自由
自由というとき、何を以って自由というべきか。キャプテン・ドレイクによるアマルダ海戦の勝利が何をもたらしたか。イギリスにおいて、ピューリタン革命・名誉革命を通して、それは、フランスの市民革命に至った。ここで市民の解放があった。その間、アメリカにおいて、リンカーンによる奴隷の解放があった。そして、現代において庶民の解放がなされつつある。貴族の間で、たとえば、さまざまな絵画は寝室において自由であった。それらの特権が解放されていく。時代の流れである。人間が本来求めていたことが実現されていくのである。政治は人間の欲望の現実化と定義される。何が言いたいか。時代の流れがある。どこへ向けて流れているか。たとえば海へである。人間の欲望が解放されつつある。それで良いと思う。しかし、犯罪化傾向は厳しく取り締まるべきである。たとえば、ハンセン病も克服された。精神の病気においても、善玉と悪玉がある。人間の欲望の解放がすべて悪いのではない。それが、人間の求める幸せの形であるならば、実現しなければならない。しかし、何事も証明を必要とする。そうしなければ、定理として使えない。証明できる人は限られている。神を証明する人もいる。精神の病気の善玉・悪玉を証明する人もいる。あたかもジェンナーである。経験を通して証明する。一番槍である。それで、個々のタブーが破られる。その証明は千尋の谷の一本の丸木橋に等しい。勇気を要する。誰かが渡る。その後で、みんなが渡れるようになる。今、明らかに、世界は、ひとつの理念として、民主主義を選択している。その過程で進むべき道を模索している。自由であって良い。平等であって良い。何を以って平等であるか。特権の限りない庶民化である。いわゆるアダルトもその例外ではない。しかし、運用は慎重を要する。この件に関しては、大人に、厳格に限定されるべきである。個人の責任を自覚している者に限る。教育の問題が遅れている。日本の精神の清浄な価値は価値として遺す。しかし、世界の歴史の流れは受容する。難しい運転である。犯罪としては取り締まる。人間の自由の解放は流れに任す。強制しても無理である。しかし、そのスピードは制御して良い。運転能力のない者には制限するべきである。この意味、わかるであろうか。そのように思った。具体的には、権利としてのプライベートの確立である。プライベートにするべきものを決める。そして、大人と子供の峻別である。蓋をしても蒸気は漏れる。密閉しては爆発する。このあたりの常識化である。時代の流れを正確につかむ必要がある。時代は流れている。その流れを知るには源泉を知る必要はある。しかし、人類の歴史はすでに下流まできている。かつての特権の庶民化であると思えば、考え方はシンプルとなる。自由であって良い。但し、時代の流れにおいて、尚早であることもある。麻薬などはその例である。あくまでも、目的はくらしであり、人間の幸福である。社会生活において害悪は厳重に排除する。人格形成において大切な価値は価値とする。昼の社会と夜のプライベートの峻別をする。社会のリーダーに対して、敬意を表する。自由の運用は慎重にするべきこととして慎む。少なくとも、公の電波等では慎む。それに対して、タブーとしての道徳的規範を見直す。或いは払拭する。西洋の流れに学びつつ、時代の流れを正確に把握する。そして、現代の在るべき文化を推進する。それで良い。そのように思われる。文化的社会の涵養が大切であり、その意味で、過剰な経済至上主義は反省が必要でしょうね。人間の幸せは、お金ではないのは、昔より明らかなのだから。人間はパンのみにて・・・を待つまでもなく。精神の力を、ここで、思い出して、そして、新しい自由を実現することで、良い社会を復活できるように思われる。もはや現実を古い道徳で縛ることはできない。幸せは、心の交流の自由であり、関係である。ここを忘れていた。良い方向へ。この基盤を得て、健全な欲望実現のための裕福さの追及は良いことだと思われる。これから、人格としての善悪の色がはっきりしてくる。今まで、十把人辛げに悪としてきた中にも善玉があったことがわかってくる。文学において芸術性があれば善であることも、もっぱら傾向犯的であれば悪である。ハッカーとクラッカーの差に等しい。見極めるべきはここである。本来の自由を求めているのに、蓋をすればどうなるか。社会政策の課題であるように思われる。社会が健全な欲望実現のシステムを保障されることで、デフレと犯罪化傾向の問題の多くが解決できると思われる。しかし、理想的には、やはり、根本は心のあり方である。だが、心の地平に至ることは、まだ、当分、現代社会は、時間がかかる。因って、理想へ向かって、この現実で何をするべきか。時代の方向を正確に見極めることである。人間の願いは何か。しかしこれらの自由・欲望は何故縛られていたかを考えると、その取締りは、厳格でなければならないでしょうね。自由・欲望を手に入れるということは、その運用において、その当事者は、より責任を持たなければならない。他者に対して、あるいは、社会に対して害悪となる可能性を、必然的に内在しているから。今までは過渡期だったから、あいまいな部分が多く、被害もあった。ここで、基準を決めて、社会として、そして、その中で暮らしている人間として、自由・欲望においても、安全を得ることができると思われます。そして、本来の幸せを獲得できますね。(ところで、多くの道徳について、本来、女性はあまり重きを置いていない。むしろ、生命の存続を無意識に願い、あるいは知っている。その意味では、当然、嘘もつく。しかし、それ故に、生命が持続するということがある。道徳よりも、生命にとって必要なことを知っている。生きるということが、どれほど、ある意味で残酷であるかを本能的に知っている。だから、ゲイ現象も起こってくる。社会的に安住してきた男性にはわからない論理がある。)