2005年12月26日
達観
「悪舌は功徳の種を断ずる」と法華経にあって、その意味することは何だろう。それぞれにそれぞれの事情があって、それぞれにがんばってる。それに対して、何かしら、知らず識らずの過失もあったとする。それを、ことさらにあげつらうとどうなるか。結果、惡だったとしても、本人はあずかり知らない。今更、糾弾されてもねって、いなおるしかなくて。こうしたことが悪舌。直線的に言うのは、猫を引っ張るようなもので、暖かい春風のように、示すことが出来ると、自ずから気づいて、ハッピーな方へ歩み始めることが出来る。これが、功徳。要は、善悪を超えたところの住人が、ひょんなことから、善悪の中でもがいていて、それで、悪舌してるとしたら、結果、波風しか立たない。これは、プロとは言えないね。達観。そうすることで、善悪を超えたところに戻ることが出来る。何があっても甘受できるし、腹も立たなくなる。幸せな時間がいつも待ってくれていて、そこに、住することになる。法華経の神髄だね。常寂光、曼荼羅華、摩訶曼荼羅華、確かに降っている。清浄な空気に、いつも、包まれている。いいことばかりが、起こりそう。さて、ところで、因縁というもの、あるね、世間一般、得知らず、気づき得す、もがき苦しみ、地獄必定、自ら出づること能わず、それでも、自分は、自分は、と、思っている、あはれなること限りなし、解脱涅槃の道、かすかにあれど、その入り口さえ、見ず。