一月二十日最終因縁解決(今まで巣くっていたが、見えなかった最初で最後の敵の発見)。十分である。やっと雲は晴れた。春を待てそうだ。間に合ったようだ。今日の太陽はおぼろだった。まるで、常寂光につつまれたようだった。散歩して、繁華街にはいると、アーケード全体に灯りが一斉に点った。時計を見ると、午後4時だった。しかし、私を迎えてくれたのかと思われた。これより、結晶段階に入ろうと思う。妄念は去った。さなぎとしての最後の段階だ。やがて、どんな蝶が現れるか自分としても楽しみである。かつてよりの思いは成就した。何か失われたものを探しての私の人生は達成された。良かったと思う。これで、晴れて、私は、春を迎える。この冬が終わる頃には。かつて自分が浮沈していた世間に戻った。目の前の情景は依然と変わらなかった。しかし、もはや、それに染まらない自分に気づくのだった。どんなに誘惑を感じても、そこへ赴こうとは思わない。蝸牛がそれぞれ角を出しているように、人の流れが見える。自分もかつてはそうだったのかと思った。しかし、今の自分は、感性が、以前の自分と違っていた。これで、世間に染まることはない、と思った。世間は世間で、そのままでよいと思った。